(大月書店国民文庫=447、『叙事詩 ウラジーミル イリーチ レーニン』 第1刷を電子化)


叙事詩
ウラジーミル イリーチ レーニン

ウラジーミル・V・マヤコフスキー 作



ロシア共産党に ささげる



時間だ、
レーニンの はなしを
わたしは はじめよう。

ちがう、
かなしみが
うせたからではない〔1〕

時間だ、
なぜなら
するどい かなしみが

あきらかな、
意識された いたみに
なったからだ。

時間よ、
ふたたび
レーニンの スローガンを
うずまきあげろ!

わたしたちは
なみだいけを
あふれさせるべきか?

レーニンは
いまも
全生者より いきいきとしている。

わたしたちの 知識は
ちからだ、
武器なのだ〔2〕

       *       *

ひとびとは こぶねだ、
おかに いるとしても。

その ときを
すごすうちに

たくさんの いろんな
きたない かいがらが

わたしたちの
よこばらに
へばりつく。

そこで、
あれる あらしを
つきぬけたあと、

太陽のそばに
すわりこみ、

海草の
あおい ひげ、

くらげの
あかい ねばを
あらいさる。

わたしは
じぶんを
レーニンのもとで きよめる、

革命 めざし、さらに
およぎゆくために。

わたしは おそれる、
この 数千行を、

こどもが
うそを おそれるように。

ひとは
あたまを
後光の そえものにするが、

わたしは おそれる、
それでは

ほんとうの、
ひいでた、
人間らしい、

レーニンの
巨大な ひたいが
かくされはしまいか、と。

わたしは おそれる、
行列とか
霊廟とか、

さだめられた
礼拝の きまりとかが

ねっとりした
聖油を

レーニンの
純粋さに
そそぎはしないか、と。

レーニンを わたしは まもるぞ、
おのれの ひとみのように〔3〕

あまったるい かざりで
けがされないように。

こころは 決議する ――
義務の 委任状により
わたしは かかねばならぬ、と。

       *       *

全モスクワ。
いてついた 大地は
うめきに ふるえる。

かがりびの うえには
よるから こごえた ひとびと〔4〕

かれは なにを した?
だれだ?
どこからきたのか?

なぜ
かれには
こんな 尊敬が?

ことばを つぎつぎ
記憶から ひきだしても、

どれにも
いえはしない、
おまえが ぴったりだ、と。

なんと まずしいんだ、
世界の
ことば製造所は!

どこに ある、
ふさわしい ものは?

一日は
二四時間、

一週は
七か、

一生は
かぎりあるもの。

死は
けっして ようしゃしない。

もしも
時間で まにあわず、

カレンダーでも
はかれないと、

わたしたちは
「時期」とか、
「時代」とか いう。

わたしたちは
よる ねむり、

ひるま
活動する

じぶんの ことに
あくせくするのが
すきだ。

もしも
みんなのために
あやつれる ものが いると、

わたしたちは
「予言者」とか、
「天才」とか よぶ。
わたしたちは
野心を もたず、

ひとが よばなければ、
うごこうと しない。

じぶんの つまに
すかれていれば、

それで
満足しごくなのだ。

もしもだ、
わたしたちと ちがい、

言行が 一致して、
すすむ ものが いれば、

「帝王の すがた」
と たたえ、

「かみの おくりもの」
と おどろく。

そう いってみても、
この 場合は
ちんぷんかんぷん

ことばは しばし ぶらさがり、
けむりのように きえさる。

なんにも
そんな かすからは
ほじくりだせず、

てにも
あたまにも
感じられはしない。

どうして
レーニンを
そんな 尺度で はかれよう!

だれもが
めで みて
しっているのだ、

この、「時代」の ひとが
とぐちを とおったとき、

あたまさえ
かもいに
ふれなかった ことを。

この レーニンにも
いえるだろうか、

「かみの めぐみの〔5〕
指導者」と?!

もしも かれが
いかめしく、こうごうしいならば、

わたしは
いかりを おさえきれず、

葬列を さえぎり、
礼拝を じゃましてやるのに。

とどろく のろいの〔6〕
ことばを
みつけだして、

わたしと
さけびが
ふみつぶされる
その とき、

さらに
ののしりを
うちあげ、

クレムリン〔7〕めがけ
爆弾のように

「ぶっーたーおーせ!」
と どなりつけてやるのに。

しかし、がっちりだ、
ひつぎのそばの
ジェルジンスキーの あしどりは。

いまなら
チェーカー〔8〕
もちばを はなれられよう。

いく千万の め、
この ふたつの めから

なみだの つららが たれ、
ほほに こおりつく。

かみへの
ありきたりの 敬意なら
めずらしくはない。

これは ちがう!

きょうは
ほんとうの いたみで
こころは こおる。

わたしたちは
ほうむるのだ、

この 大地を あゆんだ
もっとも 地上てきな 人間を。

かれは 地上てきだった、
しかし、

じぶんの 茶わんに
かじりつく ものではなかった。

世界を
そっくり
ひとめで とらえ、

時間に かくされた ものを
みぬいた。

かれは
きみや わたしと
まったく かわらない。

ただ、
たぶん、
わたしたちに くらべ

思想は
めの ふちに
もっと おおく しわを よせ、

くちは
もっと ひにくっぽく きびしく
むすばれていよう。

たずなを ならし、
がいせんの 馬車で

民衆を ふみにじる
サトラープ〔9〕の きびしさではない。

かれは
なかまには
なさけぶかく、
やさしく、

敵には
鉄よりも かたく
たちむかった。

かれは
わたしたちに なじみの
弱点を もっており、

わたしたちのようにして
やまいを 克服した。

たとえば、
わたしは たまつきで
めを こやすが、

かれは チェス〔10〕だ、
指導者には より有益なのだ。

そして チェスから
ほんものの 敵に
うつり、

きのうの 歩《ポーン》の ならびを
ひとびとに
あてはめて、

労働人間の
独裁を

牢獄である
資本の 塔《ルーク》〔11〕のうえに
うちたてたのだ。

かれにも
わたしたちにも
おなじものが だいじだ。

なぜに
かれから はなれてたつ
わたしが

よろこびに よいつつ、
この いのちを

かれの
ひといきのため
ささげたいのか?!

わたしだけでは ない!
なんで わたしが
ひとより えらかろう?!

さけばなくとも よい、
ただ くちを ひらくだけで。

そのとき だれが
むらから
坑道から

けんめいに
まえへ あゆみださないだろうか?!

さけと かなしみを
のみすぎたように
よろけながらも、

本能てきに
電車の 架線を
よける わたし。

だが、 だれが いま
わたしの くたばるのを
かなしもう、

この とほうもない 死を
いたんでいるときに!

ひとびとは すすむ、
はたを もつ もの、
もたない もの。

ふたたび
ロシアは
遊牧のくにに なったかのようだ。

円柱のひろま〔12〕
たえまなく ふまれて
ふるえている。

なぜだ?
どうして、
どういう わけだ?

電信機は
哀悼の うめきで
こえしわがれた。

ゆきの なみだが
はたの
あからんだ まぶたから。

かれは なにを した、
だれだ、
どこから きたのか、

この
もっとも 人間らしい 人間は?


       *       *

ウリャーノフ〔13〕の 生涯は
みじかく、

その 最後まで
よく しられている。

しかし、同志 レーニンの
ながい 生命は

くりかえしくりかえし
かかれねばならない。

ずっと むかし、
二百年ほどまえ

はじめて
レーニンについての
しらせが あらわれた。

きこえるだろう、
ブロムレイと グジョンの
おおじいさん ――

最初の 蒸気がま〔14〕
ふるい 時代を
つきやぶる

鉄と はんだの
さけびが。

資本陛下は
王座に つかず、
王冠を いただかなかったが、

いなかものの 勢力は
征服された、
と 宣言する。

都会は
かっぱらい、
かちあげ、
かきあつめて、

金庫の はらを
ふくらませたが、

機械の わきには
やせた、ねこぜの

労働者階級が
あらわれた。

そして、
煙突を
そらに つきあげて
どなった、

「おれたちに
なり金の みちを
つくらせている。

だが、おれたちに
うみだされ、
おくられて

いつか やってくるぞ、
人間が、
闘士が、
処刑人が、
復しゅう者が!」

そして、
けむりと くもは
まじりあった、

ちょうど
一連隊の
兵士のように。

やがて そらは
二重に なって、

けむりは
くもにおおいかぶさる。

商品は たまり、
こじきたちのまえに
そびえてゆく。

はげあたまの
支配人は

そろばんを はじいて
つぶやいた、
「恐こうだ!」

そして はりだした かみには
「くびきり」。

菓子は
はえの くそを
びっしり つけ、

こくもつは
つぶのまま
大倉庫で
くさってゆくが、

エリセーエフ〔15〕どもの
ショーウインドのまえには

はらぺこぺこの
失業者たちが うろつく。

貧民街の いぶくろは
こどもらの なきごえより

おとたかく
うなっていた、

「しごとでも、
鉄砲でも、
さあ、
この 両手に!

やってこい、
保護者よ、
あだうつ ものよ!」


       *       *

おい、
らくだ、
植民地の 開拓者よ!

おい、
鋼鉄の 艦隊よ!

進軍だ、
ほのおより あつい
砂漠で!

かみより しろく
あわを たてろ!

しゅろが なでる
オアシスには

くろい つぎが
あてはじめられる。

ほら、
こがねいろの 農場から

むちうたれた 黒人の
うなりごえだ、

「う、う、う、う、う、
う、う、う!
おれの ナイルよ!

うちあげろ、
あふれさせろ、
くろい 日びを!

よなかの おれよりも
くろくしろ!

大火を
おれの ちよりも
あかくしろ!

ぐらぐら たぎる
この コーヒーで

たいこばらの
くろも しろも にてやれ!

うばわれた
すべての
象の きばを

やつらの にくに、
心ぞうに つきさせ!

ながれる ちが
ひまごたちのためには
むだでないように、

あらわれろ、
太陽の かおの 保護者よ!

おれは もう だめだ、
しにがみに
てまねきされている。

わすれるな、
この のろいを、
ナイルよ、
おれの ナイルよ!」

氷雪の ロシアから
炎熱の パタゴニア〔16〕まで

時間は
搾取の 機械を
うちすえた。

イワーノウォは
ウォズネセンスク〔17〕
鉄面皮の でぶどもも

四行こうたの
どなりごえに うろたえた、

「おい、工場、おいらの 工場よ、
きいろい めんたまよ、
時代は よびまねいているぞ、
あたらしい ステンカ ラージン〔18〕を!」

       *       *

まごたちは
たずねるだろう、
「『資本家』って なに?」と、

いま こどもらが
「『お・ま・わ・り』って なに?」と
きくように。

かれらのために
一まいの かみに
かきとめよう、

資本主義の
一代の すがたを。

やつも
わかい ころには

わるくない、
うでのいい わかものだった。

はじめは
みずから はたらき、

労働で
シャツの むねを
よごしていた。

封建制度の はだぎが
きゅうくつになる!

いまの わたしたちに
おとらず
がんばった。

青春期の
資本主義は

いくつもの 革命で
みを かざり、

マルエーエズ〔20〕にすら
こえを あわせた。

かれは
機械を
くふうし、こしらえた。

ひとびとは
その 付属品だ!

かれは
世界じゅうに
ふやしまくった、

労働する
こどもたちを。

かれは いちどに
帝国と
貴族領を

かんむりや
わしとともに
かみくだいた。

聖書の めうし〔21〕か、
去勢うしのように
こえふとり、

したなめずりする、
その したは 議会だ。

としごとに
筋肉の はがねは
もろくなり、

よく こえ、
ふくれあがり、

やがては
じぶんの 帳簿のように
ずっしりと なった。

宮殿も つくったさ、
かつてない すばらしいのを!

えかきを ――
ひとりならず! ――
かべに はいまわらせ、

アンピール式の ゆかに
ロココ風の 天じょう、

かべは
ルイ一四世、
つまり カトールズ式〔22〕じゃ、とさ。

とりまくは
かおか、
しりか わからない

けつづらの
警察官たち。

えにも
うたにも
こころは うごかず、

はなぞのに たつ
うしのよう。

美学、倫理学、
そのたの がらくたは

まったく
かれの
こまづかいたち。

天国も
地獄も
かれの もの。

かれは
主《しゅ》の 十字架の
くぎの あなを、

聖霊の
しっぽの けを

ばあさんたちに
うりつける。

とうとう
かれも
そだちすぎてしまい、

かれのために はたらくのは
奴れいたち。

ためて、
くらって、
ねるばかりで

資本主義は
ふくれあがり、
うごけなくなった。

みうごきならず、
歴史の とちゅうで
世界に よこたわった、

じぶんの ねどこに
のびるように。

こいつは
どんなにしても
よけてはゆけない、

ただ ひとつの ては
爆破すること!

       *       *

しっているさ、
抒情詩人は
つらを しかめ、

批評家は
かけつけて
かぼそい むちを ふる、

「どこに こころがある?
これは まったく
演説だ!

どこに 叙情が ある?
社会評論に すぎん!!」

「資本主義」は
ぶすいな 文句で、

ずっと いきに ひびくのは
「ナイチンゲール」だ、と?

だが、わたしは
くりかえし
「資本主義」に もどる。

詩を かかげるぞ、
煽動の スローガンとして!!

わたしは かくだろう、
あれについても、
これについても〔23〕

だが、いまは
恋愛を だべる
ときではない。

わたしは
詩人の ひびく ちからを
すべて

きみに ささげる、
攻撃する 階級よ。

「プロレタリアート」――
ごつくて みみざわりだろう、

共産主義が
わなである
ものには。

わたしたちにとって
この ことばは
ちからづよい 音楽、

死者さえも
たたかいに
たたせる しらべだ。

       *       *

ビルディングは
ふるえながら ちぢかんだ。

地下室の さけびが
うえに あがってゆくのだ、

「おれたちは 突進するぞ、
そらの
あおい ひろがりに。

この いしの あなを
つきぬけるぞ。

あらわれるのだ、
この いたどこから、

労働者の むすこ、
プロレタリアートの 指導者が。」

資本家どもには
すでに
地球は ちいさくなった。

そして、
ふくれきった
資本の でぶは

ゆびわで おもたい
両手を
のばし、

たがいの ふとのどの
つかみあい。

かちんがっちん、と
鉄の
ぶつけあい。

「ぶちころせ!
ふたりの ブルジョアには せますぎる!」

どこの むらも
共同墓地、

どこの まちも
義足工場。

戦争 おわり。
テーブルには
ごちそうの やま。

勝利は
うまい おおまんじゅうさ。

「きけ、
はかばの 腹話術、
まつばづえの カスタネットを!

ふたたび
おれたちに
であうぞ、
ほんとうの たたかいで。

こんな つみを
時間は
ゆるすものか。

かれが あだを うつ、
かれが やってきて、

おまえらと
おまえらの 戦争に
戦争を
宣言するんだ!」

地上には
なみだの うみが
ひろがり、

ちの ぬまが
とおせんぼする。

孤独な 空想家たちは
研究した、

不可能な
ユートピアの 建設を〔24〕

また、慈善家の ゆめは
現実に
うちくだかれた。

ほどこしの こみちが
百万人の 大道で
あるものか!

すでに
資本家じしん
無力なのだ。

だから
かれを
機械が ふりまわしだした。

かれの 制度を
かれはのように

恐こうと
ストライキの 混とんが
もてあそぶ。

「だれの ふところに
金の ながれとなって
おれたには ながれているのか?

だれと あゆみ、
だれに たちむかうべきか?」

じぶんじしんを
理解するため

千万人の 階級は
めを みひらく。

       *       *

時間は
資本から
とけいを
うばいさり、

探照燈の かがやきを
けしさった。

こうして 時間は
きょうだいの カールを
うんだ、

レーニンの
あにである
マルクス〔25〕を。

マルクス!
肖像の
白髪の わくが みえてくる。

その 印象は
かれの いのちから
なんと へだたっていることか!

ひとびとが みるのは

大理石に とじこめられ、
石こうで ひやされた
老人だ。

しかし、
労働者たちが
革命の 険路に

第一歩を
ふみだしたとき、

マルクスは
なんと はげしい
ほのおで

あたまと むねを
もやしたことか!

どの 工場にも
じぶんが
はたらいているように、

どの 労働にも
みずから
あせたらしているように

剰余価値の
搾取者たちの てを

現行犯として
かれは ひっつかんだ。

ひとびとが
おどおどして、

株屋に
あたまを あげえない ところで

ふくれきった
金のこうし〔26〕

階級闘争で
うちころすよう
かれは 指導したのだ。

わたしたちは おもっていた ――
偶然の なみが
ゆれながら、

わたしたちを
共産主義の いりえに
なげこむのだ、と。

マルクスは
歴史の 法則を
あきらかにし、

プロレタリアートを
その かじとりにした。

マルクスの ほんは
活字の べたずり、

あじけない
数字の 行列では ない。

マルクスは
労働者を
たちあがらせ、

数字より ととのった
隊列として
みちびいたのだ。

みちびきつつ
かたった、

「たたかいつつ
たおれよ!

行動こそ
理論の
校正だ!

やってくるぞ、
偉大な 実践家が
やってくる。

かれが みちびくのは、
戦場でだ、
紙上ではない!」

思考の うすで
最後の つぶを
ひきながら、

あおじろい てで
最後の ページを
かきながら、

マルクスは みたのだ、
クレムリンの すがたを、

あかい モスクワのうえの
コミューン〔27〕の はたを。

ときは 熟しゆき、
熟柿《し》のようになった。

プロレタリアートは
そだち、
こどもではなくなった。

資本の
けわしい とりでも

おおなみに あらわれ、
くだかれる。

数年の
あいだに

いくども 雷雨が
成長の さけびを
あげる。

いかりは そだって
反乱と なり、

その 爆発のあと
革命が
そだちゆく。

だが、ブルジョアの
けだもの気質も
すさまじい。

チエールどもに やられた
先祖たちは
いかり、うめき、

かれら、
パリ コミューン戦士の
かげは

いまも
パリの かべ〔28〕のまえで
さけんでいる、

「きけ、同志たち!
みろ、きょうだい!

孤立は みじめだ、
おれたちに まなべ!

共同で 爆破しろ!
党によって やっつけろ!

労働者階級を
ひとつの
こぶしにして!

「わたしどもは 指導者です」――

こう おっしゃる かたは
じつは
まやかしもの。

文句で かざった
ばけのかわを
みやぶろう!

ちがう 指導者が
あらわれるだろう、

わたしたちと
すべてを わかちあい、

パンよりも かざりけなく、
レールよりも まっすぐな ものが。

       *       *

階級、
階層、
信仰、
言語の
混合体として

大地は
ルーブル〔29〕の くるまに のって
うごいていた。

資本は
矛盾の はりねずみとして

すっかり そだち、
ごっつくなり、
銃剣を はやした。

共産主義の
ゆうれいが
ヨーロッパを うろついた〔30〕

きえさり、
またも
とおくに あらわれ……

まさに このようにして
シンビールスク〔31〕の かたすみに

ふつうの こども、
レーニンが
うまれたのだ。










わたしは
ある 労働者を しっていた。

かれは 文盲で
アルファベートの あじも
しらなかった。

しかし、かれは
レーニンの はなしを きき、

すべてを
理解していた。

わたしは
ある シベリア農民と
はなした。

かれらは
部落を うばいとり、

銃を もって まもり、
楽園に かえた。

レーニンの
ほんも よまず、
はなしも きかなかったが、

かれらは
レーニン主義者であった。

わたしは
くさも はえてない
やまやまを みた。

ただ くろくもが
絶壁に うつぶしているだけ。

だが、百キロもの あいだに
ひとり たつ やまおとこの

ぼろふくは
レーニンの 記章で
かがやいていた。

ひとは いうかもしれない、

あれは
ピンが めずらしいからさ、と。

おじょうさんがたは
おしゃれで
そういうのを さしている。

だが、かれには
ピンが とめられているのではない、

記章となって
シャツに やきついているのだ、

イリーチへの 愛に みちた
こころが。

これは
教会スラブ語の
かぎ音符〔32〕では
説明できない。

かみが
レーニンに
命じたのではない、
「えらばれし ものに なれ!」と。

人間の あしで、
労働者の てで、
じぶんの あたまで

かれは
その みちを
あゆみぬいたのだ。

       *       *

うえから
ながめてみろ、
ロシアを。

おおくの かわが
あおく きらめいている、

いく千の むちが
とびはねたように、

せなか一面の
きずのように。

だが、農奴制ロシアの
あざは

はるの ながれより
もっと あおいのだ。

よこから みてみろ、
ロシアを。

どこへ
めを むけようとも、

やまやま、
流刑地と 鉱山が
そらに つったっている。

だが、そこでの 苦役《えき》より
もっと つらいのは

機械のそばの
奴れい労働なのだ。

ロシアより ゆたかな
くにぐに、

もっと きれいで、
文明てきな くにを
わたしは みた。

しかし、ここよりも
くるしみおおい 土地には

まだ わたしは
おめにかかったことがない。

そうさ、
どんな びんたでも
わすれられる というものではない!

さけびは つよまった、

「たて、
土地と 自由のために〔33〕!」

孤立の
反逆者は
爆弾と
ピストルを とった。

皇帝に
一発 ぶちこめたら
いいさ!

だが、もしも
車輪のそばに
ほこりを あげるだけならば?!

皇帝暗殺の
計画者として

レーニンの あに、
「人民の意志」党員

アレクサンドルは
とらえられた。

ひとりが やられれば、
つぎの 皇帝は
いかりくるい、

たおれたものに
ごう問で
たちまさろうとする。

こうして アレクサンドル
ウリャーノフは
くびられた、

シリッセルブールク囚人の
千人めとして〔34〕

そのとき
一七さいの イリーチが
かたった ことばは

兵士が
挙手して のべる
ちかいよりも かたい、

「にいさん、
ぼくらは いま
きみと 交代できるぞ。

そして 勝利する、
しかし、
別の みちによって〔36〕」!」

       *       *

記念碑を みたまえ、
英雄たちの 種族を。

ゴーゴリ〔36〕風に そそりたつなら、
はなわで たたえたら いい。

そんなのではない、
イリーチが かたに せおったのは

したづみの、
日常の 偉業だ。

かれは 熔鉱炉のそばに
いっしょに いて
おしえる ――

賃金を
五カペーク〔37〕 あげるには
どう すれば いいか、を。

しかし、ちいさい 改良が
最終目標ではない。

勝利しても
そこに とどまるな、

ひとつの
そうじされた
みずたまりに。

社会主義が 目的、
資本主義が 敵。

だから、ほうきでなく、
銃が 武器なのだ。

くりかえし くりかえし
おなじ ことを

かれは
がんこな みみに
たたきこみ、

あくるひには
理解した ふたりの てを

たがいに
つなぎあわせる。

きのうは 四人、
きょうは 四百人。

いまは かくれていても、
あすは 公然と たちあがり、

四百人は
いく千人と なる。

世界の 勤労者を
反乱で よびおこそう。

わたしたちは もう
みずより しずかでなく、
くさより ひくくない。

勤労者の
いかりは
くろくもに かたまり、

イリーチの パンフが
いなずまと なって
きらめき、

宣言と びらが
あめあられと
ふりそそぐ。

くらかった 階級は
レーニンに ぶつかり、

そこから あかるくなって
ながれだした。

大衆の
ちからと かんがえに
やしなわれ、

階級とともに
レーニンは
成長した。

そして、少年 レーニンが
ちかったことは

すでに
事実に かわった、

「わたしたちは
ばらばらではない。

わたしたちは
労働者階級解放
闘争
同盟である〔38〕

レーニン主義は
イリーチの きたえた
生徒たちによって

さらに とおく、
さらに ふかく
ひろがってゆく。

はてしない ウォロジーミルカ〔39〕
ほこりと ぬかるみに

地下活動の 英雄精神は
ちで かきこまれた。

いまは わたしたちが
地球を まわしている。

しかし、
クレムリンの ひじかけいすに
すわっていても、

法令のかげから
ネルチンスク〔40〕
ふと ひびかせる

くさりの おとを
きかないものは
わずかだ!

それから
あの
とぶとりの みち〔41〕が おもいだされよう。

獄房の
のぞきあなのむこうには

電車に のった
生活の はやがけ!

わたしたちのうちの
だれが

鉄格子を
かきむしり、
かじらなかっただろう!

しめつける いしかべで
あたまを くだけば、

そのあと
獄房は
あらわれ、
そうじされた。

「きみは きよらかな、わかい いのちを

祖国の 幸福のために ささげた〔42〕。」

この うたの
沈痛な ちからが

どこの 流刑地で
レーニンの
きに いったのか?

       *       *

あるものは
こう いった、

「百姓は
じぶんの みちを あゆみ、

社会主義を
つくるよ、
質素で、単純な〔43〕。」

ちがう、
ロシアにも
煙突の つのが
たくさん あって、

都会は
けむりで ひげもじゃらだ。

どうか 天国に
おはいりください、と
まねかれるものか!

ブルジョア階級の しかばねを
共産主義で ふみこえるのだ。

一億農民の 案内人は
プロレタリアート、

その かしらは
レーニンだ。

リベラリストや
すばしこい 社革党員《エセーリク》は
あれこれ 約束するが、

じつは
労働者の くびに またがりたいのだ〔44〕

レーニンは
かれらから
美辞麗句を
のこらず はぎ、

その 議論の
貴族てき 本質を
あらわにする。

わたしたちには
もう いらないのだ、

自由が どうの、
みんな きょうだいだの、
という むだばなしは

わたしたちは
マルクス主義で 完全武装した、

世界に
ひとつの
ボルシェビキー党だ。

アメリカを
急行寝台列車で
よこぎろうと、

チュフロマー〔45〕
てくてく あるこうと、

きみの めに
とびこんで くるのは

РКП《エルカーペー》と
かっこつきの
こ文字《б《ベー》》だ〔46〕
いま
プールコウォは
火星を おいかけて、
そらの 宝石ばこを
かきまわしている〔47〕

しかし、世界にとっては
この こ文字のほうが

百倍も きれいで、
偉大で、
あかるいのだ。

       *       *

わたしたちの ことばは
もっとも 重要な ものすら

なじみと なり、
服のように つかいふるされる。

ふたたび
わたしは
かがやかせたいのだ、

最高の ことば ――
」を!

一個人!
それは だれに 必要なんだ?!

個人の こえは
ひよこの ぴーぴーより かすか、

だれが ききつけよう?
つまだけさ!

それも
いちばのなかでなく、
よりそったときにだ。

党 ――
これは
一つの 烈風、

ひくい、かすかな こえを
かためあげた 烈風。

これが
敵の とりでを
うちくだくのだ、

砲声が
鼓膜を
つんざくように。

ひとは ひとりのとき、
うまく いかない。

ひとりでは つらいし、
勇士には なれない。

ごつい やつ ひとりに
うちまかされる、

ひよわな もの、
ふたりにも やられる。

しかし、
たとえ ちびでも
党に
よりあつまれば、――

さあ、敵ども、
降参しろ、
くたばれ、はいつくばれ!

党は
百万本ゆびの
ひとつの て、

ひとつに
にぎりかためた
粉砕の こぶしだ。

個人では くだらぬ、
個人では ゼロだ。

ひとりでは
どんなに
すごい やつだろうと、

わずか 一尺の まるたも
もちあげられない、

ましてや、
五階だての ビルなど。

党 ――
これは
いく百万の かたが

たがいに がっちり
くまれた もの。

党によって
建築を
そらに つきあげよう、

たがいに ささえ、
もちあげて。

党は
労働者階級の せぼね。

党は
わたしたちの 不滅の 事業。

党は
わたしを うらぎらぬ 唯一の もの。

きょうは
めしつかいだが、

あすは
帝国を
地図から ぬぐいさろう。

階級の 頭脳、
階級の ちから、
階級の 事業、
階級の 名誉――

これこそ
党なのだ。

党と レーニンは
ふたごの きょうだい。

ははである 歴史には
どちらが より だいじなのか?

わたしたちは
「レーニン」と いえば
党を おもい、

「党」と いえば
レーニンを おもうのだ。

       *       *

王冠つけた あたまは
まだ
やまのよう、

ブルジョアどもは
ふゆの からすのように
くろぐろと。

だが、すでに
労働者の
あかい 溶岩は

党の 噴火口から
地上に ほとばしっている。

1月 9か ――
ガボーンどもの 最後〔48〕

わたしたちは たおれた、
皇帝の たまを くらって。

皇帝の お慈悲を、
なんて たわごとは

ホウテン〔奉天〕、ツシマでの
惨敗〔49〕とともに
きえさった。

たくさんだ!
わたしたちは 信じないぞ、
縁のない はなしは!

みずから
武器を とり、
プレースニヤ〔50〕は たった。

いまや
王座は くつがえり、

ついで
ブルジョアの ソファーも
こわされる、
かに みえた。

イリーチは もどってきて〔51〕
毎日
労働者たちとともに

1905年を
すごす。

わたしたちと ならんで
どの バリケードにも たち、

反乱の
あゆみを
みちびく。

しかし、すぐと
あざむきの しらせが
つたわった、

「自由〔52〕」。

ひとびとは
ちょうリボンを つけ、

皇帝は
バルコンから
おふれを だした。

「自由」の
蜜月が
おわると、

演説、
リボン、
かろやかな うたを

ほえる 大砲の
低音が うちけした。

労働者の ちだまりに
およぎいでたのは

帝国提督、
ざんにんな ドゥバーソフ〔53〕だ。

チェーカーの 野蛮さを
べちゃくっている

しろい
くずども〔54〕の かおに
つば はきかけよう!

いいか、
あのときに

労働者たちは
両うでを しばられ、

ばっさり
くびを おとされたのだ。

反動は ほえくるい、
インテリさんたちは

すべてから てを ひき、
すべてを ぶちこわした。

いえに ひきこもり、
ろうそくを たて、

香を たく
かみがかりと なった〔55〕

同志 プレハーノフ、
この おんたいも べそかいた、

「あなたがたの せいですぞ!
ぶちこわしですぞ、きょうだい!

ほら、ちの かわを
ながしたでしょう!

武器を とるなぞ
まったく
むだな ことでしたな。」

レーニンは
この めそめそごえに

いさましく、
ずばりと きりこんだ、

「ちがう、
武器を とるのは
必要だ。

ただ、もっと
決定てき、精力てきに。

わたしには みえる、
あたらしい 反乱が。

労働者階級は
ふたたび たちあがる。

防御ではなく、
攻撃こそが

大衆の スローガンと
なるべきだ〔56〕。」

あわだつ ちの なかの
この としも

労働者の からだの
この きずも

きたるべき 反乱の
雷雨のなかでは

小学校に
みえる ことだろう。

       *       *

レーニンは
ふたたび
外国に おわれながら、

わたしたちを
あたらしい 戦闘に
そなえさせる〔57〕

かれは おしえつつ、
じぶんも 知識を つむ。

かれは
くだかれた 党を
あらたに
ととのえる。

そら、
ストライキが
としごとに たかまり、

もう すこしで
反乱の 爆発だ〔58〕……

しかし、
としつきの なかから

たちあがるのは
おそろしい 14年〔59〕だ。

「兵士は パイプを ふかし、
むかしの 遠征を かたる」

などと
よく かかれるが、

ポルターワや
プレーウナ〔60〕などと

この
世界一の にくひき機を
くらべられようか?!

帝国主義は
すはだかに なって、

はらを つきだし、
いればを むきだし、

ちの うみに
ひざまで つかりながら、

銃剣を ふるって
くにぐにを むさぼるのだ。

その まわりには
おべっかつかいの
「愛国者」たち ――

ウォーワ〔61〕どもが ぺこぺこし、
うらぎりの てを ぬぐって〔62〕

こう かくのだ、

「労働者よ、
最後の ちの 一滴まで
がんばれ!」

大地は
鉄くずの
やまとなり、

なかは
人間の
ぼろと くずだ。

きちがい病院の
まっただなかに

ひとり 正気の
ツィンメルワルト〔63〕
たちあがった。

ここから
レーニンは
わずかな 同志とともに

世界のうえに たって
かかげたのだ、

どんな 猛火よりも
あきらかな
思想を、

どんな 砲撃よりも
おおきな
ことばを。

むこうからは
みみを つんざく
百万の 砲声、

軍刀を きらめかす
騎馬軍団の
ひびき、

こちらからは
大砲と サーベルに
反対する

ほおぼねの でた、
はげあたまの
ひとりの 人間。

「兵士たちよ!
ブルジョアに
うらぎられ、うられて

トルコへ、
ウェルダンへ、
ドウィーナ〔64〕へと かりたてられる。

たくさんだ!
諸国民の 戦争を
国内戦に かえよう!

破壊や
戦死、負傷は
たくさんだ!

国民には
なんの つみも
ありはしない。

すべての くにの ブルジョアに
反対して

国内戦の
はたを
かかげよう〔65〕!」

たちまち
巨砲が
ひを ふいて、

かれを
こなごなに
ふきはらった
と みえた。

そら、
ひとっこの かげが あるか、

そら、
やつの なが のこっているか?

しゅうしゅう ほえる
武器の のどで

くにぐには
たがいに
わめきあう、
「ひざまずけ!」

たたかい、おわり。
勝利者は
みえない。

勝利したのは
ひとり
同志レーニン!

帝国主義の
さけめよ〔66〕

わたしたちは
天使の 忍耐を
つかいはたした。

おまえは
たちあがった ロシアに
つきやぶられたのだ、

タウリースから
アルハンゲルスク〔67〕まで。

この 帝国は
おまえの にわとりではないぞ!

双頭の 権力の
かぎばなの わしだ〔68〕

わたしたちは
すいつくした たばこのように

さっぱりと
王朝を
はきすてたのだ〔69〕

ちの さびに おおわれた
巨大な 人民、

うえた、はだかの
人民は

ソビエト〔70〕に むかうか、
それとも

まえのように
ブルジョアのため
火中の くりひろいか?

「人民は
皇帝の くさりを
うちくだいた。

ロシアは あらしのなか、
ロシアは 雷雨のなか〔71〕。」 ――

ウラジーミル イリーチは
スイスで よんだ、

新聞の たばのうえで
みぶるいし、
興奮しながら。

だが、なにが
新聞の きれはしから
わかろう?

飛行機で
さっと とんでゆけたら、

あそこに、
たちあがった 労働者を
たすけに ――

これが かれの
ただ ひとつの おもい、
ねがいだ。

党の 意志に したがい、
かれは 出発した、

ドイツの
封印列車〔72〕で。

おお、もしも そのとき
ホーエンツォレルン〔73〕が、

レーニンは
かれらの 帝制への
爆弾でもある、
と しっていたら!

       *       *

ピーテル〔74〕の ひとびとは
まだ よろこんで
だきあい、

おさなごのように
とびはねていたが、

あかい リボンを つけて
ちょっと きどった

ネーフスキー〔75〕
すでに
将軍たちで いっぱいだ。

一歩一歩と
おいつめられて、

警察の よびこまで
つかうようになった

ブルジョアは
わたげに おおわれた てあしから

するどい つめを
だしはじめる。

はじめは ちょっぴり ――
めだかさん、

だんだん そだって、
にしんから さめに。

それから
ダーダネルスキー ――
むこさがしの ミリュコーフ、

そのうしろには
戴冠式を まつ
小ミハイール〔76〕

総理大臣は
権力ではない、
しゅすの 刺しゅうだ〔77〕

こいつは
きみにとって
乱暴な 人民委員〔78〕ではない。

まったくの こむすめさ、
いって なでてやれ!

かれは ヒステリーを おこし、
テノールで うたう。

しかし、この
2月の
自由から

わたしたちには
しずくも ふりかからないが、

「祖国防衛」派〔79〕の てで
むちがなる、

「すすめ、すすめ、前線へ、
労働人民よ〔80〕!」

この みごとな 画面を
しあげるために

まえにも あとでも
わたしたちを
うりわたした

サーウィンコフ〔81〕ども 社革党員が
みはりとして、

メンシェヴィキーが
かしこい ねこ〔82〕として
まわりを とりまく。

あぶらぎった
まち〔83〕に むかって

突然、かなた、
ネワーがわの むこう、

フィンランド駅から
ウィボルク地区を とおり、

装甲車が
ひびきを たててきた〔84〕

ふたたび
さわやかな、つよい
かぜが

革命の 怒とうを
まきあげるのだ。

リチュイヌイどおりは
労働服と 軍帽で
あふれた。

「レーニンが きた!
レーニン、ばんざい!」

「同志たち!」――
まえに たつ
数百人の 頭上に

かれは
みちびきの てを
つきだした、

「社会民主主義の
きふるした ぼろを
なげすてよう〔85〕

資本家、強調主義者どもの
政権を
うちたおそう!

わたしたちは
全世界の

したづみの、
労働下層人民の
意志の こえだ!

共産主義建設の
党、
ばんざい!

ソビエト権力を めざす
反乱、
ばんざい!」

ここに はじめて
なすことを しらぬ むれのまえに、

きみのまえに、
めのまえに
あらわれたのだ、

ゆめのような ことば ――
「社会主義」が

簡単な、
達成しうる 事業として。

ここから、
汽笛ならす 工場から

地平を
すみずみまで
かがやかせつつ
あらわれたのだ、

ブルジョアも
プロレタリアも ない、

主人も 奴れいも ない、
あすの
労働者コミューンが。

協調主義者の
まといつく
ひもの かたまりに

レーニンの ことばが
おのと なって ふりおろされる。

その はなしも
なだれうつ さけびに
たちきられた、

「そのとおりだ、レーニン!
まったくだ!
ときが きた!」

クシェンスカヤの
あしおどりに おくられた
やしき〔86〕

いま
なっぱ服が あふれる。

ここに
労働者の むれは
ながれこみ、

ここ
レーニンの かじばで
きたえられるのだ。

「パイナップルでも くっていろ、
えぞやまどりでも しゃぶってろ、
ブルジョアよ、それ、きたぞ、
おまえの 最後の ときが〔87〕!」

おしかけようぜ、
主人席の
やつらの ところに、

「くらしは どうだ、
くいものは どうだ?」

7月には、
ためしにだ、

かれらの のどに、
はらに さわってみた〔88〕

ぶるどもは
さっと はを むいた、

「奴れいの 反逆だ!
むちうて、
ちの でるまで〔89〕!」

ケーレンスキーの
ほそうでに
命令した、

「レーニンを やっつけろ!
ジノーウィエフを クレスティに〔90〕!」

こうして 党は
またもや
地下に もぐった。

イリーチは ラズリーフに、
さらに フィンランド〔91〕に。

しかし、やねうらも
ほったてごやも
くさはらも

指導者を
野獣の むれに
わたしはしない。

レーニンは みえないが、
みぢかに いる。

工作の
すすむにつれて、

レーニンの
ただしい 思想が
よく みえ、

レーニンの みちびく てが
よく みえる。

レーニンの ことばは
よい つちに おちる。

おちれば
すぐと
事業を そだて、

ほら、すでに
いく百万の 農民が

労働者たちと
かたを くんでいる。

こうして、
数週間のうちの
ある ひを きめて、

バリケードへの
進出を
まつばかりに なったとき、

レーニンが
みずから
ペーテルに あらわれた、

「同志たち、
ぐずつくのは たくさんだ〔92〕

資本の 圧迫、
飢餓の 悲惨、

戦争の 残忍、
強盗どもの 干渉……

けっこうだ!
こんなことは すべて

古代歴史の
しなびた からだに ある

ほくろよりも
いろあせて みえるように なろう。」

そして、
この ひびを
ふりかえりみれば、

ひとは まず
レーニンの あたまを
みるだろう。

これは
百万年の
奴れい制度から

コミューン世紀への
かがやかしい
とうげなのだ。

きょうの
苦難の としつきは
すぎさり、

コミューンの なつに
としつきは あたたまる。

幸福は
おおきな いちごのように
あまく、

あかい
10月の はなぞのに
みのるのだ。

そのとき
きばんだ 法令集を
めくりながら、

レーニンの 布告を
よむ ものたちは

つかいみちの なくなった
なみだを
ながし、

たぎる ちしおを
こめかみに
なみうたせるのだ。

わたしが
過去を
決算して、

そこに
もっとも かがやかしい ひを
さぐるとき、

おもいだすのは
いつも おなじ ――

25日だ、
最初の ひだ〔93〕

銃剣は
いなずまのように
きらめき、

砲弾は
ボールのように
水兵たちに もてあそばれ、

砲声は
ざわめく スモールヌイ〔94〕
ゆさぶる。

弾帯を つけた
機関銃手が
階下に。

「きみらを
よんでるぞ、
同志 スターリン〔95〕が。

みぎの
三番めの へや、
そこに いる。」

「同志たち、
とまるな!
なんで とまった?

装甲車に のれ、
そして 郵便本局へ!」

「同志 トローツキー〔96〕
命令だ!」

「よーし!」
まわれみぎして
すぐ みえなくなった。

ただ
水兵帽の
リボンが

電燈の ひかりに
きらめいた、
「オーロラ」号〔97〕

命令書を もって かけるもの、
かたまって 議論するもの、

ひだりひざのうえで
遊底を
がちゃつかせるもの。

廊下の はしから
こっちのほうに

からだを よこにして
レーニンが くるが
だれも きづかない。

イリーチによって
戦闘に みちびかれたのに、

かれの
写真を
まだ みたことの ない

兵士たちは
おしあい、
さけびあい、

かみそりよりも するどく
さけびを けしあっている。

この まちこがれた
鉄の あらしのなかで

ねむそうな かおの
イリーチは

あるいてきて、
たちどまり、

うしろでを くみ、
めを ほそめて
みつめる。

ゲートルまいた、
ざんばらがみの
青年に

くるいない まなざしを
すえた、

かれの ことばのしたから
こころを つかみとり、

はなしのなかから
たましいを ひきだすように。

わたしには わかっていた ――

すべては
あらわに はっきりと

この まなざしに
とらえられるに ちがいない、

農民の さけびも、
前線の うめきも、

ノーベル労働者の ねがいも、
プチーロフ労働者の 意志も〔98〕

かれは
あたまのなかで
いく百の 地方を うごかし、

一五億もの
ひとびとを
せおっていた。

よるのうちに
全世界を はかり、

そして あさには、

「すべてに!
すべてに!
すべてのものに
この スローガンを!

ちに よわされた
前線に、

かねもちに
しばられた
あらゆる
奴れいたちに

この スローガンを!

『権力を ソビエトに!
 土地を 農民に!
 平和を 諸国民に!
 パンを うえた ものに〔99〕!』

ブルジョアどもは
よみおわると
こう いった、

「みておれ、
ばっさり やってやる。」

そして 自信まんまん
はらを たたいた、

「ドゥホーニンと コルニーロフで
ひどい めに、

グチコーフと ケーレンスキー〔100〕
いたい めに
あわせてやる。」

しかし、
前線は
文句なしに
スローガンを うけいれ、

むらにも
まちにも
布告が あふれ、

文盲さえも
こころを もやした。

しってのとおり、
わたしたちでは なく、

かれらが しったのだ、
「ひどい め」とは
どんな ものか、を。

みうちから
近所へ、

近所から
とおくへと
こころ ゆさぶりゆく よびかけ、

「平和を 民家に!
戦争を、
戦争を、
戦争を 宮殿に!」

どの 工場、
どの 職場でも
たたかいが おこり、

まちからは
いりまめのように
やつらは はじきだされ〔101〕

いなかでは
もえさかる
貴族の やしきが

10月の あゆみの
道標と なった。

土地は
やつらの むちうちの
しきものだった。

それを
農民は とつぜん
おおパンでも つつみこむように、

やまも かわも
ごっそり うばい、

がっちりと
にぎりしめたのだ。

めがねを かけた、
カラーの 紳士たちは

つばを はいて、
王国や 伯しゃく領に
退散した。

どこへなりと
うせるが いい!

わたしたちは
どの 料理おんなにも

国家の おさめかたを
まなばせるのだ〔102〕

       *       *

わたしたちは
しばらく
輪転機づくりで くらした〔103〕

ざんごうから
ドイツ兵の みみに
とんでゆく、

「やめる ときだ!
でてこい、なかよくしよう!」

戦線は
ストーブつき貨車と なって
のろのろ もどりだした〔104〕

このような ながれを
ちょっとやそっとで
さえぎれようか?

わたしたちの ぼろぶねは
かたむく
と みえた。

ウィルヘルム〔105〕
ながぐつの 拍車は
ニコラーイ〔106〕のよりも するどく、

ソビエト国家の さかいを
こすりまくる。

社革党員が たちいでて
マントを ひらひらさせながら、

脱走兵たちを
たわごとで
ひきとめて、

古武士の もつ
ちゃちな つるぎで

装甲の 怪物を
みんごと
うちとる、
と わめいた。

イリーチは
たけりたつ ものらに
さけんだ、

「さわぐな!

党に
この おもにを
せおわせよ!

屈じょくの ブレーストで
いきつぎを えよう。

うしなうのは 空間、
うるのは 時間〔107〕だ。」

いきつぎの まに
わたしたちの いきが
とまらないために、

やつらが
わたしたちの 打撃を
わすれないために

形式てき 訓練でなく、
意識で
じぶんを きたえよう、

赤軍の
隊列を
ととのえよう〔108〕

       *       *

歴史家たちは
ヒドラ〔109〕の ポスターを
ひっぱりだすだろう、

「この 怪物は 存在したか、
しなかったか?」

わたしたちは
その 実際寸法を
よくしっているのだ。

「われらは おおしく たたかおう、
ソビエトの 権力のために。
われらは ともに たおれよう、
その たたかいのなかに〔110〕!」

デニーキンが くれば、
そいつを おいだし、

大砲に こわされた
かまどを つくりなおす

そこで ウランゲルが
デニーキンの おかわりだ。

その 男しゃくを やっつけると、
すぐ コルチャーク〔111〕だ。

わたしたちは きのかわを かじり、
どろぬまに ねたが、

いく百万の
あかい 星と なって
すすんだのだ。

ひとりひとりに
イリーチが いて、

一万キロ以上〔112〕
戦線に たたかう
みんなを きづかっている。

まわり 一万キロ ――
たてと よこの
おおきさよ!

どの いえも
攻撃の目標で、

その とぐちには
てきが かくれていた。

社革党員と 君主派は
ねもやらず うかがった、――

へびのように
どこか かみつけないか、
ばっさり やれないか?

ミヘルソン工場への
みちを
きみは しっているか?

イリーチの きずからの
ちを たどれば
みつかろう〔114〕

社革党員の
ねらいは
あまり うまくない、――

かえって
じぶんの
みけんを うったのさ。

しかし、爆弾よりも
銃弾よりも おそろしいのは

飢餓の 包囲、
チフスの 包囲だった〔114〕

みたまえ、
パンくずのうえに
はえが まっている。

いまの かれらは
1918年の わたしたちより
はらくちている。

五十グラムの パンのため
わたしたちは

ふゆの まちに
いちんち
たちんぼした。

たがやしたければ、
こわしちまえ、で

工場を
じゃがいもに かえた、――
なんて なさけないこと!

十も たてやの ある
造船所が

ライターづくりに
けむを はき、
あえいでいた〔115〕

しかし、富農の ところには
あぶらも パンもある。

かれらの 計算は
単純で 正確だ ――

食料を かくせ、
ニコラーイカ、ケーレンカ〔116〕
つぼに つめろ。

わかりきった こと、
飢餓が
おおそうじしているとき、

必要なのは
弾圧で、
きぬのような やさしさではない。

レーニンは
食料挑発隊と
食料挑発制を ひっさげ、

富農との たたかいに
たちあがった。

こんなときに
「民主主義者」なんて 文句は

どんな ばかの あたまにも
うかびはしまい!

やっつけるなら、
やつらが ゆかに
くたばるほどに。

つまり、
勝利の かぎは
鉄の 独裁に あるのだ〔117〕

       *       *

わたしたちは 勝利した。
だが、
たまの あなだらけ、

エンジンは ストップ、
船体は ぼろぼろ。

がらくたの なみ!
かべがみの くず!

さあ、みずを ぶっかけろ!
さっぱり あらいされ!

どこだ、みなとは?
みなとの 燈台は
たおれているぞ。

ふねは かたむき、
マストは
なみに!

わたしたちは ほうりだされるぞ ――

右舷には
一億もの
農民が つまれているのだ。

よろこんだ 敵どもは
はしゃぎまわった。

だが、
レーニンだけが
やってのけられたのだ、
こんなふうに ――

さっと
舵輪を
ひねって、

いっきに
二十ポイント〔118〕 まわす。

すると、すぐと しずまり、
おどろくほどの なぎ〔119〕

農民たちは
はとばにむかい
食料を はこんでくる。

よく みかける 看板は
「購入」と
「販売」――

つまり、
ネープ〔120〕だ。

レーニンは
めを ほそめた、

「しばらくは
修理を するのだ。

ものさしを 勉強せよ。
さもないと
だめだぞ〔121〕。」

つかれきった
のりくみ員を
きしべが ゆさぶった。

だが、あらしに なれた
わたしたちに
陰謀が なんだ?

ふかい いりえが
イリーチによって
しめされ、

結合の ふなつきばも
みつけられて、

ソビエト共和国連邦の 巨体が
かろやかに すべりこんだ、

平和に、
建設の ドックに。

レーニン みずから
鉄材を、
木材を はこび、

やられた ところを
修理した〔122〕

協同くみあい、
こうり店、
トラスト〔123〕

鉄板として
もちあげ、
寸法あわせをしたのだ。

こうして、ふたたび
レーニンは
かじを にぎる。

両がわに 砲火、
まえにも うしろにも。

いまや わたしたちは
接舷戦と 突撃から

労働の 包囲戦にと
うつるのだ〔124〕

わたしたちは
正確に 計算してから
退却した。

くさってしまった ものは
きしべに しがみついた。

さあ、前進だ!
退却は おわったのだ。

ロシア共産党よ、
乗船命令を!

コミューンは
世紀の 事業、
十年が なんだ?

前進だ、
ネープ根性は
過去に きえさるのだ。

「わたしたちは すすもう、
百倍も ゆっくりと、

そのかわり
百万倍も
たくましく、しっかりと〔125〕。」

あの プチ・ブルてき
自然力の
ちからない うねりが

まだ
よたついては いるが、

しずかな
くろくもを
いなずまで きりさいて、

世界てき 雷雨が
そだってゆく。

くだかれた 敵に
あらたな 敵が
いれかわる。

しかし、かならず
わたしたちは
世界の そらを かがやかそう。

そして、これを
実行する ことは
ずっと 有益なのだ、

これについて
かくよりも〔126〕

いまは
のむにしても
たべるにしても、

食事してから
公営工場〔127〕
ゆくにしても、

わたしたちは しっている、――

プロレタリアートが
勝利者、

レーニンが
その 勝利の 組織者だ、と。

コミンテルン〔128〕から

かまと つちの ついた
ひびきよい カペーク銅貨〔129〕にいたるまで、

勝利から 勝利への
イリーチの あゆみの

文字に かかれない
叙事詩なのだ。

革命は
どっしりした もの、

ひとりでは だめ、
あしが まがる。

だが、レーニンは
なかまに くらべて

意志の ちから、
知恵の てこで
もっとも すぐれていた。

つぎつぎと
くにぐには たちあがる。

イリーチの ては
ただしく みちびくのだ。

みたまえ、
諸民族は
くろも
しろも
きいろも

コミンテルンの はたの もとに
たちならんでいる。

帝国主義の とりでの
不敗の 支柱 ――

五大州の
ブルジョアたちも

いんぎんに
シルクハットと 王冠を もちあげて、

イリーチの ソビエト共和国に
あいさつしている〔130〕

わたしたちは
どんな 苦難も
おそれはしない。

労働の 機関車で
突進している……

と、突然
一トンもある しらせ ――

イリーチに
脳溢血が〔131〕





もしも
博物館に

なきぬれる ボルシェビキーが
陳列されたなら、

ひねもす
くちあけた 見物人で
ごったがえすだろう。

もちろん、
こんなことは
千年 たっても みられない!

ポーランドの 将軍たちは
わたしたちの せに
五稜の ほしを やきつけ、

マーモントフどもは
わたしたちを さかさにして
いきうめにし、

ニホン軍は
わたしたちを
機関車の かまに つっこみ、

なまりと すずを
くちに ながしこんだ〔132〕

「あらためろ!」――
やつらは わめいた。

しかし、
ただれる のどからは
ただ ふたこと、

「共産主義、
ばんざい!」

いすを みたし、
列に ならびながら、

あの はがね、
この 鉄が

1月 22日
五階だての
ソビエト大会会場〔133〕
ながれこんだ。

議席に ついてから、
ほほえみかわし、

さっさと
雑用を
かたづけていた。

閉会の 時間だ!
なにを もたついてるんだ?

なんで
幹部会席は まばらなんだ、
きりはらわれたように?

どうして
かれらの めが
しきり席の ビロード〔134〕より あかいんだ?

カリーニン〔135〕は どう した?
やっと みを ささえているが。

不幸?
どんな?
まさか!

もしや かれに?
ちがう!
そんなことが!

天じょうが
からすのように
まいおりはじめた。

みな うなだれた、――
もっと ひくく!

にじんだ
シャンデリアの ひかりが

突然 ふるえ、
くろずんだ。

必要ない すずが
むせびないた。

じぶんを おさえて
たちあがった カリーニン。

ひげや ほほからの
のみきれない なみだが

こころを うちあけて
くさびがたの あごひげに
きらめく。

みだれる おもい、
ふらつく あたま。

ちは こめかみに、
静脈に たぎる。

「きのうの
6時50分に

同志 レーニンが
しにました!」

       *       *

この としは
百年も みられぬ ことを
めに したのだ。

この ひは
永遠に
かなしく いいつたえられよう。

恐怖が
鋼鉄から
うめきを しぼりだした。

ボルシェビキーのなかを
むせびなきが すぎた。

すさまじい おもさ!
わがみは
やっと ひきずりだしたが。

もっと くわしく!
いつ、どんな ふうに?
なんで かくすのだ?

ボリショイ劇場は
霊柩車に のって

おおどおりに、
よこちょうに
およびだした。

よろこびは
かたつむりのように はい、

かなしみは
きちがいのように かける。

太陽も なく、
こおりも なく、

ただ
新聞紙の ふるいを とおして

くろい ゆきが
まきちらされる〔136〕

しらせが
旋盤のそばの
労働者に とびかかった。

脳天に 弾丸だ。
なみだの コップが
工具に ぶちまけられる。

せけんを ながく み、
ひとの 死に なれた
百姓も

かみさんから
かおを かくしたが、

げんこで こすりつけられた
どろが 白状した。

ひうちいしのような
連中も

くちびるを ゆがめ、
かみしめた。

こどもたちは
としよりのように まじめくさり、

しろひげたちは
こどものように なきじゃくった。

かぜは
不眠症に なって
大地に ほえ、

おこされた ものには
どうしても
かんがえられぬのだ、

モスクワの
さむい へやに
よこたわるのだが

革命の
むすこであり、ちちである ものの
ひつぎだ、とは。

おわり、
おわり、
おわり。

だれに
説得が いる!

ガラス、
したに みえるのは……

かれが
パウェレーツキー駅から
かつがれてゆく〔137〕

かれが
主人どもから うばいさった
まちのなかを。

とおりは
うちぬかれた きずぐちのように

はげしく うずき、
はげしく うめく。

ここでは
どの いしも
レーニンを しっている、

最初の
10月の 攻撃の
あしおとで。

ここでは
どの はたに
ぬいつけられた 文句も

レーニンが かんがえ、
命じたものだ。

ここでは
どの 塔も
レーニンの こえを きき、

かれに したがって、
ひも みずも
いとわなかった。

ここでは
どの 労働者も
レーニンを しっていて、

かれに むかい
わかもみの えだのように
こころを ひろげたのだ。

かれが 戦闘に みちびき、
勝利を 予言し、

そして、いま
プロレタリアは
すべてを 支配している。

ここでは
どの 農民も
レーニンの なを

聖者暦〔138〕にではなく、
こころに
いとしく きざみこんでいる。

かれが 命じたのだ、
土地を
農民の ものに すること ――

ぶちころされて
はかに ねむる 祖先が
ゆめみている ことを。

そして、
「あかいひろば」のしたからは

コミューン戦士〔139〕たちが
こう ささやくようだ、

「愛する、いとしい ものよ!
いきてくれ!

われらに
すばらしい 運命は
いらない。

百たび たたかい、
地に たおれよう!」

いま
奇蹟を おこなうものが
あらわれ、

「おまえらの 死で
かれを よみがえらせる」
と いうならば、

まちの ダムは
さっと おしひらかれて、

ひとびとは
うたごえたかく
死に 突進しよう〔140〕

しかし、奇蹟は ない。
そんな 空想は むだだ。

レーニンが いる。
ひつぎ、
さがった かた。

かれは
実に 人間らしい
人間だった。

だから、人間の かなしみで
はこべ、
かなしめ。

これまで
人間の うみは

こんなに
とおとい にを
はこんだ ことはない ――

なきごえと なみだの
せなかのうえを

くみあい会館に
およぎゆく
この あかい ひつぎ。

レーニンの きたえた
きびしい 親衛隊〔141〕

儀仗兵として
ならびはじめたばかりなのに

もう ひとびとは
トウェルスカーヤに、
ジミートロフカに

ずらりと
まちうけている、
印刷されたように〔142〕

1917年の
さむさは
こんなだったのだ ――

「パンがい行列に
むすめは やるまい。
あす たべようぜ!」

しかし、きょうの
つめたい、
おそろしい 列〔143〕には

こどもづれ、病人づれで
みんな くわわった。

むらも
まちと ならんで
整列した。

おおしく こらえた かなしみ、
こどものような なきごえ。

労働の 大地が
分列行進してゆく、

レーニンの 生命の
いきている
総括が。

きいろい、
ニスぬりの 太陽が
のぼり、

ななめの ひかりを
あしもとに なげかけてゆく。

うちひしがれ、
希望を うしなったように

かなしみに うなだれて
チュウゴク人たちが ゆく。

よるが
ひるの せなかに のって
およぎいり、

時刻を かきまわし、
ひづけを かきみだした〔144〕

まるで
よるも なく、
よるの ほしも なく、

合衆国の ニグロたちが
レーニンのうえに
なみだしているようだ。

かつてない さむさが
あしうらを やくが、

ひとびとは
ぎゅっと かたまって
ひを おくる。

だれ ひとり
さむさしのぎの
てたたきも しない ――

だめなのだ、
ばちがいなのだ。

きびしい さむさが
ひとを つかみ、
ひきずる、

その 愛が
どれだけ きたえられているか
ためすかのように。

そして、むれに わりこみ、
列に まぎれて、

ともに
円柱のむこうに すすんでゆく。

階段は ひろがって
暗しょうと なる。

そこで
いきも うたも
しずまる。

すすむのは こわい ――
あしもとには 断がい、

四つの 段の ついた〔145〕
そこなしの 断がい、

黄金の
ひびきと かがやきが
支配する

百代の
奴れい制からの
断がい。

断がい、
そして ふち ――

それは
ひつぎと レーニン。

かなたには
地平を おおう
コミューン。

なにが みえる?!
ただ かれの ひたいだけ。

うしろには
ナジェージダ コンスタンチーノウナ〔146〕
かすんで。

おそらく
なみだの ない めには
もっと おおくが みえよう。

そんな めで
わたしは みなかったのだ。

およぎゆく
きぬの はたは
うなだれて、

最後の
あいさつを
ささげる、

「さらば、同志よ、
きみは ほこらかに
けだかい、たたかいの みちを あゆみぬいた〔147〕。」

恐怖だ。
めを とじよ、
みるな。

あたかも
電線のうえを
わたるようだ。

あたかも
一瞬
巨大な、
唯一の 真理と

かお つきあわせて
とどまったようだ。

       *       *

わたしは しあわせだ。

とどろく 行進の ながれが
この かるい からだを
はこんでゆく。

わたしは しっている ――

これからは
いつまでも

まさに この 一瞬が
わたしのなかに
とどまるのだ。

わたしは しあわせだ ――

わたしは
この ちからの
一分子、

なみだすら
共同の ものなのだ。

階級 ――
こう よばれる
偉大な 感情を

これほど つよく、
これほど きよらかに
感じられようか!

はたの つばさが
ふたたび
たれる、

あした
ふたたび
たたかいに はばたくために。

「なつかしい ものよ、われらが とじるのだ、
たかのように するどい、きみの めを〔148〕。」

たおれまいと
かたに かたを よせ、

はたを くろずませ、
まぶたを あかくして、

イリーチとの
最後の わかれに

わたしたちは あゆみ、
墓所のそばで のろくなる。

葬儀が
おこなわれている。

つぎつぎと 演説が。
はなしている ―― まあ、いい。

つらいのは
一分という 制限が
みじかいこと〔149〕 ――

最愛の ものを
どうして
すっかり みとれようか!

とおりすぎて、
みな うえを
みつめる、

ゆきの ふりかかった
くろい
円盤を〔150〕

スパースカヤ塔の はりは
くるったように
とびはねる。

あと 一分で
最後の 四への
ジャンプ〔151〕

この しらせに
しばし
とどまれ!

とまれ、
運動と 生活よ!

ハンマーを ふりあげた ものよ、
そのまま うごくな。

地球よ、とまれ、
のびろ、よこたわれ!

しずけさ。
もっとも 偉大な みちの おわり。

大砲が 一発、
いや、千発かも しれない。

だが、
その とどろきも

こじきの
ポケットに ちゃらつく

こぜにの おとより
ちいさいようだ。

ちから ない めを
いたいまでに
みひらき、

ほとんど こごえきり、
いきを ころして
わたしは たっている。

わたしのまえ、
かがやく はたのもとに

くらい、
うごかない
地球。

そのうえに
うごかない、
おしだまった ひつぎ。

そのそばに
わたしたち ――
人類の 代表が いる、

反乱、
活動、
叙事詩の あらしで

きょう みた ことを
ひろげるために。

       *       *

ほら、
とおくから、
あそこから、
まっかな ものから

さむさにむかって、
沈黙した 儀仗兵にむかって

だれかの ――
たぶん ムラーノフ〔152〕
こえが、

「まえへ
すすめ!」

こんな 命令は
必要ない ――

すでに わたしたちは
ゆっくり、
しずかに、
しっかり 呼吸し、

やっと
体重を
ひきはなして、

ひろばから
したに
あゆみを うちこんでゆく。

どの はたも
たくましい てによって

ふたたび
頭上に
たかく まいあがっている。

あしおとの 洪水、
ちからは 波紋と なり、

ひろがりながら
世界の 思想に
とけいってゆく。

労働者たち、
農民たち、
兵士たちの

おなじ おもいが
ひとつに つながる、

「レーニンが いないと
共和国は
くるしくなる。」

かれと 交替しなければならぬ ――
だれが?
どんな ふうに?

「ナンキンむしの ねどこに
ねころんでるのは
もう たくさんだ!

同志 書記よ!
きみに、
ほら ――

ロ共党細胞へ
いれてくれ、

すぐに、
集団で、
工場の 全員を……」

ブルジョアは
めを むいて、

たくましい あしおとに
おののく。

四十万の
情熱てきな
現場労働者が

レーニンへの
最初の
党の はなわだ〔153〕

「同志 書記、
さあ、かいてくれ……
交替しよう、と いってる……
必要なんだ、と……
わしが としとりすぎてるなら、
まごを とってくれ。
ひけは とらんぞ、
青共〔154〕に いれてくれ。」

       *       *

練習艦隊よ、
いかりを あげろ。

潜水の もぐらたちよ、
うみに ゆく
ときだ。

「うなばらを ゆく、
うなばらを ゆく、
きょうは ここ、
あすは あそこ〔155〕。」

太陽よ、もっと たかく!
証人と なれ!

はやく
くちもとの かなしみに
ひのしを かけろ!

こどもたちと
おとなたちに
あしなみを そろえる――

とらー、た、た、たー、た、
たー、た、た、た。

「おいっち、
にい、
さん!
ぼくらは ピオネール、
ファシストなんぞは おそれない。
さあ、突撃に でかけるぞ〔156〕。」

むなしく
ヨーロッパは
こぶしを あげる。

やつらに どなりつけよう、
「ひっこめ!
でしゃばるな!」

イリーチの 死、
それすらも

偉大な
共産主義組織者に なったのだ。

野獣の むれの
ほえる ラッパの うえに〔157〕

いく千万の てを
はたざおに した
あかはたと なった

「あかい ひろば」が
すさまじく
まいあがってゆく。

この はたから、
その すべての ひだから

いきている レーニンが
ふたたび
よびかける、

「プロレタリアよ、
戦後の 決戦に
隊伍を くめ!
奴れいたちよ、
せと ひざを
のばせ!
プロレタリアの 軍隊よ、
整然と たちあがれ!
ちかづく、
よろこばしい 革命、
ばんざい!
これこそ
歴史の しる
ただ ひとつの
偉大な
戦争なのだ!」

(1924年)

(1964年訳、1975年改訳)












付録


同志 レーニンとの 会話〔158〕



やまなす しごと、
うずまく 事件の

いちにちが
しだいに うすれて
さっていった。

へやには ふたり、
わたしと レーニン ――

しらかべの うえの
写真だ。

緊張した 演説のため
ひらかれた くち、

うえを むいた
こわい
くちひげ、

ひたいの 倉庫に
つめられた
人間の おもい、

でっかい ひたいに
でっかい おもいだ。

きっと
そのしたを
なん千人が とおっている……

はたの はやし……
うでの くさむら……

わたしは いすから たった、
よろこびに てらされて。

ちかづいて、
あいさつし、
報告したい!

「同志 レーニン、
あなたに 報告する、
お義理にではなく、
率直に。
同志 レーニン、
すさまじい しごとは
やりとげられよう、
もう ては つけられている。
こじきや 貧乏人には
あかりと きものが
あたえられている。
石炭や 鉱石の
採掘は
ひろがっている。
それとともに、
もちろん、
たくさんの、
たくさんの
いろんな
ごたくそ、でたらめが ある。
はねかえし、ののしりとばすのは
つかれる ことだ。
あなたなしで
おおくの ことが
てに おえなくなった。
とっても
たくさんの
いろんな ごろつきが
この くにのなかや
まわりを
あるきまわっている。
連中には
番号も なく、
よびなも なく、
タイプに わけられて
ながい リストに
つらなっている。
地ぬしと サボタージュ屋、
おべっかつかい、
セクト主義者、
よっぱらいが
いばって
むね つきだして、
あるきまわっている、
万年筆を ならべたて、
バッジを みせびらかして。
わたしたちは 連中を、
もちろん、
ぜんぶ おさえつけるだろう。
しかし、のこらず
おさえつけるのは
おそろしく むずかしい。
同志 レーニン、
けむを はく
工場では、
ゆきや
きりかぶで
おおわれた
土地では、
同志よ、
あなたの こころと なまえで
わたしたちは かんがえ、
いきづき、
たたかい、
くらしている!」

       *       *

やまなす しごと、
うずまく 事件の

いちにちが
しだいに うすれて
さっていった。

へやには ふたり、
わたしと
レーニン ――

しらかべのうえの
写真だ。

(1929年)

(1964年訳)









訳者あとがき

 二二、三歳の青年たちが企画にくわわり、編訳した大月書店「世界抵抗詩選」(八冊)の一冊、「マヤコフスキー詩集・イリッチ・レーニン」に私がこの詩の部分訳をいれてから二五年、その時とぶなじ社主の小林さんのすすめで、一二年前の全訳と訳注(思潮社)を全面的にあらため、ロシア・ソビエト詩の古典として、しかも、普及のため文庫版でおくりだせるのはとてもうれしい。本事によって、レーニンとロシア革命、そしてマヤコーフスキーについての理解がふかまり、かつ、それがわが国でのロシア語文学翻訳水準の向上、文芸運動の前進にいささか役だてば、なおうれしい。
 外国語詩の訳は、形式よりもまず内容をただしくつたえるべきであり、その場合、すぐれた詩のもつ本質的感動(論理的なコントラストからうまれるもの)がそこなわれることはないというのが訳者の考えだが、詩才欠如のうえに、この長詩は複雑な過程を「難解な」ロシア語(作者も、自分の詩は難解といい、読者に理解力を要求した)でかいたものなので、おおくの訳注がつけられ、予定紙数を大幅にこえた。
 そこで、マヤコーフスキー(一八九三―一九三〇)の文学と生涯については、他書にゆずり(概括的なものとしては、除村吉太郎編訳「ソビエト文学史U」岩波書店・一九五二、「季刊ソビエト文学・マヤコーフスキイ読本」東宣出版・一九七三、拙論「マヤコーフスキーのさいご」をふくむ記念文集「マヤコーフスキーのすべて」日ソ協会・一九七三、伝記と芸術活動をやや詳しくまとめたものとして水野忠夫「マヤコフスキイ・ノート」中央公論社・一九七三など)、この詩については、思潮社版(一九六五)の「訳者あとがき」の約三分の二を、若干加筆のうえ再録することとした。その出版部数はすくなかったし、そこにのべた考えは基本的にかわっていないからであり、はぶかれたのは、主として、当時の出版動機のひとつであった(今もそうだが)、飯塚書店版「マヤコフスキー選集V」(一九五八)中の全訳にある過ちを指摘した部分である。
 おわりに、大月書店の方がた、出版のきっかけをつくった友人の岩上淑子さん、そして、二〇数年間ソ連で、ニホンで愚問にこたえつづけてきた、おおくのソ連人、とくに国立マヤコーフスキー博物館とV・ドゥワーキンさんに感謝するとともに、ただしい訳をめざす、わが国のマヤコーフスキー研究者たちの健闘をいのる。

          一九七六・一一  訳者

     ――――――――――



     1

    「戦闘の ひびきとともに
                弁証法は 詩に つっこんできたのだ。」
                    (マヤコーフスキー「こえをかぎりに」)

 この作品は詩によるロシア革命とレーニンの歴史であり、あきらかな思想となまなましい感情のとけあいであり、理性と肉体に対するはげしい煽動である。
 「革命のむすこ、革命のちち」――英雄叙事詩「レーニン」の内容はこの弁証法的な詩句に要約できる。この作品は、レーニンの生と死、その活動が人間社会の発展(論理)とむすびつけられている、というよりも、その能動的な物質的精神的部分となっている。したがって、資本主義のあゆみ、「奴れいたち」のたたかい、ロシア社会主義革命、二〇世紀における「なにをなすべきか?」、そして共産党がこのレーニン伝のなくてはならぬ要素となっている。「まさに このようにして……レーニンが うまれたのだ」の「このようにして」、また「党と レーニンはふたごのきょうだい」の「ふたご」という簡潔な表現はなんと論理的なことか!
 「ホールは超満員だった。叙事詩はホール全体のあたたかい拍手をうけた。そのあとの討論で……おおくのものが、この詩はレーニンについてかかれたもののなかでもっとも力づよい、とのべた。発言者の大多数はこの叙事詩が自分たちのものであり、マヤコーフスキーはこの詩によっておおきなプロレタリア的事業をおこなった、という点で一致した。討論のあとでマヤコーフスキーは……とくに、自分は革命の歴史の全体を背景にしてレーニンの力づよい姿をえがきたかったのだ、と指摘した」(一九二四年一〇月二一日のロシア共産党(ボ)モスクワ委員会「あかいホール」でのマヤコーフスキーによる「ウラジーミル イリーチ レーニン」朗読についての同年同月二三日「労働者のモスクワ」紙の論評。V・カターニャン「マヤコーフスキー文学年代記」――以下「マ年代記」と略――モスクワ・一九五九・二一五ページ)。
 この作品に反映した歴史的論理はそのながれのなかでおのずからある思想体系をかたちづくるだけでなく、それをうったえるが、これは作者が歴史の発展を傍観的にのべるのではなく、かれ自身――詩のなかの「わたし」――が「レーニンのもとで……革命めざし さらに およぎゆく」からである。すなわち、この作品がレーニンの事業のつづき、レーニンの発展だからである。長詩「レーニン」の内容はこの発展しつづける論理であるともいえよう。
 わたしたちはこの作品によって、いわゆるレーニン主義の諸要素――資本主義と帝国主義戦争、社会主義と社会主義革命、「友と敵」、革命党、プロレタリア執権、経済闘争、理論と実践の関係などについてのレーニンの考えをしることができ、さらにマヤコーフスキーの政治と文学における立場もしることができるが、この作品の基本思想はレーニンとマヤコーフスキーの徹底した人間主義(「プロレタリア・ヒューマニズム」ともいわれる)であり、それはつきの点にはっきりあらわれている。
 第一に、ものごとの真実、すなわち生命(人間社会についていえば、うえにのべた歴史的論理)の認識(これは、科学に対立する宗教、人間であるレーニンの神格化、発展をおさえる形式主義などへの批判としてもあらわれる)。第二に、人間における理性と肉体の統一――実践をみちびく理論を発展させる実践(とくに革命運動とレーニンにおける)、また、レーニンの思想の「生徒たち」による肉体化――の実現。第三に、「百代の奴れい制」から労働人間を解放する「最後のたたかい」、すなわち、世界における社会主義革命の肯定と実践。第四に、共同ではたらき、くるしみ、たたかい、「10月のはなぞの」をつくる「労働下層人民」、「攻撃する階級」、そしてその核である「党」への信頼(これは、プロレタリア愛国主義、プロレタリア国際主義としてもあらわれる)。第五は、「ふつうのこども」としてうまれ、「きみたちやわたしとまったくかわらない」、「もっとも地上てきな」、そして「なかまにはやさしく、へりくだり、敵には鉄よりもかたくたちむかう」レーニンの人間らしさ、労働大衆「ひとりひとり」とのむすびつきのかたさの強調。なお、これらの点それそれはマヤコーフスキーの10月革命後の作品の重要なテーマとなっている。
 徹底した人間主義という基本思想によって歴史とレーニンをはっきりとてらしだすことによって、この長詩「レーニン」は二〇世紀の、つまりソビエト(「労働者・農民代表会議」という一段的意味での)時代のかきものとしての基本性格をもち、また、芸術性をともなって20世紀文学の重要作品(とくに、レーニンについてのもっともすぐれた作品)となり、10月革命後のマヤコーフスキー自身を体系的にあらわすかれの代表作品となっている。
 一九二四年一〇月一八日、モスクワの出版会館でマヤコーフスキーははじめてこの長詩を朗読発表したが、そのあとにだされた「なぜ政治学教程をかいたのか?」という質問に対して、「いままでに政治学教程を学習してなかったものたちの勉強のために」とこたえ、さらに、「詩人としてとどまったまま、わたしはこの叙事詩をかいた。とてもむずかしかった」とのべた(「マ年代記」二一六ページ)。では、政治学教程、わたしのいう歴史的論理がどのように文学化されているのか? (詩の構成――「わたし」の創作の動機と立場をのべるまえがきとレーニン前史とからなる第一章、詩全体のクライマクスであるスモールヌイの場をふくむ、レーニンの活動史をえがく第二章、この詩の「抒情的結末」(V・ドゥワーキン)――レーニンと告別する「わたし」たちの悲しみが昇華する第三章。なお、底本の「マヤコーフスキー全集」第六巻でなされていない、各章のなかの段落のくぎりは、ソ連「プログレス」版英訳本にしたがい、星印でおこなった。
 まず第一に、その叙述は弁証法的である。これは、矛盾と対立によって発展する歴史的論理という内容のあらわれである。ふるいものとあたらしいものとのたたかい、そのたたかいにおけるあたらしいものの勝利による人間社会の発展のしかたが叙述に反映しているわけである。この点にこそ叙事詩「レーニン」の表現力のみなもとがある。レーニンの死とその偉大さについてのといにはじまり、レーニンの「復活」によってこたえをしめくくる、詩全体の弁証をはじめとして、神や暴君に対する人間レーニン、資本主義に対する共産主義、ブルジョア「民主主義」に対するプロレタリア「独裁」、社会民主党に対する共産党、白軍に対する赤軍、また、「文学」的文学に対する「政治」的文学、宗教に対する科学、理論に対する実践、……このように、歴史、とくに20世紀の歴史の重要な矛盾もしくは対立(ソビエト社会のそれもふくめて)がはっきりとつかまれ、そのなかであたらしいものが肯定され、このようにして、人間の歴史をおしすすめる英雄レーニンの偉大さがおのずからあらわれてくる。
 第二に、歴史は「わたし」によって、いいかえると、叙事は主観によっていきいきした、感動的なものとなっている。この点についてK・ゼリンスキーはつぎのようにかいている、「マヤコーフスキーは叙事詩のはじめの行を歴史年代記の調子で発音した。『時間だ、レーニンの はなしを わたしは はじめよう。』しかし、そのあと叙事的な調子は個人的な、抒情的な、そしてふかくひめられた体験をつたえる調子にとってかわられた。これは、詩人のかれがレーニンにどう対しているか、かれがレーニンをどう理解し、レーニンがマヤコーフスキーの生活でなにを意味したか、についてのものがたりであった」(「マ年代記」二一四ページ)。「わたし」はレーニンとともに過去の主要な諸事件の部分となるとともに、自分のめ(感覚と意識)をとおして歴史を壮大な絵まきものとして展開する。叙事詩のはじめから公然とあらわれる、このきわめて個性的な「わたし」――叙事詩「いいぞ!」のはじめには、「真実と ふたりづれの こころ」としてあらわれる――は読者のひとりぴとりにとおいむかしをも人間の、すなわち自分の歴史としてなまなましく感じさせ、歴史のながれにひきこみ、そのなかで感じさせ、かんがえさせる。この「わたし」はレーニンとおなじく「意識した集団」の個人であり、「意識した集団」の思想、すなわち、この詩の思想にむかって人間感情のとびらをおおきくおしひらいてゆくのである。このレーニン伝は平板な記録映画ではなく、回想形式の芸術映画であり、レーニンの葬儀にはじまり、二〇〇年前にさかのぼり、ふたたび葬儀にもどる基本構成も「わたし」によって自然なものとなっている。
 第三に、表現やことばの特徴についてのべておく。「わたしは 詩人の ひびくちからを すべて きみに ささげる、攻撃する 階級よ。」――これはマヤコーフスキーの政治的立場とともに文学的立場、表現の基本をはっきりとしめしている。かれの詩は勤労大衆、とくに労働者階級を対象としており、そのことはかたりことば(日常口語)、形式にとらわれないリズムの使用ともなり、朗読による作品発表ともなってあらわれた。また、かれのほとんどの印刷された詩は、よみかたも意味もあいまいな詩とはちがい、句読点をもつばかりか、韻をおわりにもつ節の各行すらも「階段」くぎりによってよみかた、すなわち意味がはっきりと規定されている。このようなくぎりでよまれねば、「ひびくちから」となりえないのである。
 マヤコーフスキーには10月革命を主題にした叙事詩「いいぞ!」(一九二七)がある。この「いいぞ!」は諸現象のスケッチが主で、各人物についての描写も具体的であるが、「レーニン」は、二つの場面(10月革命はじめのスモールヌイと組合会館におけるレーニンとの告別)をのぞくと、かなりながい歴史の本質的要素についての壁画であり、そこではレーニンと「わたし」をのぞくとさまざまな社会勢力が「登場人物」となる。にもかかわらず、マヤコーフスキーの形象化のちからによって、それらも抽象的にはえがかれていない。たとえは、「レーニンの ことばは/よい つちに おちる。//おちれば/すぐと/事業が そだち、//ほら、すでに/いく百万の 農民が//労働者と かたを くんでいる。」
 かれの比喩はわかりやすく(誇張になることもある)、かつ階級的である。反革命の「野獣」、ボルシェビキーの「鋼鉄」、「党の噴火口」、第一次世界大戦の「世界一のひきにく機」、「あかい一〇月のはなぞの」、ブルジョアの「舌は議会」……そのみごとな例は、レーニンと世界人民との告別がおこなわれた四日間のよるについてのつぎの描写である。「まるで/よるも なく、よるの ほしもなく、/合衆国の ニグロたちが/レーニンのうえに/なみだしているようだ。」(マヤコーフスキーの詩の内容がきわめて政治的であり、「詩」語がきわめて日常的であるとともに、その比喩が階級的である点に、よむのがむずかしく、翻訳のまちがいのおこりやすい原因、ソ連人をもふくめ、かれの詩についてのこのみが極端にちがう原因のひとつがある。)
 それ自体ひびきよく、わかりやすい、レーニンのことばがすぐれた模写のように詩として消化されていることもこの長詩の表現の特徴である。
 マヤコーフスキーは、うえにのべたような叙述法、表現技術、日常口語、また新造語をもちい、さらに、ひびきよくつたえるため行末に韻をふみ、各部分にふさわしいリズムをつくりだしているが、そのための無理や冗漫さや空虚なことばはない。(ただし、簡潔であるがゆえに、四〇年たった今日、しかもニホンではぴんとこない語句があるのはやむをえない。)
 原文三〇〇〇「階段」のこの叙事詩ははじめの三段からは、レーニンのしんだ一九二四年一月二一日からしばらくしてかきはじめられたようにとれるが、自伝によると構想は一九二三年からかんがえられていた。最初の発表は一九二四年一〇月一人日、「労働者のモスクワ」紙に第二章の部分がのり、そのよる出版会館(モスクワ)でマヤコーフスキーはいつもとちがって興奮し、緊張して全部をよみあげた。そのごソ連各地で朗読し、また各地の新聞、雑誌が部分をのせた。「おおくの労働者集会でよんだ。この叙事詩についておおいに心配していた、単なる政治的おしゃべりにひきさげられやすかったからだ。労働者聴衆の態度はわたしをよろこばせ、この叙事詩の必要性についての信念を確認した」(自伝)。しかし、党員および青年労働者たちの「拍手」にもかかわらず、当時のソ連文学界は「レーニン」をほとんど黙殺した。(マヤコーフスキーに対する文学界の、このような否定的態度は、かれの最初の作品集シリーズの発行のおくれともなり、かれの自殺の一因ともなった。)単行本としての最初の出版は一九二五年である。現在のソ連ではソビエト文学の重要作品、レーニンをえがいたすぐれた文学作品、そしてマヤコーフスキーの10月革命後の代表作、かれの円熟期のはじまりをしめすものとされている。
 レーニンはマヤコーフスキーの詩をこのまなかった。革命支持、反動的美学否定、新形式追究のロシア未来派詩人として出発したマヤコーフスキーは、国内戦時代の煽動時事ポスター「ロスタのまど」(えと文句)をかくことをとおして思想をみがき、形式の「かざり」(きざなことばづかいなど)をおとしていったが、一九二二年ごろまではなお初期のおもかげをのこしていたからである。しかし、レーニンはかれの詩の政治性はみとめていた。レーニン自身もソビエト社会内部の敵とみなしていた官僚主義をするどく調刺した「会議屋たち」(一九二二)をよんだとき、つぎのようにのべた、「きのう、ふと『通信』〔イズウェースチャ〕紙でマヤコーフスキーの政治的主題の詩をよんだ。この分野での自分の無資格は完全にみとめるが、わたしはかれの詩的才能の崇拝者ではない。しかし、政治と行政の観点からこんな満足をあじわったことはひさしくなかった。その詩のなかでかれは徹底的に会議をあざわらい、会議また会議をくりかえすといって共産主義者たちをあざけっている。詩としてはどうかしらないが、政治からみれば、この詩はまったくただしいことを保証する。」(「通信」一九二二年三月八日、傍点は訳者。)そして、マヤコーフスキーもそのころについてのちに(一九二五)ある友人にこうかたった、「イリーチはうまくいったものだ。あのころのわたしはどんな共産主義者でありえたろうか?」(E・ナウーモフ「レーニンとマヤコーフスキー」――「マヤコーフスキー新資料」モスクワ・一九五八・二一三、二一五ページ)。マヤコーフスキーは「いいぞ!」(一九二七)、抒情詩の「ウラジーミル・イリーチ!」(一九二〇、叙事詩「レーニン」の基本構想のスケッチ)、「わたしたちは信じない!」(一九二三)、「共産青年同盟のうた」(一九二四)、「レーニンはわたしたちとともに」(一九二七)、「同志レーニンとの会話」(一九二九)、「レーニン主義者たち」(一九二九)などでレーニンを主題にしているほか、おおくの詩で共産主義もしくは共産党の象徴としてレーニンをもちいている。
 この訳につかった一三巻全集のテキストは、その注によると、最初の作品集シリーズである一〇巻選集(一九二七―三三)第三巻(一九二九)のものに八ヵ所訂正をくわえたものである。


     2

 マヤコーフスキーは、「詩の翻訳はむずかしいが、わたしのはとくにむずかしい。わたしが日常口語を詩にいれているからでもある」(ポーランドの翻訳家A・スチェルンの「おもいで」――「マ年代記」三一六ページ)とのべており、俗語、造語も出没し、ロシア人もよく、むずかしい、という。しかし、わたしの経験では、それらのことにあまり気をうばわれ、簡潔で、しかも一見意外な、もしくは飛躍的な表現の論理性をみうしなう危険がおおきい。マヤコーフスキーは、さきほどのことばのあとに俗語表現の一例をあげたのち、自分の「詩全体のあちこちにそのような会話がひびく。このような詩はことばの体系全体を感じとるときにのみ、理解でき、するどいものとなる。ことばのあそびとしては、ほとんど訳しえない」とのべている。誤訳は結果的には意味のとりちがえであるが、飯塚書店版「マヤコフスキー選集V」の全訳では、詩全体の内容把握のあやまりから誘発された過ちがおおいようである。
 とはいっても、わたしの訳が完全なものであるとはおもっていない(事実、思潮社版にもいくつかの誤訳があった)。わたしは内容をまちがいなくつたえることを第一の目的とした。原詩のもつ脚韻とりズムをうつすことは言語体系のちがいから不可能であるが、行のもつ感じをつたえる努力はしてみた。「階段」くぎりはほぼ一致させたが、行末に、脚韻をもつ重要語のあることのおおい原詩の語順をまもることはほとんど不可能である。原詩によくみられる行中の音あわせはやってみた。例――「都会は っぱらい、/ちあげ、/きあつめて」(原文の音はgr)、「その男しゃくを おっことすと、/すぐと コルチャークだ。」(原文には音あわせなし)、「ふゆの まに/いたちんぼした。」(原文ではu)。
 長詩「レーニン」をかいたとき、マヤコーフスキーは、レーニンをそこないはしないか、ということをもっとも心配したが、当時の労働者も歴史もかれのえがきかたのただしさを証明した。しかし、わたしはレーニンを、そしてマヤコーフスキーをそこなったのではないだろうか?
 「生も死もあたらしくはない」という意味の二行詩をのこして自殺した詩人S・エセーニン(一八九五―一九二六)に対して、「いまは/ペンにとって つらい とき、//……よろこびを/未来の ひびから うばいとらねば/ならない」とうたいかえしたマヤコーフスキーは、労働者たちの支持をますますつよくうけながら、「こえをかぎりに」(未完の長詩の題)ソビエト社会のかがやかしいひを、共産党中央委員会に「一〇〇巻もある、わたしの、党の本」をさしだすそのひをうたいだしてまもない一九三〇年四月に自殺した、「ニホンのさくら」など、「まだかけないでいるすべてに借金している」(「詩についての財務監督官との会話」一九二六)ままで。その原因についてはいろいろといわれているが、「かれは小ブル詩人だ」、「かれの詩は政治評論だ」、「わかりにくい」とけなし、また黙殺したソ連文学「指導部」の態度その背景にあったロシア共産党の状況)が原因のひとつであったことはまちがいない。(ほかに、のどの病気、失恋、友人たちとの不和などがあげられている。)真の意味での「10月革命」はながいものである。しかし、自殺しなかったとしても、あの「三〇年代」を「真実とふたりづれ」の詩人がいきぬけたかどうか? 歴史は複雑なものである。一九三五年にスターリンはこうのべた、「マヤコーフスキーはわたしたちソビエト時代のもっともすぐれた、才能ある詩人であったし、また、いまもそうである。かれの記念やかれの詩についての無関心は犯罪である。」このことばの前半は、そのこのソ連におけるマヤコーフスキー評価の基準となったし、わたしの考えでは、いまも、これからもただしい。この基準はいわゆるフルシチョフ時代(かれの失脚後もふくめて)にもうけつがれてはいるが、マヤコーフスキーがいまもいきているとすれば、現在のソ連をどうみるだろうか?
 ともあれ、マヤコーフスキーはこう遺言している――
 「わたしはゆきつくぞ、/きみらの ところ、/はるかな 共産主義へ。……わたしの詩は とどくのだ、/いく世紀の みねを こえ、/詩人や 政府の/頭上を こえて。//……わたしの 詩は/じぶんの 労働で/巨大な 年月を つきぬけ、//どっしりした、/けんごな、/すばらしいものとなるだろう。//」(「こえをかぎりに」一九三〇)

          一九六四・一一 訳者



訳注



     まえがき

 この訳注は大月書店版抄訳(1952年)および思潮社版全訳(1965年)のそれを改訂,かつ大幅に増補したもので,下記の諸本のうちの叙事詩「V.I.レーニン」ロシア語原文および他国語訳の各本の編注または訳注の項数および内容をしのぎ,ウェーロフ注解本中のテキスト注釈の項目をほぼふくみ,さらに,歴史にいき,語句を精選したマヤコーフスキーの代表作についての理解をたすけるために歴史事項やロシア語訳などについての注をくわえた(たとえば,日本では特殊な意味で理解されているロシア語「ソビエト」について).ただし,ドゥワーキン本とウェーロフ注解本にある,意味をとるためだけの語釈や,「校正」,「輪転機」など,日本では普及している語についての説明はとりいれなかった.詩テキストの同一語句について注解者,訳者の解釈がことなる場合はそれら諸説をあげた.ソ連版諸本の編注,訳注(とくにロシア,ソ連に関するもの)もできるかぎりソ連版の「ソビエト歴史百科」または「ソビエト大百科」でチェックし,差異あるときは原則としてそれら百科にしたがった(たとえは,注55中のバザーロフは「マヤコーフスキー全集」第6巻の編注ではメンシェビキーだが,「ソビエト歴史百科」にしたがい,ボルシェビキ一とした).年月日は,ロシアでは1918年1月まで旧暦(ユリュウス暦)をもちいていたので,それまでのロシア関係事項には同暦をしるし,そのあとの括弧内に該当するグレゴリー暦(私たちが現在用いているもの)の年月日をいれた:例――10月25日(11月7日)社会主義革命.旧暦は19世紀で12日おくれ,20世紀で13日おくれである.原文を引用するときには,原則としてロシア文字をローマ字にかえて表記した.注に引用されるマルクス,エンゲルス,レーニン,スターリンの文章(または話)とその題の訳はすべてそれぞれ大月書店版日本語訳のそれぞれの全集によった.引用文のあとに該当する巻を○内にいれ,該当ページをしめした.引用文外では,引用文中の訳語を用いない場合もある.たとえは,「全同盟……」.「ネプ」,「ウラヂヴォストク」は引用文外ではそれぞれ「全連邦……」,「ネプ」.「ウラジウォストク」となっている.


 
         とくに参考にした資料
            (略語:R―ロシア語,E―英語,Ch――中国語
               ;M―モスクワ,L―レニングラート)

 A.ソ連版
1.(R)「ウラジーミル・マヤコーフスキー作品全集〔Vladimir Mayakovskiy: Polnoe sobranie sochineniy〕Vol. 6(「芸術文献」出版所・M・1957)1924-25年前半の作品;叙事詩「レーニン」への注はYu. L. Prokushev. 本書の訳注では「マ全集」Eと略記する.

2.(R)「V.マヤコーフスキー2巻詩集〔V. Mayakovskiy: Sobranie Stikhotvoreniy v dvukh tomakh〕」Vol. 1(「ソビエト作家」出版所・L・1950)長詩と詩劇;注は V. Katanyan. 本書訳注に指摘する4つの削除がある(以下,「削除がある」はこの意味).

3.(R)「V.マヤコーフスキー:長詩をふくむ詩選〔V. Mayakovskiy: Poemi. stikhotvoreniya〕」(ロシア共和国教育省「学習・教授」出版所・M・1958)編者は Z. A. Bogdanova. 削除がある.

4.(R)「V.マヤコーフスキー:ウラジーミル・イリーチ・レーニン〔V. Mayakovskiy: "Viadimir Ilich Lenin"〕」(ロシア共和国教育省「児童文学」出版所・M・1960)注は V. Duvakin. 削除がある.

5.(R)「ウラジーミル・マヤコーフスキー:長詩をふくむ詩選/各詩についての V. D. ドゥワーキンの解説〔Viadimir Mayakovskiy: Stikhi i poemi. Stat'i o stikhakh i poemakh V. D. Duvakina〕――非ロシア人学校用学校図書〔Shkolnaya biblioteka dlya nerusskikh shkol〕(ロシア共和国印刷・出版委員会「児童文学」出版所・M・1972)約60の詩のそれぞれに解説がついている.叙事詩「レーニン」には,13ページの構成解説のほか,詩テキスト中にあるマヤコーフスキーの造語や非ロシア人にとっての難語についての説明もふくむ,おおくの注がついている.マヤコーフスキー研究者必読の書.本書訳注では「ドゥワーキン本」と略記する.なお,Mr. ドゥワーキンは私への手紙で,かれがよりくわしく注をつけたものとして次の書をすすめている:
「V. V. マヤコーフスキー:選集――長詩をふくむ詩および散文〔V. V. Mayakovskiy: Izbrannie proizvedeniya. Stikhi. Poemi. Proza〕(上記出版所・M・1967)

6.(R)I. M. マシビーツ=ウェーロフ Mashbits-Verov「V. V. マヤコーフスキーの叙事詩『ウラジーミル・イリーチ・レーニン』への教師用注解〔Poema V. V. Mayakovskogo "Vladimir Ilich Lenin" Kommentariy. Posobie dlya uchitelya〕」(ロシア共和国印刷・出版委員会「教育」出版社・M・1974)注解の課題,全体解説,部分注解,結論の4章からなり,部分注解は長講の約100箇所,約1120行(約2/5)についておこなわれている.全体解説では,この作品についての評価の考察が注目される.研究者必読の書.本書訳注では「ウェーロフ本」と略記する.

7.(R,E)D. ロッテンベルク Rottenberg 訳「V. マヤコーフスキー:ウラジーミル・イリーチ・レーニン」(「プログレス」出版所・M・1967)英語対訳は,英詩としてのスタイルを重視したためか,原詩句の意味が正確につたえられていないところがみうけられる.

8.手紙(テキストについての訳者の質問に対する返信.いずれもロシア語.)
1) 国立マヤコーフスキー博物館からの1964年11月10日づけ返信――9項の質問に対して.サインは研究員 I. Pravdina.

2) 同博物館からの1975年10月10日づけ返信(本訳注では「第2信」と略する)――39項の質問に対して.サインは館長 V. Makarov.

3) 同博物館からの1976年2月18日づけ返信(「第3信」と略する)――11項の質問に対して.サインは第2信と同じ.
4) Mr. V. D. ドゥワーキンからの1976年2月17日づけ返信(「ドゥワーキン返信」と略する)――上記6のドゥワーキン本の解説と注をよんでからだされた16項の質問に対して.


 B.中国版(「レーニン」の全訳のみ)
1.(Ch)フェイ・パイ〔飛白〕訳「レーニン〔列寧〕」(文芸出版社・シャンハイ・1960)かなり正確な訳.削除がある.

2.(Ch)ユィ・チェン〔余振〕「レーニン〔列寧〕」(人民文学出版社・ペイチン〔北京〕・1953)前者におとる.削除がある.


 訳注
〔1〕 V. I. レーニン(1870年うまれ)は1924年1月21日に静養先のゴールキ(モスクワの南35q)で死去.

〔2〕 この3行の原文は "Nashe znanye――/sila /i oruzhie." (「マ全集」E p. 233;それ以前の版のテキストでは "――" のかわりに ",").つぎの2つの解釈が可能となろう.1.「(レーニンについての)わたしたちの知識は力と武器だ.」(マヤコーフスキー博物館第3信によれば)2.(レーニンは……)「わたしたちの知識(すなわち)力,そして武器だ.」(ドゥワーキン返信には"Znanye" のあとにはコンマを.うたがうな.」ただし,ドゥワーキン本の諸テキストにも "――".)前者をとった.

〔3〕 この2行はレーニン死後の全連邦諸ソビエト第2回大会(1924年1月26-2月2日)第1日にI.スターリンがのべた誓いをわたしにおもいださせた:「われわれからさるにあたって,同志レーニンは,党員という偉大な名称を高くかかげ,かつ清くたもつよう(中略)わが党の統一をひとみのようにまもるようにわれわれに遺言した.」(「レーニンの死について」E pp. 60-61;下線はウサミ)

〔4〕 注12,142をみよ.

〔5〕 ロシア皇帝宣言文のかきだし:「神のめぐみにより,朕(ロシア語で mi;この語はふつう「わたしたち」の意――訳者),すなわち,全ロシアの皇帝にして専制君主たるニコラーイ2世(または別の名――訳者)は……」の最初の句がもちいられている.なお.マヤコーフスキーは,彼の詩には ya「わたし」という語がおおいという批判に,ロシア皇帝は mi と称したが人民の代表たったか,という皮肉な答をした.

〔6〕 以下14行が削除されている版がある.

〔7〕 中世ロシアのとりで.ここのように,18世紀はじめまで皇帝(ツァール)がすみ,1918年3月以後ソビエト政府のおかれている,モスクワのそれをさすことがおおい.

〔8〕 ソビエト国家の安全をまもるための「全ロシア反革命・怠業取締非常委員会」のロシア語略称「ウェー・チェー・カー」をさらに略したもので,ここではその委員,勤務員(チェキスト)をさす.1917年12月レーニンの提案で人民委員会議〔ソビエト)(他国の政府にあたる.注78)に付属して設置され,社会民主労働党(ボ)中央委員F.M. ジェルジンスキー(1877-1926)がその議長となり,ルビンスキー広場(俗称ルビャンカ,現ジェルジンスキー広場)におかれた.この委員会は1922年2月に国家政治保安部(ロシア語略称「ゲー・ペー・ウー」)に改編.なお,ジェルジンスキーはレーニン葬儀委員長となった.また,マヤコーフスキーはいくつかの詩のなかでジェルジンスキーを共産主義的人間の典型としてあげている.この3行の意は.レーニンの葬儀の日,ソビエト人民は大きな悲しみに結びあわされ,社会王義革命の成果をまもる決意にもえ,みんなが「チェーカー」だ.

〔9〕 古代ペルシアの州大守,転じて暴君.古代オリエント諸国のかい戦将軍は軍用軽馬車で民衆のなかにいかめしくのりこんだ.

〔10〕 レーニンのシベリア流刑時代(シューシェンスコエ村で1897-1900年),ちかくにいた革命家G.K.クルジジャノーフスキー(1872-1959)はかれについてこうかいている:「氷点下のすんだ大気,速歩,スケート,チェス,狩りの大愛好者だった.」(「マ全集」E p. 522)
 チェスに「一時はあまり夢中になって,『向こうがここに”馬”〔チェスのこまの名称〕なら,こっちはそこに”城”だ』などと寝言でわめくほどだった.……ロシア(ヨーロッパ部のロシア――ウサミ),に帰ってから,ウラジーミル・イリイチは,『チェスはおもしろすぎる.これでは仕事のじゃまになるから』と言って,チェスをやめてしまった.」(クルプスカヤ著,松本滋・藤川覚訳「レーニンの思い出」pp. 33-34:大月書店・1970)しかし,他の同時代人の記録によると,かれはやめなかった.

〔11〕 「歩」はもっともよわい駒,すなわち,従属し,圧迫されるものの意.チェスも「キング」をとる勝負だが,マヤコーフスキーはつよい駒のひとつ「塔」(原文は,フランス語 la tour からの tura. いまのロシア語では lad'ya という語のほうがよくつかわれる.英語では rook または castle で,普通「城」と訳されている)を人間抑圧の資本主義の形象としてもちいている.その形が塔つきの要塞(帝制ロシアではよく監獄となっていた.たとえば,注34のシリッセルブールク要塞監獄)をすぐ連想させるからであろう.

〔12〕 1924年1月23日レーニンの棺はゴールキ(注1)の家からスターリンら党中央委員たちによってかつぎだされ(9時),ゴールキ駅から列車でモスクワ終着駅のひとつパウェレーツキー駅につき(13時).市中央のボリショイ劇場そばの組合会館までスターリンら党,政府,その他の機関の代表たちの手ではこばれて,その円柱の間におかれ,27日9時までの4昼夜,外国人もふくめ70万人が告別した.その間,棺のそばに前記の代表たちが儀仗兵として交代でたった.

〔13〕 ウリャーノフはレーニンの本姓.その「生涯」とは,レーニンの肉体的一生をさす.

〔14〕 蒸気機関(発明は1765年)によって特徴づけられる資本主義生産(企業)の始まり.ブロムレイとグジョンは19世紀後半モスクワにできた冶金工場(いずれも経営者のフランス人の名)で,現在の工作機械工場「あかいプロレタリア」と製鋼工場「鎌とハンマー」(ソ連版「ソ連大百科」による.「マ全集」Eの編注は,革命前のモスクワとペテルブールクの大冶金工湯としているが).

〔15〕 帝制時代のモスクワ,ペテルブールクなどの大食料品店の経営者で,帝室御用商人.

〔16〕 アルゼンチン南部の州(南アメリカ最南端).19世紀,パタゴニアのインディアン原住民は彼らの土地をうばったアルゼンチン地主,外国会社とたたかった.1921年の日やとい農民反乱はアルゼンチン支配層に弾圧された.

〔17〕 イワーノウォ・ウォズネセンスクはロシアの綿工業と革命運動の中心地のひとつだった(現イワーノウォ).1905年に大ストライキがおこり,ロシアの初期ソビエトのひとつとして「労働者代表ソビエト」ができた.

〔18〕 17世紀後半のウォルガ川・ドン川流域農民反乱の指導者スチェパン・ラージンの愛称.1671年6月モスクワの「あかい広場」で処刑された.

〔19〕 原語 gorodovoy;17-20世紀初めの警吏(「ソ大百科」).1917年2月革命後,帝制の警察機構は廃止され,民警〔ミリーツィヤ〕がそれにかわった(菊池昌典「ロシア革命史」中央公論社・1968).

〔20〕 有名なフランス革命歌(1792年ルージェ・ド・リール作).マルセーユの革命義勇軍がパリにうたってきたためこうよばれるようになった.現フランス国歌.マヤコーフスキー自伝「わたし自身」の1905年の項にもあるように,ロシアでも革命歌としてうたわれた.

〔21〕 旧約聖書副世記から:豊かな草をたべていた太った牛7頭がやせた牛7頭にたべられた夢をエジプトのファラオ(王)がみた.ウェーロフ本はブルジョアジーの運命を暗示する語と説く.

〔22〕 種々の美術様式を機械的にまぜあわせて大邸宅を飾った19世紀末ブルジョアの非文化性をさす.「アンピール」(フランス語で「帝国」)は19世紀初めのフランス様式,「ロココ」は18世紀なかばにヨーロッパではやった様式,「ルイ・カトールズ」(「カトールズ」はフランス語で14)は17世紀後半―18世紀初めのフランス様式.

〔23〕 社会主義社会での個人的愛情についての長詩「これについて」(1923年)をかいたことで,マヤコーフスキーは当時属していた文芸団体LEF〔レフ〕(芸術左翼戦線)の仲間たちから非難された.

〔24〕 サン・シモン(1760-1825),フーリエ(1772-1835),ロバート・オーエン(1771-1858)らの空想的社会主義をさす.「ユートピア」(ギリシア語で「存在しない場所」の意)はトーマス・モーア(1478-1585)の空想社会小説.

〔25〕 カール・マルクス(1815-1885)は「資本論」,「共産党宣言」(エンゲルスとの共著)などで科学的社会主義の理論をつくり,国際労働者協会(いわゆる第1インタナショナル:1864-76)創立に参加,マルクス起草のその宣言は,「共産党宣言」同様に,「万国の労働者よ,団結せよ!」というアピールでむすばれている.

〔26〕 「金《きん》の子牛」は旧約聖書の列王記前書,出エジプト記で金製の偶像.金力,富をも意味するようになり,この2行はその巨大化をいう.

〔27〕 一般にはフランス,イタリアなどの「地方自治体」だが.1871年3月18-28日のパリ・コミューン(世界最初の労働者政府)をさすこともおおい.その後継者としてみずからを「ロシフ・コミューン」とも称したソビエト・ロシアでは,1920年ごろまで村落共同体から大組織にいたるまでこの語を名称にくわえることがはやったようだ.

〔28〕 パリ・コミューン(前注)は,L.A.チエール(1797-1877)を大統領とするブルジョア政府によって弾圧され,最後にその参加者たちはパリのペール・ラシェーズ墓地の壁で銃殺され.そこに葬られた.私がいつおとずれても,「コミューン戦士の壁」には花束があり,そのまえの墓地第97区には有名な共産党員やナチ犠牲者の碑がおおい.レーニンはチエールについて「ブルジョアジー」の「血にうえた小人《こびと》」とのべた(「コミューンの思い出」P p. 135).

〔29〕 ロシア帝国(およびソ連)の貨幣単位で,ルーブル金貨もあった.ここでは,金をさす.

〔30〕 この3行は,マルクス=エンゲルス「共産党宣言」(1848年)のかきだし:「1つの妖怪がヨーロッパをさまよっている――共産主義の妖怪が.」にもとづく(C p. 475).

〔31〕 レーニン(本姓ウリャーノフ)は1870年4月10(22)日にウォルガ川岸のシンビールスク(現ウリャーノフスク)市にうまれた.

〔32〕 原文 tserkovnimi slavyanskimi kryukami. マヤコーフスキー博物館第2信には「宗教文語としての『古代スラブ語』」(その1部はロシア語にはいった)とあるが,"Kryuki"(かぎ)は11-18世紀のロシア宗教曲につかわれた線なし楽譜の音符(そのうち,かぎ形のものがよくつかわれた)をいうのだから,スラブの,すなわちロシア正教会の讃美歌と解すべきであろう.

〔33〕 ロシアのナロードニキ主義(人民者主義)のスローガン.農奴制ロシアで資本主義が未発達だった段階におこった,雑階級知識人の革命思想とその運動(19世紀後半).農民の革命化による農民の解放,専制の廃止をめざす空想的農民社会主義で,思想家のA.I.ゲールツェン(1812-1870)とN.G.チェルヌィシェーフスキー(1828-1889)によって基礎がおかれた.1860年代−70年代の,すなわち初期の革命的ナロードニキ主義と1880年代−90年代の,すなわち後期の妥協的合法的な自由主義的ナロードニキ主義とに区別される.ロシアで最初の全国的革命団体の(第1次)「土地と自由(または意志)」派の結成(1861)から「人民のなかへ(ウ・ナロート)はいる一連動(1874−1875)をへて(第2次)「土地と自由」派の結成(1876)にいたると,弾圧とあせりから専制代表者への個人テロが重視され,同派の分裂でうまれた「人民の意志(または自由)」派(1879−1881)はテロを主要手段として専制をはげしく攻撃し,1881年3月にはアレクサンドル2世を暗殺したが,政府も大弾圧で応じたので,その中央機関は壊滅した.こののち,大多数のナロードニキは,ロシアでの資本主義の発達と労働者階級の役割をみとめずに,マルクス主義に反対し,社会主義革命に農民を反対させる自由主義的ナロードニキとなり,20世紀はじめには社会革命党(注44)を形成する.

〔34〕 アレクサンドル・イリーチ・ウリャーノフ(1866年生れ)はアレクサンドル3世暗殺計画参加者として1887年3月1(13)日逮捕され,5月8(20)日仲間たちと処刑された(注33参照).実際に「千人め」として処刑されたのかは不明で,ドゥワーキン返信によれば,「具体的な数字ではなく,『帝制によって処刑された多数のもののひとり』の意」.マヤコーフスキー博物館第3信にも同様な説明.
 シリッセルブールクは14世紀にできた要塞.18世紀以後帝制ロシアの重要政治犯がいれられ.処刑された監獄.ラードガ湖のネワー川(レニングラートにそそぐ)流出口ちかくの島にあった(現ペトロクレーポスチ).十月革命後に博物館となる.

〔35〕 レーニンの妻N.K.クルーブスカヤ(注146)は「イリーチの少年時代と青年時代初期」のなかで兄の運命が17歳の少年にあたえた大きな影響についてこう書いている:「その後,かれはいろいろと思いめぐらした.あらためてチェルヌィシェーフスキーにひきつけられ.マルクスのもとに回答をもとめはじめた.兄は『資本論』をもっていたが,以前のイリーチには理解しがたかった.しかし,兄の刑死後あらためてその研究にとりかかった.兄は5月8日に処刑されたのだが,この知らせをうけたウラジーミル・イリーチ・レーニンはいった:『ちがう,わたしたちのゆくのはこのような道ではない.このような道をとらずにゆかねはならない.』」(「マ全集」E 編注より.該当箇所はクルプスカヤ著,高橋勝之訳「レーニンについて」上,pp. 59-60:新日本出版社・1970).
 レーニンはN.チェルヌィシェーフスキー(注33)をふかく尊敬していた.

〔36〕 原文 Stanet Gogolem. この句は慣用句 khodit gogolem(気どる;この句での gogol は,きれいな「ほおじろがも」)と stanet kak pamyatnik(記念碑としてたつ)とにひっかけてある.マヤコーフスキーがモスクワにきて(1906年)間もなくプレチンスチェンスキー(現ゴーゴリ)遊歩道にゴーゴリ生誕100年記念にその銅像がたてられた.(以上はドゥワーキン本による)以下7行は,民衆をみちびく英雄を讃美した,1890年代はじめのナロードニキとレーニンとの対比.N V.ゴーゴリ(1809-52)はウクライナ出身のロシア作家で,作品に「タラス・ブーリバ」,「死せる魂」,「検察官」,「外とう」など.マヤコーフスキーの作風に影響をあたえた.

〔37〕 100カペーク=1ルーブル(注29).この数行はレーニンの初期パンフ「工場で労働者から徴収される罰金にかんする法律の説明」(1895),「新工場法」(1897),「工業裁判所について」(1899),「ストライキについて」(1899)などをさす.それらはマルクス王義者の政治宣伝,労働者ストライキ運動組織におおいに役だった.レーニンはナロードニキ主義(注33)と,1890年代すえ労働者にかなりの影響をもっていた経済主義に反対したのである.なお,ウェーロフ本(p.79)は,19世紀末の西ヨーロッパとロシアの社会民主主義での修正主義的理論の流行を指摘し,それに対するレーニンの批判を「なにをなすべきか?」(1902年Dp.381)から引用.

〔38〕 1895年秋レーニンが当時の首都サンクト−ペテルブールク(現レニングラート)の約20のマルクス主義的労働者サークルをまとめたもので,ロシアの革命的プロレタリア党の芽ばえ.

〔39〕 またはウラジーミルカ.モスクワからウラジーミル(モスクワの東北にある古都;キーエフ公国のあと,モスクワ公国のまえの12-14世紀ロシアの政教の中心)をとおるウラジーミル街道の俗称.帝制時代,シベリア流刑囚たちはおもにこの道でおくられていった(モスクワとニージニー・ノーウゴロト――ウォルガ川岸の現ゴールキ――のあいだに鉄道ができるまで).のちにモスクワ市内のこの道は,シベリアにおくられた革命家たちを記念して「情熱家とおり」と改称.

〔40〕 東シベリアのふるい都市(チター近く)で,帝制時代の政治犯流刑地(銀,鉛を採掘させた)の中心としても有名.

〔41〕 フェイ・パイの中国語訳は「わたり鳥の道」とし,「シベリアの道のことで,帝制時代,政治犯がたえず流刑地におくられてゆくさまは,わたり烏のとぶようであった.」と説明している.

〔42〕 レーニンのすきだった,有名な革命歌(ナロードニキG.A.マッチェート作詞)「最後のわかれ」(「いましめにさいなまれて……」)より.

〔43〕 次注をみよ.

〔44〕 1890年代−1900年代初めの自由主義的ナロードニキ(注33),自由主義的ブルジョアジー,そして社会革命党の本質は資本の搾取の擁護にあること.
 社会革命党とは.1902年,ナロードニキ主義(注33)諸派の合同によってできた小ブルジョアジー政党くそのメンバーのロシア語略称は「エセール」,その卑称が「エセーリク」).時代おくれのナロードニキ主義と「ロシアのマルクス主義の理論の断片」(レーニン「革命的冒険主義」1902年E p.202)をつぎあわせた理論をもち,専制に反対して民主共和国をめざしたが,プロレタリアート,農民,知識人を区別せず,プロレタリアートの主導権をみとめなかった.「土地の均等使用」という空想的スローガンで1905-07年には農村での影響力をつよめたので,ボルシェビキ一も個々の問題では共闘し,ともに各ソビエト(注70)に参加した.そのあとの反動期には専制に対する個人テロの戦術も成功せず,停滞したが,1917年2月のブルジョア民主革命ののちふたたび活躍し,メンシェピキーとともに大多数の労働者・兵士代表ソビエト,農民代表ソビエトを支配した.そして,ブルジョアジー・地王の臨時政府を支持して,ケーレンスキーらを内閣におくり,富農の反革命党へと変った.1917年10月革命後は外国勢力ともむすんで各地に反革命反乱をおこすとともに(注111),レーニンらボルシェビキー指導者に対する個人テロをおこなうようになった(注113, 119).1921年,指導者たちが逮捕され,亡命して消滅した.(この注は「ソ大百科」による.)

〔45〕 ロシア共和国北部のコストロマー県の小都市で,マヤコーフスキーは,ロシアの後進地の代名詞としてよくもらいた.

〔46〕 ロシア語РКП(б)は「ロシア共産党(ボルシェビキー)」の略.ロシア社会民主労働党は1903年ブリュッセルでの第2回大会でレーニンを支持する多数派,すなわち Bolshe(よりおおい)viki(ものたち)と,少数派,つまり Menshe(よりすくない)viki とに分裂,1918年3月ロシア社会民主労働党(ボルシェビキー)は上記のように改称.ボルシェビキーの日本語訳はながい間「過激派」であった。

〔47〕 現在もレニングラート郊外にあるプールコウォ天文台はこの詩のかかれた1924年に地球と火星の大接近(15-17年おき)の観測に参加.

〔48〕 帝制警察につながる僧侶ガポーン(1870-1906)は1904年ペテルブールクに労働者組織をつくり,1905年1月3(16)日にプチーロフ工場(現キーロフ機械工場)労働者がはじめたストライキが他の工場にも及ぶと,皇帝への請願デモを組織した.1月9(22)日15万以上の労働者とその家族は皇帝の肖像や教会旗をかかげ,讃美歌をうたいつつ,皇帝のいる冬宮殿(現エルミターシ美術館)に進むと,ニコラーイ2世(注69)は軍隊に射撃を命じ,1000人以上が死に,数千人が傷ついた.この1月9日の虐殺.いわゆる,血の日曜日の事件によって帝制の本質が労働者階級にあきらかとなって,ロシアの労働運動は専制打倒の政治ストライキ,武装蜂起にたかまり,軍隊反乱をもふくむ1905(-07)年革命がおこった.イワーノウォ・ウォズネセンスク(注17)の大ストライキ(1905年5-8月),エイゼンシテインの映画で有名な戦艦ポチョームキンの反乱(同年6月オデッサ港で)はそのなかの事件.レーニンは「革命の日々」(1905年1月)のなかで,血の日曜日の事件を「ロシア革命の発端」とし,「『父なるツァー』は,武器をもたない労働者に流血の制裁をくわえることによって,みずから彼らをバリケードにおいやり,バリケード闘争の最初の教訓を彼らにあたえた.」(G p.102,103)とかき,のちに,「1905年革命についての講演」(1917年)では,「広大な人民大衆がこのように政治意識と革命闘争とへ目ざめたことにこそ,1905年1月22日の歴史的意義がある.」((23) p.261)とのべた.

〔49〕 1904年1(2)月に中国の東北(満州)の権益をめぐって日露戦争がはじまるとまもなく,旅順港のロシア艦隊は大打撃をうけ,1905年はじめ旅順陥落につづいて2月奉天(現シェンヤン)ちかくでロシア陸軍は死傷者,捕りょ10万以上の大損害をうけ,さらに同年5月救援のバルチーク艦隊は対馬海峡にほぼ全滅した.「ロシア海軍は決定的に殲滅された.戦争は,再起不能なまでの敗戦であった.満州からロシア軍が完全に駆逐され,日本軍が樺太とウラヂオストックを占領するのは,いまでは時間の問題にすぎない.われわれの見ているのは,単なる軍事的敗北ではなく,専制の完全な軍事的崩壊である.」(レーニン「壊滅」1905年G p.486)こうして,戦勝による帝制維持,革命阻止をねらった政府の意図はついえ,1905年8(9)月,革命を弾圧するため日本と講和した.

〔50〕 ロシア最古の繊維工場――プローホロフ工場のあったモスクワの工業地区(現「ウクライナ」ホテルの対岸)で,1905年革命のピークであった12月9-18日(旧暦)モスクワ労働者武装蜂起の中心.その犠牲者を記念して,1918年「あかいプレースニヤ」と改名.

〔51〕 1905年11月初め(旧暦)レーニンはジュネーブからペテルブールクにもどり,ボルシェビキー中央委員会.その最初の合法日刊紙「新生活」を直接に指導した.

〔52〕 ニコラーイ2世は1905年10月17(30)日宣言,いわゆる立憲詔書で「市民的自由の確固たる諸基礎」を約し,革命勢力を動揺させて,時をかせいだあと,12月に攻勢にうつった.数行あとの「蜜月」(原文では「蜜の週間」medovaya nedelya)はその約1月をさす.

〔53〕 F.V.ドゥバーソフ提督(1845-1912)は1905年11月モスクワ総督となり,モスクワ武装蜂起(注50)に大弾圧をくわえた.

〔54〕 赤衛隊と赤軍(注108後半)に対して,反ソビエト,反革命の国内武装勢力を白衛軍(または白軍)と称した.

〔55〕 1905年革命後の反動期(1907-10)には革命,マルクス主義,民主主義,進歩に反対するブルジョア思想がさかんとなり,社会民主労働党の理論家,作家もマルクス主義を批判し,その1部は社会矛盾を解消する新宗教の創設をとなえた.すなわち.19世紀90年代におこっていた神秘主義悲観主義,個人主義,象徴主義を内容とする「求神主義」(D.メレシコーフスキー,N.ベルジャーェフ,Z.ギッピウス,S.ブルガーコフらが代表)がブルジョア知識階級のあいだにひろまると,それは社会民主労働党にも反映して「建神主義」(原文 bogostroitelstvo は大月書店版「レーニン全集」(35) では「創神主義」と訳されている)派となってあらわれ,メンシェビキーのP.ユシケーウィチ,N.ワレンチーノフら,さらにボルシェビキーのV.バザーロフ,A.ボグダーノフ,A.V.ルナチャールスキー(1875-1933;l917-29年教育人民委員,マヤコーフスキーのよき理解者で社会主義文化の建設者)らもそれを支持した.のちに「ソビエト文学の父」といわれるようになるA.M.ゴールキー(1868-1936)も一時はそうであった.レーニンは「ア・エム・ゴーリキーへ」の手紙(1913年)で,「求神主義が創神主義や,建神主義や,造神主義などとちがうのは,黄色い悪魔が青い悪魔とちがっているというのと,すこしもかわりません.……(あらゆる神は腐敗です――たとえそれがどんなにきれいで,理想的な神であろうと,求められる神でなく創られる神であろうと,同じことです)……」((35) pp.118‐119),「神の観念を擁護したり是認したりすることは,たとえもっとも洗練された,もっとも善意のそれであろうとも,すべて反動を是認することです.」((35) p.124)

〔56〕 1905年の12月モスクワ武装蜂起の失敗ののち,G.V.プレハーノフは,「プロレタリアートの力は勝利するのに十分ではなかった.このような事態は予見できた.だから,武器をとる必要などなかったのだ.」とかいた(「社会民主主義者の日記」ジュネーブ・1905).レーニンは憤然としてこたえた:「新しい爆発は……近づきつつある…….われわれは,武装をととのえ,軍事的に組織され,決定的な攻撃的行動にうつれるようにして,新しい爆発をむかえなければならない.」(「ロシフの現状と労働者党の戦術」1906年2月I p.102)「なにも時機尚早のストライキをはじめることはなかったとか,『武器をとるべきではなかった』とかいう,日和見主義者がこぞってとびついた,あのプレハーノフの見解ほど,近視眼的なものはないのである.それどころか,もっと決然と.もっと精力的に,またもっと攻撃的に,武器をとるべきであった.平和的なストライキだけではどうにもならないということ,恐れを知らぬ,仮借ない武装闘争が必要だということを大衆に説明してやるべきであった.……きたるべき行動の直接の任務として,死にものぐるいの血なまぐさい殲滅戦が必要だということを大衆にかくすのは,自分自身をも,人民をもあざむくことである.」(「モスクワ蜂起の教訓」1906年9月 J pp.161-162).G.V.プレハーノフ(1856-1918)はロシアにはじめてマルクス主義を紹介し,ロシア社会民主労働党を組織(1898年),1903年の党分裂(注46)ののちはメンシェビキーに接近,大戦がはじまると社会排外主義者となる.

〔57〕 1905年革命の敗北があきらかとなった1907年すえレーニンはふたたび亡命し,1917年までの約10年,ジュネーブ,チューリヒ,パリ,クラカウなどで活動した.

〔58〕 1912-14年,ロシアの労働運動はボルシェビキーに指導され,政治要求をもかかげて激化した(たとえば,1914年前半のストライキ参加者数は1905年前半のそれをうわまわった)が,弾圧と世界大戦によってしずめられた.

〔59〕 第1次世界大戦は1914年頁に開始(-1918年).

〔60〕 ウクライーナのポルターワでは,1709年6月27日(7月8日),ロシア軍がスエーデン軍をやぶって,1700-21年北方戦争の勝敗を決した激戦が,ブルガリアのプレーウェン(またはプレーウナ)では,1877年7月-11(12)月ロシア,ルーマニア,ブルガリアの連合軍とトルコとの激戦(1877-78年ロシア・トルコ戦争中のことで,ロシア軍は大損害をうけた)がおこなわれた.

〔61〕 1915-16年にロシアではやったE.ミローウィチの軽喜劇「ウォーワはぺこぺこした」の主人公,いきなブルジョア青年ウォーワは排外的愛国者として「しゃれた勇士」となる.

〔62〕 原文 "ruki predavshie vimir". 慣用句 "umit(vimit とほぼ同義)ruki(手をあらう)は慣用句として「責任をのがれる」の意.キリストを無罪とかんがえながら彼をみごろしにした,ローマの知事ピラトの故事から,ここでは,帝国主義戦争に協力する社会主義者たちについて.

〔63〕 1915年9月5-8日スイスのベルン近くの村ツィンメルワルトでひらかれた社会主義者国際会議(11ヵ国より38名)でし‐ニンは,ヨーロッパの多数の社会主義者が「祖国をまもる」帝国主義戦争を支持していること(いわゆる「第2インタナショナルの崩壊」)を批判し,「自国政府をまけさせよう」,「帝国主義戦争を国内戦争にかえよう」という革命的国際主義の方針をうったえて,ロシアのボルシェビキーを中心に8名でツィンメルワルト左派をつくった.「帝国主義戦争は社会革命の時代をひらく.最近の時代のあらゆる客観的諸条件は,プロレタリアートの革命的大衆闘争を日程にのぼせている.社会主義者の責務は……労働者の革命的意識を発展させ,彼らを国際的な革命的闘争に結束させ,あらゆる革命的行動を支持し,おしすすめ,諸国民間の帝国主義戦争を,抑圧者にたいする被抑圧諸階級の内乱に,資本家階級の収奪をめざし,プロレタリアートによる政治権力の獲得をめざし,社会主義の実現をめざす戦争に,転化させるように努力することである.」(レーニン「ツィンメルヴァルド左派の決議草案」1915年(21) p.357)この会議の宣言には「言いたりなさと不徹底さと,臆病さ」があったが,レーニンらは帝国主義戦争反対の国際的闘争の「第1歩」と評価して,サインした(「第1歩」1915年(21) p.401).

〔64〕 ドイツ側として大戦に参加したトルコはロシアとコーカサス,黒海でたたかった.西部戦線のウェルダン(フランス東北の要塞地帯)とソンムではフランス,イギリスとドイツの激戦(1916年2-11月),東部戦線の西ドウィーナ川(ロシア中部高地に発し,リーガでパルチーク海にそそぐ)下流ではロシアとドイツの戦闘(1916年1-10月)がおこなわれた.

〔65〕 以下数行のアピールは,レーニンが「社会主義インタナショナルの現状と任務」(1914年11月)でのべた次の文の1部ににている:「諸国民の戦争を内乱に転化させようとする活動は,あらゆる国のブルジョアジーの帝国主義的武力衝突の時代には,ただ1つ社会主義的活動である.『ぜがひでも平和を』という,坊主的な,センチメンタルな,愚かな願いを打破せよ! 内乱の旗印をかかげよう!」(S p.27)大戦当時,社会革命党(注44)やメンシェビキーは革命をやめること,「市民の平和」を守ることをとなえた.

〔66〕 「1917年には帝国主義的世界戦線の鎖は他の国々にくらべてロシアでは弱かった.そのロシアで鎖もまた断ちきられて,プロレタリア革命に出口をあたえた.」(スターリン「レーニン主義の基礎について」1924年E p.112)

〔67〕 タウリース(現テブリーズ)はイランのアゼルバイジャン地方にある重要都市,アルハンゲルスク∽ヒロシアの港町.

〔68〕 ロシア皇室の紋章「双頭のわし」にひっかけて,次注にのべる二重権力のロシアをさすのであろう.

〔69〕 1917年2月革命でニコラーイ2世(1868-1918)は退位.ロマーノフ王朝はおわる.3月,大ブルジョアジーと大地主は臨時政府を樹立し,この権力と,ペトログラート労・兵ソビエトを先頭に全国に成長していた,労働者,兵士,農民の諸ソビエトに代表されるプロレタリアートと農民の民主的権力とが同年7月まで並存する.

〔70〕 「会議」の意のロシア語(帝制時代でも)で,1905年革命後,とくに1917年2月革命後はここのように,「労働者(と兵士)の代表たちの会議〔ソビエト〕」,「農民代表たちの会議〔ソビエト〕」の略ともなった.これらの「ソビエト」は,地区や部隊のソビエトから始まり,市,県,軍のソビエトをへて,全ロシア代表諸ソビエト大会(10月革命後はロシアの最高権力機関で,現在の最高会議《ソビエト》にあたる)にまとめられた.外国語では,ソビエト社会主義共和国連邦(1922年成立)の略として用いられることのほうがおおい.
 全ロシア労・兵代表諸ソビエト大会(全ロシア農民代表諸ソビエト大会は別:のちに両者は合同する)ではじめからボルシェビキーが多数派でなかったことをしっておかないと,ロシア革命の過程や国内抗争は理解しにくい.すなわち,1917年6月の第1回大会では都市のソビエトのみによるボルシェビキーは約1割でメンシェビキーと社会革命党が多数派,7月事件(注88)以後,全国的にソビエトのボルシェビキー化がすすんで,9月にはペトログラートとモスクワのソビエトでボルシェビキーは多数派となり,10月革命開始の10月25日(11月7日)にひらかれた第2回大会(649代表参加)ではボルシェビキー390,社革党左派160でメンシェビキーと社革党右派は少数派となった.上記2回の全ロシア労・兵代表諸ソビエト大会に前後してひらかれた第1回と第2回の全ロシア農民代表諸ソビエト大会では社会革命党が過半数をしめ,ボルシェビキーは第2回大会でも約1割であった.なお,1917年の7月事件後,社会革命党とメンシェビキーが支配していた労・兵代表諸ソビエト中央執行委員会と農民代表諸ソビエト中央委員会が臨時政府をみとめたことにより,二重政権(または二重権力.前注)はおわり,勤労者への権力移行は武装蜂起によってのみ可能となった.(本注での全ロシア諸ソビエト大会以下の記述は「ソ歴史百科」による.)

〔71〕 当時の新聞より.

〔72〕 婦国するには2つの道があった.ひとつは,フランスかイタリアをへてから海路をとる道で,連合国,とくにイギリスの同意が必要だった.レーニンは,帝国主義戦争をつづけるイギリス政府がそれに断固反対する国際主義的社会主義者をとおすはずがないとしてしりそげ,別の道をとった.すなわち,スイス労働者代表を通じてのドイツ政府との取りきめにより,ドイツ通過の際に検査をうけない特別列車でレーニンら30名は3月末(4月初め)スイスからロシアへむかった(レーニン「スイス労働者への告別の手紙」1917年(23) p.402をみよ),ドイツ政府はかれら戦争反対論者たちの帰国で交戦相手ロシアの力がよわまると単純に計算したのである.当時ヒンデンブルクを補佐していたルーデンドルフ将軍はそれについてこう回想している:「ウィルヘルム政府の,ゆるしがたい,ばかげた国家的過ち.」(ウェーロフ本p.93からの引用.ただし,ルーデンドルフにドイツ共和国大統領という肩書をつけているが,彼は大統領選にはでたがまけた.それとも,ルーデンドルフではなく大統領となったヒンデンブルクのまちがいか?)戦争継続論のG.V.プレハーノフは第1の道によりイギリス水雷艇で帰国.また,飛行機でかえることは,事実,レーニンによって初めに考えられた.なお,ドイツ経由で帰国したことからレーニンは反対派から「ドイツに買収されたスパイ」というような中傷をうけ,その噂は国際的にも流布された.

〔73〕 プロイセンおよびドイツの王室.ウィルヘルム2世(1859-1941)を最後として1918年のドイツ・ブルジョア革命でたおされた.

〔74〕 当時の首都ペトログラート(大戦前はサンクト−ペテルブールク,レーニン死後はレニングラート)の愛称.

〔75〕 ペトログラートの中心をつらぬく大通り.

〔76〕 P.N.ミリュコーフ(1859-1943)はブルジョアジーの立憲君主党(ロシア語略称でカー・デー)の指導者として,大戦で「戦勝まで」たたかうこと,トルコのコンスタンチノープル(現イスタンブール)やダーダネルス,ボスホラス2海峡の占領をとなえて,「ダルダネールスキー」とあだ名された.1917年2月革命のときニコラーイ2世(注69)をその弟ミハイール大公ととりかえて君主制をのこそうとした.ルウォーフ公臨時政府の外務大臣(1917年3−5月),10月革命後は反革命指導者.亡命後.ソ連政権をみとめた。

〔77〕 1917年3月成立の最初の臨時政府(−5月)の首相はG.E.ルウォーフ公(1816-1925).かれやA.I.グチコーフ(注100),P.N.ミリュコーフ(注76)に代表される,このブルジョア政府は戦争継続,立憲君主制樹立をめざした.「マ全集」はじめソ連本の編注は以後の臨時政府もふくめてその本質を説明するため(マヤコーフスキー博物館第2信による),ここの「総理大臣」を10月革命までの数次の臨時政府を代表するケーレンスキー,無節操,無定見,小心のくせに,自由と民主主義について美辞麗句をならべたケーレンスキー(1881-1970;注79,100)としている.レーニンによれば,かれは「地主と農民,労働者と雇主,労働と資本の利益を調和させようとのぞんでいた」典型的小ブルジョア民主主義者(「バスマニ,レフォルドヴォ,アレクセーエフ,ソコリニキ諸地区の党外労働者・赤軍兵士会議での演説」1919年(30) p.6)で,「ブルジョアジーの執権……とプロレタリアートの執権のあいだを不可避的に,必然的に動揺した.」(「プロレタリア革命と背教者カウツキー」1918年(28) p.321)

〔78〕 10月革命直後,最高権力機関となった全ロシア労働者・兵士代表諸ソビエト第2回大会は,他国の政府にあたる人民委員会議〔ソビエト〕(レーニンが議長)を選出した.この会議は人民委員〔ナルコーム〕を長とする12の人民委員部〔ナルコマート〕(外務,陸海軍などの)からなっていた.1923年ソ連人民委員会議創設,1946年ソ連閣僚会議と改称.

〔79〕 1917年2月革命後にブルジョア臨時政府と権力をわかちあっていた労・兵・農代表諸ソビエトを当時支配していた社会革命党(注44),メンシェビキー(注46)などの小ブルジョア党派は戦争継続,「祖国防衛」をとなえて,階級闘争をやめ,戦時債に賛成して臨時政府に参加した.ルウォーフ公臨時政府(3−5月)にはケーレンスキー(社会革命党)ひとりが法務大臣としてはいったが,5月以後3回できた連立臨時政府にはかれ(7月以後は首相)のほか数名がはいった.レーニンはこうのべている:「グヴォズデフ派,『祖国防衛派』,すなわち社会排外主義者,すなわち帝国主義的略奪戦争の擁護者は,いまではすっかりブルジョアジーに追随しており,ケレンスキーは内閣に,すなわち第2次臨時政府にはいって,これまたすっかりブルジョアジーのがわへ寝がえってしまった.」(「遠方からの手紙」第2信,1917年3月(23) p.344)そして,「他国の圧制との闘争という意味での『祖国擁護』ではなくて,いずれかの『大』国が植民地を略奪し他民族を抑圧する『権利』を主張している……」(「社会主義と戦争」1915年(21) p.313)

〔80〕 この2行は当時有名だった歌「悪しき旋風,われらのうえに吼える」のなかの「すすめ,すすめ,まえへ,労働人民よ」のいいかえ.

〔81〕 B.V.サーウィンコフ(1879-1925)は社会革命党指導者で,10月革命の「まえ」には連立臨時政府陸軍次官,その「あと」ではコルニーロフ反乱(注100)を支持するなど,反革命活動をおこなった.V.ロープシンの名で文学活動もおこなった.

〔82〕 ロシア文学の父といわれるA.S.プーシキン(1779-1837)の長詩「ルスラーンとリュドミーラ」の博学の猫.

〔83〕 1917年2月革命から1月後,ブルジョア臨時政府のひざもとペトログラートがふたたびみせたブルジョア的な「おだやかな」外見.

〔84〕 1917年4月3(16)日深夜ペトログラートのフィンランド駅についたレーニンは装甲車のうえから数万の兵士,水兵,労働者に社会主義革命のたたかいをよびかけ,帰国の第1声をつぎのことばでむすんだ:「社会主義革命,ばんざい!,そのあと装甲車はペトログラートの中心とその東北のウィボルク労働者地区をむすぶリチェイヌイ(鋳もの)通りを通った.

〔85〕 レーニンは「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」(1917年4月)でこうのべている:「党名の変更.(1)その公式の指導者たちが,全世界で社会主義を裏切り,ブルジョアジーのがわに寝がえってしまった『社会民主党』(『祖国防衛』派と動揺的な『カウツキー』派)という名称のかわりに,われわれは共産党と名のるべきである.」((24) p.6)そして.「わが国の革命におけるプロレタリアートの任務」(1917年4月)をつぎの文でおえている:「よごれたシャツをぬぎすてるべきときだ.きれいな下着を着るべきときだ.」((24) p.73)「ロシア共産党(ボルシェビキー)」への改名は1918年3月(1952年以後は「ソビエト社会主義共和国連邦共産党」).

〔86〕 最後のロシア皇帝ニコラーイ2世(注69)が愛人のバレリーナ――クシェシンスカヤにおくった「宮殿」には,2月革命ののち社会民主労働党(ボ)の中央委員会,軍事指導部,ペトログラート委員会や兵士クラブなどの労働者,兵士の革命組織がおかれた.ウェーロフ本の引用(p.95)によれば,当時,労働者,兵士が熱愛し,ブルジョアが憎悪した建物.

〔87〕 マヤコーフスキーが1917年秋(10月以前)につくった2行小歌で,10月革命でペトログラートの冬宮殿(臨時政府所在地,現エルミターシ美術館)を攻撃する水兵たちにうたわれた.ペテルブールクのブルジョアたちもやってきていたレストランで「なんか激しい音楽にあわせてわたしは2行詩(この――訳者)をつくった:……この2行詩はわたしの大好きなものとなった.というのは,10月革命のはじめのころ,ペテルブールクの各新聞が.『水兵たちは,パイナップルでもくっていろ,……とかいう歌をうたいながら,冬宮殿にむかっていった』とかいたからだ.」(「回想だけでなく」1927年「マ全集」K pp.151-152)また,マヤコーフスキーは,ユニークな詩論「いかに詩をつくるべきか?」(1926年「マ全集」K p.85)で,10月革命のときには,民衆のことばから「あたらしい詩」をつくりだすこと,それだけでなく,その詩が「自分の階級に最大限の援助をあたえる」ことが必要だったとのべ,そのような詩の例としてほこらかにこの2行詩を引用している.

〔88〕 1917年7月3-5(16-18)日ペトログラートの労働者たち.陸海の兵士たちは「戦争反対,全権力をソビエトに」のスローガンをかかげて,激しい武装デモをしたが,政府軍に弾圧され(ケーレンスキーはデモ隊を「反逆した奴れいたち」とよんだ),ボルシェビキーの機関紙「プラウダ〔真実〕」の編集部と印刷所は破壊され,その指導者たちの逮捕が命ぜられた(次注).この,いわゆる7月事件ののち,ペトログラート以外の各地ソビエトを支配していた社会革命党とメンシェビキーはケーレンスキーを総理とする第2次連立臨時政府〔7-10(11)月〕をつくった.レーニンは「ロシア共産党(ボ)第7回大会」(1918年)で,「……敵陣の偵察という意味では,7月事件には巨大な意義があった」((27) p.81)とのべた.

〔89〕 1917年7月7(20)日第1次連立臨時政府(ケーレンスキーは陸海軍大臣)はボルシェビキー指導者――レーニン.ルナチャールスキー(注55),ジノーウィエフ,カーメネフらの逮捕を命令した.G.E.ジノーウィエフ(1883-1936)とL.B.カーメネフ(1870-1936)はのちにともに1917年10月末(11月初め)の武装蜂起に反対し,その計画を党外にもらした(ともに1927年,党から除名.1936年,反革命陰謀のかどで処刑).レーニンはかれらの裏切りについて,「カーメネフとジノヴィエフは,自党の中央委員会がした,武装蜂起の決定と,武装蜂起の準備と武装蜂起の時期の選択とを,敵に秘しておくという決定とをロジャンコ(M.V.ロッジャンコ1859-1924;大地主,10月党《オクチャブリスト》指導者.大戦中は主戦論をとなえ.ケーレンスキー時代には大ブルジョア代表――ウサミ)とケレンスキーにもらした.これは事実だ,どんな逃げ口上をもちだしても,この事実を論駁することはできない.2人の中央委員が中傷的なうそをついて,資本家に労働者の決定をもらした.これにたいする回答は,ただ1つしかありえないし,またただ1つでなければならない.すなわち,つぎのような決定を即時することである.『ジノヴィエフとカーメネフの党外出版物での声明は,完全なストライキ破り的行為であることをみとめて,中央委員会は,両名を党から除名する.』」(「ロシア社会民主労働党中央委員会への手紙」1917年10月(26)p.230)

〔90〕 クレスティ(「十字」の意味)はペトログラートの政治犯監嶽で十字のプランをもっていた.なお.「ジノーウィエフを……」の1行が削除されているソ連版がある.

〔91〕 レーニンは最初,逮捕命令(注89)に応じて裁判所に出頭しようとしたが,スターリンらの説得で隠れることになって,「一命は救われ」(前出のクループスカヤ「レーニンの思い出」による),7月11(24)日から12(25)日にかけてペトログラートから30kmのラズリーフ駅近くの労働者エメリャーノフの家にゆき.数日後ラズリーフ湖そはの堀建て小屋にうつり,さらに8月末(9月初め)フィンランドに密出国して武装蜂起の指導をつづけた.

〔92〕 レーニンは10月7(20)日ペトログラートにひそかにもどり,10月10(23)日党中央委員会の即時武装蜂起討議に参加して次のようにうったえた:「9月はじめ以降,蜂起の問題についてある種の無関心がみとめられることを確認する.しかし,われわれがソビエトによる権力奪取というスローガンを真剣に提起するなら,これは許しえないことである.」そのあと中央委員会はつぎのように決議した:「武装蜂起は避けられないものとなり,完全に機が熟したことをみとめ,……すべての党組織にたいし,このことを指針とし.この見地からすべての実践的問題……を討議し解決するように提案する.」(「ロシア社会民主労働党中央委員会会議」(26) p.187,189)

〔93〕 旧暦10月25日(グレゴリー暦11月7日)――ロシア社会主義10月革F開始の日.マヤコーフスキーはスモールヌイ(次注)にいた.「うけいれるべきか,うけいれるべきでないか? こんなことはわたしにとって(また,ほかのモスクワ未来主義者たち〔当時かれが属していた文芸グループ――訳者〕にとって)問題にならなかった.わたしの革命だ.スモールヌイにいった.はたらいた.やらなければならなかったことはなんでも.」(マヤコーフスキー自伝「わたし自身」1922年)のちに,1925年1月,全ロシア・プロレタリア作家協会大会で,スモールヌイにおけるレーニンについての描写(後世)は正しくないと批判した,あるジャーナリストにたいして,マヤコーフスキーは,あれは「写生した」もので,「わたしによってキャッチされた事実」と反論した.なお,詩人がレーニンを実際にみたのは,この時が最初で最後.

〔94〕 ペトログラートの貴族女学校だった建物.10月革命時に全ロシア中央執行委員会,同ボルシェビキー・フラクション,ペトログラート労・兵ソビエト,ペトログラート軍事革命委員会がおかれており,歴史的な全ロシア労働者・兵士代表諸ソビエト第2回大会(注99)がひらかれて,ソビエト政府がおかれた(1918年3月にモスクワにうつるまで).

〔95〕 I.V.スターリン(1879-1953)――グルジア出身,1898年社会民主労働党にはいり.・ボルシェビキー指導者としてレーニンに協力した.初代の民族問題人民委員,1922年以後ロシア共産党書記長,1941年以後ソ連首相(すなわち,ソ連人民委員会議議長.1946年以後のソ連閣僚会議議長).1956年ソ連共産党第20回大会でその「個人崇拝」が批判された.

〔96〕 L.D.トローツキー〔別名ブロンシテイソ〕(1879-1940)――ロシア革命家で,いわゆるトロッキズムの指導者.1917年外国からもどって社会民主労働党メンシェビキーに参加.同年7月ボルシェビキーにうつって中央委員に選ばれ,9月25日(10月8日)にはペトログラート労・兵ソビエト議長となったが,10月武装蜂起の延期を主張するなど,レーニンとしばしば意見をことにした(別例として注107をみよ).1925年陸海軍人民委員の任をとかれ,1927年共産党(ボ)からジノーウィエフらとともに除名され,1929年反党・反ソ活動のため国外に追放され.のちにメキシコで暗殺された.なお,「同志トローツキーの/命令だ!」の削除されたソ連版がある.

〔97〕 バルチーク艦隊の巡洋艦.1905年対馬海戦(注49)に参加.1917年10月25日(11月7日)夜,臨時政府のあった冬宮殿(現エルミターシ美術館)を攻撃する号砲をはなった.

〔98〕 ロシア労働者の意志をさす.ノーベル工場(スエーデンの発明一家ノーベル家出身の資本家が経営),プチーロフ(ロシア資本家の姓)工場はいずれも19世紀後半ペテルブールクにできた製鋼・機械製作の大工場(いまのロシア・ジーゼル工場とキーロフ工場)で,それらの労働者たちはロシア革命で活躍

〔99〕 ロシアのソビエト政権の最初の歴史的法令をさす.1917年10月25(11月7)日,スモールヌイ(注94)でひらかれた全ロシア労・兵代表諸ソビエト第2回大会はソビエト権力樹立を宣言し,26日,レーニン起案の平和についての法令と土地についての法令を採択した.この4行には,「中央委員会,モスクワ委員会,ペトログラード委員会,ピーテルとモスクワのソヴェトのポルシェヴィキ派への手紙」(1917年10月)でレーニンの提起した武装蜂起準備のためのスローガンがそのまま用いられている:「スローガンは,権力をソヴェトへ,土地を農民に,平和を諸国民に,パンを飢えた者に,である.」((26) p.136)

〔100〕 社会主義に反対した将軍や政治家.N.N.ドゥホーニン(1876-1917)は,10月革命開始時に最高司令官でもあった臨時政府首相ケーレンスキーが首都から逃亡したあと最高司令官となった.ドイツとむすんで,人民委員会議(注78)の休戦交渉即時開始命令を拒否し,反革命を組織し,兵士たちに殺された.L.G.コルニーロフ(1870-1918)は1917年7月事件(注88)後にケーレンスキー臨時政府最高司令官となり,8(9)月にペトログラート奪取のクーデターをおこしたが,ボルシェビキーの組織した赤衛隊(注108)にやぶれ,1917年末ドン川義勇軍を組織してやはり敗北,戦死した.A.I.グチコーフ(1862-1936;注77)は,ロッジャンコ(注89)とともに,君主制支持の大ブルジョアジーの「10月〔オクチャーブル〕17日同盟」党(注52の1905年立憲詔書の日付をとったもの)の指導者.モスクワの大工業家,ルウォーフ公臨時政府陸海軍大臣,1917年8月のコルニーロフ反乱に参加,10月革命後は反ソビエト権力の活動をおこない,1918年亡命.A.F.ケーレンスキー(1881-1970)は弁護士,社会革命党指導者で,1917年3月以後臨時政府の主要メンバー(注77,79).10月25日(11月7日)首都から前線に逃亡,11月1(14)日の反革命反乱に失敗してドン川地方ににげ,1918年亡命.

〔101〕 以上の6行は具体的な表現としても解すべきである.ソビエト政権初期の工業企業国有化(注117)の過程は複雑で,多くの企業には資本家が管理・技術指導者としてだけでなく,所有主としても残された(とくに中小企業で)が,それは,「労働者委員と労働者委員会の存在するもとでのことであって,これらのものは指導者の一挙一動を監視し」(レーニン「『左翼的』な児戯と小ブルジョア性とについて」1918年(27) p.352),サボタージュ,機械破壊,生産妨害などをやらせないようにした.もし資本家がまじめでないときには,工場から「はじきだされる」だけではすまなかった.(以上はウェーロフ本p.104による)
 「平和を民家に,戦争を宮殿に!」は1789年フランス革命での民衆革命軍のスローガンで,ロシア10月革命でもよくつかわれた(生徒文庫『V.マヤコーフスキー:長詩と抒情詩』ロシア共和国教育省国立教材出版所・モスクワ・1958).

〔102〕 レーニン:「われわれの確信するところでは,普通の労働者や農民は,国家を統治することができないといった,古いブルジョア的偏見からすっかり解放された人々が,ソヴェト権力の1歩ごとに,ますます輩出するであろう.統治にとりかかれば,学ぶこともできるのた!
 人民大衆のたたかう指導者と組織者を抜擢するという任務こそ,組織上の任務であろう.このたいへんな大きな仕事が,いまや日程にのぼっている.」(「労働者・兵士・農民代表ソヴェト第3回全ロシア大会」1918年(26) p.479)

〔103〕 10月革命直後,ソビエト政権は軍事的危機(ドイツ軍の進撃)と経済的危機(生産停止,物資欠乏と貨幣価値急落)に直面していた.したがって,「(大量印刷用)輪転機の生産」の目的については2つの解釈がソ連にはある(マヤコーフスキー作品集のおおくの編者は注をつけていないが).すなわち,ウェーロフ本とマヤコーフスキー博物館第3信は,ロシアの工業が破滅状態にあったときにも,帝国主義戦争即時中止と友好を敵軍兵士たちにうったえるアピールや宣言のびらの大量印刷には力をそそいだ,とする.これに対して,ドゥワーキン本は,急速に価値の下落してゆく紙幣の印刷のため,とする(中国のフェイ・パイ本はこの解をとっている).なお,ソビエト政権が通貨改革(ハンマーと嫌の国章をつけた新貨幣の発行もふくむ)とルーブル貨安定をおこなったのは1922-24年である(注116,129).

〔104〕 当時,鋳物ストーブをつけた貨車が兵員輸送にもちいられたが,その列車はかたつむりのようにゆっくり動いた.

〔105〕 ウィルヘルム2世(注73)の武骨さ,好戦性をさす.レーニンの文章には,ドイツ総参謀長「ヒンデンブルグの長靴」という表現がある((21) p.435).

〔106〕 注69をみよ.

〔107〕 ソビエト・ロシア政府は成立するや全交戦国に無併合,無賠償の講和を提案したが.連合国側はみとめなかったので,1917年11月22日(12月5日)からドイツ側とブレースト・リトーフスク(ポーランドとの国境のちかく)で交渉をはじめ,1918年3月3日条約に調印した.社会革命党を先頭にメンシェビキー,さらにボルシェビキーのトローツキー,ブハーリソ,ラデークら「左派」グループも大言壮語して単独講和に反対した.レーニンは2月に,「たとえ苛酷きわまる講和ではあっても,即時の講和に反対するものは,ソヴェト権力をほろぼすものであることを,だれもが知るべきである.」(「講和か,戦争か?」(27) p.26)とのべ,3月8日のロシア共産党(ボ)第7回大会で,その批准を主張して,「ドイツ軍がほんのすこし攻撃をくわえただけでも,われわれは不可避的にかならず破滅したことであろう,……」とのべ,講和反対論者たちは「死にあたり剣を手に見事なポーズをとって『講和は屈辱であり,戦争は名誉である』とさけんだポーランドの小貫族〔シュリャフティチ〕の立場」にいると批判した((27) p.98,101).なお,2月に講和交渉代表の外務人民委員トローツキー(注96)は中央の決定に反して講和条約に調印せず,ドイツ軍の進出をゆるし,講和条件をさらにきびしいものにした.

〔108〕 (前注につづく)党第7回大会でレーニンはさらに,経済と軍隊を再建するための息つぎの必要をうったえた:「諸君に息つぎがあたえられるというのなら,後方との連絡をたもち,そこで新しい軍隊をつくりだすために,たとえ1時間でも息つぎの時間をとらえたまえ.幻想をすてたまえ,……時間をかせぐために,事実上の勝利者に空間をゆずろうとしているということ……いっさいの核心はここにあり,しかもここだけにある.」((27) p.105,107)さらに,3月i2日にはモスクワ労働者・農民・赤軍代表ソビエトで「息つぎ」の任務をのべた:「敗北にめげず……前進すること,社会主義社会の堅固な土台石を1つまた1つと積みあげていくこと,規律と自己規律をつくりあげるために,いたるところで組織性,秩序,実務能力,全人民の力の整然とした協力,物資の生産と分配にたいする全般的な記帳と統制を強化するために,手をやすめずに活動すること――これが,軍事的な威力と社会主義的な威力を生みだす道である.」((27) p.161)条約は3月15日全ロシア諸ソビエト第4回臨時大会で批准され,ドイツ革命後の1918年11月ソビエト政府によって破棄された.また,「息つぎの平和」は,1918年7月ごろ,国内反革命運動の激化と外国軍の干渉,すなわち.国内戦争の開始とともにおわる.
 1905年革命以来の自衛と革命のための労働者武装組織であった赤衛隊(krasnaya gvardiya)を基礎として,1918年1月に労働者と農民の軍隊,――赤軍(krasnaya armiya)が志願制で創設された(同年7月より徴兵制).現在は「ソビエト軍」とよばれている.

〔109〕 ギリシア神話の多頭の怪蛇.国内戦争時代(1918-1920)に国内反革命軍,外国干渉軍(注111)はその姿でよくえがかれた(マヤコーフスキーの「ロスタの窓」ニュース・ポスターのひとつにもみられる).

〔110〕 国内戦争当時の有名な革命歌にもとづく.

〔111〕 1918年半ばから君主制主義者と社会革命党員の反革命運動は激化し,自国の「赤化」をおそれ,「ロシア復興」をねがう外国,とくにイギリス,フランス,日本,アメリカ合衆国などの干渉軍が8方からソビエト・ロシアに侵入して反革命武装勢力(白軍,白衛軍または白衛派)をたすけて各地に臨時政府をつくり,同年末にはロシア領土の3/4を占領し,ソビエト政権はロシア中部に孤立した.しかし,1919-20年,A.V.コルチャーク提督(1873-1920)の東部反革命軍,A.I.デニーキン将軍(1872-1947)の南部反革命軍,N.N.ユデーニチ将軍(1862-1933)の西部反革命軍,P.N.男爵ウランゲル将軍(1878-1928)の南部反革命軍などがあいついで赤軍の反撃にやぶれ,外国干渉軍も撤兵した(日本のみは1922年末まで極東に,1925年まで北樺太〔サハリン〕に駐兵).

〔112〕 原文は11,000ウェルスター.1ウェルスター(ロシア里)は1,067km.ウラジウォストークからバルチーク海のリーガまでは約10,000km.

〔113〕 1918年6月20日ボルシェビキ一のV.M.ウォロダールスキーが,同8月30日ボルシェビキ一のM.S.ウリーツキーが社会革命党員によって暗殺され,同日レーニンはモスクワのミヘルソン工場(現ウラジーミル・イリーチ名称工場),でのモスクワ川右岸地区労働者集会からかえりかけたとき社会革命党員 D.カプラーンの銃撃で重傷をおった.

〔114〕 注117の後半を参照.

〔115〕 国内戦争時代,石炭,鉄などの不足のためほとんどの工場は運休したり,転用されたりした.

〔116〕 ニコラーイ2世時代やケーレンスキー臨時政府時代に発行された紙幣で,1924年,すなわち通貨改革完了まで通用.

〔117〕 国内戦争時代の経済的軍事的危機をきりぬけるための戦時共産制.中央の経済統制,チェーカー(注8)の権限が強化され,軍隊と労働者(都市)のための余剰穀物割当徴発制(武力抵抗する富農〔クラーク〕に対抗して労働者と貧農の武装徴発隊も組織された),穀物,燃料など重要物資の配給制,労働動員,工業企業国有化(注101参照)が実施された.「ほかならぬ主要な問題,すなわち穀物の問題をとってみるなら,鉄のような革命的権力,プロレタリア執権……が必要不可欠であることは明らかなうえにも明らかである.……ロシアと外国の帝国主義者どもによってきれいに略奪された国」ロシアでは,「穀物」も,「機械のためのパン,つまり燃料も,……極度に欠乏している.……きびしく消費を節約し,適当に分配するために全力をあげなけれは,鉄道も工場もとまり,失業と飢えが全国民をほろぼすであろう.われわれは破局に当面している.……穀物の投機者,富農,寄生者,組織破壊者,収賄者に対する偉大な『十字軍』を組織し,人間のためのパンと機械のためのパンとの集荷と輸送と分配との仕事の,きびしい国家的秩序を破壊するものにたいして,偉大な『十字軍』を組織しなければならないということを,理解しなければならない.」(レーニン「飢えについて(ペトログラード労働者への手紙)」1918年5月(27) p.404,407)
 反革命武装勢力と外国干渉軍がほぼ駆逐された1920年,すなわち大戦と国内戦争の6年ののちに,ソビエト・ロシアはやっと平和的建設にはいることになった.工業生産力と農業生産力は大戦直前の1913年に比してそれぞれ1/7,1/2に低下しており,1921年にはボルガ沿岸を飢きんがおそい,全国にチフスが流行するというような状況に都市からの労働者流出,党内論争,資本主義諸国による封鎖がかさなっていたが,緊急の解決を要したのは人口の3/4をしめていた農民の問題であった.労働者階級によって平和と土地をえたロシア農民も小所有者(小ブルジョアジー)として資本主義復活をもとめる傾向をもっており(すなわち,この詩で15行あとにある「右舷」のかたむき),そうなることをロシアをはじめ世界の資本家たちは期待していた.レーニンはロシア共産党(ボ)第10回大会で次のように指摘した:「われわれは,ブルジョアジーが農民を労働者に敵対させようとつとめていること,……小ブルジョア的・無政府主義的自然発生性を労働者に敵対させようとつとめていること,それが直接にプロレタリアートの執権の倒壊に,つまり,資本主義,地主・資本家の旧権力の復活になるであろうということを,銘記しなければならない.そこには,政治的危険がある.幾多の革命が,このうえなくはっきりとこの道をたどってきたし,われわれはいつもこの道を指摘してきた.この道は,われわれの前にはっきりと現れたのである.」(1921年3月(32) p.193)この注は「ソ歴史百科」とウェーロフ本による.

〔118〕 戦時共産制から新経済政策(注120)への急転換をさす.ポイントは航海用語で羅針盤全周(360度)の1/32.

〔119〕 新経済政策実施前の混乱,とくに農民対策の未確立を利用して,1920年すえから1921年はじめにかけて富農,社会革命党員,民族主義者ら,さまさまな反ソビエト分子が各地(サラートフ,中央7ジア,ウクライーナ,クロソシタットなど)で反乱をおこしたが,1921年3月の新経済政策実施によって,それらの騒乱も同年中にほぼ「しずま」った.

〔120〕 1921年3月のロシア共産党(ボ)第10回大会でレーニンの提案によって決定された平和的経済建設のための新経済政策――ロシア語略称がネープ(NEP).これによって,労働者階級と農民階級の結合(ここから17行目にある「結合のふなつきば」),工業と農業の結合のために,余剰穀物割当徴発は現物税にかえられ,商品穀物の自由販売,個人商取引.中小企業の個人経営がみとめられた.レーニンは上記大会での「割当徴発を現物税に代えることについての報告」でこうのべた:「小農民のためにある程度まで商業の自由を,資本主義の自由を回復することができるであろうか?……それはできる.なぜなら,問題は度合にあるからである.……われわれは国家として,自分の政治権力に経済的権力を付けくわえることができるであろう.」((32) p.231)

〔121〕 商業を自由化し,個人経営を復活させた新経済政策の実施中に,「あとでついに攻勢にうつることができるように,……後退をつづけ」ながら,商業を学ぶようレーニンは党員を説得した:「当面している課題は,国家を卸売商人たらしめること,……これはひどく奇妙なことのようにおもわれ,1部の人々にはひどく恐ろしいことのようにおもわれるのである.」(「第7回モスクワ県党会議」1921年10月(33) p.84,85)「現在……商業――これこそ,諸事件の歴史的連鎖における,1921-1922年のわが社会主義建設の過渡的諸形態における『環』であり,われわれプロレタリア国家権力にとっては,われわれ指導的共産党にとっては,『全力をあげてつかまなければならない』環である.……これは奇妙なことにおもえる.共産主義と商業?! この2つはなにか非常に連関のない,……かけはなれた事がらである.」(「現在と社会主義の完全な勝利ののちとの金の意義について」1921年11月(33) pp.103-104)さらに,1922年ロシア共産党(ボ)第11回大会(3-4月)でこうのべた:「商売をまなべ」とつぎのようにのべている:「責任ある共産主義者――優秀でもあり,誠実だということで知られてもおり,献身的でもあり懲役に耐えぬき,死もおそれなかった共産主義者に,実務家でないため,商売をやることを学んだことがなく,学ぼうともせず,イロハから学ばなければならないということを理解していないために,商売をする能力がないということ,ここに問題がある.共産主義者で,世界最大の革命をやりとげた革命家,40のピラミッド――と言って悪ければ,40のヨーロッパ諸国――が資本主義からの解放の希望をよせ見まもっているその彼が,普通の番頭に学ばなければならないのである.この番頭は,10年間も穀物市場を走りまわって,この仕事を熟知しているが,責任ある共産主義者で献身的な革命家が,この仕事を知らないばかりでなく,自分がこの仕事を知らないということさえ知らないのである.」((33) p.279)ジノーウィエフ(注89)はこうのべた:「1917年に入党した者は僅か1万人に過ぎないが,……現在……絶大な勢力を有している.……革命運動にのみ没頭し,其結果他の仕事には全然通じていない.」(山内封介「レーニン伝」金星堂・1924)
 マヤコーフスキーによれば,ソビエト船の「乗組員」の1部はまだ革命戦争の「嵐」に「ゆられ」ていて,「商業の学習」は,革命への裏ぎり,敵の「陰謀」であるようにおもわれ,パニックや沈滞におちいったというのである.レーニン:「退却のさいにもっとも危険なものは狼狽である.……この(退却の――ウサミ)ばあいには,いたるところで,ある程度の落胆の気分に出あうであろう.モスクワでは人々は飢えこごえ,『以前には清く美しかったのに,いまあるものは商業と投機だけ』と書いた詩人たちさえ,わが国にはいたのである.わが国にはこういう詩的作品がたくさんにある.もらろん,これは退却によって生みだされたものである.そして,この点に大きな危険がある.勝利の大攻撃のあとで退却することは,おそろしく困難である.」(「ロシア共産党(ボ)第11回大会」1922年3月(33) pp.285-286)マヤコーフスキーやD.べードヌイ(1883-1945)の当時の詩は,レーニンのあげたような詩作品の類には属さなかった.

〔122〕 レーニン自身,1920年5月1日の全ロシア土曜労働(規定時間外の無償労働)にクレムリンで参加した.

〔123〕 新経済政策のめざす,経済のすみやかな再建(詩での「修理」)に不可欠な商品流通のために国有企業,協同組合企業が組織され,私有企業まで復活させられた.「トラスト」とは合同企業.

〔124〕 「接舷戦」とは,舷を敵艦によせて切りこんでゆく昔の海戦法.「戦時共産主義は都市と農村の資本主義要素のとりでを襲撃し,正面攻撃によってせめとる試みであった.……いまレーニンはすこししりぞき,一時自分の後方にちかくもどり,襲撃からもっと時間のかかるとりでの包囲にうつることを提案した,力をたくわえて,ふたたび攻撃をはじめるために.」(「全連邦共産党小史」1938年)

〔125〕 レーニンはロシア共産党(ボ)第11回大会(1922年3-4月)で,新経済政策のもとでの社会主義建設は10月革命や国内戦争での闘いよりも困難であり,「きょうのところは,武器を手にしてわれわれを攻撃しているものはいない」が,「資本主義社会との闘争は,百倍も激しい,危険なものとなった.」((33) p.293)とのべ,緊急で困難な2つの課題――新経済政策によって,農民経済とソビエト権力の結合をかちとること,国家企業と私有企業との競争に,「普通の番頭との,普通の資本家,商人との競争に及第するということ」(同上(33) p.278)をしめした.マヤコーフスキーは,同大会でのレーニンのつぎの発言の1部をほぼそのままもちいている:「退却はおわった.……資本家は金持となろうとして農民との経済的結合をつくりだす.諸君は,わかプロレタリア国家の経済的な力をつよめるために,農民経済との結合をつくりださなければならない.……われわれには国家権力がある.われわれには大量の経済手段がある.もしわれわれが資本主義に打ち勝って,農民経済との結合をつくりだすなら,そのときにはわれわれは絶対に不敗の勢力となるであろう.……そのときには.共産党が自分たちをたすけてくれるということが,普通の農民にも見てとれるであろう.そのときには,農民はわれわれのあとについてくるであろう.たとえその歩調は百倍もおそいにしても,そのかわりには,百万倍もしっかりとした,どっしりとしたものとなるであろう.」((33) p.290)

〔126〕 レーニンは「国家と革命」初版のあとがき〔1917年11月30日(12月13日)〕にこうかいた:「私にはすでに,つぎの第7章『1905年と1917年のロシア革命の経験』の腹案ができていた.しかし,私は標題のほかには,この章の1行も書けなかった.政治的危機,1917年の10月革命の前夜がこれを妨害したのである.このような『妨害』は,喜ぶほかはない.……『革命の経験』をすることは,それを書くことよりも愉快であり,有益である.」((25) p.533)

〔127〕 原文 obshchiy zavod.第1次5年計画のはじまる1928年までのこっていた私有企業(とくに商業,軽工業,農業の部門)の工場にたいする,国有,国営,協同組合の工場のことか?

〔128〕 「共産主義インタナショナル」の略称.マルクスらの創立した第1インタナショナル(注25),世界大戦とともに崩壊した第2インタナショナル(1889-1914)につづいたので「第3インタナショナル」ともよばれた.レーニンの指導した革命的労働運動の国際組繊で,各国共産党はその支部となっていた(1919-43).レーニンは1919年,1920年,1921年,1922年のその大会に参加した.

〔129〕 無価値化していた紙幣(注103.たとえば,約410グラムのパンが数十万ルーブル.したがって硬貨は流通していなかった)は1922-1924年の通貨改革で金に裏づけられ,ハンマーと鎌のソ連国章をつけた新通貨(金,銀の硬貨,銅の少額硬貨をふくむ)にかえられた.

〔130〕 レーニンの死んだ1924年1月までには資本主義諸強国の政府もソ連を承認せざるをえなくなり,多数の国がソ連と通商協定をむすんだ(たとえば,反ソ干渉の先頭にたったイギリスが通商条約をむすんだのは1921年3月).

〔131〕 ロシア語原文 udar(物理的または精神的な打撃,突発的な災難,卒中などの意).マヤコーフスキー博物館第2信によれば,脳溢血(krovoizliyanie v mozg).ソ連版「ソビエト歴史百科」Vol. 8 によれば,1922年5月脳血管硬化症で重態(5-9月ゴールキで静養),10月モスクワで執務再開.12月なかば病状悪化したが口述で仕事,「23年3月10日,あらたなはげしい発作で言語障害と右半身不随となり」,ふたたびゴールキで療養,24年1月容態急変し,21日午後6時50分に死去.

〔132〕 K.K.マーモントフ(1869-1919)――デニーキン反革命軍(注111)の将軍.住民虐殺で「名声」をあげたが,その指揮する騎兵隊はS.M.ブジョンヌイの騎兵隊に撃滅された.極東での共産党指導者でパルチザン指揮者のS.G.ラゾー(1894-1920)は,1920年4月ハバーロフスクで日本干渉軍にとらえられ,拷問ののち機関車のかまでやかれた.その駅(ナホートカとハバーロフスクのあいだ)は現在かれの名をもっている.

〔133〕 1924年1月9‐29日,全ロシア諸ソビエト第11回大会がモスクワの5階だて(内部構造から)のボリショイ〔大〕劇場でおこなわれていた.

〔134〕 ボリショイ劇場のひじかけ椅子と仕切り席は赤いビロードではられている.

〔135〕 M.I.カリーニン(1875-1946)――ロシア共産党(ボ)中央委員(1919以後),全ロシア・ソビエト中央執行委員会議長(1917-37),ソ連中央執行委員会(1938年ソ連最高会議幹部会議と改称)議長(1922年以後).1月22日午前の全ロシア諸ソビエト大会でレーニンの死を発表した.そこにマヤコーフスキーは出席.

〔136〕 レーニンの死をつげる新聞が雪のなかにはりだされたのだ.

〔137〕 注12参照.

〔138〕 ロシア正教会の聖者たちと教会行事についてのカレンダー.親しい人びとの誕生日,死亡日などもかきこまれた.

〔139〕 「あかい広場」に面する,クレムリンの壁にはロシア革命のためたおれた革命家たち(ドゥワーキン本は「10月革命のためモスクワでたおれたものたち」と限定しているが)がほうむられている.日本のカタヤマ・セソ(片山潜1859-1933)やアメリカ合衆国の共産主義者でジャーナリストのジョン・リードの名板もみられる.なお,現在スターリン,カリーニンらの墓はその壁とレーニン廟のあいだにある.

〔140〕 レーニンの死についての,ある女性労働者のおもいで:「それは革命の全期間を通じてもっともきびしい打撃だった.全モスクワはこの世のすべてを失ったようだった……わたしは葬儀にでた……花輪をもち,泣いた!しかし,わたしなんて,わたしの涙なんて!わたしの涙はわずかだった.ほかの人たちは,なんとはげしく泣いたことか!こうもいっていた,『わたしたちが死んだほうがましだ』と.」(「マ全集」E 編者注p.531)

〔141〕 「親衛隊」とよばれる組織があったわけではない.棺をはこび,告別式のあいだ交代で棺側にたったレーニンの親しい同志たち――スターリン,ジェルジンスキーらをさすのであろう.

〔142〕 レーニンに告別する人びとは組合会館にちかい通り――トウェルスカーヤ(現ゴールキー通り)とボルシャーヤ・ジミートロフカ(現プーシキン通り)にそって長時間ならんだ.(注12参照)

〔143〕 1924年1月は異常にさむく,たとえば,27日の葬儀は「零下40度の酷寒中に行はれた……数百人の凍傷者を出し,……卒倒した者さへあった.」(山内封介「レーニン伝」)

〔144〕 注12にあるごとく,告別は4日間つづいた.そして27日9時スターリンらによって棺はかつぎだされて,「あかの広場」での哀悼会(葬儀)にむかう.

〔145〕 「円柱の間」にはいるまえに4段の階段をおりる.マヤコーフスキーは1月27日にここで告別したのち,「あかい広場」での葬儀に参列.

〔146〕 N.K.クループスカヤ(1869-1939)――レーニンの妻,ロシア共産党(ボ)中央委員(1927年以後).教育家としても有名.I.スターリンも,23日夜と27日朝,棺のそばに儀杖兵としてたった.

〔147〕 有名な葬送歌「きみはぎせいとなってたおれた」(V.G.アルハンゲルスキー作詞)の最後の節にもとづく.

〔148〕 革命歌「最後のわかれ」(注42)より.

〔149〕 「あかい広場」での,この「儀式」次第について,とくに,だれが演説したのか,遺体のそばにとどまれる時間はきめられていたのか,の質問にたいして,マヤコーフスキー博物館第3信は,「演説していたのは哀悼会参加者(?――訳者).『はなしている――まあ,いい』という文句でマヤコーフスキーは,レーニンの葬儀にやってきて,墓所のそばにいそぎ,そこにとどまっていたい数万の人々の気分をつたえている.1分とは,各人が墓所のそばをとおってゆく時間」とこたえ,ドゥワーキン返信は「この質問については特別な調査をせねばならず,あなたはいそいでおられるので,ここではこたえられない.」と率直にのべている.

〔150〕 「あかい広場」に面して門をもつ,クレムリンのスパースカヤ塔の大時計のくろい文字盤.

〔151〕 1月27日,「あかい広場」での葬儀ののち,レーニンの棺がクレムリンまえの仮の木造墓所のなかにおかれた16時,全国一斉に弔砲がうたれ,工場の汽笛がなり,5分間全国民は仕事をやめ,交通はとまった.また,モスクワの無線,有線の電信機は国内の「各都市に向って,『同僚よ,起立せよ,レーニンは墓陵に移されつつあり.』と云う電信を発し,更に4分間を過ぎて『レーニンは死せり,然れどレニーズムは死せず.』と打電した.」(山内封介「レーニン伝」)ドゥワーキン返信には,「16時ちょうどに砲兵隊の弔砲のとどろきとともにレーニンの棺は墓所内におかれた.これは15歳のわたしの記憶にはっきりのこっている.」とある,なお,墓所は1930年に現在の花崗岩製のものとなった.

〔152〕 N.I.ムラーロフ――ロシア共産党(ボ)員,当時のモスクワ軍管区司令官でレーニン葬儀委員.のちにトローツキー派として党から除名.この1行が削除されているソ連版がある.

〔153〕 共産党のレーニン記念入党のよびかけにこたえて,レーニン死後4ヵ月問に24万人以上の労働者が入党した.

〔154〕 全連邦青年共産同盟は進歩的青年(14-28歳)大衆団体(1918年組織)で,共産党への予備門的な機関.

〔155〕 1920年代に大流行した歌「船のりのおまえはそれだけでりっぱだ.おまえは満で20歳.」(V.メジェーウィン作詞)のりフレイン.

〔156〕 当時流行したピオネールの歌より.飯塚書店版「マヤコーフスキー選集」の訳注によれば歌の題は「おきないピオネール」.「ピオネール」(英語「パイオニア」より)は青年共産同盟に指導される児童団体(1922年組織).

〔157〕 2行の原文は nad trubami/chudovishchnoy roshchi. ここについてはソ連には2つの解釈がある.「"chudovishchnoy roshchi" とは,ファシズムをさすのか,または工場群をいうのか?」(truba は管〔dymovaya truba の略として「煙突」とも解しうる〕,ラッパなどの意がある)とのわたしの質問にドゥワーキン返信は,「いずれでもない.前の詩行からは,『イリーチの 死,/それすらも//偉大な/共産主義組織者に なったのだ.』だけを銘記せよ.ここのテーマは大衆の統一への衝動.テキストについて:"chudovishchnaya" はここでは『おそろしい』ではなく,『とてもおおきい,巨大な』の意."chudovishchnaya roshcha" は旗の森で,すべての旗は大衆をつかんだ共通の衝動のなかでひとつにとけあってゆくようだ(『いく千万のてをはたざおにした』).レーニンをおさめているあかい広場全体があか旗のように上へまいあがってゆくようだ.」ととく.一方,ウェーロフ本(pp.121-122)はテーマについては同じ見解だが,まえにでた「ファシスト」,「ヨーロッパのげんこつ」の語句によって,"chudovishchnaya roshcha" を「ファシズム化しつつあるヨーロッパ」,「いばってラッパをふきならす帝国主義世界」とし,ポアンカレ.ムッソリーニ,カーゾンにたいするマヤコーフスキーの非難(1923年;「マ全集」D 編者注p. 105,108,117より)を引用している.前者の解釈は "trubami" の意にふれておらず,かつ, "chudovishchnoy roshchi" を「旗」と解するとそれとのつながりもわからなくなるし,マヤコーフスキーは,あか旗となったあかい広場が人びとの腕を旗ざおにして旗のむれの trubi(?)のうえにまいあがるというような,論理的にも視覚的にもぴったりしない描写はしないだろうともわたしはかんがえるので,ウェーロフ本の解にしたがう.

〔158〕 思潮社版にもわたしはこの訳を付した.モスクワ中心からややはなれたタガンスカヤ広場のちかくに,わたしがよくいった国立マヤコーフスキー図書・博物館(1926年から詩人が友人たちと共同生活した建物)があったが,かれの生誕80周年の1973年,市の中心にある総合技術博物館(かれがよく出演し,聴衆をわかせたところ)のそばに新しい,充実した同博物館がひらかれた.1919年以来かれが仕事場としていた部屋(そこで自殺した)のある建物が用いられたのである.1975年,わたしがそこをはじめて訪れ,当時のままの仕事部屋をのぞくと,この詩にうたわれたレーニンの写真が窓ぎわの机のまえにあった.そのコピーを改訳本のためにと,館長からもらったのだが,もともと鮮明でなく,文庫版ということもあって,つかえなかったのは残念である.本年11月,東京でひらかれたルー・シュン〔魯迅〕腰のかれの蔵書十数点のなかのクララ・ツェトキン「レーニンのおもいで」(CIara Zetkin: Erinnerungen an Lenin)の表紙におなじ写真をみた.1920-30年代には世界的に流布していたものなのかもしれない.