読書感想文

T.長崎の鐘

今年4月、NHK平和アーカイブスで再放送された「原爆投下10秒の衝撃」。
原爆の投下による死者は14万人±1万人といわれ、この犠牲者のほかに大量の放射線、また低線量
放射線を浴び続けることにより、生涯の苦しみを背負わされた被爆者は想像を絶する数にのぼると思われる。
原爆炸裂の瞬間が日米の科学者によって100万分の一秒の、ミクロの時間軸で分析され、刻々と変化する
破壊力の正体が明らかにされていきます。
あの10秒間に何が起こったのか。CGによる原爆炸裂の科学的、実証的な映像記録は真に迫ります。

この番組で私は初めて耳にする言葉がありました。
「ガンマ線」 放射線よりも早く地上に到達し、日本家屋の木造建築も難なく通過し、爆心地付近にいた人は、
この「致死量を超えたガンマ線により即死した。」と、解説していました。
愕然としながらも放射線を大量に浴びる、熱線に焼かれる、爆風に吹き飛ばされることなく、
「苦しまずに死ぬことができて、よかった。」と、私は思ったのでした。


「長崎の鐘」 昭和24年に出版され10万部を超すベストセラーとなったこの本が
どのような内容であるかも知らず、私はその本をつい先日手に入れた。「言論の自由のない弾圧の中で、
日本軍によるマニラでの残虐行為と抱き合わせるというGHQとの取引のもとに発行が許された本」という
知識しか持っておらず、被爆者の体験談なのだろう、くらいにしか考えていなかった。

確かにこの本は体験談です。読み進むにつれ、長崎に原爆が投下された直後からの内容に、
私はいきなり頭を殴られたような衝撃を受けます。
放射線、さらにはガンマ線。長崎医科大学の医師であった永井隆博士は、原爆投下直後、
自ら大学の建物の瓦礫の下敷きになり、被爆します。その後まもなく同大学の教授と話しているのです。
『これだけの威力なのだから原子だろう、ウラニウムか。』

実に詳しく書かれています。戦後何十年も経ってから解明されたとばかり思っていたそのことを
原爆投下のその時点で、原爆の仕組み、更には人体への影響までわかっていたんですね。
本当に自分の無知には思い知らされます。


原爆投下後の長崎で、被爆者の救援にあたる永井博士ほか、生き残った同大学の教授、
看護婦の決死の救護活動は涙なくしては読むことはできませんでした。

『原爆投下の数日後、被爆者の救護活動がとりあえず終って永井博士は浦上天主堂に近い
自宅に戻った。そこにあったはずの我が家はどこにもなく、もしやと思いながらあたりを見回すと
台所があったあたりに何やら黒っぽいかたまりが目についた。それは焼け残った骨盤と腰椎だった。
そばには妻がいつも持っていたロザリオが落ちていた。このとき彼はピカ(原爆)が落ちた日に
真っ先に自宅に帰らなかったことを後悔せずにはいられなかった。』

本を置いては鼻をかみ、手で顔を覆って声を出して泣きながら、原爆の無差別殺人に対し、そして
躍起になって被害を隠蔽しようとした連合軍総司令部に対し、腹の底から煮えるほどの怒りが湧き上がった。


このような被爆者の体験談を読むたびに、その文章の最後が私には一番気になるのです。
どのように締めくくっているか、です。怒りの矛先がどこに向いているか、です。

私が今までに読んだ被爆者の体験談は、熱い、痛い、苦しい、悲しい、辛い、原爆をなくして欲しい、
被爆者は私を最後にして欲しい、という思いで締めくくられているものがほとんどです。
日本が戦争を仕掛けたといっても、宣戦布告よりも真珠湾攻撃が先になったといっても、
原子爆弾という大量殺戮を目的とした兵器を作り、そして落としたのはアメリカです。
怒りの矛先はアメリカに向くべきなのです。

この長崎の鐘の著者である永井博士はキリスト教の信者です。
私はキリスト教の教えというものを知らないから何ともいえないけれど、世界中に信者がいるくらいだから
教えは確かに素晴らしいのだろう。しかし、長崎に原爆が落とされたことを『罪人であるがために神が裁かれた』と
してしまうのはいかがなものだろうか。被爆者は罪人か!?

このような書き方をすればアメリカは大喜びだろうが、長崎のキリスト教徒以外の被爆者は大迷惑というものだ。
おおかた私は「こういう考え方もあるんだ。」と個人の考えを尊重するのだが、正直なところ、この結末には
相当がっかりした。そしてどうしようもない憤りを感じた。

そして更に、この永井博士は『原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理である。神の恵みである。
浦上は神に感謝をささげねばならぬ』と述べていることや、1945年11月25日の『原子爆弾死者合同葬』のとき
浦上カトリック信徒代表のパウロ・永井隆として読み上げた弔辞の中の『戦乱の闇まさに終わり、平和の
光りさし出づる八月九日、この天主堂の大前に焔を上げたる、ああ、大いなる燔(はん)祭よ!
悲しみの極みのうちにも、私らはそれを、あな美し、あな潔し、あな尊しと仰ぎ見た』
『浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します』という記述にいたっては、甚だ納得がいかない。

私がキリスト教の信者となって教えを学べば、理解できることなのか?自然とこういう考えを持つことができるのか?
 もういい加減にしてくれ!!

何が裁きだ。冗談じゃない。キリスト教の神様は人間を救ってくれないのか!
死ぬまで癒されない苦しみを与えるのか。それに耐えれば天国に行かれるのか。ならばこの世は地獄かい。
だったら何のために生まれてくるんだい。
人間を幸福の姿にしてくれることこそが神の業じゃないのか!


この本はよほど寛大な心をお持ちの方にしかお薦めできません。

この本を読まれた方、どのような感想を持たれたか、お聞かせください。
できれば、私とは逆の感想「この本の内容は素晴らしい」とお考えの方、なぜそう思われるのかを教えてください。