| 「涼宮ハルヒの憂鬱」"あらためて"放送は終了しましたので、ネタバレレベルを改定します 台詞の記述はアニメ版を優先します。引用に付けたタイムコードはyoutubeにupされた動画のものを見て付けていますが、あまり精度はありません。 レベル0 : 「涼宮ハルヒの憂鬱」について全くしらない人でもOK。原作小説もDVDも前回放送も知らない人。 レベル1 : 1期放映分を視聴した人向け レベル2 : 文章が書かれている時点でDVDになっている分を視聴した人向け。 レベル3 : 「あらためて」放送分を視聴した人向け。 レベル4 : 原作「憤慨」まで読んだ人向け「長門さんの小説っていいよね」 レベル5 : 原作「分裂」まで読んだ人向け「『わたぁし』って誰?」
「もうみんな死ねばいいのに」を歌ってみた*なないろ.mp4 不穏ですねぇ。 【爽やかに】しねばいいのにを歌ってみた【K太】 危険、有害と思う人もいるでしょうね。コレを聴いて、星野之宣「ヤマタイカ」を思い出しました。内容ではなく、結論のほうです。まあ、戦争よりは「ええじゃないか」のほうが被害は少ないのかもしれない。 赤信号が点灯しているとき、赤信号を壊せば進めるだろうと考える人についていってはいけません。 火災報知器が鳴っている時、誤作動である事を確認しないうちに報知器を止めて安心してはいけません。ましてや五月蠅いから外してしまえと考える人を良識人とみなしてはいけません。 あぶないのは報知器ではなく火事です。 アートは時代の先をとらえます。それこそがアートの社会的機能のはずです。美術作品ならば考えオチでいいのですし、作家自体もなにが来ているのか、はっきりとは見えていなくとも作品にはなります。しかしこれは歌で、しかもネット動画です。ぱっと聞いて共感できなければ即座に他のリンクをクリックされてしまいます。 私は、津波が来る2分前のような危機感を覚えます。 追記:思いのほかデムパな文になってしまったので補足します。 この曲が70〜80年代にあったとしたらどうでしょう。多分見向きもされないでしょう。おそらくは90年代でもだめでしょう。私はこの曲が心にすっと入ってきた事に、そしておそらくは私と同じ気持ちで動画コメント欄にコメントしている人がいる事に恐怖を覚えました。恐ろしいのは曲ではなく時代なのです。 作家だった(?)えらいひとが「小説とは違うんだ」と言う事を私は悲しく思います。それ、「俺の世代にも、あとの世代にも世に影響を残せる作品を書くことなどできない」と言っているのと同じじゃね?明治時代の読者は「近頃の若者は小説ばかり読みおって、けしからん!」と言われていた事をご存じないとも思えないのですが。 もうすこし追記:<以下けなします>私はブラームスの交響曲1番の第一楽章が苦手です。まるで---親しい人と並んで歩いていて、ふと目を逸らした瞬間に知人のいた場所を暴走トラックが走り抜けた事に気付かず、知人の方に向き直ってそこに誰もいない事を知った瞬間----のような猛烈な不条理感と焦燥にかられます。それと比べると、第4楽章のあの盛り上がりと歓喜ははるかに弱いんじゃないかと思います。あそこまで聴衆を恐怖のどん底に引き込んでおいてこのオチはないんじゃね、という感じ。</けなし終了> 私はそれでもこの曲を何度も聴きますし、なんだかんだいって好きなんじゃね?と聞かれたら否定しません。コンサートの券あげると言われたら喜んでいただきます(笑)。だからといって、私と同じ感想を持たれた方がいらっしゃればそのなかに「こんなグロな曲は絶対きかねえ!ブラームス氏ね(死んでるけど)!」と思われる方がいらっしゃるだろう事は否定しません、ですが不愉快だからと言って、こんな曲は聴けなくて正解だ規制してしまえというのはちがうんじゃねー?と思うのです。(10/04/02) さらに追記 上の文はたとえ話です。解りにくい文章で済みません(汗)。音楽を規制するという話ではないし、私の興味もそこにはありません。ただ、すくなからぬサイトやブログで「気持ち悪いから」「悪影響がありそうだから」「やりすぎだと思うから」規制して当然という意見を目にします。それに答えたつもり。ただ、こういう書き方をすると「俺様が楽しめてちょっと笑える作品さえあればいいんだ」みたいなセルフィッシュな意見が出そうな希ガス。 (10/04/08)
(下記の文章は1ヶ月ほど前に書いたものです。例の条例の件で凹んでいました) まだ「消失」は見ておりませんが、前回紹介のOld Dancer's BLOG様では圧巻のレビューがうpされております。(あちらのレビューまとめページはこちら) 風邪なのに急遽現場に休日出勤した等書かれていただけに、頭の下がる思い、というか馬力に感動すら覚えます。情熱的なファンに支えられてハルヒという作品はなんと幸せな事でしょうか。 あちらに妄想コメントをしてもブログ主てりぃ様にご迷惑をおかけするだけですので、(既に二回コメントしてしまいまして、自分がいかにデムパか身に染みましたorz)以降はお礼だけにとどめて、妄想はこちらに留める事にします。さて、 Uでは、「消失」と「編集長一直線」に深い関係が有った事が見えてきますし、象徴的な演出が面白いのですが、それについてはまた次回に。 Vでは、光陽園学院前のシーンは、「エンドレスエイト」の天体観測の再現なのではないかと思えてきます。 天体観測については、すでに荒っぽくはこちら(→09/07/14)に書いていますが、繰り返します。 「エンドレスエイト」では、毎回長門のマンションの屋上で天体観測が行われます。ハルヒの望みは宇宙人に出会う事であり、それが誰なのかも薄々気付いています。そしてその秘密を隠しているのがどうやらキョンらしい事にも。だからこそ長門のマンションの屋上でキョンに「いないのかしら、火星人」と聞き続けるのです。 キョンにはぐらかされたハルヒが眠ってしまうと、古泉はキョンに「耳元でアイラブユーと囁くんです」と提案します。キョンがハルヒに向き合えない事がループの原因だと気付いているからです。キョンに断られると古泉は「では僕がやってみましょうか」と言います。13話のこの部分は古泉の気持ちが垣間見える大事なシーンです(エンドレスエイトU 00;20;28)。 古泉は一瞬だけ険しい目つきになり「では、僕がやってみましょうか(=俺が取っちまってもいいんだぜ、チキンめ)」キョンの表情を見るとにっこりと笑って「冗談ですよ」、そのままハルヒの眠っている場所に背を向けてうつむき、目を伏せたまま「僕では役者が不足しています(=彼女が見ているのはお前だけだ)、涼宮さんをよけいに混乱させるだけでしょう(そのくらい解ってるさ、3年も見てきたんだから)」古泉の表情に込められた決意と悲しみをキョンは見続ける事ができず、目をそらします。 もちろん、長門こそがお前の望んだ宇宙人なのだと告げたとしても、「溜息X」のラストと同じようにハルヒには信じられないでしょう。そしてキョンが意を決して「アイラブユーと囁」いたところでハルヒの心を得る事は出来ません。おそらくは「恋愛感情なんてのは」「精神病の一種(憂鬱W 00;01;10)」と、はねつけられるだけでしょう。不思議の代わりに(真実を隠したままの)恋愛では駄目なのです。 そして、そのいずれの言葉もないままループは続きます。 このやり取りを長門は聞いています。普通の人間同士ならば、それだけで終わってしまうようなすれ違い。しかし、ハルヒの無意識はそれを600年間くりかえしています。宇宙人としての自分を求めるハルヒの言葉を、そして痛みに満ちた古泉の声を一万五千回も聞き続けた長門。彼女は知っています。ハルヒが聞きたかった言葉を。それは3人が七夕の夜にハルヒとキョンの人生に仕掛けた魔法の言葉。 「俺はジョン・スミスだ」 キョンにこの言葉が言えるならば、長門はハルヒが夢見続けた宇宙人に[なり、古泉は「うらやましいですね」と感服するしかなく(ネタバレ抑止)]なるのです。 長門も、ハルヒも望んでいただろう「ポニーテール萌えなんだ」も「俺の課題はおわってねえ」も「この映画は絶対成功させよう」さえも言えない状況。 今回は[長門が「やってみる」番なのでしょうか。]*) *)再現なわけないじゃん、その場に長門がいないんだし。とお思いの方も多いでしょう。[でも、カエルと球根が見ています。]詳しくは次回。 (10/04/03) -*- ハルヒ「あらためて」(二期)では、象徴的な演出が用いられています。 「溜息T/U」のペットボトルとBB弾については既に書きました(→09/08/28)ので、書き加える事もありません。 「エンドレスエイト」については、まとめては書いていないので、ここで書いておきます。 原作にある「お面」「たこ焼き」「セミ」「カエルのきぐるみ」に映像が与えられた事で、それらは象徴と暗喩としての意味合いを付加されます。 長門が宇宙人の「お面」を買うのは、ハルヒの望みを知っているから。自宅の屋上で15000回以上も「いないのかしら」「火星人よ」「UFO探しましょうよ」と、宇宙人を探し続けるハルヒの言葉を聞いているからに他なりません。*) デジャブのないエンドレスエイトT(12話)では「なんか感じるものがあったんだろ(宇宙人だけに)」ですがデジャブがあると「なんとなく世話になっている気がするから、それぐらい買ってやっても良かったんだが」に変わります。そしてそれは、ハルヒにとっては小さからぬ違和感です。彼女は”ねえ有希、あなた本当は宇宙人よね”とは聞けません。ハルヒにとって「お面」は、キョンと長門が隠し事をしていることを意味します。それはハルヒの意識下では"ホントは宇宙人だって言いたいのかな"から"キョンがお面を買ってあげたに違いない"に変化します。 「たこ焼き」「金魚」「線香花火」は、ハルヒの”みんなに楽しんでもらったら、本当の仲間になれるのかな?(そうしたら秘密をうちあけてくれるかも)”という気持ちです。括弧内は抑圧されています。 「セミ」は、ハルヒにとって一番大事な「団長としての地位」です。もしも本気で望む人がいるのなら、ハルヒはそれさえも手放してもよいという気持ちになっているのです。 長門は、ハルヒの心残りには気付いています。そしてキョンに一日団長になってもらいたいとハルヒが願っているだろう、それにもかかわらず蝉取り合戦で毎回一位がハルヒ、二位がキョンになってしまう事も知っています。 だから森林公園(原作では高校の裏山)にいないはずの超レア昆虫をキョンに見せ、”あなたがそれを望むならあなたを一位にできる”とアピールしているのですが、川原で毎回「いらね!」とつぶやいているキョンにはそれが理解できません。 しかし、一位になる事をハルヒに望まれていることには気付いているのでしょう。セミを逃がす瞬間「箱を開けたパンドラになった」きもちになります。 毎回、ハルヒはセミを逃がします。「逃がしてあげたら、将来恩返しに来てくれるかも」とは、”自分が一位になってしまったから望みが叶わない。自分の篭にセミがなければキョンが一位になり、一日団長の地位を譲る事が出来るのに”でしょう。しかし、ハルヒがセミを逃がせば他の団員も逃がしてしまいます。 ループを脱出したエンドレスエイト[(19話)は他の回と演出が異なり、セミが一匹だけキョンの網に止まります。この瞬間、一位になっているのはキョン。「箱を開けたパンドラになったような気分」の台詞もありません。誰も知らないうちにキョンは「一日団長」の権利を手にしていたのです。 翌日のバイトでは、ハルヒの望みは「カエルのきぐるみ」に姿を変えてしまいます。ハルヒは”キョンと長門はなにか隠している”から”キョンがお面を買ってあげたんだろう”に変えて納得しようとしたからでしょうか。 団員全員、なかでもキョンの労力できぐるみを手に入れた(いわばキョンにもらった)ハルヒは夏休みで一番の上機嫌になります。しかし、心のなかには不満がわだかまっています。きぐるみをいつでも着ていいと言われていた朝比奈さんが、その夜に涙を流す事になります。カエル=ハルヒの望みを、ハルヒの600年の心残りを受け取ってしまったからです。 北口駅前の緑の光のなか、4人はハルヒのつくりだしたループの中に閉じ込められている事を思い知ります。北口公園は虫篭なのでしょう。虫が光におびき寄せられる公園で、4人は膝を抱えて悩む事になります。4人の欺瞞がループを作り出している事にキョンは気付こうとしません。 翌日、長門のマンションでハルヒは「天体観測」をします。ハルヒが本当に知りかったのは宇宙人の居場所。しかし「もうあきちゃった」聞き出すことが出来なかったハルヒは眠ってしまいます。 翌日、いらだちをボールにぶつけるハルヒ。前日キョンは自分の望みに気付かず、長門は黙って、古泉は笑って誤魔化していた。どうすれば本当に信頼される団長になれるのか?なぜ本当の事を言ってくれなかったのか。ハルヒの不機嫌をキョンは感じ取ります。もうすこし気付くのが早ければハルヒの望みに気付けたのかもしれない。手遅れとおもいつつ長門になんで教えてくれなかったのか問いただしますが「私の役目は観測だから」と言われてしまいます。 さて、各回ごとの演出の違いにも象徴、というか小道具を使った演出があります。 夜の公園で4人が持っている「飲み物」は違っています。UVYZなし、W各自別々、Xお茶、[コーヒー です。 以前、Wでは古泉、Xではキョンが買ってきたのではないかと推理しました(→09/07/23)。各自の座っている位置と同様、団員同士の距離感と信頼感を現しているのでしょう。だとすると[の缶コーヒーもキョンがおごったのではないでしょうか。 もうひとつ、これははっきりしているのは「入道雲」です。各回、キョンの違和感とともにすこしずつ大きくなる「入道雲」。Wでは「飛行機」のイメージショットとともに、超えられない夏の思い出/ハルヒであることが示されます。 雲はXではついに夕立ちとなり、Zのバッティングセンターは雨。[ではカエルの両目に涙のように降り出した雨粒がついに5人を濡らしてしまいます。カエル(=ハルヒの望み)が雨に濡れ、キョンは雨(=涙)に濡れるハルヒを見つめます。 何をしてもハルヒの心を満たす事はできない。自分の言葉が、自らの欺瞞が、そしてキョン自身の心残りが夏を終わらせないのです。 以下「消失」映画版ネタバレ [「天体観測」と「消失」光陽園学院前について、キーになってくるのは「カエル」と「球根」ですが、おそらくは象徴的な意味があると考えます。きーぼー堂様のブログによると、実際にモデルになった学校の前の花屋さんには黒板があり、以前はカエルの像もあったとか。ただ、エンドレスエイトで「珈琲屋ドリーム」様看板の「夢」の文字や北口駅前公園の「止まれ」表示のように、実景にあったものを取り入れているのでしょう。カエルと球根は「天体観測」には参加していながら光陽園学院前にいない2人なのではないかと思います。]また、私は「電車」は、キョンとハルヒの想いだと考えます。 [ハルヒの居場所に向かって]キョンが右に走ると、電車がキョンを追い越す。(予告編 00;30;00) 右にいるハルヒが[左にいる男の正体に]気付くと、その視線の向きに電車が走る。(絶賛公開中編 00;00;18) すみません。現在超ダウナーなので途中ですがうpしてしまいます。また加筆する予定です。まだ映画を見ていないので各種資料とOLD Dancer's BLOG様のレビューからの想像で書いています。映画を見る機会が訪れたら修正します。 *)^ 「いないのかしら、火星人」なんて単に思いつきでしゃべってるだけだろ?と思われる方は「笹の葉ラプソディー」冒頭の「今日は何の日か知ってる?」からのやりとりと比較してみてください。ハルヒが心の中で”あんたって本当はジョンスミスじゃないの?3年前の事思い出しなさいよ”と思っていると想像すると、キョンに「今日が何の日か」でさんざん引っ張って、「七夕」の一言が出たあとはこの上なくハイな理由がよく解ります。これがハルヒの「さりげなく」です。 こんなにストレートだったらまた違った「憂鬱」になるような気がします。しかしキョンひでー。リンク先は「ねこうさプリン」様 (10/04/05)
.1. 市立図書館に行って、長門が読んでいた「たったひとつの冴えたやりかた(改訳版)」を読んできました。 スニーカー誌が置かれている図書館でこれを読むのはかなり恥ずかしいものがありましたが、そんな事を考えているのは私だけのようで(あたりまえだ)、同じ本を3回も検索しなおしたり、本を探して長時間うろうろしていた(厳密に分類番号順でなかったり、文庫本は別書架だったり、ハヤカワだけはさらにそれとも別の書架だったり、結局そこにもなくて改訳版が最初見た書架の大きい本の間にはさまってたり)間に同じ書棚を見に来ている人はだれもいませんでした。しかし、なんで本を読んでいるのがオッサンばかりなんだ。ショートカットの物静かな眼鏡っ娘は閲覧室にいませんでした。 まずは形式的な事を。 はるか未来、地球人は銀河の広大な領域に生存圏を拡大していて、そこには地球人類のほかにも多くの知性体が暮らしています。 レポート制作の為に図書館を訪れた若い異星人のカップルの為に、司書(これも地球人ではありません)は本を選びます。 カップルの片方は司書に、素晴らしい小説を選んでくれてありがとうとお礼を言います。すると次のページに「たったひとつの冴えたやりかた」とタイトルページが来て本編が始まります。 つまり、この二人が読む本が「たったひとつの冴えたやりかた」だという形式です。 異星人のカップルはラストにも登場して「たったひとつの冴えたやりかた」の感想を述べ、司書は新しい本を探しておく事を約束します。 司書が同作者の別長編「輝くもの天より墜ち」を話題にしますし、二人が読んだ本も史実を小説化したものだと紹介されますから、図書館のシーンは「たったひとつの冴えたやりかた」本編の未来に存在していると同時に、作者自身の作品世界なのだと言えそうです。 どうでしょう、長門さんがこの本を読んでいる理由が解る気がしませんか? その内容については簡単に書いておきます。 やたらポジティブシンキングな人類の少女コーティーがただ一人で冒険の旅に出、奇妙な知性体イーアのシロベーンに出会います。(イーアは生物の種族名。シロベーンが個体名。つまりTFEIの長門、ネコのシャミセン、人類のコーティー、イーアのシロベーン…です) シロベーンは動物の脳に寄生する優しく知性的な生物で、宿主との共存を望んでいます。 コーティーは自らの脳に寄生したシロベーンとともに、行方不明になった宇宙船を探します。次第にその遭難の原因がわかってきます。乗組員たちもまた寄生生物イーアと出会い、しかし共存に失敗した為だったのです。 親友と、そして自身を過酷な運命にさらしてしまった事に気付きおののく寄生者シロベーンをなだめつつ、勇気ある少女コーティーは「たったひとつの冴えたやりかた」を選択します。 .2. 『この小説を読み終える前にハンカチがほしくならなかったら、あなたは人間ではない』とまで言われる名作、だそうなのですが。あれ?私はロボットだったのかな?ちょっとじわっときた事は来たのですが・・・と思ってしまいました。 この作品に理解の難しいSF的ギミックは出てきません。コールドスリープ、超Cジャンプ(超光速航法)、メッセージパイプ(超光速で自動的に目的地へ飛んでゆく通信筒)およびG0型恒星(太陽と同じタイプの星)だけです。なので、専門用語はマクロスFより遥かに少ないですし、初回から独自用語の洪水なのにほとんど説明されない富野アニメに訓練されまくったアニメファンならストーリーを理解するのになにも心配はいらない、筈なんですが・・・・・・。 何箇所か感想の書かれているブログを巡っても、すげー!感動したという少数のブログのほかはピンと来なかった人も多いようです。 コーティーとシロベーンが出会う困難に対して、確かにああするしかない(ネタバレ抑止)なあと思いますし、その決断を受けいれる勇気に感動はしますし、寄生生物の設定と、主人公との奇妙な友情にはおおっと驚かされるのですが、状況説明が妙に駆け足で、なんでそういう設定なの?と感じてしまいます。 「イーアの寄生」は「性のめざめ」の寓意です。 15歳の、冒険は大好きだけれど恋愛には興味のない少女が、一人で辺境にでかけて文字通り「悪い虫」がついてしまうのだったり、 寄生体が宿主と会話する為に宿主の神経をあやつって声をださせるだの、その声がいつもの宿主の声と僅かに違うとか、宿主への賛意を示す為に体のほてりや幸福感を与えたりと、くわしく書くとネタバレが過ぎるので省略しますが、それはもう誤解のしようが無いくらい明確です。 イーアが宿主と共生するためには、若いイーアが「師匠」に、その方法を教えてもらわねばなりません。そうしなくては衝動を抑えきれず宿主を不幸にしてしまうのだという設定です。 しかもそれは、主人公コーティーがどんなに賢明で冷静で勇気があっても、寄生体シロベーンがどんなにやさしくて大人しい性格でも、成長の途中で「師匠」と別れてしまった以上どうしようもない事なのです。 う〜ん、なんでそうなる、とおもってしまいました。「私はシロベーンと出会って幸せ。昨日と違うおとなの私になれたわ!」でいいじゃん。 もしも、この作品が書かれた文化では以下の事が常識となっているのなら、この作品の設定は理解しやすいと言えるでしょう。つまり、 「人間は男女知性の有無や性格を問わず、しっかりとした性教育を受けることで、大人になる事の意味や情動との付き合い方を学ばなければならない。さもなければたとえ一人きりでいたとしても、自らの衝動に翻弄されて不幸になるだけでなく、まわりの人たちをも不幸にしてしまう」 例えは主人公コーティーが、自身を刺激して沈静を得る機械について教えられた事をおもいだし、それはべたべたしていやだったという数行の描写があります。しかもその事はこの後一切触れられません。これは寓意の一部だと考えなければ意味不明になってしまいます。 この機械は私たちの世界ではヒステリーの治療の為に発明されたものなのではないかと思います。日本では薬事法の規定上ジョークグッズ扱いになっている*)、というのが、いかにもこの件を象徴している、というか。 …えーっと。そんなものの使い方までアメリカの学校では教えるの?うーん。 でも、この機械が未来のSF的なガジェットではなく、現在も存在しているもので、なおかつ大人なら知っていて当然で「アメリカ人ならこれがどういうものか学校で習うだろ常識で考えて」ということだと考えなければ、この記述が著しく把握しづらいものになります。 だとするならば、この作品を理解しがたくしているのは日米の文化の違いなのではないでしょうか。 日本人の多くは、一人でいる人が自らの境遇を辛いと思ってもそんな事は所詮自己責任であり、そんな(いわゆる負け組の)彼や彼女の為になにか社会教育が必要だとは考えてはいないのではないでしょうか。 欧米でどうしているかは知りませんが、日本の電子掲示板では多くの人が「*ただしイケメンに限る」とか「あれ?俺のPC壊れてるのかな。モニタにキモイ顔が映ってて、電源を切っても消えないんだけど」「俺もついに魔法使い*2)だぜ」などとお互いの心を激しく傷つけあう事で慰めとするという、やりきれないような書き込みで埋め尽くされています。しかし、こことここの違いってどうなのよ。 .3. 話を戻します。さて、本来は上記のような事は、私なんかよりもSFのプロパーな人が書くものじゃないかと思うのですが、検索した限りではこの部分に踏み込んだサイトやBLOGは発見できませんでした。読めば分かるとお考えの方ばかりなのかな?まあそれはそれとして、当サイト的に気になるのは、なんでこの本を長門が読んでいたかという事。 殺風景な部屋で何年も暮らす宇宙人製のアンドロイド。長門、やはり、おまえにもあるのだろうか。/一人でいるのは寂しい、と思う事が。(ミステリックサイン00;22;54/原作退屈p.179は「長門、やはり、おまえ」→「無表情に見えるだけで、やはりこいつ」) と、キョンが長門の孤独を意識したのが7月。1期を視聴した時には、この台詞は「憂鬱V」で長門の説明を聞いての物だったのですが、今期では「笹の葉ラプソディー」のマンションで3年間の時間凍結を経験してのものに変わってしまいました。 七夕の夜、キョンは和室のふすまを開けた長門の潤む瞳を見つめ、受け取った短冊が退色しているのを見て、わずかな間に確実に3年の年月が経過していたことを知りました。そこに書かれた「私はここにいる」が3年の時を越えてハルヒから発せられたメッセージである事も、長門がそれをひとりで3年間守り続けてきた事も。 そして、この時から「消失」まで長門の体感時間では595年あります。キョンはその時間を数字としては知っていますが体験してはいません。15532回の夏休みの繰り返しから選ばれたのは、16話(エンドレスエイトX)のように長門の気持ちを思いやれるキョンではありませんでした。 その後長門が無視され続けた事は、もう繰り返し書く必要も無いでしょう。しかし、どうしてここまで長門は孤独なのでしょう。なぜ「エンドレスエイト」は8回も制作されなくてはならなかったのでしょうか。 私の下手な文章を読むより、この動画「Perfeito」をみてください。別にエロでもグロでも不道徳でもないのでご安心ください。アート系ですが理解しにくくはありません。 このアニメーション作品のテーマは「消失」「たったひとつの冴えたやりかた」と同じですよね。でもこれを見て主人公と同じ気持ちになれたでしょうか。「なにこいつwwwおかしいんじゃね?作者って変態のヒト?」と思いませんでしたか。 解説にHAFF2009(オランダアニメーションフェスティバル2009)と書いてありますから、オランダの人は納得できたのでしょう。でもあなたはどうですか?主人公の必死さをキモイと思いませんでいたか?少なくとも私には作れない作品だと思いましたし、お前に孤独感は理解できないのかと言われれば客観的にもそうではないはずですが、この作品に表現されているすさまじいほどの孤独感には入り込めませんでした。いえ、そのように言うよりも、「孤独感は悪しき事、劣った事。外に出したり他人に語るような事をしてはならない。恥をかきたくなければ忍耐すべき」と信じるよう仕向けられてきた為、ストレートに孤独感を表現する事が奇妙に思えてしまうのです。 なぜそんなに孤独なの?孤独だって言いたいの?と思うのはおそらく私だけではないでしょう。でもこの作品の作者やHAFFの審査員にとっては、独りだと苦しいのがあたりまえで、そしてその苦悩が創作に向けられたときどんなに大きなエネルギーをもたらすかも説明のいらない事なのです。 ならば、こう言うしかありません。「Perfeito」や「たったひとつの冴えたやりかた」が理解できない私の為に「消失」はある。15498回(原作の描写)と聞いて余りの桁外れに笑ってしまうあなたの為に「エンドレスエイト」は8話あった。 長門が「消失」でなにを得たのかは「消失」を見た/読んだ人には明確でしょう。しかし、それは(ハルヒとは違って、自分がなにをしているのか意識して)世界を滅ぼしてしまうほどの深い孤独を代償としたものでした。 .4. 「消失」においてコーティーとシロベーンは誰なのでしょう。「たったひとつの冴えたやりかた」が理解しにくいのは、シロベーンが脳に寄生するという設定自体もそうです。私たちは「大人のからだ」とはいいます。「こころとからだ」とも言います。しかし私たちは性教育に関連する文脈で「おとなの脳」という言葉は使わないように思います。いつのまにかおとなのからだになっている自分を意識し、それに順応するのがおとなになることだというのが多くの日本人の意識でしょう。しかし、体がおとなになったからといっておとなではなく、いつかおとなの脳になっている自分を意識するのだというのが著者の考えです。これがシロベーンです。 長門がキョンに抱いていたのは単なる「憧れ」「慕情」などという物ではありません。 「そう、たまになら」(射手座の日00;21;44) という長門の落胆の声を聞き、その表情(!)を見たハルヒを愕然とさせて、しばらく身動きができなくさせるほどの激しいものですし、 「んならこれから(ヒグマ鍋の)ヒグマの役やるわ」「え?ゆきちゃんが?」「だからあんた鍋の役やって」(サムデイ イン ザ レイン00;14;46) *3) という、どろりとした熱いものです。 キョンやハルヒが出会う事を拒んでいるうちに、長門は既にシロベーンに出会っているのです。 長門の「冴えたやりかた」とはどんなものでしょうか。世界を回復させる為に長門が作り出したものは銃でした。 ”あなたが受容れてくれないなら、せめてあなたの手でわたし(消失長門)を消して欲しい”しかもそれをライバルである朝比奈さんの見ている前で。 裏門前に現れた朝倉のしたことは、単に長門を守るためにしたことで、もともと長門はキョンを傷つけようなどとは思っていなかったのでしょうか。いいえ、こうなる事を予測できなかったはずはありません。事件自体は3年前から知っていたのですし、銃を持ったキョンが自分を止めに来る事も知っていたのですから。 ”わたしを受容れてくれなければ、あなたに生きていて欲しくない。わたしには耐えられても、わたしの自己愛(朝倉)がそれを許せない” しかもそれだけではありません。過去から来たキョンが目的を果たせなかった為、未来からもう一度同じメンバーで同じ時間に来なくてはならなくなりました。未来から来た長門に朝倉は 「あなたが望んだんじゃないの……今も……どうして……(陰謀p.25)」と言います。 「あなたが望んだ」事がキョンを殺す事ならば、1月2日の長門もまたキョンを殺したいと願っているのです。 598年かけて長門が得た人の心とは、凄まじいまでの孤独感と自らの存在を保証してくれる人への殺意でした。 *)^欧米と日本の感覚の違いについては、以下のAIDS予防啓発ビデオを見ると実感できます。どちらもアート系っぽいですが。まずは、 日本 見た事のある方も多いのではないでしょうか。眉をしかめた人や嫌な気分になった人は次の動画を見ない事を強く推奨します。 フランス お下品注意。なにせ文字通り便所の落書きだし。なんでファルス君が嫌われているのかは01;12あたりで明らかになるのですが、オチの直裁さには唖然とします。もしこのネタで日本人が描いても、このアクションにはならないでしょう。 *2)^ご存知の事と思いますが、こういうネタ。しかしマジレスしてる人ってなんなのよ。 *3)^漫才の「戦力外になった選手」=朝倉、相方=キョンなのでしょうが、「戦力外になった選手」=光陽園ハルヒ、相方=朝倉、ヒグマ=キョンと考えても暗黒長門で楽しい。 「クリスマス」の「鍋」が、朝倉のおでんとハルヒの鍋で対応しているのでしょう。ハルヒレッドのコートを着、ハルヒと同じ黒ソックスでハルヒの席に座る朝倉は消失長門にとってのハルヒ像。「消失」の選択とはどちらの鍋を食べるかでもあるのです。 しかし、朝倉おでんをヨモツヘグヒであると考えると、せっかく三つの鍵をそろえて呪的逃走をしても、もはやキョンは消失世界から帰れないはず。おそらく、ですがこの事に関係しているのは、最終日に文芸部室に向かうキョンのポケットから出てきたもの(映画版のみ)。そして長門の言葉「そうしなかったという保証は無い(消失p.242)」そして「わたしはあなたの母(分裂p.45)」という台詞。 「(ヒグマが)かわいそうになって食べられへん」「だったら鍋に入れるなって話」は、長門の迷いなのでしょう。残酷な運命と使命の狭間でためらいつつ消失の準備をする長門。その心のままに降る雨。それが「サムデイ イン ザ レイン」。キョンが長門のカーディガンを椅子に掛け、ハルヒの傘で帰った事は、インターフェイスとしての使命とひととしての感情のいずれにとっても、もはや「消失」しかないと長門に決意させるものだったのでしょう。ハルヒが望んだ「悪い宇宙人の魔法使い」が、この日、産まれたのかもしれません。 (10/04/19) |
→2010年5月分の雑記 IFF、「涼宮ハルヒの驚愕」先行掲載分
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