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日本は朝鮮・中国になにをしたのか?
日中戦争
1937年7月の蘆溝橋事件に始まり,1945年8月の日本の降伏に至る日本と中国との戦
争。広義には1931年9月以降の満州事変を含め,狭義には1941年12月の日本の対米
英戦争(太平洋戦争)以後を省くことがある。
中国ではこれを中日戦争と呼んでいる。ただし日本政府は中国に対し宣戦しなかったか
ら,蘆溝橋事変直後を北支事変,戦争が華中に波及して以後を支那事変,あるいは日
華事変と称した。
【原因】満州事変後,日本は一時恐慌の影響から抜け出したかに見えたが,やがて満州
ブームの下火・満州経営の負担増大・各国の関税障壁の強化による貿易不振・国際的
孤立化・国内の資金難と原料難・軍部右翼の政治的進出などによって深刻な行き詰まり
に直面した。こうした内外の矛盾を打開する方策として,より一層の積極的な大陸進出
が強く要請されるに至った。
ここに軍部を先頭とした華北分離工作,すなわち華北の第二の満州国化が強行された。
これに対して,国民政府は戦争回避の方針をとったが,中国共産党は『抗日救国宣言』
を出して,内戦停止・一致抗日の世論を大いに盛り上げた。
【経過】第1期 1937年7月7日,北京南西郊の蘆溝橋付近で,日本の駐屯軍の一部隊と
中国軍との間に衝突がおこった。現地では一時停戦協定が成立したが,しかし日本政府
は従来の懸案を一挙に解決しようとして強硬に華北派兵の決意を表明したため,事件は
拡大の方向に向かった。
日本の強硬態度は中国国民の奮起を促し,抗日の気運をいやがうえにも高めついに蒋
介石も抗戦の意志を表示し,ここに第二次国共合作が成立した。
7月28日日本軍は総攻撃を開始し,北平・天津一帯を占領,さらに華北の重要都市を
次々に攻略した。
一方8月13日には上海でも両軍の衝突がおこり,戦線は華中に波及して全面戦争とな
り,12月13日には南京を占領した。
1938年に入り,華北と華中を結ぶ徐州作戦が始まり,さらに同年後半には武漢作戦・広
州作戦が展開し,10月武漢・広州が落ちた。国民政府は拠点を武漢から重慶へ移した。
しかし中国国民の抗戦力は根強く,国共合作により抗日民族統一戦線が強固に結成さ
れ,紅軍は八路軍・新四軍に改編されて各地にゲリラ戦を展開し,戦争は長期戦の様相
を呈しはじめた。
第2期 武漢作戦の終わった1938年末から太平洋戦争が始まる1941年末までの3年間
は小規模な戦闘はあったが大きな戦線の出入りはなく,戦争は長期持久戦の段階に入
った。日本軍の占領下では解放区が次々に成立していき,日本軍は駐屯地とその交通
路,つまり点と線を維持するだけで日常不断のゲリラ戦に悩まされ続けた。
一方中国側も海岸線のほとんどを日本軍に封鎖されて経済危機が激化するとともに,国
共合作に亀裂が生じはじめた。
1939年以後,国民党内部では右派の力が強まって政策の重点を対日抗戦から国内弾
圧へと移し,皖南事件・新四軍事件をひきおこした。こうした中国内部の分裂に乗じ,日
本は1940年3月南京に汪兆銘を首班とする傀儡政権を成立させ,時局の収拾を図った
が成功しなかった。
戦争の長期化は日本国内にも大きな影響を及ぼし,国民は極度の耐乏生活を強いられ
ることになった。こうした事態はさらに一層の戦争の拡大,つまり南方進出と対英米戦争
を不可避なものにした。
第3期 1941年12月8日,泥沼に落ち込んだ対中国戦争の解決の道を求めて,日本は
米・英に宣戦,日中戦争は第二次世界大戦の一環に繰り込まれ新しい段階に入った。
日本は南方作戦を強行する一方,これに呼応する形で大陸打通作戦を開始したが,しか
し日本軍の攻勢もここまでで,制空権を失い後方補給が続かず,奥地の占領地域を確保
できずに後退を余儀なくされその途中降伏を迎えた。
【結果】8年間にわたる日本の侵略戦争は,人的物的両面において中国側に膨大な損害
を与えた。しかし中国国民が団結と統一の力で最後まで戦い抜いたことは,かれらのな
かに政治的自覚と民族的統一を強く植えつけることになり,やがて腐敗した国民政府に
見切りをつけ新中国建設への道を切り開く基礎となった。
〔参考文献〕歴史学研究会編『太平洋戦争史』1〜5,1953〜1954
E=スノー,森谷巌訳『アジアの戦争』1956
臼井勝美『日中戦争』中公新書
石島紀之『中国抗日戦争史』1984


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