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 以下は1995年に『東興新聞』(東興通信社)に掲載していただいた私の記事の一部です。


『"悪魔"君とコンピュータ』


 「悪魔」君命名に関して論議に花が咲いた。親に対するもの・役所に対するもの・その
他一般論(自分の名前を引き合いに出しているものなど)等様々な視点からの意見を聞く
ことができて興味深かった。どれもこれも先輩諸氏の経験に基づく正論であり、普段の何
気ない生活も見方を変えれば得るものも大きいことを痛感した。
 コンピュータを使ったシステム開発に携わっている私にとって、中でも考えさせられた
のは「役所の柔軟な対応」である。親の申請は法律上は何ら問題がない。また”悪”も”
魔”も当用漢字だから文句のつけようがない。こういう制度をコンピュータ・システム化
した場合、「悪魔」君は問題もなく受理されてしまう。今回のような「他人の子供の行く
末までも心配する配慮」は機械化のなかで忘れさられがちである。例えば駅の自動改札機。
あるいは銀行のキャッシュ・ディスペンサー。便利になり、省力化・合理化を促進した反
面、思いやりのある柔軟な対応を失ったのではないだろうか?
 合理化は”お役所”だって例外ではない。様々な申請手続きはこれからどんどんコン
ピュータ化されるでしょう。そして機械的な処理によって「悪魔」君が社会問題にもなら
ずにあっさり受理されてしまうとしたら、その方が大きな問題である。悪魔君に対する役
所の対応は「出過ぎた行為だ」という意見もあるが、常識ある人間の配慮のこもった行為
として私は絶賛したい。と同時に「決まりがすべて」という機械的な原則主義に警鈴を鳴
らしたい。


『夢のある生活』


 面白い話を聞いた。ある部族の話である。要約するとつぎのようだ。「例えばトラの夢
を見て翌日風邪をひいた。何年後かにトラの夢をみてまた風邪をひいた。また何年後にト
ラの夢を見たら、それは風邪の前兆だから対策を打とうと考える。できるだけ情報を得よ
うという積極的な態度の中に夢も含まれているようだ。夢は人間に知識を与えてくれる教
室のようなものだから積極的に学ぶようにしなさい、という教えを大切にしているの
だ。」
 天気予報というものを持たない彼らは天気までも夢で判断しているそうだ。むろん、私
達は天気の判断材料として天気予報を持っているから、そんなことはしない。しかし誰し
も同じ夢を何度もみたという経験はあるはずだ。私はいまだに受験の夢をみる事がある。
振り返って見るとやはり風邪をひく前兆だったりする。体調の微妙な変化が同じ夢をみさ
せるのか?
 巷の「ヘビが出てくるとお金持ちになる」的な夢判断は”ユメのない”私には信じ難い。
しかし体調の変化が夢に影響するというのはありそうな話だし、活用できれば寝込まずに
済むかもしれない。夢に関してその様な意識を持つと、ちょっと新鮮な生活になりそうな
気がする。それだけの心の余裕を持っても損はないだろう。
 双子の姉を持つ我が妻などは「姉が夢に出てきた。困っているみたいだから電話してみ
る。」と当然のごとく電話口に向かう。それでちゃんとツジツマがあうのだから不思議だ。


『ダイバーを志す人へ』


 ペリリュー島での6人ものダイバーの遭難は記憶に新しい。経験を積んだ上級ダイバー
もいたらしい。だからスキューバ・ダイビングは危険だ、という短絡的な事と言い出すつ
もりはない。”それなり”のダイビング経験者として、これから始めようとしている方々
(あるいはそのまわりにいる方々)へお話したい。
 近年、ダイビングを趣味にしている人は珍しくなくなった。またダイビングショップの
方も「泳げなくても大丈夫」とか「体力に自信が無くても平気」といった甘い言葉をささ
やく所がある。特にバブル崩壊後、苦しい経営からか悪質なショップほどこの傾向が強い。
 泳げなくても大丈夫とは語弊のある言葉である。確かに泳げなくても水中で呼吸できる
仕組みにはなっている。しかし波打ち際で足元をすくわれたりといった危険が常にある。
泳がなければならない場面が必ずある。良識あるダイビング団体ならCカード(ダイビン
グ技術を認定した認定証)を取得の際、泳力チェックがある。泳力チェックをしていない
とすれば問題だ。
 体力に自信が無くても平気というのも胡散臭い。水中ではなるほど重量をあまり感じな
い。しかし空気タンクや、浮力のある体をムリヤリ沈めるための錘を含め十〜十五キログ
ラムの装備を付けているのである。それで滑りやすい岩場を歩かなければならない事だっ
てあるのだ。強靱な肉体はいらないにせよ、それなりの覚悟は必要だ。
 ダイビングを始めようという人は外向的な人が多い。動機はどうであれ、普段の生活で
は体験できない環境へ飛び込もうという意志がある。その意志は尊重すべきである。その
ためにもここで触れたような甘い言葉には充分注意して欲しい。
 そして晴れてダイバーになった暁には、遭難取材のテレビカメラに対して笑顔で手を振
るような配慮の無い行為は決してなさらぬように


『オリンピック雑感』


 ワールド・カップなどの国際大会がめじろ押しの近年、金のかかるオリンピックのあり
かたも問題視されているが、世界の一流どころが競う光景にはやはり圧倒されてしまう。
力の差がほとんどない業師たちの、レベルの高い駆け引きのため、寝不足の日々が続いた。
 ただ報道の仕方に一つ気になる事があった。日本だけなのかは定かではないが、メダル
獲得の可能性のある選手の場合には、その実家だとか出身地の公民館だとかにマスコミが
押しかけて行って肉親にマイクを向ける...そんな場面がやたら目についた。
 考えてみると最近のスポーツではこのような場面ばっかりである。大相撲で、力士が大
関に手をかけるような大一番。サッカーで、ワールド・カップ出場をかけた一戦。家族が
バンザイしたり、ガックリ涙を流したりしている場面が必ず出てくる。確かに”よろこ
び”や”落胆”を手っ取り早く表わすには格好の素材かもしれないが、あまりにも安易す
ぎやしないか?
 技術の結集であるスポーツを、薄っぺらい”エピソード”や”美談”というオブラート
にくるんでしまった結果、スポーツが”ワイド・ショー”化してしまった。選手の技術レ
ベルよりもお父さんのキャラクターの方が話題になったりするご時世である。「根性!根
性!」と精神論を唱えるより”健康的”かもしれないが、技を競い・楽しむというスポー
ツの「純粋性」が薄められた気がしてならない(そういえば、ケリガンやハーディングは
ワイド・ショー的興味が先走って、演技がどうだったかなど忘れさられたようである)。


『オリエンテーリングのすすめ』


 たぶん、1度や2度は遠足などでオリエンテーリングをやった経験が御有りだと思いま
す。大雑把に言えば野山や公園といったフィールドにある目印を捜し出すスポーツですが、
コンパス(方位磁針)を使う印象が強いため、取っ付きにくく感じる方も多いようです。
 しかし、一般的なコースではコンパスを使わなければならない様な場面は希です。むし
ろ重要なのは「地図を読む」ことです。そもそも自分の現在位置が分からなければ、コン
パスはあまり役立ちません。地図上での道の形状・建造物の位置などと実際の景色を比較
し、つねに自分のいる場所を意識して目印を捜すのがコツです。コンパスは、道がいくつ
にも分岐している場合に、道の延びている方角を確認するための補助的な道具として使う
ものです(もっとも上級者は道など歩きませんから、最短距離で野山を突っ切るためにコ
ンパスを使ったりしますが...)。
 地図は、日頃使っているものと大差ありません。案内図などで人との待ち合わせ場所に
たどりつく事ができた人なら簡単に始められます。高尾山にはオリエンテーリングのパー
マネント・コース(オリエンテーリングの愛好者が好きな時間にプレイできるよう、常時
目印のポールを立てているコース)があり、初心者が楽しめるようになっています。高尾
山のコースは見晴らしがよく、私が経験した中でも十分満足なコースでした。健康と心の
リフレッシュにどうでしょうか?


『救急法について』


 何という題名かは忘れたが、あるエッセイの中で畑 正憲氏が医学を学ぶことについて、
自分の子供が盲腸になった時おろおろしている父親よりは腹を開いて処置できる父親であ
りたい、という様な動機を述べていた。
 ここまでする人は少ないと思うが、この季節、自分の身内が水の事故に遭った時の対処
方法は知っておくべきだろう。救急法を知っていれば不幸に至らずに済む場合も少なくな
い。そういう時こそ”おろおろしている父親(あるいは母親...)”よりも”処置を施
せる父親”でなければならない。
 とは言っても、「プールや海に行く機会なんてたかが知れているし...」と水難事故
がまだピンとこない人はこの事実をどう思うだろうか? − 「溺死のトップは(プール
でも海でもなく)自宅の風呂場である。」
 救急法はマニュアルなどにもなっているが、実際に実習しないとコツがつかめない。心
臓マッサージはどのくらいの強さで押すのかとか、息を吹き込む強さとかは、かなり感覚
的なために頭だけで理解してもなかなかうまくいかない。一例をあげると、私の感覚では、
心臓マッサージの強さはテニスボールを押しつぶす感覚と酷似しているが、これはやって
みて初めて解ったことである(もっとも正常な人の心臓をマッサージするわけにはいかな
いので、実習用の人形での体験だが)。
 救急法の実習は赤十字やスポーツ施設などで行われているし、PADIというダイビン
グ団体でも一般の人達向けのカリキュラムを組んでいる(これは、メディック=ファース
トエイドと呼ばれている)。詳しいことはそちらまで

禁 無断転載 (C)1997 宮川 清嗣