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もんラボ付属  もんぞうライブラリ


もんぞうteacherの読書と意見 C 2000.12.3(日) 

柄谷行人 (2000.11) 『NAM 原理』 太田出版/ 1,200円

 P.87 《ここで、資本・国家・ネーションに対抗するために、なぜアソシエーショニズムが不可欠なのか、そのことを原理的に説明したいと思います。一般に、人々は、資本主義経済は下部構造で、国家やネーションはイデオロギー的な上部構造だと考えています。(中略)しかし、経済的交換(=資本制経済、引用者注)は、国家やネーションと違って、何か実体的なものなのでしょうか。たとえば、初期マルクスは国家は幻想的な共同性であるといい、ベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体」であるといいました。それは確かですが、資本制経済もまた、信用にもとづく「想像の共同体」なのです。それは人間の交換につきまとう、或る本質的な困難に根ざすものです。それがいかに幻想であろうと、容易に片づけられるものではない。同様に、ネーションや国家も、たんに資本制経済の上に存在する幻想なのではなくて、それぞれが、「交換」に根ざしているものであり、それぞれの自律性と強制力をもっているのです。だから、それが幻想だ、表象だといったところで、容易に解消されない。》
P.91 《そこで、この3つ(=
資本・国家・ネーション、引用者注)の交換でないような交換の原理、つまり、アソシエーションによる交換が重要になってくるのです。つまり、諸個人の自由な契約にもとづき、相互扶助的だが排他的でない、貨幣を用いるがそれが資本に転化しないような、交換です。だから、この交換は倫理的―経済的なものです。このような交換原理をトランスナショナルに広げたときにのみ、3つの交換原理に根ざす資本=ネーション=ステートは、その基盤を失い、消滅するでしょう。もちろん、それは一挙にできるものではない。しかし、その道筋だけははっきりしています。そして、それはもはや表象の批判ではなく、実践の問題です。》
    柄谷行人氏は1941年兵庫県生まれ。東大経済学部卒、東大大学院英文科修士課程終了、近畿大学教授。NAM(New Associationist Movement)代表。著書に『マルクスその可能性の中心』(1978)、『日本近代文学の起源』(1980)、『隠喩としての建築』(1983)、『批評とポストモダン』(1985)、『探求T』(1986)、『言葉と悲劇』(1989)、『<戦前>の思考』(1994)、『可能なるコミュニズム』(2000)、『倫理21』(2000)。

   柄谷氏には もっとたくさん著書があり、もんぞうは大学生のころからかなり読んできましたし、一番影響を受けたというか、柄谷氏の著作を理解するために積極的に多くの時間を割きました。とくに学生の頃は『探求T』を線を引きながら何度も読みました。
   『探求T』は最も広い意味でのコミュニケーションについての考察です。広い意味と言うのは、それが意思の伝達というコミュニケーションだけでなく、モノのも含めたすべての交換についての原理的な考察だからです。とくに価値体系の違う同士で何かを交換することを「交通」と呼び、そのような交換をマルクスやヴィトゲンシュタインに倣って「暗闇の中の跳躍」であると比喩的に言っています。つまり、自分が投げかけたもの(モノとか気持ちとか情報など)を相手がどう受け取るか(受け取らないか)・どう価値付けするか分からないという、1回ごとの不確実な、賭けをするかのような状態を「暗闇の中の跳躍」と呼んだわけです。普通はそういう不確かさを「コミュニケーションの失敗」「不完全なコミュニケーション」とみなすのですが、むしろそういう失敗の状態が普遍的で、うまくいくことが奇跡的で特殊なケースだとするのがこの議論の本質ですべてです。
   そうすると、価値や意味の決定権は、何かを与える方よりも、受け取る方にあることになります。与え手と受け取り手は対等ではないのです。柄谷氏はこれを「教える―学ぶ」関係と比喩的に表現しています。こういうコミュニケーションの非対称性は今では常識ですが、一般的には構造言語学の影響もあってか、スムーズなやり取り(与えたものが100%受け取られる状態)をモデルにしたものがコミュニケーションを考えるときの常識でした。つまり、画期的だったのです。
   柄谷氏は『探求T』のあとU、Vとテーマは違いますが、この種の原理的な考察を続けていくのですが(「日本精神分析」などは続きが読みたいです)、もんぞうはちょっとついて行けませんでした。しかし、そういう原理的な考察とは別に、『批評とポストモダン』のあたりから原理的な考察や文芸批評とは違った、社会状況への発言があらわれてくるのですが、もんぞうはそちらの方に関心が移りました。とくに『<戦前>の思考』はかなり影響をうけました。これは世界史的に考えて現在は「戦前である」という認識の下に書かれた書物です。当時日本はバブルがはじけて大変な経済状況だったのですが、それを「識者」は柄谷氏とは反対(?)に「第2の戦後」だと呼んでいました。まあ、日本史的に見ればそのくらいの社会構造の変化が必要だということなのでしょうが、どちらに妥当性があるのかは分かりません。こればっかりは時間が経たなければはっきりしません。どちらも単なる予測ですから。大事なことはどちら未来予測の方が現在を理解するのに役に立つかということでしょう。その意味で柄谷氏の方が優れていると、もんぞうは感じたのです。『NAM 原理』はそういう社会への発言=行動を示唆する流れの著作です。「原理」と題され、原理的な考察がなされていますが、実践的な書物です。

   で、上の引用はこの本で最も印象的だったところ。「それはもはや表象の批判ではなく、実践の問題です」とあります。衝撃を受けましたし、こんな言葉に衝撃を受けた自分にも衝撃を受けています。マルクス主義や右翼思想、学生運動やあやしげな宗教などに「かぶれる」ときの衝撃はこういうものかもしれません。しかし「表象批判」は現在最も優れた批評スタイルの1つです。それをあっさりと葬ったように見えます。その批評スタイルはさまざまな方法があり、今1番力があるのは「カルチャラル・スタディーズ」とか「ポスト・コロニアル批評」と呼ばれるもので、柄谷氏はこれを「カル・スタ」「ポス・コロ」と言って、だいぶ前から馬鹿にはしていました。では、「表象批判」とはどうのような批評スタイルか?
   もんぞうは「表象批判」を優れた知性の持ち主がしなければならない正義の戦いのようなものと感じていました。(今もそう思います、もんぞうは批判的ですが・・・)。「知識人の良心」というべきかもしれません。そういう知性に憧れ、優秀な追随者も多くあらわれ、振り返ってみればここ20年くらいは「表象批判」は流行ですし、今も優れた知性の持ち主がこれを精力的に行っています。これは簡単にいうと、実体のないイメージのようなものに人々が振り回されているのを明らかにし、その歪んだ状況を改善しよう、その状況から救い出そうとする動きです。たとえば、差別とかが一番分かりやすいのですが、男性は「男らしく」とか女性は「女らしく」なんていう差別は、そういう「表象批判」が最も威力を発揮するところです。すなわち、「男らしさ」とは具体的に何なのか? それはいつから、どこで、どのような経緯で、成立したのか? それはなぜ成立したのか? そして誰が得をして、誰が損をするのか? 表象批判とは、そういうことをはっきりさせるのです。そうするとそのような「男らしさ」や「女らしさ」という表象が絶対的な根拠もなしに力を持っていることが明らかになります。そしてそれを理解することによって、その表象の呪縛から逃れられるというわけです。悪くいえば、「あれも幻想だ」「これも思い込みだ」と言い立てて、良きにつけ悪きにつけ、そのイメージを破壊するのです。そしてそういう幻想のない世界というか、表象で成り立っている虚構の世界をなくそうとする(馬鹿にする?)のです(最近は「表象批判」が形式化して、論文量産の技術に堕し、「それを暴いてどうするの?」「批判してるつもり?」というものが多いですが・・・。)
    しかし、柄谷氏は、そのような表象批判は終わりにしようというわけです。もはや実践しかないというわけです。
   そしてこの書物には具体的な実践の道筋が描かれています。幻想や表象を壊し、無くすだけでなく、あるべき未来の世界とそれに至る具体的な実践の方法が示されています。この書物は戦前なら一発で発禁でしょうし、柄谷氏も治安維持法で投獄されたと思います。そういう意味で現在は、少なくとも日本は良い世の中です。にもかかわらず、それを変えようという柄谷氏とNAMという組織は何なのか? この書物に書かれていることは、たいへん魅力的で、美しく、まったく正しく見えます。しかし最初に書いたようにもんぞうが「かぶれた」だけかもしれません。
    まあ、その主張にコミットするかどうかは別として、表象批判は終わり、今は実践する時なんだという宣言は、久しぶりに眼から鱗が落ちました。こういうのは精神分析を勉強したとき以来かな? 最初はS・モームの『人間の絆』を読んだときですね(小市民的な幸せの存在に初めて気がついた経験でした)。大学に残って研究者を続けていたらどう思うだろうなあ、と思わず想像してしまいました。ははは。
   つまり、一種のアジテーションです。かぶれやすい人は読まない方が良いかも。

 

もんぞうteacherの読書と意見 B 2000.10.25(火) 

  博嗣 (2000.9) 『魔剣天翔』 講談社ノベルズ モF‐17/ 840円

 P.13 《美とは、したがって、あくまで人工的なもの、すなわち行動と思考を伴う人の行為に向けられる評価、人の意識でなければならない。女性が、否、人間が美しく見えるのも、それが生きている、あるいは、私が生きているからであって、生きたものが、生きたものに対峙したときの評価にほかならない。/何かをしようとしてもがいている。/その「形」を見る。/もがく形。/そのための形だ。/形とは動こうとする意志なのである。》
   森博嗣氏は 《国立某大学の工学部助教授》 というのが公式の(?)プロフィール。京極夏彦とともに、いわゆる新本格第2世代を象徴する推理小説家です。HPもかなり有名で、そこで更新されている日記が書籍になって販売されるほど。もんぞうはHPを毎日チェックしております。もんぞうラボラトリの日記「生活と意見」も森氏のHPを真似して作ってます。学者としても優秀な方のようです。まあ、HPを見るのが1番でしょう。

   この『魔剣天翔』はシリーズ物の第五作です。前のシリーズ「犀川・萌絵シリーズ」(全10冊)は次々に文庫化されてますが、よく売れているようですねえ。映画化、漫画化もされるそうです。森博嗣を何か1冊というならば、『詩的私的ジャック』を薦めます。『冷たい密室と博士たち』も良いです。

   で、上の引用はこの本で最も印象的だったところ。『魔剣天翔』は紛れもない推理小説ですが、こういう形而上学的言説がわりと数多く入ってくるのが、好きです。もんぞうの場合、むしろこういう文章の方が面白いと感じます。たぶん、こういうのがなくなったら、読まなくなると思います。こういう文章は、ハードボイルドの主人公が、厳しい状況を持ち前のタフさで乗り切ろうと、自己韜晦ぎみに言う決めぜりふのようにも読めます。実際、この発言も事件のすべてを理解し上での、私立探偵の言葉です。でも、森作品では、このハードボイルド的発言を登場人物がちょっとかっこつけて言うのではなくて、本当に形而上学的に考えをめぐらせている場面が多いのです。

   次の引用は女性警察官の感慨ですが、上昇する飛行機を見ながら彼女はこう思います。《何についてもいえることだが、上っていくものの後ろ姿は綺麗だ、と七夏はふと思った。おそらく、「羨望」という言葉のイメージが、この角度、この構図なのだろう。》 これも上の引用と似たテイストです。この形而上学的思考は人物たちが厳しい現実に没入して、自分を見失ってしまうのを必死に逃れるギリギリの手段のように思えます。京極夏彦の作品の登場人物もそういう発言をしますね。ただ、京極夏彦のそれと違って、森博嗣はこの形而上学的言説が、必ずしも作品の謎解きと深く結びついているわけではありません(十分、暗示的ではありますが)。それよりも、読者が作品に没入しすぎるのをためらわせる、あるいは読者に登場人物と同じ形而上学的思考を実際に(作中人物に同一化しないで)強いる効果があると思います。つまり、読みながら、ふと、「美」と「形」の関係について自分で考えたり、「羨望」という感情がしぐさに表れる瞬間を、読書を中断して想像してみたくなるわけです。謎解きに熱中することを妨げるのです。

   で、このテイスト。初期の村上春樹に似ています。不思議な透明感があります。村上春樹の初期の主人公もクールなハードボイル的な人物造形だと思うのですが、アイロンかけながら、スパゲティゆでながら、芝生かりながら、けっこう形而上学的な思索をします。あるいは、気の利いた警句といったほうがよいでしょうか。初期の長編四部作も随所にそういうテイストが流れていますが、短編だと「中国行きのスローボート」なんて、そんな感じですね。詩でいうと谷川俊太郎が似たテイストです。

        そして私はいつか
        どこからか来て
        不意にこの芝生の上に立っていた
        なすべきことはすべて
        私の細胞が記憶していた
        だから私は人間の形をし
        幸せについて語りさえしたのだ

    [ 谷川俊太郎 「芝生」、『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』所収 ] 

   森博嗣、村上春樹、谷川俊太郎、いずれも強く惹かれる作家ですが、その共通点をひとことで言うと、「なんともいえない透明感」ですね。言いかえれば、せつなさ、深い悲しみ、徒労感、喪失感、虚無を裏返すと、期待感、捨てきれない希望、強い意思、ひとすじの光明が貼りついてる感じかな? それがなんともいえない清潔感と透明感をかもし出すような気がします。
   何を言ってるのかさっぱりわかりませんねえ。昔はこういう印象批評は反吐が出るほど大嫌いで、目の敵にしていましたが、年をとったかな? まあ、たまには良いでしょう。

 

もんぞうteacherの読書と意見 A 2000.10.6(金) 

大平 健 (2000.9) 『純愛時代』 岩波新書 新赤版688/ 660円

 P.218 《現代の゛性"や゛食"が、すぐれて、先に述べた「自分」の二重性、言いかえれば、二つの「自分」の相克によって複雑な様態を見せているということにあったが、゛愛"の場合においても、現に生活し恋愛する〔自分〕と、それを見つめ、いや、それを小うるさく監督し指示するもう一つの<自分>とがいて、その葛藤が今風の恋愛を生むのだし、また、恋愛自体を難しくしている、と思われる。》 

 P.211 《若者たちは愛に心底あこがれていながら、他方で、とことん愛に絶望している。僕はここ何年かの間、ずっとそんな印象を持ち続けていた。》 

   大平健氏は聖路加病院の精神科医。同じ岩波新書に『豊かさの精神病理』『やさしさの精神病理』がありますが、この『純愛時代』はその続編。どれも実際の診察の状況を紹介して、現代日本のこころの断面を見せてくれています。そのキーワードがそれぞれ「豊かさ」「やさしさ」「純愛」です。

   『豊かさの精神病理』は1990年に出版されていますが、いわゆるバブル絶頂期の患者さんが紹介されています。一言で言うと、物質的な豊かさが精神的なそれと結びつかないこと、あるいは、物質的なものを精神的なものと勘違いすることで、心を病んでいく様子が描かれていきます。

   『やさしさの精神病理』は1995年の出版。ここでは「やさしさ」が従来の意味とは違って使われていることが問題とされています。「やさしさ」とは普通、他人に親切にしたり、他人を思いやったりすることを意味します。しかし、精神を病んで筆者のところにやってくる患者は、他人に干渉しない、他人の気持ちに深入りしないことを「やさしさ」というのです。ただ、「患者」になってしまう人は、その「やさしさ」の中で(お互いに深入りしないので)孤独に陥り、精神を病んでいきます。客観的に見れば、「言ってくれれば良かったのに・・・」とか「聞いてくれればよかったのに・・・」というようなことを、「相手を傷つけるかもしれない・・・」と相手に「やさしく」考えてしまう。そのため、お互いに深く信頼関係を結べずに人間関係が壊れ、傷ついてしまう。この気分は大変よく分かるような気がします。大平健を1冊というのならば、この本を薦めます。

   で、上の引用はこの本で最も印象的だったところ。1つ目の引用は拒食の喜び、媚態の憂うつ』という別の著書(もんぞうは読んでませんが)に触れて書かれた部分ですが、大平氏の人間理解の根幹になる図式のようです。つまり、《「自分」の二重性》です。言い換えると 《それを見つめ、いや、それを小うるさく監督し指示するもう一つの<自分> 》 の存在。

   例えば「豊かさ」がなぜ病気に至るのか? それはたんに「豊かさ」を求めるのではなく、その「豊かさ」を見つめる<自分>、あるいは「まだまだ豊かでない」自分に苛立つ<自分>が暴走するからです。例えば「やさしさ」がなぜ病気に至るのか?  その「やさしさ」を見つめる<自分>、あるいは「まだまだやさしくない」自分に苛立つ<自分>が暴走するからです。言わば第2の自分が第1の自分の駄目さを常に指摘しつづけ、責め続け、第2の自分から逃れられない第1の自分は、頑張りつづけ、自分は駄目だ駄目だと思いつづけるのです。これで病気にならなかったら大したものです。

   「豊かさ」や「やさしさ」に心底あこがれていながら、それは実現できないと、他方で、とことん絶望している。2つ目の引用をもじってみましたが、今回の「純愛」も同じパターンで病んでいく患者さんが紹介されています。すなわち「純愛」を貫きたいのだが、貫ききれず「自分はどこか不純だ」と自分を自分で責め、傷つき病んでいく。本の中ではあまりに日常的ではないシチュエーション(例えば外国人留学生との恋愛、離婚係争中の恋愛、・・・ん、日常的かな?)の人たちが紹介されますが、自分もこんなシチュエーションになれば・・・なんて考えると、恐ろしくなります。そんなリアリティもあって、なかなかの読み応えがあります。

   ただ、大平氏の著書には(深刻な心の病を描いているのに)どこか深刻ではない面白さがあります。それはたぶん推理小説として読めるからだと思います。言い換えると、推理小説で味わえる謎解きの快感を得られるからだと思います。もちろん謎は、「なぜ病んだか?」です(どうやら、それを自分で理解し心が受け入れられれば、患者さんの病気はなおるようです)。患者さんは診察室に来ますから、推理小説のジャンルでいうと「安楽椅子探偵」物ですね。捜査や追跡などせずに、話を聞き、簡単な質問をするだけで事件を解決する、そういう推理小説のことです。大平氏の著書に『診療室に来た赤ずきん 物語療法の世界』がありますが、こちらの方はまさに、その味わいが深いものです。ただし、『赤ずきん』も含めて、もともと推理小説ではありませんので、必ずしも謎が解決する(なぜ病んだかが分かる)わけではありません。あくまでも謎(「豊かさ」「やさしさ」「純愛」など)の指摘が目的でしょうから。

 

もんぞうteacherの読書と意見 @ 2000.10.1(日)

丸谷才一(2000.7) 『闊歩する漱石』 講談社/1,600円

p.172-3   ≪小説と社会についての日本人の認識は、今でもかなりその傾向があるが、戦前はもつと貧しいものだつた。一つにはロマンチックで個人主義的な文学観のせいで、小説はもつぱら個人の才能によつて書かれるとか、あるいはもつと極端に魂の叫びだとか、赤裸々な告白だとか思ひ込んでゐたし、それに加ふるに、もともと市民社会といふ概念が薄ぼんやりしてゐるから、市民社会のせいで小説が生まれ、成長したといふ意識がなかつた。小説と社会の関係で言へば、せいぜいプロレタリア小説がマルクス主義思想の宣伝に役立つといふ程度のことだつたらう。さう言えばわたしは、これはもちろん戦後のことだが、イギリス小説について勉強をはじめたころ、「社会批評」(social criticism)が小説の大事な機能である、ただしこれはイデオロギー的政治批判のことではなく喜劇小説のことを意味する、とイギリスの批評家が淡々と書いてゐるのを読んで、ここまで言い切るのかと軽い衝撃を受けたことがあつた。(中略) 日本人にとつて小説家は、相変わらず、社会と隔絶した芸術家による孤独で反社会的な作品なのである。≫

   丸谷才一氏は小説家で評論家。ジョイス『ユリシーズ』の翻訳でも有名。最近新訳も出ましたが、すごいです。とくにジョイスが英語の歴史を文体模倣でやっちゃう場面があるのですが、丸谷さんたちはそれをそのまま訳すのではなく、日本語の歴史を文体模倣でやっています。ジョイスと同じことを日本語でやったのですから、驚くしかありません。まあ曖昧ですが、丸谷才一は「文学者だ」と言った方が良いかも知れません。

   彼の評論は衒学的で好きではなかったのですが、最近は昔のものも含めて読むようになりました。『新々百人一首』という本も買いました(3ページくらいしか読んでません)。たんに百首選びなおして定家に対抗するだけではありません。壮大な日本文学史です。藤原定家に自分を並べているという意味でもすごいですが・・・。

   この『闊歩する漱石』も、漱石『坊っちゃん』『三四郎』『吾輩は猫である』を世界文学史(文芸史と言った方が良いかな)に位置付けようとした壮大な試みです。『坊っちゃん』を論じた巻頭の文章が良かったです。その妥当性もさることながら、豊富な引用と大胆な仮説(?)と分かりやすい文章はやはりすばらしい。

   で、上の引用はこの本で最も印象的だったところ。確かに日本には 《社会と隔絶した芸術家による孤独で反社会的な作品》 という小説観があります。同時に、小説を読んで人生勉強しちゃうというか、道徳の授業を受けちゃうような小説観もありますね。この部分はそういう小説観が、一般の読者だけでなく、文学研究者や評論家、小説家の側にもあるという話です。

   伊藤整『小説の方法』その他で、同じことを別の観点から述べてます。いわゆる「逃亡奴隷と仮面紳士」という図式です。丸谷才一も絶対に知っているはずですが、それに触れないところはズルいところですね。まあ、そういうのは小さな傷でこの本、とても面白くて、ためになりました。

   上の引用で中略したところには、だからベネディクト・アンダーソンのナショナリズム論というか国民国家論の衝撃が日本人には理解できないと述べてあります。もんぞうも、彼の言う通りで、理解はしましたが、あまり衝撃を受けない日本人の一人でした。数年前の国文学研究者の間ではアンダーソンの議論は、サイードの「オリエンタリズム」並みの扱いを受けてました(今では文学研究的常識)。でも、彼の説明で、あまりインパクトを感じなかった理由が感覚的に理解できてスッとしました。もんぞうも精神修養や人生論のつもりで小説を読んでいるようです。

    しかし、彼のいう「喜劇的な社会批判小説」の可能性は日本にもあったはずです。例えば二葉亭四迷『浮雲』なんて、とくに最初の部分は戯画的で、シニカルに笑えます。きっと他にもたくさんあるでしょう。
   筑摩書房から新しい明治文学全集もでるので、『浮雲』は読み返してみようかなあ。とにかく、あの全集(というかシリーズ)は購入することに決めました。これは毎月の本代には入れません。ははは。


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