| |
愛は人間界を超えて ー金子みすゞが現代に問うもの
「こころ」の詩碑
私は雪、私は小鳥、私は時計の中に 金子みすゞには不思議な気配をみせる詩が多い。何か様子がおかしいのだ。例えば、よく知られてい る「私と小鳥と鈴と」の最終連をみてみよう。 鈴と、小鳥と、それから私、 みんなちがつて、みんないい。 「鈴」「小鳥」「私」、つまりここで比較されているのはモノ、動物、人間である。一般論として違いを比較す るのに人間とモノや動物を列記するだろうか。さまざまな人間のタイプを挙げるのが通例だろう。モノと動 物と人間を同列に、あるいは対等にとらえている不思議なフレーズである。それだけではない。みすゞは この三者に世界を代表させているのだと思う。鈴というモノに風も水も海も背負わせながら。 さらに奇妙なのが「積つた雪」という作品である。 積つた雪 上の雪 さむかろな。 つめたい月がさしてゐて。 下の雪 重かろな。 何百人ものせてゐて。 中の雪 さみしかろな。 空も地面もみえないで。 動植物へ愛を注ぎ心情を通わせる詩はよく見受けるし、みすゞにも雀や花たちと愛や心を通わせる作 品も多い。しかし、この作品の対象は小鳥でも可愛い花でもない。物質である「雪」である。「さむかろな」 「重かろな」「さみしかろな」と雪へ寄せる暖かい心情は特異だ。第二連の「何百人ものせてゐて」はさ らに不思議なフレーズである。樹木に積もった雪なら人を連想することもできようが、 単なる大きな雪の 重なりを何百人の人間と感じる。 雪と人間を同次元で捉えるという図式がみえる。この「積つた雪」は みす ゞワールドの本質を露わにしているように思う。 みすゞの作品を読んでいくと人間と動植物とモノとの間 に差別や境界のないことがわかる。 そこに作為や衒いは見えない。このことを見逃してはならない。みすゞの心と雪の心とはひりひりと通 いあうのである。もはやみすゞは雪であり雪はみすゞである。 「いたづら一つしないのに/こうして私に食べられる。 //ほんとに魚はかはいさう。」(お魚)、「浜 は祭りの/やうだけど/海のなかでは/何万の/鰮のとむらひ/ するだらう」(大漁)、「さびしくなつた/夕顔は、/だんだん下を/むきました」(夕顔)のように、雪は魚 や夕顔と同じ次元で心を通い合う存在だ。さらに見てみよう。 私 どこにだつて私はゐるの、 私のほかに、私がゐるの。 通りぢや店の硝子のなかに、 うちへ帰れば時計のなかに、 お台所ぢやお盆にゐるし、 雨のふる日は、路にまでゐるの。 けれどもなぜか、いつ見ても お空にや決してゐないのよ。 これも奇妙な作品だ。「硝子のなかに」「時計のなかに」「お盆に」「路に」まで私がいるという。私は人 間存在という時空・限界性に閉じこめられた存在ではなく、風のようにどこにもゆけるのだ。動植物やモノ たちの世界にも入り込み心を通じ合うこともできる。ただ「お空」(天国)にはゆけないの、と唄い、「お空」 にだってゆけるはずだという自信らしきものさえ感じられる。 みすゞはこの作品で自分の特異性を密か に告白(自慢)しているのではないか。 試みに『金子みすゞ全集』(JURA出版局)Ι集を調べてみると、魚、雀、毛虫、潮、夕顔、風、時計な ど、動植物やモノに人格を持たせ、私と心の通い合うものが約七十もあった。特異な世界だといわざる を得ない。 例えば「子供のゐない/子供部屋、/ぽつつり電燈は/さびしかろ」(畫の電燈)。「礒の小松の/松 かさは、/海のあなたの/こひしさに、/落ちて小舟に/のりました」(「松かさ)など、地上のあらゆる ものへと心は通い合うのだ。人間界を遙かに超えて、みすゞの愛は風のように飛翔するのだ。この不思 議なみすゞワールドは理念や作為によって構築されるものではない。本能的なるもの、資質のようなも のがそこにはある。 みすゞの作品は一度触れると読み手の心身に染み込んでいき、もう忘れられない。ことばが人を捉え るのだ。特殊な技法や言語や表現などないのに、なぜこんなに心の中に風をおこすのだろう。それはこ の特異性と何らかの関連があるにちがいない。地上のものたちすべてと通いあい愛し合う。 そこから みすゞの詩は生まれる。 時空に拘束された人間存在を遙かに超えて、みすゞの愛は宇宙と呼応し飛翔しつづける。だからこそ、 私たちを心身をまるごと抱擁しつくすのだろう。 私たちを巣くう現代の病んだ精神世界、人間中心の意識構造。動植物、モノたちを見下し支配する。 欲望の渦巻くこの世界のまっただ中で、無垢で豊かなみすゞの精 神性は私たちの心身を洗いながす思いがするのだろう。 最初にふれた「鈴と 小鳥と それから私」の三者は世界の代表たちであり、世界の全ての差異を認 めあいながら融和すること、そんな願いをわたしは見る。さらに私という人間を最後におくことで、生きる ために利潤を追い求め動植物を食いつづけ、環境を破壊するわたしたちの原罪を無意識に問うているの ではないか。この「無意識・自然体」こそ、みすゞの特質であり、みすゞワールドの底辺をささえている。 自然体で発する言葉やちょっとした行動にそれは表れるのだと。 鬼の食事―みすゞを流れる「海の血」 みすゞの生まれた山陰の海、仙崎湾は譬えようもなく美しい。北へと伸びる尖塔のような仙崎のま ちに、シャッポのように東西にまたがった青海島のために仙崎湾の波は穏やかだ。その海をみすゞは「 こみどり」(濃い緑)と唄った。それは緑と青の入り交じった透明感の高い神秘的な海だ。 この比類のな い美しさをどう表現すればいいのだろう。 私はその青海島で育ち、みすゞの見た同じ海を見、同じ風に 吹かれて育った。 海とともに生き、暮らす「海の血」を持つ私たちは、人は海から生まれ、やがては海 へ還っていくという思いが深い。 仙崎湾ではそのむかし鯨がよく捕れた。近代以降はあまり捕獲されなくなったが、私の子どもの頃 に一、二度鯨が捕れたのを覚えている。鯨が捕れると噂はすぐ村中に広がる。 その巨体は運べない ので波打ち際で解体される。その南野と呼ぶ海岸(みすゞの父親庄之助の実家である網元石津家はそ の途中にあった)へ子供たちは駆けだしていく。そして小高い場所からその解体作業を見守るのだが、 そのときの光景を今も鮮烈に覚えている。 私たちは息を呑んた。誰も口を利かない。見下ろす海には信じられないような光景が広がっていた。真 っ赤に染まった海があった。巨大な生き物が流す血で海は真紅に変貌していたのだ。白い腹を見せて 横たわる巨体の砂浜には黒い血の塊があった。赤く染まった石の群れもあった。ニンゲンが巨大な食べ 物を料理していると私は思った。漁師たちは皮と肉を、肉と骨を手際よく分けていく。それは鬼の食事の 準備のように見えた。私は友人たちを残し、潮風の中を足音をさせないように帰っていく。そして、おぼろ げながらも人間というものの怖ろしい奥行きが少しずつ見えてくるようだった。 鯨の肉は村のすべての家に一塊りずつ無料で配られる。その夜、美味しいはずの肉が喉を通らなか ったのを覚えている。みすゞも捕鯨のことはかいているが、こんな光景を見たかどうか分からない。ただ、 あの「大漁」の世界と通底するものがあることは確かだろう。 私の家から数分の場所にあの鯨墓が 建つ。捕獲した鯨の母胎から出た胎児のすべてに戒名をつけて供養したもので、全国でも珍しいそうだ。 そんな信仰の厚い郷土である。 この美しい海はこうして私たちの感性や認識を鍛えてくれる。みすゞの特質や世界はこの海まみれ の「海の血」と深く繋がっていることは疑いない。 みすゞは二十歳頃から本格的に童謡をかきはじめ、そのほとんどを二十四、五歳頃までに書いた。 だから人の世の奥行きも機微もまだあまり知らない小娘の詩に過ぎないと批判するひともいる。しかし、 以上見てきたように作品の背景にはみすゞの奥深い広大な世界が裾野のように広がっている。時空に がんじがらめに拘束されたこの実存から抜け出た領域を生き、自然界と一体となったその感性や認識 が不思議で広大なみすゞワールドを繰り広げる。そこを見逃してはみすゞの本質は語れない。 知的権力の横暴への警鐘 これまで私はしばしば死後のみすゞが引き起こす奇妙な自然現象に触れてきた。 昭和五年三月、自殺したみすゞの遺体と会うため、最愛の弟正祐が東京から下関に駆けつけた日の、 船が七隻も沈没するほどの暴風雨のこと。昭和五十七年八月、発掘者矢崎節夫氏が本格的取材の ため、初めて長門市仙崎を訪れた際の突然の激しい雷雨のこと。雷雨は金子家の墓の苔を削り取り、 みすゞの本名の文字を浮き上がらせた不思議な自然現象のこと。これらの奇妙な自然現象や、人間界 を超えて風のように行き来する特質を無視してみすゞは語れない。 今年の二月、日本詩人クラブの例会「金子みすゞの不思議な世界」で、私は聞き手の領域を多少逸脱 してこの奇妙な自然現象について話した。予想通り「そんなことは偶然の現象に過ぎない」との批判が 出た。 この奇妙な自然現象について矢崎節夫氏はその著書の中で詳細に記述し訴えているが、多くの研究 家はそれを軽視、 あるいは避けているかのようにみえる。これらの現象を偶然としてとらえているのだ ろう。しかし、それらの現象を綿密に注意深く考察すれば誰もがそこに必然性のようなものを見いだすは ずである。このことを強調すると、みすゞの神格化を嫌悪する愛好家から非難されるだろう。しかし、それ は神格化ではなく、みすゞワールドの奥行きの深さや魅力なのだ。 私たちの生命をとりまく現象は神秘に充ちている。 「意識」についての研究も盛んだ。例えば脳のクオ リア研究の第一人者茂木健一郎に私も注目しているが、これはニューロンの発火と精神現象を結びつ けようとする試みである。こうした研究を否定するつもりはないが、生命現象や宇宙の真理究明をすべ て科学の領域に背負わせる傾向に私は疑念を抱く。すべてを物質現象に置き換えねば認知しないとい う科学万能主義が横行している。たぶん、ある程度はそれで解明されるだろう。しかし、そこに何か重要 なものが欠落してはいないか。最近、民族学の中沢新一氏が朝日新聞にエッセーを載せていた。 「分子生物学の中に、私はとてもいやなものを嗅ぎ取ってしまった。それが生命のように繊細な現象 を、 知性の力に屈服させ、支配してしまおうとしているように感じられたのである。(中略)あらゆる生命 現象 は、複雑といってもたかのしれた複雑さしかもたない、物質現象に還元して理解しつくすことがで きると、 分子生物学者たちは豪語していた」 『朝日新聞』「いつもそばに本が」より 物質界の領域でのみ真理を追究する。それはいかに貧困な世界なのだろう。私たちの精神の深さをじ っと覗いてみよう。蟻をおなじ高さで見てみよう。薔薇を心を無にして見てみよう。空を覗いてみよう。水 平線をじつと見てみよう。きっと何かが見えてくる。不思議で広大な無意識界を旅する詩人や芸術たち に呼びかけたい。 みすゞの不思議で魅力的な世界。その広大な愛や感性の裾野で、その美しい風景や物語に触れな がら、あちこちを散策し自らの狭く汚れた精神世界を省みる。それがみすゞを愛する私たちの務めであり 喜びである。その裾野はまた私たちの無意識の原野でもある。病んだ文明に侵されつつある精神を洗 い復元してくれる私たちのふるさとでもある。そんな無意識の裾野のどこかで、みすゞの手と私たちの手 とが触れあうのだ。 復活したみすゞは私たちが自然と離反し万物や生命現象をすべて物質現象に還元してみなければ納 得しない、そんな知的な権力の横暴に警鐘を鳴らしつづけているにちがいない。 詩誌『ゆすりか』61号掲載 |