川越線いまむかし〜〜前編
その昔、川越線に蒸気機関車が走っていた頃の話。9600が朝の上り列車と夕の下り列車のみ、つまり通勤対応の輸送力列車を牽引していた。この運用に携わる機関士仲間では、よく知られた少年がいた。彼は夕刻の高麗川行列車に向かい、どこからか必ず手を振ってくるのである。それは就業規則違反であったが、彼の幼さと毎日手を振ってくる真摯さに免じて、機関士は必ず手を振って応えたという。
この少年は、幼き時の思い出を胸に、今もなお鉄道が好きなのだろうか。川越線に蒸気機関車がなくなり、電化されて10両編成の通勤電車が走るようになり、その姿をすっかり改めた今も、なお。
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川越線の開業は昭和15(1940)年のことであるから、比較的歴史が新しい路線といえる。なぜ川越線がつくられたかといえば、この時代の通例として、軍需に対応したのであろう。八高線とあわせて首都圏の外環状線として機能したほか、沿線に立地する飛行連隊や航空士官学校にアクセスするため川越線が建設された、とする説が有力である。
この説には相応の信憑性がある。武蔵高萩の駅舎を見るがよい。武蔵野のはずれの小駅に似合わぬ豪奢なつくりではないか。車寄せに貴賓室、これらは航空士官学校の卒業式に臨席される、雲上の至尊を迎えるためにしつらえられたという。
軍需をもとにつくられたせいか、戦後の川越線は、首都圏近郊の路線とは思えぬほどの閑散路線であった。人の流れは東北本線や東武東上線のような放射状路線を志向し、横断方向の川越線に集まる貨客は少なかった。短い気動車がとことこ走る、なんとも時代離れしたのんきな路線であった。
そんな川越線には、大宮工場の試運転線という一面もあった。工場の至近、かつダイヤもガラガラとあっては、試運転列車も設定しやすかったことだろう。有名なところでは、「はつかり」のために新製されたキハ81やガスタービン車などが、川越線を走った。
高度成長時代になると、田畑や雑木林しかなかった川越線沿線でも人口が増えはじめた。3扉ロングシートのキハ35が集まり、通勤路線としての色彩が濃くなってきた。キハ35は関西本線や房総各線から流れてきたもので、川越線のために新製されたわけではないが、それでも川越線の性格が変化したことを象徴する車両であった。
朝の上り列車は川越−大宮間で7両編成、日進−大宮間の区間列車では8両編成もあり、その姿だけを見ればまさに通勤路線であった。
そうはいっても、他の路線と比べ川越線は見劣りした。薄暗い粗末なホーム、外吊扉のため隙間風がはげしい車両、日中は短い列車編成、そもそも少ない列車の本数。通勤路線といいつつ、格落ちする要素が川越線にはあった。
ちなみに、非電化時代の川越駅は東武鉄道の管理下にあった。東武の方が歴史が古いとはいっても、これは珍しい現象であったろう。沿線最大の駅において国鉄が主導権を握れないというあたりに、川越線のかなしさがあった。