「俳優は恐れずに何にでも挑戦すべきだと思ったんだ」―

クリント・イーストウッド 自らを語る 前編

〜アクターズ・スタジオ・インタビュー〜

(NHK-BS2 2005年3月11日放送)

収 録:2003年 ゲフィン劇場(アメリカ)

司 会:ジェームズ・リプトン

 

<1>

出生〜駆けだし俳優の頃

<2>『ローハイド』〜マカロニ・ウエスタン3部作で大ブレイクの頃

<3>演じる側から監督へ『恐怖のメロディ』の頃

<4>『ダーティハリー』〜『ダーティファイター』の頃

 

―ゲフィン劇場の前で司会者のリプトンが挨拶。

ジェームズ・リプトン(以下J)

「今回は大陸を横断しロサンゼルスに来ました。

ここウエストウッドのゲフィン劇場で、

また超一流のスターが出演者に加わります」

 

―ここからスタジオ。

「作家N・メイラーは今日のゲストを

最もアメリカ的な人物かもしれないと言いました。

このゲストのキャリアは幅広く、

55本の映画に出演 24本を監督 

17本をプロデュース。

彼の名誉のごく一部を紹介しましょう。

『許されざる者』の監督と製作でアカデミー賞を受賞。

長年の功績に対してアービン・サルバーグ賞を贈られました。

功労賞をアメリカ映画研究所から、

映画俳優組合とナショナル・ボード・オブ・レビューからも。

カンヌ映画祭では5回 受賞の対象になり、

『ミスティック・リバー』でフランスの監督協会賞を受賞。

ピープルズ・チョイス賞も5回受賞。

歴代最高の人気スター賞も含まれます。

ゴールデン・グローブ賞も4回受賞。

その1回は世界人気男優賞でした。

興業収入ベストテンのスターの座に 10年間。

ニジェール共和国の切手になる偉業も成し遂げました。

(会場、笑)

彼の手形とサインは

有名なチャイニーズ・シアターの名声の歩道に刻まれています。

賛辞は尽きませんが―

彼を迎える名誉を―

もう待ちきれません。

紹介しましょう―クリント・イーストウッド」

 

会場、スタンディングオベーションの中、イーストウッドが登場。

歓声の中、静かに着席する。

クリント・イーストウッド(以下C)

「切手のことをもっと知りたいな」

(会場、笑)

「見てませんか?」

「切手になるのはたいてい故人だ。私は死んだと思われたんだよ」

(会場、笑)

「まさか。

早くあなたを たたえたかったんですよ」

「そう急ぐことはないのに」

(会場、笑)

 

 

「この番組はゲストの歩みをたどり

人間として アーティストとしての素顔に迫るものです。

…まず 生まれは?」

「サンフランシスコだ。幼少期はベイエリアにいた」

「生まれた日から有名な子供だったとか?」

「母にとってだけだよ。苦しんだ分特別に思えたのさ」

(会場、笑)

「苦しんだ?」

「(苦笑)」

「大きな子だから難産だったのでは?出生時の

体重は?」

「よく覚えてないな」

ここで、会場にいた妻(ディナ・イーストウッド)から声が飛ぶ。

ディナ

「5,159グラムよ」

「だそうです。5,159グラム」

「今の93キロに比べれば軽いもんだ(笑)」

(会場、笑)

「あなたは大恐慌の厳しい時代に生まれた。

お父様はどこで何をして生計を?」

「父は労働者階級で、

ロサンゼルス郊外にいた時は

ガソリンスタンドで働いた。

その職に就くために、

サクラメントからわざわざ移り住んだ。

当時は本当に職が少なかったんだ」

「お父様から影響を?」

「もちろん。

私たち一家は引越しが多くて

身近な男性は父だけだったからね。

まず父から影響を受けたよ。

引越しが多いからこそ

両親と私と妹は結束が固かった」

「お父様は

前進しないものはいずれ枯れると?」

「ああ、こう言っていた。

”人生から常に学び続けなければならない”

”自分を磨き続けることが必要だ”

”それをやめたら後退するばかりだ”と」

 

 

「あなたが最初に見た映画は?」

「父が連れていってくれた『ヨーク軍曹』だ。

まだテレビが無い時代で

映画というのは特別な楽しみだった」

「ラジオはどんな番組を?」

「よく聴いたのは、例えば・・・

ミステリーものやヒーローもののラジオドラマかな」

 

 

「お母様によるとあなたは玩具と話し―

ほかの子と違う遊びをしたとか。

孤独な子でしたか?」

「その話はしたくない」

(会場爆笑)

「(笑)大学の授業で本音は言いにくい?」

「精神医学の授業かい?

玩具はあまり無かったから自分で作ったりした」

「内気な子だったと思いますか?」

「そうだね。

私は背が高くて目立っていたし、

転校ばかりしていたから、

いつも自分を守らなければならなかった。

だから、おそらく内向的だったんだろう。

失語症の気配もあった。

断定はされなかったが・・・

左利きを直されたせいだと思う。

右手で書かされて

脳の反対側を使うはめになったが

そっちは未発達でなかなか働かなかったんだ」

 

 

「『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』を

初めて見たのは?」

「・・・いつだったかな」

「影響を受けたそうですね」

「強い影響を受けたね。

J・ギャグニーは大好きだった。

大ファンだったよ。

彼のエネルギーは何か特別だった。

恐れ知らずのキャラクターだ。

私とは全く違うタイプで、まねたことは無いが

『白熱』でチキンをかじりながら

銃を撃つ彼を見たときは、

そこまでやるかと・・・

いい人に見せようなんて全く考えていない。」

「ゲイリー・クーパーは?」

「『ヨーク軍曹』で好きになった。

抑えた演技で表現することにかけては第一級だ」

 

 

「子供のころ、音楽は身近でしたか?」

「ああ。両親とも音楽が好きだったから。

家にはレコードがあったし、私もよく買うようになった。

ディキシーランド・ジャズや、リズム・アンド・ブルース。

ブルースとジャズをよく聴いた。

1940年代にはビバッブが好きになった。

夢中だった」

「楽器を始めたのは?」

「8歳か9歳だった」

「アンディーおばさんのピアノ?」

「ああ。今も健在だよ。

・・・ピアノがね。おばあちゃんがじゃないよ。

(会場笑)

何しろ私じゃなく父の祖母だからね。」

「あなたはピアノと一緒に旅をしたとか?」

「持っていける大きな家具はピアノだけだったんだ。

まだ子供のころパーティーでピアノをちょっと弾いたら、

たちまち女の子が周りに集まってきた。

これはスゴイと思ったよ。

毎日練習しない手はないぞ

それで練習するようになって、

学校のいろいろな催しで弾くようになった。

それからオークランドのナイトクラブで弾くようになった。

クラブというより酒場だね。

そこでは私もピザを食べられたし、

ビールまで飲めた。

ピアノを弾くかわりにね(笑)」

「何歳でした?」

「15歳くらいだ(笑)

昔は事情が違う。

大人は子供のことは気にしなかった。

子供が酒を飲んでも金を払えば文句はなかった」

(会場笑)

「(笑)ピアノは独学?」

「レコードを聴いて覚えたんだ。まねして弾いた」

「どんなレコード」

「ジャズ・ピアニストのF・ウォーラーが好きで、

ラグタイムを発展させた彼の奏法をまねようとした。

A・アモンズ、P・ジョンソン、M・L・ルイスも好きで、

彼らの弾くブギウギも練習したよ。

いろいろなスタイルを弾いた」

 

 

「転校が多かったわけですが、

学校の成績はどうでした」

「普通だね。

好きな科目は成績が良かったが

嫌いな科目は苦労しながら何とかやっていた」

「G・フォークとは誰?」

「私に一幕ものの劇をやらせた中学の英語教師だ。

私を主役にした理由は

クラスで私だけが劇に無関心だったからだ」

「(笑)」

「演劇なんで興味もないし理解もできない、

舞台でどうすればいいか想像もつかない。

人前に立つなんて私には悪夢に思えたが、

彼女はできるわよと」

 

 

「工業高校を卒業後は?」

「両親がシアトルに行ったので、僕も引っ越した。

そして飛行機の製造会社で仕事をしたり、

製鉄会社でも働いた」

「どんな仕事を」

「溶鉱炉の担当だった。熱くて長続きしなかったよ」

「(笑)・・・大学は?行く予定はあったのでは?」

「ああ、シアトル大学へね。

音楽のコースが気に入ったんだ。

当時、クインシー・ジョーンズも

シアトルで活動していたし。

ところがサンフランシスコの徴兵委員会から

召集令が来た」

「入隊後、どこに配属を」

「モンテレーの近く」

「何をしました」

「基礎訓練を終えたあとは

水泳を教える任務についた。

朝鮮戦争に行かずにすんだのは幸運だった。

皆行きたくなかったさ。

宣戦布告も無かった」

 

 

「除隊後、ロサンゼルスでようやく大学に入った」

「シティー・カレッジだ」

「何を専攻」

「経営学」

「なぜ?」

「目標が特にない者は必ずそれを選ぶから」

(会場笑)

「演劇科は定評が・・・」

「だが選ばなかったよ。

演劇科は避けた(笑)。

中学の演劇を思い出して2度とゴメンだと思った」

「でもやがて演劇と接点が」

「劇団がたくさんあって、

そこに知り合いができた。

彼らは皆 A・チェーホフの甥の

M・チェーホフの演技法や、

スタニスラフスキーをもとに学んでいた。

私も興味を持って

演劇の授業を受けるようになった。

昼は学校、夜はバイトで忙しかったよ。

やがて仕事がもらえた。

ユニバーサルスタジオのある撮影監督の勧めで

テストを受けたら合格したんだ。

ユニバーサルの契約俳優になった。週給78ドルだった」

「78ドル?」

「定収入のある職だ。悪くない話しだったよ」

 

「M・チェーホフの理論の

心理的ジェスチャーを学びましたか?」

「ああ。あれは有名だ。

当時、俳優の教科書といえば

スタニスラフスキーの『俳優修業』と

M・チェーホフの『演技者へ!』だった。

チェーホフは肉体が内面に作用することを説いた。

スタニスラフスキーは内面という核から外に向かうと考えた。」

「M・チェーホフは体に役の中心点を置けとも」

「役の心理的中心点を、体のどこかに置くんだ。

内気な役を演じるなら体のうんと内側に、

心理的中心点を置く。

軍人を演じるなら体の外側に

ヨロイがあると想像すれば

軍人らしさを出せるというんだ」

 

 

「ユニバーサルの契約俳優としてどんな仕事を?

…(会場に向かって)今は無い制度だ」

「大して仕事は・・・

演技の講習を受けたり

スタジオの外で遊んだりね。

周りは田舎で、馬にも乗れた。

そしてダンスの講習もあった」

「受けました?」

「ああ 受けたよ。

フレッド・アステアには負けてたが」

(会場笑)

「さぞ有望で」

俳優は恐れずに何にでも挑戦すべきだと思ったんだ。

やるならとことんまでね。

だから何にでも参加したよ。

週に1回しか来ない者もいたが

私は毎日通っていた。

何でも吸収しようとして、

いろいろ見学し歩いていたら

演技のコツのようなものに、やがて気がついた。

ある日突然感じたんだ。

いよいよ道に踏み出せたとね。

演技は音楽の演奏とは違う。

楽器を使うのとは違い、自分の感情を使うもので

その動きをなかなか把握できない。

最初は漠然とした感覚で

演技と言えるのかどうか分からないが

ある瞬間スイッチが入って、他人も反応しはじめる

「まさにそうです。突破口が開かれる。

・・・何年ユニバーサルに?」

「1年半いた。

1年過ぎた時、辞めてほしいと言われた。

昇給すると週給100ドルを超えるからだ。

昇給なしならあと半年いていいと言うので、

私はそのまま居続けた。

でも半年後、結局は追い出された」

高くつくと?」

「ああ。私はやむなくテレビの世界へと出ていった」

 

つづく

 

制作総括:ジェームズ・リプトン

演 出:ジェフ・ビュルツ

制 作:ブラボーTV、ザ・モーメント・プロダクションズ

(2003年、アメリカ)

日本語字幕:米沢啓子

 

<1>

出生〜駆けだし俳優の頃

<2>『ローハイド』〜マカロニ・ウエスタン3部作で大ブレイクの頃

<3>演じる側から監督へ『恐怖のメロディ』の頃

<4>『ダーティハリー』〜『ダーティファイター』の頃

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