みすゞのふるさとノート
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 上利
(あがり)という苗字について

 金子みすゞの祖母は上利リンといいます。上利(あがり)という苗字は珍しく、その読み方も
 知らない人が多いようですが、地元の山口県長門市周辺では古くからある苗字です。
  天文時代、大内義隆の家臣として上利和泉の名が出てきます。さらに上利家に伝わる
 古文書として「上利家文書付納箱」があり、市の重要文化財として、次のようにその由来が
 記されています。

  仙崎大日比の上利家は大内氏の家臣として勢力をふるい、のち毛利氏に仕えた。大日比
 地区の浦庄屋などの要職を務め、古文書が残ってる。文書は南北朝初期の1339(歴応2)年
 の文書を最古とする中世文書26点、近世文書100点、近代史料7点を含む133点で、とくに中
 世文書は当地方の寺社文書除いて稀有のもの。
 
  さらに地元で刊行された『大津郡志』には大内義隆が家臣の陶全姜の反逆にあい、青海
 島へ渡ったときの記述に次のように上利和泉の名が出てきます。
 

 
天文二十年秋八月の末、大内義隆がその臣陶全姜の反逆にあつて、山口の本
 城をのがれ豊後へ渡らうとして、通浦の後根壱岐といふ者を目指して、主従
 わずかに数人、仙崎より小舟に乗って来たことがあつた。その時、後根は他
 行して留守だつたから、仕方なくこの商人村へ舟を寄せ、ばらく当寺へ寄偶
 せられた。
 そこで大日比浦の壇越し上利和泉、同真武などが来り合せ、とりあえず粗飯な
 どすすめ、その間に後根と相談して、豊後渡海の船をつくろひ、義隆を見送る
 ことにした。その時、義隆はそれまで護持してゐた護身仏千手観音(運慶作と
 いふ)と小像を当寺へ寄付した。
           (昭和二十四年八月三十一日発行「大津郡志」より)


  その後、上利家は庄屋をつとめ大日比に旧家として現存していますが、「金
 子みすゞ」に関する最近の書では、地元の豪族として次のように上利を紹介し
 ています。
 

 地元の豪族である上利家が浄土真宗を篤信したこともあり、大日比の人々は浄
 土真宗に帰依し、その仏法の説くところに従って、殺生を罪とし、その罪を消
 滅させ、祟りから免れるために、娘を出家させたのである。
              今野勉著「金子みすゞ ふたたび」より

  因みに上利家の家紋は三つ巴で八幡宮の神紋に似ています。郷土史に詳しい
 研究家によると上利家は平家の落人であるという説もありますが、詳細は不明
 です。


 日本一美味しいと評判の仙崎蒲鉾  
 一度食べたら忘れられないという「仙崎蒲鉾」は美味で全国
 
 的に知られています。わたしも帰郷する度にみやげ物として持
  ち帰り、職場の人たちに喜ばれました。

  仙崎蒲鉾は貞享年間(1684~1689年)当時の長州藩主
  であった毛利吉元公へ魚肉をすりつぶしガマの穂状にして焼
  いて献上した"ことが起源とされてます。

  毛利公はこの「仙崎蒲鉾」を珍重し、五代将軍綱吉公をはじ
 めとする諸大名にお国土産として自慢したことから仙崎の特産
  品として知られるようになったと伝えられています。

  のちに板に魚肉すり身を盛りつけ、直火にて焙焼して作り上
 げる「仙崎蒲鉾」ならではの 淡泊な味でしかも弾力が強く肌が
 つややかきれいな「焼抜」と呼ばれる独特の製法となり、 沿岸
 で獲れる鮮度の良いエソ、小鯛等の魚の旨味を存分に生かし
 た風味ある伝統食品です。


 
                         
 わたしは帰ってきた
  九月末から十月一日まで長門市に帰郷した。仙崎の姉の家に泊まり、青海島のお寺で両親の法事
 を行ったり弟の家で食事をしたりした。金子みすゞ記念館にも
 寄った。当時の生家・金子文英堂が復元
 され、みすゞをさらに身近に感じられた。書棚には復刻版の
当時の雑誌などが陳列され、二階にはみす
 ゞの書斎や居間などが復元されていた。書斎の格子から
覗く仙崎の町はかなり当時の面影を残してい
 るので、そこに立ちつくしていると、ひとしお感慨深いも
のがあった。館の係りの人たちともいろいろ話し
 込んだ。

  当日は台風の到来で、激しい風雨が待ちかまえていた。他に入館者はだれもいない。こんな嵐の中
 を来館するものはいない。それにしても、やはりみすゞは嵐で歓迎してくれた。激しく吹き付ける風雨だ
 ったが、なぜかわたしには心地よいものがあった。その中をわたしは歩いた。風は耳元で激しく優しく
 ひゅうひゅうと鳴っていた。町が揺れている。わたしも揺れている。
 
    
 「岸さへ朱に染むといふ」 (註)題も変え、新しく書き換えました
 
 鯨が解体された南野付近 当時は防波堤はない    青海島の鯨墓
 
  鯨捕りの唄
 わたしの郷里・青海島では、そのむかし鯨捕りが盛んで、鯨組という組織がありまし
た。みすゞの時代にはもう鯨はあまり捕れなくなり、その様子を伝え聞きというかたちで、
みすゞは唄っています。

    鯨捕り

 海の鳴る夜は
 冬の夜は、
 栗を焼き焼き
 聴きました。

 むかし、むかしの鯨捕り、
 ここのこの海、紫津が浦。

 海は荒海、時季は冬、
 風に狂ふは雪の花、
 雪と飛び交ふ銛の縄。

 岩も礫もむらさきの、
 常は水さへむらさきの、
 岸さへ朱に染むといふ。

 厚いどてらの重ね着で、
 舟の舳に見て立つて、
 鯨弱ればたちまちに、
 ばつと脱ぎすて素つ裸、
 さかまく波にをどり込む、
 むかし、むかしの漁師たち――
 きいてる胸も
 をどります。

 いまは鯨はもう寄らぬ、
 浦は貧乏になりました。

 海は鳴ります。
 冬の夜を、
 おはなしすむと、
 気がつくと――

 ここにでてくる「紫津が浦」はわたしの実家から歩いて一時間ぐらいの場所です。昔
行われた鯨捕りの勇壮な光景とそれに聞き入る作者の様子が生き生きと克明に伝わ
ってきます。みすゞの作品には珍しく鯨という動物への労りや罪の意識はあまりありま
せん。素っ裸で冬の海に飛び込む漁師の勇壮な姿をみるばかりです。年寄りが冬の
夜に語り継ぐ伝聞に子どもたちは胸をとどろかせながら成長していく。みすゞもそのよう
にして大人になっていったのだと思います。この作品はお話を聞いた子どもの頃の心
情に手を加えず、そのまま唄ったのでしょう。ただ傷ついた鯨の流す血で「岸さえへ朱
に染むといふ」の一行に生き物の傷みと人の原罪の気配をわたしは感じます。
  この作品は『さみしい王女』の中に収録されていますが、同じ巻の少し後には「鯨
法会」という作品が載っています。そこには親を捕られて悲しい鳴き声をあげる鯨の子
が唄われています。みすゞは「鯨捕り」の後に、この作品をどうしても加えたかったので
しょう。

  鯨法会

 鯨法会は春のくれ、
 海に飛魚採れるころ。

 浜のお寺で鳴る鐘が、
 ゆれて水面をわたるとき、
 
 村の漁師が羽織着て、
 浜のお寺へいそぐとき、

 沖で鯨の子がひとり、
 その鳴る鐘をききながら、
 
 死んだ父さま、母さまを、
 こひし、こひしと泣いてます

 海のおもてを、鐘の音は、
 海のどこまで、ひびくやら。

  鯨の解体に「鬼の食事」を見る
 みすゞが「鯨捕り」の詩で「いまは鯨はもう寄らぬ」と唄うようにこの辺りでは鯨は捕れ
なくなりました。しかし、わたしの住む通浦では、子どもの頃、二回程度鯨が捕れたこ
とがありました。海流の関係でときおり鯨が迷い込むのです。鯨が捕れると、噂は瞬
時に村中に伝わります。わたしたちは争って見物に出かけます。
 鯨は巨体なので運べません。そこで海岸で解体するのです。場所は南野(のうの)と
いう海岸でした。小高い場所から見物しました。その方がよく見えるからです。
 そこには衝撃的な光景がひろがっていました。わたしは息を呑んで見下ろすほかは
ありませんでした。黒々とした巨体が白い腹を見せてながながと横たわっていました。
波打ち際の砂は赤黒く変色し、あたりの海は真っ赤に染まっていました。解体されなが
ら鯨が流す血で、そこには朱の美しい海がひろがっていたのです。みすゞの唄った「岸
さへ朱に染むといふ」の光景が目の当たりに横たわっていたのです。
 子どもは残酷です。小さな生き物を殺すのは日常茶飯事です。しかし、眼前の光景
は違っていました。まさに人間が生き物を殺し食べる用意をしている。まさに「鬼の食
事」です。そのようにしか、わたしには見えませんでした。生き物が殺されるときにはこ
んなに血を流すのだと云うことをわたしは一瞬のうちに知りました。
 人間が生きるとはこういうことだと鯨が生け贄となって教えてくれたのかもしれません。
鯨が捕れるとその肉が村のすべての家庭に無料で配られます。美味しい肉なので
すが、その晩はなかなか喉を通らなかったことは云うまでもありません。
 私の実家から数分の場所に有名な鯨墓というものがあります。生け捕った鯨の母胎
から出てきた胎児に一つ一つ戒名を付けて供養したのだそうです。漁師たちもわたし
と同じような思いに駆られたのでしょう。郷土は信仰心の厚いことで知られています。
 子どもの頃、冬の夜に聴いた鯨捕りの伝聞はずっとみすゞのこころの奥底で疼き続け、
しだいにその本来の姿を形づくっていったのだろうと思います。金子みすゞの優しさや
原罪意識はこうして郷土が育てたといえるかもしれません。


 みすゞと同じ石門を潜って通った
 
                大津高校南校舎 石の門はみすゞ通学当時のもの    青海島にて(左が私・二十歳の頃)                           
 私の通った山口県立大津高校では当時は本校と南校舎に分かれていた。三年生にな
ると、南校舎(現在は長門高校)へ移った。ここには大正時代、大津高等女学校の校舎が
あり、金子みすゞが通った学校である。その大津高女が廃止されたのち、この南校舎が
建てられたのだが、当時の石の門はそのまま使用された。わたしたち学生はこの門をみ
すゞが潜ったことなど知らない。ただ何だか古めかしい石門であったことは今でも鮮明に
覚えている。
  
  学校へゆくみち

 学校へゆくみち、ながいから、
 いつもお話、かんがえる

 みちで誰かに逢はなけりや、
 学校へつくまでかんがへる。
      (中略)
 だから、私はゆくみちで、
 ほかの誰にも逢はないで、
 そのおはなしのすまぬうち、
 御門をくぐる方がいい。

 最終行の「御門」がその門である。南校舎は辺鄙な所にあったので、わたしの実家のあ
る青海島通からは船に乗り、仙崎に着くと、汽車(仙崎線)に乗り換え、一つ目の正明市
という駅で下車。一つ目といっても仙崎線には一つしか駅はない。それから田圃道を歩い
て通った。「学校へゆくみち、ながいから」とみすゞは学校へ通う時間を利用してお話を考
えた。それは空想好きの少女にはしんどいけれども楽しい時間であったろう。みすゞに「学
校」という作品がある。

  学 校

 舟でくる子もありました、
 峠を越す子もありました。
 
 うしろは山で蝉の声、
 まへはつつみで葦の風。

 田圃を越えて海がみえ、
 真帆も片帆もゆきました。

 赤い瓦に、雪が消え、
 青いお空に桃が咲き、

 新入生のくるころは、
 鳩も、かへろも啼きました。

 黒いつつみを背におひ、
 あかい苺ももぎました。

 赤い瓦の学校よ、
 水にうつつた、あの屋根よ、

 水にうつつた、影のよに、
 いまはこころにあるばかり。

 わたしたちには汽車があったので、歩く距離は少なかったが、みすゞの時代には道も悪
く、仙崎から女学校まで徒歩数十分はかかったにちがいない。一行目の「舟で来る子もあ
わたしたちには汽車があったので、歩く距離は少なかったが、みすゞの時代には道も悪
く、仙崎から女学校まで徒歩数十分はかかったにちがいない。一行目の「舟で来る子もあ
りました」はわたしたち青海島からの通学生のことを唄ったものだ。

 とくに感傷的で抒情性の濃いこのみすゞの作品を読むと、熱いものがこみ上げてくる。校
舎の赤い瓦こそなかったものの、「うしろは山の蝉の声」も、「まへはつつみで」も、「田圃
を越えて海がみえ」も、「水にうつつた、影のよに」も、わたしの見た同じ光景そのものなの
だ。この詩をよむと、連写フィルムのようにそれらの光景が想起される。こんなときである。
時間という限界性に遮断されながらも、こんなにも、みすゞの近くで生き、同じ光景を見、
同じ空や海や風に吹かれた僥倖に感謝の念が噴きあがってくる
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