私の故郷の長崎は、歴史と文化に富んだ町である。私が生まれた旧北高来郡飯盛町は小学・中学生で過ごした人情味の農漁村で、高来町・小長井町・森山町・多良見町共々H17/3月に諌早市に編入された。
諌早市は高校生活を送った県央の長閑な田園地方文化都市で、漢詩人野口寧斎、近代詩人伊東静雄、画家野口弥太郎、作家野呂邦暢、脚本家市川森一等著名な文化人を多数輩出している。、
長崎市は大学時代を過ごした歴史と異国情緒豊かな国際都市であり、鎖国時代日本唯一の海外に開かれた窓口で、坂本竜馬をはじめ多くの有為の人材が訪れた。
私は、毎年に数回帰省して、墓参りや親戚や学友にあうのを楽しみにしている。時間をつくり、ドライブしたり、ゴルフにしたり、名所めぐりをすることが好きである。
以下、つれづれに、順不同に、故郷の文化・歴史散歩をして紹介してみたい。、 |
漢詩人・野口寧斎
(1867/3/25-1905/5/12)

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野口寧斎は慶応3年諫早に生れた。祖父は良陽といい、父は松陽といった。祖父は諫早領主の御典医をつとめた人である。父は才気に富み、出藍の誉れ高く、諫早の郷校であった好古館の教官であったが、廃藩置県後明治4年上京し三条実美太政大臣に認められ、内閣権少書記官に採用された。こうした父の下で、寧斎は幼くして漢書を学び、明治6年小学校の設立を機に、東京の番町小学校に入学している。この小学校時代に成績抜群であったため、数回東京府庁より褒章を受けている。
弟の文次郎は、父の親友である当時の岩手県知事、島維精の養子となって島姓を名のり、のちに京大教授となり文学博士となった。
明治17年寧斎が18才の時に、当時日本漢詩界に名の高かった森春涛・槐南父子の門に入って、漢詩を学んだ。その後、哲学館(現東洋大学)に学ぶ。以後明治38年5月12日、寧斎39才で他界するまで、並々ならぬ覇気とその天性の才気をもって、日本漢詩界にその名を上げると共に、新聞に雑誌に、文芸評論や政論の発表をおこなった。
軍人乃木希典が、非常なる敬意を払って、この野口寧斎に漢詩の添削を依頼したことは、あまりにも有名である。著書に「出門小草」「少年誌話」「史誌談」開春誌記」「三体誌評釈」などがある。徳富蘇峰、森鴎外、幸田露伴との交友もあり、正岡子規とは誌について激論を交わす間柄であった。
その名声は全国に広まり、まさにこれからという時に、ハンセン病ゆえに生じるさまざまな偏見や差別のため、寧斎の輝かしい功績は歴史の片隅に埋没し、後世に伝わる機会を逃したのである。
自分の身は疾病に苦しみながらも「諫早文庫」の必要性を郷土の有志に説き、諫早の文化振興と青少年の健全育成を願って多くの図書を寄贈した。この努力が礎になり、今日の諫早図書館が誕生したのである。今年2005年は野口寧斎、没後100年に当たる。
(H17年12月 諫早市芸術文化連盟・野口寧斎没後100年記念事業実行委員会の栞より) |
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近代詩人・伊東静雄
(1906/12/10-1953/3/12)
諌早公園の文学碑
 住吉高校の詩碑
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伊東は諌早市生まれ、諌早尋常小学校(現諌早小学校),旧制大村中学(現大村高校)、佐賀高校(現佐賀大学)、京都帝大文学部国文科を卒業し、大阪府立住吉中学(現住吉高校)で教師をしながら詩作を続け、叙情派詩人として、数多くの作品を著しているが、詩集に「わがひとに与ふる哀歌」、「詩集夏花」、「春のいそぎ」、「反響」がある。私が初めて彼の名前を知ったのは、高校時代、教科書に載った新妻をうたった詩(なれとわれ)だった。
S28年3月12日、46才で肺浸潤で死去。地元では伊東静雄を偲んで、諌早公園の中腹に詩碑が建立され、「菜の花忌」が昭和40年から毎年3月の最終日曜日に詩碑の前で行われている。
詩碑には{手にふるる野花はそれをつみ、花とみづからをささえつつ、歩みをはこべ}が刻まれている。
また、平成3年から、「伊東静雄賞」を制定し、全国から優秀な詩作を募り、審査表彰している(伊東静雄顕彰委員会/諌早文化協会内)。
詳細は(新しき古典・伊東静雄の詩の世界)を参照下さい。
アドレス(http://www11.ocn.ne.jp/~kamimura/)
郷土の一年後輩・市川一郎(脚本家・市川森一の父)とは、京都時代、京大生と同志社生の間柄ながら親交があり、同氏の伊東追悼文が残っている→。
伊東静雄文学碑は彼が教師を勤めた旧住吉中学(現住吉高校)と大阪市阿倍野区松虫通り,
にもあり、詩碑には、夫々「わがひとに与ふる哀歌」から(曠野の歌)、「春のいそぎ」から(百千の〜)が選ばれている。
H19/12には堺市大浜公園隣接の旧堺燈台前に詩碑が建立された。
 松虫通りの詩碑 |
 旧堺燈台の詩碑 |
尚、同じ「菜の花忌」には、作家・司馬遼太郎の命日2月12日がある。 |
芥川賞作家・野呂邦暢
(1937-1980/5/9)
上山公園の文学碑
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長崎市生まれ、生涯の多くを諌早市で送り、早くから文学を志す。1956年(昭和31年)諌早高校を卒業後、上京し、そばや店員、ガソリン店員等さまざまな職についたあと、1957年佐世保相浦陸上自衛隊に入隊し、北海道に駐屯したが、病のため1年間で除隊した。
その体験をもとにした「草のつるぎ」で1973年芥川賞を受賞。
それより先に、「ある男の故郷」で「文学界」新人賞佳作入選をはたしている。
諌早に作家活動の根を下ろし、その風土の歴史を取材し、幕末の諌早を舞台にした長編小説「諌早菖蒲日記」、「落城記」などを発表。大成を期待されたが、S55年5月9日心筋梗塞で42才の若さで急逝。
著書に、「白桃」(1967年),、「海辺の広い庭」(1973年)、「鳥たちの河口」(1973年)、「草のつるぎ」(1974年)、「一滴の夏」(1976年)、「諌早菖蒲日記」(1977年)、「落城記」(1980年)などが或る。
市内宇都町の上山公園に文学碑があり、碑文にはその菖蒲日記の中の一節が引用され、刻まれている。野呂を慕って、「菖蒲忌」(5月最終日曜日)が地元の高校生を中心に営まれる。 |
円熟の脚本家市川森一(1941.4.17〜 )
矢車主宰時代の青火
(1908.1.17〜1984.6.30)
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今をときめく脚本家・市川森一は諌早市栄町の出身。諌早高校から日本大学へ進み脚本家を志し、テレビの「怪獣ブースカ」で世に出る。NHK大河ドラマ「黄金の日々」、「山河燃ゆ」をはじめ、TBS日曜劇場ドラマなど主にテレビを舞台に活動し、著名な倉本聡、山田太一と並び、脚本家の不動の地位を築く。
芸術院会員で、日本放送作家協会理事長を務める。H15年には、日本放送文化功労賞、紫綬褒章を受章した。
故郷の長崎県、諌早市の文化事業の発展にも積極的に協力貢献していて、H17/11/3にオープンした「長崎歴史文化博物館」名誉館長も務める。(夫人は女優柴田美保子、東京都渋谷区在住)。
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父・故市川一郎氏も文化人で、殊に俳人として有名。俳号は青火で、永年、俳句誌「矢車」を主宰し、俳句の地域普及に貢献した。
市ではその功績を讃えて、生前市川氏に句碑の建立を打診した際、「私だけならお断りするが、同窓生3名(松本正気、赤司里鵜、野中丈義の大村中学の先輩と同級生)を一緒に入れてもらえるなら受けたい」との本人の希望をいれて、S60年夏に四人の友情句碑を建て顕彰している。
この4人の選句は、(春)野火は手を振るよ郷関立つ吾れに(正気)、(夏)森深く蝉青々と啼きにけり(里鵜)、(秋)曼珠沙華一揆ここに亡びたる(丈義)、(冬)大寒を霽らしたる虹朱に克ちて(青火)と四季の句が並ぶ。
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市川青火と同窓生との
友情の句碑
親族(市川・藤山・山本・
上原家)が訪ねた。.
H15.4.30
(余談ながら、私は森一氏とは年齢が十数日違いの義理の叔父・甥の関係にあり、健やかな活躍を念じて止まない) |
維新の風雲児
坂本竜馬
風頭公園の竜馬像と
司馬遼太郎の文学碑
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薩摩と長州を同盟させ明治維新の土台を作った土佐藩の坂本竜馬。
長崎市伊良林町には、竜馬が起こした日本最初の商社である「亀山社中」跡が保存されている。
←長崎市伊良林町の亀山社中跡の入口
すぐ上の山頂の風頭公園には坂本竜馬像と司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」の一節を刻んだ小さな文学碑が建つ。
ー≪船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、「長崎は、わしの希望じゃ」と陸奥陽之助にいった。「やがては日本回天の足場になる」ともいった。≫ー
「竜馬がゆく」より(怒涛篇「希望」の章の冒頭の一部。
なお、竜馬の像は故郷・高知の桂浜、京都・丸山公園にも建つ。
竜馬は遊郭で有名な長崎市丸山町によく遊んだが、料亭・花月の床柱に残る刀の傷跡は、竜馬仕業として今に伝承され、知る人ぞ知るところ。
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俳人・向井去来
長崎街道・日見峠の薄塚
「君が手もまじるなるへし
花薄」 去来
長崎丸山町の料亭花月
の門前に建つ句碑
「いなづまやどのけいせい
とかりまくら」 去来
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長崎市桜町に医者の次男に生れる。後、父と共に京に上る。
芭蕉門下十哲の一人で、江戸中期の俳人。基角を通じ、芭蕉を知る。
晩年は京都嵯峨野に草庵の落柿舎を結び住む。芭蕉もここを訪れ、「嵯峨日記」はここを基点とする。
敷地内には、柿木が茂り、一夜にして柿の実が落ちて、買主が戻したことから、落柿舎の名が付いたとか。
「柿ぬしや木ずゑは近きあらしやま」の句碑が残る。
「猿蓑」の編纂、「去来抄」を著す。
「君が手もー」の句は、京都へ旅立つ時、見送りの人への思いを詠んだもので、「まじるなるへし」は「まじるなるべし」と高校生の時、国語の先生に教えて貰った記憶がある。
H15.9.7付長崎新聞のコラム「水や空」にこの句の解説記事がある。
<▲「君が手も まじるなるべし 花薄」。長崎出身の俳人で松尾芭蕉の高弟として名高い向井去来が1689年秋、短い帰郷の後、京都に旅立つ際に詠んだ句。長崎の日見峠。親戚の卵七が手を振って見送る。はるか遠くで振り向けば、もう卵七の姿は見定められず、ただ山肌を覆う薄が揺れている。あの揺れる薄のどこかで、きっと卵七は未だ手を振り続けているのだろう。▲医者の父、向井元升に連れられ8才で長崎を離れた去来は、生涯に二度帰郷しその都度、蕉風と呼ばれる新しい俳句の流れを伝え、長崎の文化興隆に貢献している。▲「手のうへに かなしく消ゆる 蛍かな」。俳諧を志しつつ20代で早世した妹を悼んだ句。温厚で情愛豊かな人だった。▲心にしみる数多くの秀句を残した去来は、1704年秋、53才で没した。三百年忌の今年、長崎俳人会などは10月18,19日、長崎で顕彰記念大会を開く。秋空を眺め、出会いと別れに生きた旅の俳人、去来を偲んでみたい。>
「いなづまやー」の句は、雷も鳴り出してきたので、丸山で一休みするとして、さて、どの遊女を抱くかと思案しているところか。「けいせい」とは漢字では「傾城」とも「傾国」とも書き、遊び過ぎると城を、国を滅ぼす美人、遊女を意味すると教え聞いた事を私は何故か忘れず、覚えている。 |
洋画家 野口弥太郎
(1899〜1976/3.23)

旧英国領事館跡に建つ
野口弥太郎記念美術館

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野口弥太郎のミモザ忌
明治32年東京に生まれる。川端画学校で藤島武二に学ぶ。二科展に連続入選し萬鉄五郎に評価され注目を集める。渡仏しサロン・ドートンヌに「港のカフェ」を出品し、絶賛を博し、フランス政府の買い上げとなる。帰国し長崎をテーマにした「オランダ坂」等の油絵を数多く描く。画家として早くから才能を開花させた弥太郎は、「1930年協会」、さらにそれを引き継ぐ形で結成された「独立美術協会」を舞台に活動を続けた。特に後者では、児島善三郎、林武とともに「独立三羽がらす」と称せられるなど、中心作家の一人として活躍した。
野口弥太郎の父親は諌早市小野町の出身で、広大な土地を有する資産家だった。弥太郎自身も父親の転任に伴って長崎、神戸など全国各地を転々とした際、諫早の小野尋常小学校に一時通っている。
野口弥太郎の命日は3月23日であるが、縁(ゆかり)の諌早市では毎年「春分の日」に、その季節に咲く彼の好きなミモザに因んだミモザ忌が営まれる。
今年28回目のミモザ忌は、2005年3月20日(日)の午前中に諌早市小野町・西畠の丘陵にある野口家の墓所での墓参りでは、画伯が好きだったミモザの花が手向けられ、午後からは諫早高校内の御書院で、画伯の絵や掛け軸が飾られて、懇話会が行われた。
長崎市の大浦海岸通りの「旧英国領事館」跡に「野口弥太郎記念美術館」があり、観光の人気スポットになっている。 |
日本二十六聖人殉職地
長崎西坂公園
(長崎駅より徒歩10分)
二十六聖人碑
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慶長元年12月19日(1597年2月5日) 6名の外国人と20名の日本人が豊臣秀吉のキリシタン禁令のため、大阪・京都で捕らえられ、長崎に護送され、長崎の町に面したこの地で十字架に架けられ、槍で突かれて処刑され、遺体は80日近く放置されたという。
この26名の殉教のできごとは、ヨーロッパその他の地に広く伝わり、文久2年(1862) ローマ教皇・ピオ九世は
盛大な祭典をローマで行い、26名の殉教者を聖人に列し、「日本二十六聖人」と称せられたのである。
同公園の南端に殉教者を詠んだ句碑が建つ。
(昭和60年11月建立 棕櫚俳句会)
天国の 夕焼を見ずや 地は枯れても 水原秋桜子
たびの足 はだしの足の 垂れて冷ゆる 下村ひろし
| 日本二十六聖人 |
(2007年2月5日付)
長崎新聞:コラム<水や空> |
この冬初めての積雪を観測した先週金曜日、26聖人殉教の地である長崎・西坂の丘を久しぶりに訪ねた。稲佐山や長崎港も一時はかすんで見えるほど雪が舞った▲その丘の一角に句碑が建つ。<天国(パライソ)の夕焼を見ずや地は枯れても>(水原秋桜子)。<たびの足はだしの足の垂れて冷ゆる>(下村ひろし)。ふたつの句ともむろん殉教者たちを詠んだものだ。1985年11月に句碑が建立されている▲これまで何度か来ているのに気づかなかったが、この西坂の丘に造られた26聖人記念像をよく見ると、確かに足袋を履いたりはだしだったりしている。ここで、410年前の1597年2月5日、26人のキリシタンが十字架にかけられた▲キリスト教を禁じた豊臣秀吉の命令によって、宣教師や信者たちは見せしめのために京都・大坂から遠く長崎まで歩かされた。関門海峡と大村湾を船で渡った以外はすべて陸路である。1日も休むことなく1カ月。その距離は800キロ以上に及んだ▲前26聖人記念館館長の結城了悟さんによると、殉教者たちは徒歩か馬に乗って行くことができたが、厳しい寒さに加え手を縛られているので体が冷えないように歩く方を選んだという(聖母文庫「二十六聖人と長崎物語」)▲春を思わせる日差しが降り注いだきのう、県内外からたくさんの信者が集った西坂の丘で殉教ミサが開かれた。長崎の多彩な歴史のひとこまがここにも息づいている。(憲)
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美空ひばり(本名加藤和枝)
(1937.5.29〜1989.6.24)
長崎もの持ち歌
「長崎の蝶々さん」
「花のオランダ船」
「島原を後に」 |
林檎忌・美空ひばり ’06年で17回忌
肥前長崎港町 異人屋敷のたそがれは なぜかさびしい振り袖人形 恋の絵日傘くるくると 蝶々さん 蝶々さん 桜の花が咲くころにお船が帰ってくるという 花のロマンス 長崎 長崎 長崎 港町▲昭和32年コロンビアから出た米山正夫作詞・作曲の「長崎の蝶々さん」。さて歌っているのは誰でしょうと問われ、すぐに答えられる人は年配者の歌謡曲通だろう。昭和の歌姫美空ひばりである▲前半は軽快で明るく、後半転調させてひばりの小気味よい歌唱力をフルに生かした今で言うご当地ソング。ところが「長崎の歌謡史」(長崎新聞社刊)によると、ひばりと江利チエミ、雪村いづみ主演の東宝映画「大当たり三色娘」の主題歌で、ドラマには直接関係ないという▲なぜかといえば、レコード会社が違うため主題歌は三人三様それぞれ吹き込んだ。ジャズのチエミ、ポピュラーのいづみに対し、ひばりは準日本調。日本映画の主題歌なのでひばりに軍配が上がったと解説している▲ひばりの歌としては中ヒットどまりだったが、この歌によってグラバー邸(現グラバー園)は蝶々夫人ゆかりの地として一躍有名になり、全国から観光客がどっと押し寄せた逸話も残っている▲ひばりが歌う長崎ものはほかに「花のオランダ船」(昭和29年)「島原を後に」(同40年)がある。戦後を代表する国民的人気歌手で死後、女性で初めて国民栄誉賞を受けた。あす24日は17回目の林檎忌。(貞) (2006年6月23日付長崎新聞 コラム<水や空>より)
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俳人森澄雄氏(1919.2.28〜 )
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俳人森澄雄は、大正8年2月28日姫路市網干に、長崎県五島出身の父・貞雄と、歯科医の検定をとると、播州網干の歯科医瀬川亀吉に跡継ぎにと望まれ結婚したその娘前はまゑとの、六男二女の長男として生まれる。五歳の時、両親が故郷の長崎で歯科医を開業することになり長崎に移り住む。本人は出生地は姫路の網干、出身地は長崎と公言している。瓊浦中学から長崎高等商業学校に進み、同校では俳句同好会「緑風会」に入り、機関誌「緑風」や学友会雑誌「扶揺」に作品を発表し始める。昭和15年9月、更に就職か進学か悩んだ末、九州帝国大学法文学部経済科に入学。加藤楸邨主宰の「寒雷」に入会。昭和16年12月8日太平洋戦争勃発。翌17年9月召集令状が来て、繰上げ卒業し入営。昭和20年ボルネオ行軍。この無謀な行軍で208人中8人が生き残る。同年8月15日終戦。昭和21年4月日本の土地を踏み、故郷長崎に向かい、原爆で悲惨な情景を見る。昭和22年5月鳥栖高等女学校の英語教員として就職、そこで体育教師をしていた内田アキ子と昭和23年3月結婚。東京都立豊島高校に移る。昭和24年1月長男・潮、翌年長女・あゆ子、27年次男・洋が生まれ、武蔵野の一角に畑と檪林に囲まれた900坪の土地に一家5人の生活が昭和30年まで続く。ここが第一句集「雪檪」の舞台となる。「寒雷」の埼玉大学句会の後、座興として作った(除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり)が、「我が代表句の一つになろうとは夢にも思わなかった。お蔭で妻は白鳥夫人と呼ばれ、我が家も白鳥亭と称するようになった。」 昭和45年10月俳誌「杉」を創刊。氏の第一句集は「雪檪」、第二句集は「花眼」、第三句集は「浮鴎」、第四句集は「鯉素」。
森澄雄は「鯉素」で、同窓生の島尾敏雄は「死の棘」で、昭和52年共に読売文学賞を同時受賞。
句碑は五ケ所に六句が建つ。第一は、近江堅田の浮御堂に近い祥瑞寺に(秋の淡海かすみ誰にもたよりせず) (H2年) 第二は、姫路の書写山山麓公園に(西国の畦曼珠沙華曼珠沙華)(H12年) 第三は、長崎寺町の隠元禅師ゆかりの興福寺に(山門は隠元自筆鳥雲に)(H18) 他に福岡県黒木町に(もよほして鳴く老鶯や新茶くむ)(素鳴に大藤匂ふ夕べかな) 岩手県東野に(ゐねむりしてうしろにきたり雪女)の個人建立句碑がある。
87年、紫綬褒章受章、93年、勲四等旭日小綬章受章。97年、『花間』『俳句のいのち』で日本芸術院賞恩賜賞受賞、同年、日本芸術院会員、2001年、勲三等瑞宝章受章,2005年、文化功労者。読売俳壇選者を長く務める。 |

2008年ノーベル化学賞の下村脩氏

下村博士とのツーショト
住吉高校の伊東静雄詩碑前にて
(H21.1014)
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2008年ノーベル化学賞の下村脩氏は1928年8月27日、京都府生まれ。長崎医科大付属薬学専門部(現、長崎大薬学部)卒。長崎大助手、名古屋大助教授などを経て、米ウッズホール海洋生物学研究所上席研究員。2001年に同研究所を退職後は、マサチューセッツ州の自宅で研究を続けている。 下村氏は発光するクラゲの体内から、緑色に光る蛍光たんぱく質を世界で初めて発見し、精製することに成功。これを目印に使うことで、生きた細胞中のたんぱく質の動きが直接観察できるようになり、生命科学の研究に飛躍的な発展をもたらした点が評価された。授賞理由は、「緑色蛍光たんぱく質(GFP)の発見と開発」。共同受賞したのは、米コロンビア大のマーチン・シャルフィー教授(61)と、米カリフォルニア大サンディエゴ校のロジャー・チェン教授(56)。
下村氏は1962年、米シアトル近郊のワシントン大臨海実験所で、オワンクラゲの体内から、紫外線が当たると緑色に光るたんぱく質(GFP)を発見した。たんぱく質は、酵素など別の物質の助けがなければ光らないという当時の常識を覆す革新的な成果だった。
下村博士は生れは京都府福知山市であるが、両親共に長崎県出身(父は現雲仙市瑞穂町、母は諫早市長野町)で、軍人だった父の転勤で、氏も旧制佐世保中→大阪旧制住吉中→旧制諫早中と転校していて、住吉中時代の教師は奇しくも諫早出身の詩人・伊東静雄だった。
この名誉ある受賞で、今年の文化勲章・文化功労賞、長崎県名誉県民賞の栄誉にも浴した。
(付言させて頂くと、小生とは母方筋(実家・諫早市長野町)の準従兄弟の近縁にあたり、喜びも一入です)
<吉報の突然来たる菊日和> 桐木(H20.10.8) |
「大阪瓊林」第75号
(H4.6.5) |
現代本屋考
ー読書人不在の風潮ー
学12回 上原 充
昨今、車を走らせていると、ひときわ目につくものにギラギラと満艦飾に着飾った不夜城の如きパチンコ店とホテル群の他に、もう一つ大型書店なるものがある。
これを本屋と呼べるのかどうか迷うが、煌々たる蛍光燈とネオンで、やけに明るいのが気になる。大型店と銘打っているのに、どの店もビデオショップとCDとファンシー商品が主流で、肝要の本の類は片隅に同居させられている感じすらする。
地味な哲学書、史書、純文学の類は、ひっそりと棚の隅っこに押しやられ、ケバケバしい極彩色のカバーと、どぎつい宣伝文句に飾られたハウツーものと、占いの本、際どい写真集、コミック類が我がもの顔に位置をしめている大型店の傾向は何を物語っているのか。
世の中、すべて軽佻浮薄。暗く重いのはダサイ。考えるのはシンキクサイ。深く考えないで楽しくいこうよ・・・・というのが主流になっている。
ビジュアル文化で育った世代が活字離れして久しい。じっくりと腰を落ちつけて本を読もうとしない。すべてダイジェストで事を済ましたつもりでいる。暴力的ともいえるマスコミの情報の洪水。一つの情報をかみしめ、反芻している余裕のないままに新たなる情報の渦の中に巻きこまれるていくのが現状である。情報過多の中にあって、皆、物知り博識であるが、それは真の教養とはいい難いのではないか。
昔、、本屋街といえばアカデミックな独特な雰囲気が漂っていたものである。特に、古本屋などをのぞき、お目当ての本を探しあてたときの知的興奮は今思い出しても懐かしい。古色蒼然、たとえ埃をかぶっていてもそれぞれの本が自分を主張していた。
書店の主人も本好きが多く文学青年が昂じて本屋となったとでもいうような、ある種のプライドをバックボーンにもっていた様に思う。
私は、特に読書人でもなければ、稀覯本のマニアでもなかったが、その頃の心の飢えを充たすものは本だった。心の糧を求めて暇があると本屋をのぞいた。ヘルマン・ヘッセ、バルザック、トルストイ、ヘミングウェイ、夏目漱石、西田幾多郎、川端康成、太宰治・・・。愛の挫折。耽美の世界。真理と情熱。人情の機微と人生の哀歓を教えてくれたのも他ならぬ出会った本とその作家たちであった。失意の時も、得意の時も、それぞれの作品が魂をゆさぶり、なぐさめてくれたものである。
今、出版界はかって類をみない程の活気を帯び、毎年、夥しい書籍を作り続ける感がある。週刊誌、情報誌も創刊号が次々と生れている。そして、定着しないまま廃刊の憂き目に会っているものが多いと聞く。
売らんかなのためには奇をてらい、ミリオンセラーを狙い、一発勝負を夢みて、ますます出版業界は加熱していく。書き手も作り手も読み手も同類になってしまったのだから仕方ないといえばそれまでだが、心ある読書人は、その風潮を苦々しく思っていることでだろう。志ある出版人も又、この傾向を心淋しく憂えていることであろう。出版物の氾濫イコール文化の向上とはいい難いからだ。
かういう私も多忙を口実に、身を入れて読書する習慣から遠ざかっている。耽読よし。通読よし。精読なおよし。ツン読も又よし。余暇をごろ寝やTVのお笑い、クイズ番組に費してばかりいないで、時には本をひもとき、一人の作家、一つの作品に真向から対峙する愉しみを忘れたくないものである。
(「大阪瓊林」 第75号 平成4年6月5日) |
(注)この一文は同窓会・会報誌「大阪瓊林」第92号(H17/4発行)への投稿文です。

「大阪瓊林」92号
(H17/4/15発行)
現代の浦上天主堂
原爆落下中心地
(長崎市松山町)
平和祈念像
(製作者・北村西望)
(注)クリックすると拡大します。
母校に残っていた兄の
記録の一つ。ここには
「一ノ三 上原光明 原子爆弾
により八月二十四日 死亡者」
とある

旧中学時代の次兄 |
長崎原爆忌と長崎の鐘について
昭和20年8月9日に長崎に原爆が投下されてから,早くも今年で60年である。従って,今年が原爆忌60回目を迎えることになる。我が瓊林会の先輩の中にも,当時学徒動員や長崎市内に居合わせて被爆し,犠牲になられた方が居られることだろう。私も次兄を長崎原爆で失った被災遺族の一人である。兄は長崎高商の学生で,学徒動員で三菱軍需工場に行って,そこで災難に遭っている。当時4才4月の私は未だもの心がついてなく,原爆や学生の兄のことなど知らなかった。ただ一つだけ覚えている情景がある。長崎より東約50KM離れたところにある北高来郡江の浦村(現飯盛町)の実家の庭で私は一人で遊んでいたようだ。西の方からやたらと空中を燃えカスの葉状の灰が,丁度,黄砂のように舞って落ちてくるのだった。どこかで大火災でもあったのだろうと幼心に思っていた。後で思えば,それは長崎の原爆による火災の噴煙の痕跡だった。
兄は即死ではなく,15日間生きて,亡くなったと後で教えられた。私も同大学経済学部に入学・卒業し兄の果たせなかった学業の道を継ぎ,終えたことになる。
あれから半世紀以上が過ぎた今,「長崎の鐘」といって大抵の人が思い浮かべるのは何でしょうか? サトウハチロー作詞 古関裕而作曲の歌謡曲「長崎の鐘」(昭和24年4月発売)が,有力のような気がする。カトリックの宗教的雰囲気と格調高い響きを持ち,歌手藤山一郎が朗々と歌ってヒットし,今でも,多くの人が愛唱する名曲だからである。私もよくカラオケで歌うことが多い。
この歌の原典は,長崎医科大学(現長崎大学医学部)永井隆博士が著した「長崎の鐘」(昭和24年1月 日比谷出版社初出版)である。55年経った現在,この本を実際読んだ方はどれ位いらっしゃるだろうか? 実は,私も最近,入院中にその復刻版を初めて読む機会に恵まれた。
(平成7年4月
中央出版社(現サン
パウロ)初版
文庫本)
目次 その直前 原子爆弾 爆撃直後の情景 救護 その夜
原子爆弾の力 原子爆弾傷 三ツ山救護班 原子病
原子病療法 壕舎の客 原子野の鐘 からなる160ページ。
著者は,自ら被爆し多数の患者を治療し,「これは医者の立場から原子爆弾の実相を広く知らせ,人々が戦争を嫌い,平和を守る心を起こさせるために書いたものです。」と述べている。つまり,原子医学者の確かな知識と自らの体験に基づいた長崎原爆の最初の記録書であり,啓蒙書としての評価もある。実はこの本は,昭和21年8月脱稿しているが,GHQの発行差し止めを受け,原稿は本土国防省まで送られ,日本軍が行った「マニラの悲劇」を付録としてつける条件で昭和24年1月公刊が許可されている。
著者の経歴は,明治41年2月3日
松江市生まれ,松江高等学校から長崎医大に進み,医大物理療法科助手の後,昭和8年満州事変に従軍。9年帰還して,浦上天主堂でカトリックの洗礼(霊名パウロ)を受け,8月に緑夫人と結婚,二児(誠一(まこと),茅乃(かやの))を設ける。
12年医大講師,15年助教授,19年医学博士,21年教授となった。24年長崎市名誉市民第1号となる。昭和26年5月1日
43才で逝去。
この「長崎の鐘」は当時ベストセラーとなり,著者の永井隆は一躍「文壇の寵児」ともてはやされたが,原爆投下に対する永井隆のクリスチャン的考え方「原子爆弾が浦上に落ちたのは,大きな御摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝を捧げなければならぬ。」に対して,批判反発もあったことも付記しておきたい。
最も鋭く批判した詩人の山田かんは,次のように反発する。
「彼は霊者としてカトリック信仰を文面にちりばめることで被爆の実態を歪曲し,あたかも原爆は信仰教理を確かめるために落とされたというような荒唐無稽な感想を書散らした。原爆を落とされて幸せだったとする永井ら信者の信仰形態は,一般民衆の理解の域を超えるはずのものであるが,長崎においてはこれらへの反省はまだみられることはなく,他者の教義上のこととして見すごされてきたのである。一種のタブー意識であろう。」(聖者・招かざる代弁者)
何故,長崎に原爆が投下されるようになったかについて,知っておきたい。
1)「長崎の鐘」の中で,浦上天主堂の合同葬で弔辞を読む隣人の山田市太郎さんに語らしめている。
「―前略―日本の戦力に止めをさすべき最後の原子爆弾は元来他の某都市に予定されてあったのが,その都市の上空は雲にとざされてあったため直接照準爆撃ができず,突然予定を変更して予備目標たりし長崎に落すことになったのであり,しかも投下時に雲と風のため軍需工場を狙ったのが少し北方に偏って天主堂の正面に流れ落ちたのだという話を聞きました。―後略―」
2) 数十年前,GHQのマッカサー司令官(元帥)が退任後,日本の新聞に手記を連載し,その第一回に「長崎原爆投下は,実は最初は小倉が第一目標であったが,気象条件が悪く,そのため第二目標だった長崎に変った」との秘話を読んだ時,大変驚いたのを憶えている。
もし,小倉だったら,長崎原爆で次兄を失うことも無く,間違いなく私の人生も違ったものになっただろうと運命のいたずらを思わずにはおれなかった。
3) B-29「ボックスカー」を操縦し,長崎に原爆・ファットマンを投下したスウィーニー少佐(当時)の近著(脚注)によると,長崎に原爆を投下するまでの経緯を次の通り詳述している。
「午前2時56分(現地時間),ボックスカーは13名の乗員を乗せ,テニアン島A滑走路を離陸した。7時45分屋久島上空9,000メートルで随伴機1機と会合し,先発した気象観測機から,第一目標の北九州・小倉は,快晴が期待できるとの報告を得て,予定通り小倉に原爆を投下することとした。ところが,爆撃行程に入って小倉上空には前夜の八幡攻撃で発生した大量の煙が流れ込んで,目標を視認できなかった。ボックスカーは爆撃行程を3回繰り返したが,目視攻撃ができず,その上高射砲や戦闘機の迎撃が激しくなったので,あきらめて第二の目標の長崎に向った。
長崎には高度9,000メートルで北西方から進んで進入したが,1,800〜2,500メートルの間が80〜90%積雲に覆われていた。一旦はレーダー爆撃を決心したが,投下寸前に雲の隙間から地上が現れたので,11時1分これに照準を合わせて原爆を投下した。予定照準点から3KM北の地点であった。投下後,直ちに急降下しつつ,左へ急旋回し,北東へ向け全力で離脱して爆発の衝撃波を避けた後,旋回しつつ,観測を続け沖縄に向け,南下して行った。」
二つの原爆の諸元の比較
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原子爆弾名
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リトルボーイ
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ファットマン
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投下航空機
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エノラ・ゲイ
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ボックスカー
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投下都市
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広島
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長崎
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炸裂時刻
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8/月6日 8時15分
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8月9日 11時2分
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形式 核物質
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ウラニウム
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プルトニューム
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起爆性
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砲撃型
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爆縮型
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TNT相当
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13キロトン
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21キロトン
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寸法 全長
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3メートル
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3.2メートル
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直径
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71センチ
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1.5メートル
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重量
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4トン
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4.5トン
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(注)チャールス W スウィーニー著書(原書房/平成9年刊行)
「私はヒロシマ・ナガサキに原爆を投下した」黒田剛訳
北九州市小倉北区の造兵廠(ぞうへいしょう)跡の勝山公園に建立された碑文には,「この地に陸軍造兵廠があった これを攻撃するため 原爆を積んだ米軍機が飛来したが 雲のため目標を見いだせず 一転して長崎へ原爆を投下した この事実をかえりみ 北九州市民は 痛ましい被爆の霊をなぐさめ 平和への切実な願いをこめて この碑を建立する 昭和48年8月9日」と書かれている。公園には,被爆者の霊を慰め,平和を守るための母と子のモニュメントと長崎市から贈られた複製の「長崎の鐘」を吊るす鐘楼が設置されていて,長崎原爆忌の8月9日には,通常は盗難防止のため市庁舎に展示されている「長崎の鐘」は,この日にだけ持ち出し,吊るされ,打ち鳴らされる。
また,ペーロン交流都市提携で長崎の友好都市となった兵庫県相生市では,平成13年10月1日に市制60周年に合わせて,長崎市より贈られた複製の「長崎の鐘」の塔が市役所前に建立され,平成14年の長崎原爆忌から鳴らされるようになった。
「長崎の鐘」は,松竹で映画化され,昭和25年9月封切られている。
監督:大庭秀雄 出演:若原雅夫,月丘夢路,津島恵子他。
永井氏の歌に,「新しき朝の光さしそむる荒野に響け長崎の鐘」がある。[長崎の鐘]とは[浦上天主堂のアンジェラスの鐘]を意味する。アンジェラス(Angelus)とは聖母マリアに対する受胎告知の時刻を知らせる教会の鐘。
私は格調高いメロディーに誘われて「長崎の鐘」を,クリスチャンになった気分で歌って来たが,阿鼻叫喚(あびきょうかん)の原爆被災の苦しみの中で,戦争の犠牲になられた数多くの人々の痛ましさ,前途有為ながら,短い人生で逝った兄を思う時,天に召されたというような美化された,安らかな思いにはなれず,重く切ない気分になりますね。
毎年8月9日の原爆忌がめぐり来る時,11時2分には合掌して,霊を慰め続けていくのが,せめてもの私にできる務めであると思う。
それぞれ縁(ゆかり)の人が,8月6日 8時15分の広島の原爆忌の時に,8月15日 正午の終戦記念日の時に,1月17日 5時46分の阪神大震災の時に,その時に合わせて,合掌し祈りを捧げるように!
「原爆忌 語り継げてよ 夾竹桃(きょうちくとう)」 (桐木)
「幼(おさ)なくば 汝(な)が苦しみを 知らずして 歌い来たりし 長崎の鐘」(燎火)
(追補)
この一文を書く切っ掛けは,偶々(たまたま)私がクリスチャン系の病院に入院(H16 / 11)して,そこで「長崎の鐘」に出会ったからであるが,原爆で被爆し,苦しんで死んで逝った14才年上の次兄が,長崎高商の学生だったこと以外殆んど知らない自分に気づき,もっと知りたく,瓊林会本部事務局の田渕女史に調べてもらった(H17 / 1)。彼女から同窓会事務局には当時の資料は何もなく,経済学部学務係に聞いてくれて,少し分かりましたとの返事が来た。「上原光明 1年3組 語学英語(専攻) 原子爆弾により8月24日死去。」の記録が残っていた。昭和20年8月現在,1年3組ということは,昭和20年入学ということになり,経專41回と分かっただけでもよかった。兄に近づいた思いだ。経專41回の先輩で,兄のことを知る方が居られたら聞きたい気がある。どんな性格の学生でしたか?と。多分,入学して4月余しか経ってないので,無理かなと思う。
兄のことで私の脳裏に残っている一場面がある。季節は夏,橘(たちばな)湾が望める牧野の我が家の畑で,麦わら帽子を被った,半袖シャツ姿の次兄と三姉と私の三人が居て,二人は畑仕事をしていて,私は端に座ってながめているだけのところが,一枚の写真のようにある。夏だったから,原爆の少し前だったかも知れない。それだけが60年経った今も形見のように目に浮ぶ。
その三姉は奇しくも兄の旧諫早中の同級生と結婚し,その義兄から実兄のことを,「体格は大きくはなかったが,負けん気が強く,同じ剣道部で打ち合いをすると,どんどん攻めて来て,受け手が痛いくらいだった。どちらか一方の足が不自由のようで,正座ができず,いつも立て膝の姿勢をとっていた。性格は真っ直ぐで,勉強もよくできた。」と教えてくれたのを思い出す。
我が兄弟姉妹も当時の他の家族と同じように,男4人,女3人の子沢山であるが,長男が戦死,三男が夭折していて,残る男は次兄と4男の私の二人であった。
被爆した兄は,浦上から西山の母校に自力でたどり着き,長崎高商から農業学校の先生をしていた父の勤務先に,生きている旨の電話が入り,父はすぐ近所の縁者数人に応援をお願いし,50KMの長い道程をリヤカーを引いて迎えに行き,隣の田結村の病院に入院させたという。そこで15日間生き延びるが,その間,幼なすぎる私は何も知らされないまま,見舞いにも連れて行ってもらえず仕舞い。死期を感じた兄は,男一人残る私の名をしきりに呼んでいたと,後で,母や姉らから聞かされた。
学12回 上原 充(俳号
桐木
/ 歌人
燎火)
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右の一文は、諫早高校全11回生(昭和34年卒)の全国同窓会が、H17.9.10に地元諫早で開催されるのに合わせて発行の記念誌への投稿・掲載文です。

「歳月は過ぎてののちに」
が表題になっている。 |
叶わぬ夢に生きる
(To beat the age 年齢を打ち負かす)
我々諫高11回生は4〜5年前に還暦を迎え,今では殆どの人が現役を引退し,第二の人生を歩んでおられるところでしょう。還暦を迎えた時点では,昔に比べ肉体的にも,精神的にも実年より10年くらいは若いと,私を含め自負した方々が多かったのではと思う。今や人生80年と言われる長寿時代に生きているわけですが,病気や災害に遭わねば,未だ20年近い歳月の人生が残っている。従って,これからの人生の生き様が,各人の幸・不幸や充実度を大きく左右すると思うのです。還暦を過ぎて古希に向っている途上のここで,少しばかり自分の来し方を振り返り,行く末に夢を描いてみたい。我々は戦後の産めよ増やせよの時代に生を受け,私も男4人,女3人の兄弟姉妹の末っ子であるが,当時では必ずしも子沢山ではなく,平均的な家族数であった。しかも,私は,父56歳,母44歳計100歳の時の子である。現代は少子化で2人以下(H16の日本の出生率1.29)が普通であることを考えれば,自分がよくも7番目の末っ子でこの世に生まれてきたものだと,僥倖と思わずにはいられない。長兄と次兄を60年前に戦争と原爆で亡くし,父と母は30年前に没しているが,今から10年前に兄二人の50年忌法要を済ませています。普通では親の50年忌にはあえず,あえれば慶事と言われる。父母でなくても,兄たちのそれを果たせたことで,安堵感と同時に若くして逝った二人の兄の分も生きようとの決意を新たにした思い出があります。
4年前,H13.3.31(偶々小生の誕生日)に満60歳でサラリーマンの定年を迎え,年金生活にはいった訳ですが,ここでも,「ついている」ことがありました。国の年金制度は財政事情で支給年齢や支給金額が見直され,H13.3.31以前までの退職者は,60歳で全額支給であったが,1日違いのH13.4.1以降退職者は,減額と年齢繰り延ばしが始まったのです。定年後1年間は雇用保険の「失業給付」を受給しながら,職業訓練の対象のIT(情報技術)講座も無償で受講できました。次年度からは,雇用保険制度も財政逼迫で,減額と受講対象科目が縮小されました。サラリーマン時代に納めた雇用保険料の倍以上の給付と受講を得たことになります。サラリーマン時代の時間的拘束と精神的プレッシャーから解放されて,約1年間,自由闊達な時間を満喫し,謳歌していました。然し,いい事ばかりは続きませんね。それまで,幸いにして一度も入院などしたことがなかった私が,開放された安堵感からでもないのでしょうが,風邪で掛かりつけの町医者に行ったら,レントゲンをとられ,肺炎か何かの疑いがあると総合病院へ検査入院を勧められ,豊中市民病院に入院し,精密検査を受けました。そこで心臓冠動脈障害が判明し,即心臓バイパス手術をすべしと驚かされました。事は重大事と,近くの吹田市にある日本有数の心臓病の権威「国立循環器病センター」に,セカンドオピニオンを求めて,検診を受けたところ,診断は同じで,結局,後者で心臓バイパス手術を受けたのです。成功率98%,リスク2%と言われる手術であったが,手術は約6時間を要し,意識が戻って,無事成功し,生還できたことを知りました。術後の1,2日間の痛みの辛さが今でも忘すれられません。これをプラス思考すれば,知らずに放置していたら,いずれ,「心筋梗塞」に見舞われ,1巻の終わりのところ,事前に発見でき,幸運であったとの思いがあります。
又,去年の秋,眼の「網膜症」進行悪化で,阪大病院に入院し左右両眼の手術を受け,こちらも手遅れにならず,失明を免れ,運転も出来るまでに回復しました。この時に,病院の風呂で滑って,大腿骨を骨折するという不運にみまわれ,手術・リハビリを経て,やっと,この7月,快癒して杖なしで歩けるまでになりました。3年前,京都で11回生の全国規模の同窓会があり,出席者総勢20数名の中で,3年5組のクラスメイトが5〜6名もいたのに驚き,その旨を,諫高3年次の担任だった嶋田信義先生に卒業以来初めて便りをしたら,「定年後の1,2年は,長年の会社人間から開放され,ほっとして,不思議と病魔などに襲われる危険な時期だから注意下さい」と返信に書き添えて頂いていたが,それが現実になったような気がします。
私の還暦までの半生期は,高校→大学→サラリーマン→定年と典型的なコースを,特に出世もせず,またドロップアウトすることもなく,家庭的にも27歳で結婚し,糟糠の妻に支えられ,健常な1男,1女に恵まれて,辿って来れた人生と言えます。
大事なのは,これからの予後の人生をいかに有意義に生きるかだと思うのです。何か生き甲斐を見つけ,明るく,楽しく,輝いて日々を送れれば,理想的ですね。また,お洒落で,清潔で,セクシーで,好奇心を失わないことも老いに向けての望まれる要件と言われます。
勿論,その為には,「健康」と「少々のお金」と「時間」と「家庭環境に恵まれる」という前庭条件がつきます。
そのことを踏まえ,生き甲斐に,例えば「趣味に生きる」もよし,「ボランティアーに生きる」もよし,「起業に生きる」もよし。
私は,前述の「大病」に襲われた経験とそれを克服した今,「生きているだけで儲けもん」という気もしないではないが,もう少し前向きに考えることにしました。私は勉学用にHP(ホームページ)を作成・持っています。そこに,趣味として,「ゴルフ」「音楽」「旅行」「菊作り」を体裁上載せていますが,内容が値するか甚だ疑問です。
最近,大学の同窓会の会報誌に載った「一つの記事」を読んだ時,私の生甲斐として,到底,成せぬ課題ではあるが,目標・願望にしたいと,その時思い当たりました。それはゴルフの「エージシューター」(ageshooter)になることです。ゴルフを知らない方には,分かりにくい話で恐縮ですが,趣味と書きながら,私はここ5年は体調不良で,ゴルフから遠ざかっています。現役の時は数多くプレイしたものでした。腕前は大したことはありませんが,自慢話で恐縮ながら,私には,大方のゴルファーが一生に一度も出来ないと言われる「ホールインワン」を,HPにもあるように,1年間で4回達成というギネスブック級記録を持っています。これは,奇跡的ながら,幸運によるものといえます。先に掲げた「エージシューター」とは,幸運ではなく,努力と健康に恵まれて初めて達成できる価値あるものです。即ち,「1ラウンド18ホールのスコアーが,自分の年齢以下」の達成者のことで,どんなに上手いプレヤーでも,50代や60代の年齢では,とても回れるスコアーではなく,70代の後半から80代の年齢にならないと達成できない遠大な夢の話です。例えば,72のスコアー(18ホールのパー(規準)スコアー)で回れても,年齢71歳以下ではダメで,72歳以上の人に与えられる称号で,至難の技といわれる所以です。
私にとっても「叶わぬ夢」です。何故,私がこの目標を掲げたかは,この夢を実現するためには,1)80代まで長生きしなければならない。2)ゴルフの腕前を上げて,シングルプレーヤー級にならなければならない。3)そのための時間は充分あり,不屈の努力と晩年に向けての健康維持が求められるからである。
殆んど不可能との諦めがあるが,可能性はゼロではないと願望を持って,後半の人生を生きたいからです。前述の「一つの記事」とは,H17年6月号の大学の会報誌に,この「エージシュート」を達成した大先輩がおられるという記事でした。故倉重清久(長崎高商16回卒)という方で,55歳でゴルフを始め,77歳で初めて「エージシュート」を達成され,驚くことに以後7回も成就され,そのことを「日本経済新聞」にも投稿記事として載せられ,知る人ぞ知る有名人と初めて知りました。英語では,「エージシュート」のことを,“To beat the age”(年齢を打ち負かす)という昔からの言い伝えがあるとその大先輩が書いておられ,良い言葉だと思い,ここにご紹介する次第です。
ともあれ,私もこの「叶わぬ夢に生きたい」との目標を掲げて,10年,20年計画を立てて,再出発したいと思う。
私の叶わぬ夢と知りつつ,生き甲斐として,座右の銘として,要は,継続ある実践と弛まぬ努力と強靭な忍耐力をもって生きて行きたいと願っています。
以上
上原 充(飯盛中出身/大阪府在住)
H17年7月 記
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(注)この一文は同窓会・会報誌「大阪瓊林」第95号(H20/4発行)への投稿文です。


「原子雲の青春」の表紙絵と題字

63年前のハガキの表面

兄と同期の畑野昭雄氏(右)
「原子雲の青春」の世話人代表
(2008.8.9の三菱重工の慰霊祭)

長崎市文教町三菱重工社員寮の
前庭に建つ原爆殉難者芳名碑

芳名碑に兄の名前が見える
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「原子雲の青春」と63年前のハガキ
学12回 上原 充
( H20.2.1記 )
広島と長崎に原子爆弾が投下されて今年の8月で満63年になる。昭和20年8月9日午前11時2分、広島に次ぐ人類二番目のプルートニューム濃縮型原子爆弾ファットマンが、爆撃機ボックスカーから長崎浦上の上空に投下され、長崎の町は一瞬の内に焦土と化し、市内付近一帯の建物は破壊され、7万人以上が犠牲となりました。
その悲惨な状況は、先の「大阪瓊林」第92号に投稿した小生の拙文「長崎原爆忌と長崎の鐘」に引用した有名な永井隆博士著「長崎の鐘」にも描かれている通りですが、ここに紹介する「原子雲の青春」は我が先輩の長崎高商経専41回生(昭和20年入学:同期会名・冲天会:現年齢80歳前後)の原爆被爆体験記録集である。私はこの体験集の存在をある縁で知った。経専41回生には、実は私の実兄もおり、学徒動員で三菱兵器製作所茂里町工場に派遣され、そこで被爆し15日後に亡くなっています。
私は、還暦を過ぎ定年を迎えて、時間的余裕が出きたこともあり、平成17年4月発行の「大阪瓊林」に投稿文を書いた切っ掛けで、殆んど亡兄のことに無知であったことを恥じながら、亡兄が経専41回生であることを知り、もっと知りたく、同期生がご健在なら、お聞きしてみたいと言う思いが出てきました。丁度その頃、年2回本部発行の会報誌「瓊林」に積極的に投稿されている経専41回生の4人の名前を発見し、不躾ながら、その4人の先輩に上記の趣旨のお手紙を出して、お尋ね致しました。
その4人とは、高木昌章、畑野昭雄、森永正人、種吉義人の先輩諸氏でした。
それからすぐに、高木昌章様から丁重なご返事を頂きました。
(―前略― 昭和19年2月に、決戦非常措置要綱が閣議決定されて「中学生以上の学生全員を工場に配置するなど、学徒動員を強化する」との法令によって学徒勤労動員の通年実施が決定され、19年4月から工場等に動員されました。
このため全国的に、昭和19年4月になっても文系の旧制の高等学校や専門学校に入学を許可された旧制中学生は、7月末まで継続されたため、私たちも経専の入学式は7月31日に行われました。そして翌8月1日に、三菱兵器製作所大橋工場で入所式が執り行われました。経専の一年生は、8月6日か7日に茂里町工場と日見トンネル工場に分かれて配属されました。このため実質的には数日間の出会いであり、出身中学が異なる入学者との面識は非常に薄く、記憶に無いというのが実情です。―中略― 貴方のご要望に添えなかったことは申し訳ありません。−後略― )
このお手紙で、経専41回生の入学式は4月でなく、7月31日であったこと、8月9日の原爆投下まで数日間の出会いで、出身中学異なれば面識はなく、授業等なかったことを知りました。
そして、高木昌章様は参考になる本として、平成7月に同期の畑野昭雄君が刊行世話人となって編集、刊行した、長崎原爆被爆体験集「原子雲の青春」(A5版、400頁、900部限定) の主要部分の抜粋コピーを添付頂き、被爆当時の状況を想像して下さいと申し添えてあり、900部を印刷して、同窓生や主要先に配布したが、残部は全くありませんとのことでした。
この本は平成7年の刊行ということで、原爆投下から50年目になり、奇しくも私が亡兄の50年忌の法要を済ませた時期でもあります。
「原子雲の青春」の刊行と存在の事実は、関係者以外は殆んど知られていないと思い、少しここに紹介したいと思います。
それをひも解くと、まえがき、と題して刊行世話人の代表の畑野昭雄様が記されています。(―前略―関東以西から希望を胸に抱いて集まった我々の入学式がやっと挙行されたのは、7月31日のことでした。しかし、勤労動員されていない者については、既に5月15日に終わっていたというように我々の入学式は極めて変則的なものでありました。入学許可者234名中、実入学者は資料上215名となっていますが、実際に入学式に出席したのは、これよりかなり少ない人数でした。入学式の喜びもほんのつかの間で、翌8月1日から再び学徒動員となりました。しかし、ついに、米軍機による原子爆弾の投下という、あの運命の8月9日がやってきました。我々の大部分の者は、三菱長崎兵器製作所茂里町工場又は日見トンネル工場に学徒動員されていて、そこで被爆しました。―中略― 被爆したときには純情で僅か17歳前後であった我々も、早や67歳前後の年齢になりました。―中略―これまで、被爆体験については、どちらかと言えば、思い出すのも、また、語るも嫌であるというのが我々の一般的な心境であったかと思います。しかし、うら若い身空で被爆して殉難した19名もの学友、その後原爆症のため他界した学友、更に今なお原爆症で悩んでいる学友のことを考えますと、じっとしているわけにもいかないような気がします。そこで、我々の年齢を考えますと、この機会に、その被爆体験がいかに異常で凄惨なものであったかをありのままに世に発表し、後世に伝え、警鐘を鳴らすことも、誠に有意義なことではないかと思われます。)
この被爆体験集には、59編及び殉難者が遺した手紙・ハガキの2編が収められているが、他に、恩師の原爆投下前後の思い出のページとして「原爆落下前後の学園」―河野吉男先生(元長崎大学名誉教授) と「長崎を覆う原爆の雲の下で」―坂口幹生先生(長崎大学名誉教授) 二人の遺稿文(S50年記) と投稿文が加わり、惨状の真実味と重厚味を増しています。
恩師の河野、坂口両先生は私の在学時代もなお現役教授として授業をされていたが、河野吉男先生も被爆体験者であり、上述の文章のなかに、(―前略―長崎原爆落下の日は、筆者と根岸先生とは三菱兵器製作所の茂里町工場へ ( 爆心地より1.2キロ ) 出勤の日であったー中略―当日は朝から、西南から北東に流れる、断雲の間を太陽が照射している半晴半雲のむし暑い日であったー中略―現在の大学病院本館玄関口の裏手に回ると、たまたま、永井隆先生が角尾学長を背負われて避難されているのに出くわした。―後略―) という記述があります。
また、「九死に一生」を書かれた能見時助様の文を読むと、何故、九死に一生を得たかの理由の一つに、ジャンケンに負けたことを上げておられる。
( 配属先は三菱兵器工場の大橋本工場か茂里町工場か日見トンネル工場のどちらかであるが、長崎師範と長崎高商の代表によるジャンケンで決めていたが、当校は、記憶に間違いなければ確か上田博士さんがジャンケンに負けて、分工場の茂里町工場及び日見トンネル工場になった。被爆中心地により近い大橋本社工場(筆者注:今の長崎大学の文教町キャンパス) の長崎師範の学生は被害甚大で、茂里町工場及び日見トンネル工場 (筆者注:トンネルを半分仕切って兵器を作っていた) の長崎高商の学生は被害が少なくて済んだことに感謝しなければならない。)とあります。
先に挙げた4名のうち、学徒勤労動員と戦争の終結―終戦がもう少し早かったならー高木昌章、あの雲の下でー畑野昭雄、原爆体験記―その日から終戦までー森永正人、3名の生々しい詳細な体験記も載っています。( (注) 種吉氏は、昭和20年10月中国の東亜学院からの転入学で被爆体験なし。)
私は、「原子雲の青春」の被爆体験集61名の内、コピー頂いた抜粋文10数人の手記を読ませてもらったが、永井博士一個人の「長崎の鐘」以上に、被爆学徒61名一人ひとりの生き地獄の体験記録が語られていて、親身に響き、胸をつまされる思いがします。
当時の上述の状況を理解して、私は、高木昌章様に対して、お礼の手紙をだしました。(この度は私の不躾な照会の手紙に対し、ご丁寧なご返事と貴重な資料を頂戴し有難うございました。1週間足らずの顔合わせでは、同窓の中学生でない限り、他校の出身者まで認知・記憶することは無理と理解できます。私が経専41回生の生存の同級生の方にお聞きしたかったのは、4ヶ月ばかりの短い期間とは言え、兄が胸を弾ませて入学した憧れの長崎高商で、どのような授業を受け、どのような楽しい学生生活があったかということでした。ところが、現実には一度もそれらを享受することなく、逝ってしまったことを知り、そのことが不憫でなりません。不運にして同級生19人が亡くなり、本人達はさぞかし無念でありましょうが、幸運にも生存された同級生の皆さんが、縁は薄かったとは言え、終生、犠牲になった19名の級友を思い、悼み続けて頂いていることを、遺族の一人として感謝の気持ちで一杯です。)
これには、予期せぬ嬉しい後日談がありました。
平成19年5月のゴールデンウイークに長崎に帰省した時に、諫早市の義兄宅に立ち寄り、そこで、珍しいものを見せると渡されたのが、63年前に亡兄が東京の友人U氏に出していたハガキでした。消印の日付は20.7.28となっている。
何故、義兄の家にそのハガキが戻ってきたかと言うと、亡兄と義兄と友人U氏は旧諫早中学の同級生で、私の姉が義兄の妻になっている。U氏は自宅の保管書庫を整理していたら、くだんのハガキが出てきて、これは亡兄の実妹でその夫である義兄宅へ帰してやろうと思い、ほんの数日前に送られてきたばかりだった。
私には兄の形見になるものは何ひとつ無く、義兄宅にある旧中学時代のアルバムぐらいで兄を偲ぶすべはないが、亡兄の直筆の文字と文面に接し、ふと急に、兄に近づいた思いがして、そのハガキを精読しました。
(謹啓 御便り有難く拝見致しました。小生も無事暮らして居ります故 他事乍らご安心下さい。―中略― 此ちらは7月31日が入学式で8月1日から動員らしいです。 5月から7月現在迄学校で授業を受けただけ 自分達の得だった思って居ります。−中略― では又 匆々)
おや? これは学校で2ヶ月ほど授業を受けたと本人が言っている!
高木先輩からは、入学式7月31日、翌8月1日から学徒動員で学校の授業など受ける時間はないと聞いたが、物的証拠品のハガキが出てきて、本人が言っているから短期間でも授業を受けたのは間違いない。そう云えば、兄の平戸小屋町の寄宿先は、実は従兄夫婦の新婚の家の二階であった。伯母は未だ田舎で健在に暮らしていて、先般、帰省した際に、当時兄は学校に行ってたことはなかったの?と聞いたら、時々行っていたように思うとは答えてくれていた。
また、彼女から、みつちゃん (兄の愛称) は、数日来、お腹の調子が悪く、実家に帰って養生していたが、完治しないまま、長く休むと学校に済まないからと、8日に長崎に戻り、翌9日に茂里町工場に行って被爆殉難したのよ、との秘話を教えてくれました。
先に畑野昭雄先輩が、まえがき、のところで述べられていた、(―しかし、勤労動員されていない者については、既に5月15日に終わっていたというように我々の入学式は極めて変則的なものでありました。―) という部分に当たり、5月から授業が受けられた学生もあったのではと想像しています。
確か、兄は一浪して長崎高商に合格していると義兄から聞いたので、あるいは浪人には学徒動員令は無かったのかともと思っています。
いずれにしても、兄が学校の授業の受講が皆無でなかったと知って、私はいくらか救われた気持ちになりました。
U氏がハガキを63年も廃棄せず保管して、しかもゆかりの我々妹弟のところに返して下さったことに感謝しています。
ハガキは姉から私へと譲り受けて大事に保管しています。
瓊林会には直接関係はないが、U氏のことに触れることを許して頂きたい。U氏 ( 旧姓下釜 ) は元医師で、今は引退されて東京に住んでおられますが、兄とは小学校からの無二の親友で、旧中学から東京の順天堂大学医学部に進み、医者として大成し、郷土の温泉開発事業の資金を寄付し、彼の名前が冠された温泉が開発され、広く利用されています。
(増補)
今般、私がこの一文を著わすということで、原本の「原子雲の青春」を高木先輩から送付頂き、残余の全編を拝読しました。被爆の実態の惨状がまざまざと語られていて、地獄絵を見る思いがして涙を禁じえません。
尚、サイズは珍しいA5、400頁余に亘る被爆体験集、関係者寄稿文、参考資料、写真等が満載された内容、装丁も立派で充実しています。
発刊に寄せてーの寄稿文の当時の瓊林会長で同じ経専41回生である土井定包氏は、経専3年生は三菱長崎造船所、2年生は三菱長崎兵器製作所大橋工場、1年生は前述の通り三菱兵器製作所茂里町工場と日見トンネル工場に動員されていたと述べられている。
企画から刊行までの約3年間の刊行世話人8人による資料収集、企画・編集会議、校正作業等のご苦労が偲ばれる。尚、書名「原子雲の青春」は片山正彦氏の提案を採用、表紙絵は林田薫先生に依頼、題字は種吉義人氏が担当、印刷は岩永義人氏の協力によるとある。 (完)
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(注)この一文は「大阪瓊林96号」(H21/6発行)に投稿したものです。

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「大阪瓊林」 俳句吟行七句
学12回 上原 充(俳号 桐木)
○ 墓名碑に兄の名捜す原爆忌
自解(原爆投下から63年目の平成20年8月9日、当時長崎高商1年生の次兄が学徒動員で三菱兵器工場にて犠牲になり、その兄の名前が文教町の三菱重工業鰍フ社員寮の地にある千余人の殉職者が刻まれた芳名碑の中にあるのを知り、同社主催の慰霊祭に初めて出席し、兄の名前を確認した)
○ 温顔の姉召されけり寒昴(カンスバル)
(数年間闘病生活を送っていた長姉が平成20年9月、83歳で逝った。生前は五 月蝿(ウルサ)いと思うことがしばしばだったが、死に顔は穏やかだった)
○ 吉報の突然来たる菊日和
(平成20年10月8日、ノーベル化学賞を下村脩氏が受賞とのニュースが舞 い込んだ。同氏は母校旧諫早中の先輩で、また私とは母親同士が従姉妹で
、実家は諫早市長野町にあり、血が繋がった親戚に当り、名誉この上
ない吉報であった)
○ それぞれの胸の炎(ホムラ)や大文字
(毎年8月16日には京都五山の送り火・大文字が催される。私の母も京都の病 院で30年前に亡くなり、お骨は田舎の諫早市飯盛町に埋葬したが、京都の東山 の寺にも分骨した。大文字焼きを眺めると母への思いが募る)
○ 風死すや寺町を行く黒き猫
(平成20年8月、長崎の寺町にある黄檗宗興福寺を訪ねた。ここには高浜虚子
、
高商の先輩・森澄雄等高名な俳人の句碑がある。訪問の途中で詠んだもの)
○ 近江路に翁の墓碑訪う石蕗日和(ツワビヨリ)
(俳聖松尾芭蕉の墓所は大津市膳所の義仲寺にある。芭蕉は木曽義仲の 末路に同情し、自分の墓は義仲の傍にと門弟に言い残した。同寺は伽藍も なく、貧相な庵があるだけの狭い敷地に、翁の墓碑は義仲のそれと背中合 わせに密やかにある。併せ、(行く春を・・)、(古池や・・)、(旅に病み・ ・)の代表三句碑も建つ)
○ 宍道湖(シンジコ)は薄墨色や秋湿り
(平成20年10月、5年ぶりの同期生7名参加の1泊2日の米子ツアー。米子市 在住の西本輝昭君の案内で、鳥取県境港市の鬼太郎通り、島根県出雲 市の出雲大社、大田市の世界遺産の石見銀山、安来市の足立美術館等を観 光し、山陰の旅を満喫した。車窓より眺めた宍道湖は静かな佇まいを見せ ていた)
(平成21年2月1日記)
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