「ぶ・れ・て miki」という題名は、「天保水滸伝」で用心棒をやっているアル中の剣豪からではなくて、小山茉美さんのエッセイ集「ゆ・れ・て mami」から取りました。
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今月号のエポックは、海モモ4度目の登場なった表紙と、グラビアの「モモとモモ」特集。グラビア部については、各ネットの書き込みや、夏コミの新刊の評論誌で語られてきた事と大同小異で、特に目新しいものは無かった。
問題は表紙だ。勿論、空モモ+海モモの構図は、昨年夏以降に出たモモ本のモチーフとして使い古されているのは、周知の事ではあるけど、同人誌のそれが、二人の区別を髪飾りや服装でしか行えないのに対して、アウトの表紙は、明らかに別人としての作画がなされている。空モモはわたなベモモに似てるし、海モモはとみながモモにそっくりになっている。
流石は専門家だ、近永健一えらい!と一応は褒めておこう。いや、本当にそこまでのレベルでは感服している。脱帽だ。
ただ、ちょっと欲を言わせてもらえば、私の場合、誰のモモに似せるかを、もう少し考えて欲しかった。
描き手の個性を殺し難いモモの顔の作画において、あれほど他人の絵柄に似せられる近永健一ならば、ここは一つ、原点に帰って、設定書の絵柄で描いて欲しかった。
設定書の絵柄と言えば、空モモ=芦田豊雄、海モモ=わたなべひろしである。
読者は、表紙を見、先ず二人のモモの絵柄の違いに気付く。更にわたなベモモの方が海モモであることに驚く。そして空モモが芦田モモである事を知って納得する。
今の読者にそこまで求めるのは酷だろうか?いや、そんな事はない。それならば、グラビアの「モモとモモ」特集もまともに理解出来ない事になってしまう。
百歩譲って、空モモ=わたなベモモでいいとしよう。だとしても気に入らない点が一つある。空モモの表情が暗いという事だ。確かに海モモは空モモに較べればずっとアッパラパーである。わたなくひろしのイラストにも、暗い表情のモモが多い。
しかし、だからと一言って空モモが暗かった訳ではない。空モモを見ても分かるが、わたなべ作監の回をとっても、暗い表情のモモが多い訳でもない。
多分、わたなくひろしのイラストに暗い表情が多かった為、暗い方がわたなベモモの感じがよく出ると思ったのだろう。しかし、わたなべひろしも好んで暗くしたのではないのだ。彼は憂いを含んだモモを描きたかっただけなのだ。当時はそれが暗く見える様にしか描けなかったのだ。(^_^;)
現に技術が進んだ今は、マジカルBOX1のケースの絵が示す様に、憂いはあるけどそれほど暗くない表情も描ける様になっている。
従って私は、近永健一とアウト読者に、声を大にして一言いたい。
「空モモは暗くないー!」
最後に、文中、敬称を略させて戴いた事をお断りしておきます。
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海モモのロマンアルバムには、ちょっと気になる事が書いてあります。
> 海モモの家がホテルに決まった時、空モモのライター達は「なんて羨ましい設定なんだ!」と言った。
実は私はこの言葉に、「些かの疑念これあり。」です。(^_^;)
私が思っているのは、これが本当に「羨ましい設定」なんだろうか、という事です。
勿論、この設定に拠って、モモは労せずしてその回の「出会い」を得られる訳ですから、「お手軽な」設定である事は否めません。
しかし、ミンキーモモという作品の脚本を書くとした場合に至っても、空モモのライター達は「羨ましい設定」と思っていたのでしょうか?
それを検証するのは、ちょっと面倒ですが難しいものではありません。実際に海モモの脚本を書いた空モモのライター達が、その設定をどの程度生かして使っているかで判断できます。
次に、空モモのエンディングクレジットに「脚本」として名を連ね、更に海モモのエンディングクレジットにも「脚本」として名を残した方々の海モモ担当サブタイトルを私の調査の及ぶ限りに於いて集めてみました。
首藤さんは、立場上、全体の流れを左右する話が多く、ホテルに関係する、関係しないが否応なく決まる事が多いので割愛します。
後ろの記号は、ホテルの設定を、モモとゲストキャラとの出会いの場としてどれだけ使っているかの私観による採点です。
| 話 | 題名 | 脚本 | 採点 | 寸評 |
|---|---|---|---|---|
| 4 | ここ掘れ、恐竜! | 佐藤茂 | × | 旧友が訪ねて来るという設定だから、ホテルでなくても成立する話。 |
| 8 | モグラとうまくやるゴルフ | 佐藤茂 | × | ゴルフをやりに行くなら、ホテルでないほうが外出し易いでしょう。 |
| 9 | ビデオでレンタル、大平原 | 武上純希 | × | ビデオを借りに行く所から始まるから、ホテルでなくても成立する話。 |
| 14 | 昔々のモーニングコール | 金春智子 | ○ | 313年眠っていたお姫様に会うには、ホテルがぴったり。 |
| 15 | ニンジャ出現!忍びのモモ | 戸田博史 | × | レジェンドパーク散歩中に突然木の上から出て来た方が忍者らしい。 |
| 31 | モモのホテルは星幾つ!? | 武上純希 | × | これはホテルの設定でしか考えられないでしょう。しかしこれは設定がホテルだという事から考えられた話で、ホテルだから出会いが楽になった訳ではありません。 |
| 35 | いつもどこかで | 佐藤茂 | × | 日常的な話なので、ホテルでなくても成立する話。 |
| 46 | 間違いだらけの神様 | 土屋斗紀雄 | × | ニュース見て出掛けちゃうから、ホテルでなくても成立する話。 |
| 54 | 海賊トパーズの宝物 | 金春智子 | × | ホテルでなくても成立する話。 |
ミンキーモモの未放映版から、「SOS!マリンナーサ」の感想がやっと出来上がりました。
(0)壮子の夢
「胡蝶の夢」と言う荘子の一節を御存知でしょうか。夢の中で蝶になって飛んでいる夢を見た荘子は、目覚めてから、自分が蝶であるのが夢で、荘であるのが現実なのか、それとも荘であるのが夢で、蝶であるのが現実なのか分からなくなって仕舞います。
夢の儚さを前提に、現(うつつ)も亦かくの如し、という事でしょうか。
中国には、他にも夢と現実の関係を表した故事成語が結構あります。
「邯鄲夢」というのは、「盧生の夢」とか、「一炊の夢」とも言われる、この手の代表的な話です。
邯鄲の国の人が、粟を炊いている僅かの間に見た夢で、栄枯盛衰を体験してしまう、という話です。
「南柯の夢」(又は「槐安の夢」)も、そうやって見た一国の王になるという夢が、蟻塚の蟻の王になるということに過ぎなかったというもので、「邯鄲夢」とはテーマは同じ話だと言って良いでしょう。
つまり、中国での故事成語では、「…の夢」というのは「現実(人生)なんて、夢の様に儚いものなんだよ。」ということのアナグラム(アナロジー)としての言い換えに終始してるようです。それはそれで肝に命ずべき事ではあります。
しかし、我等がボトム大佐における夢と現実の関係はこれらの故事成語とはちょっと違う様です。
(1)現実が夢に溶け込む時
冒頭のTV中継での「それっそれっそれっ」でも分かる様に、ボトム大佐という人はかなり無制限に魚雷を撃てる現実に、十分満足している様です。以前はこういう状態になることを夢見ていたのかも知れないと思わされる程ですが、そうだとすると、今はそんな夢が叶った状態だと思われます。
そういうボトム大佐にとっては、現実の世界こそが、自らが夢で描いた世界そのものであると言えるでしょう。あの、自信に満ちた態度と自己中心的な考え方でさえ、本人が現在夢を見ている状態にあるという仮説への傍証に過ぎない、と言ってしまってもいいのではないのでしょうか。
そして、そんなボトム大佐が手に入れた、既に具現化してしまっている夢は、幾多の戦場で怪我をしたその痛みと共に、少しづつ確認しながら成就していったものなのでしょう。
ボトム大佐にとっては、撃たれても痛くない状況というものは、夢が成就しているという実感を伴っていないと言えるのではないでしょうか。
それに対してマリンナーサにおける夢というものは、「夢をみせてあげましょう」という王妃様の台詞にあるように、夢を現実のなかに現出させるのではなく、夢を見た状態にさせているだけです。
しかし、マリンナーサは元来夢の国、そういった夢を見ている状態こそマリンナーサにおいては「現実」です。
夢の国では「夢」こそが現実なのですから、マリンナーサにおいては、撃たれても怪我をしない事こそ現実である訳です。そういった「現実」を認めず、マリンナーサ外の(所謂現実世界の)「現実」をこそ理想なんだと駄々をこねるボトム大佐は、現実世界に居た時にはそれこそ「夢にも」思わなかった様な、「撃たれて怪我をする現実」状態を、夢の国での現実において初めて夢見ています。
夢など信ぜず、只現実のみを見つめる男である筈が、いやそう云う男であるが故に、自己の経験に裏打ちされた現実とは全く違っている、マリンナーサの「現実」には堪えきれずに、地上の「現実」を「夢見」ているのです。
でも、本当に現実的な人と言うのは、現状を現実としてきちんと認め、現実と違う事が起きたとしても、それを認めないというのではなく、その時その時の状況を正確に認識し、その状況に最も相応しく対処していく人の事を言うのではないでしょうか。
自分の経験上にないからと言って、状況そのものを否定して、経験の中の「現実」のみを「夢見」ると言うのでは、現実的ではなく夢想的な人だという、逆説的な見方も出来ます。
そういう柔軟な対応が出来ない人は、現実を見つめているのではなく、現実に囚われているのです。そうなれば夢に囚われている人ともはや本質的な意味において違いがありません。
従ってボトム大佐にマリンナーサの夢が通じなかったのは、現実的な人だからではなく、逆説的な意味で、既に夢見ている人だったからなのかも知れません。
最後が夢オチだった、というラストだったらもっと諧謔に満ちた話になっていたかも知れませんね。
(2)現実の中の夢・夢の中の現実
囚われる事無く夢を見るには、囚われる事無く現実を見つめる必要があります。
つまり、より良く夢を見るという事は、ひとえに、より良く現実を生きるという事に過ぎません。
ここまで見てきたものが示している、そしてそれはとりもなおさず脚本の北条千夏が示していることになる、「夢と現実」の関係は、シリーズ構成の首藤剛志が繰り返し示してきたそれとはかなり異なる様です。
首藤剛志が示してきたそれは、主に夢対現実の構図です。夢を認めない現実に対する挑戦、と言ってもいいようなエピソードもあるほどです。
それに対して、北条千夏は夢が内包する現実や現実が包含する夢といったものを通して、夢そのもの、現実そのものを問いなおそうとしている様に見えます。
これはひとり「SOS!マリンナーサ」に止まらず、同じく北条千夏が脚本を書いた「しあわせワッショイ」とか、「悪夢のお願い」にも見られる事です。
今回は「SOS!マリンナーサ」の感想ですので詳しくは書きませんが、同じ見方で見れば分かります。
恐ろしいのはラストシーンです。
ボトムの言うところの「現実の世界」に戻っても結局は同じ事で、潜水艦が沈む様な砲撃に出会っても、夢の国のモモ達と同様に怪我一つしていません。
これではボトムが回想シーンで言っていた「現実世界」とは全く違っているではないですか。ボトムが、夢の世界との苦闘の末にやっと帰り着いたと思っている現実世界は、やはり夢の国の掌の中にあったのです。
いえ、もしかしたら、ボトムの現実世界はボトムがマリンナーサに居る間に変質し、もはや夢の国と変わらない世界になってしまって居るのかも知れません。
しかも、現実に戻ったという喜びの余りか、その事に気付いてもいないのです。
怪我の思い出は本当に現実の出来事だったのでしょうか?もしかしたら、あれこそ夢の中の出来事かも知れません。回想シーンでよく使われる技法である、周りを暈す演出が、偶然か故意か、まるで夢のシーンを見せてくれている様です。
私は東京に住んでいた最後の3年に、ワンフェスとかJAF−CONとかのガレージキットの展示即売会によく行きました。
ウェザリング等の技法により、汚されたり影を強調さたりしてリアリティを与えられたガレージキットは、その縮尺でそこにあるのでなければ、実物と見紛うという程のものもありました。
この世にあるものも無いものも、キットの精巧な作りで精緻に再現されているところを沢山見ることが出来、まるで夢の国に居る様です。実物ではないけれど、リアリティを持っている。この事が、夢の国を思わせる要因の一つでしょう。
一時の夢の国を堪能した後は、現実世界に戻るべく晴海の会場を後にバス等で家路を辿ることになります。その時、車窓からどうしても目に付くのは、ウォーターフロントに展開する最新のピカピカの高層ビル群です。
リバーシティ21、聖路加ガーデン、NTTデータ通信ビル、日本ユニシス本社、IBM箱崎ビル、等々。そこに私は不自然さを感じてしまいます。あまりにも綺麗過ぎるのです。あまりにもピカピカ過ぎるのです。
汚れの無さと単調な直線の集合は、リアリティを喪失するのに十分な条件を備えています。
不可知論を展開する積もりはないのですが、現実を現実と認識する縁(えにし)は、どんどん無くなっていっています。
夢のみがリアリティを持ち、現実からは急速にリアリティが欠乏していく…
そのうち、夢と現実に境界が無くなるかも。いや、夢と現実はその役割を交代してしまうかも知れません。
「SOS!マリンナーサ」のラストが示している恐ろしさはここに有るのです。
(3)ちなつのへやは内的宇宙
現実に固執する余りに、夢化する現実。そして、リアリティを軸にした夢と現実の政権交代。この二つが、私が「SOS!マリンナーサ」を見て否応なく感ずる事でありまた、自ら「バラエティ担当」としか言っていない北条千夏の脚本に注目することでもあります。
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「MINKYMOMO in 夢にかける橋」が発売になってからもう20日以上経ちました。
しかし、我が家にはLDプレーヤーもVHSデッキもないもので、まだ一回しか見ていないのです(両フォーマットの「夢かけ」は買いましたが)。
しかも5/22日に皆とワイワイ見ただけですから、そのうち一人でゆっくり見ると印象が違うのかも知れないのですが、第一印象も大事にしたいので、現時点で感じてる事を書いてみます。
全体の印象は、イメージボードを見たり、スタッフインタビューを読んだり、CDでBGMを聞いたりしていつの間にか出来上がっていたイメージを越えるものでなければ下回るものでもありませんでした。無論、部分的にドキッとか、はっとさせられる箇所はありましたが。
見ないうちから期待も決めつけもしない積もりでしたが、何時の間にか、良い意味で裏切られる事に期待している自分がいたことに気付きました。
そういう意味では、私は「夢かけ」に少し失望しているのかも知れません。
実際、完成度の高さには、感心しています。確かに、それは期待を上回るものでこそありませんでいたが、想像上では幾らでも美化出来るものですから、それと遜色無い、というだけで驚異的なことです。
しかし、私は、モモに限らないのですが、作品としての完成度が高いものより、例え穴だらけであっても、「こんなもの、見たこと無い!」と言ってしまう様なものにより魅かれます。空モモを支持し、見続けた理由の一つにそれがありました。その辺が反映してるのだと思います。
でもまあ、全体的に悪い印象を持ったという訳でもないので、捻たおじさんの贅沢な無いものねだりなんでしょうね。
作画が全体に緻密な作りで好感が持てた中にあって、私自身の好みの問題に過ぎないのでしょうが、モモのデザインがそれなりに完成していないのが気になりました。
一番気になったのは、カチューシャのリボンの部分に柔らかさが無く、まるでプラ板の様であること。
次に、スカートのボリュームが髪の毛のそれに比べ、僅かに少なくて、ほんの少し、フォルムとしてのバランスを崩していること。
どっちもTVシリーズなら見過ごす様な取るに足らないことなのですが、今回の作画監督は、登場人物のデザインに、かなり力を入れたと聞いています。
それなのに肝心なモモのデザインが同程度には顧みられていないのでしょうか?
堀内さんにとってモモは「肝心」じゃないのかな?
私のモモへの思い入れが強すぎるだけか。(^_^;)
舞台の雰囲気はなんだか長崎、私にとっては、20年前の昭和48年初春に一度だけ訪れた時の長崎をベースにして、それにオネアミス(王立宇宙軍のオネアミスです)を振りかけたもの、といった様な感じを受けました。
長崎に住んでる人やよく行く人には、とんでもない話なのかも知れませんが、私にはそう思えたのです。
20年前の長崎がオーバーラップしながらも、焦点をずらせたステレオグラムの様に決してきっちり重なりあう事はないのです。
重なり合わないからこそ、トリップ感が心地よいレベルで収まってくれて、よかったと感じられるのではないかと思います。
「それは、ノスタルジーではないか?」と思われる方がおられるかも知れませんが、「そうではない」と断言できます。
多分、そういう人は、「20年前」という言葉が引っ掛かるのではと思いますが、その頃私はもう高校生で、しかも時は1973年、万博も既に過去の思い出となる頃になっていたのです。当時日本人の目は殆ど未来に向いてたので、ちょっと昔もいきなり遠い過去になってしまうのです。
大体、私の様な田舎育ちのおじさんに、偽(ぎ)ヨーロッパ風の風景を見せてノスタルジーを感じさせようというのは無理な事です。(^_^;)
私にノスタルジーを感じさせるには、「となりのトトロ」や「三丁目の夕日」の様なきっちり昭和30年代の田舎か下町でなくてはいけませんね。
更に、長崎にしても、20年前に訪れた時は、九州旅行の一貫として車で通りかかり二三の観光名所に立ち寄っただけなので、余りよく覚えていない、というのが正直な所です。実際に今20年前の長崎を見せられても、違った印象を受けると思います。
印象として書ける事はここ迄ですかね。
まだ一回しか見ていない私ですから、早々にこの作品に対する結論を出したり、評価を下したりという事は避けたいのです。
なにせ私にもまだまだ分からないことは沢山あって、以下の様な問題点がノコッタ、ノコッタしている訳です。
確か他の人の意見でも、橋の代わりがあの様な鉄道橋では不自然だ、というものがあったと記憶しています。
私もそれが分からないというのが最初の問題点。
古い橋が壊される事自体には、作劇上の効果を高めるものとして、極自然に認める事が出来た私も、代わりに出来るものが鉄道橋であるというのは、どうも違和感がして、首を傾げざるを得ません。
バスや自動車がひっきりなしに通る、モダニズム・デザインの道路橋であったなら、古い橋が壊される必然性も自然に納得がいった事でしょう。
ただ私は、スタッフがわざとやっている可能性をまだ捨てていません。
分かっていながら敢えて鉄道橋を選んだのは何故かを二度目以降で見る場合の宿題にしようと思っています。
次におばあさんの台詞、「待っていなくては春が来た事には気付かない。」です。
私にとって、モモは常に能動的なキャラクターでした。
曰く「津々興味」
曰く「行って見てみちゃおー」
曰く「ここで引き下がってはモモではなーい!」
曰く「出来るか出来ないか、やってみなくちゃ分かんないでしょ?」
何れも、考える前に歩き出し、それより前に走り出すモモのキャラクターを端的に表しています。
待ち人が来ないのなら、捜しに行く。春が来ないのなら、迎えに行っちゃう。
そうであってこそ私のモモです。
それが今度は、待て、と言ってます。これはどういう事でしょう。
何があろうと、「座して待つ。」様な真似だけはしない筈だったのに。
待つ為に毎日橋まで出掛ける事が能動的だと言う人もいるかも知れないのですが、何週、何ヵ月と続くと(そこまで続けるという事自体は大変な事ですが)、それはもう昨日と同じ事を続けるという、保守的、惰性的な行いとなって仕舞います。
この物語が始まる前から待っていた誰かの様に、今待ってる相手があの少年だということも、そのうちモモは忘れて仕舞うのでしょう。
魔法を無くしてモモは変わったのでしょうか?
いや、そんな事はありません。前半の少年との約束で、言い伝えの証拠が無いのなら自分達で作っちゃおう、という風な事を言ってます。(一度見ただけだから、詳しく覚えていないんだけど(^_^;))
こういった能動的な発想の転換は、確かにこれまで通りのモモのものです。
これを見れば、スタッフには、魔法を失ったり、マリンナーサに戻れなくなったりと大きな事件を経験して来ても、モモがそれによって基本的な性格が変わったりしたとは考えていない事が分かります。
大体、ここにきて急にモモの性格を変えたりしたとしたら、スタッフが、「橋」を「ミンキーモモ」でやるという事を放棄したに等しいのです。
そこではミンキーモモが出ているという事は、単に営業上の理由に依ることになり、作品上の要請ではなくなって仕舞います。
「偽ミンキーモモin夢にかける橋」とか「ミンキーモモモドキin夢にかける橋」というタイトルなら内容に偽り無しという事になるでしょうか。(^_^;)
しかし、そういう真似は決してやらないのがモモのスタッフです。
もし、モモのスタッフがそういう事をやるのをためらわない集団であったら、夢抱きでモモは毎週、占い宝石箱にお伺いを立てていたことでしょうし、「お助け隊」の脚本を書いた遠野秋彦氏は、モモのキャラクター性を守る為のスタッフからの注文の多さに「モモの世界は意外に狭い」と勘違いすることも無かったでしょう。
ですから、一見変わったかに見えるモモですが、それにはスタッフのなんらかの狙いがある筈で、それを探る事も私の2回目以降の視聴の目的の一つです。
まあ、モモだって女の子。ちょっぴりシャイでおセンチな面が無いとは言いません。
でもそれは一時的なもの。一年以上もそんな状態でいるようなタマじゃありませんからね。
とすると、私がモモの能動性の意味を取り違えているのかも知れません。
それとも「待つこと」=「受動的」という考えがいけないのかも知れません。
しかし、そうだとすると、「待つこと」には受動的なイメージがあるわけですから、特別にそれを翻す演出がなされなければ、積極的だと受け取ってもらう事には、無理があります。にもかかわらず、「夢かけ」では、モモが「積極的に待っている」という事を表す演出がなされているようには思えません。
舞台を橋の上に限った弊害なのでしょうか。モモが、子供なりの生活のしがらみ等を振り切って橋に来ている事すら感じられません。
それとも…?
私は、「待っていなくては春が来た事には気付かない。」という言葉の真の意味にはまだまだ遠い所に居る様です。
何故橋の魔法(?)をあんなに激しい透過光バシバシの表現にしたのか?というのが次の問題点。私のメンタリティから言えば、それまでの展開から見て、もっとふわっと包み込む様な表現がぴったり来る様な気がします。
私の場合には、あの激しい展開に、それまでに徐々に蓄積されてきた、静かな感動という様なものが、幾分削がれた様に感じました。
では、どうすればいいのでしょう?私の一案に過ぎませんが、例えば、こういう風に描いても、筋は通る筈です。
みんなが何かに引き寄せられる様に橋に集まってくる。偶然にしては出来すぎていると、ビデオを見ている人が思い始める頃、モモはお婆さんの姿が無い事に気付く。
私自身、これが最良の方法だとは思っていませんが、筋を通して尚、魔法的な表現を抑えることが出来るという所を見て戴けたら、と思います。
「魔法のプリンセス?Non,non!」のコンセプトをより強固にする為にも、こういう方向性の方がしっくり来る様に私には思えるのですが、スタッフはどうして、あの演出を選んだのでしょうか?
更に、ラストシーンで鉄道橋の街灯に絡まる凧を見た時、モモは何を納得したのか、または、決意したのか、これが分かりません。それまでの凧が出てきた場面に対比して考えていくなら、自然に分かるものなんでしょうか?
しかし、残念ながら凧の出てきた場面は、断片的にしか覚えていませんし、それらの前後のシーンも失念しています。新しい凧が出てきた以上、「姿三四郎」の下駄の役目以上のものがあるのは確実なんですが。
現状の私から見れば、ラストに至るまでの「再会」の話は、過去を修復し、再生し、完結させるといった、過去に向いた話の様に見えます。
ところが此処で急にモモは前向きになります。凧に向けられた視線は、冒頭の、橋の上から下向きから、ラストでは上向きになります。
また、「夢にかける橋」というタイトルは、「The bridge for your tomorrow」と英訳されています。夢とは明日の事で、未来とは希望に他ならないと言ってる様です。
夢を明日を語る前に先ず待てと言うのでしょうか?
待つことで過去と再会出来て初めて未来(夢)に向かえるとでも言うのでしょうか?
夢に到達するには先ずその夢に橋を架け、更にその橋で待てという事でしょうか?
どれも二度目以降の視聴で答えが見えるといいんですが…
一度目では見えなかった分からないことが増えちゃうだけかも知れませんね。(^_^;)
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