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定年万歳 四国遍路日記
遍路の旅へ

はじめに

平成九年十月二日徳島県の一番札所のあるJR板東駅に降り立ち、いよいよ来たなーと第一
歩を記し、翌十月三日朝、一番札所霊山寺から十一月十三日結願寺の大窪寺まで、ただ一
心に歩き続けた四十二日間、千四百キロ余の道のりは、過去に経験のない終生忘れる事の
出来ない感激の旅となつた。

遍路の旅から帰ると多くの友人達は、

「全部あるいて?きっかけは?何か宗教的なこと?奥さんと?何故一人で?」

と聞く。

定年を区切りに一度歩いて見ようと考えていた事などをはなすと、

「でも本当の所はどうなんだ?」

となかなか信用しない。

特別な理由は何もなかった。名古屋で三年、札幌で三年半の単身赴任中に覚えた一人歩き
の楽しみを知ったことが強いて言えば理由といえる。

昭和五十八年八月から六十一年九月まで東京証券名古屋支店に単身赴任中のある日曜日、
社宅の近くにある鶴舞公園を散歩していると、公会堂で大阪大学教授犬養孝氏の万葉の旅と
言う講演会が開かれていた。ふらりと入り気楽に聞いていると、証券営業に明け暮れる今の自
分と全く別の世界が目の前に広がり、ただ聞くだけで大変なストレス解消となった。

「名古屋から奈良の明日香までたったの一時間か二時間で行けるんですよ。明日香の甘橿の
岡に立って、大和三山など万葉の歌が生まれた現場に立ってご覧なさい。自分を千三百年前
の時代に戻し、その歴史の中に置き、しかもその風土の中に置いた時、歌が生き生きとして来
るんです。歌をその風土の中に置くと、我々の胸にじかに響いて来るんです」

それからと言うもの、横浜への帰省やゴルフのない週末は、  それこそ毎週のように名古屋
発六時の近鉄特急で明日香通いを始めた。

これをきっかけに、日本の古代の歴史にも興味を持ち、万葉時代の人々、日本人のルーツに
関わる書籍の購入を始め、一人で歩くことの魅力も知り、趣味の範囲も拡大してきた。

昭和六十三年八月、再び単身赴任で札幌支店に転勤となり、書店で本を見ていると、時事通
信を定年退職した小林淳宏氏が書いた、「定年からは同行二人」と言う本が目に留まり、社宅
に持ち帰り、それこそ一気に読み終えた。

まだ定年と言う言葉に実感のない時でしたが、空想の世界で「俺も定年を迎えたら四国を回ろ
う」と言う思いが頭の片隅にインプットされた。

さて、平成九年六月二十九日の株主総会で定年退職が確定し、非常勤の賛事と言う身分とな
つた。来年『平成十年春に決行しよう』と密かに決めて、四国遍路に関する本や地図などを揃
え色々検討したが、なかなか自信の持てる案が出来ず、誰か経験者の具体的な話を聞けたら
と思っていた。

ある日、たまたまパソコンのインターネットで四国遍路を検索すると、「空海の残した道」と言う
松阪義晃氏のホームページがあり、徒歩野宿の感動の記録が写真入りで紹介されていた。四
国遍路千数百キロを歩き抜いた感動の行脚全記録を読ませて貰い、又そのホームページで、
へんろみち保存協力会から『空海の史跡を尋ねて 四国遍路ひとり歩き同行二人』(本、別冊)
三千五百円が発行されていることを知つた。

早速申し込みをしたが、数日後葉書が届き、現在在庫なしで改訂版が九月初旬に発行される
とのことだった。その間も、四国各県の地図を始めあらゆる資料で検討したが、どの資料も歩
く為に必要な宿泊、食事、装備など具体的な情報に欠けている。何よりも歩く道順を知る事が
出来る地図が欲しかった。結局、へんろみち保存協力会からの改訂版の到着を待つことにし
た。九月十日前後に改訂版が届き貪るように読むと、四国遍路に関するあらゆる事が具体的
に書いてあり、ヨシ!これだ!これで行こう!と決めた。

退職後の私の生活は、当初予定していた事は一切手つかずで、実行したのはゴルフだけとい
う状態だった。何かしなければの意識が、歩き遍路を実現する引き金の一つだった。     
                                              

行こう!と決めたからにはもう来年まで待つことは不可能。各方面での約束事や計画があり、
多くの人々に迷惑を掛けることになるが、お許し願い、勝手ながらお世話になった東京証券の
賛事会(九月月末)を終え十月初めからスタートする事に決めた。

元来話し下手な私には、経験談をするのはなかなか大変な事だ。

忘備録として毎日書いた日記を整理して読んでもらうのが一番早いと思い約三ヶ月掛けて整
理した。

定年を迎える年齢で、特別な宗教心も、遍路に関する知識もない平均的な人間が歩いた記録
が、一度行ってみたいと思う人の参考になれば望外の喜びである。

                   平成十年三月  大村正俊

遍路の旅へ


徳島(阿波の国)発心の道場  八十八ケ所の所在地は こちら(伊予鉄道のHPへリンク
高知(土佐の国)修行の道場 
愛媛(伊予の国)菩提の道場 
香川(讃岐の国)涅槃の道場 


平成九年十月二日(木)自宅玄関前で妻に記念の写真を撮って貰い、いよいよ出発だ。

時間は会社に出勤していた時と同じ六時二十分頃。

いつものバスに乗り、JR東戸塚駅で六時四十四分発の横須賀線津田沼行きに乗った。

長い間、毎日乗っていた車両だ。

背広姿の通勤姿の中で、ただ一人大きなザックを背負い乗り込む。

出掛ける迄は、こんな格好をしてジロジロ見られるような気がしていたが、

誰もそんな者に注目する人はいなかった。何時ものように新聞を読んだり、イヤホーンを耳に
したりで、何かホットした感じになる。横浜駅で京浜東北線に乗り換え、東神奈川駅から横浜
線で新横浜駅に着いたのは七時だった。

新幹線のホームで駅弁とお茶を買い込み、七時二十三分発新幹線ひかり三十三号に乗り、三
人座席の通路側の席に腰を下ろした。習慣となっている日経新聞も読み終え、ザックから、へ
んろみち保存協力会編のガイドブック、を出し、霊場での基本的礼拝作法、遍路の心得、戒め
などを読む。

十善戒の実践、無財七施の修行と書いてある。

十善戒

一、殺生しない

ニ、盗みをしない

三、邪淫はしない

四、嘘をつかない

五、お世辞を言わない

六、悪口を言わない

七、二枚舌を使わない

八、欲張らない

九、怒らない

十、誤った考えを起こさない。

無財七施

一、房舎施(一夜の宿を貸すこと)

二、牀座施(自分の席を譲ること。良い所はまず他人に譲り。己は条件の悪い所で我慢する)
  

三、身施(困っている人を見たらすぐに手助けする)

四、和顔施(何時も笑顔を絶やさないこと)

五、言施(温かい思いやりのある言葉を掛けること)

六、眼施(優しい眼差しを掛けること)

七、心施(思いやりの心をもつこと)

人間この魂、この世の中に修行に来ている。

「世の為人の為になる修行」である。

読経し、戒を守り、接待やご利益を願う受身の行動だけでは遍路の修行にならない。

とも書いてある。

本当に俺に出来るのかな?の不安な気持ちが頭の隅をかすめた。

名古屋を過ぎ京都。駅ビルが立派になっている。新大阪で中年の女性が大きな荷物をもって
乗ってきた。荷物を網棚に載せてあげると色々話しかけて来る。

「ご旅行ですか?」

「四国を一人歩きしようと思ってます」

「すごいですね。私はロンドンの一人旅から今、関空へ着いたところです。七日間、英語もろく
に話せませんが、手真似と単語で通じますね」

「主人は山好きで、偏屈で通っています」

「私もその傾向があります」

と言うと、

「全部解らないからいいんですね」

等と、やや難解な話。

「でも四国を回ると言ってもどうやって調べたんですか」

「パソコンのインターネットで検索すると色々情報が掴めます」

その内カメラを取り出し、

「これですね、一枚撮らせて下さい」

と席を立ちシャッターを押す。良く見るとデジタルカメラ。

「パソコンをお持ちなんですね」

と言うと。友達にパソコンを勧められて買ったが、まだ何も出来ない。でも教えて貰って撮って
きた写真も、パソコンに入れようと思っているそうだ。

「電子メールで送れるようですね。良ければアドレスを教えて下さい」と言う。

個人用の名刺にアドレスを記入しているので一枚渡した。友達に教えて貰ってメールで送ってく
れるそうだ。私もメールで写真を送る方法は知らないが「宜しく」とお願いした。

十一時一分岡山着、彼女も岡山市在住とのことで、駅のホームで別れた。瀬戸大橋線は十一
時四十九分発うずしお九号で時間がある、改札を出てキャッシュの補充をしておこうと郵便局
を探す。

駅員に聞くと、すぐ駅前にあるとのこと、あいにく小雨が降っていたが、地下道から出るとすぐ
の所に郵便局があり、取り敢えず五万円補充した。やはり郵便局が便利だ。郵政の民営化は
大賛成だがその際この便利さはどうなるのかな、と不勉強を思いつつ。

瀬戸大橋は雨に煙った車窓からは良く見えず、瞬く間に高松を過ぎ一時四十七分板野駅に着
いた。

板野駅で高徳線の鈍行へ乗り換え、目的地板東駅に着いたのは午後二時九分だった。

駅舎の前は殆ど人影もなく、ひっそりとしていた。頭の中で、確か民宿阿波は左手と、駅前通り
から左手に商店街を進み、しばらく行くと右手に、霊山寺へ通じる参道があった。すぐ民宿阿
波を見つけ、何も考えず玄関の戸を開け中に入った。

「ごめん下さい、今日は」

と何度呼んでも誰も返事がない。仕方がないので玄関に靴を脱ぎ、応接セットのソファーに腰
を掛け、あたりを見回していた。しばらくして、もう一度大きな声で

「今日は!」

と声を掛けた。

すると、すぐ目の前の部屋から年輩の主人らしい人が出てきて、眠そうな、迷惑らしい顔で、

「今日は自転車で回る若いのが五人、朝三時から出掛けて眠くてしょうがない、そこで寝てまし
た」

「ああ電話で予約した人ですね、奥から二番目の部屋に入ってください」

と部屋の方を指さしながら言う。

「それでは部屋に荷物を置かせて貰って、霊山寺で遍路用品を買ってきますから」

と言うと。

「初めてですか?あそこだと何でも揃うから。今日は横浜から来た人がもう一人泊まりますよ。
今散髪に行っています」

と言う。

余裕のある人だなと思いつつ霊山寺に出かけた。

本堂の中に納経所があり、そこが売店になっている。

「明日から歩きますので一式お願いします」

中年の女性が、半袖の法衣を出し、

「まだ暑いから法衣はこれが良いでしょう」

「背が高いからこれで良いでしょう」

その他次から次に品を出してくる。一通り揃え、

「あと掛け軸を」

と言うと、

「お宅は真言宗ですか」

と聞く。

「家は浄土真宗です」

と言うと、

「それならこれ」

と真ん中のものを指す。値段を見ると二万六千円とある。他に無さそうなので、

「ではそれでお願いします」

と決める。締めて四万六千円也を支払う。

其の後、数珠の扱い方を始めお参りの作法を具体的に教えてくれ、最後に、

「歩きの人はこれに名前と住所を書いて下さい」

と一冊のノートを出してきた。見ると出発の日付順に名前が書いてある。

「結願されてお礼参りに来られたら、此処に日付を入れます」

ぽつりぽつりと日付が入っている。

ああ俺も必ず此処に日付を入れようと、改めて決意も新たになった。

明日、此処でお経がうまく読めるのかな?などと考えながら民宿に帰ると、ちょうどもう一人の
人が帰ってきた。見ると頭が丸坊主になっているので、

「これは良いですね、私も真似をして坊頭にしようかな」

と言うと、

「頭を洗うときも、汗を拭く時も便利ですよ」

と言う。

夕食の時色々聞くと、彼は同じ横浜の旭区で、不幸にも奥様を亡くされ、昨年八十八ヵ寺を完
全徒歩で回ったそうだ。今年は二回目になり、今回は般若心経を全部写経して来ていた。

八十八ヵ寺に、お礼参りの霊山寺と高野山を加えると、合わせて百八十枚の写経が必要とな
る(各寺の本堂と大師堂に納経する為、一ヵ寺に二枚必要)誤字、脱漏なく一枚写経するだけ
でも大変な事だ。それを百八十枚も写経するとは!

食後、彼(本田敏彦さん)に経験談を聞き、荷物は出来る限り軽くする事、初めはゆっくりが良
いなど、遍路の基本的心得を教えて貰った。

去年回ったばかりの本田さんが、

「今年の方が去年より自信が無い」

と言ったので、どうしてかと聞くと、

「去年はもう無我夢中で歩いたが、今年はあの急な坂とか、色々解るので不安だ」

と言う。

話しているうちに九時となる。自室に戻り明日の準備をして寝ようとするが、こんな時間に寝た
ことはなく、なかなか眠れない。朝食は六時三十分、腕時計のアラームを五時三十分に合わ
せ、知らぬ間に眠っていた。
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徳島県(阿波の国)発心の道場
10/4 10/5 10/6 10/7 10/8 10/9 10/10  
十月三日(金)から十月十日(金)まで



 十月三日(金)

民宿阿波〜第一番霊山寺〜二番極楽寺〜三番金泉寺〜四番大日寺〜五番地蔵寺〜森本旅


アラームの前に起きた、隣の本田さんの部屋で物音がしている。食堂へ行くと、本田さんはもう
白い法衣の上に環袈裟を着け、ご飯を食べていた。食事が終わるとお金を出し、オヤジさんに
宿泊料の支払いをしている。何から何まで手際がよい。本田さんは今日何処に泊まるのか知
らないが、私は既に自宅で、四日先まで宿泊先の予約をしている。ガイドブックには、早めに宿
の予約をと書いているが、どうも早すぎるようだ。歩いてみて次を考えるのが、歩き遍路のやり
方らしい。何れにしても今日は短距離だゆっくり歩こう。

本田さんはもう玄関にいる。見送りに出ると、ザックに頭陀袋、それにもう一つ箱のようなもの
を肩から架けている。

「それは何ですか」

と聞くと、

「札挟、納札入れです。中に納札、ローソク、線香、ライター等を入れ、札所で頂くご本尊の御
影も入れることが出来大変便利ですよ」

とのこと。

早速一番さんで買うことに決めた。

七時過ぎに玄関に立ち、おかみさんにお願いし、写真を撮ってもらった。私にとっては記念す
べき出発だ。

「お気をつけて」

の夫婦の言葉に見送られ勇んで出掛けた。

歩いて一〜二分で一番札所霊山寺の山門に着いた。作法で覚えた通りに一礼して境内に入
り、先ず手を洗い口を漱いで身を清め、本堂に進みローソク・線香をあげ、納札を納め鐘を打
ち、数珠を三度摺り合掌礼拝。般若心経、御宝号、回向文を読み、大師堂に向かった。お経を
読む声がたどたどしく、上づっているのが自分自身でよく解る。

大師堂で同じ事を繰り返したが、本堂でお賽銭をあげることを忘れた事に気付いたが、既に遅
し。申し訳ないと手を合わせておいた。それから又本堂に廻り、靴を脱ぎ売店の奥の納経所
で、初めて納経帳と掛け軸へ墨書授印をして頂いた。売店で札挟みを買い、中にローソクと線
香、納札を入れ、

「有り難うございました」

と礼を言い本堂を出た。

門の所まで来て、ふと手元を見ると、どうも金剛杖が違うようだ、急いで本堂に引き返すと、売
店の方で杖がないと、声を出して探している。私の杖は入り口に立てかけてある。

「どうも申し訳ない間違えました」

と謝り、そそくさと出掛けた。

「賽銭は忘れるは、杖は間違えるは、大丈夫かよ!」

と言い聞かせた。前途多難。

車の行き交う舗装道路の歩道を歩き始めた。意外に早く二番札所の極楽寺に着いた。納経を
済ませたところで、先程から私の後をずっとついてきた年輩の人と顔を合わせた。

「あなたの後を行けば間違いないと思って、ついて来ました」

と言う。

福岡から来たとのこと。空港関係の会社の役員をしているとのことで、鹿児島にも居たようだ。
両所とも若き日の勤務地で懐かしく、五番札所地蔵寺まで一緒に歩く事になった。福永さん(七
十四歳)はお孫さんが岡山で入院していて、見舞いに来たついでに、一度回ってみたいと思っ
ていた四国に足を延ばして来たようだ。九州にも八十八ヵ寺がありそれは全部回ったとのこ
と。焼物(陶器)が趣味のようで、楽しそうに話していた。今日は五番札所までで終え、昼からJ
Rで高松迄行って栗林公園を見学し、明日は岡山の後楽園を見て帰るとのこと。福永さんと四
番札所大日寺に着いた時、納経所の前に本田さんがいた。近づくと、

「別の歩き遍路の人と話が長くなって」

と言い、

「大村さんとも何処かでまた逢えるでしょう」

と言いながら別れた。

 初日で早くも大きな差がつくのだから、追いつくのは無理な話と思いつつ、本堂に向かった。

五番地蔵寺は十二時過ぎに終わり、早くも今日の予定は終了してしまった。

福永さんと別れ、国道筋の中華料理と書いてある店で昼食をと思い入ると、昼食を摂っている
本田さんにまた会った。

「もう今日の予定は終わってしまいました」

と言いながら一緒に中華定食を食べた。先に本田さんが支払いに立つと、おかみさんらしい人


「お接待します」

とオロナミンCを二本持ってきて二人の前に置き

「がんばって下さい」

と励ましてくれた。

初めてのお接待で、どうしたら良いかと思っていると、本田さんが両手を合わせているので、私
も手を合わせてお礼を言った。

本田さんとは食堂で別れ、さあ時間つぶし。

まず散髪だ!。交差点を渡り小さなスーパーの向こうに見える理髪店に入り、

「今日は、今日は」

と呼ぶが誰も出てこない。ザックを降ろし笠を取り、勝手に理髪台に座り、どうしたものかと待
っていると、二階から若い女の人が下りてきて、

「いらっしゃい、普通でよいですか」

と言う。

「丸坊主にして下さい、その前に使用前・使用後の写真を撮って下さい」

とお願いした。

「これから歩いてですか」

と笑顔で言いながら、

「それではこの角度で」

とシャッターを押した。瞬く間にバリカンは薄い髪を取り去り、かなりスッキリとした形が出てく
る。出来上がりをまたパチリと一枚撮って貰い外に出る。頭に直に風が当たり気持ちよい。

まだ早過ぎるが、森本旅館に行きザックを置かせて貰い、地蔵寺の側にある五百羅漢を見た
り、六番安楽寺との中間地点位まで足を延ばしてみたりして過ごした。

学校帰りの子供が四〜五人、出会うと一斉に

「こんにちは」

と挨拶してくれた。思わぬ声にびっくりしながら、

「こんにちは」

と返す、皆ニコニコしている。

何といい気持ちか!都会では最近こんな事はめったにない。それどころか見知らぬ人に声を
かけられても、絶対について行ってはいけないと、教えられて居る状態。ああ此処にはまだ、
古き良き日本が残っている。これが本来の日本人だ、などと考えながら歩いた。

柿が赤く実り、周りの風景に溶け込み、一段と美しい。やはり思い切って遍路に来て良かった
とつくづく思う。

三時過ぎ森本旅館に戻りすぐに風呂、洗濯機を借りて洗濯。今日は真夏のように暑かったの
で汗びっしょりだ。足や腿の付け根が痛い。

部屋に入ると、ポットのお茶が用意してあった。その美味しいこと!

森本旅館では大伴さん(七十一歳女性)と橘さん(七十六歳男性)と同宿、八時過ぎまで色々
話す。大伴さんは経験者、橘さんは無経験、橘さんは盛んに昔軍隊時代の行軍の話をする。

「息子が歳を考えて無理をするなと、何度も言っていたが、なーに死ぬような事はないと言って
出てきた」

と話している。

どうも私から見てもあまりに無計画、装備も簡単。大伴さんが今から行く第一番目の難所・焼
山寺への道など詳しく話し、

「決して無理をしてはいけません」

と何度も言っていた。後は今時の若い者はのお決まりの話が続く。自分達も四十年ほど前に
はその若い者だったくせに。

万歩計二万七千三百四十九歩
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 十月四日(土)

森本旅館〜第六番安楽寺〜七番十楽寺〜八番熊谷寺
〜九番法輪寺〜十番切幡寺〜民宿坂本屋

大伴さんは六時、橘さんは六時三十分にそれぞれ発って行った。大伴さんがもう一度、橘さん
の部屋に行き、くれぐれも無理をしないよう言っているのが聞こえる。

七時スタート。今日は朝から雨。カッパを出して着るが、頭陀袋、札挟がどうも巧く収まらない。
カッパの上から、頭陀袋と札挟を掛けると良い。頭陀袋が濡れるので、スーパーのポリ袋を出
し、頭陀袋を包んでみると、巧くいく事が解った。その上にビニール袋に入れた地図を首から
下げ、まさに満艦飾。重いザックを背負い、どうなる事かと思いいつつ出発した。

少し進むと今日も暑い。カッパを買うとき、ゴアテックスは湿気を通し蒸れにくく、サラッとして良
いと聞いていたが、とんでもない。すぐに汗でびっしょりになった。

また大きなトラックとすれ違うと、その風で笠が飛びそうになる。顎ひもが細いゴム紐一本では
支えきれない。

昨日暇つぶしに歩いた道を安楽寺に向かう。

途中洋品店を覗き、

「笠の顎紐に使うような紐はありますか」

と聞くと、店員の若い女性が、

「あります」

と言って適当な長さに切ってくれた。

竜宮のような山門を持つ安楽寺、十楽寺と打つ。(遍路が札所を巡拝する事を「打つ」と言う、
昔は金属製や木製の札を、柱などに打ち付けた納札の習慣に由来しているようだ)

八番札所熊谷寺への途中、道路脇に大きな銅像が見えた。近づくと元内閣総理大臣三木武
夫の立像だった。政治力の象徴である立派な道路の交差点に作られた小公園に立っていた。

雨も小止みとなり、カッパの上着はザックに架けて歩くと、涼しくて気持ちがよい。

熊谷寺は駐車場から本堂に至る石段を含む道が、古いお寺らしい風格を持って居る。

長閑な田園の中に位置する九番札所法輪寺で納経を済ませて出ると、境内のだんごやから、

「休んで行きなさい」

の声、見ると、朝先に出発した橘さんが座っている。

ザックを降ろし座ると、黄粉の草餅を二個、皿に入れて、

「食べて下さい」

と出す。橘さんが、

「ごちそうさま、それではお先に」

と出かけた。

お茶と共に今度は焼き芋を一本出し、

「お接待です」

と言う。

「そんなにみんなに接待では、商売にならないでしょう」

と言うと。

「大丈夫、バスで観光に来る人たちから、ちゃんと頂きますから」

と言う。

そこへ近所の人らしい年輩の人が来て、おばさんと四国弁で親しそうに話し始めた。私も加わ
り、

「全部歩いて回るつもりです」

と話すと、

「徳島は何しろゆっくり行きなさい。皆初め張り切って途中で止めるのが多い」

「ゆっくり行けばいい、そうすれば高知で自然に足が動く」

と何度も言う。

「私は計画を早く作って来たがどうも遅すぎるようだ」

と言うと、

「それが一番良い」

と言ってくれた。

「焼山寺は柳水庵に泊まる」

と言うと、おばさんが、

「あそこは良い、あなたは彼処に泊まれて幸せですよ」

と言う。

「ただ三人しか泊まれないから、もう一度良く確認して置いた方がよい」

と忠告してくれた。民宿に着いたらすぐ電話しよう、よほど良い所なのだと嬉しくなった。

すぐ側のうどん屋が名物で、昼はうどんで、と決めていたが、柚の入ったお茶三杯と餅・芋で、
うどんは止めた。

十番切幡寺は民宿坂本屋に荷物を置き、身軽になって出掛けた。

参道は、石段三百三十三段と書いてある。すごいな、と思いつつ速いペースで上がって行くと、
途中でまた橘さんと出合った。

「十一番藤井寺まで行って、意に反するが歳を考えて、タクシーで途中まで行き、焼山寺に行
きます」

と言う。

「大伴さんも心配していたし、橘さんそれが一番良いですよ、気をつけて」

と別れた。

納経も終わり石段を下りてくると、バスで来た眼の悪い人達の一団が近付き、

「まだだいぶ在りますか?」

と聞くので、

「その先から石段三百三十三段ですぐですよ」

と言うと、

「三百三十三段の石段だそうですよ」

と言いながら過ぎていった。

坂本屋に入ると直ぐ、お茶、風呂、と何とも言えない良い気持ち。昨日から出発した事を知ら
せる葉書を出そうと思い、寺で聞くが、何処も絵はがきを置いていない。ある寺で聞くと、

「観光地ではないので」

と言っていた。

 宿の近くに土産物屋があり、

「絵はがきは有りませんか」

と尋ねたが、やはり無い。四国の写真集が有ったので葉書として使えるかどうか、奥さんと検
討。奥さんはわざわざ郵便局へ電話を入れて聞いてくれた。

「葉書と同じ大きさなら良いそうです」

と言って葉書を持ってきて比べると、横が五ミリだけ長い。又郵便局へ電話

「郵便はがきと書いてあって住所が解り、切手が貼ってあれば良いそうですよ」

奥さん色々お世話になりました。

夕食、泊まり客は私を含め、三人だった。一人は横浜・神奈川区の薬王寺と言うお寺の息子、
黒多君と、淡路島から来た中年の女性。女性の方は自動車で何度も回ったベテランらしく、お
大師様の事など宗教的御利益を本当に信じた人で、黒多君に盛んに話していた。黒多君のお
寺は次男が継いでいるようで、きっと色々考えるところも有り、遍路の旅に出たのだろう、最初
から飛ばしすぎて足が痛いとこぼしている。神奈川区の子安にある薬王寺の御本尊が、来年
四月一日から御開帳となるようで、その時は尋ねて行く事を約束した。

明日、雨の降らない事を祈りつつ、荷物の整理をして床につく。

万歩計 三万百二十九歩
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 十月五日(日)

民宿坂本屋〜第十一番藤井寺〜柳水庵

六時半朝食、黒多君は今から十番にお参り。私は十一番藤井寺を目指し出発。四国八十八ヵ
寺のうち、十一番だけが藤井寺と寺(てら)と呼ぶらしい、後は全部寺(じ)と呼ぶ。土産物屋な
どの並ぶ四つ角を、真っ直ぐに歩き始める。

へんろみち保存協力会編の四国へんろ地図と、同協会の努力の結果である小さな丸いへんろ
マーク(全行程七千個といわれる)や、へんろ道を指す矢印の小さな立て看板、それに遠い昔
から建てられた遍路道を指さす石碑、建設省の作った四国の道の標示、などなどに導かれて
今のへんろは至れりつくせりのようだ。しかしそれでも実際に歩き、少しでも油断をすると、見
落してしまう。標示のない別れ道も無数にあり、直感で行く事も結構多い。

何とか進むうち広い川に出た。きっと吉野川だろう。川岸の土手よりかなり低いところに一車線
の低い橋が架かっている。

そこをぬけると、広々とした平野に出た。右も左も広大な畑とたんぼだ。遠くの畑から煙があが
っている、長閑な景色だが目標物がなく、なんだか道を間違えていないか心配しながら進む。
遠くに見えていた森を抜けると今度は、満々と水を湛えた大きな川に出た。吉野川の本流らし
い。先ほどの平野は吉野川の中州になっているようだ。ここも一車線の細い橋だ。先ほどの橋
と言い、この橋と言い、どうしてこんなに細い橋なんだろう。上流か下流に、どでかい橋が架か
っているのだろうと思いつつ、土手を登ったところでザックを降ろし一休みした。ちょうど橋に降
りて行く曲がり角で、車の運転をしている人の邪魔になるらしく、私の方を見ているので、これ
はいけないと思い、場所を変えて座り込んだ。雨のせいか多少濁っているが清流だ。風が心
地よい。

昨日坂本屋で、柳水庵に電話した時、奥様が徳島大学病院へ入院されたと聞き、

「ご迷惑では」

と言ったが主人は、

「今日は家にいるから大丈夫だが、食事の支度などは出来ないので、弁当か何か持ってきて
下さい。後の人は皆断っているが、あなたは前から予約していたので、泊まるだけならどーぞ
来て下さい」

と言っていた。

地図で見ると藤井寺に行く手前の曲がり角に、田中屋ストアーがある。途中で何かあれば買う
が、もし無ければ田中屋ストアーで買えばよい、と流れる河の水を見ながら考えていた。

町の中を歩き国道を渡るあたりに、探せばいくらでも店はあったはずだが、結局何も買わず田
中屋ストアーの前まで来た。

店の前にザックを降ろし、中に入って弁当を探すが何もない。店の人に聞くと、

「食べ物はねー、パンなら少しそこにあるけど」

と言っている。見ると菓子パンや食パンが少し置いてある。他に何か無いかと探すが、此れは
と言う物が無い。

店の人がこの先の鴨島の国道筋には、いくらでも店があると言う。往復で二キロ以上のロスに
なり、時間が惜しいが仕方がない、地図を見ながら急いで鴨島に向かった。途中何か無いかと
探すがこんなときに限り何もない。

結局鴨島の市街地まで来てしまった。自動車、洋服、電気、レストラン、などの間にコンビニエ
ンスストアーを見つけた。昼の弁当、夕食、明日の朝食、昼食までの食料を買い込み、急いで
引き返した。

藤井寺に行く道筋に、多くのお墓がある側を通った時、私と同じ大村姓のお墓が並んで有り、
私のルーツはこんなところに有るのかも知れない、などと取り留めもなく考えながら歩いている
内に、藤井寺の側に来た。へんろ道は民家の庭を横切る様に、寺に通じていた。

寺には沢山の団体や、自動車で来た人達がいる。本堂から奥の大師堂に行くと、団体と一緒
になり、私が般若心経をあげ始めると、少し遅れてリーダーと思われるお坊さんが、何か良く
解らない前置きの言葉の後、

「般若心経!」

と大きな声をあげると、多くの人が一斉に木魚の音に合わせてお経を上げ始めた。そうなると
多勢に無勢、どうしても声に負けて、そのうち訳が分からなくなり、残念ながら木魚に合わせて
一緒にお経を上げる結果となってしまった。

プロの音楽家などは、隣でどんなに大きな声で歌っても、自分の音を間違えず、見事に輪唱す
る。この後も何度か、同じ様な場面に出くわしたが、何度やってもやはり大きな声に取り込まれ
てしまった。一人で大きな声を出しても駄目だと悟り、皆さんが終わるのを待ってゆっくりやる
事に決めました。

納経所で朱印を押してくれた奥さんが、

「歩きでしょう、これから焼山寺ですか」

と聞いてくれた。

「どれくらい時間が掛かりますか?」

と聞くと、

「ふつうで六時間位掛かりますから早く行った方が善い」

と言う。

「私は柳水庵に泊まりますから」

と言うと。

「彼処は今駄目なはずですよ、昨日も予約が取れないと言っていましたよ」

いや実はと事情を話すと、

「それは良かったですねー」

と又柳水庵のほめ言葉が返って来た。

納経所前のベンチに腰掛け弁当を食べていると、知らぬ間に近づいてきた人が色々話しかけ
てきた。この人は神奈川県相模原市からきた人で、出張で四国に来る度に、土曜、日曜を利
用して札所廻りをしているそうだ。私のように一時期に回れる人が、うらやましくてならないと言
う。

「私も今までは仕事一本で、家族サービスもろくろくしておりません。あなたの様に出張の都
度、こんな良いところを回れるのは幸せですよ」

と言うと、

「それはそうですけど」

と笑っていた。

大師堂の側から焼山寺への遍路道の標示板があり、そこから石段を上がると直ぐ、険しいへ
んろ道に入って行った。急な上り坂はいわゆる道では無く、小さな谷の様で斜めにギザギザの
走った岩石が剥き出しになっており、先ず是は凄いなと感じた。両脇の小さな木に「同行二人」
とか「頑張れ」と書いた札がたくさんぶら下げてある。直ぐに息が切れてくる。古い苔むした祠
(ほこら)がたくさんある。四国の道の標示板に「最後まで残った空海の道」と書いた札が架け
てあった。

ああ何百年の昔から、多くの人が息を切らせて通った道、と思うと感慨無量。ちょっと思い入れ
が激しいと思うが、本当に、やはり来て良かったと思いつつ登る。

もうこのまま登るのは限界と思っている時、目の前が急に明るくなり、直ぐ右手に視界が開け、
眼下に何処の街か知らないが、大きく広がっている。なんという良い景色か!!。ザックを降ろ
し、夢中でシャッターを切った。ペットボトルのお茶を飲み、汗を拭き、巧く撮れるかどうかわか
らないが、不安定な木の杭の上にカメラを置き、自動シャッターで写真を一枚撮った。以後、此
れくらいの風景は、それこそ無数に有ったが、この最初の経験は、やはり新鮮だった。

上り坂は延々と続く、倒木が腐れかかったまま、道を塞いだり、崖崩れで遍路道の葺き石が下
に落ち崩れていたり、ここは今の内に修理しておかないと、空海の通った道も駄目になる日も
近いのでは、などと心配しつつ登った。

柳水庵へ約半分の道のりのところに、長戸庵と言う小さなお堂がある。一休みと側に近づくと、
「弘法大師御休場」と書いてあり、お堂の前にある台の上にノートが一冊置いてあった。拾い読
みをすると、それぞれ悩みや、希望が羅列されている。

そのまま通り過ぎようと思ったが、ふと一言書き込んだ。定年を迎え、今後の生き方を考える
一端として、遍路に出た意味のことを書いた。後日黒多君と出会った時、

「書いていましたね」

と言っていた。

名前は書かなかったが、直ぐ後から来て解ったらしい。それから高低は少ないが、風格さえあ
るへんろ道を歩きに歩き、やっと柳水庵にたどり着いた。柳水庵奥の院から崖のような、滝の
ような斜面を下ったところに、想像通りの良い雰囲気の中に、柳水庵がひっそりと静まりかえっ
ていた。

入口を入ると物静かな態度で主人が、

「まあ上がりなさい」

と四畳半ほどの応接セットが置かれた部屋と廊下を隔てて、大きな床の間のついた、古いが
立派な部屋に通され、座布団を勧められた。汗で体中がべっとりしていることを忘れて座り、挨
拶と取り込み中の宿泊のお礼を申し上げた。若い女性が、お茶とお菓子を待ってきてくれた。
奥の方にもう一人女性の声が聞こえる。後で聞くと、

「近所の人が手伝いに来てくれている」

と主人が嬉しそうに言っていた。

「風呂場は一段下の別棟にあって洗濯機もそこにあるので、どうぞ」

と言われ、

「それでは」

と立ち上がって、嗚呼大失敗!座布団の私がお尻を置いたところが、黒く濡れてしまってい
る。縁側に持ち出し、夜までに乾くかどうか解らないが、風通しの良いところに干した。タオルと
洗濯物を持って風呂場に行くと、これが又良い。昔ながらの五右衛門風呂。傍らの大きなバケ
ツに、熱いお湯がいっぱい汲んである。洗い水や、かけ湯に使うらしい。洗濯機の使用法はど
うするのかなと、機械の標示版などを見ていたら、主人が来て、

「機械が古いから」

と言いながら、洗剤を入れ動かしてくれたた。五右衛門風呂は何十年振りだろう。その昔田舎
で、バケツで風呂水を運んだ少年時代を思い出した。薪で焚いた風呂水は同じお湯でも何か
違う感じがする。

風呂上がりに、パンツ一枚で外で涼んでいると、手伝いの人が帰り支度をして出て来て、私を
見ると又入ってしまった。これは悪いことをしたと思い、直ぐ衣類を着て行き、

「もう大丈夫ですから」

と言って、主人と二人で、軽自動車に乗って帰る二人を見送った。

夕食は無いとの事だったにも拘わらず、みそ汁、焼き魚、芋煮、椎茸の炒め物、葡萄と出し、

「御飯もありますから」

と勧めて頂いた。

「おにぎりなどたくさん持って来ていますので」

と言いながら、有り難く夕食を頂いた。

主人は代々続いたこの庵を受け継いできており、兵隊時代には横須賀にも二年以上住んだ事
があり、私の現住所戸塚は、

「田園地帯でしたね」

と良く覚えている。

主人は八十四歳でまだ矍鑠としているが、子供さん方はそれぞれの生活があり、後を継ぐこと
はなかなか難しく。

「どうなりますかね、此処がないと困る人も多いし」

と言っていた。

柳水庵を始め多くの遍路宿が同じ悩みを持っており、ある人は、本来は歩き遍路は、お寺が
宿泊などの手助けをすべきなのに、逆に一人歩きの遍路の宿泊を断る宿坊もあり、経済性が
此処まで来ている現実を嘆いていた。何とかしたいが、なかなか難しい問題だ。その他色々話
している内、明日の宿の話になり、柳水庵が一杯になりどうにもならない時には、植村旅館へ
連絡すると、何時も車で迎えに来て、翌日は又此処まで送ってくれて、それから焼山寺へ登る
事が多くあるそうだ。

「車で十五分位で何時も親しくしており、大変良い人だから、明日は植村旅館にしたらいいです
よ、良ければ電話してあげましう」

と直ぐ電話で予約してくれた。

十三番大日寺には植村旅館の方が近く、

「有り難うございました」

とお礼を言った。

実はまだ自信が無く、坂本屋から柳水庵に念のため電話を入れた時、焼山寺に一番近い桜
屋旅館を予約していたがそのことは黙っていた。明日は申し訳ないが、桜屋旅館に電話を入
れ鄭重にお断りしよう。

後で地図を出して良く見ると、植村旅館は焼山寺と三角形の一辺でも一番短い辺にあたり、主
人の言うことが良く理解できた。

洗濯物は廊下に干してある。主人が扇風機を持ち出し洗濯物に向けて風を当て、

「こうすれば今日中に乾きます」

と言ってくれた。寝る前に隣の部屋を見ると、十畳位の部屋に仏壇があり大きなお地蔵さんが
祀ってあった。

やはり噂通りの柳水庵で第三夜を過ごす事が出来た。明日は焼山寺だ!

万歩計 三万千八十二歩
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 十月六日(月)

柳水庵〜第十二番焼山寺〜植村旅館

五時半起床。洗面道具を持って庭先の水飲み場に出た。まだ薄暗く多少霧がかかっている
が、早朝の空気がすがすがしく何とも言えない爽快な気分。

朝食でも主人がみそ汁、卵、昆布の佃煮、バナナ、と気を使ってくれた。

出発の時主人が遠くの山を指さし、

「彼処が一本杉です。この下を通る車道から、山道を上がって行けば、へんろ道に出ます」

と細かく教えて頂き、お礼を言って柳水庵を後にした。

道を隔てた山に登って行き、見えなくなるまで見送ってくれている主人の姿が見えた。

昨日と同じ様に険しい遍路道を、まだかまだかと、歩いても歩いても、終わりの無いような坂道
を足下ばかり見ながら登っていた。ふと見上げると、階段の上に、大きな一本杉を背景にした
弘法大師の姿が突然現れた時は、疲れも忘れるような感激の一瞬だった。

ザックを降ろし石段に腰を掛けて、柳水庵の庭先の水道で入れたペットボトルの水を、一気に
飲み干してしまった。

それから先に行くと、今度は下り坂、長い下りは登りより辛い、腰を少し落とした格好でおりる
と下り安いようだ。どんどん下る程、ああ勿体ないと思う。また同じ様な登り坂がある事が解っ
ているので。

左右内(そうち)と言う集落まで下り次の遍路道を、畑にいる人に尋ね、進んでいると、自動車
が停まり、

「焼山寺はこの道で良いですか」

と聞くので、

「わたしは歩きでこの辺の事はなんにも解りません」

とにべもなく答えた。

先ほどの畑の人が、

「その先は車で行った人がよく引き返してくるから、引き返して道を聞いて行った方が良い」

と教えている。

どうも自分の心の中で、「自分は険しい道を歩いているのだ」と車の人を、軽蔑するような考え
になっているのを自覚する。それがにべもない返事になっている。それに引き替え、畑の人
は、私に教えた時と同じ態度で、丁寧に教えている。駄目だ駄目だと大反省。

それから又強烈な上りの連続、まさに胸突き八丁。息も切れ切れに登り、石段の上に焼山寺
の山門を見たときは、喜びよりほっとした。

到着時間はちょうど十二時だった。納経を済ませ、予定した今日の泊まりの件で、桜屋旅館に
断りの電話を入れた。

「今十二時でもう少し先まで行きますから」(これは本当のことだ)

とお断りすると「どうぞどうぞ」と心易く受けてくれた。安心して境内の売店に入った。土産物売
場の向こうがテーブル席になっている。ザック、笠、頭陀袋、札挟み等身体についているものを
全部降ろして、テーブル席に腰を下ろした。

 うどんと書いた張り紙があった。昨日買ったパンや、チーズなどが残ってはいるが、此処はや
はりうどんがよい。

「おばちゃん、うどんをちょうだい」

出てきたのは小さなどんぶりだ。

半分食べたところで、

「おばちゃん、もう一杯」

と言った所へ、遍路姿の若者が入って来た。

彼は藤井寺から一気に歩いて来ているはずだ。私は柳水庵だから、彼の半分しか歩いていな
い。しかも到着時間はあまり変わらない。

その彼があまり疲れた様子もなく、うどんを注文して弁当を取り出している。

昨日から今日に掛けての山登りは、私にとっては初めての経験で、我ながらよく登れたと思っ
ていた。だが藤井寺からここまで一気に登ったとしたら今頃どうなっていたか。こうしてゆっくり
うどんを食べる余裕は無かったと思う。

法輪寺の団子屋で聞いたように、徳島県ではゆっくりが私の体力には絶対に必要らしい。

同じ頃中年の女性が二人入って来て、うどんを注文していた。食べ終わりカウンターの所に行
き、支払いを済ませた。

 重いザックを背負い、若者に、

「お先に」

と言って一人で出掛けた。

急な下り坂を少し降りたところで、道を確認しようと思って、頭陀袋を開けて見ると、地図がな
い。あれが無いと遍路は出来ない。

一瞬慌てたが、心を落ち着かしてよく考えてみると、納経所で桜屋旅館に断りの電話を入れた
時、電話機の上に宿泊施設一覧表を出して、それを見ながら電話のダイヤルをし、そのまま
忘れた事に気づいた。

疲れた足で又あそこまでと思うとゾットする。そこへ先ほど、売店でうどんを注文していた女性
二人の車が来て停車し、

「よろしければ下までどうぞ」

と言ってくれた。

地図を忘れたことは言わず、

「歩きですから」

と断ると、

「そうですね、それではお気をつけて」

と行ってしまった。それから又来た道を引き返す。

ほんの少し降りただけ(約五百メートル)なのに全部急な上り坂で、そのきついこと、息を切ら
せて納経所に来ると、案の定電話機の上にそのまま置いてあった。ホットして、もう一度先ほど
の売店に入り、

「オバチャン忘れ物をして帰って来たよ、しんどいから少し休ませて」

とザックを降ろし汗を拭いた。先ほどの若い遍路は未だいて出掛けようとしていた。

「どこまで」と聞くと、

「桜屋旅館迄です、もうすぐです」という。

私が先ほど断った旅館だ。

「私は植村旅館、分かれ道まで一緒に行こう」

と一緒に出掛けた。

若さには勝てない、第一歩幅がまるで違う、ついて行くのがやっとだ。衛門三郎の霊跡を過ぎ
桜屋旅館と植村旅館方面の別れ道近くで、遍路道の標示を見つけ、通りがかりの人に、

「玉ガ峠は、この道ですか」

と聞くと、

「健脚の人は、その道を行った方が早い様ですよ」

と言う。

「健脚では無いけどなー」

と若い遍路と顔を見合わせ、

「この道を行ってみよう、それではこれで」

と言って別れた。

彼は車道をゆっくり下って行く。私の方は焼山寺への登りと同じ様な遍路道。疲れた上にまた
一山越えねばならない。少し行くと〇.九キロで県道へとの標示があった。大したことはないだ
ろうと登り始めたら、五十センチ程の道幅で、すごい急坂の山道が続いていた。途中で杉を伐
採している夫婦に出会った。倒した杉が、遍路道に横たわり、通るのが大変。やっと通り越し
たら奥さんが、

「もう冷えてないけど」

と言って青色のミルクティーの缶を差しだし、

「大変だねー、少し休んで行きなさい」

とお接待してくれた。その旨いこと、少々雑談し、又登り始める。もう少しで登り切る所まで来て
顔を上げると、七十歳位の田舎のおじいさんが、何かぶら下げて立っていた。

「しんどいだろう、この道は大変なんだよ、後百メートルで峠だよ、直ぐそこだよ」

と言ってくれた。

玉ガ峠だ、峠には小さなお堂とW・Cがあり、ザックを置いて顔を洗い一休み。後は狭い車道を
下る道が続く、人も車も殆ど来ない。視界も開けて眺めの良い道を、スピードを上げて降りてい
った。確か第一日目の森本旅館で、大伴さんが焼山寺からの道で、大変良い道が有ると言っ
ていたのは、この道かも知れない。

植村旅館の少し手前で、この近くのはずとキョロキョロしていたら、車を停めた中年の男性が、

「どっちえ行くんかのう」

と四国弁まるだしで、親切に聞いてくれた。場合によっては、乗せてあげようと思っている様
だ。

「植村旅館を探しています」

と言うと、

「直ぐそこ」

と指さして行った。

植村旅館に入ると、お母さんらしい人が出てきて、

「柳水庵からの電話で来ました」

と言うと、

「今日はあなた一人だけです」

と言って、二階の八畳の大きな部屋に通された。

「洗濯物があれば廊下に出しておいてください、それからお風呂が湧いていますからどうぞ」

と有り難い事です。

風呂上がり、裸のままで窓から外を見ると山間の長閑な風景。山の中腹の家から煙があがっ
ている。懐かしい故郷の光景が目の前に再現されうっとりしていると、襖が開き夕食が運ばれ
て来た。

今までの旅館、民宿とも食堂であったため、

「わざわざ申し訳ない」

と言うと、

「今日はお一人ですから、どうぞごゆっくり」

と言う。

床の間に、高群逸枝の娘巡礼記、や山頭火の句集(春陽堂)一〜三、があったので聞くと、

「以前お泊まりのお四国さんが、送って下さいました」

とのこと。

今迄もそうだし以後も、殆どの民宿・旅館の部屋にある本は漫画本と決まっていた。それで強く
印象に残っている。(四国では遍路の事を、お四国さんと呼ぶ)

さて夕食をたらふくとり、若奥さんに教えて貰った様に、明日は無理のないところで大日寺、常
楽寺、国分寺、観音寺、そして十七番井戸寺を打つ予定で、柳水庵の奥さんが入院している
徳島大学付属病院の近くにあるビジネスホテル蔵本を予約した。鮎喰川に沿った道路で、ほ
ぼ平坦な二十七キロの道なら歩けるのではないかと思い決めた。

自分がどの程度歩けるのか、全く解らない。スタートの日が十.五キロ、二日目が十七キロ、
三日目が十六.二キロ(山)、四日目十六.四キロ(山)まさにゆっくり来ているし、そんなに疲
れてもいない。ただ左足の薬指の爪が内出血したらしく、黒くなっている以外は今のところ異常
はない。朝食は六時三十分にお願いした。

万歩計 二万九千百五十三歩
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 十月七日(火)

植村旅館〜第十三番大日寺〜十四番常楽寺〜十五番国分寺

〜十六番観音寺〜十七番井戸寺〜ビジネスホテル蔵本

予定より早く、またもや朝食を部屋まで運んでくれた。実は昨夜寝る前、何かむかつくような感
じがあり、おかしいと思いつつ眠った。十二時頃目が覚め、トイレに走った。午前二時再びトイ
レに行った。思い当たることは、玉ヶ峠から下って来る途中、汗を絞り出しているため、いくら
飲んでも喉が乾き、道路脇に山から落ちてくる清水を樽に貯め、飲める様に柄杓が置いてあっ
たので、ガブガブ飲んだ。その上昨夜は部屋でビールも飲み、たらふく食べた、自業自得だ。
にも拘わらず朝はちゃんと食べた。二度目のトイレの後で飲んでおいた正露丸が効いたらし
い。

朝食が早く終わり、予定より早く六時三十分に宿を発つ。若奥さんが旅館の前まで出て、道を
詳しく教えてくれた。迂回した車道でなく、近道の遍路道に入った。早朝の遍路道は、格別の味
がある。あとは平坦な道をただ歩くだけ。

十三番札所大日寺に近い、入田町郵便局で五万円を補給し、荷物を少しでも軽くする為、ゆう
パックで(折りたたみ傘、ウエストポーチ、本、携帯ラジオ、フイルム)不要の物を自宅へ送っ
た。

折りたたみ傘とウエストポーチは菅笠と頭陀袋で代替出来たし、本は読む暇がない事が解っ
た。ラジオも全く聞かなかった。撮影済みフイルムの一本でも軽くしたかった。

十時過ぎ大日寺に着くと、団体のお遍路さんで一杯。一緒のお経は負けるので本堂が空く迄
待っていると、おばさん達が、

「一人歩きですか…すごいですねー…大変ですねー…どちらから…私たちは小田原です」

と今まで会った人達と大体同じやりとり。

団体客が済むのを見届けてゆっくりお参りした。十四番常楽寺と十五番国分寺を打ち観音寺
へ向かう途中、大規模な発掘現場に出会った。現場の人に聞くと、観音寺の遺跡を発掘調査
しているとのこと。許しを得て立ち入り禁止の縄張りの中に入れて貰い、写真をとらせて貰っ
た。

メモ帳に、だんだん徳島に近づくに連れ、景色も何も駄目になる。と書いているが、町の中や、
車道を淡々と歩く時、決まってこんな気持ちになっていた。山に抱かれた遍路道には人を浄化
するものがあるようだ。その上、牛やブロイラーの飼育が多く、臭い、徳島は臭い、と書いてい
る、よほどご機嫌が悪かったなーと思い出す。

十七番札所井戸寺を打ち、JRの駅前にあるビジネスホテルに入った。一風呂浴び、明日の予
定を立て、鶴林寺の麓の民宿金子屋を予約し、近くの鮨屋で鮨とビールで満足。二十七キロ
の道のりは大きな負担にはならず、充分こなせる事が確認出来た。

高知に入ればどんどん歩けると言っていたが、この調子だともう大丈夫だろう。右足の小指が
少し痛いのでキシロ軟膏を塗って絆創膏を貼っておいた。昨日は夜中に二度起きたので、今
日は思い切り寝よう。

万歩計 五万七千九百七十三歩
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 十月八日(水)

ビジネスホテル蔵本〜第十八番恩山寺〜十九番立江寺〜民宿金子屋

昨夜は早く寝ようと思っていたが、次の第二の難所、鶴林寺と大龍寺の山越えの後が心配で、
地図を出して調べていた。金子屋から、発心の道場最後の薬王寺迄かなり長いが、幾ら地図
を見ても泊まるところが無い。色々考えたが素人に妙案は浮かばず、十時を過ぎ諦めて寝
た。

今朝は五時半に起床。昨夜買っておいた海苔巻きを食べ、六時過ぎに出発。徳島大学病院
前から徳島市内中心部へ向かう、未だ人通りの殆ど無い道を歩いていたら、車道からスクータ
ーがビルの前の歩道に入った。こんなに早く出勤かと思いながら近づくと、その人が私の方に
寄ってきて、

「ご苦労様です、何か食べて下さい」

と五百円玉を接待。

 突然で面食らったが、前に本田さんがしていたように、手を合わせて頭を下げ、有り難く頂い
た。市街地を通り過ぎ、通学の自転車と擦れ違いながら、十八番恩山寺に着く。

本堂、大師堂、で中年の一人歩き遍路に出合った。大きな声で見事にお経を読んでいる。

納経を終え出掛けようと、門を出ると屋台でアイスクリームを売っていた。一汗かいたあとで冷
たい物は魅力だ。買おうと思って立ち寄ると、

「お接待します。イチゴとメロンどちらが良いですか」

と聞くので、メロンをお願いした。

「商売道具で接待すると儲からないでしょう」

と言うと、

「何かで還ってくる、歩きの人には」

と言ってメロンを渡してくれた。

不明にも未だお接待の意味も、意義も何も理解せず、法輪寺境内の団子屋でも、此処でも経
済的効果の事ばかり聞いていた私は、後で考えると何と浅はかな質問をしたものかと恥ずかし
い。新幹線の中で無財七施を読んだ筈なのに。有り難く頂きお礼を言って階段を下りた。

立江寺に向かって歩いていると、右足の小指が痛くなってきた。左足の薬指の爪が黒くなり、
多少痛んでいたが、焼山寺からの下りと、昨日から距離を伸ばし、歩く距離、時間も長くなった
のが響いて来ているようだ。

十九番札所立江寺で納経を済ませ、お昼はどうしようかと思っていたら又先程の人と一緒にな
った。彼は岡山県の備前市から来ていた。夏の休暇を利用して焼山寺に登り十七番井戸寺迄
は済ませており、今日列車で来て十八番恩山寺から続きを歩くという。 

彼は弁当を持っている、家から持ってきたそうだ。

「今日は何処に泊まりますか」

と聞くと、

「金子屋です」

と言う。

「同じ宿ですね。それでは又宿で会いましょう」

と言って別れた。

私は何処かで食べて行く事にしよう。その前に足のマメ治療にキシロ軟膏を使ったが、どうも
軟膏はべとべとする感じで良くない。赤チンを買おうと門前で見回すと薬局があり。おばちゃん
に、

「赤チンは有りますか」

聞くと、

「赤チンは無いが、ヨードチンキかマキロンでは」とケースの中から取り出してきた。出てきた物
を見ると、マキロンは容器が大きい。

「小さい方がいい」
とヨーチンを買った。

何処か昼御飯を食べるところは無いかと聞くと、

「隣がうどんや中華をやっているよ」

と教えてくれた。出て見ると、なるほど小さな店に、うどん・そば、と書いてある。戸を開けようと
すると鍵がかかっているようで開かない。他に食堂は無さそうなので戸をガタガタやっている
と、中から、

「ハイハイ直ぐ開けます」

と声がして戸が開いた。店にはテーブルが三つ、一つのテーブルに、皿に盛ったちらし鮨や海
苔巻きに、網が被せてある。うどんと、ちらし鮨を注文。奥の方でオヤジさんらしい声がする。
何かわめいている、それを奥さんが叱っているようだ。どうやら戸が閉まっていたのは、これが
原因だったようだ。あまり美味しくも無かったのに、お代は七百円頂きますと言う。結構とられ
た感じになる。

少し休んで出掛けると、前方に先程の彼(延原氏)が歩いているのが見えた。追い付いて一緒
に歩き始めた。

恩山寺でも、立江寺でも、彼のお経の読み方は非常に上手い。私は般若心経と大師宝号、そ
れに廻向文を、もたもたしながら上げているが、彼はその他に光明真言と、何か解らないお経
を、すらすらと淀みなく上げている。尋ねてみると、お経を上げるとき間違える事もある、その
間違いなどをお許し願うお経を上げておくのだそうだ。私には出来そうもないので、せめて最小
限上げるべきと云われる、光明真言の読み方を教えて貰おうとお願いし、読むがなかなか上
手く行かない。どうも途中の段落の切り方が解らない、何度か聞いてやっているうちに、何とか
読めそうになって来た。口の中でぶつぶつ言いながら歩いた。

金子屋の近く勝浦町で、みかん畑の女の人が我々を呼び止めて、

「みかんを持って行きなさい」

と、木から色づいたのを採り、頭陀袋の中に入れてくれた(七個)。そこへ後ろの方からオバア
チャンが駆けつけてきて、

「お接待しようと追っかけて来た」

と云いながら、私と延原さんへそれぞれ百円を接待してくれた。有り難くて、何と云って良いか
解らない。

俺も満願した後は社会の為、人の為に役立つ事を、もう一度考えなければと思うようになって
来ている。弘法大師の力と云うものを少し感じ始めたのかも知れない。

金子屋に着き、次の宿所について、延原さんの部屋で協議、大龍寺から下りた麓の少しでも
(たとえ何百メートルでも)次の平等寺に近い、坂口屋に決めた。

今日を振り返ると、徳島市内とその付近の国道は、トラックや乗用車の交通量が多く、嫌だ嫌
だ、喧しいだけ。そんな気持ちからか、今日は徳島では写真を撮っていないようだ、何も感じな
かったのだ。ビジネスホテルも入って料金を前払いしたとき、ほんの少し従業員と話しただけ。
でも何の関係もない人から、お接待を受けたり、この金子屋の様な、床の間も何もない六畳一
間の民宿、遍路宿なのだが、温かい心の通った感じはどうだ。安心出来る。

明日の予定を妻に電話で連絡すると、会社から連絡があり、元会長の大峡さんが逝去された
との報に接する。葬儀などについては未定で、社葬になるかも知れない。友人にお願いするよ
う妻に頼む。

人生とは何と儚い事か!!。

気を取り直し風呂場で肌着と靴下を洗濯。夕食後お接待で頂いた、取れたてのみかんを食べ
る。なんと美味しいことか。明朝は六時半食事、七時出発予定。

万歩計 一万歩も出ていない、故障かも知れない。
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 十月九日(木)

民宿金子屋〜第二十番鶴林寺〜二十一番大龍寺〜民宿坂口屋

七時出発。金子屋の前で延原さんに写真を撮って貰う。二人で色々話しながら歩き始め、少し
進むと延原さんが、

「どうもおかしい、遍路道の標示がありませんよ」

と言い始めた。

「少し行けばあるでしょう」

と、いつもの楽観主義で行こうとすると、下の方で大きな声がする。

「そっちは違うよ、引き返してあの看板の様なものが見えるだろう、(なるほど見える)あっちだ
よ。」

と教えてくれた。親切な人だ。その上、今このおじいちゃんが鶴林寺の方へ行くから良ければ
乗って行ったらと誘ってくれた。こちらは歩きだからと大きな声で断ると、

「じゃーお元気で」

と云ってくれた。

それから又焼山寺と同じ様な登り坂が始まった。足のマメは現時点痛みもなく快調。延原さん
について、ゆっくりゆっくり登る。一度経験していてもやはりきつい。しばらく登り、途中の水飲
大師につくと、昨夜同宿した梅宮という人が上にいる。私は足が弱いから後からゆっくり行くと
言っていた人が先に着いているのには驚いた。先程道を間違えた間に追い越されていたの
だ。それから三人で登り始めた。

やっとの思いで鶴林寺に到着、山門に、あ・うんの仁王ではなく、あ・うんの鶴が仁王の替わり
に立っていた。風格のある寺だ。納経を済ませ、次の大龍寺に向かう。今まで登ってきた反対
側を今度は全部下る。勿体ないこと。下迄おりるのだから又上りがあるに決まっている。

大龍寺は、標高六百メートル近い山上にある。我々が登るほぼ反対側から、ロープウエイがあ
り、一般の人はこのロープウエイか自動車で、山上まで登る。我々は標高約五百メートルの鶴
林寺から麓まで下り、那賀川を渡り、頂上迄六.五キロの歩行だ。麓から二十一丁とか十九丁
など、距離を丁で示している。八丁と聞くともうすぐだ(一丁=百九メートル)、延原さんが、胸突
き八丁とは、最後の八丁は胸が岩を突くほど急な坂道の事と云った。成る程、言われてみれ
ばその通りと感心しながら登った。

呼吸が乱れ、足が動かなくなる。一歩一歩が、靴の長さ程しか伸びなくなってくる。やっとたどり
着いた。でもやはり焼山寺の方が厳しかったように思う。寺は整備が行き届いた立派なもの、
観光資源としても生かされているように思える。裏手にロープウエイの駅と立派な売店がある。
納経を済ませ何か飲もうと売店に行くと、松茸茶と書いてある。松茸茶を注文すると、

「これは接待です」

と出されたお茶を飲むと、昆布茶に松茸の匂いがついたもの、美味しく頂いた。

大村、延原、梅宮の三人で下り始めたら、一昨日焼山寺で出会い、井戸寺に泊まった筈のへ
んろ(野尻君)が、、若い女の子と一緒に登ってきた。顔を見合わせ、

「あれ今ですか」

とお互いに云った。

今日は、龍山荘と言う民宿に泊まるそうだ。梅宮氏も龍山荘。

私と延原さんと若い女の子(尾形さん)は坂口屋。

宿に入ると直ぐ洗濯、全自動で乾燥機付き(無料)。夕食は六時三十分、今までは、五時〜五
時三十分には夕食だったので、お腹が空いている。食事はなかなか豪華版だ。刺身、エビフラ
イ(大きい)、煮物、茶碗蒸し、澄まし汁、香の物、みかん、御飯は小さなお櫃にいっぱい(三人
前ほど)。我々の他に六人組と十二人組が居り、ビールを飲み賑やかなこと。我々三人は早め
に食べ退散した。

明朝は六時朝食の後、三十キロほどの長丁場、薬王寺へ向かう。延原さんも明日まで、梅宮
さんもそうだ、尾形さんは明後日迄、それぞれ徳島県内最後の札所である薬王寺で今回は終
了する。明後日からは私一人だ。短い期間だが歩き遍路と言う仲間意識には特別のものがあ
る。この出会いは大切にしたい。きっと又別の人達とも出会う事になると思うが。

明日の予定を妻に連絡、大峡元会長の葬儀は、社葬になるようだ、私はこちらでご冥福を祈
ることにして、友人に全てお願いすることにした。

延原さんは、出来ればもう一日延ばして、出来るだけ高知に近づいて終わりたいと、今部屋で
考えている。勤務先は大阪二部上場の窯業の会社と言っていた。

「仕事が一番だからね」

と言っておいた。

会社では電気関係の仕事をしているらしく、真面目な性格。証券マンのような、いい加減さ(こ
れは私のこと)は無く、好人物だ。

万歩計 二万七千七百七十八歩 こんな筈がない、買い替えよう。
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 十月十日(金)

坂口屋〜第二十二番平等寺〜二十三番薬王寺〜善人宿

六時五十分に民宿を出発。二十二番平等寺を目指して又山越えだ。山を越えたあたりから、
右足のマメが強烈に痛くなった。

延原さんは昨夜色々考えたが、今夜一泊して明日は次の目的地である高知県の室戸に少し
でも接近しておきたいと言っている。私が昨夜予約した善人宿に電話したら、もう一人予約が
あり相部屋で良ければと言っていたそうだ。

延原さんと歩いている途中、後から出発した野尻、尾形さんに追い付かれた。一生懸命歩いて
も追いつけず、徐々に離されて行く。彼らは時々立ち止まって休む振りをして私を待っている。

「先に行ってくれ」

と言っても、なかなかそうはいかない。

それでも平等寺には以外に早く着いた。九時四十分。そこから今日の目的地、薬王寺迄約二
十キロ。足が痛く、それを庇うから今度は腰も痛くなってきた。

這々の体でやっと薬王寺についた。此処で初めて四人で納札を交わし自己紹介をした。

女性の尾形さんが、

「大村さんが全部通しで歩いたあと、二度目か三度目を廻っている時何処かで逢えるかも知れ
ませんね」

と言っていた。

「本当に何処かで逢えたらいいね」

と言って野尻、尾形の二人とはここで別れた。

今日は延原さんと善人宿。地図で見るとレストラン橋本に続いて善人宿(橋本)と書いて有り、
JR日和佐駅の近くだ。取り敢えずレストラン橋本を探した。国道五十五号線の左にレストラン
橋本があった。広い駐車場の隅に、古ぼけた小型バスが有り、黒ずんだ板に善人宿と書いて
ある。昨夜電話した時、主人が、

「有料もあるが、無料で良いか」

と訳の分からない事を聞くので。どういう事かと聞くと、

「泊まりは無料、食事も自分の経営する食堂でお接待する」

と言う。

「旅館も経営しているが、善人宿は趣味でやっている」

とのこと。

想像するに小屋のような、納屋のような所の部屋と思っていた。だが案に相違して、何とこの
古ぼけた小型バスが善人宿らしい。外から見ただけで、これはまずい事になった、と思った。
レストラン橋本に入り、

「善人宿はこちらですか」

と聞くと、奥さんらしい人が、思った通り例のバスに連れていった。これはまるで浮浪者のねぐ
らの様だ。ドアーを開け説明をしてくれた。「これは駄目だ!困った事になった」と思っていた
が、説明を聞くうちに、これは面白い!こんな経験はお金を出しても買えない貴重な経験にな
る、と逆に興味津々となってきた。

善人宿の概要はこうだ。

車両の中央部のドアを開けると、入り口の照明ランプが灯る仕掛けになっている。前方の運転
席がベッド、入り口の正面にテレビ、VTR、ビデオカセット、雑誌、本、インスタントコーヒー等。
後方は座席を取り去った後の板張りに、ござを敷いて炬燵台が置いてある(寒いときは使え
る)。炬燵台の上にポット、湯飲み、ノート二冊、後ろに蒲団が積み上げてある。窓は白紙が貼
られ、其の紙に過去泊まった人達が思い思いの事を書いている。背丈から前方に延原さん、
後方の座敷?に私が寝る事にした。

トイレは直ぐ裏手にあるJRのトイレを使う。風呂は近くのホテルの温泉を利用すればよい。風
呂に行く前にトイレの位置を確認しておく必要が有る。バスの後ろが線路になっており、ホーム
を挟んでもう一つ向こう側の、駅舎があるホームまで行かねばならない。線路には鉄条網が張
られていて、幾ら探しても渡れそうもない。仕方なく駅の外れの踏切を渡って、駅前まで行って
見た。

これは大変だ、小の方はその辺の草むら、大は仕方ない駅まで行くしか無い。洗濯はホテル
の温泉へ持っていって、隅の方でやれば良いと主人が言っていた。二百メートル程離れたホテ
ル千羽の温泉でたっぷりと湯に浸かった。

夕食時、主人が我々の側に来て、学生時代に始まり現在に至る、苦労話を聞かせてくれた。
善人宿のバスに戻り、備え付けのノートに延原さんと、それぞれ思ったことを記入しておいた。
こたつ台を動かし蒲団を敷いた。何とか眠れる場所は確保出来た。だが少し身体を動かすと
ギーギー音がする。国道の近くでトラックの通る音がうるさい。うとうとしていたら、今度は蚊の
攻撃に逢った。蚊取り線香があったのを思い出し、火を付けた、入り口の下の隙間から入って
来るらしい。蚊の羽音も止み、知らぬ間に寝ていた。

今日で徳島県(阿波の国)「発心の道場」二十三札所を終了。あと室戸岬まで八十五キロは札
所もない一人歩きになる。   
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高知県(土佐の国)修行の道場        
10/12 10/13 10/14 10/15 10/16 10/17 10/18 
10/19 10/20 10/21 10/22 10/23 10/24 10/25
十月十一日から十月二十五日まで

 

 十月十一日(土)

善人宿〜国民宿舎加島荘

五時三十分私の腕時計が、続いて延原さんの目覚まし時計が鳴った。延原さんが、

「社長はもう来ていますよ。レストランのトイレを借りましょう」

と言って出掛けた。

帰ってきて、

「社長はもう仕事をしてますよ」

と感心していた。

今度は私の番、レストランの中に入り挨拶すると太刀魚を捌いていた。昨夜も八時過ぎに善人
宿に来て、昔話をして帰ったが、

「こんなに早くから大変ですね」

と切り出すと、今日から明日にかけてのスケジュールや注文伝票を見せて喋り始めた。

「土曜、日曜と注文の処理が大変なんだ」

と嬉しそうに話している。

電気は入って直ぐのトイレの中にスイッチがあるから、それで点けてくれとのこと。成る程トイレ
の便器の上にスイッチがある。

顔を洗い、両方に三つづつ並んだトイレの一番奥に入って驚いた。便器の前に水槽があり、中
にカワハギと伊勢エビが三匹動いている。真上の大きなスピーカーから演歌がガンガン鳴って
いる。昨夜もカラオケの話が出ていたが、よほど好きなようだ。これに合わせて、太刀魚の天
ぷらを揚げている。帰り際、

「大変なお世話になりお礼の申し上げようもありません」

と言うと。

「よく眠れましたか」

と聞くので、

「正直言って環境が変わって最初は眠れなかったが、寝てしまったら、朝までグッスリでした」

と言うと。

「今度は奥さん連れて来て下さい。そしてあれ(バス)に泊まったら奥さんビックリするよ。アハ
ハハー」

だと。

延原さんとは此処でお別れ、一緒してもよいが、彼は今日出来るだけ、室戸に近づいてから、
JRの列車で備前市へ帰る。足の痛い者が同道だとお互いに迷惑となる。キッパリと断った。
社長も外まで出てお元気でと見送ってくれた。

彼の姿が見えなくなる迄、国道五十五号線の上で手を振った。何か解らないが目に涙が溜ま
っていた。

それから足のマメの手入れ。もう一度トイレでトライ、やはり駄目。

七時頃、社長に挨拶して出発した。ここ薬王寺から室戸岬の二十四番札所最御崎寺まで八十
五キロは国道沿いの一本道。いよいよ高知へ向っての長丁場。足はまあまあ。昨日あんなに
痛かったが、朝になれば不思議に何とかなる。一方腰を伸ばす時の痛いこと。腰の曲がった
老人が腰を伸ばす時のように、ゆっくりゆっくりとしか出来ない。どうも何処か日替わりで痛くな
る。疲れが溜まって来ているのだろう。

今日は国民宿舎加島荘を予約している。凡そ二十七キロの行程だ。本当はもう少し先の宍喰
町あたり迄と思ったが(ホテル、旅館、民宿等が沢山ある)、四十キロ以上あり、足の状態から
諦めた。

加島荘へは、ゆっくり歩いたつもりだが、二時半に到着した。民宿のように直ぐ風呂と云う訳に
いかず、風呂は五時から、夕食は六時からと決まっている。

「洗濯機を使えますか」

と聞くと、

「女性トイレの中に置いてあるから、どーぞ」

とのこと。ちょっと気になるが、まだ殆ど客はいないので上から下まで脱いで浴衣に着替え、洗
濯機にぶち込んだ。乾燥機もあるので助かる。

部屋に帰り、外を見ると静かな入り江が見渡せ、ゆったりした気分になる。畳に大の字になっ
ていたら、何時の間にか眠っていたらしい。五時前に目が覚め、あわてて洗濯物を取りに廊下
に出た。幸いだれも居ないので、女性トイレに入り、洗濯物を乾燥機に入れ、風呂に直行し
た。五時前だがもう入れる。眼下に入り江が広がり、夕日が傾き得も言えない眺め、うっとりし
ながら、ゆったりと風呂を使った。

まだ乾燥機は回っている。六時前には乾燥機が終わったはず。廊下に出てみると、団体客ら
しい女性が、廊下で喋ったり、笑い転げたりしている。これは駄目だ。しばらく部屋でテレビを
見て、頃合いを見て出てみると、状況は更に悪化していた。廊下の隅にあるマッサージ機に一
人座り、もう一人と話している。忌々しい!どうして女はこんなに喋るんだろう。当分駄目と諦め
て、フロントに行き事情を話すと、

「入ってもかまいません」

「しかし」

と困っている所へ、ちょうど食堂のおばさんが来て事情を聞くと。

「私が取って来てあげる」

と言って二階に上がり、

「どうしてこんな所に置くのかねー」と言いながら洗濯物を持ってきてくれた。

一騒動の後、部屋で洗濯物をたたみながら考えると。こんな国民宿舎に来て洗濯をする男は
いないだろう。夫婦で来れば奥さんがやるだろうし、第一、歩き遍路はこの国民宿舎には来な
いだろう。逆に変な奴が泊まっている、と思われるのが落ちだ。今日お接待を受けた時思った
感謝の気持ちを全く忘れて、独りよがりの自分丸だしになっていた。

今日の接待とは。

善人宿を出て五十メートル程行った所で精米をしていた中年の男性が私を見て

「米を持っていく?」

と声を掛けてきた。

「有り難いがお米は重いので、何しろ少しでも軽くしようとしているので」

と丁重にお断りした。

「早くから大変だね、お元気で」

とにこにこしながら言ってくれた。

歩き遍路にだけかも知れないが、何しろ親切にしてくれる。

いい気持ちで歩いていると、JR牟岐駅の近くになり、川沿いの歩道のフェンスにもたれて、一
休みしながら川を見ていると、白鷺が二羽、よく見ると鴨も四〜五羽居る。前方の降り口から、
おばあさんが降りて行った。護岸用のコンクリートの上に、魚の様な物を置いている。すると鳶
が二羽、カラスが二羽。やがて鳶が五〜六羽、ピーヒョロと声を上げて、飛び回り始めた。最初
は白鷺に餌をやるのかと思っていた。鳶が急降下を始めるが、魚の所までは届かない。何度
もそうしているうち、カラスが二匹、魚をくわえて行ってしまった。おばあさんが上がってきたの
で、

「何時も餌をやってるの」

と聞くと。

「焼き魚が残っていたので、鳶にやろうと思って持ってきたのに」

と悔しそう。おばあさんが来ると鳶が集まって来るそうだ。

突然、

「昼は食べたの」

と聞くので、

「まだです」

と言うと(十一時半)、

「じゃあ、そこでちょっと待ってて」

と言って、急いで自動車の往来の激しい国道を横切り、向かい側の家の間に入って行った。そ
のまま行くわけにも行かず、待っていた。暫くすると左手にビニール袋、右手に缶を持ってき
た。昨日、作ったおはぎだと言って、袋から皿を出した。餡のたっぷり附いた・おはぎ・が五個
皿にのっている。缶はパイナップルだった。

「人が見ているけど、食べて下さい」

と歩道に皿を置いた。ザックを降ろし、歩道に胡座をかいて、

手掴みで食べ始めた。

「お疲れでしょう」

と言いながら、

「そうだお茶」

と言ったので、

「その辺の自動販売機で買うから」

と言ったが、もう立ち上り道路の左右を見回して、向こう側に足早に渡っていった。ものの三分
もすると、今度は急須と湯飲みを持ってきて、お茶を入れてくれた。おばあさんも近くの、霊場
はお参りしたが、八十八ヵ寺は回っていない。

「お金が掛かるからねー」

と私の顔を見て、

「本当、時間とお金がねー」

と繰り返す。申し訳ない気持ちで、

「私は三十六年間働いたので、そのご褒美で回っているんですよ」

と言うと、

「お金が掛かるからねー」

と又言った。日が経つに連れ、贅沢な旅と感じていた時、このおばあさんの様な人が、お接待
をしてくれる。昔からの伝統と言うか、習わしと言うか、何とも言えない、施しの精神が自然に
行き渡っているのだ。食べ終わって、自然に手を合わせ、

「ご馳走様でした、何もお返しできませんが、おばあちゃんお元気で、南無大師遍照金
剛、々、々」

と唱えた。おばあさんも両手を合わせて、

「お気をつけてお参り下さい」

と立ち去って行った。

重いザックを背負って歩き始めたが、素直な感謝の気持ちで一杯になっていた。俺に何が出
来るか、何か社会に役立つことを、と又思った。

明日は、民宿ロッジ尾崎まで、四十キロ強の長丁場だ。歩けるかな?
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 十月十二日(日)

国民宿舎加島荘〜民宿ロッジ尾崎

五時二十分起床。一階ロビーにあるコーヒー自動販売機でコーヒーを入れ、カロリーメイトを半
分食べて、六時十分スタート。昨日からの延長戦でトイレに行くが、幾らがんばっても駄目。歩
いているうちにと思い出掛けた。少し行って、老眼鏡を入れようと、頭陀袋を探したが、眼鏡入
れが無い。幾ら考えても思い当たらない。いいや、眼鏡屋があったら一番簡単なのを買おうと
考えながら歩く。

五キロ程度歩いて、大里と言う所に“社”の様なところが見え、近づくと古墳があった。順子
(妻)の好きな奴だ。写真を撮って一休み。頭陀袋を開けて、カロリーメイトの残りを探している
と、さっきあれほど探したつもりの眼鏡入れが出てきた。何故か「七度探して人を疑え」と声を
出していた。  

しばらく行くと坂の上に、真新しい建物で・和風レストラン謂水苑・と言うレストランがある。此処
で朝食としよう。モーニングセットのコーヒー、サラダ、ハムエッグ、パンで五百五十円。久々で
大満足して歩いていると、今度は豪華な真新しい・道の駅・に出くわした。立派なトイレでがん
ばるが、先程のレストランでも、此処でもやはり駄目で諦めた。

徳島県内ではお寺も含め、立派な公衆便所の設備が完備している様で感心する。足の調子も
順調で、快調な歩きだ。今日は自転車旅行の若者と何人か出合った、外人も居る。

必ずと言っていいが、皆気持ち良い挨拶を交わす。

「今日は」「がんばって」など。

昼、・ロングビーチ・というレストランに入る。店内はサーフィンの写真がたくさん架かっている。
店主に聞くと、東洋町のこの付近は、サーフィンのメッカで日本選手権もしばしば開かれるそう
だ。太平洋から、理想的な波が押し寄せる場所なのだ。

名物マグロ丼と書いてあるのに眼が止まり、これを注文。場所柄、旨いマグロが食べられると
思いながら待っていると、驚いた。考えていたより倍くらいの、デカイどんぶりにマグロがたっぷ
り入っている。他にアナゴとキュウリの酢の物、それにサラダが山盛り。到底食べられそうも無
いと思いつつ食べ始めたが、スイスイと全部入ってしまった。

ロッジ尾崎迄、後どれくらいかと地図を出して調べると、たっぷり二十キロはある。今十二時半
だ。私の足で一時間約四キロとして五時間、休憩を入れると六時過ぎになる。ちょっと焦ってき
た。

支払いをしていると、若いウエイトレスが、

「今からあんな所迄、歩くんですか」

と言っている。

すました顔で、

「そうだよ」

と言ったが、「あんな所まで」という言葉が気になった。、

「大変ですね、気をつけて」

主人の声に送られて、元気を出して歩き始めた。スピードは上がってきた。

この先の伏越岬からは昔の難所。地図にはこのように書いてある。

《現在の国道が海岸沿いに走るまでは、大変な難所であったという。伏越の鼻から入木まで
の・淀ヶ礒四里・は、山と海だけの、人家一つない、雨宿りするところもない「ごろごろ石」と「飛
び石、跳ね石」の中を進む四国第一の難所。遍路達は皆、ごろごろと波打つ石の音におびえ、
飛び石、跳ね石で疲れた足をひきずりながら、孤独と不安の気持ちで一生懸命に先へと急い
で行ったのであろう》と。

今も国道の一本道、誰も歩く人はいない。国道筋だから自販機くらいはあるだろうと、お茶の
補給をしなかったのは大失敗。入木の先まで何も無かった。

さて歩けども、歩けども広々とした海だけ。家もなければ自販機もない。夏のような日差しの中
を、喉の乾きを我慢しつつ、歩きに歩いた。

佐喜浜に入る丘の上に自販機を見つけた時は、助かったと思った。もう四時半を過ぎている。

ロッジ尾崎はこの町の外れだと思い、元気を出して歩く。町はずれで、自動車にワックスをか
けている若者に聞くと、あと十分位という。嬉しくなって急いで行く。何と又家も何もない、歩いて
も歩いてもロッジ尾崎は出てこない。「この野郎、人を馬鹿にして」と腹を立てたが、待て待て、
これもお大師さんがわざとそうさせたんだ「有難や、有難や」といって歩いた。彼もきっと歩いた
ことは無いのだ。

薄暗くなって、足を引きずるようにして、やっと民宿ロッジ尾崎に着いた。遅いので、奥さんが心
配しながら待っていてくれた。やはり、私が今度の遍路旅行を始めるに当たり、頭の隅にイン
プットした、「定年からは同行二人」の著者である小林淳宏氏が、老眼鏡をお接待してもらった
民宿だ。奥さんは著者と、今でも連絡があるとのことだ。

泊まり客は私一人、一人の為に風呂、洗濯、食事の用意と同じことをしなければならない。お
世話になりました。

小林氏は、名古屋の大学で講師をしており、週一、新幹線で名古屋に通っていることなど、夕
食時に色々話し、明日の宿舎は「小林先生も民宿浦島さんでした」といったので、一も二も無
く、浦島に決めた。

部屋で日記を書いていると、冷たい物が欲しくなり、前にある自販機でポカリスエットを買おう
と、螺旋階段を下りると、家族で夕食を摂っていた。私がおしゃべりして、遅くなったようだ。気
持ちよく泊めて頂いた一夜だった。
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 十月十三日(月)

民宿ロッジ尾崎〜第二十四番最御崎寺〜二十五番津照寺〜

二十六番金剛頂寺〜民宿浦島

五時。眼が覚めたのでそのまま起床。顔を洗い、洗濯物を片づけていると、次第に夜が明けて
来る。窓から太平洋が一望できる。

太平洋の真ん中から朝日が昇る。茜色が徐々に強まり明るさを増してくる。それまで輝いてい
た星が消えて行き、太陽が顔を出し始める。波のうねりが見えてきた。こんな瞬間に出合った
ことは無いので、一瞬も見逃すまいと窓を開けたままじっと見ていた。何とデカイ太陽か。望遠
レンズがあればなあー!!コンパクトカメラで撮ったがどんな写りになっているか。

朝食の時、奥さんにそのことを話すと。元旦には、朝早くから、初日の出を拝みに多くの人が
来るそうだ。

朝御飯は、大きな焼き魚、卵焼き、ゼンマイと油揚げの煮物、蒲鉾、梅干し、海苔、貝の味噌
汁。食べきれない程。

大変お世話になったお礼を言い、表に出ると、奥さんも国道迄出て、私の姿が見えなくなるま
で、何度も手を振って見送ってくれた。

出だしは快調と思っていたが、ひどく足が重く痛い。昨日歩き過ぎたからか、やはりあまり無理
は良くない。距離も三十五キロと、昨日よりグット少なく、楽に行けると思っていたがスピードが
出ない。右足の小指のまめが痛い。すねも痛くなって来た。

やがて、何度も看板が出ていたホテル明星の前の、白い大きな青年大師像が見えてきた。二
十三番薬王寺から二十四番最御崎寺までの八十三.四キロは長かった。

自宅で地図を頼りに歩きを想像した時、こんな長距離を、果たして歩く事が出来るのかと、心
配していた難所だ。その室戸が、もうすぐ目の前に迫っている。

若き日の弘法大師が修行した有名な場所、御蔵洞の前には、若いカップル以外には誰も居な
い。ローソクと線香をあげてお参りした。御蔵洞を過ぎるといよいよ室戸岬だ。

最御崎寺への遍路道は、駐車場のすぐ先から右の山に向かっていた。初めから急な山道、ず
っと平地ばかりだったので、久々の急坂は辛い。幸い誰か先に通っているようで、蜘蛛の巣は
無かった。山林の間から見える海が、一歩一歩登る度に、どんどん下に見えてくる、こんなに
登ったのかと、自分でも吃驚する。焼山寺でも感じたが、人間の一歩一歩と言う積み重ねは、
凄い結果を生み出す。過去、凄い事をやった人間は、天才と言われる人間も、皆この一歩一
歩を、積み重ねた結果なんだ。解ってはいてもなかなか出来ない事だが。

最御崎寺は室戸岬の先端にある観光地の中にあり、沢山の人がいる。八十三キロを歩いて
来た、と思って見るからなのか、感動的な景色が広がる。

過去、何度もこの様な景色は見て来ているが、四国を歩き始めて見る景色は、何時も心に沁
みる景色だ。やはり一歩一歩を積み重ね、苦労に苦労を重ねた結果なのだろう。今までやっ
てきた仕事でも同じだった。難しい環境の中で出来た仕事だけが、記憶に鮮明に残っている。

幾ら金を掛けて旅行をしても、この景色は買うことは出来ない。景色は見る人の心の状態でど
のようにも変わるものなのだ。沢山の人が同じ室戸の景色を見ているが、決して私と同じ景色
ではないだろう。久しぶりの感じで、お経を上げ、納経をした。

最御崎寺を下りて、二十五番札所津照寺へ向かう道の左手に民宿があり、一階の食堂が開
いていたので昼の定食をお願いし、コーヒーを飲んで一休みした。

津照寺を打ち、川の手前の魚屋で、道を教えて貰い今日の宿泊先の浦島に向かった。

浦島に着き、荷物を下ろして、二十六番札所金剛頂寺へ登った。これが又本格的遍路道で、
山を蛇のように曲がって登る、急角度で大汗をかいた。

山上の駐車場に、同年輩の人が靴を脱いで足を投げ出して座り込んでいた。近づいて挨拶す
ると、

「マメが出来て」

と言っている。

「潰しましたか」

と聞くと、

「いや」

と首を振っている。

「潰してヨーチンを入れると、早く直るよ」

と教えた。

「今日はどちらへ」

と聞くと、

「下の民宿浦島です」

という。同宿の人だった。

「では宿で」

と言って石段を登り始めたが、自分も小指のマメや、すねが痛かったくせに、人に教えると何
か先輩の様な気分になって、痛みも薄れどんどん登れる。人間なんて考え方一つで、ころっと
変わってしまうもんだと、自分で感心しながら登った。

お経も随分上手くなってきている。般若心経、光明真言、大師宝号、廻向文と淀み無く読める
ようになっている。一人だけで、自分の声が良く聞こえる。気持ちがよい、落ち着く。汗が乾い
てきて寒いくらい、早く降りよう。

私の部屋は、奥の窓際で見晴らしの良い、壁で仕切られた六畳。先程の人は、廊下に面した
障子と襖で仕切られた隣の部屋で、中に居るのがわかる。彼が、

「マメを潰すから、ヨーチンを貸してください」

と言って来た。

「どうぞお入り下さい」

と何度も言うが、入ってこない。遠慮深い人だと思いながら、無理に中に入れて話す。広島の
人で、私も子供の頃広島で育った話しから、打ち解けて話しが出来た。彼は仕事の合間に、区
切り打ち(日数や距離を区切ってお参りすること)をしている。バスや列車を利用して、近くの駅
やバス停からお寺まで歩いているのに、それでもマメを作って、自信が無くなりかけていた。

「あなたの話を聞いて、元気が出てきました」

と言ってくれた。

部屋にはテーブルも無ければ、お茶もポットもない。歩き遍路には、お茶が何よりのご馳走だ
ということは、民宿の人が一番良く知っている筈なのにと彼と顔を見合わた。夕食時、ペットボ
トルへお茶を入れて貰っておいた。宿帳に住所・氏名を書き、下の欄に、歩き、自動車、バス
利用などの欄が有り、彼が

「歩きで良いですかねー」

と聞いてくるので、

「かまいませんよ」

といったが、歩くと言うことを、意外に気にしている心理があるのは確かだ。

明日の予定は、二十七番札所神峰寺の麓に一軒だけある民宿浜吉屋を予約した。
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 十月十四日(火)

民宿浦島〜第二十七番神峰寺〜民宿浜吉屋

五時半に起床したが、食事して出発は七時となった。時間の経過が早い。今日も、室戸岬から
の日の出が美しかった。昨夜足の治療をしておいたので、痛みもなく調子がよい。九時になっ
ても、昨日の様な足の重さが来ない。

何となく鼻歌が出てくる。“ああ栄冠に君は輝く(夏の甲子園)”が自然に出てきた。テンポに合
わせて歩くと調子が良い。次々に童謡から演歌、クラシック迄知ってる歌を大声で歌いながら
歩く。国道沿いで歩いている者はだれも居ない、トラックや乗用車の音に消されて思いっきりや
った。気分壮快。

足が進み、約十八キロきた所のドライブイン渚でラーメンを食べ、たっぷり休んだ。コーヒーも
グーだった。午後一時、浜吉屋迄八キロ、荷物を置いて神峰寺へ行けば楽々と思いつつ浜吉
屋へ。

浜吉屋は改築中だったが、荷物を置かせて貰い、神峰寺へ出掛ける。荷物を下ろすと、から
だが軽くなり、体重が自然に前に掛かり、自動的に前に進む感じがする。舗装道路をどんどん
進む。ああこの調子でと進む内、坂道となり山が迫って来た。

地図で調べた時、いつもの遍路道は点線で標示されており、神峰寺迄はほんの少しだけ点線
が有り、楽々と思っていた。

遙か前方の山頂付近に電柱らしき物が何本か見えており、まさかあれでは無いだろう。山を迂
回するのだろうと思いつつ進むと「神峰寺・是より千五百メートル」直ぐ先に、「神峰徒歩道」の
標示が有り、下に大きく左を指す矢印が赤く書いてある。ああ先程山頂付近に電柱が見えた、
あそこ迄遍路道を登るのかと、がっかりした。

もう一度、地図を出して見ると、旧へんろ道(上り一時間〜一時間二十分)とちゃんと書いてあ
った。左側の草むらに座り込み、ペットボトルのお茶を飲んでいる内に、何度もやった事だと動
揺は消えた。                                                
                    

荷物無しだが、将に胸突き八丁、三十キロ近く歩いた後なので余計に骨身に沁みた。息を切
らして上り詰めると。小型バスのおばちゃん達や、タクシー組等たくさん居た。 

山門を入って行くと、銘水の文字が目に止まり、その方向に向かって行った。納経所の直ぐ前
だ。その辺の人に、

「飲めますね」

と聞くと、

「美味しいよ」

と言っている。笠を取り、顔をジャブジャブ洗い、タオルはザックに入れて宿に置いてきたの
で、そのまま拭かず、水をガブガブ飲み、生き返った様な気持ちになった。

石段を上り、本堂、大師堂と何時もの通りお参りして、納経所で掛け軸と納経帳を差し出すと。
住職の奥さんらしい人が、

「歩きですか」

と聞く。

「どちらから」

「横浜です」

「きつかったでしょう」

「いや最後にこの登りは、こたえました」

と答える。

汗まみれのままで、掛け軸の墨をドライヤーで乾かして居ると、

「お茶を縁側でどうぞ」

と声がしている。誰か客だなと思いつつ、乾かして巻き戻していると、

「どうぞ縁側へ」

と又声がする。

私に対して声を掛けて下さった事に気づき、縁側に回った。

お盆に緑色をした美味しそうなお茶と、栗饅頭が一つ。同時に、

「是はお接待です」

と、郵便はがきに印刷された、絵はがきを出された。

「絵はがきが無いんですよね」

と言うと、

「これは古い物で、二十円の時の物ですが記念に」

と渡し、納経所の方に帰って行かれた。

こんなに美味しいお茶と饅頭を、食べたことがあるだろうか。終わったら納経所の方に返して
下さいとの事だったので、お盆を持って納経所へ行ったが誰も居ない。

「有り難うございました」

といっても誰も出ない、少し待って、大きな声で、

「有り難うございました」

と言って納経所を出た。

非常に気分が良い。将にルンルン気分で下り始めた。

苦しみの後のこの気分は、歩き遍路で無ければ味わえない、絶対に味わえない醍醐味だ。

浜吉屋に帰り、風呂に入ろうと階段を下りたら、風呂上がりの若者とすれ違った。何と坂本屋
で一緒だった神奈川区のお寺の息子、黒多君だった。

もうとっくに先を歩いていると思っていたので、どうして此処でと驚いた。話しを聞くと、最初飛ば
し過ぎて焼山寺を下ったあたりから、足が動かなくなってしまった。幸いなことに、母親の知り
合いが十七番井戸寺の近くに居て、横浜の母親に電話で事情を話してもらった。一日半そこで
休み、病院で診察を受け、何とか良くなったので、又歩いていると言っていた。

「人生と同じで、無理をすると、何処かで必ずシッペ返しがある。お大師さんが、それを教えてく
れているんだ」

と、まるで坊主の説教の様な事を、平気で言っている自分がおかしかった。

六時夕食、洗濯、日記と全く暇がない。葉書を書こうと思っていたが、寝る時間が惜しい。何処
かで早めに宿に着いたら書こう、今日も止め。明日は宿舎の予約をしていない。初めてのこと
だ。予定を立てて、それに向かってやらないと、どうも安心できない。

長年の仕事の習慣か、性格なのか、何れにせよ明日の昼までに決めよう。

妻に予定を毎日連絡しているが、公衆電話がない、国道の側まで行かないと無いらしい。宿の
突っかけを履いて出掛けた。国道沿いのレストランの広い駐車場にある電話ボックスから電話
していると、突風が吹き雨が降り出した。暗い石ころ道に足を取られながら浴衣を濡らして帰っ
て来たらもう九時のニュースが始まっていた。明日雨が降らない様にと祈りながら床につく。
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 十月十五日(水)

民宿浜吉屋〜旅館かとり 

七時、玄関に出ると、おかみさんと黒多君が見送りに出てくれた。黒多君は今から神峰寺に登
る。おかみさんに、新しい建物は何を造っているのかと聞いたら、古くなった広間を改築して、
自分たちの住居にし、今の住居は、客室や広間にするそうだ。

「神峰寺付近は、お宅しか無いので、良いことですね」

と言うと。

「数年前主人を亡くし、人手が無く大変だ。昔は忙しい時には、何時でも手伝いの人が来てくれ
たが、最近はそれすら難しくなってきている。息子はもう五十歳でサラリーマン、今更やる気が
ない。特に嫁が絶対反対で困ったものだ」

どうも皆、跡継ぎに困っている。歩き遍路は少なくなるし、道路事情が良くなり、ツアー客は、便
利で設備の良いホテルに取られる。経済的に採算が合わなくなり、無理なのだ。

心配していたトイレも快調。足の調子も良い。何も言うことはない。その上今日はお寺もなく、
海沿いの道をただ歩くだけ。三十キロだがのんびり行ける。

午前中全く順調。約二十キロの所で・レストラン矢流・に入った。和洋何でもある。いよいよ出
てきました「かつおのたたき」。本場の「たたき定食」は千九百三十円と遍路の昼食としては、
チト高いが、美味、満足。コーヒーを飲んで、ゆったり昼休み、約十五キロ先の・旅館かとり・に
予約も済んだ。

朝からずっと、太平洋を左手に見て、ただ歩くだけ。この道は、国道五十五号線に沿っており、
自転車と歩行者のみの道路。昭和五十年代に出来たらしい。静かで人通りもほとんどなく、た
だあるのは、松林と、防波堤が約十五キロ程、延々と続く道があるのみ。コンクリートで固めら
れた防波堤で海が見えない所は、風もなく真夏の炎天下のように暑い。途中砂浜の続く見晴ら
しの良い松林に、畳一畳程の台に青いビニールを被せた、格好の休み場所があった。

荷物を全部下ろし、腰を掛け、広がる太平洋を眺めて、ボーっとする。大の字になっている内、
眠ってしまった。小一時間寝たようで、もう二時半を過ぎている。昨日より早く宿に着いて、ゆっ
くりと休むつもりが、どうも今までと同じように最後になって急ぐことになりそうだ。

最後の七キロは休まずに急いだ。宿の近くになると、ザックが重く、二〜三百メートルが遠くに
感じる。やっとたどり着き、すぐ風呂に入った。足が重い。

湯船に浸かっていたら、浜吉屋で別れた黒多君が入ってきた。彼はあれから、神峰寺に上っ
て此処まで来たのだ。あのへんろころがしを登って私より八キロは多いはず。到着に三十分程
しか差が無い。いくら昼寝をしたとは言え、やはり若さには勝てない。

ペースは守ること。明日は高知市内に泊まる事にしよう。何処に泊まるか昼までに決めよう。
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 十月十六日(木)

旅館かとり〜第二十八番大日寺〜二十九番国分寺〜三十番

善楽寺〜サンピア高知

朝から足が重い。毎日宿への入りが遅くなって来ている。距離は伸びているが、常にラストス
パートを必要とする歩き方になっている。へんろみち保存協力会の本にも、昔から遍路行の鉄
則として、《早く発ち、早く宿に入る》と書いてあった。最近は朝七時頃発って六時頃着いてい
る。朝遅く発ち、途中ゆっくりして、宿に遅く着いているのが、疲れの原因のようだ。

ラストスパートで、元気を振り起こして歩くのは、精神的には満足感があるが、肉体的には疲労
が溜まって来ている。自己満足しているだけで、合理的ではない。やはり基本を押さえて、自分
のペースを守る事だ。

野市町の二十八番札所大日寺に向かっていると、橋の向こうに坂本龍馬の大きな写真入り
で・龍馬歴史館・の

大きな看板がある。一瞬ちょっと寄ろうかなと思ったが、そのまま通り過ぎた。

今日は三ヵ寺、約一時間毎に十分程休み、納経時も休むと言う計画。大日寺で納経を済まし
た時、三十番善楽寺を打って高知市内迄行き、市内の宿舎に泊まろうと思っていた。だが止
めた。観光ではないんだ、遍路行の鉄則を守らねば疲れは取れない。

歩きに一番便利の良い所でと、地図を見て、サンピア高知に予約を入れた。地図にはサンピ
ア前、サンピア通、と二つのバス停まで書いてある。大きなホテルらしく遍路姿で入るのは、気
が引けるのではないかと思いつつ電話した。朝は早く出る予定なので朝食無しでとお願いし
た。早朝はフロントもあいていないので、料金は前払いで、五千五十円だと言ったので、アレー
と思った。次に厚生年金に入っているかどうか聞くので、今年から年金支給を受けるようになり
ましたと答えた。サンピア高知は厚生年金の施設だった。

二十八番大日寺を打って二十九番国分寺へ向かう。戸板島橋を渡って直ぐ左に入るように地
図に書いてあるがよくわからない。                    

遍路マークを見つけながら進むと、畑の中央どころに、都築さんと言う人がやっている「遍路無
料接待所」があった。テレビにも出た事のある所だ。入り口近くに人が居るので近づいて、

「お宅が有名な都築さんですか」

と声を掛けた。有名な都築さんと言ったので、都築さんは面食らったような顔をして、

「よかったら休んで行きませんか」

と言ってくれた。

「今日は急いでいますから」

と親切な言葉にお礼を言って通り過ぎた。

黒多君には浜吉屋で「都築さんの所へ泊まったら良い」と言って置いたがどうしたか。

国分寺、善楽寺と打ち、サンピア高知に着いた。

スポーツ施設でもあるのか、ジャージー姿の若者がたくさん居た。まだ新しい大きな立派な施
設だ。風呂はラドン温泉で疲労回復には最適。風呂上がりに、シャワーを浴びて出ようとしな
がら、掲示してあるラドンの説明文を読む。浴槽のラドンは上がり湯をかけると、成分が落ちる
ので、湯漕から上がってそのまま乾かすのが良いと書いてある。もう一度湯船に浸かり、たっ
ぷりラドンをつけて上がった。夕食はかつをのたたきを注文。食欲旺盛で一気に食べた。昨日
は疲れ過ぎからか、あまり食欲がなかったのがウソのようだ。

「人間適度の休養が一番大事」と改めてわかった。どうも、何か決めると、無理をしてもやって
しまう性格が邪魔をしているのだ。決める迄は、もたもたする癖に。

食後、部屋で荷物の整理をしていると、十八番井戸寺迄の納経時に頂く本尊のお姿の札が見
つからない。一度、順番に整理した記憶はある、何かに挟んで保管していた筈なのに。せっか
く頂いたものを、どうしたら良いのか。それぞれの寺に手紙でお願いするのも大変だ、しかしど
うしても見つからない時は、そうするしか仕方がない。やはり何処か抜けている、忘れて来たの
に違いない。

今日はラドン温泉にも入り疲れをとる為、ゆっくりしていたのに、お姿探しと、日記でもう十時前
になってしまった。早く寝ないと又明日の体調に差し障る。もうねるぞ!
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 十月十七日(金)

サンピア高知〜第三十一番竹林寺〜三十二番善師峯寺〜

三十三番雪渓寺〜三十四番種間寺〜ホテルビジネスイン土佐 

五時起床、カーテンを開けると、まだ真っ暗だが、どうも雨のようだ。ガラス戸を開け、確認。カ
ッパを着用し、フロントにキーを置き、出ようとしていると、早起きのおじさん。

「もうお出かけですか、全部歩きですか、大変ですねー、若いですねー、お気をつけて」

とお決まりの会話。若いですねーと言われると、恥ずかしながら気分は悪くない。

雨は小粒で止みそうなけはいだが無性に暑い。橋を渡って右に向かい市電の線路沿いに歩
く。コンビニを見つけて、朝と昼の食料を仕込んだ。突き当たりを左折すると海とも川とも言え
る河口の岸壁沿いの道路。通勤が始まったのか、川沿いの道路に自動車が渋滞し始めてい
る。一段高くなった堤防に座って、海風を吸いながら、サンドイッチと牛乳で朝食、直ぐ側を乗
用車が私を見ながらのろのろと走っているが、お構いなしだ。

三十一番札所竹林寺。参道の標示から、かなり厳しい上りとなる。納経を済ませ又遍路道へ、
若い女性が珍しいものを見るように見ている。山門の下の茶店で、牛乳とおでん(ジャガイモ三
個とこんにゃくが串刺しになっている)を食べた。

このように歩き遍路をしていると、食べ物が印象に残っている。普段生活していると、今日何を
食べたかは、あまり印象にない。よほど有名な所で食べたとか、特別に美味しいものを食べた
とか、珍しいものを除くと有難味も感じないが。遍路に出てから、一杯のうどん、おにぎり、一個
のみかんなどが、こんなに旨いものかと感じながら食べる。有り難く思うと同時に、何か皆エネ
ルギーになっていくような気がするのは私だけなのだろうか?身体の方が勝手に、食べておか
ないと続かない事をよく知っていて、何でも美味しく食べられるようにしているのかも知れない。

三十二番禅師峯寺。納経を済ませ境内のベンチで、おにぎりとお茶で昼食。其処へ五十歳前
後の女性で歩き遍路らしい人が来て

「みかんを食べませんか」

と二個渡してくれた。

一人で歩いているようだ。

「私は歩くのが遅いので、お先にどうぞ」

と言う。

みかんをご馳走になって直ぐ、それではと言うのもどうかと一瞬思ったが、この人は歩いてい
て、歩き遍路の事がわかっていると思い、先に山を降りて種崎の渡し場を目指し、ほとんど休
み無しで歩いた。

四国八十八ヵ寺の全行程を歩いて巡拝するつもりだが、旧来の遍路道で此処だけは渡し船に
頼る事になる。地図にも《渡しは本来の遍路道である(無料)》と書いてある。桂浜に通じる自
動車道路には、浦戸大橋が架かっており歩いて通れないことはないが、本来の遍路道を歩く
のが当然で有り、この渡しだけは乗り物に乗る。これは大昔から皆やった事で、私も逆に是
非、乗ってみたかった。途中種崎郵便局前を通りかかり、現金で五万円補給して置いた。時間
は全く知らずに来たが、ちょうど渡し船が出港直前のようで、船員が入り口に立っている。荷物
を下ろして、乗り口から写真を一枚撮り、涼しい海風にあたりながら、景色を眺めていた。その
時出港に合わせたように、スピードを上げた軽トラックが着き、運転席の横から、先程の女性
が下りてきた。

「やっと間に合った」

と言って、私の隣りに荷物を下ろすと直ぐ船は出港した。わずか五分程度の渡しは、県営で無
料となっており、地元の人々の貴重な足となっている。

女性は重見さんと言い、山口県から来ていた。彼女は禅師峯寺から、私と同じコースで来た。
途中渡し船の出港時間を調べて、このまま行けば遅れそうなので、走りながら来ていた。もう
少しと思って走っていたら、軽トラックの人から、「乗りなさい」と言われ、お接待して頂いたそう
だ。もし遅れると四十分違ってくるので、何しろ必死で走っていたそうだ。彼女も結構大きな荷
物を背負っており、背中に荷物を背負って走るのが、どんなに大変なものか自分の経験からよ
く解る。何しろがんばり屋みたいだ。

三十三番雪蹊寺迄の歩きも、あまり遅れずについてきた。既に一時半、今日の泊まり先を決
めなければならない。雪渓寺から三十四番種間寺を打ち、三十五番清瀧寺迄行くには約十六
キロ。その間に宿泊施設はない。仁淀川を渡った土佐市に泊まる事にした。彼女も其処まで
行くと言うので、境内の公衆電話で予約を入れた。喜久屋、白石屋と二軒ある旅館は共に満
員と断られた。今までの様子から見て、満員の筈がない。やむなく残りの一軒、ビジネスホテ
ルイン土佐に電話を入れた。二名とも予約出来た。

種間寺迄一緒に歩いた。去年ご主人を亡くしたそうだ。しかも突然の心筋梗塞。五十一歳であ
まりに早い。子供もやっと育ち、今からと思っていたのに、神も仏も無いと思った。と話しなが
ら、彼女は大粒の涙を手で拭きながら、小走りについてくる。

「重見さん、あなたのがんばりは、あの世でご主人が喜んでいますよ」

としか慰める術を知らなかった。

遍路に出掛けるきっかけは色々あり、私のように定年を境に、人生の節目として思い立った者
もいる。しかし四国を歩く多くの人はこの重見さんの様に、現在持っている悩みや悲しみを、遍
路によって乗り切ろうとして出掛ける人が多い様に感じる。弘法大師の慈悲にすがる本来の遍
路だ。

私と同じスピードにするため、走るような歩き方を続ける。

「ずっとこうやって来た、根性で歩いているんです」

と言っていた。

種間寺を出発したのは、三時三十分だった。

「後はホテルに着けば良いのだから、先に行って下さい」

一人歩きになり、先に発った。私の境遇とあまりに違う彼女は、どんな気持ちで歩いているの
か。それに引き換え、自分の境遇はどうだ。これを幸せと言わないで、何を幸せと言うかなどと
考えながら歩いた。

土佐市にはいる直前の、長い仁淀川大橋を渡って、堤防の道を歩きながら、重見さんがもう橋
を渡るかと、何度も見ながら歩いたが、姿は見えなかった。

今日清瀧寺を打つ事は出来なかった。明日、早朝ホテルに荷物を置いて、清瀧寺に行こう。
やはり後半の五〜六キロはきつい。今日もとっぷりと日が暮れた。六時にホテルに入った。

ところが、二階にあるフロントに行くと、何と重見さんが立って居るではないか。途中で車に拾っ
て貰ったと言っている。あの歩き方で歩いていれば、車の人から声が掛かるのはよく解る。歩く
ことに意義を感じている私なら、申し訳ないが絶対に断る、がそれは言うまい。彼女のがんば
りは、私などの比では無いのだから。

ビジネスホテルで、

「朝は七時から朝食ですが」

と言うので朝食は断った。

遅いので風呂の前に、明日の準備をすましておこうと思い、部屋に荷物を置いて外に出た。

街の中心地なので、店はたくさんある。聞くとコンビニが少し先にあるというので、パン、牛乳、
野菜ジュース、ヤクルト、おにぎり、カップコーヒー、みかん、それにミネラルウオーターを買っ
て帰り、風呂に入った。

夕食はホテル一階の居酒屋に入った。もうサラリーマンらしい人や、近所のオッサンのような
のが、かなり出来上がって大きな声で騒いでいる。

さすが酒どころ高知だなと思いながら座ると、

「何にしましょう」

とおばさんが言うので、

「鰹のたたきとあとは何か適当に晩飯を、ビールは小瓶で」

と頼んだ。ビールを持ってきたとき、カウンターの向こうから、オヤジさんらしいのが、

「千円で良いですか」

と聞くのでオッケー。

「天ぷらとか何とか付けば、千五百円だが」

と言っている。

「千円で頼む!」

たっぷり入った「たたき」が出てきた。

明日の昼は先程買ったおにぎりで、と思っていたが、オヤジの顔をみていたら、何か作って貰
いたくなった。

「明日の昼の弁当になるような物は出来ないか」

と聞くと。

「何でも作るが、一番良いのは、近くのコンビニが二十四時間やっているから、朝そこで買うの
が良い」

と言う。

親切心か、面倒なのか、良く解らないが、

「じゃやそうします」

と言って食事をした。少しのビールが良く回った。

洗濯機は一階のガレージにある。石鹸がないので水洗いだ。一回四百円とは少々高い。

明日の計画がまだ出来ていないのに、もう九時になった。やはり早めに宿につくようにしたい。
地図を見ると、三十六番清龍寺から先には適当な場所に旅館も民宿もない。

高知県は何しろ寺と寺の間隔が長く、宿との関係が上手く行かない。しかも商売にならないか
ら、若者の後継ぎが無く、廃業する者が多いと聞く。宿は明日歩きながら決めよう。
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 十月十八日(土)

ビジネスホテルイン土佐〜第三十五番清瀧寺〜三十六番青龍寺〜民宿汐浜荘


五時起床。昨日買った調理パンを、牛乳と野菜ジュース、ヤクルトで食べる。清瀧寺はホテル
から約三.五キロ。納経時間は七時から、早く行っても同じ事。六時過ぎに出掛ければ良い。
出掛ける前に、今日の行程を調べたが、三十六番のある宇佐から旅館が数軒ある須崎市妙
見町迄は、四十キロ以上になる。もう無理はしないで、宇佐大橋の近くにある、民宿汐浜荘に
電話しようと計画した。そうすれば今日の行程は約二十一キロと短い。

市街地から出ると、たんぼの中を通る農道。東の空が日の出前、一面の茜色に染まってい
る。ふと振り返って見たら、まだ中空にほぼ満月の月。

柿本人麻呂の、

《東の、野にかぎろいの立つ見えて、返り見すれば、月かたぶきぬ》

はこの状況を詠んだのかな、と思える程の素晴らしい景色に出合う事が出来た。清瀧寺の仁
王門に至る遍路道も、徐々に夜が明け、石仏や岩肌に朝日が射して来る様子、又山上の寺か
ら見える田園風景には、格別のものがあった。

三十五番清瀧寺を打ってホテルに帰ったのが八時。部屋で一息いれて、フロントでチェックア
ウト、電話料百八十円を払い、重見さんはどうしたか聞くと、先程出掛けられましたとのこと。ザ
ックを背負っていたら、レジの女の子が慌てて来て、電話料は百二十円でしたと六十円持って
来て、盛んに謝る。正直だなと感じつつ出発。

短いとは言っても、宇佐迄は塚地峠と言う山越えがある。昔ながらの遍路道を延々と登る。や
はり息が切れ汗が出る。何時も山に掛かると、焼山寺を思えば何でもないと思うし、日が経つ
に従って、上り道も、かなり長い距離を、続けて歩けるように成っている。

余裕を持って歩くと、谷川のせせらぎ、鳥の声、風の音、杖の鈴の音、自分の呼吸音と色々聞
こえてくる。又落ち葉、木漏れ日、遍路道の石ころ、石仏、青い空、下の方に見える里の風景、
と何とも心地よい。峠で昨日買って置いたみかんと水の旨いこと。しばし足を投げ出して休む。
良い気分も長く続かない。汗の匂いを嗅いだ藪蚊の攻撃だ。私は何よりも蚊が苦手。噛まれる
と、過敏症のように大きく腫れる。這々の体でザックを背負い、逃げるように歩き出した。

途中分かれ道で、どちらかなと迷っていたら、ラジオのボリュームを上げて、登ってきた青年
が、

「宇佐はこちらですよ」

と聞きもしないのに教えてくれた。遍路姿を見て行き先を知っているのだ。

宇佐の海岸で昼食、土佐のコンビニで買ったおにぎりと、お茶の冷たいので、一気に食べる。
海岸から道路を隔てた向かい側に、「活魚」の看板の立派な店があり。「○○信用金庫様ご一
行」と書いてある。あんな所で食べるより、足を投げ出して食べた、おにぎりの方が余程旨い。

右手に宇佐大橋、こんな田舎町(失礼)にも立派な橋があるもんだと感心。青龍寺はその橋の
向こう側にある。まだ十一時半だ。   先程電話で予約した汐浜荘はこの宇佐町だ。このまま
だと早く着きすぎる。ゆっくりと橋を渡り、途中で何度も休んで、海を見たりしながら、青龍寺を
打ち、休憩所で海でも見ながら休もうと宇佐大橋の方へ帰って来ると。前方で、

「大村さん」

と呼ぶ声がする。見ると重見さんだ。

近寄ってきて、

「直ぐ後から黒多さんも来ているよ」

と言う(重見さんは途中で黒多君と会い私の話がでたらしい)。黒多君が来たので、

「お前は三日前に私を抜いて、歩いて行ったのに、どうして今?」

と足が又痛くなったのかと思って聞くと、

「高知でもう一泊して来ました」

と言う。

「悪い遊びでもしてきたんじゃ無いの?」

とからかうと、

「そんなー」

と否定していた。

「今日は何処まで」

と言うので、

「直ぐ其処の汐浜荘だ」

と言うと、

「私たちもお寺から電話して其処にしよう」

と言う。

「じゃー、宿に行って待ってるから」

と別れた。これで別れ別れになるとは、予想もしなかった。

汐浜荘はこぢんまりとした民家風。玄関も、部屋も手入れが行き届き、今までと、まるで違う。
風呂、トイレも清潔だ。きっと働き者の奥さんなのだろう。三時前に風呂に入り、洗濯、葉書、こ
の日記書きと夕食前までに、全部終わってしまいそうだ。

 奥さんが、

「先程二人連れの人から電話がありました」

と言っている。

「それで泊まるんですか」

と聞くと、

「それが主人が出まして、今日はその他に客もあるのでと、お断りしてしまいました」

と言う。

何と言うことか、見るところ玄関には、確かに私以外の靴が、二〜三足あったが、満員とは見
えなかったのに。二人はどうしたか心配だがもう仕方がない。奥さんの口振りから、主人はよ
ほど頑固者らしい。

夕食のあとは、久しぶりにテレビも見てゆっくり出来た。
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十月十九日(日)

汐浜荘〜民宿あわ

朝六時。かっきりに主人が、朝食が出来ましたと連絡してくれた。清潔で美味しい朝食。

お茶をペットボトルに入れて貰う。どうも料理はオヤジさんの仕事らしい。何から何まで、几帳
面だ。朝食六時も昨夜聞かれてお願いしていたが、テレビの時刻が六時を知らせるのと、ほぼ
同時に連絡してきた。この手の人は、へそを曲げると大変だ。昨夜の奥さんとのやり取りから
良く解る。職業柄、この手の人の扱いには、自信がある。

朝食を褒める。食べた後をきれいにする。次ぎに、昨夜から気が付いていた、庭をほめる。

「全部ご主人が手入れしているんでしょう」

と持ちかける。曖昧な返事だが、顔は笑っている。

「これだけ手入れするのは大変でしょう、お好きなんですねー」

「いや、玄関の横の槇が大きくなり過ぎて、手入れが出来なくて困っています」

宿泊料を支払い、さあ出発。玄関先に出て、

「この槇ですね」

成る程デカクて高い。

「この家を建てるとき、持って来たんだ、梯子では無理なんだ、足場を組んでやるしか無いんだ
よ」

お世話になりました。左手に昨日、早めに書いて置いた葉書を三枚持っていると、

「行く方向にポストは無いよ、私が出して置いて上げるよ」「間違いなく」

と最後に間違いなくの言葉が付いた。この人なら、間違いなく大丈夫だ。お願いして出発。

「左に真っ直ぐ行けば良いよ」

ご親切に、本当に有り難う。

今日も歩くだけだ、寺はない。

昨日は昼から、あれだけゆっくりしたのに、今日はひどく疲れた。道端で足を投げ出して何度も
休む。

昨日買ったパンがザックに二個とリンゴが半分、これで昼食。

今日の宿舎「民宿あわ」は、今まででも最悪の雰囲気。玄関は、靴やつっかけが乱雑に散らば
っている。見るからに安普請。部屋にはテーブルもない。勿論お茶もない。

「直ぐ風呂に入って良いですよ」

と言うので、

「洗濯出来ますか」

と聞くと、

「風呂場にあるから」

とのこと。

風呂場が又汚い。洗濯機だけは全自動で新しいが、垢に汚れた手桶やバケツ、洗剤やぼろ切
れ等が、バラバラに置いてある。昨日と正反対で、全く不潔。この調子だと夕食も大丈夫かな
と心配だ。お腹がぺこぺこだったので、ビールを飲んで機嫌良く食べた。どこかの宿でしたよう
に、ペットボトルにお茶を入れて、部屋に持ち帰った。隣とは襖一枚で仕切ってあるのみ。何か
民放のつまらない番組を、ボリュームを上げて見ているようだ。

全く落着かない、今日は運が悪い。昨日が良かったので、余計に気になるのかも知れない。地
図を見て明日の予定を立てて、二軒の旅館に電話したが

「今やってません」

と断られた。

どうも高知に入ってから断られることが多くなってきた。遍路一人か二人では、商売にならない
ので休むらしい。岩本寺の宿房へ電話したら、

「大丈夫と思うが、もう事務の人がいないので、明日八時過ぎに電話して下さい」

とのこと。

どうも巧く行かない。何かすっきりしないまま部屋に帰り、今日は日曜日、二チャンネル(NHK)
にして大河ドラマを見る。遍路に出てから見ていない。

明日からのスケジュールもなかなか難しい。三十七番岩本寺から三十八番足摺岬の金剛福寺
迄、八十七キロもある。三十キロを大幅に超すと、身体が保たない。近くだと短すぎる。まあ明
日岩本寺で聞きながら、ゆっくり考えよう。

国道を通る自動車の音がうるさい。今日はトンネルを四つも通った。しかも歩道の無いトンネ
ルだった。音が凄い、特にダンプやバスが来ると曳き殺されそう。思わずバカヤローと大きな
声を出すが、かき消されてしまう。本当についてない一日でした。

隣の部屋が気に懸かったが、九時過ぎ電気を消すと、直ぐ眠ってしまったらしい。
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 十月二十(月)

民宿あわ〜第三十七番岩本寺

七時に民宿を出た。遍路道は焼坂峠を越えて行くが、今日は初めてこれを避けて、国道を歩く
ことにした。多少弱気になっているのが解る。

少し行くと、直ぐ約一キロのトンネルだ。送風機の音と、自動車の音が凄い。例によって歩道は
無い。久礼町に入り「そえみみずへんろ道」への道を急いだ。

八時に岩本寺に電話。予約出来た。我が家(横浜)にも電話して置いた。

「そえみみずへんろ道」は土佐中央と南西部を結ぶ往還として、古くから人馬で賑わって来た。
へんろの先人達も皆この道を辿って行った。

へんろみち保存協力会もこの道を、遍路修行のシンボルコースとして位置づけ毎年草刈り行
事を行っていると言う。

山にかかる前、後ろの方で、

「遍路さーん」

と大きな声。振り返ると小屋のような建物の窓から顔を出して、

「ちょっと待って」

と言っている。

少し引き返して、窓の所へ行って見ると。中で三人のお婆さんが、ニラを束ねる作業をしてい
た。出荷の準備らしい。

「ちょっと待ってて、遍路さんが通ると教えてくれと言うので教えるんです。少し耳が遠いよ」

と言っている所へ一人のお婆ちゃん。良く冷えたポカリスエットとグリコのお菓子の小箱を渡し
てくれた。

「これはお接待です、お遍路さんが通るのが分かった時は、お接待させて貰ってます」

私も自然に両手を会わせて、

「有り難う」

と素直に言える。

何処から来たかと聞くので、

「横浜からですよ」

と言うと、

「遠くからご苦労様です」。

この先の遍路道の草刈りや、標識付け等色々やっているとのこと。お礼を言って先に進むこと
にした。そえみみず遍路道の標示に従って進むと、崖を削った、道とは見えない坂道から、「そ
えみみず」が始まった。延々と六キロに渉る上りと下り。

全く昔ながらの、細い険しい道の連続だ。

息が切れ、汗をぐっしょりとかくが、此処でもあの焼山寺を思えば、が働く。苦しい中で、一面こ
んな良いところが歩けることを、幸せに思う方が強くなってきている。峠の頂上付近での満足感
と、その爽快感は何ものにも代えられない。朝民宿で入れたお茶を半分飲み干す。

今日はまだ、誰も通っていない為か、蜘蛛の巣の連続には参った。金剛杖で始終払いながら
行かねばならない。「そえみみず」を通り越し国道の近くまで下りて、草原に座り込んで、途中
の弁当屋で買ったおにぎりを食べた。ここ何日か昼食で食堂に入っていない。やはり弁当が良
い、思ったところで、休みと食事がとれる。

岩本寺へ約四キロの踏切の側で、二枚の遍路標識。一枚は直進七キロと書いてあったように
思う。何の気無しに、右に進んだ。進めど次の遍路マークが出てこない。どうもおかしいので人
を見つけて聞くと、岩本寺へはこの道だと遠いから、左に行って国道に出た方が良いとのこと
だ。

地図を出して見ると、成る程遠いし、第一遠回りであることは一目瞭然。何故地図で確認しな
かったかと、悔やんでも遅い。左へ大旋回、三角形の二辺を通る勘定で大損をした。

一日の疲れが出る頃の「道まちがい」は辛い。やっと国道に出た。何時も思うことだが、後三〜
四キロがなかなか思うように進まない。どおせ四時すぎと、腹を括って今日は時間との競争。
(目標が見えないので距離を考えて歩いていると、あとどの程度歩けばよいのかか解らず気が
重くなるが、時間に置き換えると、嗚呼あと何分だと自分に言い聞かせる事が出来る)

四時になると岩本寺の標示が出てきた。もうすぐだと安心した。

納経を終えて、宿坊へ入る。宿坊は初めてだ。玄関を入ると売店があり、受付のようになって
いる。明るい声で案内してくれる。新しくて設備も良い。大広間が続き、蒲団がずらりと並んで
いる。一番奥の襖で仕切られた部屋に通された。

神戸から来たというオッサンと、風呂と食堂で一緒になり、色々喋り、聞く。徳島県では足にマ
メが出来て困ったこと、焼山寺への遍路道の厳しかったことなど話す。

彼は歩きに付いてはベテランらしく、靴は、一ミリの隙間もなく、ピッタリでないといけないと言
う。急な坂道での疲労回復法は複式呼吸が良い等、色々経験談を話している。私の靴は、登
山の専門店へ二日通い、店員のアドバイスで、爪先に余裕を持たさないといけない。二十五.
五センチが私のサイズだが、買った靴は二十七センチと大きめにした。靴の中敷きもサイズを
合わせて、それでも違和感のある所にパットを入れて貰った。念には念を入れ、何度も歩いて
決めたものだ。もし爪先までピッタリの靴だったら、今頃は、あの下り坂で、きっと歩けなく成っ
ていたかもしれないと思っている。どうも意見が合わないが、そのことは言わないで置いた。今
日は私の通った後から、そえみみずを通ったらしい。

「私が蜘蛛の巣を全部取ったから、蜘蛛の巣はなかったでしょう」

と聞くと、変な顔で、

「無かった」

と言う。

洗濯機、乾燥機も完備されており、宿坊と言うより、ちょとした国民宿舎と言った雰囲気。

明日は三〇キロ先の民宿海坊主と言う所にするつもりだったが、電話をかけに行きながら、最
近疲れやすくなっているので、小休止、ゆっくりしようと、二十キロ先の民宿さかうえ旅館に予
約した。無理は禁物、若い奴でも無理をすると途中で故障がでて、結局はあとから来る者とあ
まり変わらない。マラソンと同じだ。
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 十月二十一日(火)

三十七岩本寺〜民宿さかうえ旅館 

久し振りに、ゆっくり食事を摂り、境内を散歩しながら、写真撮影。マイクロバスで回る団体の
運転手と、神戸から来た人と、三人で四方山話となった。

タクシー会社のマイクロバスで回れば、高野山迄入れて九泊十日で回れると言う。しかも利用
料金も二十万円以下で済むらしい。私に、

「やはり歩きは時間と金が掛かり、一番贅沢ですよ」

と言う。

「私も本当にそうだと、歩き始めてから解りました」

と話した。仁王門の所にいると、運転手の彼が、缶コーヒーの熱いのを、

「お接待します」

と渡してくれ、写真のシャッターも押してくれた。

暫く神戸の彼と何か盛んに話をしていたが、マイクロバスの座席に余裕があり、彼は足摺岬迄
バスに乗ることになったらしい。

「九十キロ近くあるからねー」

と言っていたが、私にはその気がないと察してか、何のアプローチもなかった。彼は洗濯もして
いなかったし、身体も肥っている。本当に歩いて来たのかどうか。

いろいろの考えで、巡拝しているのだから、人の詮索はするまいと思っているが、ついついして
しまう。まだ修行が出来ていない。

七時四十分に出発。歩調もゆっくりと、休憩を入れながら歩く。佐賀町に入りぽつりと一軒ある
酒屋の前を通り掛かると、

「休んでいかんかねー」

と声を掛けて来た。

「山の水が出とるから、口でも漱いで行きなさい」

「飲めるの」

と聞くと、

「山の水で皆飲むよ」

と言っている。

タオルを洗わせてもらい、表に出してある椅子に腰掛けて休む。

「今日も一人歩いて行った」

「時々外人も歩く」

等話す。

黙って行くのは悪いので、店の中を見回すが、酒以外はあまり置いていない。ケースの中にア
イスクリームがあったので一つ買って、又スローテンポで歩き出す。

佐賀温泉と言うところで、立派な建物の一角にうどん屋があったので昼食に入った。だれも居
ないので、店員と話しながら時間つぶしをした。急がない時は、見る間に目標が近づいてくる。

民宿さかうえ旅館が目と鼻の先の所迄来ると、しゃれた喫茶店があり、自家焙煎のコーヒーと
書いてある。入って旨いコーヒーを飲んで行こうと思ったが、そのまま通り過ぎた。特に理由は
ないが早く宿に入ってゆっくり休みたかった。民宿さかうえ旅館には、二時半に入った。早すぎ
るのは迷惑だと知っているが、勘弁して貰おう。

宿の夫婦は、七十歳代と思える人の良さそうな人達。主人の方は、右手の肘の関節から先が
ない。その人が、私のザックを取り、二階に運んでくれる。

「自分でやるから」

と言ったが、もう先に上がっていく。部屋でほっとしているとお婆ちゃんが来て、

「洗濯物をこれに入れて下さい」

と網籠を持ってきた。自分で毎日しているからと言っても、

「出して下さい」

と言うので、着ているものを全部脱いで網籠に入れた。網籠を取りに来て、

「これは愛媛のみかんだよ」

と言って、みかんの入ったざるを置いて行った。何と親切なと思いつつ、ちょうど喉が乾いてい
たので直ぐ頂いた。乾いた喉に甘いみかんの汁が何とも言えない旨さ。

「あと二人客が来るので、早いけど先に風呂に入りなさい」

と勧めてくれる。

珍しく二階に風呂があり、窓を開けると海が一望出来る。私の洗濯物だと思うが、主人が不自
由な右手を器用に使って、ベランダに干してくれている。沖合の高い堤防に白波が砕ける。主
人の話しだと、遙か南方の台風の影響で、うねりが高いらしい。台風が通る時は、それは凄い
波になるそうだ。

五時には夕食となった。五時二十分頃、客の一人が入ってきた。完璧な遍路姿の年輩の人
だ。こんな時間に入るのだから、岩本寺からではない。それよりずっと向こうの「そえみみず遍
路道」の前あたりから来たに違いない。すると四十キロ以上歩いている筈だ。私より一回りほ
ど年輩に見えるが、凄いと思った。

だが二階に上がるため、靴を脱ぎながら話しているのを聞き、勘違いと分かった。この人は、
今日和歌山から三十七番岩本寺迄来て、其処から歩き始め、途中足を挫き、自動車で来たよ
うだ。もう一人は歩いているから、もう少し時間が掛かるだろうと言っている。部屋に戻っている
と、先程の人が風呂上がりに、私の部屋の前を通り、

「歩いているんですか」

と聞くので、

「歩いてます」

と答えた。もう一人は税理士の仕事をしているようで、区切り打ちだが歩いてお参りしているそ
うだ。和歌山県の高野山の麓にある町から来ているようで高野山に詳しい。その地元に、四国
を何度も回ったベテランがいるらしく、道順から宿泊場所迄詳しく教えて貰って出てきたと言う。
その人の薦めで、

「明日は中村市の民宿さくらが良いらしい」

と言う。

「実は私も明日の宿泊場所に困っていたんです」

と話すと、

「部屋に来て下さい」

と言うので、隣の部屋にお邪魔した。手書きの地図や、旅館の一覧表など色々見せてくれて親
切に教えてくれた。

明日は、中村市内を除くと、土佐清水市の「下の加江」という所にある安宿(あんじゅく)と言う
民宿しかない。中村市から二十キロも先だ。

多少距離に不足はあるが、私も中村市の民宿さくらに電話して予約した。 

連れの人は、七時頃着いた。
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 十月二十二日(水)

民宿さかうえ旅館〜旅館安宿 

六時。昨夜の二人と朝食。二人は先に出発した。昨日コンビニで買って置いたコーヒーを飲
み、二人を追う形で出発した。

今日は調子がよい、どんどん歩ける。三十分後にはもう二人に追い付いた。

「私たちはゆっくり行くから」

と言うので一人で先に歩いた。このまま行けば予定よりかなり早く中村の民宿に着いてしまう。

地図を出しもう一度検討、思い切って旅館安宿さん迄行こうと決めた。大方町に入ると、ホエー
ルウオッチングなどの文字が目に付く様になってきた。南国土佐を後にしての歌にも出てくるよ
うに、昔から捕鯨の盛んな所だったのだろう。一度は泊まろうかとも思っていた海坊主・日の出
などの民宿は太平洋を見下ろす位置にあり、なかなかのものだ。

大方町に入りスーパーの前にある公衆電話で、安宿に電話を入れると、

「今どこにいますか」

と聞くので、

「大方町のスーパーの前です」

と答えた。

「分かりましたどうぞ」

とのこと。中村の民宿さくらに、

「申し訳ないが先に行くのでキャンセルさせて下さい」

と言うと、

「わざわざ連絡してくれて有り難う」

と快く応じてくれた。キャンセル電話でお礼を言われたので、連絡もしない奴もいるのかな、と
思いつつピッチを上げて歩き始めた。

田の浦という漁港近くで、例によって道端で足を投げ出しての昼食は、先程のスーパーで買っ
た助六寿司にお茶。うまい。

食後の元気で急いでいると、どうも道が違う感じがした。地図を出して見ようとしていたら、軽ト
ラックが停まりオバチャンが、

「遍路道が違うよ」

と言う。

「渡し船が二時二十分でもう間に合わないから(ここにも一日五往復の四万十川を渡る、渡し
船がある)、四万十川大橋迄行こうと思って」

と言うと。

「引き返して真っ直ぐだよ」

と教えてくれた。約三百メートルだけだが引き返すのが悔しい。でもこの程度で済んで良かった
と思いながら歩いていたら、先程のオバチャンが車で追いかけてきて、

「渡しまで乗って行きなさい」

と言ってくれた。渡しに間に合わないからと言ったので、わざわざ来てくれたのだ。

「歩いていますので」

と鄭重に断った。

「そう言うと思ったけど来てみた」

と言う。

誠に申し訳ないと手を合わせて断った。申し訳ないの連発。

私が乗り物を断るのは、他人から見ると、どのように感じるのか。まるで宗教者が教義に添わ
ないことを断るように、全く妥協の余地なく断っている。私としては、全て歩きでと言う今回の計
画を、ほんの少しでも捨てると、今までの行動が、全部無意味になってしまう様に思っている。
その意識は、歩けば歩く程、強くなってきている。

色々考えながら歩いていると、どうやら地図にある、双海分岐を通り過ぎているようだ、

前の方を、幼稚園の園児らしい一団が、先生に引率されて歩いている。追い越すと、子供達
が、

「おじさん何してるの」

と無邪気に聞いてくる。

 一瞬何と答えようかと考えていたら、先生が、

「お遍路さんよ、邪魔しては駄目よ」

と救ってくれた。

右に行く道が有るはずだと、注意しながら歩いていたら、農道・関係者以外通行不可、と書い
てある道路にでくわした。付近で工事をしている人に、

「この道を行けば四万十川大橋に行けますか」

と聞くと、

「行ける」

という。ああ助かった、双海分岐迄、引き返せと言われたらどうしようかと、内心びくびくしてい
た。

四万十川大橋が見えて来た。有名な四万十川だ。今日泊まる予定だった中村市はこの上流
にある。夕食はきっと美味しい鮎だろう。橋の上で川風に吹かれて汗を乾かしながら想像して
いた。何と気持ちの良い川風か。ペットボトルの残りを全部飲み干した。それからまた歩き始
める。

三時三十分、あと約十二キロ、宿に着くのは休み無しで歩いて六時半頃かなと思いつつ急い
だ。橋を渡り左に下りて、一目散に歩いた。後半は何時も辛く、遠い。

長いトンネル(千六百二十メートル)の前に来て、遅くなりそうなので、電話連絡をと思い、電話
するが何故か架からない。市外局番の違いかと、何度ダイヤルしても架からない。諦めて長い
長い伊豆田トンネルに入る。

送風機の音と、トラック、乗用車、もの凄い音の中を南無大師遍照金剛と唱えながら、必死に
歩いた。トンネルを抜けたところで、もう一度電話をすると、今度はスムースに通じた。主人が
出て、

「トンネルを出たところから、あと四キロですね」

と言う。何かほっとした気持の一方で、まだ四キロも有るのかという複雑な気持ちになった。こ
の四キロはきつかった。歩いても歩いても宿は見えない。六時を過ぎ、徐々に日が暮れる。六
時二十分、もう暗くなってきた。オヤジは四キロと言ったが、気休めで、六キロは間違いなく有
る、と勝手に思う程だ。

出光石油のガソリンスタンドの側が安宿だ。真っ暗の中、曲がり角を過ぎた所にガソリンスタン
ドが見えた。だがそれは貝殻のマークだった。何度やっても四十キロの最後の十キロは、本当
に厳しい。やっと宿に着いた。食堂の様な入り口を開けると、待っていてくれたようで、

「ああ着いた、着いた」

と言いながら、

「泊まりの人は裏に行って下さい」

と言う。

裏に廻ると、高校生らしい息子が部屋に案内してくれた。

すぐ風呂にと廊下にでると電話している人がいる。見るとあの初日、民宿阿波で色々教えてく
れた、本田さんではないか。吃驚して側に寄り、

「大村です」

とだけ言って風呂に入った。湯船に浸かって、一息したところに本田さんが来て、

「二階の三号室ですから」

と言って出て行った。食事の前に洗濯物を全部洗濯機に入れて食堂に行くと、本田さんも来て
いた。喉がからからに乾いていたので、

「本田さん再会を祝して乾杯しましょう」

とビールを注文。オヤジさんに、

「トンネルから四キロは本当なの?サバを読んだのでは」

と言うと、真面目顔で、

「間違いありません!。昔から一里と言っていて、間違いない!」

と何度も言う。

本田さんは、私が泊まろうかと思っていた、海坊主からここに来て、今日足摺岬から帰って来
たそうだ。

オヤジさんが、

「海坊主からだとちょうど良いが、民宿さかうえ旅館のある佐賀町からは四十三キロばかり有
り、歩くのはちょっと厳しい」

と言っている。 本田さんも、

「やはり三十キロが良いところで、それを越えるとキツイ」と言っていた。

ここから足摺岬までは二十五キロほどで、足摺で一泊して帰ってきたのだ。積もる話しと足摺
までの行き方、宿泊場所、次の三十九番延光寺への行き方、など話は尽きない。食後も私の
部屋で話している内すぐに、九時を過ぎてしまった。本田さんが

「民宿阿波で貰った大村さんの納札が、どうしても見つからない」

と言うので一枚お渡した。

「疲れるから、もう寝ないといけませんよ」

と言って部屋を出た。

明日は必要なもの以外はここに置いて足摺まで行き、一泊して又この宿に戻る予定、それか
ら次の三十九番へ向かうのが理想的な行き方と聞いた。

そのコースを知らないのでここに着くまでは、足摺から豊後水道側を北上して三十九番へ行く
つもりでいた。二十キロは短縮出来る。

今日は、たまたま足の調子が良く、中村市に泊まる計画を途中で変更し、宿もキャンセルして
無理やりここまで歩いたお陰で、本田さんに逢えた。その上、明日は足摺では民宿八扇が良
い、三十九番では民宿しま屋が良いと教えて貰った。結果的に全て好循環につながった。これ
もお大師さんのお陰か?不思議な、有り難い感じがする。

まさか本田さんに逢えるとは夢にも思っていなかったので話しに夢中になり、洗濯物をそのま
まにしていたのに気づいた。慌てて行ってみると、この家のオバアチャンだろう、

「来てみたら、洗濯物が入っていたので、洗って干して置いたよ」

と言って階段の下の物干し場を見せてくれた。それからこの日記を書いている。ありがたや、
ありがたや。あれだけ歩いたのに、今まで程の疲れは感じない。ただ足の先はジンジンしてい
る。
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 十月二十三日(木)

旅館安宿〜第三十八番金剛福寺〜民宿足摺八扇 

六時朝食。本田さんは六時半に出発。

「又何処かで逢えるかも知れません。お元気に」

と握手して別れた。オバアチャンが干してくれた洗濯物は時間が遅かった為に、まだ半乾き
だ。ドライヤーを持ちだしてズボンから乾かす。

七時出発。さすがに今日は足が重い。それに早くも汗。弁当の用意もしていないし、店もない。
地図を見ると、喫茶店が二軒有る筈。どちらかで昼食にしようと思いつつ歩いていたが、一軒
目は休業中。窪津の港を見ながら、ミルクティーと、そえみみず遍路道の手前で、オバアチャ
ンに貰ったグリコのお菓子が頭陀袋に有ったのを思い出し、それにみかんの残り二個で昼食
とした。以後店らしきものはなかった。

暑い!。

まるで真夏のような暑さだ。やたらに汗が出る。とはいえ今日は三十キロ以内の距離、休み休
みだが、二時四十五分には金剛福寺に着いた。久しぶりのお参りだ。

足摺岬の公園を一回りして、展望台から太平洋を一望。北海道に単身赴任中、室蘭の地球岬
で眺めた太平洋と同じく、水平線が丸い地球を証明するように、緩いカーブを描いて見える。

民宿八扇は、足摺岬の公園からすぐ近くにあった。玄関を入ると《ご用の方は内線○○番に電
話して下さい》と書いてある。電話をすると主人が来て、宿帳に記入、部屋に案内された。西日
が強く、すぐクーラーを入れてくれた。コイン式になっているようだが、主人が三枚ほどコインを
入れていた。どうも泊まり客は私一人らしい。

たった一人で、民宿を独占する事が度々ある。それだけ歩き遍路は少ないということか。風呂
もたっぷりのお湯にゆったりと入る。洗濯も早々と済ませた。

六時から夕食。食堂には、私一人分の料理が並べてある。奥さんが、

「暑いですねー」

と言いながら、クーラーを入れてくれた。お膳には、二十五センチくらいの魚の活き作りがデン
と真ん中に座り、焼魚、小海老の酢の物、鰹のたたき、アサリのバター焼き、アサリの吸い物、
と豪華版である。ビールを注文、一杯目の旨いこと。昼食を摂っていないのでどれも美味しく、
全部平らげた。

夕食前に予定された仕事は全部済んでいる。初めてプロ野球日本シリーズを見ることが出来
た。今まではどのチャンネルを出しても、放映していなかった。

日記を書きながら色々考えた。明日は民宿安宿へ帰るだけだから、足摺岬から西回りをして
帰れば、半島を一周する事になる。少しは心に余裕を持って歩く事も良いではないかと思って
いたが、やはり止めよう、止めて来た道を引き返そう。西側の海岸を見るのも良いが、三キロ
距離が伸びるのは良くない、短い方を早く帰ろう。宿泊料六千五百円
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 十月二十四日(金)

民宿足摺八扇〜旅館安宿 

六時半朝食、七時過ぎに出発。ゆっくりした為、昨日と違い足が軽い。足を休ませてあげない
と、ご機嫌が悪くなる。その重要さを益々感じる。

足摺への道は、南国らしく木々が繁茂して道路に覆い被さる様に、木のトンネルを方々に作っ
ている。

車以外は誰も通らない。

十一時半頃、行く時には、気づかなかった喫茶店に入り、コーヒー、トーストで軽く昼食。来店
客の励ましに見送られて、足が進み二時には、早くも安宿に帰り着いた。

昨日足摺に出掛けるとき、必要なものだけ持参したが、その時セーター、フイルム、遍路道保
存協力会の本、等は必要なしと判断。すぐ近くにある、下の加江郵便局から郵パックで送るこ
とにした。アノラックも送ろうと思ったが、十一月も半ばになれば、山の上では、相当寒くなるこ
とも予測出来ので、これは止めた。

郵便局で

「郵パックに入れる物はもう有りませんか」

と聞かれ、

「別に入れる物はもうないが、何か土産になるものは有りませんか」

と聞いたら

「郵便局では何も売っていないが、良ければ私個人で持っている、鰹節はどうですか」

と言うので、

「お願いします」

と頼んだ。奥から袋を持ちだしてきて、

「これは千五百円ですが千円で良いです」

と言う。

「それではお願いします」

と言って、パックの中に入れていただいた。鰹の生節を削った様なものだ。送り先を記入して、
代金を支払う段になり、

「これはお接待させていただきます」

と言う。千円を添えて出すと、

「接待しますから」

と言って差し戻し、荷作りしてくれた。有り難く頂く事にした。

今日は松山から来た人が居る。

夕食時、四方山話の中、そえみみず遍路道で、登り口のあの崖のような所で登り道に気づか
ず、ずっと進んだ。間違いに気づき、自分の感覚で、右の方角と思いこみ山の中を登っていっ
たらしい。いくら登っても道に出ず、最後には崖に阻まれ、まるでアルプスの山登りの様になっ
て、やっと諦めて元の場所に戻った。合計二時間の苦闘の話を聞き、その心理が手に取るよ
うに分かり、同情すると同時に、大笑いになった。

実は私も、昨日足摺へ行く途中、干汐浜で砂浜は通らず、国道沿いに歩いた。あとで気付いた
が、干汐浜の出口に当たる場所で、遍路マークの指す砂浜に下りた。左手は砂浜、右手は、
ごつごつした岩山の海岸。昔の人はこんな凄い所を通って行ったのかと、感嘆の目で見なが
ら、最近楽になることを考えながら歩いているが、先人の厳しさを味わいながら歩くのが、本来
の歩き方だと思って、ごつごつした岩山に向かった。靴跡が続いており、やはりこの道を行く人
も居るのだと、不安定な足下に注意しながら進んだ。少なくとも人が通るやうな道ではない。波
が押し寄せると、足下の岩の間に波が打ち寄せ、飛沫がかかる。ザックがなければ、もっと身
軽に歩けるが、これではバランスを崩せば海に落ちてしまう。先を見るといよいよ険しい崖にな
っている。もう駄目だと引き返してきた。引き返すのは、進むときより難しく、恐怖を感じながら
やっと引き返した。

元の降り口に来てやっと、ああこれは足摺からの帰りに、干汐浜に下りる為の道しるべで、足
摺に向かうものではないことに気づき、自分の馬鹿さ加減にあきれた。と話してまた大笑いとな
った。

思いついたらすぐ実行する性格は、有る意味では積極的でよいが、思いこみの激しい早とちり
は良くない、反省することしきり。

本田さんに教えて貰った民宿しま屋に予約の電話を入れ、明日の宿は確保出来た。
戻る

 

 十月二十五日(土)

旅館安宿〜第三十九番延光寺〜民宿しま屋 

六時朝食、六時半出発。洗濯してくれたオバアチャンが、

「気を付けて行って下さい」

と見送ってくれた。昨日郵パックで荷物を送り返したので、ザックが多少軽くなった。少しでも軽
くしたいが、もういくら考えてもこれ以上、軽くはならない。

今日は初めて秋らしい涼しい朝となっていた。足が軽い。何が原因か良く分からないが、何時
もと違う感じがする。

三原村で、久しぶりにオバアチャンから百円のお接待を頂いた。少し進んだ所で、軽トラックで
商いをしている、魚屋と出合った。奥さんが、

「へんろさん、今日は何処に泊まるの?」

ときく。

「延光寺の近くの民宿です」

と言うと、

「泊まるなら、しま屋よ!」

「私もしま屋に予約してます」

「ああ良かった、あそこは良いよ!」

と言うので。

「魚屋さんはなんて言う名前?しま屋で言っておくよ」

「魚屋と言って貰えば分かるよ」

と主人が答えた。三時三十分にしまやに着いた。

年輩の主人が玄関脇に腰掛けていた。奥さんが、

「お疲れでしょう」

と出迎えてくれた。

「魚屋さんが、泊まるならここだと言っていましたよ」

と言うと。

「何時もいろいろ宣伝してくれるんですよ」

と言っていた。

荷物を置いて、延光寺にお参り、納経して帰ると。

「今日は団体が来るので、早いけど風呂に入って下さい」

とのこと。今日はあまり汗もかかなかったので、シャツとパンツは風呂場で洗濯。

夕食は皿鉢料理、一人一人に大きな皿に山盛りの料理。団体の人達の奥に、私ともう一人の
遍路。

オヤジさんが私たちの所へ来て座り込み

「全部歩き?」「偉いねー」、「横浜から?」「大変だねー」と言う。

「とんでも無い、こんな楽しい、贅沢な旅はまたとない。有り難いことです」

「たとえ百万円あげると言われても車には乗らない」

と、ついついオーバーに言ってしまった。

するとオヤジサンが、

「こんな人が好きなんだ、今日のビールと、お酒はお接待します」

と言いながら、自分が一番飲んでいた。やがて、酔っぱらってきて良く喋る。

「自分は食料庁に三十五年勤務した。今は年金を二十五万円貰っている。こんなもの(民宿)
はしなくて良いんだが、婆さんがやっているので、やっている」

など。

北九州から来ている遍路の吉永さんと、「食料庁長官」と渾名を付けて、

「よう!食料庁長官!」

と囃すと、全くご機嫌になり、今度は団体の女性群の中に入って大騒ぎ。全く愉快な人だ。その
内奥さんが来て、

「飲むとこうなんですよ」

と言いながら、もう一人分の料理をお盆に乗せている。

「どうしたのか」

と聞くと、

「部屋に持ってきてくれと言われたので」

と言いながら、持っていった。もう一人泊まりの遍路が居たようだ。

遍路には、やはり偏屈も多いのかなと、吉永さんと顔を見合わせて笑った。

高知県(土佐の国)修行の道場十六札所は今日で終了

遍路の旅へ戻る
 

 

  愛媛県(伊予の国)菩提の道場       
  10/27 10/28 10/29 10/30 10/31 11/1 11/2
  10/3 11/4 11/5 11/6 11/7
   十月二十六日から十一月七日まで

 

十月二十六日(日)

民宿しまや〜第四十番観自在寺〜ビジネスホテルプラザ御荘 

主人の言った通り、ビール代、酒代、それにお昼の弁当もお接待して貰った。

昨夜自室に夕食を運ばせた客は隣の部屋のようだった。昨夜九時過ぎ、団体客のおばさん達
が、まだ夕食の時の続きで、大きな声で笑ったり、喋っている声が聞こえている。隣の客が、廊
下の戸を開けて、

「喧しい!」

と怒鳴った。

よほど頭に来たのだろう。それから女性客も静かになった。

夜中に、ふと目が覚めたら、隣の彼が、大きな声で寝言を言っているのが聞こえた。何を言っ
ているのか、内容は分からないが、とにかく長々と続く。夜中に目が覚めることは先ず無いの
で、よほど大きな声を出したに違いない。

朝は朝で、五時前、隣から「ウン」とか「ヨイショ」とかのうるさい声で目が覚めた。その内テレビ
をつけた。音が大きい。まだ皆寝ていると言うのに。

他人には喧しいと怒鳴りながら、自分の行動はどうだ。この手の人物こそ、真の修行をして貰
いたいものだ。納経帳のスタンプラリーをしている可能性が高い。第一、遍路宿に泊まりなが
ら、食堂に来ないで自室に夕食を運ばせる、その根性が気に入らない。それなら民宿には泊
まらないで、立派な旅館かホテルを探して泊まればいい。遍路の風上にも置けない無礼な奴
だ。無性に腹が立つ。

魚屋さんのご推薦通り、しま屋さんには大変お世話になった。奥さんの細やかな配慮が有り難
かった。

今日も涼しそうなので、長袖シャツに法衣を着て歩き始めたが、すぐに汗が出てきた。

長袖を脱ぎ、半袖だけで歩く。宿毛市の市街地を抜けると、たんぼの向こうの山に向かって遍
路道が延びている、あの山の延長に松尾峠があるのだ。山裾に松尾坂口番所跡の立看板が
ある。松尾坂は伊予と土佐を結ぶ重要な街道であった、と記されいる。途中に石畳の敷かれ
た所も有り、昔ながらの情緒あふれる道だ。熊蜂の巣有り、上を回って下さい、の標示を過ぎ
るといよいよ松尾峠、高知県と愛媛県の県境だ。

「ようこそ愛媛へ」の看板には、香川県境まで四百六十五キロと標示されていた。行き交う人は
一人もいなかった。標高三百メートルだが、峠を越えて降り始めると風が強くなり寒い。又長袖
シャツを出して着る。

山を降りたあたりから、腹具合が悪くなってきた。トイレの標示は地図にもない、食堂などもな
い。何とかしなくては、初の野糞(ちょっと下品だが他の表現が無い)となりそう。キョロ、キョロ
しながら場所探しをするが、どうも良い場所が見つからない。その内もう我慢の限界が近づい
て来た。まるで陣痛のように便意が襲ってくる。道路の向こう側左手に、廃車が数台、その後
ろに木立とペンペン草の茂みが見えた。自動車の通り過ぎるのを待つのももどかしく、走って
渡り、ザックを下ろして草むらにしゃがんだ。

全くほっとした。ザックの中のトイレットペーパーが役に立った。やはり先人の経験から来た装
備は役に立つ。すっきりした気分で歩き始めたが、十五分位したら、またまた下腹が痛む、ど
うもおかしい。もう人家の並ぶ城辺町に入って来ている。何かある筈。右手に喫茶店・食堂とあ
る。中にはいると、かなり広い店に私一人、犬と遊んでいた年輩の女性にコーヒーを注文して、
平静を装ってトイレを借りた。今度は大丈夫、本当にほっとしてコーヒーを飲んでいると、

「今日はもう閉めようと思っていたら、遍路姿が見えたので少し待ってみた」

と言うではないか。ああ有り難いお大師様のお陰だ、と何でもお大師様のお陰になる。途中に
何も無いので、歩き遍路がよく寄る所のようだ。

四十番、観自在寺は本堂の中に納経所がある。納経を終わりお守りなどを見ていたら、この
手ぬぐいは、大変御利益のあるものだと説明があった。初めて納経所でセールスされた。宝印
を押した手ぬぐいらしい。お袋へのお土産にと頂いた。

昨日から涼しくなってきており、今日は本当に寒くなってきた。

「今まで袖無しの法衣を着ていたが、袖付きのものはありませんか」

と聞くと、住職が、

「これはポケットも付いており、良いですよ」

と言って、三千円の法衣を出して来た。

「長袖シャツの上に、これを羽織れば温かいよ」

とにこにこして渡してくれた。暫く住職と話していた。

仁王門の前を真っ直ぐに、橋を渡って、ビジネスホテル・プラザ御荘に入った。入浴後腹具合
のことを考えて、近くの食堂でうどんを一杯食べ、スーパーで明日の朝・昼の準備と、サロンパ
ス、歯磨き、オムロンの万歩計を買い、ホテルに帰って、ワールドカップ予選サッカーを見た。
負けそうな予感がする。ランドリーの洗濯五百円、乾燥機三百円はチト高い。
戻る

 

 十月二十七日(月)

ビジネスホテルプラザ御荘〜ビジネスまことや

四時起床、今日は三十八キロの行程。出発を早くした。昨日買って置いたホットケーキ・牛乳・
ヤクルト・インスタントコーヒーで朝食。外はまだ真っ暗、しかも寒い。初めて長袖のアンダーシ
ャツを取り出し、その上に昨日買った長袖の法衣を着た。歩いてみると丁度良い。風が強いの
には参った。菅笠が被れないので手に持ったが、笠の支えの部分が、二カ所も折れてしまっ
た。持ち場所が悪いようだ。色々工夫しながら歩く。

室手海岸の標示があり、今までの高知の太平洋から豊後水道、瀬戸内海へと続く海は、風は
強いが、波は少ない。風さえ無ければ、穏やかな良い景色だろうに。

十一時半、国道沿いのうどん屋に入る。店が清潔で味も良い。だんだんうどんの味が良くなっ
てくる。うどん好きの私には今後が楽しみだ。客は私一人、おつゆの一滴も残さず飲んだ。コ
ーヒーを注文、ドリップしてくれる。コーヒーには酒饅頭一個付きだ。これも美味しい。店の人
に、

「美味しいコーヒーを有り難う」

と言ったら、遍路の話になり、今度は柿を剥いて、

「お接待です」

と出してくれた。

今日は朝五時の出発からずっと強い風。前傾姿勢で笠を胸もとに持って歩いた。汗が出ない
分、疲れも少ないようだ。

宇和島市内に入ってきた。市街地に入り遍路マークがなくなると、まるで道が解らなくなる。何
度もホテルの場所を尋ねながら歩く。今日もビジネスホテルだ、夕食は又考えるとして、その前
に少し何かと思っていたら、うどんの大介と看板。店に入るとセルフサービスのうどん屋。天ぷ
らうどんと注文したら、

「一玉?」

と聞く。

「えつ!」

と言うと、

「半分入れますか」

と聞いている。一玉半にするかと言っているのだ。

「一玉半」

と言うと、大きなどんぶりに、うどんと天ぷらを入れて出した。三百二十円は安い。三時三十分
頃で、客もいない、数人いる店員も皆優しい。もう一度ホテルの在処を尋ねると、一人の店員
が手振りを交えて詳しく教えてくれた。

ホテルは一階が鮨屋になっている。若いが既に頭の毛が寂しくなっているオヤジさんが、

「四千八百円先払いです。朝はキーを此処に置いて、何時出ても良いですよ」

と素っ気ない。

部屋に入り、ユニットバスの中に身を小さくして入り、冷えた身体を温めた。

夕食は、下の鮨屋に電話して部屋に運んで貰った。自宅と、次の宿舎に電話したので、今日
中に支払っておこうと、フロントに電話するが、何度かけても誰も出ない。ふつう入室の際、必
ず住所、氏名のサインをするが、それもない。相手がこうなら知ったことかと、成り行きに任せ
た。コンビニを探して明日の食料を仕入れ、帰りにフロントでいくら呼んでも誰も出てこなかっ
た。明日も宇和町のビジネスホテルだ。

万歩計。六万四千八百五十二歩
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 十月二十八日(火)

ビジネスまことや〜第四十一番龍光寺〜四十二番佛木寺〜

四十三番明石寺〜宇和パークビジネスホテル 

六時三十分、フロントに電話代と書いて二百円置いた。今日も長袖のアンダーシャツに法衣の
スタイル、外に出るとかなり寒い。歩いているから身体はちょうど良いが、手がかじかむ。ザッ
クから手袋を取りだして両手にはめた。四十一番龍光寺。納経所で、

「昨日の人ですね、早いですね」

と青年が声を掛けて来た。昨日宇和島に入る前、松尾トンネルの手前にあるレストランの前で
休んでいた青年だ。

「お先に」

と出掛け、門前でアイスクリンを買って食べながら歩いていると、一面のコスモス畑に出合っ
た。あまりに綺麗だったので、ザックを置いて休んでいると、先程の若者が追いついてきた。ザ
ックに残っていたみかんを渡して一緒に食べた。

「学生さん?」

と聞くと、もう卒業して自家営業で働いているそうだ。学生時代の友人が、寺の住職の息子で、
一度来いと言われていて、一番から回っているそうだ。

「今日で何日になるの」

と聞くと、

「十九日」

と言う。私が今日で二十六日目。何という早さだ。

「平均何キロ位歩いているの?」と驚きながら聞くと、「三十キロ」という。私も三十キロに満たな
い日が最初は続いたが、それを三十キロ歩いたと仮定しても、せいぜい三日短縮出来れば良
い方だ。どうも計算違いをしているようだが、それはよい。

「最初は何しろ早く回ることに集中したが、あまり意味がないことに気づいた」

と言っている。

「スタンプラリーじゃないからね」

と言う点では完全に一致した。写真を撮っておこうと、コスモス畑を背景に彼を立たせて一枚撮
ると

「シャッターを押しますから」

と私も一枚撮って貰った。カメラを手に取り、

「カールツアイスのレンズですね、知らない人は、馬鹿ちょんカメラと思っているけど、これなら
いくら引き延ばしても大丈夫ですよ」

となかなか詳しい様子。彼の住所、氏名を聞かなかったのは、返す返すも残念。たばこの吸い
殻を携帯用吸い殻入れに入れ、みかんの皮はビニール袋に納め手に持って、

「お先に」

と出掛けて行った、礼儀正しい青年だった。

長閑な田んぼの中の道路を進むと、すぐに仏木寺に着いた。納経所で掛け軸へ朱印を頂く為
差し出すと住職が、

「掛け軸の巻き方を教えましょう」

と、私の掛け軸を持って、他の納経帳を持った数人を前にして、大きな声で説明し始めた。

「多くの人が待っているのに、あなたのように、こうして巻いたまま差し出されると、書く方はこう
して自分のお寺の所まで開かないと書けない。最初の二十番代迄はよいが、四十番代になる
と一々半分迄開くのは大変だから、朱印を頂く部分まで両方から巻いておくと、何時でもすぐ書
ける。収納もこうして両方からしっかりと巻いて、ビニールの袋に入れておけば、取り出してす
ぐ朱印を押して貰えるから、迷惑を掛けないで済むでしょ!」

成る程、言われてみればその通り。それにこれまでは一ヵ寺づつ書いて頂いたものを、少しで
も傷つけたら大変と思い、その都度丁寧に巻いてビニールカバーに納めて来ただけに、住職
のやり方を見ているとはらはらする位無造作に巻く。墨と朱印が乾いてしまえば、多少粗雑に
扱っても大丈夫だと言うことが解った。

仏木寺を出て四十三番明石寺迄十一キロ、遍路道歯長峠を越えていく。国道を五百メートル
ほど行き左の橋を渡ると遍路道だ。体調も足も調子はよい。気分も上々で先程の青年の事
や、仏木寺の住職の事などを思い出しながら歩いていると、いよいよ山に差し掛かり、遍路道
らしい道となってきた。遍路道の標示が見つからなかったが、これしか道は無く、どんどん進ん
だ。両側の木や、人の踏みしめた道の状況といい、今までの遍路道と何ら変わるところもなく、
何も疑わず進んで行ったが、どうも何時も遍路道にある、木にぶら下がった札が一枚もない。
かなりの距離毎に四国電力と標示された小さなコンクリート製のものはある。少しおかしいと思
い地図を出して見るが、別に分かれ道は無い。しかも歯長峠は海抜四百五十メートル、まだま
だよほど登らねば頂上には着かない。

やがて左右の分かれ道に差しかかったが、ここにも遍路道のマークがないので、どうも間違え
た様だと思いつつ山の上に登る道をとった。谷川に架かる小さな古ぼけた橋に差し掛かり、よ
く見ると歯長橋と書いてある。何れにしても歯長峠はこの山に違いないと自分を慰めながら、
頭では九十五パーセント間違いと思いつつ、五パーセントに賭けて尚進んだ。すると道が開け
見晴らしのよいみかん畑に出た。

かなり汗をかいたので、ザックを下ろして一休み。腰を下ろして黄色く熟れたみかんを見なが
ら、間違っていたら又この道を登り始めたところまで、全部おりなければならないと思うと「ぞっ
と」する。

気をとり直して再び歩き始めたら、今度は蜘蛛の巣が凄い、いくら何でもこれは駄目だ。

でも道はある、草をかき分け、蜘蛛の巣を払いながら破れかぶれの気持ちで突き進んだ。

すると右手に直径二十メートルも有ろうかという大きな円形のコンクリート製の建物が出てき
た。道路はコンクリートで舗装され、付近には建設機械や、麓から物資を引き上げる為の、ロ
ープウエイが張られている。誰か居ないかと探したが誰も居ない。やはり今来た道は四国電力
がこの構造物を作るために造った道に違いない。ロープウエイが張られて使わなくなったの
で、あんなに蜘蛛の巣が出来たのだ。途中で何度も間違いだと思いつつ、結局此処まで来た
のは何なのだ。自分の判断、踏ん切りの悪さにほとほとあきれた。だが今更悔やんでも仕方
がない。何処か別の道は無いかと普通なら探すが、もうその気は全くなく、必死に来た道を引
き返した。登り始めてから一時間以上過ぎている。

元の位置に戻ってみると、昔からの遍路道の石柱・へんろみち保存協力会の道しるべや遍路
シールが、誰でも解るように表示されていた。何故見落としたのか全く解らない。

今までも、道を間違えるときは決まって何かを考えている時だった。今日も仏木寺の住職の
事、あの青年の事を考えていた。別に悪いことは、何も考えていなかった。

「もう何も考えないで、ただ次の寺の事だけを考えろ!」

と言ってるのだな、と何ものかを恨むような気持ちで独り言を言いながら、又険しい山道を登り
始めた。もの凄い急斜面が続く。やっと視界が開け、車道に面した格好の休み場所が見つか
り腰を下ろした。もう午後二時になる、昼食は準備していない。カロリーメイトとみかん二個、そ
れにお茶で昼食。

遍路を乗せたマイクロバスが通った。中の一人が手を振っている。これを合図に、一旦車道に
出て歩いていくと、遍路道の表示板が有り、そこにトンネル通過遍路道と歯長峠遍路道のそれ
ぞれの矢印があり、其の下に、

「歯長峠が本来の遍路道」

「苦をとるか楽をとるか胸三寸の断」

と書いてあった。

勿論即座に苦をとった。苦をとる道を上がると、すぐ休憩所が作ってあったが、迷い道で時間
を浪費しているので、休まずそのまま進むと、直ぐに苦が始まった。

今までより険しい急な斜面には鎖が架けてあり、それを手でたぐりながら登る。背中の荷物が
無ければ、もっと楽に行けるだろうに。ときどきバランスを崩しながら、久しぶりの大汗をかい
た。いよいよ歯長峠の頂上だ。タオルで頭から顔と汗を拭い、残りのお茶を飲み干した。先程
の迷い道での一時間とその為の疲労が悔しいが、この達成感で消し飛んでしまった。

座って休んでいると、色々と心に浮かんでくる。

十月三日に一番札所の霊山寺から歩き始めて今日で二十六日目。お参りした寺の数はまだ
半分に満たないが、距離的にはとっくに半分以上歩いている。その間、子供の明るい挨拶、田
舎道で人々との触れ合い、心の和む昔ながらの光景。それと反対に、至る所で、山を削り谷を
埋め、トンネルを掘り、橋を架け舗装された豪華な道路や農道。あちこちにある政治家の記念
碑、銅像、立派な学校校舎、体育館、博物館の数々。何か間違っているのでは無いか?

長い株価低迷の中に身を置いた者には、これでよいのか、もっと有効な金の使い道はある筈
だ。公共投資に名を借りた無駄遣いに見えて仕方がない。

今日、私が明確な根拠もなく、ただそこにに道が有るから進んで間違えたのと同じように、明確
な根拠も無く、ただそこに予算があるから使っているような気がする。

政治や、経済の事を考えていると、何か暗澹たる気持ちになる。遍路が考えることではない、
と言い聞かせながら山を下った。

山を降りて県道に出た所にある橋が、あの忌々しい古ぼけた橋と同じ名前の歯長橋だった。
四国のみち休憩所で一休みして、四十三番札所明石寺のある宇和町に向かった。遍路マーク
に導かれて来たが、明石寺の近くになり地図を見ようと頭陀袋の中の眼鏡を探すが、眼鏡ケ
ースだけで中身が無い。はっとして記憶を辿ると、歯長峠の頂上で休んだ時、眼鏡を取りだし
て地図を見た。汗が止めどもなく流れるので、眼鏡を傍らの岩に乗せて、汗を拭きながら色々
考え、最後は忌々しい気持ちになって、山を降りた。あの岩の上に置き忘れた事に気付いた。
今更どうしようもない、あそこまで取りに戻る気力も時間も無い。あの眼鏡のフレームは長く使
っているが、レンズは今の視力に合わせ検眼した遠近両用であり、歩く時は特に便利がよかっ
た。もう夕日が傾いて来ており、眼鏡無しではぼやけて地図を見る事が出来ない。あとは人に
聞くだけ。

道を聞きながら四十三番明石寺についたのは、納経締め切り時間の五時に近かった。急いで
お参りし、納経を時間ぎりぎりに済ませ、直ぐ下にある食堂へ急いだ。大師うどんと大きく書い
てあったからだ。昼食はカロリーメイトのみでお腹が空いていた。中にはいると客は誰も居な
い、店員が、

「申し訳ありませんが、五時で閉めました」と言う。

ああもう今日は駄目だ「三隣亡」とはこの事だ。「苦を取るか楽を取るか胸三寸の断」で苦を取
ったが、これは将に苦だった。道は迷うし、眼鏡は忘れる、うどんは断られる。おみやげ物売
場に中年の女性が三人ほどいたので、

「どこか眼鏡屋はありませんか」

と聞くと、

「直ぐ先の商店街にありますよ」

と教えてくれた。

小さな眼鏡屋に入って、

「一番安い老眼鏡を下さい」

と言ったので、変な顔をして私を見た。

遍路姿に菅笠をかぶったままで、きっと疲れた顔をしていたのであろう。

「歯長峠の上に、眼鏡を寄付してきましたので」

と事情を説明すると。

「それはお困りでしょう」

と五千円と七千円の物を出してきた。少し高い方が具合が良いので、

「これにします」

と言ったら、

「五千円にしておきます、あとはお接待させて下さい」

と言ってくれた。今日宿泊する宇和パークビジネスホテル迄の道を教えて貰い、もう暗くなった
道をホテルへ急いだ。二日続いてビジネスホテルだったので、今日は民宿か旅館と思っていた
が、この宇和町も泊まれるところはこのビジネスホテルしか無い。

ホテルに入る前に先ず食事。カロリーメイト一箱だけだったので、本当に腹ぺこだ。うどんの看
板が見えたので入り、うどんと鮨のセットを頼んだ。今日は特に美味しく食べた。

ホテルはスポーツ施設に付属しているようで、サウナも付随した風呂があり、これは助かった。
洗濯物を洗濯機に入れ、サウナに入り、色々あった今日の垢を、大きな湯船に浸かって心ゆく
迄落とした。

ホテル近くのコンビニで、明日の用意をして帰ると、妻から電話。何時もこちらから電話をして
いるので、電話がフロントから回って来ると、何があったのかと不安な気持ちがする。何も無か
ったが、明日の予定も出来ていないし、明後日に掛けての、長い道程に付いても何も準備して
いない。もう今日は寝よう、後は明日考えよう。洗濯の乾燥がやっと済んだ。九時三十九分 

万歩計 五万七千四百三十六歩。
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 十月二十九日(水)

宇和パークビジネスホテル〜松乃屋旅館

六時三十分ホテルを出発。若干肌寒いが風はない。淡々と国道五十六号線を歩く。宇和町と
大州市の境界にある鳥坂峠の遍路道は、標高四百六十メートルと三百五十メートルの二つの
山越えとなる、昨日の三隣亡で疲れた。朝から山越えは辛い、今日は堪忍してくれ!

鳥坂峠の遍路道を歩くのは止めた。そのかわり鳥坂隧道と鳥坂トンネルの、二つの長いトンネ
ルを通り、悪い空気を吸ったので咽がいたくなった。

昼前大州市役所の前を歩いていたら、道路の向こう側から、

「おへんろさーん」

と大きな声。見るとオバアチャンが、

「待ってください」

と左右を見ながら渡ろうとしている。

「オバアチャン危ないよ」

と言っても意に介さない。自動車の隙間を縫って渡ってきた。片手に握っていた百円玉を出し
て、

「何か飲むときに使って下さい」

と言う。

「南無大師遍照金剛、々、々、オバアチャンお年は?」

「七十二歳になります、私も十六歳の時、遍路でお参りしたよ、戦争前の事で私はまだ処女だ
った」

「え!処女!」

と意外な言葉だったので笑いながら言うと、

「そうよまだ十六の処女の時よ」

お孫さんに囲まれて幸せな暮らしの様だ。

「お元気で、本当に有り難う」

と言うと、

「時間をとらせて悪かったね、足が速いから慌てたよ」

と笑顔で言うのを聞きながら別れた。

大州市の外れの、亀屋うどんと言う店で、昼食を摂った。天ぷらうどんに手巻き寿司、千円也、
うどん好きの私には一番良い。うどん屋の数も増えて来た、味の方も益々良くなってきている
様な気がする。

今日の宿は有名な内子町にしようと、宿泊施設一覧表の旅館名の一番上にある、松乃屋旅館
に電話した。例により、

「お一人ですか」

の確認があり、

「一万二千円ですがよろしいですか」

と聞く。今まで事前に料金の確認をされることは無かった。平均より約二倍の値段で、いざ支
払いの時のトラブル防止だなと思った。少しゆっくりしたい気持ちになっていたので、

「結構ですお願いします」

と予約した。

内子町には思ったより早く着きそうなので、ゆっくりと歩いた。

国道沿いに歩いていたら、左手に番外別格第八番札所永徳寺とある。寺の前の自動販売機
でポカリスエットを買って飲みながら、ふと橋の下を見ると、地蔵のようなものがあり千羽鶴や
花が飾られている。橋の名前は十夜ヶ橋。

遍路の旅をしながら何という不覚。これこそ、まさに空海が一夜の宿を求めてさまよい、橋の
下で雨露をしのぐ一夜を過ごしたと言われる場所なのだ。歩き遍路が持つ金剛杖は、橋の上
では決して突いてはいけないと云われる所以は、この橋にあるのだ。橋の袂に、

《ゆきなやむ浮世の人を渡さずば、一夜も十夜の橋とおもほゆ》

と空海の歌が刻んであった。

私のような無宗教で、お寺の由来も何も勉強しないで、遍路と称して唯歩いているだけの自分
が、この時は恥ずかしかった。空海はこの橋の下で、むしろ一枚で一夜を過ごしたと言われ
る。それに比べて私はどうだ…。写真を撮って一礼して立ち去る。

松乃屋旅館は、遍路道のある旧道にある。今日はずっと国道筋を歩いたので、旅館の位置が
解らない。地図を見て旧道へ戻ろうと小道を歩いていると、小さな店の中から、

「へんろさん、へんろさん」

と呼びながら老婆が私の前まで来て、手に持った大きな柿を地面に置いて又店の中に入って
いった。

店の中の様子を見ると、 袋に手を入れて探している。お接待の百円玉を探しているのだと思
っていると、千円札を取り出して来て、

「お接待だから持っていってくれ、それからこれも」

とアンパンを一個手渡してくれた。左手にアンパンと柿と千円札、右手には金剛杖と菅笠。置
き場に困ってどうしようかと見回していたら、助けるように店の若奥さんが出てきて、

「お疲れでしょう、此処へ掛けて」

と店の中の椅子を勧めてくれた。

若奥さんが奥から湯飲みを持ってきて、私とおばあちゃんにお茶を入れてくれた。あばあちゃ
んもパンを食べ始めたので、私も遠慮なくいただいた。ご馳走に成ったのでお礼を言って、住
所氏名を書き込んだ納札を渡そうとすると。おばあちゃんが、

「そんな物はいらないよ、喜んでくれれば良いんだ・よもくればあさん・が勝手にやっているんだ
から」

と言っている。

「おばあちゃん・よもくればあさん・とは何という意味ですか」

と聞くと少し考えて、

「よもくれはよ、もくれよー」

とよく解らない。若奥さんも一言では言えないらしく、

「口は悪いが悪意はない」「面白い事ばかり言うが罪がない」

と言うような意味らしい。さすがに・よもくればあさん・次から次ぎに面白いことを話している。何
かの商売で内子町に来ているようで、

「四時何分かの列車で帰らないといけない。宿屋に泊まると何千円も取られる。そんな金があ
ったら誰かに何か買ってやる」

等と云っている。

私は松乃屋旅館に、一万二千円で泊まることが言えなくなった。何処に泊まるか聞かれなかっ
たので内心ほっとした。

おまけに本当に小さな軒先の低い、草餅と柏餅が棚にのっているだけの店の若奥さんが、柏
餅(売り物)を取り出して、

「お宿で食べて下さい」

と持たせてくれた。私が横浜から来ている事を知り、

「子供が川崎市の麻生区にいる」

と懐かしそうに話をしてくれた。私は何と言って良いか分からず、只、

「有り難う」

と言うのみだった。

お接待は、有り難く受ければ良いと云うが、このままで良いのかと戸惑うばかり。

松乃屋旅館は、内子町の老舗の様だ。部屋の調度品も良く、風呂も一部が露天に成ってお
り、たった一人で贅沢に使わしてもらった。

夕食まで時間があったので、初めてふらりと散歩に出た。松乃屋旅館のすぐ側には、テレビで
も見たことのある内子座が有る。 

見事な色に染め抜かれた旗が立ち並び、往時の姿をそのまま残している。旅館のすぐ隣りで
手作り品を売っていた。店の主人が作っているようだ。内子座を染め抜いた手ぬぐいと、藍染
めの袋を買った。これも初めての買い物だった。

夕食を部屋に運んでもらうのは、焼山寺を下りた時泊まった、民宿植村旅館以来だ。食事を運
んでくれた奥さんに聞くと、内子座で公演がある時は、役者さんは大体この松乃屋さんに泊ま
るそうだ。

食事をして、有名な難所の一つである岩屋寺迄の計画を立て、三十キロ先にある伊藤旅館と
まる美旅館の二軒に予約電話を入れたが二軒とも断られた。私の前後に歩いている人は、ほ
とんど居ないはず。やはり一人は断られる様だ。

四十四番大宝寺の近くならいくらでも旅館はあるが、標高五百メートル迄のだらだらした登り坂
で、四十キロ以上の道のりはどう見ても無理だ。雨になりそうな気配だし、無理はよそう。仕方
なく約二十キロ先のふじや旅館に電話をしたら予約できた。

今までは全部札所の番号通りに順打ちでお参りして来たが、岩屋寺への道は、どうも四十五
番岩屋寺から四十四番大宝寺への逆打ちコースの方が合理的に回れる様だ。遍路道も厳し
そうだ、明日は短距離なのでゆっくりと考えよう。

それにしても今日のお接待には考えさせられた。お接待は本来、野宿しながら修行して歩いて
いるような、本物の遍路にこそ与えられるものと思う。

私のように時間と体力が有り、旅費も何とか間に合う無宗教の遍路は貰う資格が無いはず
だ。

でも一方、それは間違いかも知れないと思う。

お接待する方から見れば、歩き遍路こそ貧富も時間も体力も関係無い、全て平等の「お大師
様と同行二人」の「修行中のものたち」なのだ。やはり有り難く頂くのが、お接待する人に対す
る礼儀なのであろう。   

今日の万歩計 四万七千三百三十七歩
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 十月三十日(木)

松乃屋旅館〜ふじや旅館

朝食の時、さつまと言う味噌の中にオクラの入った濃い汁が出た。奥さんが、

「御飯にかけて食べると美味しい」

と教えてくれた。

それに目刺しをホイールの上で炙りながら焼きたてを食べる。その他のおかずも食欲をそそ
り、食べ過ぎるくらい食べた。食後のコーヒーも格別の味がした。

宿泊料金の精算の時、奥さんが内子町の絵はがきをお接待してくれた。お礼を言って、

「今日は小田町の旅館ですから、ゆっくり行きます」

と言うと、

「それでは是非、内子の町を見て下さい、電柱も取り除いた古い町並みが昔通りに保存されて
おり、日本でも数少ない町ですから」



「同じ内子の大瀬には、大江健三郎さんの生家もありますよ、見て行かれたら良いですよ」

と内子町の案内図を出して詳しく説明してくれた。色々お世話になった礼を云い、

「内子座をもう一度見て行きます」

と言ってお暇した。

内子座で写真を撮り引き返してくると又奥さんが待っており、

「失礼でしょうが」

と言いながら、今度は伊予の絵はがきを差しだし、

「四十円の頃の葉書ですが良かったらどうぞ」

と渡してくれた。くれぐれもお礼を言って別れた。

松乃屋旅館から旧道を二百メートルばかり歩いた所から、内子の古い町並みははじまってい
た。聞きしに勝る見事な町並みだった。

映画の撮影に何度も使われた様だが、古き良き日本の姿がそのまま残っており、それぞれの
民家は、現在も人々が生活しているのが良い。

内子乃市街地を出て国道五十六号線の、中土橋バス停近くの川沿いの歩道を歩いていたら、
自転車に乗った中年の男性が私の前で止まり、

「温かいものでも飲んで下さい」

と二百円のお接待。

暫く行くと、今度は畑で小豆の収穫をしていた中年のおばさんが、

「早いねー、今日は貴方が初めての遍路さんよ、ちょっと待っていて下さい」

と言って、道路を横断し、家の中に入ると牛乳一本・みかん二十個程・大きな柿三個を抱えて
来て、

「持って行って下さい」

と言う。有り難いが到底持てないので、みかん五個・柿一個を頂き、牛乳はその場で飲みなが
ら話した。ここ二〜三年歩きの人が増えて来ているようで、一度は外人が通り家に上げて接待
したら喜んだ、などと止めどなく話してくれる。歩く人はそれぞれ違った土地の人で、考えもそれ
ぞれ違うので、話して飽きないからこうして引き留めては話しているとのこと。

今日は時間に余裕があるのでゆっくりお付き合いしたが、それでも話し途中でお暇した。

大瀬は山に挟まれ、川に沿って小さく纏まった町。大江さんの生家を見つけようと注意して歩
いたが、よく解らないので、たばこ屋で聞いた。大江さんの生家は燃料店で、プロパンを扱って
いるようだ。家の構えは凡そ燃料店には見えない。

この旧道はこの先で工事をしており通行禁止となっているから、川を渡って一段と高い所にあ
る国道を通った方がよいと教えられ国道に出た。見下ろす大瀬の町は、私が子供の頃住んで
いた広島県福山市松永の本郷という町より大きい。川も深く澄んでおり、大江さんの文章は、
この川や山とこの空気が作り出したんだなあと思いつつ歩いた。

今日の宿舎ふじや旅館のある小田町に入り、旅館はどのあたりかと注意しながら歩いていた。
後ろから老人が古いスクーターに乗って坂を登ってきている。スピードが遅いので、トラックが
警笛を鳴らして追い抜いていく。

大江さんのノーベル賞のお陰なのだろうか、立派な建物や、豪華な道路工事が進行中だ。

川に沿った所に資材などを置いた場所があり、おじいさんがスクーターを其処に入れて止まっ
た。オシッコでもするのかなと思っていると、ポケットに手を入れながら、道路越しに私に向かっ
て、

「お遍路さーん」

と呼んで、こちらに渡ろうとしている。足取りが、よぼよぼしているので、

「おじいちゃん私がそちらへ行くから、待っていて下さい」

と大きな声で云い、トラックの通り過ぎるのを待って渡った。おじいちゃんは五百円玉を出して、

「寒いのに大変だね」

と言いながら接待してくれた。

「お年はいくつ」

と聞くと、

「九十歳」

と言う。八十歳くらいかなと思っていたので驚いた。

「定年になり一度は回ってみたいと思っていたので、歩いて回っています」

と説明すると

「あんたのように信心するとよい、今の者は信心が無い、私は信心のお陰でこうして九十迄生
きている。信心しない者は皆死んだ。大したことはで出来んが、私しゃまだ働いている。だから
毎日各家を回って信心しなさいと何時も云っている。だが若い人はなかなか分かってくれない」
(信じる者は救われると言うが、このおじいちゃんを見ていると本当にそうだと思う)

「何処から来たかね?」

「横浜です」

「神奈川県だね、遠くから感心だ。子供さんは?」

「二人ですが、一人は結婚して、もう孫が居ます」

「信心すると、子供もよくなるよ、私の弟は夫婦とも信心しないから、親が死んでも子供が帰っ
てこなかった。信心しないからこんな事になるんだ。あんたの様に信心深いと良いのに」

と言う。

信仰心もなく巡拝している私に信心、信心といわれると困ってしまうが、

「おじいちゃん、私も信心していないが、霊場を回ってお経を上げると救われたような気持ちに
なります」

と言うと。

「そうそうお経は般若心経と光明真言だけで良いよ」

等と話している時、強い風が吹いて、おじいちゃんのスクーターが倒れてしまった。後ろに大き
な段ボールの箱を乗せているので風圧をまともに受けたのだ。スクーターを起こしてあげると、

「それではお元気で」

と云ってエンジンを掛けるがなかなか掛からない。

「バッテリーがやられたな」

と小声で云いながら何度もトライするが駄目だ。

「困ったなー」

と本当に困った顔をして私を見る。

少し先に行くと下り坂があるので、

「おじいちゃん、私が押すからエンジンのかけ方は知ってるね」

と聞くと、

「知っている」

という。

「おじいちゃん乗りなさい」

と言うと、

「後ろに荷があるからなー」

と云う。

「大丈夫、大丈夫」

と言って無理やりに乗せて、下り坂を押してあげたらエンジンが掛かった。おじいちゃんは一生
懸命に前を見て運転しながら左手を挙げて走っていった。

二十八日の三隣亡の日から、何かが少しずつ変わってきているような気がする。松乃屋の奥
さんが、

「伊予の南部は特に人がよい、おっとりしている」

と言ったが人情に厚い人が多い様に感じる。子供達も決まって挨拶してくれる。

ふじや旅館の隣が郵便局だったので、当座の旅費の手当をして旅館に入った。旅館と云うより
古い民宿。いわゆる昔の遍路宿二階に案内されると、床がぎしぎしと鳴る。襖と障子ですきま
風が通る。奥さんがストーブをつけてくれた。

「これから先はもっと寒いですよ」

と言う。

地図で見ても岩屋寺近辺は、標高七百メートルの山奥だ。NHKの天気予報では、明日は寒気
が南下、冬型の気圧配置になり、九州でも山沿いは雪と言っている。長袖の下着を着て、その
上に長袖シャツに法衣で行こう。朝食は六時にお願いした。

奥さんに教えて貰って、岩屋寺に近い国民宿舎古岩屋荘に予約を入れた。

「お一人ですね、少し待って下さい」

と言って誰かに聞いている。ああ又駄目かと思っていたら、

「どうぞ」

の声にホっとした。出来るだけ早めに宿の予約をしておこうと思っているが、二日後迄の予定
は、歩いてみないと立てられないのが実状。もう九時を過ぎた、洗濯物に少しドライヤーをかけ
ておこう。朝は時間が無さそうなので。ハガキを書こうと思ったが又書けない。

今日の万歩計三万三千八百七十三
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 十月三十一日(金)

ふじや旅館〜第四十四番太宝寺〜国民宿舎古岩屋荘

六時。朝食は、年輩の主人が支度してくれた。息子夫婦が旅館の経営をしているが、御覧の
通りの状況で、旅館だけではもうやっていけないので、食堂兼バー兼カラオケ兼喫茶店をやっ
ている。夜遅くまで営業するので朝は私がやっているとのこと。

「昔はお遍路さんで賑わって、たくさん旅館もあったが、今はバスや自動車で巡拝するので此
処(小田町)は通過地点になってしまいました。貴方のような歩きの人だけですから、一日に一
人か二人で全く商売に成らなくなりました。孫も東京の大学に行っており、もう帰って来ないでし
ょう」

と主人がこぼしながら、親切に手書きの地図で岩屋寺への道順を教えてくれた。

外に出ると天気予報通り寒い。長袖下着を着ていてよかった。雨が降ったらしく路面が濡れて
いる。寒いので、いつもより歩きのスピードが出て早い。だらだらした登り坂の為か直ぐ汗ばん
できた。左手に屋根つきのバス停があったので、中に入って上着のスポーツシャツを脱いだ。
肌寒いが気持ちがよい。

約六キロ地点まで休まず歩いた。いつものように休み場所を探すが、路面が濡れているので
適当な場所が見つからない。少し我慢すれば何かあるはずだ。我慢しないで休むと、何時もす
ぐ近くに格好の休憩所があり悔やむ事になる。今日も必ずそうなると思って我慢して歩いてい
たら、五分もしないうちに左手に神社があった。神社の社殿の階段に荷物を置き、腰を掛けて
お茶を飲んでいると、見る見るうちに黒雲が出て薄暗くなり、あっと言う間に雨が降り出した。

少し待てば止むはずと 昨夜の天気予報を信じて待っていると、雨は益々激しくなってきた。

近くで電気工事をしていた人が三人、雨宿りに駆け込んできた。ジャンパーがびしょ濡れになっ
ている。三人と話しをしていたが、雨は止みそうにない。天気予報の話しをしたが、山の天気は
別物と、彼らは予報のことは全く宛にしていない。その内、

「こりゃーだめじゃ」

と言って、三人は小型トラックで帰ってしまった。休んでいると寒くなって、オシッコがしたくなっ
たが、神社の境内に向けてやるわけにはいかない。このまま待っても何時止むか分からない。
急いでカッパ、ザックカバーを出して、身支度だ。

激しい雨の中を出発した。少し行くとふじやのおじいちゃんが一生懸命に教えてくれた遍路道
の近道が、車道の左手に見えてきた。車道は山を巻いて、八の字に走っている。

山登りは大変だった。しかし先程までの経過を振り返ると、休憩を少し延ばして、我慢したお陰
で、三島神社の社殿で休むことが出来た。その為に急な雨にも濡れることなく、カッパの準備
をして歩くことが出来たのは、まさに幸運と云うしかない。一般にこのような事を、お大師さんの
お陰と言う。私もこの時は、本当にそう言う心理は理解できた。人間の考え方や、行動の結果
起きる現象は、信じる人には全て斯うした論理で説明出来る。

何れにしても、幸運であったことには変わりない。立ち止まって、雨に煙る対岸の山を見なが
ら、ゆっくりとオシッコをした。遍路道を抜けて国道を進み一時間程歩いた所に、昨夜断られた
二軒の旅館があったが、営業しているような雰囲気ではなかった。

伊予落合の分岐点に着いた。予定では今までの順打ちを変更して、四十五番岩屋寺から四十
四番大宝寺への逆打ちで回るのが合理的と言うものだった。

岩屋寺から逆打ちか、大宝寺から順打ちにするかの分岐点で急に心変わりした。大宝寺から
の順打ちで国民宿舎古岩屋荘まで行こう!、この雨で又長い遍路道はもう沢山だ、の気持ち
がそうさせた。(この雨の中を岩屋寺へ直接行くには、長い遍路道の山越えがある、このころ
多少弱気になってきていた)

自動車の行き交う国道三十三号線を歩きながら、悔やんだ。苦を取るか楽を取るか、苦を取
らねば本当の遍路の意義は半減し、苦の後に来る感激も半減する、気力の減退だ!

最初に焼山寺へ登った時のように、何も考えないで唯目標に向かったあの気持ちが薄れて来
ている自分を悔いた。雨で道端に座るわけにも行かず、途中全く休まず大宝寺の下まで歩い
た。

大宝寺の駐車場で、車から出てきた遍路姿の女性が、

「お寺はこっちかね、あと〇.四キロと書いてあるが」

と聞いてきた。

「私も今着いたところで、今からお参りしますが、この道と思いますよ」

と言って歩き始めた。女性は、

「まだ四百メートルも登るの?」

と言って又車の中に入り、上の駐車場に登って行った。すぐ側の参道の遙か上に立派な山門
が見えている。歩きの者以外はこの門を全く通らない。何のための山門だと一人で文句を言っ
ていた。

今迄だとこんな場面ではすぐに、

「馬鹿野郎たったこれだけの坂道も上がらないで、何の為にお参りして居るんだ」

と卑下するような気持ちになったものだ。

だが振り返って最近の自分を見ると、色々と理由を付けて、意識的に山道を避けようとしてい
る。今日もその為に、昨日考えていたルートを突然変更してここまで来た。上の駐車場まで車
で行った人を、何で非難出来よう。歩くのが嫌なら、車で行けば良いのだ。となんだか解らない
が、弱気になりかけている自分を励ました。息を切らせながら山門に着き一礼して階段を上
り、、納経所の前に荷物を下ろして本堂に向かった。何か久しぶりの感じでお経を読み、納経
所に入った。

先に居た二人が納経を済ますのを待って、納経帳と掛け軸を差し出すと、住職の奥さん(後で
分かった)が、全く愛想無しで事務的に筆を執り書いてくれた。黙って千円札を出すと二百円の
お釣りと本尊の御影二枚を渡してくれた。礼を言って掛け軸の墨をドライヤーで乾かしている
と。

奥さんが、

「どちらからお出でですか」

と聞く。

「横浜から来ました」

と答えると、

「雨で大変ですね、これから岩屋寺ですか」

と聞くので、

「今日は国民宿舎古岩屋荘を予約していますので、伊予落合の分岐点から河口を通って、槇
谷経由で岩屋寺を打って国民宿舎に行こうと思っていましたが、雨が降って山歩きは大変と思
ってこちらに来てしまいました」

と言った。

すると、

「岩屋寺はこの大宝寺の奥の院で、大宝寺にお参りして岩屋寺へ行くのが本当です。昔は皆こ
こを打って荷物を置いて岩屋寺に行き、又ここに帰って来て次に行ったものです。向こう廻りの
方が、近いのでみんな岩屋寺からここに来るようになったが、お大師さんはここから岩屋寺に
行くように作りました。へんろみち保存協力会の宮崎さんも、この前ここから岩屋寺まで行き、
途中標識が正しく立っているか調べて、お参りして帰ってきました」

等と話してくれた。

「ただ最近は皆、車で来るから関係ありませんが」

と言って、

「うちの住職も、今時の者はお寺でろくにお参りもしないで納経だけして、車で帰っていく、あん
な者は何も有り難くない、悪い新興宗教がお金だけ取って御利益があると云っているのと同じ
だと言っています」

「うちのお寺は何方でもお参りして頂きたいが、やっぱり遍路は歩かないと分かりませんよ」

と言う。

「私も同感です、汗を流して息を切らせてお参りすると、本当に心から有り難うございますと、自
然に口から出るように成りました」

と言うと。

「そうよ、それが本物よ。歩き遍路は一番贅沢な遍路ですよ」(私が逢う人ごとに言っている言
葉)

「昔の遍路は、各寺に必ず無料で泊まれる所があって、托鉢で家の前に立って、お米やお金を
頂き、家では食えない者も遍路では食べる事が出来た。今ではそうはいかない、四〜五十日
以上の時間と毎日の宿泊代や食事などの経費、それに健康な身体が揃わないと歩き遍路は
出来ません。贅沢な、幸せな事です」

最初の愛想の悪さは消え、にこやかに話してくれた。そして古岩屋荘への遍路道について教え
てくれた。

計画変更を悔いて沈んでいた気持ちが、一挙に回復して良い気持ちになり、古岩屋荘への遍
路道へ歩き出した。

順打ちで回ることが良いことでも何でもないが、心変わりで結果的に順打ちになった。

こうなったら八十八番迄、順打ちで行こうと言う気持ちになった。

岩屋寺への途中にある国民宿舎古岩屋荘へは四時前に着いた。

設備も立派な宿舎で、沸かし湯だが温泉もあるようだ、疲れも取れるだろう。

明日から三連休になる。フロントで聞くと、

「明日から全館満員で、明日だったらお泊め出来なかったでしょう」

と言っていた。温暖な愛媛では、山の上とは云え、まだ紅葉も始まったばかりだが、三連休は
人出が多い様だ。

何はともあれ明日の予定を立て、早めに宿舎を決めておかないと大変だ。四十六番浄瑠璃寺
の直ぐ前にある、民宿長珍屋と言う珍しい名前の民宿に予約出来た。岩屋寺を打って長珍屋
迄およそ三十キロだ。国民宿舎の朝食は七時だからゆっくり出来る。遍路道もたっぷりある。
高原の秋を楽しもう。

今日の万歩計 四万八千百六十歩
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 十一月一日(土)

国民宿舎古岩屋荘〜第四十五番岩屋寺〜四十六番浄瑠璃寺

〜民宿長珍屋

七時三十分、荷物はフロントに預けて、岩屋寺に向かい出発した。背中に何もないので足も速
い。

車道を歩いていたら、二十八日明石寺で一緒になり、宇和パークホテルも同宿となった中年の
遍路が、岩屋寺の方向から歩いてきた。何処に泊まったかは知らないが、岩屋寺を打って今
から大宝寺へ行くそうだ。お互いの健闘を祈って別れた。足が痛そうな歩き方だった。

岩屋寺迄の四キロを四十分で着いた。岩屋寺の名の通り、岩山に階段が連なり、うねうねと続
いている。連休の関係か参詣客も多い。寒い朝だったが、汗だくで本堂に着いた。岩山が背後
に迫る、名前通りにすごみのある寺だった。

帰りは遍路道をと思ったが、通行止になっており、来た時と同じ道を古岩屋荘に帰ってきた。ロ
ビーで一休みして、一路浄瑠璃寺へ向かった。

国道を歩いていたら、急に乗用車が止まり、中年の女性がドアを開けて下り、こちらに向かっ
て、

「乗って行きませんか」

と言っている様だ。次々通っていく自動車に遮られて良く聞こえない。やがて道路を渡ってき
て、

「歩き遍路さんでも、乗車をお勧めして良いと聞きました。よろしければどうぞ」

と言う。主人が運転席で笑顔を向けている。

「今日までずっと歩いてきましたので、お志は有り難く頂きますが、ここで車に乗ると今日まで
が、なんだったかに成りますので、申し訳ありませんがどうぞ」

と言うと、財布を取り出し千円札を出し、

「何か召し上がって下さい」

と言って向こう側へ渡っていった。道路を隔てて礼をすると、主人が右手を挙げて走って行っ
た。今日は昨日と違い何も考えず元気な足取りで歩いており、同情を買う様な歩き方はしてい
ない筈だが、どうして乗車を勧められたのかなと考えたが、何も思い浮かばなかった。

国道の右にある喫茶二十番館と言う喫茶店から出てきた二人連れの若い女性が、私の二十
メートルほど先を歩き始めた。服装から見てハイキング・スタイル。彼女らの方が歩きが早く、
五十メートル位の間隔だったのに三坂峠の頂上付近で見失った。峠で少し休み、遍路道を下
っていると後ろから声がする。さっきの女性二人だった。三連休を利用して大阪から来ている
ようで、二泊三日で回れるところまで回るそうだ。今までも休みを利用して、徳島を振り出しに
ここまで来たそうだ。

「レディーファーストですからどうぞ」

と言って細い道を譲った。彼女たちの方が身軽で早い。

四十六番札所浄瑠璃寺を打って長珍屋の玄関に入った。

長珍屋は民宿と言うよりは新しいホテルの佇まい。

「昨日予約した大村です」

と言うと、ノートを出して調べている。待っていると、予約してない客が来たが満室ですと断られ
ている。心配になってきた。 調べても解らないらしく、ノートを持って奥に入っていった。今度は
おかみさんが出てきて、

「申し訳ありませんが支店の予約になっています。五百メートルほど先ですので、車でお送りし
ます」

と言った。

「車は駄目!」

と即座に云った。

エッ?と言う顔をしたので、

「車で行くと歩きに成らない」

と断った。

「そうですか…」

と言いながら道筋を説明。中学校の前というので歩き始めた。ものの百メートルも行かない所
で、先程のおかみさんを乗せた車が追い越していった。

ああ俺は何と頑固なんだ!昨日から今日にかけて、歩き遍路にこだわるる事が続いている。
相手から見れば何と頑固な「ぢぢい」と思っているだろう。

支店は真新しい建物だった。部屋に案内されて入ると三畳一間、まるで「神田川」の世界だ。ク
ーラーと有料テレビが付いている。洗濯も有料で洗剤はフロントに小袋入りで売っている。

年輩者の団体が入っていて賑やかだ。風呂は広くて美しい。六十五歳と七十二歳の二人と一
緒に入った。一番から通しで回っている事に感心していた。一番から通しで回っている人は本
当に少ない。昨日の住職夫人ではないが、時間と健康と経済に恵まれなければ実現できない
贅沢な旅。二人にも云われた、

「一人で大変でしょう、凄いですねー」

と、会う人が皆そう言うが、本人は凄いとも一人で寂しいとも全く思わない。本当に有り難い楽
しい感激の旅と思っているので、答えるのに困る。これだけは経験しないと、その良さは分から
ないようだ。

万歩計 未記入
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 十一月二日(日)

民宿長珍屋〜第四十七番八坂寺から四十八番西林寺〜四十九番浄土寺
〜五十番繁多寺〜五十一番石手寺〜五十二番太山寺〜民宿上松

六時四十分。昨夜食堂で同席した人と、ほぼ前後して出発した。フロントの人が、

「次は左へ真っ直ぐですよ」

と言われたとおりに進むうち、どうも変な感じがする。すぐ後ろから来ている彼は、

「真っ直ぐです」

と言っている。西林寺方向の矢印は出ていたが、その方向ですぐ側にある筈の四十七番八坂
寺への標示が全くない。十五分も歩いて地図を出して見ると、どうしても間違っているようなの
で彼に云うが、彼は少しも感じていない様子。石油スタンドにさし掛かり、道路を隔てて大きな
声で聞くと、反対だと言っている。出発した民宿を少し引き返してすぐの所だという。一緒に居
た彼は、

「八坂寺を打ってなかったのですか」

と吃驚した顔。

「昨日お参りしているとばかり思っていて、申し訳ない」

と平謝りしている。

「フロントで八坂寺と言って聞けば良かったのですよ。いやいや」

と言いながら急いで引き返した。彼には関係なく、時間が惜しい。引き返して八坂寺を打ち、遍
路道に出ると松山市を遙かに見ながらの、長閑な田舎道。これで良かったのだと慰めながら
歩いた。

その内これは、

「今日、松山へ泊まれ」

のサインかも知れない。漱石の坊ちゃん、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に出てくる子規や
秋山兄弟の生まれた町、日銀支店長で最も人気の高いと言われる町、道後温泉、松山城。と
幾らでもある魅力ある町。

今春突然心筋梗塞で亡くなった同期の蓬田君が松山支店長で私が鹿児島支店長の時、鹿児
島に来たことなどを思い出した。

そうしよう!何処かで早く予約電話をしよう。そうして早めに着いて今まで一度もしなかった観
光も一日くらい良いではないか。と楽しみを膨らました。

四十八番西林寺、四十九番浄土寺と急いで廻り、五十番繁多寺を打って石手寺に向かう途
中、電話ボックスで先ずビジネスホテル道後に電話した。しかし満室ですと断られた。食事は
外でする方が良いと思ってビジネスホテルから架けた。何か嫌な予感がした。四国遍路と宿泊
施設一覧表にずらりと並んでいるホテル、旅館、果ては郵政、学校共済など公共施設にも電
話したが、

「今日、明日は満室です」

と全部断られた。

連休の中日で一年中でも最も行楽に適した季節と来ている、もう駄目だ!。ガッカリしたが、そ
れより今日泊まれるところを、何処でも良いから確保しなければと、観光気分は一気に消し飛
んだ。

ちょっときついが、歩くには限度と思われるの距離で、松山の西の外れに近い五十三番円明
寺の前の民宿上松へ電話したら、

「どうぞ、どうぞ」

の声にほっとした。

さてこうなれば急いで行かないと日暮れ迄に民宿に着けない。石手寺は今までの寺と違い、連
休も手伝ってか凄い人出だ。急いでいたがそれでも門の側で、花で飾ったような船があるので
聞くと、竹の串に付いている色紙に願い事を書いて、船の形をした藁に指すと願いが叶うと言
う、多くの人が書いているので私も百円玉を出して遍路の結願を祈った。受付の人が、

「お遍路さん良いことを教えて上げよう」

と言って横の方に私を誘い、

「ここから見てご覧なさい」

と五重の塔の屋根の一角を指すので、よく見ると弘法大師の銅像の顔が見える。大きな像らし
いが屋根の間に小さく見えている。

「この場所を知っている人は少ないんですよ、何十回もお遍路した人も知らなかった」

と言って自分の席に戻っていった。せっかくの親切にお礼を言い、写真を撮って本堂に向かっ
た。

今日は蓬田君の為にお経を上げようと思っていたので、特に丁寧に般若心経を読んだ。きっと
聞いてくれていたと思う。

さて急がねば、十一月八日(土)は下関西高の同期生のゴルフコンペが千葉県の鶴舞CCで予
定されている。遍路行脚を急に決めて、幹事の蓮君に平謝りして出てきた。何かしなければと
思っていたので、石手寺のお守りを送ってやろうと、優勝、準優勝、BB賞にと三個買った。参
道のうどん屋で、狐うどんを一杯かきこみ、すぐスタートした。色々考えながら進んでいると、

「遍路さん遍路さん」

の呼び声。振り返って見ると、五十〜六十歳代の女性。

「道が違いますよ、引き返して信号を左に行きなさい。私は十六回巡拝しました。ここは良く間
違う所です。少し待っていて下さい、咽を潤すために、みかんを少し持ってきますから」

と路地を入っていった。すぐ出てくると、スーパーのポリ袋に、みかんがたくさん入っている。

「こんなにたくさん」

と言うと、

「道々食べれば良いじゃないの」

と無理やりに渡して、

「お急ぎでしょうからどうぞ」

と遍路の気持ちを良く知っている。二・三度振り返って頭を下げながら急いだ。

五十二番札所太山寺に着いた時にはもう四時を過ぎていた。納経をすましたのが四時三十三
分。

随分急いだが、五十三番円明寺に着いたのは、五時を五分過ぎていた。寺には誰も居ず、納
経所も閉まって居たので、お参りは明日となる。納経所は朝七時からしか開かないので、明日
はゆっくりするしかない。門前の民宿に入り、

「ああ疲れた」

と靴紐を解いていると、後ろで、

「あれ!」

と言う声。振り返ると、長珍屋を出て途中で別れた彼だ。

「ここまで歩いて来たんですか、大変だったでしょう、朝は申し訳ない。私も一緒に引き返して、
教えて上げようと悔やんで居たんですよ」

と本当に申し訳無さそうに話すので、

「いやいやとんでも無い、かえって色々あって思い出になりました」

と言いながら、再会を祝って握手した。彼はもう風呂、洗濯も済ませ、夕食に着こうとしている。
すぐ風呂に入り、洗濯物を洗濯機に入れ、食堂に行き、ビールを注文した。

彼は元皇宮警察で二十年ほど勤務したと云う。昭和天皇の警護も四年間したそうだ。その後
大阪の北浜に定年までいたと云う。

「私は兜町です、株屋ですよ」

と言うと、そうですかと益々親近感。彼は六十五歳だが私より若く見える。明朝六時七分の列
車で今治に行き、出来るだけのお寺を打ち、徳島に帰ると云っていた。夕食を終わったころ、
昨日途中で出会った、若い女性二人が入ってきた。

「がんばったね」

とねぎらうと、途中で道を間違えてこんなに遅くなったと言っていた。私が間違えて教えて貰っ
た所かも知れない。彼女達も明日は大阪へ帰るそうだ。いろんな人に会っては別れる、それぞ
れの生活をしながらこうして遍路を続ける人がたくさんいる。通して歩ける身の幸せを再び三
度、感じるこの頃だ。

今日の万歩計 五万千三十九歩
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 十一月三日(月)

民宿上松〜第五十三番円明寺〜ビジネスホテルスガノヤ

文化の日。五時、上原さんが起きて顔を洗ったりしている様な音。うつら、うつらとしているう
ち、腕時計のアラームが、チ・チ・チ…と鳴る。今日はゆっくりだから五時半だ。顔を洗いに出
ると、もう上原さんの部屋は暗い。昨夜挨拶しているのでもう良い。六時に身支度をして食堂に
行き朝食。多少便秘気味で昨日薬局で買った緩下剤を飲んでいたので、トイレもスムースで気
持ちが良い。六時三十五分、寺はすぐ目の前だが、お参りして納経すれば調度良いと思い、
支払いを済ませて出掛けた。

寺の境内は、掃除をしている老夫婦以外に人影はない。本堂、大師堂でロウソク、線香、お経
とお参りを済ませ、写真を撮ろうとするとフイルムが終了。入れ替えをしているが上手く行かな
い。

コニカさんには悪いが、今終了したフイルムも入れ替えの時、装着がスムースでなく、おまけに
自動巻き取りで、何か変な音がその都度していた。今までの富士フイルムでは一切なかった
現象だ。今日も全く同じで、昨日より悪い、何度も入れ替えを繰り返しているうち、七時直前に
なると、数人の人が突然、納経所の方に向かって、小走りに来ている。遅れては大変だと、彼
らより一歩先に納経所に入った。納経の始まりを待つ間に見ると、一人で数冊の納経帳を持っ
ている。私が納経を終わり例によって、掛け軸の墨を乾かしている間に彼らの納経が終わり、
見ていると急いで駐車場に向かい、二台の自動車に分乗すると、スピードを上げて走り去っ
た。

再び掃除の老夫婦と私だけになった。フイルムがやっと収まり、写真を撮っていると、掃除の
おばあちゃんが、

「あの人達は何ですか、お参りもしないで、近頃の若い人は、お参りなんか良いんだと言って、
お印だけ貰って帰る人が多いですよ。何の為に来てるんですかねー」

と憤懣やるかたないと云った口振りで私に話した。

「おばあちゃん若くはないよ、あの連中は」

と言いながら無性に腹が立った。

道は国道一本の単調な歩き。トラック、乗用車、行楽客も多いようだ。十時頃道端の小さなほ
かほか亭で、巻き鮨とお稲荷さんの入った助六弁当を四百円で買う。お店の人が、

「歩きですか、大変ですね」

といつもの問いかけ。

「いや楽しみです」

の会話。

「少し休もうかな」

と言ってザックを下ろし始めたら、

「海岸で休んで歩くと気持ちいいですよ、ずっと国道に沿って道が有りますから」

と教えてくれた。言われた通りに行ってみると、コンクリートの護岸壁の内側が二メートル幅の
歩道になっており、何人かの人が散歩をしている。岸壁に腰を掛けてみかんを食べながら休ん
でいると、年輩のおじいさんが近寄ってきて、

「歩いているのかね、感心だね」

からいつもの会話になる。まるで挨拶の様になった。

遠くの島の近くに見える船は、太刀魚を釣っている船だと説明してくれた。 

岸壁に沿って進んで行くと、ゴルフクラブを持った中年の人が、

「その先は港になっているから、ここで下りて港を回って、あの先に出ると又ずっと続いてます
から」

とアドバイスしてくれた。

「やってますね」

と言ってゴルフスイングの真似をすると、

「連休で大阪から帰って来て、こちらではゴルフはしません。ここから見る瀬戸内海の眺めは
最高でしょう!こうやって眺めるのが大好きなんですよ」とそれは良い笑顔だった。

まさに典型的な瀬戸内海の眺め。春ではないが、

《春の海 ひねもすのたり のたりかな》

がピッタリ当てはまる情景だった。目の前に鹿島の国民宿舎が見え連絡船の船着き場で、歩
道は終わった。又車の行き交う国道だ。

途端に荷物が重くなり、肩が痛い、足が重い。海岸に突き出た食堂の近くで、助六弁当を出し
て昼食、近くで中学生らしい二人がお父さんに教えられて、釣りをしている。小さな魚が良く釣
れる。昼食後は何時も決まって急に足が重くなる。特に今日のように唯歩くだけで寺もない日
は特にそうだ。

暫く歩いているうち、ふと気付くと道沿いに瓦屋だけが軒を連ねている、それも一軒や二軒で
はない、菊間瓦と言えば有名な瓦だそうだ。

今治に近づき宿まで四キロ、大西町に入ったあたりから、国道と別れて旧道の遍路道、小さな
お堂、酒屋、雑貨屋、煙草屋、食品店、散髪屋、電気屋と軒を連ね、民家も軒先の低い旧い
家が多い。トラックの音もなく、人通りも殆どない。所々で畑や、田んぼが現れる。

「ああいい景色だ」

とほっとする。

後ろから、

「遍路さん遍路さん」

の声がする。振り向くと、老婆が小さな乳母車を押しながら、

「足が速いからやっと着いてきた」

と言って乳母車の中から財布をとりだし、千円札を取り出しながら、

「お寺で賽銭にでもして下さい」

と渡してくれ、両手を合わせて南無大師遍照金剛と唱え始めた。慌てて数珠を持って、南無大
師遍照金剛、々、と唱え、

「おばあちゃんは幾つになられましたか」

と聞くと、

「八十二歳でもう駄目、どうぞご無事で」

と歩き始めた。

「それではこれで」

とおばあちゃんの背中に手を当てて別れた。

不思議に肩の痛みも、足の痛みも皆忘れている。

又国道に出ると、まるで条件反射のように、荷物が肩に食い込み重い。でも四時を回り日が傾
くと俄然頑張りが出てくる。やっとホテルを見つけて入る。薄暗いカウンターで住所氏名を書い
ていると、

「昨日まで一杯だったんですよ。今日はお宅だけ。明日からは又ドックの人達が来るんですよ」

と言っている。一人だけだから、風呂、洗濯も自由。夕食は一階の小さなレストランで作ってく
れた。

明日の予定は立っていない、明後日行くことになる難所の横峰寺はどのように打てば良いの
か、ホテルの人に聞いても何も知らない。まあ明日、明後日の泊まりは、途中の寺で聞いてか
らにしよう。

天気予報を見ようとして、テレビにコインを入れるが画面が出てこない。続いて百円入れたが
やはり何の反応もない。フロントに電話すると若い主人が来て、色々やってもテレビは映らな
い。

「隣の部屋のテレビと取り替えます」

と言うので、

「部屋を変わって良いよ」

と言ったが、隣の部屋のテレビを持ってきて取り替えた。二百円を返して貰い無料で天気予報
を見ることが出来た。ホテルに入る前に見つけて置いた、焼きたてパンと書いてあるパン屋に
行き明日の朝・昼の用意をしておいた。

今日の万歩計 五万千五百四歩
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 十一月四日(火)

ビジネスホテルスガノヤ〜第五十四番延命寺〜五十五番

南光坊〜五十六番泰山寺〜五十七番栄福寺〜五十八番

仙遊寺〜五十九番国分寺〜民宿ビジハウス国安

六時十分出発。奥さんが玄関で見送ってくれた。

五十四番延命寺は七時過ぎに打つ。

五十五番南光坊への道で今治北高校を過ぎ市街地に来て、何時も町中はわかりにくいので、
キョロキョロと見回していたら、通勤姿の中で普段着を着た中年の男性が、

「どちらへお出での予定ですか」

と聞いてくれた。

「南光坊はどの方向でしょうか」

と聞くと。

「散歩しているから一緒に行きましょう」

と言って歩き出した。

「どちらから」

と例により一連の質問、応答があり、

「定年になり区切りの遍路です」

というと。

「私も退職しました」

と言う。

年齢から見ても定年退職ではない事は明白だ。体つき、歩き方、言葉遣いなどから、何処か
病気だなと感じるので話題を変えて、

「今治北高の所でお城が見えましたが、あれが今治城ですか」

と聞くと、

「あれは高利貸しが建てたもので、今治城ではありません。今治城はこの先で、あの城は沢山
の人を泣かせた城ですよ」

と言っているうちに南光坊のそばに来て、

「此処ですから」

と言って引き返していった。

この寺はのっぺりと平地にあり他の札所と雰囲気が違う。納経所で今日から明日の行程につ
いて聞こうと思っていたが、団体客が多く聞けなかった。

五十六番泰山寺では奥さんが納経帳に記帳してくれたが、横峰寺へのルートについてはあま
り解らない。店のおじさんに聞こうと思ってローソクの補充を買い、尋ねたがこれも先の事はよ
く解らない。もう少し近くならないと解らない様だ。でも難所と言われる横峰寺への一般的なル
ートくらいは、札所の人が知らない筈がないと思うが、歩いている者だけの悩みなのかも知れ
ない。自動車なら、今治市内、東予市内、横峰を越えれば西条市内と幾らでも宿泊施設はあ
る。だが歩く者には、自分の体力、天候、距離から自ずと限度がある。要は横峰寺に登るに
は、最低何処まで今日行っておけば良いかを知りたいのだ。

五十七番栄福寺では、住職が納経帳へ記帳していた。団体の責任者と思われる人が、大量
の納経帳や法衣などを持ち込み、顔なじみらしく話している。

「大僧正さん直々ですか」

と言うと、

「住職がこれをするのは珍しいからなあ」

と笑っている。

年齢を重ね、修行を重ねた人から発散される独特の笑顔のように思われる、魅力的な笑顔だ
った。一通り終わり、私の帳面と軸を書きながら、

「車ですか」

と聞く。

「歩いています」

と答えた。

「今日で何日ですか」

と聞くので、

「十月三日から丁度三十三日目です」

と答えた。

横峰への歩き方を聞くと、先程までの態度や言葉も変わり、

「まだ泊まるところを決めてないなら、五十九番国分寺から出来るだけ足を延ばして、東予市
迄行っておくように」

とアドバイスしてくれた。

「でも此処からだいぶあるよ、がんばらねば」

と言い、仙遊寺への道を細かく教えて貰った。

「がんばって下さい」

の言葉に送られて、非常に良い気持ちで納経所を後にした。境内の公衆電話で、東予市のビ
ジハウス国安という民宿に電話を入れ予約した。

五十八番仙遊寺は今まで通り町の中にあると思っていたらとんでも無い。遍路道はどんどん山
に上がっていく。汗だくで登ると、やがて車道に出た。車道を登り駐車場に着く。「車は山上にも
駐車場あ」りの標示がある。すぐ先に仁王門、車道は右上方に続いている。見事な仁王門を
はいるとすぐ登り坂。参道だからそんなに急な坂道ではないと思っていると、これが急な階段
の連続でやっとの思いで登り、団体客の終わった後でお参りし、納経所に汗だくのまま行っ
た。

若い僧が、

「歩きですか、今日は暑いでしょう、じっとしていると丁度よい気候ですが歩く人には暑いでしょ
うね」

などと話す。

仁王門からの石段などよく整備されており、そのことを話すと、

「本当はコンクリートなどは使わず、昔のままの石段で維持したいが手入れをする人手がなく、
雨でくずれたりするとどうにもならないので今のようにしています。昔は各寺には必ず、寺男が
いて、毎日寺の維持に当たっていたが、今もうそんな事は到底出来ません、ですから不本意だ
がコンクリートで固めるんです」

と残念そうに話していた。

納経所の後ろの窓には見事な景色が広がっていた。既に一時半、これから国分寺まで六キロ
強、国分寺から民宿まで十一キロ強、ぼやぼや出来ない。遍路道を下って国分寺へ急いだ。

国分寺の近くで郵便局を見つけ、連休で出せなかった、下関西高のゴルフコンペの賞品として
買った石手寺のお守りを、郵パックで東京中目黒の西村君宛に送っておいた。局の人も充分
着きますと言っていた。

国分寺の山門の前にある土産物店で、若い男が通る人にタオルを配っている。

「帰りに店によって下さい」

と言いながら、私にも手渡し、

「歩きですね、お接待するから帰りによって下さい」

と言っている。納経を済まして店の前を通りかかると、ちょうど団体客が入って、がやがややっ
ている。これ幸いと通り過ぎ、駐車場でトイレを使い、

「さあ急ごう」

と歩き始めた。すると団体客に付いてきた若い男が、

「歩きの遍路さん、アイスクリームをお接待するから、寄っていって下さい」

と言う。

商売気より本当にお接待なのだろうが、こちらは時間が惜しい。ぼやぼやすると日が暮れて、
六時になっても民宿に着けなくなりそうだ。

「急いでいるので」

と断って頭を下げて足早に出掛けた。彼は変な奴と思っただろう、そんな顔をしていた。

疲れた足だが、暗くなると嫌なので急いだ。

伊予桜井の駅の近くで今日の宿泊先を、横浜の自宅に電話した。最近は当日になって、宿舎
を予約する事が多くなり、ときどき連絡しない事がある。

妻に電話する時はどうしても、楽しいことより不満に思ったことや気に入らないことなど、どちら
かと言えば不満を漏らすことが多い。

今日もいつものように話したら、

「貴方はまだまだ修行が出来ていません」

と冗談混じりに言われた。

冗談混じりでも、これには参った。確かに、今日も栄福寺の住職に、今日で三十三日目に成り
ますと言ったが、多くの人の心からの親切を受けながら、此処まで歩いてきた。その都度、私
も人の為になることをしなければと思った。

だが女房と話すと、地が出てしまう。

「やっぱりまだ修行が足りないか」

と独り言を言いながら歩いた。

東予市に入っているが、ビジハウス国安と言う民宿が見つからない。もう日が暮れてしまった、
地図を出してもよく見えない。しかも街の中では、このへんろ地図では全く解らない。地図では
天狗屋本店の反対側にビジハウス国安がある筈だ。自転車で通りかかった人に、天狗屋本店
の場所を聞くと、少し来すぎているという。ビジハウス国安と言う民宿の事は知らなようだ。近く
の人も知らないような民宿だから、程度が解る。

左に見える日石のガソリンスタンドに行き聞くと、

「ビジホテル?ずっと向こうの国道筋のビジネスホテルではないの?」

と言っている。なんだか心細くなってきた。困っていたらもう一人の人が来て、

「それならこの先の信号を渡って少し行った方向で、見たような気がします」

と言う。気がするでは心許ないが、でも行ってみよう。

少し行っても見つからない。自動式の精米所で精米をしている年輩の人に聞くと。

「ああそれなら、ここを右に曲がって左に行くとすぐだよ」

と言う。

「ああ良かった」

と云われたとおりに行くと、またもや真っ暗。

修行の足りない身ではもう限界、

「えい!夜中までに着けばいい!」

と半ば自棄になって真っ暗な道を歩くと、

「あった!」

街灯の様な蛍光灯に小さな文字で、ビジハウス国安と書いてあった。自動車が置かれた納屋
のような所だ。入りかけたら突然電気が点いた。例の自動式のヤツだ。裏手に回ると、庭に二
階建ての建物がある。オヤジさんが出てきて、

「遅かったですね」

と言うので、

「分かり難くて困った。やっと見つけて来ました。これですね」

と二階建てを見上げると、

「あの食堂に夕食を用意してますので食べて下さい」

と言って風呂、トイレの説明をすると母屋に入ってしまった。

入り口を入ると其処は土間になっており、土間からすぐに階段が二階につながっている。その
横が風呂、土間には洗面所があり洗濯機が置いてある。

二階に上がり服装を解き、すぐ風呂、洗濯、食事、明日のルートの確認と宿泊予定地の選定、
日誌、と忙しい。

外では雨が降り出したようで雷も鳴っている。遅いので洗濯物も乾きそうにないのでドライヤー
で、靴下とズボンを乾かしながら、ああまたカッパか、と癒鬱になる。朝晴れていることを祈って
寝た。

今日の万歩計 五万五千九百七歩
戻る

 

 十一月五日(水)

ビジハウス国安〜第六十番横峰寺〜六十一番香園寺〜

六十二番宝寿寺〜六十三番吉祥寺〜湯の谷温泉

眼が覚めると外はやはり雨。土間には、下足がないので自分のシューズを履き顔を洗い食堂
に行ってみると、もう準備が出来ていた。誰がやっているのだろう、とにかく私一人のようだ。昨
夜到着した時、オヤジさんに会っただけだ。支払いなどはどうするのだろう。

六時過ぎ、まだ暗いがカッパを着用して母屋に行って声を掛けてみた。二三度呼ぶと、昨夜の
オヤジさんが出てきて、宿泊料は四千五百円ですと言う。六十番札所横峰寺へは、前の道を
行けば良いようだ。これが昔からの道路だと言っていた。道路へ出ようとしたら又電気がパッと
点いた。

一路横峰を目指して歩き始めた。市街地を通っていると丹原小学校の校門で小学生が三人揃
って、バインダーに挟んだ紙に何か記入している。

「お早うございます」

と一斉に挨拶するので、

「何をしているの」

と聞くと、

「挨拶の調査です」

と言う。

徳島、高知、松山などの大都市以外では、何処でも子供の挨拶に感激する。遙かな昔おなじ
様なことをやったような気がする。

まだ店が開いていないので、自動販売機でポカルスエットをペットボトルに満たし、缶コーヒーも
一個準備しておいた。田園地帯を通り、いよいよ山が迫って来た。左の川向こうに一軒店が開
いていた。入ってみたが弁当などの食べ物はない。キャラメルのような物を一個買い、あとはカ
ロリーメイトを食べればよい。昼満腹すると必ず後が辛い。

舗装道路が徐々に昇り坂になってくる。人家が絶えるとちょうど横浜の権太坂の様な坂道が
延々と続く。山に入って来ると、坂の勾配が益々急になる。一歩一歩踏みしめるように登って
いった。先の方に見える工事中のところが、遍路道へ入る分岐点だ。

左の山に向かって刻んである急な階段を上がると、例のお決まりの遍路道が始まる。ここまで
ふうふうと息を切らせて来たのに、これから二.一キロの山登りだ。山登りの前に、小雨が降っ
ているが、カッパの上着を取ってザックに掛けた。暑くて汗まみれだ。雨に多少濡れても同じ事
だ。

昨日、夜まで歩いたのが祟ってそのきついこと。急坂では、十歩歩いては休み、又十歩歩いて
は休みが続く。足が動かなくなるのだ。息が切れる。小雨は続いている。高度が上がって寒い
はずだが、汗が出る。息も絶え絶えに横峰の山門に着いた。濃い霧が立ちこめ十メートル先ま
でしか見えない。

ちょうど今年の七月京都の比叡山に登った(自動車で)時も同じような濃霧だったことを思い出
した。

時間は十二時半。山門にザックを下ろし、座り込んでカロリーメイトの昼食を摂り、缶コーヒー
を飲んでいた。自動車で来た人達と思うが、三人が来て、山門から下の遍路道を見て、

「下から此処までどれくらいあるのかなあ。あの人はこれを登ってきたんだよ」

と言っているのが聞こえる。少し誇らしい気持ちになる。

誰も居ない本堂、大師堂とゆっくりお参りして納経を済ますと、今度は汗が引き寒くなってき
た。今日の宿泊の予約を入れた。 

一覧表を見て少し先になるが六十四番前神寺の先の湯ノ谷温泉に電話して予約した。温泉と
言う文字が何とも魅力的だった。

遠い温泉を予約したので、今日も昼から長距離になった。

六十一番香園寺迄の九キロは、山中の遍路道で下りが続く。

実はこの時、下り四.二キロと思っていた、何を根拠にそう思ったか記憶にない。日記にも四.
二キロと書いていた。だから湯ノ谷温泉の文字に釣られて予約した時も、そんなに遠い所と思
っていなかった。下りも細い遍路道が延々と続く。場所によっては走るように下る。続けて下る
と膝がガクガクとして、足裏の摩擦も強く、足に対しては登りよりきつい。最初の頃はこの下り
で、マメを作ったものだ。四.二キロと思っていたので、時間的にどう見てももう香園寺が見え
て来る筈だ。だが全くの山中でそのけはいはない。一瞬歯長峠の三隣亡を思い出したが、今
日は遍路道の札が下がっていて、絶対に間違っていない。間違っていないと思っているから、
この時は地図を出して調べる事もしなかった。

もう日が傾き掛けているのだろう。三時を過ぎると急に薄暗くなる。まだ六十一番、六十二番、
六十三番と打って六十四番の前神寺の先まで行かねばならない。だんだん不安になり、後は
本当に必死で下りた。

六十一番香園寺を打ち、西条市に通じる国道を、六十二番宝寿寺、六十三番吉祥寺と打った
ら、もう五時になっていた。六十四番は諦めた。宿から引き返す事になるが、一キロもないので
朝打って行けばよい。

湯ノ谷温泉は確かに温泉だが、部屋、サービスは民宿以下だった。ただ硫黄の匂いのする温
泉は、疲れが取れるような気がする。

風呂から食堂に直行した。入り口の近くで四人、食事も終わり話している。大きな広間となって
おり、見渡すと隅のテレビの下に私のものらしい食事が並んでいる。テレビの真下なので、勝
手に皿を持ってテレビの見やすい場所へ移動していたら、味噌汁を盆に乗せておばさんが入
ってきて、

「あら済みませんお一人の方はこちらで食べて貰ったので」

と言っている。

「何処でも良いが、天気予報をみたいと思って」

と言うと、

「明日は天気ですよ」

と言いながら味噌汁を置いていった。

八時、洗濯機が空いた様なので洗濯を始めた。日記を書いて、洗濯物を乾燥機に入れ、もう
一風呂浴びて寝よう。明日は久しぶりに、七時朝食とゆっくりだ。足をゆっくりと休めよう。

今日の万歩計 五万七千七百六十五歩
戻る

 

 十一月六日(木)

湯ノ谷温泉〜第六十四番前神寺〜蔦廼屋旅館 

部屋も悪いしサービスも悪い、金儲け主義がぷんぷんするが、温泉は良かった。疲れが取
れ、特に足には良いようだ。

昨夜九時過ぎの二度目の風呂で、もんもん(入れ墨)のお兄さんが三人、兄貴分と見えるのが
サウナから出てくると、洗い場でゲーゲーと嘔吐をやりだした。飲み過ぎなんだろう。私を含め
て数人いたが、まさに傍若無人、全く他人は無視でやっている。他の人は見て見ぬ振りをして
いる。私はしっかり見ていたが、目が合うことは無かった。気持ちが悪いので早めに上がると、
彼らも上がった。 

脱衣所で若いのが、

「兄貴大丈夫ですか」

と言っている。兄貴は、

「飲み過ぎちゃったよ」

と言いながら、ふざけていた。それぞれ風呂上がりの入れ墨は見事なものだった。話しの内容
から近くの者の様で、客の年輩者とも話していた。こんなお兄さんが何時も来るような所はや
ばいなと思いながら、乾燥機の洗濯物を取り込んで部屋に帰った。

七時半出発。昨日納経できなかった前神寺へ一キロ弱だが逆戻りした。人は私を除いて一人
しか居ない。大師堂にローソクが一杯だった。もう団体客が来たのだ。奥の本堂に行くとローソ
クは一本も無い。大師堂は入り口近くにあり、本堂はかなり奥の方にある、一風変わった配置
になっている。団体の巡拝で大師堂だけで止めたのだ。全く忌々しい、似非巡礼ばかりだ。こ
んな事を言えば又女房に修行が足りないと言われそうだが、どうも納得出来ない。前神寺から
戻り、湯ノ谷温泉を過ぎると国道を隔てた旧道の遍路道が続く。

歩き始めると田んぼの中の道で、散歩中と思える人が

「お接待です」

と百円を出し、

「歩きですか、何日になりますか、凄いですね、毎日何キロですか、足は痛くないですか、靴は
重くないですか、じか足袋のようなのが良いのかなあ」

等何時も聞かれる事を色々と話した。そして道の説明をしてくれる。

今日は大体一本道で、先ず迷うような所はないが、有り難く教えて貰った。

少し行くと、今度は乗用車が停まり、中年の男性が出てきて、五百円(百円玉で)を出し、

「お接待です何かの足しにして下さい」

と渡された。そして、

「この道は宮崎さんの地図の道なんだよなあ、遍路さんがどうしてもこの道を通るから。本当は
江戸時代からある、向こうの道が本道なんですよ」(宮崎さんとは、へんろみち保存協力会で、
四国遍路ひとり歩き同行二人の著者、宮崎建樹氏のこと、私もこの地図をバイブルのように使
っている)

「この道はそれより前から有る道なんですよ」(それなら古い方が本当の遍路道と思うが、それ
は言わなかった)。

今度は車から、数枚の拓本を持って来て説明を始めた。約六十年間で二百八十回の巡拝を
続けたと言われる中務茂兵衛の建てた道標の拓本等、私の知らない遍路に関する色々な事
を話して貰った。別れに「四国遍路研究」第十二号をもらった。喜代吉栄徳さんと言う遍路の研
究をしている人のらしい。

彼が発行している「四国遍路研究」第十二号によると、遍路への接待について、このように書
いている。

《諸遍路への接待は、即ちお大師様への供養なのである。極端に言えば、こうした善意の心こ
そ、仏菩薩の本体なのである。供養とは自らが仏となる事である。「即身成仏」の言葉は、こう
した場面でも読み取れるのである》と。

二人で話している所へ、一人のおばあちゃんがやって来た。私の遍路姿を見て来たらしい。二
人の話しに割って入ってきた。

「私は二回まわった。西国と何とやらも、事故で頭を割り、今も一部が凹んでいる。その時お大
師さんが迎えに来てくれて助かった」

などなど、もう止まらない勢いで話す。

その時、私の腕時計がピ・ピ・ピと鳴った。喜代吉氏が、

「何時です?十時ですね、今日は老人会で話す様になってますのでこれで」

とおばあちゃんの話しを打ち切り車に乗った。私も、

「おばあちゃんお元気で」

と喜代吉氏にもお礼を言って別れた。

商店の前を通りかり、店頭にヤクルトがあったので五本パックを持って店の中に入り、支払い
をしようとしたら、其処に座っていたおばあちゃんが(客)五十円玉を出して、

「何かの足しにして下さい」

という。店の人も渡した二百円から百円を同じように手渡してくれた。今度は店の外にいた人
が二百円を持ってきいて渡しながら

「何処から来られましたか」

と聞くので

「神奈川県の横浜から」

と言うと、

「遠くからご苦労さん大変だね」

と一連の会話が続いた。

今日はどうしたことか、次々にお接待があると思いながら歩いていたら、どうやらまた道を間違
えているようだ。左手の方を見ながら歩いていたら、畑仕事をしていた人が、

「その先を左に行くと、遍路道に出るよ」

と聞きもしないのに教えてくれた。親切な事です。

少し行くと今度は、お婆ちゃんが私の通りかかるのを待つていたように五十円玉を渡して、

「ご無事にお参り下さい」

と手を合わせている。

「お婆ちゃんもお元気で」

とお礼を言う。昨日で毎日書いている日記のノートが終了した。小さな文具屋に入り、大学ノー
トをを買うと主人が、

「百円で良いよ、あとは接待します。お茶でもどうですか」

と湯飲みにお茶を入れてくれた。四方山話をしていたら、子供が二三人入ってきたのでお礼を
言って出掛けた。

ここは新居浜市の喜光寺商店街と言う所らしい。国領橋と言う橋に差し掛かり、オシッコをしよ
うと思い、渡りきった先を川の方に曲がろうとしていたら、自転車に乗った中年の女性がついて
きた。ビニール袋に入った蒸かし芋二個と

「これはあめ玉です」

と言って、箱を出して渡してくれた。

「こんなにたくさん要りませんから、一つだけ下さい」

いうと。目の前で箱を開けて、中から数個とりだして手渡してくれた。色々歩き遍路の事を聞く
ので、出来る限り丁寧に答えた。

「この辺の人は皆遍路の事は詳しいでしょう」

と言うと、

「歩いてまわる人は少ないから」

と言っていた。

やがて国道と遍路道が合流して車の往来の激しい道を土居町に入ると、又旧道の遍路道に入
っていった。もう今日の宿舎である蔦廼屋(つたのや)に近い所で、三人の女性が話しをしてい
た(蔦の屋は昨夜電話で予約していた)。一人がみかんを持って行けと大きなポリ袋に一杯み
かんの入った袋を渡そうとする。

「こんなに頂いても入れるところが無いから」

と言うと、それではと頭陀袋に入るだけ入れて、後は手に持たせてくれた。

「横浜から来ている」

と言うと、遠くから大変ですねと笑顔で送ってくれた。

蔦廼屋は町の中心部にあった。こぢんまりとした旅館だが、昨夜と様変わり、バス、トイレつき
で、部屋も良い。料金の交渉はしていない。

内子町では同じ様な旅館で一万二千円だった。大体そんなものだろうと思っていた。夕食後、

「朝食は七時からです」

と言うので、

「それでは朝はおにぎりにして下さい」

とお願いして、今日精算して貰うことにした。税込みで七千四百五十五円と言う。おかみさんが
精算しながら、

「うちに泊まった人が、本を送ってくれました。この人もそうですが、どうして遍路の旅をするん
ですか、しかも全部歩いて」

と聞かれた。

「おかみさんが旅行に行くとか、好きなことに打ち込むのと同じと思います」

「登山家が山に登る。サッカーの選手が死ぬほど走り回る。どうしてかと言われても、それぞれ
皆違い、同じ答えはないと思います」

「高野山の修行僧は修行の為に遍路すると思いますが、私などは別に信心している訳でもな
い。だが歩いた後の、特に苦しい歩きの後の、巡礼地でのあの落ち着いた、満たされた様な
気持ち。この快感は、経験するとたまらない魅力です」。

「友人にも、虜になりそうとハガキを出したが、本当に虜になります」

「それに決して裕福では無い人々が、心温まるお接待をしてくれる。見返りを求めない本当の
接待に出合うと、人の心の温かさが解ります。こんな経験は今まで無かった。母親が子供に対
して与える無償の愛情と同じだと思います。最初は経験者の書いた本を読んで、四国を歩いて
みたいと言う単純な動機で出掛けて来ましたが、歩いてみて初めてその魅力がはっきりと解り
ました」

また、

「どうして接待は断ってはいけないと言うのですかね」

と聞くので。

「遍路は同行二人でお大師さまと二人で歩いていると言われています。接待はその人ではな
く、お大師さまへの接待と解釈されている事を知りました。今日もここへ来る途中で、遍路道の
研究をしている人に教わりましたが、供養することで仏になれる、即身成仏の空海の思想が生
きているのだそうです。そのような善意のお接待を断られると、きっと惨めな気持ちになると思
いますよ。本当に親切に人に接したのに、素っ気なくされるのと同じように。だから有り難く頂く
のが良いと思うようになりました」

今日は本当に心温まる日だった。明日は三角寺を打って最後の難所雲辺寺への登り口に近
い民宿岡田を予約した。

今日の万歩計 四万五千百六十九歩
戻る

 

 十一月七日(金)

蔦廼家旅館〜第六十五番三角寺〜民宿岡田 

朝食なしでおにぎりをお願いしていたら、フロントに、手紙付きのおにぎりのパックに、「ジュー
スでも飲んで下さい」と、小銭を包んでセロテープで張り付けてあった。

手紙には、

《お早うございます。昨夜はゆっくりお休みになれましたでしょうか。体調もとても良好な様子、
どうぞ、最後までお元気でお過ごし下さいますように。早朝にて、お見送り失礼いたしますが、
お元気で。ありがとうございました。つたのや》

と書いてあった。

何という心使いだろう。感謝の気持ちで一杯になりながら、誰も居ないフロントに一礼して、六
十五番三角寺に向かった。次の雲辺寺に気を取られて調べていなかったが、三角寺も山の
上、結構きつい登り坂が続いた。高度が上がるに従い、景色の良い遍路道を歩く。

寺では、かなり行儀の悪い団体と出合った。門前に一軒だけある店に入り、蒸かし芋を買っ
て、店の前の台に座って食べながら、店の人に、雲辺寺へ行く道を聞くと、殆どの人は少し引
き返した所から、下って行き三角寺口を回って行くとのこと。

山を下る途中、遙か彼方の山の上に、白い物が見えてきた。今日は雲辺寺の麓の民宿岡田
まで行く予定。まさかあんなに遠い山ではないだろう。マイクロウエーブのパラポラアンテナだ
ろう。と思いながら下りた。それでも気になり、小さな村落で車から出てきた人に、

「あの遠くに見える白い物は何ですか」

と聞くと、

「あれは雲辺寺のロープウエイです」

と言った。

「エッ、あんなに遠いの」

と驚くと、

「今日はもう無理ですよ。歩く人は佐野駅の近くの民宿に泊まってから、登っている様ですよ」

と言う。

「私もその民宿に今日は泊まりますが、それにしても、あの山の近くまで歩くんですね」

と言うと、

「ちょっとあるねー、頑張って下さい」

と励まされた。それにしてもあんなに遠くまで、俺は明日行くのかと信じられない気持ちになっ
た。

民宿岡田には、四時前に着いた。随分足も強くなってきたなと思う。入り口が開いているので、
中に入り声を掛けるが、返事がない。民宿と母屋が別れている、すぐ側の広場で、老人がゲー
トボールをしている。大会のようだ。暫く見ていたら、民宿の人が入り口に立っていたので、

「大村ですがお世話になります」

と私も入っていった。

「風呂が沸いているので、入りなさい」

と言う。

泊まり客は私だけかと聞くと、遍路は一人だが、工事の人が三人泊まっているそうだ。

夕食時、主人に雲辺寺迄、どれくらいで行けるかと聞くと、

「普通の足で二時間半だろう」

と言う。思っていたより短時間なので、ちょっと拍子抜けした感じ。遅くとも三時間あれば、充分
着くだろう。観音寺迄足が伸ばせる。奥さんも、

「観音寺迄なら大丈夫行けますよ」

と言って、

「昨日も横浜から来た人が、若松屋旅館を予約していましたよ」

と言うので、

「本田さんでしょう」

と言うと、

「本田さんだ」

と言う。下之加江の安宿旅館で別れた時、二日のハンディとなっていたが、一日遅れと追いつ
いてきていた。もう逢えることは無いと思っていたが、ひょっとすると何処かで、逢えるかも知れ
ないと楽しみになって来た。若松屋旅館は奥さんが時々紹介するらしく、先日も若松屋の奥さ
んから、お礼の電話があったそうだ。早速電話して予約した。主人も、奥さんも歩き遍路に理
解のある人で、親切だった。雲辺寺への道は、最近道路工事中の所があり、ルートが変わっ
ている様で、明朝出発の時、主人が教えてくれるそうだ。

今日の万歩計 五万三千六百六十九歩
愛媛県(伊予の国)菩提の道場 二十六札所は今日で終了

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 香川県(讃岐の国)涅槃の道場  
 11/9 11/10 11/11 11/12 11/13 11/14
   十一月八日〜十一月十四日まで

 

 十一月八日(土)

民宿岡田〜第六十六番雲辺寺〜六十七番大興寺〜六十八番

神恵寺〜六十九番観音寺〜若松屋旅館

六時半朝食、七時出発。主人が手書きの地図を持ってきて、道路工事中の場所を詳しく教え
てくれた。そして頼みもしなかったのに、おばちゃんが弁当を持たせてくれた。有り難くお礼を
言って出掛けた。夫婦で車道まで出て、私の姿が見えなくなるまで見送ってくれていた。

一キロほど歩くと、いよいよ雲辺寺への登り坂になってきた、主人の言ったとおり工事中の場
所に来た。かなり霧が出ている。霧の中を工事中の道路に出るまでは、間違っていなかった
が、どうしてか次の登り口が出てこない。

霧が少し晴れた時、崖の上から下を見ると、このまま行けば、最初の登り口の方に行ってしま
う。狐に摘まれた様な気持ちで、引き返して来ると、工事中の泥道から山に向かう細い道があ
り、其処には「雲辺寺へ」と書いた標識が立っていた。霧で、前ばかり見て歩き気がつかなかっ
たようだ。

雲辺寺への道は険しいものだった。焼山寺や横峰寺の道より距離は短いが、高度は一番高
い。と言うことは、急な坂の連続と言うことになる。十一月も半ばになり、しかも早朝で寒いが、
全身に汗が出る。少し平坦な場所を見つけて休んでいたら、朝日が横から射す中を、霧が流
れていき、じっと見ていると、霧の一粒一粒が太陽に透かして見えた。ちょっとオーバーかも知
れないが、少なくとも、粒子が流れている様子が見えた。 

最後の難所だと思うと、なんだか寂しい気持ちになるのはどうしてか。

急坂の苦しみをとことん味わって登ると、山の上とは思えないような、平坦な場所に出てきた。
畑がある、少し進むと右後方に、雲海が広がり、山々が島のように浮かんでいた。ザックを下
ろして夢中で、カメラのシャッターを押した。あと少しだ、そのまま進むと、見事な老木の立ち並
んだ道の奥に、山門が見えてきた。

民宿岡田の主人が言ったとおり二時間半強で到着した。今日は土曜日、昨日遠くから見えた
ロープウエイが雲辺寺まで通じており、善男、善女で賑わっている。納経所の所にある売店
に、背広姿の人がたくさんいて、お守りなどを買っていた。会議か何かで来た人達が、土曜日
を利用して来たのだろう、背広姿に懐かしさを感じた。

いつものようにザックを下ろして、お参りに行こうとしていたら、金剛杖を持ち、片手に大きな紙
袋を持ったおばさんが、

「歩きの遍路さん、賽銭袋をどうぞ」

と言って、布袋を渡してくれた。見ていると、他の法衣を着た人にも、次々と渡している。

「貰って良いの」

と聞くと、

「いいんですよお接待だから」

と言う。

納経所で納経を済ませ、本堂でお参りする時気付いた環袈裟紛失について、幾ら考えても思
いつかない。遍路を始めた初期に、忘れ物を防ぐため、持ち物に番号を付け、確認して出掛け
るようにしており、今朝も確認している。但し環袈裟と数珠は頭陀袋に入れていた。途中で地
図を取り出した時に落としたとしか思えない。仕方がないので、売店で聞くと

「ありますよ」

と言って三種類の環袈裟を持ってきた。霊山寺で揃えたのと比べ、いかにも安っぽく見えたの
で考えていたら、

「般若心経を書いたのがあります」

と言って奥から持ちだしてきた。紫地にお経が書いてある。これに決めた。あとお守りを三個買
い(これは衝動買い)、六十七番大興寺への遍路道を教えて貰い、ザックを背負って出発し
た。

遍路道の方向に向かっていたら、先程、賽銭袋をお接待してくれたオバチャンがいたので礼を
言うと。

「奥さんはいるの」

と聞くので、

「たった一人ですがいるよ」

とわざとふざけて答えた。笑いながらもう一つ取り出して手渡す。

「子供は?」

「娘がいるよ」

と言うと、

「娘さんに一つ」

「じゃー、これは孫にやろう」

と言うと、

「お孫さんにも一つ」

と合計四枚を渡された。いろんな端布れを利用して、一度に何十枚も作っては、こうして人に配
って喜んで頂いているそうだ。記念に写真を撮らせて貰い「お元気で」と別れた。

下りは早い。坂もなだらかだ。途中遍路道や遍路に関する解説文が書かれた掲示板のような
物が非常に多く見られた。

香川県の標示があり、もう香川県まで来たのかと、我ながら驚く。

民宿岡田と雲辺寺は徳島県だった。昨日から今日に掛け、愛媛県、徳島県、香川県と三県を
股に掛けて歩いた事になる。みかん畑を抜け、大興寺へあと二キロの所で昼食にしようと、み
かん畑の側に腰掛けようとして、例の鉄則を思い出した。

あと少し歩くと、良い場所が見つかるはずだ。

そう思って歩くと二分もしない内に、石碑と灯籠のあるこんもりとした格好の場所が現れた。

この現象は既に何度となくあり、実に不思議だった。

透明なパックの中に、おにぎり二個と沢庵に塩昆布で本当に美味しい弁当だ。朝、頼みもしな
いのに弁当を持たせて頂いたのは有り難かった。本当は昨夜おにぎりをお願いしようと思いつ
つ、忘れていたのだ。そのおにぎりも、梅干しを普通より多くと、頼むつもりだった。このおにぎ
りには小さな梅が二個入っていた。昼食はこれ以上多くては、あとが必ずだるくなる。少ないと
物足りない。おばちゃんは、やっぱり歩き遍路の事を知り抜いたベテランだ。観音寺の若松屋
に着いたら電話してお礼を言おう。大興寺を打ち、今日は若松屋旅館に行くだけだと余裕を持
って歩いた。

観音寺に入ったのが三時半。この調子だと六十八番六十九番と打てる。ザックを預けてと思っ
たが、そのまま六十八番神恵寺に向かった。四時に着きお参りしようとすると、上の本堂が六
十八番、下が六十九番観音寺と同じ境内にある。しかも納経所が同じ所で、六十八番六十九
番と二ヵ寺の納経が一カ所で済んだ。但しお経は、それぞれ本堂、大師堂と連続で四回。五時
前に若松屋旅館に着いた。真新しい立派な建物だ。

「涅槃の道場」香川県は今までの札所と違い観光地だ。寺の廻りに多くの旅館やホテルがあ
り、民宿のようないわゆる遍路宿は少ない。料金も若干高いようだ。「涅槃の道場」は現実世
界に近まっているようだ。

それに大窪寺で満願を果たし、霊山寺にお礼参りをしてと、その後の事まで考え始めている。
何かしら寂しい感じがわき起こってくる。もうあの焼山寺、鶴林寺、大龍寺、神峯寺、岩屋寺、
横峰寺、そして今日打った雲辺寺の、あの険しい遍路道は終わった。そえみみずへんろ道に
代表される山道も殆ど終わった。あとは大窪寺でどんな気持ちになるのか、霊山寺では、そし
て高野山では…。

風呂から上がり、明日の予約を善通寺前の山本旅館に入れ、民宿岡田のおばちゃんに電話
した。雲辺寺は予定通り、二時間半で着いたこと、弁当のこと、おばちゃんは歩き遍路の事が
一番解っているとお礼を言うと、

「うちは遍路宿だからね」

と本当に喜んでくれた。明日は七時朝食とゆっくりだ。テレビではNHKで、津川雅彦がアルツ
ハイマー型痴呆症を熱演していた。

あれにだけはなりたくない。

今日の万歩計 四万三千六百七十七歩
戻る

 

 十一月九日(日)

若松屋旅館〜第七十番本山寺七十一番弥谷寺〜七十三番

出釈迦寺〜七十二番曼陀羅寺〜七十四番甲山寺〜七十五番

善通寺〜 山本旅館 

部屋は立派で、食事もリゾートホテル風に洗練されており、若い女性の好むようなスタイル。昨
夜おかみに民宿岡田のおばちゃんに紹介された事を告げると、何時もお世話になっていると、
恐縮気味に話していた。

だがその好印象も長くは続かなかった。九時半頃、床に着くまでは良かった。十一時頃、凄い
音に目を覚ました。

十月三日に巡拝に出発以来、夜中に目を覚ました事は、しま屋の一件以来一度もない。風呂
の水を落としているらしい。確か風呂は最上階にあり、私が入浴したときは、たった一人で広く
て綺麗な浴室を占領し、思う存分ゆったりとして、ご機嫌な風呂だった。その風呂水と思われる
水が、ゴーゴーと音を立てて流れている、ちょうど水洗トイレの水を流す時と同じあの音だ。そ
れも短時間ではない。イライラしていたら、一旦止まったが、暫くするとまたもや同じ音が始まっ
た。最終的に時計を見て覚えているのは、一時二十一分。眠れないので、地図を出してみた
り、荷物の整理をしたりしているうちに、好印象は、憎悪に変わっていった。

おかみの顔も服装も、見掛けだけだと。こんな音がする事を、知っているのだろうか。もし知っ
て居るのなら、この旅館はまだ新しいが、長くは続かないだろう。朝一階の食堂に行った時、
綺麗な和服に身を包んだおかみに、このことを忠告しようと思ったが、思っただけで止めた。

七時半に出発し七十番本山寺につくまでもやもやした気分が続いた。本山寺前のカメラ屋でフ
イルムを二本買った。

店の主人が、レンズの掃除をしましょうとカメラを取り、新しいフイルムを装填し、カメラの掃除
をしてくれた。おまけに古くて失礼だがと言いながら、絵はがきをお接待ですと出してくれた。

寝不足が祟ってか、身体がだるい。親切にされると昨夜の事を思い出してしまう。だが待てよ、
こんな事ばかり考えている事こそ、まだ修行が足りないのだ。

最初のうちは、疲れて一夜の宿がどんな所であろうと、有り難かったではないか。

本山寺の納経所。七十年輩の奥さんが、寺が古くなり、修理が大変だと話していた。本堂は国
宝で他も重要文化財に指定されており、なかなか思うように出来ないと話していた。

六文銭と書いてあるので、

「これは何ですか」

と聞くと、

「あの代に行くとき、三途の川を渡るときの船賃で長生きのお守り」

だそうだ。

「極楽に行くため大事に保管しておくと良い」

と言う。

千円で一つ買うことにした。六文銭と一緒に、

「こまいけど(小さいが)持って行きなさい」

と言ってみかんを五個と本山寺の手ぬぐいを一枚持たしてくれた。なんだか気が晴れてきた。

奥さんが、最後の難所と言っていた七十一番弥谷寺(いやだにじ)に近づくと、成る程、山の中
腹に有るようだ。長袖シャツだから、また汗まみれになるぞと思いつつ登った。車道を避けて旧
道を登って行ったら、左手に大きな休憩所と駐車場があり、大きな売店も有り日曜日とあって
沢山の人が車で来ていた。バスも数台並んでいる。

本堂のお参りを済ませ、大師堂を探すと、納経所と大師堂が同じ建物の中にあり、一旦靴を
脱いで上がるようになっている。面倒だが靴紐を解き、階段を上がっていくと、広い部屋の中
央が大師を祀った大師堂になっており、すぐ左手が納経所になっている。

納経所には、男が三人いるが丁度参拝客がとぎれて、私一人になっていた。ザックを下ろし
て、三人がすぐ側で見ている前なので、声を出してお経を読むのが照れくさい雰囲気の所へ、
三人の言葉から、住職夫人と思われる人が子供二人を連れて入ってきた。タクシーの運転手
の悪口を言っている。三人も、

「ちょうど昼飯時に、納経に客がどっと来た」

とか参拝者を物扱いにした言い方。毎日毎日同じ事をしていると、事務的になるのは致し方が
ないのかも知れないが、人の前では言ってはいけない言葉だ。この様な言葉をお寺で聞くと、

「この馬鹿野郎!」

とついつい思って、腹が立ってしまう。

急な参道を下っていく途中に、俳句茶屋と云う店があり、店の前に赤い毛氈を敷いた台が置い
てあり、そこでうどんを食べたり、甘酒を飲んだりしている。うどんを注文した。昔から続いてい
る店らしく、おばさんの客捌きも、堂に入ったものだ。

地図にある遍路道があるはずと、注意しながら歩いたが見当たらず、先程登った車道まで来
てしまった。俳句茶屋のおばさんに聞けば良かったのに、と悔やんだがもう遅い。嫌な気分だ
が、引き返して探すのはもっと嫌だ。

国道伝いに七十二番曼茶羅寺(まんだらじ)に向かった。どうもこの所、遍路マークの数が少な
い。道なりに進んで行くと、到着した寺は七十三番出釈迦寺だった。地図上でも七十二番曼茶
羅寺はすぐ側の筈。まあいいやと、初めての逆打ちとなった。

七十二番は出釈迦寺のすぐ右下にあった。寺に入ろうとしたら「此処は裏門お参りは正門に回
ってください」と大きな字で書いてある。自動車の連中は、どんどん裏門から入っているが、右
手に大きく曲がって正門から入った。

もう四時を回ろうとしている、急いで七十四番甲山寺を打ち善通寺へと急いだ。

善通寺には四時四十分に到着した。何しろ広いので大変だ、納経所の位置を確認してからと
思って納経所を見ると、納経帳の山と白衣を包んだ大きな風呂敷包みを前に、団体のオッチ
ャンが寺の者とペチャクチャ喋りながらやっている。その他にも五人ほど並んで待っており、私
の後ろにも三人ばかりの人が来た。これはもうどうにもならない。

今までの禁を破ってお参りの前に納経を済ませよう。どこかの住職夫人も、急ぐときは納経か
らしても良いと言っていたではないか(でもその時は、お参りを済ましてから納経をして下さいと
書いているではないかと、住職夫人に文句を言ったくせに)。

五時直前になると、寺の者が後ろの人に、

「納経所の扉を閉めてカーテンを引いて下さい」

と言っている。かなりの時間が掛かり、五時をとっくの昔に回った頃納経が終わった。外に出る
と向こうから、青年が急ぎ足でやってきて、納経所の扉を開けて中に入ったが、中から、

「今日はお終いです」

と断られていた。

昔は何時でも受け付けてくれたそうで、歩き遍路は朝暗いうちから夕方日が暮れても、納経す
る事が出来て、体力の許す限り足を伸ばすことが出来たそうだ。

しかし現在は、朝七時から夕方五時までと決まっており、その範囲内にお参りしなければなら
ず、自ずと限度が決まってしまう。広い境内を本堂、大師堂とお参りして、門前の山本屋に入っ
た。玄関で宿帳に記帳するとおかみさんが、

「今日で三日続いて横浜の人が、歩きで泊まる事になります」

と言う。

「昨日は本田さんでしょう」

と云うと。昨日泊まって食堂で、私の予約電話を聞いていて、

「追い付いてきたな」

と言っていたそうだ。

別に打ち合わせもしないのに、本田さんの後を同じ宿でぴったりと付いて来ている。もう一人の
横浜の人と言うのは、黒多君ではないかと思う。もし黒多君なら私より二日先になる。このまま
行けば三人が一日置きに結願することになる。

今日は、昨夜の睡眠不足でもう洗濯もしたくない、幸いバス、トイレ付きの部屋だったので、パ
ンツとシャツだけを手洗いするだけで済ませた。

今日の万歩計 四万四千二百八十五歩
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 十一月十日(月)

山本旅館〜第七十六番金倉寺〜七十七番道隆寺〜

七十八番郷照寺〜七十九番高照院天皇寺〜八十番国分寺〜

えびすや旅館

六時二十分朝食の案内。善通寺をもう一度見ておこう。

思い起こすと遥かな昔。戦後間もない頃、小学校の修学旅行で、米を持参して来たことがあ
る。確か金刀比羅宮のある琴平に宿泊したと思う。多度津、琴平、善通寺の地名は鮮明に覚
えている。金比羅宮の階段、お土産店、旅館で枕投げをしたことなどを覚えている。本当は昨
日琴平に泊まって、金比羅宮をお参りしてと思っていたが、それをすると、一日延びることにな
るし、スケジュールも難しくなる。一日や二日は何でもないと思いつつ、心は結願へ向かってい
る。今回は観光ではないのだといつものように慰めて、金比羅参りは止めることにしたのだ。
再び山本屋旅館の前を通り、長い商店街を通り抜けて七十六番金倉寺を打ち、多度津市に入
り七十七番道隆寺を済ませ七十八番郷照寺に着いた。

小高い丘の上にあり、見晴らしがよい。十月二日の日に小雨の中でよく見えなかったが、岡山
発十一時四十九分発の特急うずしお九号で通った瀬戸大橋が目の前にある。自動車が走り、
列車が時々通るのが見える。あれで来たのだなと感慨深く見ながら、コンビニで買った弁当を
食べる。

七十九番高照院天王寺は、崇徳上皇が崩御され、訃報を京へ奉問する間、上皇の柩を当寺
に安置したことから「天王寺」と称されたと言う。遍路道から神社の境内に入り、納経所が何処
にあるかよく判らない。寺の境内に座っていたおばちゃんが、

「納経所はあちらですよ」

と教えてくれた。

大師堂でお参りを済ませて、納経所の方へ向かっていたら、先程のおばちゃんが付いてきて、
百円玉のお接待。

「歩きですね、私は十四回廻りました。今日で何日?」

「三十九日になります」

「はやいねー」

「いや少し遅いと云われています」

と言いながら納経所へ入った。おばちゃんは納経が済むまで外で待っていたようだ。

次の八十番国分寺への道を聞くと、

「そこまで行くから」

と言って経験談を話しながら、七百メートル程先の分岐点まで来た。そして、

「この道を右へ、真っ直ぐ行くと国分寺の方向です」

と教えてくれて別れた。

国分寺は昨日と同じ時間帯、四時四十五分に着いた。今日も先ず納経からさせて貰った。国
分寺はさすがに天皇勅命の寺。往時の礎石が境内に残っている。裏手には、博物館のような
ものも有るようだ。何か堂々とした感じが残っている。            

えびすや旅館は門前のすぐ横にあった。風呂に入り、洗濯機に洗濯物を入れて居ると、

「御飯ですよ」

と呼びに来た。

「これが終わって」

と言うと、

「私がやってあげるから、早く食べて下さい」

と言う。スイッチボタンを押して食堂へ行った。

夕食は同宿五名と一緒、久しぶりに大勢でとった。二人は自動車で廻っている中年の夫婦、一
人は八十二歳のおじいちゃんでタクシーで廻っている。もう一人は、六十歳前と見える女性。主
人を亡くして三年経つが、その間インド、中国も旅行したらしく、この遍路も突然思い立ってき
た。歩きだが、バスを利用したり、お接待で車に乗せて貰ったり、親切に泊めて貰ったり、その
上石鎚山にも案内して貰ったとか、喋る喋る。四国の人は人がいいから、人の云うことを何で
も聞く、とか何時か一緒に歩いた人は、坂道でも待っていてくれたとか、切りがない。 

要は自分中心で本当はお接待してくれた人に迷惑を掛けているとしか思えないことを、自慢げ
に話している。どうもこの手の人は苦手だ。他の人も、辟易している様子、洗濯物のことを思い
出し、

「洗濯物を干しておかないと」

と言いながら立ち上がると、夫婦ずれも、

「そろそろ」

と言って立ち上がった。おじいちゃんはもう早く部屋に帰っていた。女性も、

「それでは休みましょうか」

と立ち上がった。おかみさんが、

「朝は六時半でよろしいですね」

と聞くので、

「お願いします」

と答えておいた。又、

「洗濯物は、部屋ではなく玄関前の物干し竿に干して下さい、部屋に干すと夜具がしめります
から」

とのことだったので、玄関前の物干しに干して置いた。

明日の八十一番白峰寺への道は地図で調べると、二キロ先から遍路道となり、遍路ころがし
と記入されている難所があるようだ。

昨日本山寺の奥さんが、弥谷寺が最後の難所と言っていたが、もう無いであろうと思っていた
急坂だ、なめてかかるといけない、

朝の内にしっかり歩いておこう。

今日の万歩計 四万八千四百十二歩
戻る
 

 

 十一月十一日(火)

えびすや旅館〜第八十一番白峰寺〜八十二番根香寺〜

八十三番一宮寺〜ビジネスホテルあずま

五時三十分、洗濯物を取り込みに玄関前に出た。寒い、当然まだ濡れている。ドライヤーでパ
ンツ、靴下、ズボンと乾かす。

今夜は高松のビジネスホテルだから、何の気兼ねもなく干せる。

六時半に朝食、これは驚いた。生卵と味噌汁だけだ。海苔が付いていたが、是だけではない
だろうと話しながら、魚か何かが出てくると思って待っていたが、何も出ない。お互いに顔を見
合わせながら皆黙って食べた。おかみも誰も出てこない。そう言えば夕食のおかずも少なかっ
た。支払いを済ませた五千八百円は確かに安いが、ちょっとひどいのでは無いか。

出掛けに、

「お世話になりました」

と奥に向かって声を掛けたが、奥の方で、

「どうも」

と云う声がしたが見送りもしない。修行の足りない身には腹が立つ。

「もう二度と此処には、泊まらないぞ」

と思いつつ出発した。

今日の遍路ころがしは、どんなものかと思いながら進む方向に、山が迫ってくる。助走は少な
く、いきなり山登りだ。

登り口の石碑に

《古今に類のない道》

とある。

「そんな大げさな」

と思って登り始めた。

焼山寺などと比べると、スケールは小さいが、急坂の連続で結構きつい。寒い朝だったが全身
が汗で濡れた。もう少しで頂上かと思う場所に、休憩所が設けてあった。絶景の場所だ。朝霧
に霞む平野が広がり、幾ら見ても飽きない景色だ。

絶景を見ながら、先程から腹具合が悪く、便意を模様している。お大師さんの像があるが、生
理現象はどうにもならない。

「お大師さんご免なさい」

とここで第二回目の野糞となった。

すっきりした気分で登り切った所に、案内板が立っており、白峰寺へ後四キロと書いてある。そ
んな筈がないと思いながら、再び遍路道に入ると、あと0.七キロの標示。あまりの格差に、地
図を出して見たら、四キロは車道の距離で、左から山を巻くように蛇行している。

遍路道を進んで行ったら、自衛隊の施設の中に入ってしまった。朝の体操をしていた。裏手に
道が有るのかと思って建物の裏手に廻っていたら体操をしている隊員がこちらを見ている。隊
長らしい人が、

「遍路道は少し引き返して左にありますよ」

と声を掛けてくれた。声の方向に頭を下げて引き返した。

八十一番白峰寺に着いた時、ちょうど霧が晴れて朝日が射していた。十二支の本尊が祀られ
ているようで、子年は一番上にあるはずだが、何処にあるか見付けられなかった。

白峰寺から先程の遍路道を引き返していたら、昨夜のおしゃべりおばさんがこちらに向かっ
て、坂を下りて来ている。荷物を持っていない。

「途中の地蔵さんの前に置いてきた」

と言っている。

「通ったら、猿に引かれてないか見ておいて下さい」

と言うので、

「ハイハイ」

と答えて別れようとすると又昨夜の続き、

「大村さん、旅がお好きのようだから、今度はネパールへお出でになったらいいですよ。私は何
処やら(不明)の菩提樹の木の下に、主人の遺髪を埋めてきた。最近日本の資本が入り開発
を始めていた。四国も人がよいから、あちこちで開発が進んでいる、反対がないから」

等と。私が日頃思っている事だ。なかなか良い事を言っている。宝塚から来ているようで、私も
学生時代、宝塚南口の叔父の家でお世話になったことがある事など話して「それでは」とやや
無理に別れた。

八十二番根香寺への道は、典型的な遍路道。山上にも拘わらず、枯れることのない井戸が保
存されていたり、次の札所までの丁数(一丁は約百九メートル)を刻んだ丁石と言う舟型の石
仏(地蔵菩薩像)などがある、古い遍路道をそのまま残している。

先程の女性は、どの地蔵さんの前に荷物を置いたのか、ついに見付けることは出来なかっ
た。

年輪を刻んだ遍路道を進んでいたら、前方に広場のようなところが開け、其処に中学生と思わ
れる男女が三十名くらい、丸太で出来たベンチに腰を下ろし、前で先生が大きな手振りで何か
話していた。近寄って見ると、全員がトレイニングパンツにシューズ姿で背中にリュックを背負
っている。先生は遍路道の説明をしていた。生徒が私の姿を認めて、先生の話を聞きながら、
こちらをキョロキョロと見る。少し引き下がって先生の話が終わるのを待った。

体育か、社会課の授業だろう。子供の時から毎日遍路姿を見ている上に、こうして遍路道の現
地に立って体験している。このクラスだけではなく、この地方の生徒は殆どが、郷土の遺産とし
て受け継いでいるのだろう。弘法大師誕生の地である善通寺を中心に、瀬戸内のこの地方は
特に大師信仰に篤い所なのだ。

ここ数日のお接待が異常に多いのが、証明しているように感じた。

遍路道を抜けると其処には、立派な休憩所があり、展望台も付いた大きな建物があった。五
色台スカイライン入り口と書いたあった。其処でも道路下の崖のような所から、先程の中学生
と同じスタイルの生徒が、先を争うように駆け上がってきた。同学年の生徒が、クラス別に来て
いるようだ。

再び遍路道に入り、一メートル幅の道を進んでいたら、今度は前方から又別の組がやってき
た。先頭に立っていた先生が、

「ほら遍路さんだぞ」

と言って、

「全員道を開けろ」

の一声で、約二十メートル位の長さで一斉に横になり道を開けてくれた。その前を本当に恐縮
しながら、面はゆい気持ちで、

「今日は、今日は、頑張れよ」

と言いながら通して貰った。生徒達も、

「がんばって」

と応援してくれる。何と言うすがすがしい気持ちなんだろう。 

思い入れの激しい性格が丸出しになり、日本の将来も捨てたものではないなどと、一人で良い
気分になって、根香寺へ足も軽やかに急いだ。

根香寺の巨大な草鞋が左右に掛けられた仁王門を入って行ったら、カメラに三脚を持った年
輩の人がいた。服装から見ても、写真撮影を趣味にしているのが判る。見事に紅葉した境内
を本堂の方向に進んでいたら、

「歩いてお参りですか」

と呼びかけてきた。一連の会話をして、

「この寺の紅葉は、八十八番大窪寺と二分する紅葉の名所ですよ。だからシャッターチャンス
をねらって、素人カメラマンが来る所です。貴方が明日か明後日に行く大窪寺もちょうど紅葉
の真っ盛りで、最高の時期と思いますよ」

と教えてくれた。納経を済ませ、もう一度境内の紅葉をしっかりと観賞して仁王門を出た。

白峰寺は坂出市だが、根香寺はもう高松市になっている。山頂から市街地を見下ろしながら
下って行った。高松西高校を過ぎJR鬼無駅のあたりから平地になり、民家と田んぼの入り混
じる、判りにくい道になってきた。地図と遍路マークに注意しながら一宮寺の近くに来た時、学
校帰りの小学生が、

「おじさん何処へ行ってるの?」

と問いかけながら付いてきた。

「一宮寺だよ」

「何処から来たの?」

「横浜から、知ってるか?」

「知ってるよ」

ザックの掛け軸を見て、

「これは何?鉄砲?」

「鉄砲じゃないよ、掛け軸だよ」

「掛け軸って何?」

「家に帰ってお父さんに掛け軸って何か聞いてみな、知ってるから」

「坊やはどこへ帰るんだ?」

「…まで」

「お寺の方か?」

「そう」

などと言いながら行くと一宮寺に到着した。

「それじゃな!」

と言うとまだ付いてくる。とうとう寺の中まで入ってきた。納経所前に来ると、そこで遊んでいた
子供達と一緒に遊び始めた。

本堂、大師堂、納経所と纏まっている。あとは高松の栗林公園前まで歩くだけだ。しかしもう四
時、日暮れが早くなっており気が焦る。

早朝のへんろころがしから、山道の連続で疲れが出てきた。淡々と歩いていたら、中年の女性
が、

「これを」

と言って五十円玉を出して、そのまま行ってしまった。

少し行ったら、岡食料店という店から、突然おばさんが出てきて、よもぎ餅(あんこ入り)二個と
三百円を出し、

「ご苦労さんですね」

といって、すぐ店に入った。店には数人の客がいた、頭を下げてお礼をし、ちょうどお腹も空い
ていたので餅を食べながら歩いた。

高松市街に入ると、もう日も暮れて地図が見えない。栗林公園前に来たがホテルの位置が判
らない。名前からして小さなビジネスホテルだと思う(ビジネスホテルあずま)。案の定、近くの
店で聞いても知らない。いつぞやもそうだったが、こんな時はガソリンスタンドが良いと思い出
し、スタンドで聞くと直ぐ判った。少し行きすぎていた。

ホテルに入り階下にある洗濯機を借りて洗濯。風呂に入ってトレパンにスポーツシャツ姿にな
り、すぐ横のロイヤルホストに夕食をとりに出掛けた。スパゲッティーの特売中とあるので、そ
れを注文した。スパゲティー、ガーッリック・トースト、イタリアン・サラダ、にビールの小、と今ま
での純日本食からオール片仮名の夕食。コーヒーのお代わりをして満タン。

明日は八十四番から八十七番長尾寺まで行き、門前のやなぎや旅館に泊まる予定で予約し
た。あと二日で結願となる。これで終わるのかと思うと、嬉しいより、なんだか淋しい気がしてな
らない。

今日根香寺を下りながら考えた。このまま行けば、大窪寺でちょうど四十二日目になる。

「何だ四十二(シニ)日か、あまり良くないな。何処かでゆっくりして、一日延ばそうかな」

と思っていた。

その時、今回の遍路に出発する前に読んだ、早坂暁の書いた「遍路国往還記」のあとがきを
思い出した。正確ではないが、四国は「死国」であり又「再生」の場所と書いてあった。今もう一
度その、あとがきを見てみると、

《四国が「死国」であり、そこへ行って死にたい場所であり、さらに重要なのは、そこで再び蘇生
したい「再生」の場所でもあるからだろう。平たく言えば、「遍路の国」となってしまうが、四国を
往来する人々は、命ぎりぎりの往還ぶりを見せている。又こうも書いている。往還する人々の
中には、詩人が多いのに驚いた。四国は「詩国」といわれているのも、あながち当て字だけの
遊びではないようだ》と書いている。

いやそうではない、今日までの私(サラリーマンで通した)は死ぬんだ。そしてお礼参りで、霊山
寺に着くのが四十三日目、即ち蘇るの四十三だ。新しい私が始まるのだ、それを高野山に報
告に行くのだ。

試行錯誤の結果として、たまたま四十二日目に結願することになり、四十三日目に出発地の
第一番霊山寺へお礼参りに行くことになった。意識してそうなったのでは無い。素直に行くのが
一番。新しい私の人生が始まるのだ。素晴らしい事ではないか。

明日は六時スタートにしよう。次の日の大窪寺への道も、標高七百五十メートルの女体山越え
で厳しそうだ。最後まで遍路道の厳しさを味あわせてくれる。しかも根香寺で大窪寺はちょうど
紅葉の真っ盛りと聞いた。何と良いタイミングなんだろう。何かしら全て結果オーライとなってい
く。良い気分。

今日の万歩計 五万二千五百四十二歩
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 十一月十二日(水)

ビジネスホテルあずま〜第八十四番屋島寺〜八十五番

八栗寺〜八十六番志度寺〜八十七番長尾寺〜やなぎや旅館

今日の行程は約三十キロ、屋島寺と八栗寺の二つの山がある。早めに出ようと、昨夜ロイヤ
ルホストで買って置いたカツサンドを食べ、六時に出発した。国道を急ぎ足で、何も考えず歩い
ていたら、ジョギングしていた中年の男性が突然止まり、

「歩きですか、大変ですね、わたしも休みを利用して廻っていまして、あと一ヵ寺で終わりなんで
すよ」

「私は定年で時間が出来、通しで廻って、お陰で明日結願出来そうです。でもあと二日しか無
いと思うと、淋しいんですよ」

と答えた。

彼は小さなリュックを下ろして、中から財布をだし、

「これで何か飲んで下さい」

と千円札を渡してくれ、

「それではお元気に結願して下さい」

とまた走り出した。

遍路道に入り、屋島小学校のあたりから急な坂道になってきた。散歩中の何人かに励まされ
ながら急坂を登ると、立派に整備された石畳の坂道となっている。朝からの親切で元気が出て
いる。長い坂道を一気に登った。

誰も登っていなかったのに、門を入ると多くの人がいる、ふと見るとケーブル方面と矢印があ
る。ここもケーブルがあるのだ。横から見ると、山頂が平らに削られたような屋島の姿そのまま
に、広い平らな所に寺はあった。近代的な建物と寺がマッチして、観光地に最適な雰囲気をし
ている。中でも青緑の不動明王は印象的な美しさだった。

売店のおばさんに写真を一枚撮って貰い、少し時間を取ったので急いで来た道を降りていっ
た。下りの急ぎは足に来る。こんな降り方を最初の頃していたら、足中マメだらけになっただろ
うと思いつつ急いで降りた。

八栗寺へ急いでいると、ある綺麗な店の前で水を撒いていた四十歳前後の男性が、

「へんろさん接待しますから入って下さい」

と店に案内する。

「お急ぎでしょうが」

と言いながら、店の奥に向かって、

「お接待や、何か包んで」

と大声で呼びかけた。そして傍らにある何枚かの写真を見せて、

「大窪寺に寄進した石碑の写真です。お出でになったらここに、うちの名前が出ているから、見
て下さい」

と言う。ショーケースには、蒲鉾、竹輪、天ぷら、などの練り製品が綺麗に並んでいる。

「どちらから」

と例の質問。

「横浜です」

「小田原に蒲鉾屋さんが沢山ありますよね」

「ハア鈴広とか」

「そうそう鈴広」

「横浜も磯子とか知っていますよ」

などと話していると、奥さんが、竹輪、天ぷら、それに細長い製品を沢山袋に入れて持ってき
た。

「こんなに頂いても、食べられませんよ」

と言うと、

「良いから良いから、持って行きなさい」

と言う。

「歩き遍路と先程も出会って長話をしましたが、又誰か出合ったら、お裾分けしましょう」

と言うと、

「そうして下さい」

と言う。

主人が、今度はみかんを出してきて五個袋に入れた。

「ところでお宅のお名前を教えて下さい」

と言うと

「これです」

と東海屋のパンフレットを入れてくれた。そして、

「今日は長尾寺でしょう。もう十時三十分、ちょっと遅れていますよ。結構ありますよ。普通うち
の前を九時半頃通りますから」と言って、

「ここを真っ直ぐ行くと標識があるから、右に行って橋を渡って」

と説明してくれた。親切に対しお礼を言い、急いで指示通りに歩き始めた。

「親切な人だ、商売上手だ」と思いつつ歩いていたら後で、

「オーイ」

と大きな声がする。

振り返ると、右手を出して盛んに、

「右、右、」

と言っている。

そうだよく見ると、先程教えてくれた標識を少し通り過ぎていた。両手を合わせて、礼をして右
道へ進んだ。放っておくと、可成り行って初めて間違いに気付いたに違いない。

先程遅れていると言われた言葉が効いて、急ぎに急いだ。普通だと疲れて休む時間だが、休
まずに進んだ。八栗寺も屋島と同じように、普通の人は、ケーブルか車で登る所だ。

駐車場には車がたくさん停めてあり、ここで降りてケーブルを待っている。ケーブルカーの駅の
横から始まる急な遍路道を、一人だけで登る。頂上まで急な坂道が続いていたが、これも「遅
れている」の言葉が後押ししてくれて、ほぼ一気に登った。

さすがに息が切れて、全身が汗まみれとなった。

納経所で納経が終わった時、先程頂いたお接待の品のうち、竹輪を残して袋のまま、

「実はお接待で先程頂いたものですが、一人歩きでは食べ切れませんし、それに荷物になりま
すから」

と言って差し出すと、

「お接待のお接待ですか、この店の品は美味しいですよ、うちの寺でも良く買います」

と言って喜んでくれた。

札所にお裾分けしたのだから、店の主人にも申し訳が立つだろうと、繁盛を祈った。

境内のベンチで、コンビニで買ったおにぎりとお茶で昼食。先程納経所でお裾分けした時の、
若い僧が大師堂の方へ行きながら、

「今日は良い天気で良いですね、お元気で」

と挨拶して行った。

団体客が前を通る。弁当を食べている私を見るが、もうこちらは慣れていて平気、馬か牛が通
っている位にしか感じない。

八十六番志度寺までの七キロ強は結構長く感じたが、休むことなく歩いた。二時半には納経出
来た。遅いの言葉に励まされて急いだ甲斐あって、かなり取り戻したようだ。境内では菊花展
が開かれているようで沢山の客で賑わっていた。総理大臣賞まで有るので、大きな展覧会な
のだろう。

門前の別の寺の前に、「源内さんのお墓所」と立て札があった、平賀源内の事だと思うが、もう
あまり興味は無かった。これで長尾寺まで七キロを残すのみ、もう楽勝だと気が楽になった。
ふとお金は幾ら残っていたかなと、財布を出して調べると、一万八千円程しかない。

地図を出して、明日の予定の道筋で郵便局を探したが、局の開いている時間帯で通る道筋に
郵便局はない。大窪寺までは大丈夫だと思うが、結願の日に万一金欠になったら大変だ。

幸い次の長尾寺の近くに、長尾郵便局がある。遍路道からかなり外れているが、この時間なら
充分間に合う。それに今日中に長尾寺を打って置かないと明日早朝出発する事が出来なくな
る。そう思うと無理をして疲れた足も早くなった。

今日は暑い、通る人は皆冬の服装だが、私は長袖の下着に白い法衣だけで汗まみれだ。

地図の通りに来たはずなのに郵便局がない。おかしいので通る人に聞くと、百メートルほど来
た道を引き返し、右に曲がり左に行くとすぐ郵便局がありますとのこと。嫌だが仕方がない、引
き返して郵便局を見付け、自動機で五万円の払い戻しをして時計を見ると四時三十分。

あと五百メートルで長尾寺。真っ直ぐ行けば良い、右手に寺の門が見えるはずだと進がない。
バス亭でお婆ちゃんに聞くと、

「もう少し先で、すぐですよ」

と言う。急いで進むが何もない。ガソリンスタンドで聞こうと思ったが、お婆ちゃんに今聞いたば
かり、我慢して進むが、どうもこれはおかしい。絶対にこれより先ではない、道路工事の現場の
人に聞くと、

「三百メートル位後ろで、来すぎている」

と言うではないか。

「ガソリンスタンドを左に折れて、次を右に二百メートルの所だよ」

と言う。何のことはない、お婆ちゃんのいるバス停よりまだ後ろになる。

「何だクソババアと言いながら引き返す」(汚い言葉を吐き、修行が足りないとすぐ反省したが)

四時四十五分やっと長尾寺に着いた。今日も直ぐさま納経所へ直行した。先客が三人居り納
経を待っている、寺の人はいない。やはり納経を先にして良かった。お参りしていたら遅れた
かも知れない。

三人が終わり私の番になった。住職と思える老人で顔に貫禄がある。字も丁寧で達筆だ。低
い声で、

「どちらから」

と聞く。

「横浜です」

と答えると、

「ご苦労さん」

と言って、前の人に、

「こちらの方のように」

と私の掛け軸を指差して教えている(軸の巻き方、書く部分がすぐ出せるように両方から巻く、
四十二番仏木寺で教えて貰った、あの巻き方)。

書き終わり納経帳と掛け軸の納経料を納めるため千円札を差し出すと、

「これはお接待します」

と言って千円札と長尾寺の交通安全の護符に長尾寺の説明書を付け、傍らからアメ玉二個を
添えて、

「気をつけて」

と言いながら渡してくれた。

納経所にも色々あり、横見をしたり、無駄話をしたり、片膝立てて書いたりする馬鹿者もいれ
ば。この住職のように敬虔な気持ちにさせる住職もいる。本当に有り難く、押し頂いてお礼を言
った。

門前のやなぎや旅館に入ると、こちらは又駄目な旅館だった。浴衣は出ない、部屋は襖の仕
切、洗濯場はない、そのうえ朝は一人前に七時からしか食事は出来ないと来ている。何だ、あ
あ、やっぱりと思った。

ああ、やっぱりの訳

屋島寺を降りきった池の畔で、先方から姿からしてベテランらしい遍路が来る。セメントで出来
た台が二つ並んでいる休み場のような所がある。彼が荷物を下ろし始めたので、私も一休みし
ようとザックを下ろした。普通の歩きと反対の方向から来たので、

「逆打ちですか」

と聞くと。

「馬鹿なことを考えて、往復しているんですよ」

と言うではないか。

「エッ!一廻りして又引き返して逆うちで一廻りですか」

と驚いて、

「凄いですねー」

何時も言われることを、今日は自分で言っている。昨日、逆打ちは三回分の値打ちがあると聞
いたばかりだ。

「今日は何処まで」

と聞くので、

「長尾寺です」

と答えた。

「何処に泊まりますか」

「やなぎやです」

「悪いが、あそこはあまり良くない、部屋も悪いし、それより民宿があるでしょう、確か新しく建て
直していたよ。やなぎやを断ってそちらにしたら?」

「それではあとで電話をして断りましょう」

「疲れてそこまで行けないとか、適当に言っておけばいいんですよ、あんな所」

と言う。よほど悪いのだなと思った。

それから宿屋談義。良かったところ「柳水庵」同感。

「へんくつや」私はその側の「しまや」

「ああ、あそこも良いんだ。自分はへんくつやで、オヤジさんがちょうど松茸が入ったと言って、
松茸御飯を作ってくれて、おまけにに弁当も松茸御飯で作ってくれた」

という。

「それから民宿岡田、あそこの奥さんは、歩き遍路の気持ちが解っていますよ」

と言うと、

「そうだそうだ全くだ」

と喜んでいる。そして私が、

「国分寺のえびすやは酷い旅館で、朝飯に生卵だけで呆れた」

と言うと。私と同様に、こてんぱんに貶す。

「逢う人毎にあんな所に泊まらないように言っていますよ」

とお互いに溜飲を下げて大笑い。このまま続けば、何時までも切り無く話すことになる。急がね
ばと、お互いの健康を祈って別れた。

最後に、明日は結願するが、お礼参りについて聞くと、

「要は最初にお参りした寺に行って結願のお礼を言えば良いのであって、途中はいいのでは無
いか」

と言っていた。

ならば大窪寺を打ったら、バスか何かで、切幡寺に行き、彼が良かったと云っている、八番に
近い「たみや」にでも泊まろうかと思いながら歩いた。これがああ、やっぱりの訳。

最後の宿は気分良く、と思っていたがそうは行かなかった。途中で彼の言う通りに、電話で宿
を変えようと思っていたが、遅れていると言われて急いだので、つい電話が出来ず結局ここに
来た。これもお大師さまの思し召し、修行と思って我慢だ。有り難い、有り難い!何度も思う
が、最初の頃は、何処でもゆっくり眠れる所であれば文句は無かった。余裕が出来るとついつ
い愚痴となる。万事同じだ。

今日の万歩計 二千六百八十二歩(こんな筈がない、最初の万歩計も、大汗をかいた時動か
なくなった。)
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 十一月十三日(木)

やなぎや旅館〜第八十八番大窪寺〜民宿坂本屋

結願の日、五時五分起床。その前にも何度か眼が覚めた。最後の日の意識が高かったのだ
ろう。三時頃雨の音がする、夜明け迄には止むだろうと、楽観してまた眠った。五時には止ん
でいた。予報も俺の遍路歩きを助けてくれたと、喜んでおにぎりの朝食を部屋で摂った。

六時に出発。遍路地図で調べて、最後の歩き遍路に自信を持って出掛けた。近くの店の前
で、ペットボトルにポカリスエットを満たして進むうち、少しおかしい遍路マークが全く無い。町の
中では遍路マークは見ないで歩く方が多い。方向は間違いないはず。

ところが三十分程進んだ時、三木町と標示が出た。もう塚原と言う所に近いはず。地図を出し
て、塚原の廻りを見ても、三木町は何処にもない。近くで朝のゴミを出している婦人に聞くと、

「あら、塚原ならこれをずっと戻って、ハッピーストアーを右に真っ直ぐに行くんですよ」

と言う。全く九十度反対の方向だ。ガッカリしたが今日は結願の日、悔やんでも仕方がない。こ
れも修行と思い引き返した。

何のことはない、やなぎや旅館のすぐ側を右に曲がり、やっと目標のルートへ乗ることが出来
た。自信を持って出掛けたはずが、スタートからとんでもない錯覚をしていた。

進むうち、それまで明るかった空が、俄に厚い雲に覆われて雨となってきた。 すぐ止むだろう
と進むがだんだん大降りになってくる。農家の車庫に人がいた。あそこで雨宿りと思ったが、も
っと先に何かあると、いつもの感で歩くが雨は強くなるばかり。仕方なく商店の軒先に入り、ザ
ックカバーでザックを守らねばと取り出していた。店の人が出てきて、

「中でやったら」

と言ってくれた。ちょっとためらっていたら、

「前はお寺だから、縁側が広いしあそこがいいよ」

と教えてくれた。

十メートル先の入り口を入ると、構えは寺とは思えないが、寺の広い縁側がある。カッパを取り
出し、完全武装で再び出掛けた。

長いなだらかな登り道が延々と続く。地図を頭陀袋に入れ、上からポリ袋で包んでいるので、
取り出して見ることが出来ない。遍路マーク頼りの前進だ。暫く進むとダムがある、その手前に
休憩所があったのでザックを下ろして一休み。やはり最後の最後迄手抜きはさせてくれない。
気を取り直して歩き始めた。ダムの建物を過ぎ暫く行くと、右に向かう道があり遍路道の標示
があった。《これが本来の遍路道》と書いてある。安心して誰も居ない道を、山上に向かって登
っていった。

山上に通じる道から見える山々は、紅葉の真っ盛りで正に絶景。雨でカメラもザックに入れて
おり、写真を撮ることが出来ない。頭の中に焼き付けておこう。

女体山越えでないことは途中で解ったが、今自分は何処に居るのだろう。遍路マークがある限
り、大窪寺へ通じる道であることは間違いない。

峠を越えて、下り坂を下りきったところが三叉路になっていた。遍路マークがあるはずと思っ
て、何度も探してみたが、どうしても見つからない。小雨が降っているが、ポリ袋をはずして地
図を取り出して調べてみて驚いた。近くにあるバス停は、額峠と書いてある。地図で見る額峠
は、女体山の遙か南にあり、右に行く道を辿れば、地図から抜け出して、右から大きく迂回しな
いと大窪寺には行けない。さりとて左の自動車道に行けば、前山ダムの近くまで、戻ることにな
る。

困り果てて居るところへ、スクーターに乗った女性が通り掛かったので、手を挙げて止まって貰
い、

「大窪寺へ行く途中ですが、どうも大間違いをしているようで、教えて下さい」

とお願いした。地図を見せて現在地を示すと、平然として、

「ここを通るのが普通と思いますよ」

と言いながら、多和橋迄下りて左へ進む道を教えてくれた。

登り初めに本来の遍路道と書いてあり、その道通りに来ているのに、地図を見てとんでも無い
所へ来ていると錯覚して、慌ててしまったようだ。

やれ安心と進んで行くと、遠くから私の姿を見付けてわざわざ道路を渡り、私が来るのを待っ
ている様子の人がいる。近づくと「大窪寺に行くなら、この先の橋を渡って、多和小学校に出て
左の道を行くのが一番近い」

と聞きもしないのに教えてくれる。教えられた通りに行くと、車道より遥かに近く、有り難いこと
です。あとは道なりに進むだけ。

思っていたより長い距離だなと感じながら、以外に冷静に進むと、いよいよ大窪寺に到着し
た。

醫王山と大きな額の掛かった、堂々たる仁王門が先ず目に入ってきた。右に醫王山、左に四
国霊場結願所と刻んだ大きな石柱を通り抜け、堂々たる仁王門に立って一礼した。

ああ、とうとう到着した。

門から石段を上がるとすぐ大師堂だ。やがて見事な紅葉をバックにした本堂前に来た。

本堂の横にある納経所に入り、ザックを肩から下ろし邪魔にならないように片隅に置いた。

「お参りして来ますから、ここに置かして下さい」

とお願いし、

「どうぞ、どうぞ」

の声を聞いて外に出た。

手水で身を清め、汗で濡れた服装を整えて本堂に向かった。

多くの人が結願の感動を持ってお参りしたであろう本堂で、全く冷静に心を込めてお経を上げ
る事が出来た。

有り難うございましたと合掌一礼し、晴れ晴れとした気持ちで、大師堂に向かった。

大師堂で、ローソク、線香をあげ、最後の納札を納め、鐘を打ち般若心経を読み始め途中ま
で来たとき、突然何か知らないが、腹の底から万感迫る感動がこみ上げて来て、お経を読むこ
とが出来なくなった。両目から大粒の涙が溢れ、止めることが出来ない。こみ上げるものを必
死に押さえ、ふるえる声で何とか読み終えた。続いて光明真言、大師宝号から廻向文、

「願わくばこの功徳を以って普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」

と唱え、有り難う御座いましたと合掌一礼して深くお礼を言った。

誰かも言っていたが、法悦とはこの事か。全てが満ち足りたような、言葉で現せないこの満足
感はどうだ。何とも表現出来ない感動と、開放感に浸りながら、納経所に入り納経帳と掛け軸
を差し出した。

納経所では、こちらの心理状況と違い、例によって至って事務的。結願の証があるようなので
お願いした。

「二千円ですよ」

やや白けたが、彼らは毎日のことで、その都度感激出来るはづがない。お礼を言って外に出
た。

さて全てが終わった。金剛杖と菅笠はこのまま持参しよう。さすがに結願寺、沢山の人が引き
も切らず来る。新めて見ると、背後の山を含め見事な紅葉だ。記念に写真を撮りながら境内を
隈無く歩いた。

本堂の前を真っ直ぐに、石段を下ると門前に、八十八庵と言う土産物屋があり、左手が食堂に
なっているようで、多くの人が入っている。テレビ、雑誌に紹介された経歴が額のように掛かっ
ていた。

だがそれはどうでも良い。惹かれたのはストーブだ、汗をかいてズボンの太股あたりまでぐっし
ょり濡れて、いわゆる地図を書いた状態になっている。それに汗が乾き始めて寒い。ストーブ
の側の椅子に座り、打ち込みうどんをお願いした。若い元気の良い女性の店員が、奥に向か
って「打ち込み一丁」と声を掛けた。出てきたものは、里芋、油揚げ、豚肉、ワケギがはいった
味噌味のうどんで、私の好みにピッタリの味。久々に昼食で満腹になった。

時間は十二時三十分。もし十番札所の切幡寺まで歩くとすれば、十九キロメートル約五時間
弱だ。不可能ではなく、今までなら問題なく即出発したが、今日は違う。

既に結願の証を頂き、あとは最初にお参りしたお寺にお礼参りでよい。それが普通。私は十番
から最初のお寺である霊山寺まで、通り道にある寺を全部お礼参りしようとしている。もう何も
無理をすることはない。今日まで頑なに拒否した乗り物を今日からは使って良い。と自分で決
めて納得し、駐車場に行き、タクシーの運転手に聞いた。

彼は待ってましたとばかりに、電話番号を教えてくれた。

「十番さんは、逆打ちコースで殆ど行かないから、別料金(お迎え料のようなもの)を頂きます
が」

とのことだ。心はもうその気になっている。電話をして暫くしたら、運転手が先程の店で、私の
名前を呼んでいた。

運転手も初めての道で、何度も聞きながら走る。歩くと五時間掛かるところを、四十分で来てし
まうとは。

しかし巡り合わせとは、面白いもので、そのお陰で今度は、切幡寺の納経所で大変な人に出
会う事になった。

十月四日遍路行脚第二日目、今タクシーが止まっている駐車場から、三百三十三段の石段を
登り、遍路道の険しさのほんの片鱗を見た事を思い出した。

、納経帳を差しだし、お礼参りはどのようにするのかと聞きながら納経を終えた。側でこれを聞
いていた人が、

「一人で廻られたのですか、少し教えて下さい」

と言う。しかもベテランではなく、初めて廻った人の話を聞きたいと言う。

「私で良ければ良いですよ」

と言って、今日は精神的にも肉体的にも余裕があるので待っていた。

その人は白いあごひげを蓄えた、目の澄んだ人だった。

私より年輩で、自動車で既に三〜四回廻っているベテランだ。しかも札幌在住と聞く。私も札幌
支店に三年半勤務し、現在も当時の各証券会社の元支店長で「B五の会」を作り年四回の例
会を楽しんでいる。

話しが合い、三百三十三段の石段を夢中になって話しながら下りた。

今日は貴方の泊まるところで一緒に泊まろう、と言うことになった。駐車場に来たとき、そうだ
車は上の駐車場だと気付いて、その人は、

「ここで待っていて下さい」

と言ってまた石段を登って行った。大窪寺でタクシーを呼ぶとき、十月三日の日に泊まった民
宿坂本旅館を予約していたので、そこへ同宿する事になった。

彼は、太田 氏で僧名を持っている。太田さんは、航空写真を撮り、農協、全協連とタイアップ
して、全国ネットで業務を展開した成功者。五十五歳の時、全てを他人の社長に譲り、今三代
目の社長は、自分の長男と言う様に、功なり名遂げた人物。ゴルフは五十五歳から始め、今
はシングル。夏は北海道、冬はハワイ、南米と全てが我々とは桁違い。持っている自動車、コ
ンピューターシステム、と聞けば聞くほど凄い。

その太田さんが、春夏、秋冬の合間に「おへんろ」をしている。だが自動車で廻っても感動がな
い。本当に歩いてみたい。その経験談が欲しかった。私のような六十歳代で、頭の白い、初め
て歩いた人間の話を聞いて、自分にも出来るの証が欲しかったのだと思う。

私の装備を一通り見て貰い、出来るだけのお話をさせて貰った。ただ歩き遍路の旅は、千四
百キロの長丁場、自分の足と体力は自分にしか解らない。自分に合わせた計画は伸縮自在、
幾らでも変えることが出来る。誰にでもその意志さえあれば必ず出来る事は間違いない。

食堂では、私と太田さんの二人だけ、ビールを二本もらい乾杯。太田さんが、

「今日の勘定は自分に持たせてくれという」

申し訳ないと思ったが、素直にお受けさせて頂いた。それからゴルフの話し、札幌の話しとな
り、太田さんのゴルフ仲間で証券取引所の人の話がでた。札幌証券取引所の総務部長をして
いた上野さんらしい。色々お世話になった人だ。

太田さんが、携帯電話で電話した。出たのは紛れもなく取引所の上野さんだった。四十二日も
四国を歩き回って、たまたまここに来て太田さんに逢い、こうして上野さんと話しをしている、こ
の偶然は何なのかと唖然とする。

もう一つある。今日念願の結願となり明日は一番寺の霊山寺へ行く、第一日目に霊山寺へお
参りした時、霊山寺の御詠歌は「霊山のしゃかの御前にめぐりきてよろづの罪も消えうせにけ
り」であった。今日結願してまた思い出した。

定年を迎えた今日まで仕事を通じて、どんなに多くの人に結果的にご迷惑を掛けて来た事か、
また多くの人に助けられて来た事か。

「よろづの罪も消えうせにけり」

のこの言葉は、この度の私の遍路の旅を意義あるものにしてくれた、いわば救いの言葉に聞
こえる。

この様な話しを太田さんとしていたら、またもや大窪寺の大師堂で興ってきたあの感動が蘇
り、恥ずかしながら、太田さんの目の前で涙を抑える事が出来なかった。

今日の万歩計 三万六千四百三十三歩
戻る

 

 十一月十四日(金)

民宿坂本屋〜九番法輪寺〜八番熊谷寺〜七番十楽寺〜

六番安楽寺〜五番地蔵寺〜四番大日寺〜三番金泉寺〜

二番極楽寺〜第一番札所霊山寺〜民宿阿波

七時。太田さんを食事に誘う。出発の時も寝間着のまま出てきた。小雨が降っていたが、カッ
パなしで行くことにした。太田さんが前まで出て、最新のデジタルカメラで撮ってくれた。

「乗って行きませんか」

と誘われたが、

「最後の歩きですから」

と握手して別れた。

荷物は、太田さんが今日予約している一番札所前の民宿阿波(初日に泊まった民宿)へ届け
てくれる事になった。重なる善意に感謝しながら、荷物なしの軽い足取りで出掛けた。

懐かしい道を九番、八番と来たら熊谷寺の上で、太田さんが私の来る姿をデジタルカメラで撮
っている。今日は徳島で繊維関係の会社を経営していて、会社整理で太田さんの意見を聞き
たいと言う人に会うそうだ。

五番地蔵寺前の散髪屋に入り、一ヶ月半前に丸坊主にして貰った散髪椅子に座って、散髪し
て貰った。終わると、

「写真を撮りましょうか」

とあのときの事をよく覚えていてくれた。

「今日はもう良いんだ」

とお礼を言って、五番、四番と来たら、また三番金泉寺の前に太田さんが居るではないか。一
番で友人に会い会社整理で話しをし、納得したそうだ。十年前に、太田さんの経験を話し指導
したが今日迄来た。その時なら十億の資産が今では何もない、年金生活だそうだ。

人生は様々、私と同じ年金生活も、考え方一つで幸せにも不幸にもなる。みかんを渡してくれ、

「これで本当にお別れですね、いいお友達に成れそうです」

と言って別れ辛いが、お別れした。その時も車を勧められたが、

「もう少しですから」

とお断りした。

二番からいよいよ出発の地に来た。

昨夜も太田さんと話した霊山寺だ。

「よろずの罪も消えうせにけり」を深く思う。

納経所に入り、

「やっと帰って来ました」

と言った。

「御苦労さん、私達もなかなか出来ないことを、何日に出ましたかね」

「十月三日です」

と言うとノートを出し大村正俊の欄に十一月十四日と記入してくれた。

奥からお茶とお菓子、それにご本尊にお供えされたと言う大きな見事な柿を、

「お接待です」

と渡された。

最後に頂いたお接待の品が、ご本尊のお釈迦様へ備えられた品だ、感激もひとしおだった。

思えば長い道のりだった。今行けと言われたら少し待ってくれと考えるあの道を、よくも歩けた
とただただ思う。お礼参りの朱印を納経帳に頂き、四国での全てが終わった。

今日は前から予定していたことだが、最初の日に泊まった民宿阿波に、妻を呼んでいる。

私が来た時と同じ列車で来ている筈だ。

明日は、妻と一緒に高野山へ最後のご報告に行く。これで完全な仕上げになる。

民宿阿波のオジサンと奥さんは、私が十月二日に宿泊したことは、覚えていなかった。妻は二
時半頃着き、外出していると言う。

「寺に行っている筈だが」

と言っている。

そうではない。近くに遺跡が多い所だと楽しみにしていた。間違いなくその何処か一つに行って
いるに違いない。

阿波の奥さんが、寺で待っているかも知れないが、と心配しているが、私は全然心配しない、
澄ました顔でいた。

おわり
戻る


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