←・・・・・・・・・・・・画面幅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ →
クリックすると写真は大きくなります。
二十四孝(その1)にリンク
加藤正宏の中国史跡探訪にリンク
中国史跡探訪の貨幣の項にリンク
山東の縦長銭荘票の図柄と中国の伝統文化
二十四孝(王祥・孟宗・董永など)の図柄と花銭
ーその3
加藤正宏
四、『二十四孝』の花銭と魯迅の『二十四孝図』
太宰治の『惜別』(1945年刊行)に、かの魯迅が日本の落語『二十四孝』を聞いたという話が出てくる。
以下『惜別』の一部。
「・・・(前略)・・・支那では、忠孝とは言っても、忠は孝の接頭語くらいの役目で添えられているだけで、主格は孝のほうにあると言っていいのです。しかし、この孝も、もともとそんな政策の意味が含められて勧奨された道徳ですから、上の者はこれを極度に利用して自分の反対者には何でもかでも不孝という汚名を着せて殺し、権謀詭計の借拠みたいなものにしてしまって、下の者はまた、いつ不孝という名目のもとに殺されるかわからないので、日夕兢々として、これ見よがしに大袈裟に親を大事にして、とうとう二十四孝なんて、ばからしい伝説さえ民間に流布されるようになったのです。」
「それはしかし、言いすぎでしょう。二十四孝は、日本の孝道の手本です。ばからしい事はありません。」
「それでは、あなたは二十四孝は何と何だか、全部知っていますか。」
「それは知らないけれども、孟宗の筍の話だの、王祥の寒鯉の話だの、子供の頃に聞いて僕たちは、その孝子たちを、本当に尊敬したものです。」
「まあ、あんな話は無難だけれども、あなたは、老莱子の話など知らないでしょう? 老莱子が七十歳になっても、その九十歳だか百歳だかの御両親に嬰児の如く甘えていたという話です。知らないでしょう? その甘えかたが、念いりなのです。常に赤ちゃんの着る花模様のおべべを着て、でんでん太鼓など振って、その九十歳だか百歳だかの御両親のまわりを這いまわって、オギャアオギャアと叫び、以て親の心を楽しましめたり、とあります。どうですか、これは。僕は、子供の頃、それを、絵本で教えられたけれども、その絵はたいへん奇怪なものでした。七十の老人が、赤ちゃんのおべべを着て、でんでん太鼓を振りまわしている図は、むしろ醜悪で、正視にたえないものです。親がそれを見て、果して可愛いと思うでしょうか。僕が幼時に見た絵本では、その百歳だか九十歳だかの御両親は、つまらなそうな顔をしていました。困ったものだというような顔をして、その七十歳の馬鹿息子の狂態を眺めていました。そうです。Wahnwitz です。正気の沙汰ではありません。また、こういうのもあります。郭巨という男は、かねがね貧乏で、その老母に充分にごはんを差し上げる事が出来ないのを苦にしていた。郭巨には妻も子もある。その子は三歳だというのです。或る時、老母と言っても、その三歳の子から言えばおばあさんですね、そのおばあさんが、三歳の孫に、ご自分のお碗のたべものを少しわけてやっているのを見て、郭巨は恐縮し、それでなくても老母のごはんが足りないのに、いままたわが三歳の子は之を奪う、何ぞこの子を埋めざる、というひどい事になって、その絵本には、その生埋めの運命の三歳の子が郭巨の妻に抱かれてにこにこ笑い、郭巨はその傍で汗を流して大穴を掘っている図があったのですが、僕はその絵を見て以来、僕の家の祖母をひそかに敬遠する事にしました。だって、その頃、僕の家がそろそろ貧乏になっていたし、もしも祖母が僕に何かお菓子でもくれたら、僕の父は恐縮し、何ぞこの子を埋めざる、と言い出したらたいへんだと思ったからです。急に、家庭というものがおそろしく思われて来ました。これでは、儒者先生たちのせっかくの教訓も、何にもなりません。逆の効果が生れるだけです。日本人は聡明だから、こんな二十四孝を、まさか本気で孝行の手本なんかにしてはいないでしょう。あなたは、お世辞を言っているのです。僕はこないだ、開気館で二十四孝という落語を聞きましたよ。・・・(省略)・・・」*Wahnwitz(ドイツ語で「狂気の沙汰」)
中国からの留学生周樹人(魯迅)とその学校で同期だった日本人学生の会話である。もちろん、太宰治の創作だ。この作品は、魯迅の『朝花夕惜』(1928年刊行)に収められた『藤野先生』『二十四孝図』と竹内好の『魯迅』(1944年刊行)などを下敷きに創作されたと考えられている。
八五郎(はっあん)など日本の庶民感覚に「そうだ。そうだ。」と頷ずいていそうな魯迅が創作されている。魯迅は『二十四孝図』で故事の「孝道」内容への違和感、更に反感さえ感じたことを記述しているからだ。
『二十四孝図』一部分の原文と訳文を提示しておこう。
「・・・(前略)・・・。我所収得的最先的図画本子、是一位長輩的贈品:『二十四孝図』。這雖然不過薄薄的一本書、但是下図上説、鬼少人多、又為我一人所独有、使我高興極了。那里面的故事、似乎是誰都知道的;便是不識字的人、例如阿長、也只要一看図画便能○(左・句、右・多の字)滔滔地講出這一段的事跡。但是、我于高興之余、接着就是掃興、因為我請人講完了二十四个故事之后、才知道“孝”有如此之難、対于先前痴心妄想、想做孝子的計画划、完全絶望了。・・・・」
この魯迅の原文は竹内好によって、次のように訳されている。
「・・・(前略)・・・。私が手に入れた最初の絵入りの本は、ある年長者からもらった『二十四孝図』(史上の人物二十四人の孝の事蹟を絵入りで解説した通俗書)だった。ごく薄っぺらな一冊の本だったが、絵が下に、字が上にあり、鬼より人の絵の方が多く、それに私ひとりの占有物だったので、うれしくてたまらなかった。その中の説話は、だれでも知っているものらしく、字の読めぬ、たとえば阿長(アチャン)のようなものでも、絵を見さえすれば、その話しの筋を滔滔と述べることができた。だが私はうれしがっていた果てに、今度は興ざめしてしまった。というのは、人にねだって二十四の話しを全部ききおわった時、『孝』がどんなにむつかしいかがわかって、それまで子ども心に何となく、孝行な子になろうと考えていた計画が完全に望みを絶たれたからである。」
更に上記『惜別』の太宰の記述の下敷きとなったであろう部分を、これも竹内好の訳から紹介しておこう。
「・・・(省略)・・・父母に対しては、心から孝行を尽くしたいと考えていた。ただ、何としても年だけの知恵で、自分勝手に『孝行』のやり方を考えて、『言うことを聴くこと』『言いつけを守ること』それから成長の後、年老いた父母に食事の不自由をさせぬこと、くらいでよいと思っていた。ところが、この孝子の教科書を手にして以来、とてもそんなことでは済まされぬ、その何十倍も何百倍もむつかしい、ということがわかった。むろん、中には『子路、米を負う』とか、『黄香、枕を扇ぐ』など、努力してまねれば何とかなるものもある、『陸績、橘を懐く』にしたって、むつかしくはない。えらい人が私を招待してくれさえすれば、『魯迅先生は賓客となりてミカンを懐にし給うや?』そこで私は跪いて答える。『わが母、かねてミカンを好みたまう。持ち帰って母に与えんと欲す』と。えらい人は感服し、かくてめでたく孝子が出来上がるので、造作のないことだ。『竹林に哭して筍を生ず』(孟宗の故事)となると、いささか疑問だ。私の真心が天地を感動させて、厳冬に筍を生ぜしめるほどの自信はない。しかし哭しても筍が出て来なければ面目がつぶれるだけの話だ。これが『氷上に臥して鯉を求む』(王祥の故事)になると、生命の危険がある。私の郷里は気候があたたかく、厳冬でも水面に薄氷がはるだけである。たとい子どもの体重がどんなに軽かろうと、その上に寝たのでは、バリッと氷が割れて水の中に落ちてしまう。鯉が泳いで来るまで待てたものではない。むろん、生命をかえりみぬ心がけが大切なので、かくてこそ神明を感動させ、思いがけぬ奇跡が出現するということなのだが、そのころ私は小さくて、そこまでは考え及ばなかった。 中でも最も不可解、かつ反感さえ抱かされたのは『老莱、親を娯(たのし)ます』と『郭巨、児を埋む』の二つであった。・・・(省略)・・・」
以下の翻訳は省くが、太宰治の『惜別』で記述されているように老莱子と郭巨の故事を縷々記述し、批判し、「じっさい、バカバカしい話しだという気がする。」と魯迅は締めくくっている。
八五郎(落語の主人公)の「ばかばかしい」という感覚と同様である。
魯迅の『二十四孝図』に登場する孝子は「百里負米 子路」(絵柄番号4)、「扇枕温衾 黄香」(絵柄番号13)、「懐橘遺親 陸績」(絵柄番号11)、「哭竹生笋 孟宗」(絵柄番号21)、「臥冰求鯉 王祥」(絵柄番号18)、「戯彩娯親」(絵柄番号7)、「埋児奉母(為母埋児) 郭巨」(絵柄番号12)である。
前章で面背が孟宗と王祥になっている花銭と王祥の花銭を紹介したが、孟宗・王祥・郭巨に加えて「噛指痛心 曾参」(絵柄番号3)の四故事を透かし彫りにしたものだという花銭が中国ではよく紹介されている。
|
|
|
|
|
||||
| 三本の竹の前に 跪く人物 |
横たわる人物と魚 | 鍬を振り上げる人物 | 天秤棒で柴を担ぐ人物 |
図で見ていただければ分かるが、確かに四故事を確認することが出来る。つまり、三本の竹bの前に跪く人物B、横たわる人物Cと魚c、鍬を振り上げる人物、天秤棒で柴を担ぐ人物Aだ。ところで、鍬を振り上げる郭巨Dの前の人物は誰だろう。
|
|
|
|
|
||||
| 中国での紹介 | 「埋児奉母」郭巨 | 「埋児奉母」の範囲 | 筆者の考察 |
確かに、鍬の下には子供dも横たわっているし、故事から考えれば彼の妻だとも考えられる。しかし、手にした大きな扇のようなもの何なのか、またその人物と横たわる子供の間にある物は何なのか。これらは郭巨の妻を明示するためにわざわざ用意した物とは思えない。とすると、これは別の故事を表す人物と考えるべきだろう。物を枕と考えて扇を加味すると、「扇枕温衾 黄香」E(絵柄番号13)の故事ではと推論できる。とにかく、郭巨の妻だとするなら、この透かし彫りの花銭において、この故事だけでその面のほぼ半分も占有し、後の半分を三つの故事で分けあっていることになり、バランスが崩れている。やはり、この人物を別の故事の人物として考えるべきであろう。中 国の銭専家の新たな考察を期待したい。
|
|
|
|
|
||||
| 北斎漫画・1930年代香煙(巻煙草)のラベル・中国伝統の絵画 「臥冰求鯉 王祥」(絵柄番号18) |
|||||||
|
|
|
|
|
||||
| 魚と人物と瓢箪のような孔 | 魚と人物と一般的な孔 | ||||||
ところで、透かし彫りで、魚と人物を刻む花銭を私も一枚所持している。「臥冰求鯉 王祥」(絵柄番号18)の故事に因んだものかもしれない。ただ、人物は着衣の姿なので、「湧泉躍鯉 姜詩」(絵柄番号15)の方が妥当かもしれない、瓢箪のような孔上部から水が湧き出ていることからも。これと違い普通の孔で水が湧いていないものもある。
|
|
|
|
|
||||
|
|
|
|
|
||||
| 透かし彫りで二尾三尾の魚を刻む花銭 | |||||||
|
|
|
|
|
||||
| 魚と龍の浮彫りの花銭 | |||||||
同じく透かし彫りで二尾三尾の魚を刻む花銭がいくつもあるが、これもこの類、或いは「有魚(=諧音で余裕があるの『有余』に通ずる)」を示す吉祥図を示しているのかもしれないが、王祥の故事を想起させてくれる。魚と龍の浮彫りの花銭もよく見かけるが、これは鯉が急流を登り終には天にまで駆け昇り龍になったという「登龍門」の故事が主題の花銭で『二十四孝』とは関わりがない。
|
|
|
|
|
||||
| 「孝感動天 大舜」 (絵柄番号1) |
「噛指痛心 曾参」 (絵柄番3) |
「戯彩娯親 老莱子」 (絵柄番号7) |
「売身葬父 董永」 (絵柄番号) |
||||
|
|
|
|
|
||||
| 「扇枕温衾 黄香」 (絵柄番号13) |
「聞雷泣墓 王裒」 (絵柄番号16) |
「乳姑不怠 唐夫人」 (絵柄番号17) |
「臥冰求鯉 王祥」 (絵柄番号18) |
||||
|
|
|
|
|
||||
| 「扼虎救父 楊香」 (絵柄番号20) |
「哭竹生笋 孟宗」 (絵柄番号21) |
「棄官尋母 朱寿昌」 (絵柄番号23) |
加古川市の安楽寺 の彩色の欄間 |
『二十四孝』の故事はほとんどが現代の感覚では受け入れ難い故事ではあるが、文化的に中国との強い繋がりあった日中の歴史振り返り、日本に残る『二十四孝』の絵柄を見て廻るのもわるくはないと私は思う。私が住んでいるのは兵庫県だが、私の知っているだけでも、兵庫県にも故事の絵柄や彫刻に残しているところがいくつかある。一つは南あわじ市の福良八幡神社拝殿の軒周り、加古川市の安楽寺の彩色の欄間などがそうである。後者は実際に出かけて行き、写真も撮っている。
|
|
愛媛県松山市の 繁多寺の 天井絵 中、 中央下、 「臥冰求鯉 王祥」 (絵柄番号18) |
|
天井画、下から3行目左から、 「戯彩娯親 老莱子」 (絵柄番号7) 「孝感動天 大舜」(絵柄番号1) 「刻木事親 丁蘭」(絵柄番号9) 「売身葬父 董永」(絵柄番号8) 繁多寺の天井絵 |
日本各地にも『二十四孝』の絵柄や彫刻が多く残っている。佐賀県佐賀市の願正寺の欄間、愛媛県松山市の繁多寺(巡礼第五十番札所)の天井絵、三重県名張市本町のだんじり(地車)の彫刻、静岡県浜北市の庚申寺の絵馬、長野県松本市の須須岐水神社のお船(山車)の彫刻、千葉県成田市の成田山新勝寺(一般には成田さん)の旧本堂周囲の浮彫り、茨城県稲敷市の大杉神社の玉垣の彫刻、宮城県登米市の興福寺の観音堂壁画、山形県山形市の貞泉寺の欄間の彫刻などがその例になる。
|
|
|
|
|
||||
| 「埋児奉母 郭巨」 (絵柄番号12) |
「扼虎救父 楊香」 (絵柄番号20) |
「哭竹生笋 孟宗」 (絵柄番号21) |
宮城県登米市の 興福寺の観音堂壁画 |
読者諸氏のお住まいの近くにも『二十四孝』の絵柄や彫刻が今も残されているところが多くあるのでは。これらを訪ねてみるのも一興かもしれませんね。
参考文献
* 『修身小学読本 初等科第四級 巻三』池田観 弘通書肆 明治15年
* 『尋常小学校生徒用 修身書 第七』 辻敬之 普及舎 明治20年
* 『新修 最新漢文読本』 服部宇之吉 富山房 昭和12年
* 『収蔵 総第100期』2001年4月
* 『名作歌舞伎全集第五巻』 東京創元社 1970年
* 『古典落語(続)』 興津要編 講談社文庫 昭和48年
クリックすると写真は大きくなります。
二十四孝(その1)にリンク
加藤正宏の中国史跡探訪にリンク
中国史跡探訪の貨幣の項にリンク