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   聴き手が主役のコンサート談話室(1)
  (2006年5月までの分)
新聞や雑誌のコンサート評、チラシやコンサート・プログラムの記載、CDの
ライナーノート等に何と書かれていようがいまいが、
それぞれの聴き手が自分で感じたことを、ホンネ・ベースで語り合えるのが
Internet時代のいいところでは?

この談話室は、音楽や舞台芸術全般にわたって、
徹底した「聴き手志向」で、しかも、マニアックにならないようにしながら、
無名だがステキなコンサートやアーティストをお互い発掘しあったり、
巨匠だが「こりゃ、どうみてもヘンだょ」といったことを注意喚起しあったり
しながら、「ココロのごちそう」を みんなで堪能していく一助にしていきたい
と思います。
ご感想や投稿をお待ちしてます。

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聞き手が主役のコンサート談話室(2)
  2006年6月〜2007年の分はこちらへ ⇒





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Figaroのいろんな音楽体験から
新登場!Figaroの「勝手にランキング」

コンサート版「ミシュラン」の新登場。
Figaroの音楽体験を、つぎの基準で★印にしてご紹介します。

★★★★★ 感動で涙が出た、もしくは思わず「ブラボー!」と叫んでしまった、
         一生モノの”私のココロの財産”コンサート
★★★★   「このチケット代でこれだけ感動したり楽しめたのは超お値打ち!」
         といった大満足コンサート
★★★    チケット代に見合うクォリティーで楽しめたコンサート。
         ここでは、星3つを標準点とします。
★★      「この程度だったら、無名のアーティストで もっとウマいのがたくさん
         いるョ」、といった、興醒めで フラストレーションの残るコンサート
       会場で思わず「ブ〜!」と叫んでしまったり、「ヒドい! 金返せ!」と
         言いたくなるような、後味のよくない最悪コンサート。


     


二期会ゴールデンコンサート

★★
(5月13日 津田ホール)


このシリーズも4年目、第13回まで来、すっかり定番化した感。この日は、羽山弘子(ソプラノ)、西川裕子(メゾ・ソプラノ)、成田勝美(テノール)、そしてピアノ伴奏に山田武彦という顔ぶれで、イタリアもの特集。

第1部が、入れ替わり登場でそれぞれのお得意を聴かせるパートで、ヴィヴァルディのオペラ「ジュスティーノ」から”よろこびとともに会わむ”、ドニゼッティの「ジプシーの女」(西山)、レオンカヴァッロの「マッティナータ(朝の歌)」、マスカーニの「花占い」(葉山)、デンツァの「妖精の瞳」(成田)、ロッシーニのオペラ「セミラーミデ」から”美しくも魅惑的な光が”(西山)、プッチーニの「大地と海」、「太陽と愛」(羽山)、そしてレスピーギの「霧」、「バッラータ」(成田)というプログラム。
休憩を挟んで第2部は、ヴェルディの「アイーダ」ハイライトで、エジプトの奴隷(じつはエチオピアの皇女アイーダ)に葉山、エジプトの皇女アムネリスに西川、エジプトの将軍ラダメスに成田、という役回りで、司会の解説を交えながら、「清きアイーダ」(成田)、「勝ちて、帰れ」(羽山)、「戦いに敗れた国の、お前の苦しみはよく判る」(羽山、西川)、「あなたの運命を決する司祭たちが集まっています」(成田、西川)、そして全員による最後の場面「死の運命の石が、私の上に閉ざされた」〜「さようなら、大地、涙の谷よ」〜「あなたの上に平安がありますように」という、大スペクタクル・オペラのお気軽エンジョイ・ダイジェスト!

客席数600ほどの、あまり広くないホール全体にガンガン鳴り響く3人の日本人離れした声量に、まず、度肝を抜かれる。そして、(前回もそうだったが)山田武彦のピアノ伴奏も、絶妙なバランスとテンポで上手い!!(この人、元々は作曲家とのこと)
フル・オーケストラも、合唱も、舞台装置も、衣装も無い演奏会形式で、しかもハイライト版でありながら、(このコンサートに出かける前にアイーダのビデオをちょっと観ておいたということもあるのかも知れないが)ホンモノの舞台のイメージを充分に彷彿させる彼らの力量は、さすが。
フォルテッシモのところなんぞ、私の頭をガツンガツンとぶん殴られたって感じの強烈なインパクトで迫ってくる。

ところで、津田ホールの休憩時間は、みんなコーヒーばかりオーダーしており、赤ワインを頼んだのは、どうやら私だけみたい。おかげで、冷蔵庫から出してきたものは冷え過ぎており、しかもいつコルクを開けたのか分からないシロモノで、香りがほとんど抜けていた。でも、ワインのガッカリを充分過ぎるほどにリカバリーし、声の迫力に酔わせてくれたこの日の皆さんに乾杯!


「熱狂の日音楽祭」(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン)
トヌ・カリユステ指揮RIAS室内合唱団&ベルリン古楽アカデミーによる「レクイエム」と「アヴェ・ヴェルム・コルプス」
★★(5月6日 東京国際フォーラムA)


このイベントの最後を飾ったのが、夜9:45からのこのコンサート。
'48年に結成されたドイツのRIAS室内合唱団と、古楽の名門、ベルリン古楽アンサンブルを、エストニア生まれのトヌ・カリユステが指揮し、ソリストには、スンハエ・イム(韓国出身のソプラノ)、カレン・カーギル(英国出身のアルト)、ユッシ・ミュリュス(フィンランド出身のテノール)、コンラッド・ジャーノット(英国出身のバリトン)という顔ぶれ。
この音楽祭の期間中に、「レクイエム」も「アヴェ・ヴェルム・コルプス」も、違う演奏でそれぞれ2回づつ聴けた幸せ!

3日に行われたミシェル・コルボ指揮ローザンヌ声楽アンサンブル&シンフォニア・ヴァルソヴィアの「レクイエム」K.626に比べ、この日のこの曲は、合唱が、よりダイナミック&ドラマティックな構成であり、また、ベルリン古楽アンサンブルのほうも、燻し銀のような温かいサウンドでありながらガンガン弾きまくる楽員(特にコンサート・ミストレス)のパワーが印象的だった。

特筆すべきは、「Dies irae」(怒りの日)での、激しい感情をドドーンと前に出しながらも決して乱れない合唱の力量、そして次の「Tuba mirum」(奇しきラッパの音)でのテンポの意外な速さとアルトの声の伸びの良さ、さらに、「Lacrimosa」での、この世のものとは思えないほどの美しい響き(ピアニッシモの中での合唱と古楽アンサンブルとの見事な調和から、徐々に盛り上がっていき大きな”うねり”となっていくあたりの見事さ!)、「Hostias et preces」での合唱の統一感等々、さすがに本場もの! 無信心の私でさえ、敬虔な気持ちになってくる。

続いての「アヴェ・ヴェルム・コルプス」ニ長調K.618では、4日のペーター・ノイマン&ケルン室内合唱団+コレギウム・カルトゥシアヌムの時と同様、この天上の響きに自然に涙がこぼれてきてしまった。
舞台と客席が一体となり、弾き手、歌い手、聴き手のココロが一つとなりながら、この心の安らぎを現代の私たちにプレゼントしてくれているモーツアルト氏に対して、21世紀の私たちから目一杯の感謝の気持ちを表現しているかのよう。
そして鳴り止まぬ拍手。

最後の日の最後のコンサートとあって、この音楽祭のプロデューサーであるルネ・マルタン氏からのメッセージ(日本語訳)が読まれた。
最後のコンサートのアンコールとして、モーツアルトのフリーメーソンのためのカンタータに付いている小曲「かたく手をにぎりしめて」(Lasst uns umschlungenen Handen)K.623aを演奏します、とのこと。
モーツアルトの死の1ヶ月前に書かれた1分ほどの短い合唱曲で、「集合の終わりに」と記され、”われら手をつないで...”と歌われる、まさにこの音楽祭のエンディングと永久なるモーツアルトへのオマージュに相応しいアンコール曲。(1954年からこの曲がオーストリア国歌にもなっている。)
直前に書かれた「魔笛」の中の僧たちの合唱を彷彿させる、荘厳な中にも親しみ易い曲で、それこそ、力作の”今風「魔笛」”の感動ストーリーとダブって聴けてしまい、またまた感涙!。

いやぁ、充実したゴールデン・ウィークでした!


「熱狂の日音楽祭」(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン)
小曽根真によるピアノ協奏曲第9番「ジュノム」
★★(5月5日 東京国際フォーラムC)
(帰宅後、録画しておいたNHK-BS2の生中継映像より)


「コシ・ファン・トゥッテ」とともに、この音楽祭で是非とも行きたかったが、チケット発売日に直ぐに売り切れとなって諦めていたコンサート。当日、NHK−BSがこの会場から6時間近い生中継をしており、自宅で録画ボタンを押して会場に出かけ、下記の別のコンサート等を楽しんで帰宅し、再生したところ、このピアノ協奏曲9番変ホ長調K.271がしっかり録画されており、ラッキー!
フランソワ・グザヴィエ・ロスというフランスの指揮者&ポワトゥ・シャラント管弦楽団というフランスの臨時編成オーケストラとの競演。

殆ど独学(だけどバークレー音楽院から名誉博士号を受賞した)という、今や世界のジャズ・ピアニストが初めて弾くモーツアルトのピアノ協奏曲って、どんな感じで弾きまくるか?
カデンツァはどこまでアドリブで斬新か?(崩すか?)
興味深々で聴いてみたら...
いやぁ、お見事!
ジャズとモーツアルトとの見事な融合で、こりゃもう、キース・ジャレットやチック・コリアを超えた!
フリードリッヒ・グルダよりも、メチャクチャ面白い!
オリジナル楽譜の部分は楽譜通りに弾くが、さすが、スウィング感がステキ。そして、カデンツァになるや、ときにキース・ジャレットみたいな苦悩の(?)表情を示しながらも、完全に即興で、モーツアルトがどんどん現代に近づいてくる! そして、いつの間にか”今風モーツアルト”の極致に!

モーツアルトがもし生きていてこれを聴いたら、曲が終わるやいなや、間違いなく小曽根氏のところに駆け寄り、「ありがとう、マコちゃん!こんな風に弾いてくれて、ホント、嬉しいなぁ! ねぇ、ボクもそのノリでやってみていい? こんな風にかい?」なんて言いながら、スウィングしたり、ガンガン アドリブしたりして、いつの間にか徹夜のジャム・セッションになっちゃったに違いない。
ビデオで観てると、オケの楽員たちも大喜びの表情。
さて、次はどのコンチェルトを聴かせてくれるか、ホントに楽しみ!
これぞ、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンならではの企画!


「熱狂の日音楽祭」(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン)
木之下晃「Dear Maestros - 写真と自筆が語る世界の音楽家たち」展
★★(5月5日 銀座和光本店6階)


40年もの間、世界中の著名クラシック音楽家たちを撮り続けてきた写真家木之下氏の個展。
音楽家たちが木之下氏に撮られた自分の写真を気に入り、こぞって絶賛し、その写真にサインしたり賛辞を書いたりしたもののみ約70点のオリジナルが展示されていて圧巻!

マリア・カラス、カラヤン、バーンスタイン等の故人から、バルトリ、小澤征爾、アルゲリッチその他の大スターまで、見事な個性描写や迫力で圧倒される。
これも、音楽家たちとの信頼関係あってのもの。木之下氏の人徳のたまものといえよう。

同氏から様々なエピソードを聞かせて戴き、かつ、持参した写真集「音楽家のオフステージ」に気さくにサインもして戴いた。


「熱狂の日音楽祭」(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン)
イザイ弦楽四重奏団、弦楽四重奏曲集
★★(5月5日 東京国際フォーラムB5)


’84年に、パリのコンセルバトワールの学生により結成された、今やフランス室内楽の老舗の来日。
モーツアルトの弦楽四重奏曲第18番イ長調K.464と、第19番ハ長調「不協和音」K.465の2曲で、これも1,500円という超おトク(?)マチネ。

K.464の出だしの、これ以上望みようが無いと思えるくらいの完璧に揃ったアンサンブルに、先ず驚いてしまった。
また、K.465では、2楽章の美しさ! 第一ヴァイオリンの滑らかな響きは、モーツアルトが幼い頃、「バターのヴァイオリン」と呼んでた話を思い出す。


「熱狂の日音楽祭」(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン)
児玉桃&堀米ゆず子、ヴァイオリン・ソナタ集
★★(5月5日 東京国際フォーラムB5)


今まさに旬の児玉桃のピアノと、円熟の鏡にさしかかった堀米ゆず子のヴァイオリンという、日本を代表する二人による、モーツアルトのヴァイオリン・ソナタのマチネ。
(定員234名という小ホールで、40番変ロ長調K.454と、42番イ長調K.526の2曲で1,500円というお値打ちコンサート!)

シンプルな紺のロングドレス姿の児玉と、かたや、白のパンツスーツで上が児玉と同じ紺色と白の混ざった柄といったいでたちの堀米は、気取ったところなく、髪も上げてお団子のようにうしろに纏め、フツーのお嬢さんとフツーのオバサン(失礼)によるサロン・コンサートといった感じでサラリと弾きとおした。
全ての神経を集中させての真剣勝負というより、お祭りに招かれた有名人がちょいと腕のほどをご披露したっていう気さくな感じの1時間。
K.454のサロン風な”ノリ”と、K.526の第2楽章の美しい旋律が印象的。


「熱狂の日音楽祭」(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン)
ペーター・ノイマン指揮ケルン室内合唱団、コレギウム・カルトゥシアヌム
★★(5月4日 東京国際フォーラムA)


モーツアルトのミサ曲全曲をはじめ主要宗教曲の録音でも著名なペーター・ノイマンが、彼が'70年に創設したケルン室内合唱団と、'88年設立のバロック・オーケストラ「コレギウム・カルトゥシアヌム」を率いて来日。
ソリストに、ヒョン・ミョウンヒ(韓国出身のソプラノ)、アリソン・ブラウナー(アイルランド出身のメゾ・ソプラノ)、ヴィンチェンツォ・ディ・ドナート(イタリア出身のテノール)、ティロ・ダールマン(ドイツ出身のバス)を迎え、プログラムは以下のとおり。

1)マルティーニ: モテット「神よ我が訴えを聞き分け給え」
2)モーツアルト: 証聖者の荘厳な晩課(ヴェスペレ)ハ長調K.339
3)モーツアルト: 聖母マリアのオッフェルトリウム ヘ長調「創り主の魂」K.277
4)モーツアルト: レジナ・チェリ ハ長調K.276
5)(アンコール)モーツアルト: アヴェ・ヴェルム・コルプス ニ長調K.618

夜の10時からのコンサートということで、5千人入るホールの半分以上が空席だったが、感動的な一夜だった!

ソリスト達は上手側(のオーケストラの外)に指揮者の方を向いて並び、どちらかというと合唱団とオーケストラが中心の演奏会、という配置。

最初のマルティーニは、プログラムには入っていなかったオマケ。期待違わず、出だし部分の合唱団のアカペラのところからして、一糸乱れぬ抜群のハーモニーで客席を圧倒!
こんなにも濁りの無い、乱れも無い、しかも心のこもった合唱の生演奏は初めて!

K.339は、「主をほめたたえよ!」、といった趣旨の、いわゆる実用教会音楽だが、後半の「Laudate pueri」の”これぞモーツアルト!”の精神的高揚、そして、続く「Laudate Dominum」のソプラノのソロとそれと共に奏でられる弦の美しさ、そして合唱がそっと入ってくるあたりの、まさに天上の音楽とでもいいたくなるほどの響き!
聴いている者にとっては、「モーツアルトをほめたたえよ!」という宇宙からの声に聴こえてくる!

K.277とK.276は、それぞれ数分の曲で、ともにキリストをお産みになったマリアへの賛歌。2曲続けて演奏された。
ここでも、合唱団のハーモニーが素晴らしく、ビールのCMじゃないが”キレもいい”のだ。そして、弦のピアニッシモとの絶妙な調和が、静かな心の高揚を誘う。
これら聖母マリアへの賛歌も、じつはモーツアルトへの賛歌(オマージュ)でもある、としみじみ感じ、熱いものがこみ上げてくる。

鳴り止まぬ拍手とスタンディング・オベーションに、(もう夜中の11時近かったが)アンコールとして、モーツアルト至福の、そして最高峰の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が奏でられるや、もう、感涙で顔はグチャグチャに。
”今風「魔笛」”台本の中に、舞台と客席と一緒になってこの曲を歌う感動のシーンを書かせて戴いたが、まさに、その感動がここにはあった。
(さぁ、つぎは”今風「魔笛」”の公演実現ですね!!)


「熱狂の日音楽祭」(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン)
海老沢敏コレクション モーツアルト展
★★(5月4日 丸ビル7階ホール)


世界的モーツアルト研究家で、ザルツブルクのモーツアルテウムにもそのお名前が大理石に刻まれている海老沢先生ならではの”お宝”大公開! 入場無料。

たしか、1991年のモーツアルト没後200年記念の際は、都内の百貨店で先生のオタカラが公開されたことがあったが、今回はあの時を凌ぐ充実ぶり(なんと122点公開)で、モーツアルトが愛用したフォルテピアノ(アントン・ヴァルター製作)と同種のものによる無料ミニ・コンサート(奥様の小川京子さん、他の演奏)まである。

目玉は、モーツアルトが書いたオリジナル自筆楽譜そのもの(ロンドイ長調K.386の155〜171小節目と、ミサ・プレヴィスK.192のトランペット・パート譜の2枚)や、チニャローリによる15歳のモーツアルト肖像画(油絵)のオリジナル(複製の方がモーツアルテウムに所蔵)。
その他、モーツアルトが会った王侯貴族や作曲家等の自筆書簡や、楽譜・伝記等の初版本、等々、モーツアルト・ファンにとっては、ため息まじりにじっくり見ていると1時間以上かかってしまう。

いやぁ、それにしても先生、凄いコレクションですねぇ! 仕事&研究と趣味(道楽)とがイコールになっていることの幸せ!

ちなみに、ここで展示されていた先生のコレクションの中で、我が家にもあるのは肖像画エッチング復刻版3点と、モーツアルトの自筆楽譜のファクシミリ(コピー)2点。


「熱狂の日音楽祭」(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン)
モーツアルト室内管弦楽団ロビーコンサート
★★(5月4日 東京国際フォーラムロビー)


この音楽祭では、幾つかの場所で、プロ、アマ問わず、様々な無料コンサートも開かれている。
そのうちの一つ、ロビーで演奏されたアマチュア・オーケストラ「モーツアルト室内管弦楽団」(指揮:角岳史)による「皇帝ティトの慈悲」序曲K.621と、交響曲第31番ニ長調「パリ」K.297を聴いて、思わず目頭が熱くなってしまった。

モーツアルト・ファンを中心に、1972年に中野(注:私の生まれた所でもある)で結成され、既に40回もの定期公演も行っているとのこと。
そりゃ、プロと比べたら響かないし凄いテクニックがある訳でもない、高齢者中心の”ジジババ・オケ”(失礼)だが、一生懸命弾いている姿や表情が、なんとも良いのだ。そして、真摯なココロがちゃんと音にも出ていて、一見無表情のようにみえるおじいちゃん、おばあちゃま方が、とてもステキにみえてくる。音楽の真髄とパワーを、あらためて教えてくれた皆さんに、ブラボー!
私も見習わなくちゃ!!


「熱狂の日音楽祭」(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン)
フィリップ・ピエルロ指揮リチェルカール・コンソート
★★(5月4日 東京国際フォーラムC)


ベルギーの古楽界の重鎮で、’80年に古楽アンサンブル「リチェルカール・コンソート」を創設したフィリップ・ピエルロが、このアンサンブルを率いて来日。
第1ヴァイオリン4、第2ヴァイオリン3、ヴィオラ2、チェロ2、コントラバス1、ホルン2、オーボエ2、オルガンという小編成。
ソリストに、セリーヌ・シェーン(ベルギー出身のソプラノ)、ロミーナ・バッソ(イタリア出身のメゾ・ソプラノ)、ジュリアン・ポッジャー(英国出身のテノール)、フリオ・ザナーシ(英国出身のバリトン)を迎え、プログラムは、
1)モーツアルト: モテット「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」ヘ長調K.165
2)モーツアルト: カッサシオン第5楽章アダージョ K.63
3)ハイドン: サルヴェ・レジナ ホ長調 Hob.XXIII.b.1
というもの。

しっとり聴かせる古楽器アンサンブルをバックに歌う「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」は、1月のザルツブルクでのウィーンフィル&バルトリの時のような大編成オーケストラによるものと比べ、より身近で親しみ易く聴こえてくる。
なんと裸足で登場したソプラノのセリーヌ・シェーンは、シックな黒一色の、裾を斜めにカットした床まで引きずるロングドレスで、右肩は袖なし、左側はラッパのような広がりのある袖で裏地がなんともあでやかな深紅といういでたち。このドレスに裸足姿で、さっとうと登場するや舞台に華が咲いたよう。しっかりした歌いぶりで好感が持てるが”超感動”ってほどじゃないのに大満足できたのは、2千円というお手頃価格に、古楽アンサンブルとのインティメイトな響き、そしてドレスも含むこの舞台演出かな?

2曲目は、プログラムには「アダージョとフーガ ハ短調K.546」と書いてあったが、特にアナウンスも無くカッサシオンに変更となっていた。ヴァイオリンのソロと弦楽アンサンブルの絡み合いが心地よい。

ハイドンの曲は初めて聴いた曲。聖母マリアに対する賛辞の曲で、なんでも、モーツアルトが産まれた1756年に作曲されたとか。250周年に相応しい曲。
メゾのロミーナ・バッソは、シェーンに合わせたのか、黒のシンプルなロングドレスに、これまた深紅のストールを肩から腰にかけて斜めに(まるで坊さんの袈裟のように)かけていたのが印象的。

K.165のハレルヤといい、ハイドンのこの曲といい、聴いているうちに、ともにモーツアルト生誕を祝しているように思えてくる。まさに「ハレルヤ(ばんざい)モーツアルト!」のお祭りである。


「熱狂の日音楽祭」(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン)
ミシェル・コルボ指揮ローザンヌ声楽アンサンブル
「ミサ曲ハ短調」K.427

★★(5月4日 東京国際フォーラムA)


モーツアルトが父親の反対を押し切ってコンスタンツェと結婚し、ザルツブルクに戻ってきた時に、新妻もソリストにして地元の教会に奉献した、いわくつきの未完のミサ曲。

前日に続いて、ミシェル・コルボ指揮、ローザンヌ声楽アンサンブル、シンフォニア・ヴァルソヴィア。ソリストは、カティア・ヴァレタズ(フランス出身のソプラノ)、谷村由美子(ソプラノ)、ヴァレーリオ・コルタンド(イタリア出身のテノール)、ヴァンサン・ピニャ(スイス出身のバスでローザンヌ声楽アンサンブルのメンバー。ソロ以外は合唱に参加)という顔ぶれ。
前から13列目の席で、ヘンな残響無しに聴けた。

「Gloria」のところのソプラノのソロおよびソプラノ・デュオが、弦の美しさと調和しながら、客席の人々の心の洗濯をしていってくれたっていう感じ。
「Credo」の後半でも、ソプラノのソロと、クラリネット、ファゴット、オーボエとの絡みもまた”天上の美しさ”といった感じで、心に沁みる。

いつか(近い将来?)我が家の子供たちも「このヒトと結婚します!」って相手を連れてくるんだろうか? はたしてその時、私はどんな父親的態度(?)で何を喋っているだろうか?
そんなクエスチョンが頭をよぎりながら、レオポルト・モーツアルトの心境でしみじみと聴いていた次第。


「熱狂の日音楽祭」(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン)
ミシェル・コルボ指揮ローザンヌ声楽アンサンブル
モーツァルト「レクイエム」K.626
★★(5月3日 東京国際フォーラムA)


フランスの古都ナントで'95年にスタートした熱狂の日音楽祭「ラ・フォル・ジュネ」の日本版「ラ・フォル・ジュネ・オ・ジャパン」の2年目は、東京国際フォーラムを中心とした丸の内エリアで、殆どモーツァルトばかりのコンサートが4日間で200も、そして展示会やトークショー、キッズプログラムや講習会まであって、ゴールデンウィークはまさにモーツアルト浸け!

初日、合唱の神様との誉れの高いミシェル・コルボ率いるローザンヌ声楽アンサンブルと、ポーランドの室内オーケストラ、シンフォニア・ヴァルソヴィア、そして、ソリストに、谷村由美子(ソプラノ)、ヴァレリー・ボナール・ビュクス(スイス出身のアルト)、ヴァレーリオ・コルタンド(イタリア出身のテノール)、ステファン・インボーデン(スイス出身のバス)によるレクイエムを聴いた。

5千人も入る東京国際フォーラムは、コンサートには向かないと敬遠してきたが、1階の前から14列目の席に届く音は、さほどモワンモワンしておらず、ひと安心。

当日は2つのパートに分かれ、はじめはモーツアルトの書いた(ままの?)オリジナル版を演奏し、続いてジェスマイヤー版による全曲演奏という、モーツアルト・ファンにとってはなんともありがたい一夜で二度おいしいコンサート!
このことだけで、この音楽祭のファンになってしまった。

なかなか生で聴く機会のないオリジナル版は、「Tuba mirum」等を除き、殆どが弦とオルガンによる強弱のあまり無い楽器陣と合唱、ソリストによる”清楚”という言葉が似つかわしい響きで、いきなり「Dies irae」(怒りの日)から始まり、「Hostias et preces」(いけにえと祈りを)までが演奏された。

金管3本が追加され、拍手無しに演奏に入ったジェスマイヤー版は、宗教音楽の権威、コルボならではの、(決してドラマティックになり過ぎない)端正なつくりに感心。
「Tuba mirum」の四重唱が、まるでオペラの四重唱のようなソリスト間の心の繋がり。アルトのビュクスが(若いながら)存在感を示す。テノールは今ひとつ声が出てこない。

(ここまで、ソリストは左からソプラノ、アルト、テノール、バスと並んでいたのが、「Recordare」(憶えたまえ)だけ、ソプラノ、テノール、アルト、バスの順に入れ替わり、その後、また戻ったのはなぜ?)

そして、
聴かせどころの「Lacrymosa」(涙の日)の合唱の、特にピアニシモ部分の、なんと美しいこと!
ここだけでも3千円は超お値打ち!
そして「Domine Jesu」(主イエス・キリスト)部分では、合唱は、時に力強く、おおきなうねりになっていく見事さはコルボの力量か?
(指揮台を置かず段差を無くした舞台は、足のご不自由なコルボ氏へのスタッフの気配りでは?)

ところで、「Domine Jesu」と「Hostias」に出てくる”Quam olim Abrahae promisisti”(主がその昔、アブラハムとその子孫とに)という部分が、いつ聴いても、何度聴いても「守りたまえ、この身 死すに!」と聴こえてしまうのだけど、コレ、「空耳アワー」に投稿しようかしらん?


ヴェルディ: レクイエム by リッカルド・ムーティ


★★★★
(4月6日 東京文化会館


小澤征爾氏が音楽監督となり開催された「東京のオペラの森」のコンサート・シリーズの一つ。(マエストロ小澤はダウンなさってしまわれたようだが、フェスティバルは小澤氏抜きでも無事に終了)

1月26、27日の両日にザルツブルクで堪能させてもらったムーティが指揮し、ソリストに(上記写真左から)バルバラ・フリットリ(ソプラノ)、エカテリーナ・グバノワ(メゾソプラノ)、ジュゼッペ・サッバティーニ(テノール)、イルデブランド・ダルカンジェロ(バス・バリトン)といった実力派が出るというので、期待して行った。オーケストラはこのフェスティバルのために編成された、主として日本人の演奏家達。

寄せ集めのオーケストラで、しかも、超人気指揮者ゆえ事前の合わせの時間も殆ど無かったであろう中で、(細かいことを言えば金管楽器等にやや乱れ等はあったものの)強弱のダイナミズムや全体の流れ(うねり?)も含めて、あたかも一遍の大抒情詩のようなスケール感と統一感で聴かせたのは、やはりムーティーの凄さ、偉大さなのだろう。

ソリストたちの中で最年少のエカテリーナ・グバノワは、なんと26歳。この若さで充分に聴かせる彼女は、10年後、20年後、未来のバルトリの貫禄を示してくれるやもしれない。将来が楽しみ!
売出し中のフリットリもサッバティーニも、そしてダルカンジェロも、さすがに安心して聴ける。

それにしてもこの曲、Dies iraeやフィナーレ部分等の、”死んだ人もコレ聴いたら生き返っちゃう!”ほどの重低音いっぱいの大音響部分なんぞ、肉食人種ならではの宗教曲。精進料理の仏教世界では考えられないこと。となりに座ってたオバサマ達なんぞ、終演後、「大太鼓、カッコよかったわねぇ!」なんて言いながら拍手していた。

ダイナミックな重低音の生演奏を聴くのもいいもんですね。でも、私の葬式の時にこの曲を流すのは止めてよね。。永眠したくても出来なくなっちゃいそうだから。


チェチーリア・バルトリ&チョン・ミョンフン デュオリサイタル
★★★★(3月21日 サントリーホール


世紀のメゾソプラノの13年ぶりの来日ということだが、私たち夫婦は1月末の2日間、ザルツブルクで堪能したばかり。2ヶ月足らずの間に3回もバルトリのナマを聴けることの何と幸せなことか!

演奏が始まる前に、体調不調だが全力を尽くす、との日本語訳メッセージが会場に流れ、はたしてどんな具合か心配しながらステージに注目していると...、登場したバルトリのグリーンのドレスは、ザルツブルクでのステージと同じもので、もうそれだけで、会場中をまるでオペラの舞台のように華やかになってしまう。(ミュンフンはクルーネックのシャツに普通のダークスーツって感じ)。

当初予定されていたプログラムを若干変更し、別の日のプログラムの曲と差し替えしたり、高音部分を押さえ気味に歌う等、不調克服の工夫をしながらもお客に大満足を与えてしまうのは、さすがプロ中のプロ、お見事!
それにしてもこの大スター、メゾソプラノとはいいながら、ソプラノの音域も、アルトの音域も楽々とこなしてしまうのに、いやぁ、圧倒されてしまう。

モーツアルトの「鳥よ、年ごとに K.307」、「喜びのときめきが K.579」、「わからないわ、どうしたの K.582」、をかわきりに、ベートーヴェン、シューベルト、ロッシーニ、パイジェッロ、後半はスペイン系フランス人作曲家のヴィアルド、フランスの作曲家ドリーブ、それにお得意のベッリーニヤロッシーニ等といった作品を、それこそ超絶テクニックとたっぷりの感情でで歌いこなす!

ザルツブルクで体験したバルトリの圧倒的な迫力・音量こそ不足していたものの、曲に女心が乗り移って、ある時は激しく、また、ある時は優美に、繊細に、迫ってくる!

伴奏のチョン・ミョンフンは、バルトリの繊細かつ完璧といっていいほどのテクニックに比べるとやや粗く、しかも演奏中に足をドンドン鳴らすのが雑音に聞こえて不満が残った。
人気のこの二人のデュオにした方がチケット代を高く取れるというプロデューサーの計算か?
(株式会社IMXクラシックス&アーツというチョン・ミョンフンのマネジメントをやっているところが主催者だから仕方ない、と言ってしまえばそれまでだが)
また、曲ごとに拍手したり、演奏途中で席を立って帰ってしまう観客がいたのはちょっと興醒め。


ところで、この日は、初めて、サントリーホールの(客席中央からみて)ステージの右側の席で、バルトリを真横から聴いた訳だが、彼女は一見、小柄に見えて、じつは胸板(胸幅)の厚いことに初めて気づいた。だからあれほどのダイナミックな声が出るのかも?


ホーネック&ウィーンフィル演奏会
★★★★(1月30日 ザルツブルク祝祭大劇場


ダニエル・バレンボイムの弾き振りによるモーツアルトのピアノ協奏曲が楽しみだったのだが、27日にベルリンで行われたモーツァルト記念コンサートで心臓発作を起こしたとのことで、急きょ、指揮がマンフレッド・ホーネックに、ピアノがアレクサンダー・ロンクィッチに変更となった。
(ウィーンでも、小澤征爾さんが体調を壊し、1月31日に予定されていたウィーン国立歌劇場の「イドメネオ」の指揮を降板することになったとのニュースあり、つくづく、音楽イベント・プロデューサーは大変だろうな、と思った次第)

さて、代役指揮者とはいえ、モーツァルトの本場の頂点に位置するウィーンフィルであり、しかも、指揮はそのウィーンフィルのコンサートマスターの一人であるライナー・ホーネック(当日は舞台には乗っていなかったが)と兄弟、ってな訳だからそうそう期待外れは無いと、安心して席に着いたが(席は前から6列目のやや左側の、やはり残響少な目にストレートに音が伝わってくる席)、当然のことながら(?)充分満足のいく演奏会であった。

プログラムは、
・交響曲39番 K.543
・3台のピアノのための協奏曲「ロンドン」 K.242
 (ピアノ: Saleem Abboud Ashkar、Shai Wosner、Alexander Lonquich)
休憩をはさんで、
・ピアノ協奏曲22番 K.482
 (ピアノ: Alexander Lonquich)

39番の交響曲は、ウィーンフィルにとって恐らく何百回となく演奏してきた十八番のひとつであろうから、指揮者が誰であろうと(よほどヘンな指示でも出さない限り)悪いはずが無い。
26,27日と違い、第2ヴァイオリンが客席からみて右に位置し、低音部の弦が左の第1ヴァイオリンの奥に位置したオーケストラ配置。
5日間でウィーンフィルを3回聴いたことになるが、それにしても、パート間で殆ど乱れることのないハーモニーの素晴らしさ、ピアニッシモでも完全といえるほどに一つにまとまって”歌う”弦の見事さ、要所要所のソロパートで目立ち過ぎずに「燻し銀」のような渋い味を出す木管ややホルン、そして、ウィーンフィル独特の軽さ(?)とテンポ感や「間」のセンスの絶妙さ...!
よけいな残響で音がこもることが無い分、これらの(世界最高峰の)スゴさを、リアルに感じ、心から感動した。


3台のピアノのための協奏曲は、昨年のモーツァルトの誕生日(= フリードリッヒ・グルダの命日)に、すみだトリフォニーで行われた、アルゲリッチと、グルダの二人の息子による「グルダを楽しく想い出す会」で演奏された曲。
昨年は、3台のピアノが舞台からみて横に交互に並べられ、ソリストたちが顔を見合わせながら楽しそうに弾いていたが、この日は3台のピアノともに、ソリストたちが客席に向かって顔を見せながら弾く形に設定されていた。Lonquichは、急きょ代役登場のため譜めくり付き。

22番のコンチェルトは、(バレンボイムが出られないなら内田光子さんに弾いて貰えたら申し分無かったのだろうが)、初めて知ったLonquichさんも(センセーショナルなデビューってなニュース性は全く無かったが)悪くはなく、楽しめた。

ところで、むこうのコンサート会場では、いい演奏にめぐり合った時、拍手の他に、足で床をドンドン叩く。これが地響きとなって、「ブラボー」の声とは違った”感動の一体感”のようなものが生まれてくるのが新鮮な体験だった。日本でもやってみるかナ?(キザかな?)


内田光子ピアノ・リサイタル

★★
★★(1月30日 ザルツブルク・モーツァルテウム大ホール)


期待していたが、期待を大きく超えた珠玉のマチネ!
前から3列目の席だったので音が通り過ぎていってしまうのではと懸念したが、そんなことは無く、細部の繊細なニュアンスまでストレートに伝わってきた。シャンデリアが輝き、天井に天使達のレリーフが飛ぶ、それはそれは美しいホールでの最上のモーツァルト体験!

プログラムはモーツアルトのピアノ曲のベスト・セレクションともいえるもので、内田光子の内田光子たる得意中の得意の、つぎの数々。
・幻想曲ハ短調K.475 〜 ピアノソナタハ短調K.457
・アダージョ ロ短調K.540
休憩をはさんで
・ピアノソナタ ヘ長調K.533 〜 K.494
・ピアノソナタ ニ長調K.576
・アンコール(ソナタ2曲)

バルトリやハンプソンでも痛感したのだが、「西洋人」は体格・体力ともに日本人と比べものにならないほどパワーがある。そして、ザルツブルクのレストランに入っても痛感するのだが、「西洋」では一皿毎に出てくる量が日本と比べものにならないほど多く、日本人は一皿たいらげるのが精一杯。
つまり、そもそも「西洋人」は我々日本人とパワーが違う肉食人物なのである。その「西洋人」が創った「西洋音楽」の世界で、日本人が頂点に立つには、パワーで勝負しても勝ち目が無い。
勝てるとしたら、日本人が昔から大切にしてきた繊細さや「間」の感性で勝負!
って考え、それを極限まで昇華し、
どんな「西洋人」も真似られないオリジナリティー溢れる”私だけ”のモーツァルトやシューベルトの世界を創り出したのが他ならぬ内田光子ではないだろうか? と思えてきた。
そして、そのスタンスに最も合った音楽的内容や構成を持つのがユニバーサルなモーツァルトや、或いはシューベルトのピアノ曲なのではないだろうか?

日本人は短調の曲が好きといわれるが、プログラム前半の短調の名曲が、内田光子さんにかかると、憂いを(月並みな恋愛映画のような)感傷的な強調には決してせず、決して溜め過ぎず、かといってサラリと通り過ぎることもせず、絶妙な、おそらくゼロ・コンマ・ゼロ何秒かのタイミング(間)をもって繊細に音にし、とはいってもそれが「女性的な」(?)弱々しさ(女々しさ = いまや死語)でも絶対に無い、性別や国境を超えた音として、頭にではなく心にグイグイささってくる。
短調の憂いの中にブリリアントな光が希望のようにキラッと見え、他方、
後半の長調の曲の中に、もの悲しさが一瞬通り過ぎたりするけれど重た過ぎない、内田さんならではの「繊細さ」に、国境を超えてみんな感涙にむせび泣いてしまう。

モーツァルトが、もし、旅の延長で当時の江戸や京都に訪れていたら、間違いなく、日本の繊細さ、ワビ・寂の世界、「間」の世界に共感し、長期滞在(小泉八雲みたいに定住も?)したのでは? と、つい、想像が膨らんでくる。琴と鼓のためのコンチェルトとか、(魔笛のタミーノは日本人、との説もあるくらいだから)「日本風魔笛」なんか書いてたかも?
「日本人はなぜモーツァルトが好きか?」の話とも繋がってくることと言えよう。

ところで、休憩時間にホールの奥のカフェテリアに行き、その裏庭に、(以前から探していた)「魔笛の家」(モーツァルトが魔笛を作曲した家をここに移築。このホームページのバック画像)をやっと見つけた!
雪の中にひっそり建つ「魔笛の家」の写真をとくとご覧ください。



ホーエンザルツブルク城ディナーコンサート
★★(1月29日 ホーエンザルツブルク城)

ザルツブルクでは、コンサートホールでの音楽会の他、このお城や、ミラベル宮殿、(創業803年の)シュティフツケラー・ザンクト・ペーターのレストラン等、いろんなところで毎晩、気軽に楽しめる音楽会が催されている。

この日の夜はマーラー・チェンバー・オーケストラのコンサートがモーツァルテウム大ホールであったが、プログラムも演奏者も今ひとつピンとこなかったためスキップし、コース・ディナーと「モーツアルト記念ワイン」付きとやらにつられて日本から予約しておき、当日、ケーブルカーに乗ってこの城砦コンサートに出かけた。
料理&ワインはまあ普通、食事の後に場所を変えての演奏も(ディナー付きでこのお値段だったら)まあ仕方がないかナ?といったところ。(でも、こんなこと言えるのは贅沢な話ですよね)

曲は、弦楽四重奏曲「狩」K.458、クラリネット五重奏曲K.581、休憩をはさんで、フルート四重奏曲K.285、セレナーデ「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」K.525の4曲。
演奏は、Florian Beer(第一ヴァイオリン)、Balazs Moldicz(第二ヴァイオリン)、Jutas Javorka(ヴィオラ)、Jeremy Findlay(チェロ)、Gabor Lieli(クラリネット)、Walter Seidl(フルート)といった無名の面々。
クラリネットとフルートはそれなりに上手いのだが、第一ヴァイオリンが(名前がビールというだけあって?)ちょいとフラフラしており、全体に締りが無い。(ウィーンフィルやクレーメル、バシュメットの最上質の演奏を聴いた後なんで、どうしても差が目立っちゃうんですよね)


ザルツブルク大聖堂「孤児院ミサ」、「ミサ・ブレヴィス」
★★(1月29日朝 ザルツブルク大聖堂)


当時の作曲家のスポンサー(パトロン)としての宗教界の機能を私達は忘れてはならないだろう。
ザルツブルクはカトリックの中心的な都市の一つであり、その中心が「ドーム」(写真は入口)と呼ばれるこの大聖堂。モーツアルトが生まれた時に洗礼を受けたのもこの教会であり、入ってすぐ左のところに鉄製の洗礼盤もある。
ミサ曲やレクイエム等の宗教曲は、コンサートホールやCD等で聴くのと違い、このような教会(=本場)での、いわば「実用音楽」として体験して初めて本来の姿が見えてくる。

この日は、「ミサ・ブレヴィス」(シュパウア・ミサ)ハ長調K.258と、ミサ・ソレムニス(孤児院ミサ)ハ短調K.139が、祭礼儀式の節目節目で演奏された。
管弦楽も合唱もコートを着たまま、おそらく摂氏0度前後の気温の中で、入口の上の大きなパイプオルガンの周りに陣取っての演奏。入口から一番奥で行われる高僧たちの祭礼と、そのちょうど反対側でのミサ曲の演奏、そして、両者の間に着席した信者も一緒に賛美歌や詠唱を歌う、という立体構成。この教会の中には少なくとも3箇所のパイプオルガンがしつらえられており、ときにこれらの立体演奏もあたのでは?と想像すると、宗教音楽って、究極のCM音楽でもあるのかなぁ?
などと(無信心の私には、つい)思えてくる。

なお、この大聖堂の正面にはブロンズの入口扉が3つあり、キリスト教の徳、信仰・愛、希望が象徴されているとのこと。何となく、「魔笛」に出てくるザラストロの神殿の3つの扉を想い出させる。

それにしても1時間強のこの儀式、ほんとうに寒かったが、信者の人々にとっては心温まるひとときなのに違いない。モーツアルトの生演奏とともに自分を見つめ直すということが日常生活の中にあるという暮らし...。心の豊かさって何だろう? と、あらためて考えさせられたひとときだった。


ザルツブルク・マリオネット劇場「魔笛」
★★(1月28日 ザルツブルク・マリオネット劇場)


「今風魔笛」の台本作家としては、モーツァルト生誕250年記念のザルツブルクで何らかの「魔笛」を楽しみたい、と思い、日本からInternetで予約しておいたところ、最前列中央のかぶりつきの席だった。演奏は録音なのだが、それがなんと、1955年の、タミーノがヘフリガー、パパゲーノがフィッシャー=ディースカウ、フリッチャイ指揮ベルリンRIAS響というもので、ヘフリガーにせよディースカウにせよ、当時の若々しく張りのある声を聴けただけで大満足。
子供も楽しめるよう、ストーリーや歌の一部を省いて短か目にしてあるが、(人形劇とあなどるなかれ)、大人も充分に楽しめるエンタテイメント・クォリティー。これで入場料35ユーロ、100ページにおよぶ6カ国語版プログラム(CD-ROM付き!)が5ユーロというのはお値打ち。
但し、ここで飲んだ赤ワインは(タップリ入っているが)不味いのでご注意。


Viva! Mozart特別展

★★
★★1月27、28日 ザルツブルクの新レジデンツ特設展示会場、モーツァルト生家、住んでいた家)


誕生日の1月27日から1年間開催される3つの会場での特別展の初日と2日目に行ってきた。
まず行ったのが、27日に新規オープンされた新レジデンツ内の1年限定の特設会場(写真左上)。
オープン初日の開館直後に行ったためか、並ぶことなく入れた。
入場直後に展示されているのが、モーツァルト生誕時の教会の記録帳。あとは、モーツァルトが愛用していたものや直筆手紙等のオリジナルは殆ど無く、当時の絵画や、世間のグッズ等をちりばめながら、音声、映像、ダンスの実演等を交え、時代ごとに紹介していくという企画。学術的にはイマイチやも知れないが、時間をかけてまわると結構楽しめた。
モーツアルト一家の家族の会話をシルエット映像で紹介しながらモーツァルトがいかに注目されたかを紹介する部屋、結婚に至る人脈を紹介する部屋、当時の貴族階級の服装等を紹介する部屋(この部屋では、女性の扇の持ち方や使い方が男性に対するイミシンなメッセージ発信になっていたことをイラストつきで紹介)、大画面で舞踏会の間を演出しながら当時のダンスの実演をする部屋、等の後、当時のザルツブルクの街を描いた絵画が掲げられたカフェがあり、ここでビールやワイン、コーヒー等を楽しんだあと、モーツアルトも好きだった当時の射的を楽しめるコーナー(的は、オナラの臭いを嗅いでいるモーツァルト(?)の絵もある)、当時の楽器を紹介するコーナー、そして、照明を落とした半円形の部屋に進むと、モーツアルト自身の最も自信作であったとされる、ピアノ、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットのための五重奏曲K.452を座ってじっくり聴くことができ、最後の部屋では、モーツァルトに関する様々な文献の紹介とともに、生誕250年記念で複数作曲家が書いた新曲が紹介され、また、好きなところに写真入りでEメールできるコーナーがあり、最後に、モーツァルトに対するメッセージの記帳をして出てくるという具合。
英語と日本語でモーツァルトへのオマージュを書いてきたが、じっくりみていたおかげで、残念ながら日本人記帳一番乗りではなく、3人目。

誕生日の生家は、おそらく入場まで数時間待ちだろうと思って行ったところ、意外にも直ぐに入れた。展示は、基本的に以前行ったときとあまり変わっていなかったが、最初の部屋にモーツアルトが生まれた時を彷彿させる、ベッドに横たわったお人形(写真右上)が飾られていた。
展示もさることながら、そこで内田光子さんを発見!
昨晩に続き誕生日のその晩も本番がある中で、モーツァルトに会いに来たって感じ。失礼ながら、新レジデンツで買い求めたハードカバーの「Viva Mozart!」記念本の最初のページにサインを頂戴した次第。

28日に行ったモーツアルトの住んでいた家は、基本的には通常展示と変わらなかったが、今回は日本語によるイヤホンガイドがあった。ここは、修復にあたってその費用の、たしか半分くらい(?)を、第一生命をはじめ、日本の多くの企業や個人が寄付したところ。26日の記念コンサート前夜祭でも一番いい席に日本人が(おそらく100人以上?)大勢陣どっていたが、あらためて日本人のモーツアルト好きを象徴しているといえるかもしれない。


モーツアルト生誕250年記念祝賀コンサート

★★
★★(1月26、27日 ザルツブルク祝祭大劇場)


モーツアルトが生まれたザルツブルクで、250年目の誕生日の前日と当日に行われた祝賀コンサートに、二晩連続で行ってきました! まさに一生もんの感動!
(右上の写真は祝祭歌劇場ロビーのパウムガルトナーの像の前で、27日の誕生日に)

ちょうどこの地でECの会議が開かれていたこともあり、27日の記念コンサートは各国首脳や各界の招待客が多く、地元の人も殆どチケットが手に入らないとのことで、同じプログラムで前日にも開催されることになったとのこと。
プログラムは、生誕250年を生誕地で祝うに相応しい、いま望みうる世界最高のものといって過言ではない、つぎのようなオール・モーツアルトの超豪華版!(2日とも全く同一)
オーケストラ演奏は全て、リッカルド・ムーティー指揮のウィーン・フィル!
1) ピアノ協奏曲25番 K.503
   (ピアノ: 内田光子)
2) レチタチーヴォとロンド「どうしてあなたを忘られようか。恐れないで愛する人よ」 K.505
   (ソプラノ: チェチーリア・バルトリ、ピアノのオブリガート: 内田光子)
3) ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K.364
   (ヴァイオリン: ギドン・クレーメル、ヴィオラ: ユーリ・バシュメット)
休憩をはさんで、
4) 交響曲第35番「ハフナー」 K.385
5) ソプラノ、オーケストラとオルガンのためのモテット「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」 K.165
   (ソプラノ: チェチーリア・バルトリ)
6) 「フィガロの結婚」より「うまくいきそうじゃあの娘は〜家来は花婿わしゃ失恋男」
   (バリトン: トーマス・ハンプソン)
7) 「ドン・ジョヴァンニ」より「手をとりあって」
   (ソプラノ: チェチーリア・バルトリ、バリトン: トーマス・ハンプソン)
8) 「魔笛」よりフィナーレの合唱「聖なる勝利」
   (合唱: ウィーン楽友協会合唱団)

26日の席は1階14列目のセンターで、まさに最上席。ビックリするほどに残響が少なく、生音がそのまま伝わってくる。スタジオ録音のCDを2チャンネルで聴くようなもので、名演ならその素晴らしさがストレートに伝わってくるが、演奏の乱れや演奏者の不調があればそれもそのまま伝わってしまう、演奏者にとってはまことに怖いホールとみた。勿論、この日の演奏は前者であり、たとえばウィーンフィルの弦のピアニッシモも、あたかもソロで弾いているかのような一糸乱れぬの繊細な響きで、これほどまでにデリケートな心の機微として訴えかけていたとは! 同じウィーンフィルを日本のホールで聴いてもこのような音体験は絶対に無理であろう。
27日の席は1階の後ろから2番目の列で、ここは程々に残響もあり、周囲は地元の聴衆が多く、前日とは違った味わいで堪能できた。

薄地のパンツドレス姿で登場の内田光子さんは、ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団による彼女のCDに比べても、さすがに記念日のライヴとあって生き生きとキラキラ光る演奏で、曲のあちこちに現れては消える感傷的なフレーズたちも決して溜め過ぎることもサラリとし過ぎることもなく、理想的な「間」のとり方で弾ききった。カデンツァも内田さんのオリジナル。合わせるムーティー&ウィーンフィルのまた見事なこと! 特にピアノソロと木管とのかけ合いの絶妙さ! これほど心が洗われる演奏はめったにない。もうこの1曲で目頭が熱くなってきてしまった。
なお、内田さんは日本の誇りだが、プログラムの演奏家紹介では日本人ということは特に書かれておらず、既に「世界のUCHIDA」なんだなぁ、と、あらためて実感。

ソプラノはもともとルネ・フレミングの筈だったが、リハーサルでK.505が歌えなくなったとのことで、急きょバルトリが代役として登場するという、嬉しい変更(!?)
脂の乗り切っているバルトリは、さすがの貫禄で、(上記のように)残響の少ない、声がストレートに届いてしまう、歌手にとっては厳しいホールで、表情たっぷりに、かつ、曲毎に異なる雰囲気をもって聴衆を魅了してしまった。
K.505は、まさに歌姫として堂々と、K.165の「ハレルヤ」では清楚に(映画「オーケストラの少女」で、ストコフスキーをバックにディアナ・ダービンがこれを歌ったあれより完璧に)、ドン・ジョヴァンニではまるでウブな感じで..)
特にK.505は、ムーティー&ウィーンフィルをバックに内田光子さんのピアノ・オブリガート付き、という超豪華なもので、ソプラノ、ピアノ、オケが織り成すアンサンブルが絶妙!

ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲では、何といっても黒一色の姿で現れたバシュメットのヴィオラの、これ以上望みようのないと思えるほどの”心ゆたかに歌っている”技量と表現力!
名手クレーメル(こちらは燕尾服姿)の、腰をかがめながらの力演の美しい響きも絶品だが、ヴィオラでそれを上回るほどの繊細な表現を、余裕たっぷりに弾いたのである。
ヴァイオリンのアンネ・ゾフィー・ムターが、昨年、ロンドンフィルと競演(弾き振り)したモーツアルトのヴァイオリン協奏曲集に、バシュメットとの共演によるこの曲が入っているが、このCDでもバシュメットの「歌ごころ」が充分に出ている。当日の感動を、時々このCDを聴いて想い出すことにしたい。

27日は、ドレスコードがブラックタイ(タキシード)&ロングドレスということもあって、休憩時間の雰囲気は、日本のコンサートホールのそれと違い、大人のお洒落感に満ちていた。入場者は高齢者が多かったが、そもそも「西洋人」の体型が「洋服」に合っているんだなぁ、ということをあらためて感じると共に、女性のドレスの(ブラック中心の中でのちょっとした)色使いの上品さ、ストールの色や使い方の上手さ、そして、さりげなく奥方をエスコートしながら歩く紳士の歩き方に至るまで、シャンパンが適度にいい気分にさせてくれたこともあって(?)、あたかも映画の一シーンに自分達がいるような快感の中での素敵なファッション・スタディーの場にもなった次第。

後半の、ムーティー&ウィーンフィルの「ハフナー」も、他の曲同様、天国のモーツアルトが聴いていたらさぞかし大いに喜んでくれたであろう、抜群のアンサンブルと温かい心に満ちた名演!
各楽器のパートが、それぞれ鮮明に聴こえてきながら、全体が見事に一つになって響いてくると共に、その響きがウィーンフィルだけの独特のセンス( ごくごく微妙なテンポ、間、強弱等の違い)に満ちていることを、残響の少ないこのホールで聴いてあらためて痛感した。NHK交響楽団やサイトウキネンがベルリンフィルのように演奏することは出来ても、ウィーンフィルのこの「音楽感性」だけは絶対に真似できないのではないだろうか?
ムーティーの指揮棒さばきは最少限にとどめていたが、それも当然だろう。モーツアルトが生まれたこの国のウィーンフィルのみが持つこの独特の音楽センスは、特に指示(指揮)せずともモーツアルトの伝えたかったことに最も近い筈なのだろうから。

トーマス・ハンプソンの堂々たる大声は貫禄。
但し、27日は、ステージで「ハフナー」が演奏されている最中や舞台登場直前に、彼がバックステージで練習している声が洩れ聞こえてきてしまい、客席から苦笑が出るハプニングも。

そして、フィナーレを飾るのが「魔笛」の最後の場面とは、「今風魔笛」の台本作家の私としてはそれだけでも最高の感激!
最高の「心の贅沢」をさせて戴いたモーツアルトさんに、心から「お誕生日おめでとう! そしてこの感動をありがとう!」と心の中でつぶやきながら会場を後にした。


ヴァレリー・アファナシエフ ピアノリサイタル

★★(10月30日 浜離宮朝日ホール)


以前、ブルネロ(チェロ)とのディオを聴いた時は、偏屈そうな変わり者の風貌にしては良い音楽性に感心したのだが、今回のソロ・リサイタルでは、すべからく「超遅め」の演奏で意図が理解できず、あまり楽しめなかった。

オール・シューベルトのピアノソナタで、イ短調(D.784)、イ長調(D.664)、休憩をはさんでイ短調(D.845)というプログラム。
シューベルトならではの「うたごころ」が感じられず、大きすぎる間を置いたり、極端なまでの遅さで弾いたりして、不自然さが感じられる後味の悪いひとときでした。


マティアス・ゲルネ
シューマンの夕べ 〜 ハイネの詩による歌曲集

★★(10月14日 オペラシティ・ホール)


フィッシャー=ディースカウとシュヴァルツコップに学び、いま、脂の乗った旬のドイツ実力派リート歌手の再来日コンサート。
シューマンの「詩人の恋」全16曲と、当初「詩人の恋」に入っていて後に削除された「わが愛は輝く」、「わが馬車はゆっくりと」、≪ロマンスとバラード第1集≫の中から「黄昏の渚」、そして「リーダークライス」全9曲、というプログラム。ピアノはドイツ生まれのアレクサンダー・シュマルツ。

これぞロマン派リート。聴いててタップリとα波が出てくる。
えてして教科書的になりがちなドイツ歌曲だが、ゲルネは表情たっぷりに、ドラマティックに歌いきった。ピアノも、でしゃばらず、しかし表情のこもった丹精な演奏。

ところで、現代の感覚からしたら、ハイネ歌詞の内容は少々めめしく思えてしまう所もあるが、当時(1840年の「歌の年」の時代)は、それこそこれが流行歌(POPS)だったのだろうか?
それとも、このようなリートとは別に「世俗音楽」的なヒット曲が多くあったのだろうか?
聴いていて、ビートルズの曲の数々も、100年、150年経っても歌い継がれていくに違いないだろうなぁ、と思えてきた。


森鴎外訳のグルック「オルフエウス」初演by東京藝術大学
★★(9月18日 東京藝術大学奏楽堂)


まさに≪幻の和訳オペラの初演≫に立ち会った。
ドイツに留学していた森鴎外が、1885年にライプツィヒで観たグルックのオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」に感動し、ドイツ語台本に種々コメントを記していた。帰国後、グルックの生誕200年にあたる大正3年(1914)に国民歌劇協会がこの上演を計画し、森鴎外が「オルフエウス」として和訳台本を作成したが、オリジナルの楽譜が違っていたためそのままでは演奏出来ず、訳し直し始めたのだが、第一次世界大戦勃発等で、結局演奏されず、そのままになってしまっていたというもの。
「オルフェオとエウリディーチェ」こそ、日本で初めて(明治36年。1903年)上演されたオペラであり、東京芸大の前身の東京音楽学校の奏楽堂で行われた訳だが、森鴎外も帰国後、軍医でありながらこの東京音楽学校で教鞭をとったという因縁モノ。

この公演のために東京芸大ゆかりの先生方&学生による記念オーケストラと合唱が編成され、高関健が指揮。ソリストは、オルフエウスにメゾソプラノの寺谷千枝子、エウリヂケにソプラノの佐々木典子、アモオルにソプラノの山口清子という顔ぶれ。ダンスが川野眞子率いるナチュラル・ダンス・テアトルメンバー。舞台美術は、森鴎外と同じく島根出身の東京芸大教授、宮廻正明氏。

森鴎外の文語体和訳(現代口語の字幕付き)が、じつに歯切れがよく、口語には無い日本語の美しい響きにあらためて共感。楽曲全体は、バロック的な構成美を醸し出しつつ、ときにオーケストラのアンサンブルにハイドンやモーツアルト的なハーモニーも加わって、優雅で格調高い。
舞台を3階建てにし、それぞれの階が白い「襖」のようなもので自由に開閉でき、さらにそこに様々な照明を当てることによって、シンプルな舞台に変化を持たせている工夫は面白い。
オルフエウスもエウリヂケも深みがあり安心して聴け、また、高関氏の指揮は端正で分かり易く、好感が持てた。オーケストラ演奏の部分を効果的に繋いだ川野眞子のコケティッシュな表情タップリのダンスも見事。

終わりの場の予期せぬ演出にもビックリ。歌の部分がハッピーエンドで終わった後も、このオペラはオーケストラの演奏が続くのだが、歌が終わると舞台全面に天井から大きな白い布が降りて来、舞台を覆い尽くす。と、これまた舞台の天井から水がタラタラとその布を浸していく。
舞台の事故か? 何だろう? と、客席がザワめき始めた頃、その布が、水に濡れて黒っぽくなったところと、水に濡れずに白いまま浮き上がったところが出て来、あれよあれよという間に、舞台中央に大きな森鴎外の肖像画となって現れ、客席から「オオッ!」という歓声と大きな拍手が巻き起こったという次第。
森鴎外と同郷の宮廻氏の、森鴎外と島根に対するオマージュであろう。


日本モーツアルト研究所スペシャル・コンサート
「イタリアの響き = モーツアルトとゴリネッリ」

★★(8月1日 ムジカーザ)


イタリアのボローニャ生まれで、地元の音楽アカデミーのピアノ主任というジュゼッペ・モドゥーニョというピアニストによる、モーツアルトのピアノソナタ(変ホ長調K.282、ヘ長調K.332、イ短調K.310の3曲)と、ボローニャの19世紀の作曲家ステファノ・ゴリネッリの小曲(二つの愛の想い、舟歌OP.35)のコンサート。
世界的なモーツアルト研究家の海老沢敏先生の解説付き、ということで期待して行ったが、ピアノ演奏は残念ながら★★レベル。最前列の席で海老沢先生の心温まるお話を聴けたということで★★★に”昇格”。

モーツアルトは、どの曲のどの楽章も、単に力ずくでガムシャラに同じように弾きまくるといった感じで、テンポの緩急も、間のとり方も、ペダルの使い方も、強弱のとり方も、まるで無神経(?)
「この人、曲に何を感じて弾いてるんだろうか?」と、疑問に思ってしまった。
また、ゴリネッリの小曲も、アンコールのショパンも、もっと歌って良い筈なのに、これでは聴いていてα波が出てこない。
(さすがに海老沢先生は、ピアニストの演奏後に「いい演奏でしたね。」とはおっしゃらなかった)

演奏へのフラストレーションを補ってくれたのが、海老沢先生のお話。
来年のモーツアルト・イヤー(生誕250年)に向けての、心の底からのモーツアルトへのオマージュがひしひしと伝わってくる。つい、”来年は1年間休職して、オーストリアで毎日毎晩、モーツアルトのコンサート三昧したい!”なんて夢見てしまうほど。
数十人しか入れない、アットホームなコンサート会場の雰囲気の良さと響きの良さも好感が持てた。


7月大歌舞伎: NINAGAWA「十二夜」
★★★(7月31日 歌舞伎座)


蜷川幸雄が初めて歌舞伎座公演を演出した話題の「十二夜」の千穐楽に行ってきましたゾ!
前評判通り、国や時代、ジャンルを超えた企画&パフォーマンスに大満足!

幕が開くと、舞台一面鏡張りで、客席がそのまま映ってみえて度肝を抜かれる。
続いて舞台中央に置かれたチェンバロ伴奏で、3人の子供によるルネサンス時代と思われる合唱(歌舞伎座でチェンバロ&西洋音楽!しかもこれが全く自然なのだ)でまたまた驚かされたと思うや、鼓の音と共に花道に左大臣と従者が、まるでドリフターズのバカ殿のノリで登場し、会場中が大笑い。
続く2場は、実物さながらの船が縦横無尽に動きまくっての紀州灘の船の遭難シーン。菊之助演ずる琵琶姫と膳之助の二役が美しく見事。
助かった琵琶姫が男姿(獅子丸)となって左大臣(信二郎)の所に奉公にいくのだが、そこにいる腰元の麻阿(亀治郎)の姉御肌の演技が堂に入っていて痛快。遊びに来た安藤英竹(松緑)のバカ殿演技も笑いを誘う。
左大臣が惚れる織笛姫(時蔵)の衣装のあでやかさ、坊太夫(菊五郎。捨助との二役)の歯切れの良い長台詞の心地よさ(通常の歌舞伎の台詞の2倍くらいのテンポか?)、「◎◎、じつは△△」や勘違い仕掛けが災いしての実らぬ恋のドタバタ演出の見事さ、チェンバロ&バロックヴァイオリン&チェロのアンサンブルと浄瑠璃や三味線との絶妙なフュージョン、海賊鳰兵衛が兄弟の命の恩人と分かった時のホロリとさせる名演技、兄弟の再会とネジレ恋愛現象が解決された後の2組のカップルのツーショットの美しさ、他方、一人二役の兄弟が面会し抱き合って喜ぶシーンのおかしさetc.....書ききれないほどの、五感にビューティフルに訴えるエンタテイメント大スペクタルに圧倒され、あっという間の4時間半だった。

それにしても、シェークスピアの世界と歌舞伎の世界との、不思議なほどの類似性にあらためて驚く。同時代であるということのみならず、「◎◎、じつは△△」というのも、異性を演ずることも、喜怒哀楽が一つのドラマに凝縮されている点でも、花道のような客席との一体感醸造も...。
笑わせたり泣かせたりビックリさせたり感動させたりしながら人間の心の本質を観客にあらわにしちゃうステージアート&エンタテイメント....。冒頭の鏡のシーンは、己が心を見つめよ、と観客に言わんとしてたのかも?
ジョン・レノンと同様、「East meets West」のエターナル性を感じさせて貰ったヒトトキだった。


「フィレンツェの悲劇」、「ジャンニ・スキッキ」
★★★(7月29日 新国立劇場オペラ劇場)


ツェムリンスキーとプッチーニという、同時代だが全く作風の異なるの作曲家の二本立て公演。
異質の二本立てながら、2作が続いている見事な演出をしたカロリーネ・グルーバーの才能に心から乾杯!

「フィレンツェの悲劇」(オスカー・ワイルド台本のドイツ語訳。1917年初演)は、公演前に主催者(二期会)からハガキが届いたり、新聞広告で”警告”があったのにまずビックリ。この不倫オペラの演出では、SMや女装といった倒錯的シーンが出てくることを予めご納得のうえご覧ください、とのこと。
夫シモーネ(小森輝彦)とその妻ビアンカ(林正子)のところに、彼女の愛人で貴族の跡取りグイード(羽山晃生)がやってき、衣服にワインを垂らしたり、男は上半身裸になり、女はピチピチのサド・ルックで鞭を打ったりしながら、迫真の演技で、抱き合い、絡み合い、ディープキスし、ビデオでその模様を撮影し(その映像が舞台上の壁に投影される)、殴り合い、最後は夫が不倫相手を殺す。そして、横たわったその死体を夫婦がまたぎながら、「あなたはなぜそんなに強いと言ってくださらなかたの?」と妻が言い、夫が「君はなぜそんなに美しいと教えてくれなかったんだ。」と言ってディープキスを交わしながら終わる、という衝撃のオペラ。
これを一切の恥ずかしさを排除して演じきりながらシッカリ歌った3人のキャストも立派だが、日本人の羞恥心を見事に取り除いたグルーバーの演出力が凄い。
曲想は20世紀の現代音楽に近いといってよかろうが、クリスティアン・アルミンクの指揮による新日本フィルが好演。アルゲリッチの「グルダを楽しく思い出す会」の時も感じたが、アルミンクって、正統派の若手のホープの一人と思う。


さて、2つ目の「ジャンニ・スキッキ」は、「フィレンツェの悲劇」が舞台上に死体が横たわって終わるのを受け、死体のあるシーンから始まる。しかも、前の舞台で残された鞭を、子供が拾ってイタズラしようとするところから始まるというニクい演出。(さらに、「フィレンツェの悲劇」が始まる前にスクリーン投影されたメッセージともリンク)
この「ジャンニ・スキッキ」って、ラウレッタの歌う「私のお父さん」のような美しい旋律からして、19世紀のクラシックって思っていたら、初演は「フィレンツェの悲劇」の翌年の1918年なんだどか。同時代の作風の違いが一夜で比較して楽しめたのは嬉しい。

こちらの方は徹底した喜劇仕立てで、まさに落語の世界。(でも、原作はダンテの神曲(地獄編第30歌)なんだって)。
蓮井求道(ジャンニ・スキッキ)、水船桂太郎(リヌッチオ)、臼木あい(ラウレッタ)、それに、ブオーゾの親戚・家族として与田朝子、塚田裕之、筒井修平、大塚博章、あと、馬場眞二、品田昭子、池田香織、鹿野由之、村林徹也、山口邦明、宮本聡之等が好演。
決して「学芸会的」にならず、「楽しくなけりゃオペラじゃない」をまさに示してくれた。

演出のグルーバーが書いていた通り、この2作が、あたかも1幕、2幕のように共通点を持って楽しませてくれたことに感謝。


ドイツオペラの頂点〜ワーグナーの楽劇

★★★(7月18日 津田ホール)


二期会ゴールデンコンサートのシリーズ10回目として、田中三佐代(ソプラノ)、成田勝美(テノール)、福島明也(バリトン)によるドイツもの歌曲&ワグナーの楽劇アリア大特集。

第1部が、ブラームス「五月の夜」、「私の恋は緑色」、「教会墓地」(by福島氏)、ベートーヴェンとシューベルトとヴォルフのそれぞれが同じ詩に作曲した「ミニヨン」3曲(by田中氏)、リヒャルト・シュトラウス「万霊節」、「あした!」、「献呈」といったリート(by成田氏)を、
第2部がワーグナーの楽劇から、「ローエングリーン」の中の「愛しい白鳥よ!」(by成田氏)、「トリスタンとイゾルデ」の中の「愛の死」(by田中氏)、「タンホイザー」の中の「死の予感のように黄昏は地を覆い〜おお、心やさしきわが夕星よ」(by福島氏)、「ワルキューレ」第1幕フィナーレの部分(by田中氏&成田氏)、同、第3幕「ヴォータンの別れ」(by福島氏)、というプログラム。ピアノは山田武彦。

深みと重厚さとダイナミズム...。第2部の、「日本人ばなれ」ともいえる圧倒的な迫力に脱帽。
特大の霜降りステーキをドド〜ンと腹一杯食べた後のような、「肉食民族の満足感」を聴衆に与えてくれる、世界に通用するホンモノのワグナー歌いが、いつの間にか日本にも”出現”してたことにビックリするやら感動するやら、ただただ感無量かつ度肝を抜かれてしまった次第。

日本人離れした長身&スマートな成田氏は、歌の実力のみならずルックスもヨーロッパの名歌手達にひけをとらず、「BRIO」や「LEON」のモデルにしたいほど。
他方、福島氏の、地の底から湧き上がるような低音の迫力も見事。
そして、ピアノ伴奏の山田氏も、リートのときの間のとり方の上手さ、フレーズの美しさが光った。


モーツアルト音楽療法・セラピーコンサート

(最低・最悪)(7月5日 東京文化会館)

あまりのヒドさに2週間も胃が痛くなったほどに、最悪・最低の不愉快極まりないコンサート。
前から5列目の席だったので余計に目障りだったのだが、(かつて日本の空港で捕まった、北朝鮮のキム何とやらの息子とソックリの)超デブでフテブテしい不精ヒゲで、しかもデレッとした黒のポロシャツのボタンを全部外してまとった、みるからにだらしなく客席に不快感を与える男が、舞台の袖で、コンサートの最初から最後まで、チョロチョロ出てきては手持ちのハンディービデオで客席ばかりを盗撮(?)しているのだ!

そのうえ、「ドボルザーク・シンフォニー・オーケストラ」なる、聞いたこともない”外来オケ”が、日本のアマチュア・オケよりも下手で、コンサートマスターによるソロ・ヴァイオリンなんぞ、(暗譜が出来てないのみならず)自分で譜めくりする毎に演奏が止まってしまうという、腹立たしさを超えた、バカげた演奏。

さらに、モーツアルト療法の本で稼いでいる和合治久という男が、曲ごとに、やれこの曲は心臓病や高血圧に効くとか何とか、根拠が曖昧なつまらぬ解説もどきを言いに出て来、挙句の果ては、音をハズしながら下手な口笛を吹き、これが「ゆらぎ」ですなんぞとぬかしおる。

アンコールも聴かず、受付の主催者に上記「盗撮」のクレームに行った。
なんでも、TV東京の夕方のニュースの取材が入っているとか。冗談じゃ無い。単なるニュース取材で、客席の後ろも含め、そんなに何台ものカメラを入れる訳ないだろ。
クレームをつけたTV東京のディレクターが差し出した名刺は、報道局ではなく、制作局CP制作チームとある。なんてことない、このコンサートの主催者「株式会社サモンプロモーション」とやらが局に金を出して、観客の不快をものともせずにこの会社のPR用に収録してたんじゃないか!?

入場料を払って不愉快にさせられ、ヒドい演奏でウンザリさせられ、ゴメンのヒトコトで済まそうとする「サモンプロモーション」とやら...。フジ子ヘミングで稼いでいる所らしいが、さもありなん、音楽性よりも、TV等で報道されるのを利用した、単なる目先のウケ狙いのプロモーターじゃないの?
ここの名前の付くコンサートには金輪際、絶対に行かない。


名曲アルバム・コンサート「ショパン情熱の生涯」
★★★(6月8日 文京シビックホール)


社団法人国際フレンドシップ協会がプロデュースした、NHKの「名曲アルバム」の映像をバックにしながら、生演奏と語りとでショパンの生涯をレビューするといった、ユニーク・コンサート。
ショパンの誕生から、ワルシャワでの生活、パリに移ってからのジョルジュ・サンドとの出逢い、サンドとのマヨルカ島での生活、ノアンへ、そして最期と、エポック毎に、ときに語りを、時に映像を交えながら、ロシア(サハリン)の23歳のピアニスト、スラーヴァが、ショパンのポピュラーな名曲を時代順に13曲演奏。

お手軽価格で分かり易い構成ということもあり、客席には親子連れの姿も多く、微笑ましいコンサートだった。
ポリーニやアルゲリッチのコンサートばかりがショパンではない。このような地に足のついたコンサートがクラシック・ファンの層を広げていく、よいキッカケになるのだと思う。

ところで、文京シビックホールのロビー飲食コーナーは安い。180ml入りのミニボトルワインが500円、同しくスパークリングワインが800円で、それぞれグラスたっぷり2杯分。
休憩時間にこれを飲んでから後半を聴くと、ホント、ほろ酔い気分でハッピーになっちゃいます。
同様に、銀座の王子ホールのスパークリングワインもミニボトルで出てきて、いい気分になっちゃいます。


「デュオの魅力」笠原純子・友田恭子ピアノリサイタル
★★★(6月5日 市川文化会館)


ラベック姉妹を日本人姉妹が超えた(!?)、それはそれは澄んだピアノの音が特筆されるコンサート。
前半が、クレメンティの四手のためのソナタ ハ長調 OP.3-1、モーツアルトのピアノソナタ ハ長調K.545をグリーグが2台のピアノ用に編曲したもの、R.ベネットの4つの小品組曲。後半が、ラヴェルの組曲「マ・メール・ロア」から3曲と、ラフマニノフの組曲2番 OP17、アンコールに、彼女達のために書かれた水野修孝作曲の「ミューズの時」から数曲、といったプログラム。

クレメンティは、最初こそちょっと揃わない部分があったものの、こよなく澄んだ音色はこの姉妹ならではのもの。この1曲目で客を引きつけてしまった。

グリーグ編曲によるモーツアルトは、「モーツアルトの曲って、無駄な音が一つも無く、かつ、オリジナル曲の姿こそ最も完成されたものである。」ということを証明してくれた。基本的に、舞台に向かって左のピアノ(友田恭子)でモーツアルトのオリジナルを、右のピアノ(笠原純子)でグリーグが付け加えたフレーズを弾くのだが、それはそれで聴いていて楽しいものの、作品の完成度としてはオリジナルの方が遥かに優れていると感じたのは、私がモーツアルトにはまり過ぎているからだろうか?いずれにせよ、このことを見事に見せ付けてくれたこの演奏者達とその力量に感謝!

ベネットの曲は、サンバ、ブルース、ワルツ(スコット・ジョプリンへのオマージュ)、ロック風の4曲からなる、クラシックとPOPSの世界が一つとなった楽しいもの。こういう曲はちょっと飲んでから聴きたいネ。POPS畑の人が弾いたらもっと違うノリになるのだろう。いろんなヴァリエーションを想像するだけでも楽しくなってくる。

ラヴェルはこの姉妹のお得意とするもの。これ以上澄んだ音は望めないくらいに透き通った音を聴けただけで、この日は大収穫!と言っていい。
ラフマニノフは二人の新しいチャレンジで、この日のメインとなるもの。この曲がフルオーケストラの交響曲だったら、ここでこんな楽器でこう鳴らすんだろうなぁ...と、それぞれのフレーズで具体的にイメージできる、スケールに溢れながら、かつ、細かなところまで研ぎ澄まされた名演だった。


ヴェルディ「椿姫」 by 二期会
★★★(6月3日 文京シビックホール)


海外のオペラ来日公演が頻繁にあって、たいして良くないものも散見される中、このMade in Japanの公演(原語上演)は、本場イタリアに持っていっても必ずや高い評価を受けるであろう一級品!
主なキャスト&スタッフはつぎのとおり。
佐々木典子(ヴィオレッタ)、井ノ上了吏(アルフレード)、直野資(父ジョルジョ・ジェルモン)、堪山貴子(フローラ)、三橋千鶴(アンニーナ)、小林大作(ガストン子爵)、久保和範(ドゥフォール男爵)、アントネッロ・アッレマンディ(指揮)、東京フィルハーモニー交響楽団、二期会合唱団、栗山昌良(演出)、石黒紀夫(美術)、岸井克己(衣装)、荒田良(部隊設計)、小井戸秀宅(振付)。

ミラノ生まれのアッレマンディ率いる東フィルの演奏といい、演出、舞台装置、衣装とといい、奇をてらうことなく正統派。
1幕でアルフレードの声がやや硬かったが、後半から良くなり、最初から本領発揮のヴィオレッタとの掛け合いでいい雰囲気を醸し出す。父親役の直野資の重厚な声がとても良い。
パーティーのシーンの深紅をベースとした舞台装置も、ドレスアップした姿でのソリストや合唱の演技も、本場”西洋人”に見劣りしない、見事なもの。戦後まもなく(?)の日本人によるオペラの”学芸会”的違和感は今や全くなく、そこいらの安物来日公演よりずっと良い。

それにしても、この悲劇、ストーリーがまるで歌舞伎や文楽を彷彿させる”泣かせの定番”で、筋書きが分かってても、つい、最後でジーンときてしまう。誰かこれを歌舞伎か文楽仕立てにして公演してくれたら、世界的に評判になることうけあいなんだけど。


ヴォーカル・アンサンブル・カペラ
マリア・ヴィジョン〜聖母のミサ

★★★★★
(5月23日 東京カテドラル聖マリア大聖堂)


目白バ・ロック音楽祭のオープニング・コンサート。
花井哲郎と花井尚美によって1997年に創設されたア・カペラの声楽アンサンブルが、今年没後500年を迎えるヤコブ・オブレヒト(1457/58−1505)のミサ曲〈あなたの庇護のもとにSub tuum praesidium〉を、グレゴリオ聖歌やモテットを交えながら演奏するコンサート。
プログラムはつぎのとおり。
1.入祭唱「めでたし、聖なる産みの母」グレゴリオ聖歌
2.キリエ ヤコブ・オブレヒト ミサ「あなたの庇護のもとに」より
3.グロリア ヤコブ・オブレヒト ミサ「あなたの庇護のもとに」より
4.昇階唱 「あなたは祝福された、敬うべき方」グレゴリオ聖歌
5.アレルヤ唱 「あなたによって、神の母よ」グレゴリオ聖歌
6.クレド ヤコブ・オブレヒト ミサ「あなたの庇護のもとに」より
7.5声の「サルヴェ・レジーナ(めでたし元后)」ジョスカン・デ・プレ
8.サンクトゥス ヤコブ・オブレヒト ミサ「あなたの庇護のもとに」より
9.主の祈り Pater noster グレゴリオ聖歌
10.アニュス・デイ ヤコブ・オブレヒト ミサ「あなたの庇護のもとに」より
11.聖体拝領唱 「幸いな御胎」グレゴリオ聖歌
12.終祭唱 Ite missa グレゴリオ聖歌
13.6声の「サルヴェ・レジーナ(めでたし元后)」ヤコブ・オブレビト

途中、大雨の音でコンサートが中断されたが、それも演出の一部と思えるくらい、自然と、人と、音楽とが、えもいえぬ不思議な精神に満ちた糸(宗教心のある方はこれを神というのかも?)で繋がった、いつのまにか目頭が熱くなってきた名演!
休憩時間にステージのスコアを見たら、(音楽史の本に出てくる、あの四角い音符で)、ごく簡単な主旋律が並んでいるだけ。CDでしか聴いたことがなかったルネサンス期の音楽を、なんと日本人が、ここまで見事なハーモニーで表現するとは!
この澄んだハーモニーは、ひょっとして平均率ではなく、純正率?
まさに「ア・カペラ」の原点、かつ、西洋音楽の原点を、ピュアな気持ちになって堪能させて戴きました。


フィルハーモニア・シュランメルン・ウィーン+中嶋彰子
★★★(5月14日 東京オペラシティーホール)


ふつう、夜のコンサートといえば7時から始まることが多いんで、7時前に着いたら、6時から始まっていたという、語るもお恥ずかしい、永年のコンサート通いの中で初めての大チョンボ&焦ってしまった、しかし楽しかった一夜。
ウィーン・フィルのメンバーによって結成されて以来、30余年の歴史を持つグループ。アコーデオンやギターも、ウィーンフィルのメンバー(例えばヴィオラ)が楽器を持ち替えて弾いてるんですね。
ゲストに、ウィーン・フォルクスオーパーを拠点に活躍中の中嶋彰子(ソプラノ)と、ベルリン・ドイツ・オペラ専属のペーター・エーデルマン(バリトン)〔この二人、ひょっとして夫婦?〕が加わって、ウィーン&ウィーンの音楽に関する談話も交えながらの楽しいひとときでした。
アンコールは「ウィーンわが心の歌」や日本の「赤とんぼ」など、とにかくインティメイト&リラックス・ムード。


ウィーン古典派の系譜18
音楽におけるオーストリアのアイデンティティ

★★★(4月12日 紀尾井ホール)


昨年秋にオーストリアで発見された、表紙にモーツアルト作とイタリア語で書き込みのある交響曲の日本初演ということで、世紀の大発見の本物か???、興味津々で出かけた。
ウィーン学友協会資料館館長のオットー・ビーバ博士が選曲を行い、前田二生指揮の新東京室内オーケストラの演奏、途中で海老沢敏先生の解説も入り、
ベートーヴェンの序曲「命名祝日」、モーツアルトのアダージョとフーガ ハ短調K.546、同ホルン協奏曲第1番ニ長調K.412(未完の2楽章を、オリジナル通りと、ジェスマイヤーによる補筆版の双方比較演奏)、休憩を挟んで、モーツアルトと記名された交響曲ニ長調、イグナーツ・ブリュルの舞踏歌Op.89-1、同、管弦楽のためのセレナード第3番ヘ長調Op.67というプログラム。

お目当ては何といっても新発見の交響曲。
ザルツブルク東南約60Kmのバート・イシュルの町に由来する18世紀後半の楽譜コレクションを、ウィーン学友協会が、昨年秋、手に入れた中に入っていたとのこと。
ザグレブの図書館にはこの曲がモーツアルトと同時代のダーフィト・ヴェスターマイヤーの作として伝えられているとか。
海老沢センセによると、モーツアルトの初期の交響曲は13曲書かれたが10曲しか残っていないとのことで、「真作」の可能性はあり、新作ならごく初期のものでは?とのことだが、果たして??

聴いた感じは、モーツアルト8歳の時に書かれた交響曲1番(K.16)をはじめ初期の8番くらいまでよりもこの曲は複雑な構成も見せているものの、第1番で既に完成されている(?)音の並び&展開の必然性に比べて、どうも≪人為的な音作り≫が散見され、素直じゃない部分が気になる。
ときに、モーツアルト的な、ホロリとさせるフレーズも出て来、真作かなぁ、と思わせないでもないが、2楽章のダサい一節が決めてとなり、私の結論としては、「天才モーツアルトのごく初期の作品」というより、「凡才が頑張って書いたもの」では?

いずれにしても、この楽しい《推理代》も入れて4千円はお値打ち。
NHKの撮影クルーが入っていたから、近々放映されるかも?
皆さんも推理してみては如何?


スマトラ島沖地震津波被害復興支援チャリティコンサート
(2月21日 東京国際フォーラム)
★★★★★
(但し、企画そのもの+小澤征爾指揮「G線上のアリア」に関して)

首都圏の殆ど全てのプロ・オーケストラに属する団員、各方面のソリスト、指揮者たち、二期会と日本オペラ振興会の合唱の諸氏がボランティアで出演。チケット代と当日の会場での寄付は全てスマトラ沖地震津波の復興にあてられた。まずは、これだけのボランティア企画に敬意!

5千人も入る超大型ホールの音響は、長い残響がモワ〜ッと広がって音が濁り易く、かつ、ステージの後ろの方の音は客席に届きにくいという、クラシックには向かないものであった。
殆どブッツケ本番だったと思うが、前半最後の曲として、この残響特性を考慮して、超スローで奏でたバッハの「G線上のアリア」(小澤征爾指揮)は、楽員全員の一糸乱れぬ集中力の凄さもあり、思わず涙の名演だった。
(かつて、同じく超長残響の東京カテドラル教会での「マタイ受難曲」でも、小澤氏は音が濁らないよう、間の取り方が絶妙であった。さすが!)
あとは、同じく、超長残響がプラスに効果した須川展也のサキソホン・ソロ(NHKドラマ「さくら」の主題曲とピアソラの「アディオス・ノニーノ」)が出色。

マイスタージンガー1幕への前奏曲(飯守泰次郎指揮)は、出だしから音が濁ってしまい、引きずった演奏に。
錦織健のテノールによるヘンデル「メサイア」からの2曲(指揮、大友直人)は張りのある美声がよく響いたが、続いて登場した佐藤しのぶ(シューベルトの「アヴェ・マリア」)も、ヴァイオリンの前橋汀子(ベートーヴェンのロマンス2番)も、残念ながら繊細なニュアンスが会場に響いて来づらい。
後半の、山形由美のフルート(グルックの精霊の踊り)、樫本大進のヴァイオリン(フォーレの「夢のあとに」、ドヴォルザークのスラブ舞曲)、横山幸雄のピアノによるラフマニノフのピアノ協奏曲2番(1楽章)(指揮、外山雄三)、そしてラストのエルガー「威風堂々」も同様。せっかくのボランティアでの熱演が、ホールのせいで充分に伝わってこない。
特にステージ奥に陣取った最後の合唱は、フォルテッシモでやっと「何か歌ってるな」という感じて、ましてや歌詞は全く聴き取れない。

とはいうものの、これだけ多くのマエストロ&ミュージシャンたちが一つの目的のために結集したこと、及び、小澤氏率いる日本の代表的なオーケストラ・エッセンスによる、まさに天上の響きといえるバッハを聴けたことに感謝し、思いっきり寄付させていただきました。


ダニエル・バレンボイム ピアノリサイタル
★★(2月14日 東京文化会館)

いたたまれなくなって、後半を聴かずに休憩時間で帰ってきてしまった、≪聴いていると肩がこってくる≫コンサート。
背中に深刻な障害が生じてしまったとのことで、後半予定していたベートーヴェンのピアノソナタ32番を止めにし、バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻全曲のリサイタルとなった。

その不調のせいか、第1曲目から、音の重なりが何となく濁ってしまい、一音一音にキレが無く、暗くモゴモゴとした感じで展開。
チェンバロで弾く時の、一種、機械的な構成美で迫るのとは対照的に、ロマン派的な情感のうねりを込めて弾こうとしたのか? それが逆効果となり、”内に向かう混沌”とでも言いたくなる全体トーンになってしまている。これがドラマティックな曲ならともかく、どちらかというと起承転結に乏しい練習曲的なひたすら続く地味な曲集を、狭い椅子に腰掛けてノビも出来ずに聴いていると、こりゃ”音楽会のエコノミー症候群”になりそうな圧迫感で苦しくなってくる。

この感情は私だけではないらしく、開演10分くらいから居眠りをしたり、プログラムに目をやる観客が目だったし、私達と同様、前半だけで帰ってしまう人たちも何人もいた。

帰宅して思わず、”お耳直し”に、アルゲリッチが弾く躍動感とハートに満ちたバッハのCDを聴いてしまった。(パルティータ2番、フランス組曲等)


アルゲリッチ「室内楽の夕べ」
★★★★(1月30日 サントリーホール)

17日のコンサートがアルゲリッチの風邪のためにドタキャンとなり、同じプログラムで急遽30日に開いたという、まさに”毎度お騒がせのアルゲリッチ”的なコンサート。
但し、ソリストをさきのカプソン天才若手兄弟から堀米ゆず子、山崎伸子にチェンジしてではあったが、その変更が大成功!
カプソン兄弟の若さでガンガンも素晴らしかったが、それより渋味がかった大人の音色の堀米のヴァイオリンと、あたたか味・円熟味で心の底からじわ〜っと感動が湧き上がってくる山崎のチェロの、おそらく急遽出演が決まって殆ど合わせることも出来なかったであろう中でのアルゲリッチとの絶妙なアンサンブルに脱帽!

プログラムは、ハイドンのピアノ三重奏曲25(39)番ト長調、シューマンのピアノ四重奏曲変ホ長調作品47、メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲1番ニ短調作品49と、アンコールとしてベートーヴェンのピアノ四重奏曲。

急遽追加コンサートとなって直ぐに代役を引受け、殆どブッツケ本番で最高水準の演奏をしてしまう堀米、山崎は、さすが斉藤門下生の世界に誇る桐朋ならでは。
また、同時に、この二人の出演の了解を取りつけ、サントリーホールを押さえてしまうプロデューサーの力量も凄い!

四重奏で参加したヴィオラのリダ・チェン(なんとアルゲリッチの長女)は、技量はこれからの”親の七光り”の出演ながら、ういういしく、最初はちょっとビクビクしながら演奏し始め、徐々に上手く弾けていくと堀米に向かってホントに嬉しそうな笑顔をふりまく...そんな姿が微笑ましい。お母さんもあたたかく見守りながら、ときに情熱がほとばしる。
一方、山崎さんのチェロが、円熟のあたたかさに満ちていて、聴いていくうちに自分の心がじわ〜っとあったまっていくのが自分で分かる!

外来アーティストをありがたがって聴きにいかなくても、日本が世界に誇る感涙もののアーティストがたくさんいるっていうことを、いみじくも外来アーティストの最高峰が風邪をひいてくれたおかげで再認識したステキな一晩だった。

それにしても、ベートーヴェンは室内楽がいい。


アルゲリッチ「グルダを楽しく想い出す会」
★★★★★(1月27日 すみだトリフォニーホール)

グルダに師事したこともあるアルゲリッチが、グルダの5回目の命日でかつモーツアルトの249回目の誕生日に企画した、3時間におよぶ、それはそれは楽しい最上質の音楽のお祭り!
グルダの二人の息子(パウルとリコ)をゲストに招き、クリスティアン・アルミンク指揮の新日本フィルハーモニー交響楽団をバックに、モーツアルトの「3台のピアノのための協奏曲」ヘ長調K.242、同「ヴァイオリンと管弦楽のためのアダージョ」ホ長調K.261、同「ヴァイオリンと管弦楽のためのロンド」ハ長調K.373、グルダ「チェロ協奏曲」、モーツアルト交響曲32番K.318、同ピアノ協奏曲第20番ニ
短調K.466、それにアンコールとして、ベートーヴェンのトリプルコンチェルト(1、3楽章)という、在りし日のグルダが大満足しそうな盛りだくさんのプログラム。

ステージに、アルゲリッチ、その右隣にリコ、向かいにパウルが陣取り、インティメイトな笑顔でお互い合図しながらのK.242。 パウルの、鍵盤からゆっくりと指を離すときの小粋な所作や、リコの表情に、父親フリードリッヒを彷彿させるところが何度もあり、”巨匠の息子達と、その巨匠に学んだ巨匠アルゲリッチとの共演を一番喜んでいるのは他でもない天国のフリードリッヒだろうナ。きっと、今日、私達と一緒に天国で聴いてるんじゃないだろうか...”などと想像しただけで、もう、涙がこみ上げてくる。
そして、3楽章のカデンツァにさしかかり、パウルはなんとモーツアルトのピアノ協奏曲21番の2楽章のサワリを弾き出したかとおもうや、父親が作った「アリア」(コンサートのアンコールに必ず弾いていたステキな曲!)のメロディーに変わる! それをアルゲリッチが受けて、彼女の想いで続ける(アルゲリッチが弾くグルダのアリアは、勿論本邦初演)。
モーツアルトの中にグルダの旋律が、ごく自然に溶け込んでいる!
天国で、いま、グルダとモーツアルトが一緒に聴いてたら、きっと、ニヤッと顔を合わせたに違いない。

アダージョとロンドを弾いたルノー・カプソン(28歳のヴァイオリン)と、グルダの協奏曲を弾いた弟のゴーディエ・カプソン(12歳のチェロ)の若手フランス天才兄弟は、アルゲリッチの推薦で来日したようだ。
燕尾服ではなく、黒のモーニング上着(たぶん)に普通のネクタイ、それにベルトが見えるパンツといったいでたちで登場したルノーは、ブリリアントな音色でガンガン弾きまくった。なかなかうまい!

グルダのチェロ協奏曲(たぶん本邦初演)は、ウィーンっ子でJAZZなんかもやってたグルダならではの、時代を超えたオーストリア賛歌に聞こえ、”音楽をジャンル分けして語ること、クラシックよりPOPS/Rockの方が「ゲージツ性が低い」なんぞとのたまうこと”のバカらしさをカラダで感じさせてくれるエンタテイメント性に富んだ底抜けに楽しい曲。
小編成アンサンブルに、ドラムス、アコースティック・ギターとベースが加わり、出だしからロック調。カプソンが情熱的に弾くチェロは、かなりのテクニック。でも、フォルテッシモで弾く時も聴き取りにくかったりして、バックとの音量バランスがイマイチかな? って思ったら、こんどはアルプスの山々が目に浮かぶ牧歌的なフレーズに。そしてしばらくするとこんどはワルツだ。ウィーン郊外のホイリゲで新酒ワインを飲みながら踊ってる感じ。かと思うと、続いて、モノクロ映画音楽のようなノスタルジックなメロディーに移り、ウィーンの大観覧車の恋人達のシーンなんぞ想い浮かべたとたん、フィナーレは金管による目いっぱい明るい大音量での大パレード。
「ご教養のクラシック」を標榜するしかめっ面のオカタガタに、グルダが天国でいたずらっぽくウィンクしてたんじゃないかな...。

こんな楽しいのを聴いたんで、休憩はシャンパンでますますHappyな気分に!
後半は、「待ってましたっ!」の、アルゲリッチの弾くモーツアルトの20番日本初ライヴ!
さっきソリストで出たカプソン兄弟が新日フィルに加わってるのも、特別な”お祭り”ならではで好感が持てる。
オーケストラの出だしから、「おおっ!こりゃいいゾ!」...。低音を効かせた短調のオドロオドロしい出だしの演奏が多い中で、アルミンク&新日フィルの音は、濁りが無く、ことさらに深刻さを強調したりはしない端正でしかも温かみに満ちたもの!
そして、初めてライヴで聴くアルゲリッチの、澄んだモーツアルトの響き!
ショパンコンクールに優勝した当時は”ほとばしる奔放な情熱”が売り物だったアルゲリッチだが、その情熱がガンガン外にほとばしるのではなく、内で完全燃焼されてじっくり出てくる、さすが”大器”の風格!
楽章間もさほど間を空けずに、サラリと、いとも簡単に弾いてしまうのだが、”巨匠”の名に恥じない正統派の極み!(これで風邪の病み上がり?)
3楽章のカデンツァで、”アルゲリッチのほとばしり”も感じさせてくれた。

特筆すべきはアルミンク&新日フィルの素晴らしさ!
モーツアルトのピアノ協奏曲は、ピアノもさることながら、そのバックで奏でるオーケストラ、なかんずく木管楽器のフレーズの数々が、燻し銀のような光を放ちながらピアノとの掛け合いで深みを増すかどうかにかかっていると、常々私は思っている。その木管がじつに絶妙!
技術と感性ともに世界的なレベル。

思わず「ブラボー!」。
鳴り止まぬ拍手に、アンコールはアルゲリッチとカプソン兄弟+アルミンク&新日フィルによるベートーヴェンの、ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲の1楽章。
ベートーヴェンって、交響曲は、”これでもか!”ってなクドくしつこいのがダサいと思えることもあるのだが、この曲って、まるでモーツアルトみたいなアンサンブルの上品さがあり、かつての名盤、スターン、ロストロポービッチ、(ピアノは誰だったっけ?)を思い出しながら若いエネルギー溢れる演奏に大拍手!
そしたら、3楽章までサービスしてくれちゃって、元気と充実感に満たされて会場を出たのが10時。
特別な日に、こんなリッチなスペシャル・コンサートを”東京”で堪能できた私達日本人はなんと幸せなことか! このコンサートのプロデューサーに(天国のモーツァルトとグルダとともに)乾杯!


プラハ国立歌劇場「魔笛」
(1月16日 東京文化会館)

「ドン・ジョヴァンニ」や「皇帝ティトの慈悲」が初演されたプラハの街の国立歌劇場の引越し公演、ってことで、期待して行ったが、オケも歌手もヘタ!そのうえ演出は支離滅裂で、「ブー!」と叫んで帰ってきた。あまりにヒドかったので、不満をデレデレ書く。

まず、序曲の時からオーケストラがバラバラで合っていない。
幕が開いて、タミーノを追いかけてきたのは、怖い大蛇でも怪獣でもない、なまめかしいタイツ姿の10人くらいの女性が剣を持って連なって出て来、3人の侍女が来るとちりじりに退散する。パパげーのが大蛇を見てビックリするセリフの時には舞台に何も無い矛盾。これって、大蛇を作る予算が無かったから?趣旨不明。
パパゲーノの衣装が、地味な薄茶色の、まるで江戸時代の飴売り行商人みたい。タミーノその他とのやりとりの際に違和感が出てくる。
夜の女王のアリアの時に二人の武士みたいなのが出てきて、3人の侍女ともどもアリアに合わせてロボットみたいな動きでグルグル回りだす。この意味不明な行動は、ヘタなソプラノをカモフラージュさせるための演出なのかと勘ぐりたくなる。(夜の女王の後半のアリアの時も同様)

パパゲーノがパミーナを見つけた時、ホントは絵姿と比べてパミーナだと確認するのだが、こういう部分はカットされている。(歌だけ聴かせたいならもっと上手いソリストを連れて来てョ!)

モノスタトスはハイキーなテノールの異邦人っていう役柄の筈が、モソモソとした聞き取れない暗〜い低音の、最もヘタな歌で、これじゃぁ学芸会。このオッチャン、ネクラのストーカーか!?
タミーノが着いたザラストロの神殿の場では、3つの門は無く、代わりに、大きな柱に品の悪い東洋風の顔が二つと、手首の、それぞれデカいオブジェがぶら下がっている。ナンジャコレ!

2幕冒頭の、ザラストロが神官達に話をする場面では、神官達がみなザラストロ(と観客)にお尻を向けながら話を聞いている。偉大な指導者に対して反旗を翻すという演出でもあるまい。恐らく、外側が黒で内側が白のマントの衣装の色彩効果を狙ったのだろうが、ストーリーを逆撫でするだけの悪趣味。
そのザラストロの歌も音程が不安定で、しかも低音が全く響かない。
さらに、パミーナとの掛け合いの所なんか、パミーナが座っているベンチの横にくっついて腰掛け、口説くようにベタベタ歌うシーンなんか、「高貴さ」どころかイヤらしさが感じられてしまい、興醒め。

タミーノが沈黙していることを嘆いて歌うパミーナのアリアも、事務的で興醒め。
パミーナが舞台に登場。タミーノは話してくれない。ハイ次はアリアに...ってな感じであり、感情を溜め込んで、「間」を大事にとって、心のたけをしぼり出すように、ってなことはしてくれない。

テノールとバスの二人の武士のデュエットもバラバラで、オケとも合わず、声も出ずの学芸会。

やっと(不満だらけの)舞台が終わって、カーテンコールで舞台上にソリストが一人づつ登場した際、ザラストロがニタニタしながら、ピョッコンピョッコンってな足取りでおどけて出てきたのには、もう、怒りを通り越して呆れてしまった。役に徹しろ!アホか!最後の最後まで客をシラケさせる気か!

余りにひどかったのでそのまま帰るとフラストレーションが溜まりそう、ってことで、上野駅構内にある「レカン」(あの銀座の名店が出店してるんです)に行き、フルコースのフレンチとシャンパンやワインを堪能!鴨、フォアグラ、牛フィレからデザートまで、本店に比べお手頃価格で楽しめたのがせめてもの救いの一日だった。


ウィーン・リング・アンサンブル
ニューイヤー・コンサート
(1月12日 サントリーホール)

ウィーンフィルの9人の名手達によるウィンナワルツやポルカのコンサート。
元日のウィーンフィル・ニューイヤーコンサートを終えて直ぐに来日し、元日の生演奏をTVでしか楽しめなかった日本人のために、4日から13日まで、日本各地で9回もの大サービスをしてくれたわけ。
シュトラウスのなどのワルツやポルカを、ギリギリ最小限、何人まで演奏者数を減らしてでも楽しめるか? といったチャレンジでもあるかのよう。
ウィーンフィルならではの、しかも、コンサートマスターのライナー・キュッヒルさん(第1ヴァイオリン)をはじめ、エクハルト・ザイフェルト(第2ヴァイオリン)、ハインリッヒ・コル(ヴィオラ)、ゲアハルト・イーベラー(チェロ)、アイロス・ポッシュ(コントラバス)、ウォルフガング・シュルツ(フルート)、ペーター・シュミードル(クラリネット)、ヨハン・ヒントラー(クラリネット)、ギュンター・ヘーグナー(ホルン)といった、そうそうたるマエストロ達だからこそ出来た和気藹々の絶妙の楽しいアンサンブル!

ニューイヤーコンサートでは外された「ラデツキー行進曲」もちゃんとアンコールに入れ、サービス満点。ウィーンフィルにとって、日本は第二の故郷のような存在なのかも?
無理を承知のうえで贅沢な欲を言わせてもらえば、小編成のサロン風コンサートに相応しい、もっと小さな場所で、シャンペンでも傾けながら楽しめたら、こりゃもう、アマデウスの映画なんかに出てくる王様気分なんだけどなぁ...。


歌の宝石箱
(11月25日 王子ホール)

二期会のソプラノ&メゾソプラノ4人による、トーク付きのリラックス気分で楽しめたコンサート。
久保山和子(MS)、長谷川洋子(S)、成田淳子(S)、堀江信子(S)、それにピアノの田中梢により、前半が、グノー「どこへ行きたいの?」、ヘンデル「私を泣かせてください}、「樹木の蔭で」、カッチーニ「アヴェ・マリア」、グノー「アヴェ・マリア」、R.シュトラウス「セレナーデ」、「何も」、「献呈」、ヴェルディのドン・カルロから「惨き運命よ」、ドリーブのラクメから花の二重唱。後半が、ベルリーニの清教徒から「優しい声が私を呼んでいた」、ヴェルディのリゴレットから「慕わしき御名」、ヴェルディのノルマから「この子達を連れて行って」、レハールのメリー・ウィドウから「ヴァリアの歌」、ディ・カプア「あなたに口づけを」、クルティス「忘れな草」、といったポピュラーな名曲を集めたプログラム。

それぞれが、だんだんノッてきて、特に後半なんか、メトのガラ・コンサート(or NHKのニューイヤー・オペラ・コンサート?)を目の前で楽しんでいるような錯覚に!
メリー・ウイドウの甘〜い旋律なんぞに、もうメロメロになってしまったのは、休憩時間にロビーで飲んだスパークリング・ワインのせいではなく、世界的に通用するベテランたちの実力のたまもの。

ところで、このホール、小ぢんまりしていて音の響きがいいだけではなく、小さなロビーで売っている辛口スパークリングワインがグラス2杯分入った小瓶で出て来、しかも、500円でおつりがくるって知ってました? そして、銀座木村屋の小ぶりの栗アンパンも140円で楽しめる。
オシャレな中に、こんなアットホームな雰囲気もあるこのホールにピッタリの企画。
あらためて日本の音楽界の層の厚さを感じた次第。


シュトゥットガルト放送交響楽団
(11月22日 東京文化会館)

サー・ロジャー・ノリントン指揮による、ベートーヴェンのピアノ協奏曲1番(ピアノ:児玉桃)と、マーラーの交響曲1番「巨人」、アンコールにワグナーのワルキューレからという一夜。(前半で、児玉が、協奏曲のアンコールにベートーヴェンを)

まず、オーケストラの配置の仕方がユニークなのでビックリ。
ピアノ協奏曲の時は、上蓋が取り外されたピアノが、鍵盤の方を客席に向けて(つまり、ピアニストは客席にお尻を向けて弾くことになる)中央に置かれ、オーケストラがピアノを取り囲むように輪を描いて配置されている。それも、コントラバスやチェロが真ん中に陣取り、ヴァイオリンは左右にといった並び方。ヴァイオリンの前列なんかも客席にお尻を向けて弾く格好となり、指揮者はピアノの左の、円陣の中央付近に陣取って振る形。従って、この曲を最もバランス良く聴けたのは(客席よりも)円陣の中央付近にいた識者に違いない。

後半のマーラーは、客席にお尻を向けてたのはさすがに指揮者だけだったが、これまた楽員のレイアウトがユニーク。コントラバス8本が中央後部に陣取り、その前がチェロ。ヴァイオリンとヴィオラは左右に別れていて、どうやら低音を響かせたかったのだろう(?)。金管楽器がグルッと取り囲み、舞台の左にホルン、右にトランペットという並び方。さらに、ティンパニーが左右双方に鎮座している。

楽器配置のスタイルはユニークだったが、演奏は可もなく不可もなく、日本のオーケストラだってこのくらい普通に弾くよね、って感じ(?)


小川京子&海老沢敏
日本モーツアルト研究所第2回レクチャーコンサート
(10月27日 サントリー・ホール小ホール)

「モーツアルトとふたりのバッハ 〜 フォルテピアノの響きで 〜」と題された、小川さんのフォルテピアノと海老沢さんの語りという、仲むつまじいご夫婦の、微笑ましく楽しい一夜を堪能!

ヨハン・アントーン・ヴァルターが1781年に製造したフォルテピアノ(ヴァルターフリューゲル)を忠実に復元した楽器での演奏で、前半が、ヨハン・クリスチャン・バッハのソナタ ニ長調作品5−2と、クリスチャン・バッハに多くを学んだモーツアルトが、同じく明るい作風で書いたソナタ変ロ長調K.333。後半が、フィリップ・エマヌエル・バッハのソナタ ト短調Wq.65-17と、エマヌエル・バッハには会ったことはなかったものの、その楽譜を通じて大きな影響を受けたモーツアルトの、同じく短調の、幻想曲ニ短調K.397。アンコールにモーツアルトのトルコ行進曲を、トルコ風のアレンジで。

モーツアルトが、1781年もしくは翌年にこのヴァルターのフォルテピアノを入手したらしいとのことで、まさに当時の音が再現された訳で、その繊細で温かみのある響きは、まるで私達とモーツアルトを同じ次元に引合せてくてたかのよう。

前半、後半それぞれの演奏の前に、海老沢先生が、それはそれは嬉しそうに、当時の背景やエピソードを語るのだが、いやぁ、(当然のことながら)お詳しい!
でも、知識をひけらかすみたいな所は全く無く、モーツアルトのこと、そして素晴らしさを、少しでもみんなに伝え、感動を共有したい!との想いが、聴いてる方に伝わってくる。
世界は違うが、熱っぽく映画を語って「さよなら、さよなら」とニギニギしてた、あの映画評論家の日本映画学校での講演を思い出す。

ザルツブルクのモーツアルテウムに行った時、壁の大理石に、海老沢&小川ご夫妻のお名前がモーツアルト研究功労者として刻まれていたのを発見し、同じ日本人として熱いものを感じた覚えがある。センセ、いつまでもお元気で!


スロヴァキア国立歌劇場「椿姫」
(10月23日 東京文化会館)

都民劇場音楽サークルの公演だからなのだろうか、観客は70代を含む元気シニアが殆ど。
公演直前に地震が数回あり、装置のチェックでやや遅れての開演。(この時、新潟では大変なことが起きていたとは何も知らずに堪能。)

ラスティスラフ・ストゥール(指揮)、マリアン・フドスキー(演出)、ルビツァ・ヴァルギツォヴァ(ヴィオレッタ)、ヨゼフ・クンドラーク(アルフレード)、ヤン・ドュルチョ(ジョルジョ)という顔ぶれ。
(他の日の公演では、マリア・グレギーナがヴィオレッタ役、ドヴォルスキーがアルフレード役という豪華キャストのようだが、結核で痩せ衰え、アルフレードを待ち焦がれながら死んでゆくヴォイレッタに、堂々たる体格のグレギーナは、いくら大御所とはいえ、ちょっとね。)
それに比べ、きゃしゃなヴァルギツォヴァは、まさにヴィオレッタにピッタリで、しかも、熱い想い、せつない想い、苦しみをぐっと堪えながらの絶望の想い...それぞれのアリアで、迫真のパフォーマンスを、決してオーバーにならずに見事に演じてみせ、客席の涙を誘った。この人、これから期待!!

他方、アルフレード役は今一つ冴えなかった。イタリア・オペラで、恋に燃える男の役なんだから、もっとガ〜ンと声を出して欲しかった。地味でおとなしくて華に欠ける。こんなアルフレードに、ヴァルギツォヴァみたいなステキなヴィオレッタは惚れないんじゃないのかなぁ?
オーケストラもややおとなしく、もっと喜怒哀楽のメリハリがあってもよかったのかも?

とはいえ、久々に聴く&観るイタリア・オペラの定番。
ワグナーなんかと違い、スカ〜ッとして、何となく気持ちいいですね!
やみつきになりそう。


ウィーン国立歌劇場「フィガロの結婚」
(10月9日 NHKホール)

待ちに待ったマエストロ小澤の日本凱旋公演当日は、あいにくの台風22号首都圏直撃で暴風雨の真っ只中の開演だったが、さすがに補助席も含め、満席。
小澤征爾率いるウィーン国立歌劇場管弦楽団(ウィーンフィル)&合唱団+演出&美術が定番のジャン=ピエール・ポネルと来りゃぁ、たとえソリスト達は日本ではお馴染みでないにせよ、ガッカリするようなことはございません。
伯爵がサイモン・キーンリサイド、伯爵夫人がソイレ・イソコスキ、スザンナがイルディコ・ライモンディ、フィガロがヴォルフガング・バンクル、ケルビーノがアンゲリカ・キルヒシュラーガー、マルチェリーナがステラ・グリゴリアン、バジリオがミヒャエル・ロイダー、ドン・クルツィオがペーター・イェロシッツ、バルトロがマウリツィオ・ムラーロ、アントニオがマルクス・ペルツ、バルバリーナがイレアナ・トンカ、花娘がエリザ・マリアン、それに合唱監督マルコ・オズビック、演出補ディアナ・キーナスト。

ベーム=ウィーン国立歌劇場来日時のフィガロ(同じくNHKホール)の時は、黒のタキシードに黒の蝶ネクタイで出掛けていったため、「ボーイさん、トイレどこ?」なんて聞かれちゃったんで、今回は(台風ということもあり)ちょっと外して、KENT & CURWENの1つボタンの真っ白なジャケットに深紅の蝶ネクタイ、GAPのグレー地の縞のEXTRA-SLIMのボトムってないでたちで、他方、妻のSusannaも黒をベースに無彩色でNHKホールへ。

ベーム=ウィーン国立歌劇場の来日公演時のような、ホール中がピ〜ンと張りつめた集中と緊張感と興奮といったものは余りなく、ウィーンでこの国立歌劇場の「魔笛」に行った時のような、どこか歌舞伎座のような「肩肘張らずに定番をエンジョイ」ってな会場の雰囲気。
内容も全編、そんな感じ。非のうち所が無く、奇をてらった所も無く、この作品の原点に忠実な、安心して大いに楽しめる最上級の公演。
でも、体じゅうが感動と興奮で、涙が止まらない...といったことは最後まで起きなかった。

もちろん特筆すべき部分は幾つもあった。
伯爵夫人の2幕初めのアリア「愛の神様、私の苦しみと悩みに」の、限りなく澄んだ、かつ、憂いを秘めたイソコスキの歌声は、窓辺に差し込む日の光の舞台照明の素晴らしさもあいまって、絶品!
ケルビーノの「自分で自分が分らない」や「恋とはどんなものかしら?」も雰囲気が出ていた。
1幕でスザンナとマルチェリーナが「どうぞお先に」って、女同士のツッパリ二重唱を歌うところでの、バルトロがニヤニヤしながら二人を見てる表情だって、さすが。


でも、かつて、「フィガロ」の来日公演で一躍スターになったエディット・マティスやバルツァのような≪感動デビュー≫は、今回は無かった。
ソリスト達は、みんな上手い一流どころには違いない。だが、太っちょで余りウィットを感じないフィガロ役を見ていると、どうしてもかつてのヘルマン・プライの知恵者フィガロの演技の素晴らしさと比べてしまうし、一方、まるで小泉首相みたいな顔に加えて痩せて貧相な伯爵を見ていると、つい、かつてのフィッシャー=ディースカウの堂々としながらちょっと愛嬌のあるシーンを思い出してしまう。
我が愛妻の若い頃、もしくはどこかイングリッド・バーグマンに似ている(?)スザンナ役なのだが、全登場者を繋ぐ要役として、キラッと光る爽やかな「華」をふりまいてくれてはいない。
笑いを誘うべきヨッパライのアントニオは、痩せた小男で、何となく神経質に声を出している感じ。

不満は全く無いんだけど、20世紀に観た巨匠たちの≪夢の共演&競演≫の数々の想い出が災いしてしまってるのかしらん?
カーテンコールも数回で拍手が途切れがちに。台風でみんな早く帰りたいということなのか?
帰りの渋谷の歩道は暴風雨で最悪。全身ズブ濡れで、やっと下北沢に着いたら、小田急線は全線ストップとのこと。京王線で迂回して自宅に着いた頃には、もうヘトヘト。
それも含めて、一生忘れられない「フィガロ」の一つとなることでしょう。


六本木PIT INN Special Session
(7月25日 六本木PIT INN)

7月26日で閉店となってしまったJazz & Fusion Live House。
閉店の前日に行った所、立ち見も含め超満員。観客の半数以上が20代女性といった感じで、間違いなく私が最高齢。
Fusionというより、ヘビメタ&ハードロック調主体のミュージシャン達の、もう、「最後のお祭り」のノリノリの様相で、いやぁ、若返った!学生時代に戻った感じ。

エレキギターに高橋勲、矢堀孝一、米川英之、大橋イサム、キーボードに河野啓三、矢吹卓、大高清美、エレキベースに永井敬己、山田章典、IKUO、ドラムスに長谷川浩二、坂東彗、ヴォーカルに久保田陽子、それにトランペットの飛び入りも。
(間近に見るギターのテクニックは、オジサンFender Playerとしては大いに参考に。)

こういうライヴ・スポットが消えていくのは寂しいですね。
でも、新宿のPIT INNの方は健在。昼の部なんか、One Drink付きで\1,300と超お手軽。
六本木と違ってオーソドックスなモダンジャズが多いから、こちらはオジサン&オバサマ方にもオススメです。


パウル・パドゥラ=スコダ ピアノリサイタル
(6月29日 東京芸術劇場大ホール)

デームスに続き、ウィーンの三羽烏の一人の来日公演とあって期待して行ったのだが、さすがにもう喜寿。高齢のためか、もたつき気味の、ときにハラハラしてしまったリサイタルだった。
モーツアルトの幻想曲ハ短調K.475、ハイドンのピアノソナタ52番変ホ長調、シューベルトの即興曲集作品142(D.935)の2番と3番、ベートーヴェンのピアノソナタ21番ハ長調「ワルトシュタイン」、そしてアンコールにショパンの華麗なる大ワルツと、シューベルトの即興曲変ホ長調作品90-2、楽興の時といったプログラム。

白っぽいペンシル・ストライプの入った燕尾服(こんなの見たの初めて!)で登場。
昔からこの人の演奏は流れるような感じが無く、ハンマークラヴィアで弾いたときのようなポコポコとした音の連続が特徴と思っていたが、ライヴでその謎が解けた。殆どペダルを使っていないのだ。
シューベルトあたりまでの作曲家の曲を現代の楽器で弾く場合、極力、作曲当時の音を再現しようとしたら、このような奏法になるのかも?
ペダルを使えばゴマカシがきく筈なのに、それを拒み、トチリやモタツキが目立っても、敢えて作曲された時代の感覚に拘っているウィーンの頑固じいさん...、そんな部分は共感が持てる。
でも、堪能できたのはシューベルトだけだった。
聴く方(つまり私)が、あまりに現代の加工された綺麗・流麗な演奏に馴らされてしまったのでは、と反省もしてみるのだが、でも、もたついた演奏ではそこで感動が途切れてしまう。

スコダご本人もご自分の衰えを承知で、敢えて現役で、”流麗加工”を取り去った音楽の原点を伝える殆ど唯一の現存者として、老体に鞭打って頑張っていらっしゃるのだろう。その意味では生で聴いたこの体験は貴重だった。


イェルク・デームス作品の夕べ
(6月12日 サローネ・クリストフォリ)

成城の邸宅街を通り抜けたところにある、定員僅か50名くらいの民家(ピアニスト、池田氏の自宅)の会場。アーチ型の吹き抜け木造ホールの音響の素晴らしさにデームスが惚れ込み、来日の度にここで演奏するとのこと。
当日は全てデームスの作品の自作自演で、前半が、「ピアノのための変奏曲”ひまわり”」、「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」(Vnは弱冠22歳の原田陽)、「フルートとピアノのためのソナタ”小鳥のうた”より”ロシニョールは悲しく歌う”」(Flは同じく20代前半の石井陽子)。後半は、ホフマンスタールの「痴人と死」に曲をつけた歌曲集(オペラ?)の世界初演で、重鎮の小松英典(バリトン)、片桐仁美(アルト)、藤原啓子(ソプラノ)の参加による、ピアノやヴァイオリン、フルートとのセッション。

丁度良い響きの、小ぢんまりした会場で、目の前で聴く演奏の雰囲気に満足!
小松さんのバリトンはさすがの貫禄。一方、まさに、親(デームス)、子(小松、片桐、藤原さん)、孫(原田、石井さん)ともいえる3世代の競演がほほえましく、こういう雰囲気の会場ならではのあたたかさに満ちたひとときだった。

でも、デームスの曲そのものは、ウ〜ン、イマイチ面白くなかった。歌の伴奏ピアノ譜が単調過ぎだったり、ヴァイオリンとフルートとの掛け合い部分のヴァイオリン・パート譜がフルートとあまり合っていない箇所があったりと、特に後半の曲はまだ未完成なのかも?
しかも、演奏者たちが事前にあまり合わせていなかった様子で、あたかもジャズのジャムセッションのような、ハラハラドキドキもあり、また、1曲づつ出たり入ったり拍手があったりで、全体が散漫になったのは残念。せめて対訳のペーパーくらい渡してほしかった。

ウィーン三羽烏のもう一人、フリードリッヒ・グルダの、あのオシャレで小粋な自作自演の勝ち!
とは言うものの、巨匠の世界初演の自作自演に立ち会えたってのは価値あり(?)


イェルク・デームス、ピアノ&語り
(6月8日 東京文化会館小ホール)

ウィーン三羽烏の一人、デームスによる、ウィーンゆかりの音楽を時代の流れにそって演奏し、語るコンサート。
前半は、氏が所有するフォルテピアノ(ハンマークラヴィア。1820年製Felix Gross)によるモーツァルトの幻想曲ニ短調K.397、ベートーヴェンのピアノソナタ17番「テンペスト」、シューベルトの楽興の時(1番、3番)と即興曲op.90-3、op.142-3を、後半はBosendorferピアノによるシューマンのアラベスクと間奏曲op.26-4、ブラームスの間奏曲op.117-2と2つの狂詩曲からト短調、J.シュトラウスの「こうもり」、ブルックナーの「思い出」、A.ベルクのピアノソナタop.1、そしてデームス自作自演のバラード「サンミッシェルの歌」、アンコールにシューベルトというプログラム。

繊細な響きのフォルテピアノによるモーツアルトやシューベルトは、「当時のコンサートではこんな音で奏でられていたんだ。」と想像しながら聴くだけで、もう、感無量。ピークを過ぎたとはいえ、なにせ本場ウィーンっ子のデームスによる”ホンバモン”。
モーツァルトのこの短調の名曲が、フォルテピアノでは重た過ぎず、深刻過ぎず、これがあるべき憂いと悲しさなのかなぁと、あらためて納得。
そしてシューベルトの名曲は、この音色こそ、まさにシューベルティアーデってこんな風だったのではと想像してウットリ!

後半は、ブルックナーのピアノ曲が(シンフォニーとは違ったオシャレ感もあったりして)特に面白かった。シューマン、ブラームス、シュトラウス、ブルックナーって、時代が重なっているんですね。同時代に、同じウィーンで空気を吸っていた、その繋がりを感じながら一連の小曲を聴くと、あたかも全体にストーリーがあるかのように、組曲のように聴けてくる楽しさがありました。これって、デムスだから?
一方、デームスの曲は退屈。作曲家としてはイマイチかなぁ???
ところで、ウィーンっ子の彼の語りがフランス語なのは、どうして?


ジェシー・ノーマン モノ・オペラ「期待」&「声」
(6月1日 東京文化会館)

パリ・シャトレ座の世界公演プロジェクトとして、シェーンベルクの「期待」と、プーランクの「声」という、女性独りだけで演ずる異色のオペラ二本立て公演。アルツゥーロ・タマヨ指揮の東京フィルハーモニー交響楽団、アンドレ・ヘラーの演出。
さすがジェシー・ノーマン、圧巻の歌いっぷり! シンプルな舞台演出&照明効果が真に迫ったド迫力やオドロオドロしさを増幅!(「期待」の舞台にしつらえた人物オブジェと、それを照明で変化させていく演出、および、「声」の舞台バックの壁の色彩が徐々に変化し、最後には真紅に染まる見事さ! これは日本の舞台や日本映画の影響か?)
現代モノはとっつきにくいなんてこと全くなし!
生と死、正気と狂気、出逢いと別れ、ホンネと虚栄の嘘、未練と嫉妬、愛と憎悪...、2つの作品に、共に流れる人の性、本性がグワ〜ンと迫ってくる。

時代や国を超えた現代舞台芸術のエポック・メイキング・イベントといって過言でない。
古典落語の「品川心中」や、能の「隅田川」、さらには貞定の講談などを彷彿させる普遍性を感じた次第。講談版、落語版の「期待」や「声」をプロデュースし、モノオペラ版との二部競演なんかやったら、お互い触発されてさらに面白くなるに違いない。

激しい動きの殆ど無い中でのジェシー・ノーマンの圧倒的な表現力に、あらためてこの人の深さと幅の広さを痛感。この生演奏体験も一生の財産!
今のうちにこの人のナマを、もっと聴いておきたい!


第13回「小さな音楽会」
(5月9日 昭和音楽芸術学院ホール)

Figaro & Susannaの息子が通っているヴァイオリンの先生の門下生達の発表会。
ヴァイオリンなんぞ、生まれてこのかた、一度も触ったことさえなかった息子が、趣味で始めて未だ2年しか経っていないのに、なんとまぁ、ビバルディーのコンチェルト(a moll)を弾いたのには驚いた。
この月末には、学校のオーケストラでドボルザークの8番に挑むとか。

その意欲に感化され、私も何か楽器を! と決意。
三日坊主にならないようにと思いつつ、取り急ぎ楽器屋をひやかしてきました。
さて、どうなりますことやら...。


クルト・マズア指揮 フランス国立管弦楽団
(4月25日 サントリーホール)

あのバッハも楽長を務めた旧東ドイツの名門オーケストラで永年楽長として活躍したクルト・マズアが、フランスの名門オケの音楽監督となり、指揮すると、どうなるか?...興味津々で着席。
ゲルマン民族とラテン民族、第二次大戦の敗戦国と戦勝国、重厚なドイツ音楽とエスプリの効いたフランス音楽...、等と対比することもない。イラク戦争にともに反対したドイツとフランス、さもありなん、なんて妙に感じいってしまったほどに息の合った、両文化の融合サウンド(?)で、大正解のコンビ!

まず、デュカスの「魔法使いの弟子」で、曲全体のストーリーづくりのうまさを見せた後、ハチャトリアンのヴァイオリン協奏曲ニ短調。ソリストのセルゲイ・ハチャトリアン(作曲家の末裔?)はまだ19歳の若者で、普段着でヒョロヒョロと登場した姿を見、一瞬、「大丈夫かな?」なんて思ったが、弾き始めるや、いやいや、じつに柔らかい音色に将来の可能性を感じた次第。(18世紀のグァダニーニを使っているからこんなにも温かい音が出るの? ウチの息子のヴァイオリンも、SUZUKIの普及品から、もう少しUpgradeなものにそろそろ替える頃かな?などと、つい思ったりして)
アンコールに弾いたバッハの無伴奏は、19歳の演奏とは思えない精神的な深さあり、大拍手!

圧巻は後半のムソルグスキー「展覧会の絵」。ゴルチャコフ編曲のヴァージョンであったが、まさにマズア&フランス国立管弦楽団のために書かれたといって良いくらい、ラヴェル編曲版よりもずっと面白く、かつ、このオケの多彩な魅力が至る所でほとばしる。例えば、「殻をつけたひなの踊り」(アンコールでも再演した)での管楽器たちのウィットに富んだ絶妙なやりとりがあると思えば、一方、まるでブラームスの交響曲を思わせる「プロムナード」での弦楽アンサンブルの統一のとれた うねるような響き、そしてフィナーレ近くになると、まるで「ラ・マルセイユ」の大合唱(?)的フランス大賛辞のようにさえきこえる堂々たる演奏等々、見事!
昔、冨田勲のシンセサイザーによる「展覧会の絵」のLP(古いなぁ!)を聴いた時以上に、いろんな所に発見のある、ステキな「展覧会探検会」体験だった。


内田光子ピアノ・リサイタル
(3月31日 サントリーホール)

モーツアルト、ウェーベルン、ベートーヴェン、シューベルトといった、ウィーンゆかりの作曲家たちの一夜。全編、いい意味で≪内田節≫で見事に統一され、あたかもこの一夜全体が一つのストーリーになっているかのよう。

まず、モーツアルトの”死の体験の年”といえる1787年作曲の「ロンド イ短調K.511」。父親や友人たちとの死別が重なり、悲しみの旋律で始まるこの曲の痛ましさと美しさを、決して誇張することなく淡々と弾くところからして内田さんの凄さを感じる。
拍手なくウェーベルンの「ピアノのための変奏曲op.27」という20世紀の曲に一気に続いたのだが、この2曲が全く同じ線上にある! 音のちりばめ方の何と彩りのあることか!
そしてベートーヴェンの「ピアノソナタ 変イ長調op.110」。(そう、まさに上記の1787年に、ベートーヴェンはモーツアルトに会いにいっている。それから33年後の作品)
最近、ベートーヴェンの曲の、「これでもか!これでもか!」っていう、しつこく、くどいのに、ちょっと躊躇いを感じていたのだが、いやぁ、内田さんの演奏は、全くそれが無い。10本の指から奏でられる複数の音たちのそれぞれが鮮明に聴こえながら、しかも、一つに調和して響いてくる。

休憩をはさんで、シューベルトの「楽興の時 D780」あたりから、またまたウルルン状態に。16日のLSOとの共演時のアンコール(アンダンティーノ)を再び聴けた嬉しさ。あまりにポピュラーなんで日頃聴くことをはばかっていた3曲目の、なんと澄んだ響き!そして、全体に言えることだが、0コンマ0数秒であろう、ほんの僅かな「間」の置き方やテンポのゆらぎの、なんと気品に満ち、かつ、心あたたまる”内田節”なんだろう!

鳴り止まぬ拍手に、アンコールとして、シェーンベルクのとっても短い曲(op.19)で会場に微笑みを充満させた後、モーツアルトのピアノ・ソナタの2楽章を、なんと2曲も(K.545とK.576)大サービス。この2曲で、先日のLSO同様、またまた顔じゅう、グチャグチャに。
どうも涙もろくなったのか、それとも、ホントに一生もんの演奏会だったのか?


クリスティーネ・シェーファー「冬の旅」
(3月19日 オペラシティー・ホール)

ドイツの正統派ソプラノによるシューベルトの「冬の旅」。
男の失恋の曲を女性がどう歌うか、楽しみだったが、大正解!

だいたいこの曲にせよ、「美しき水車小屋の娘」にせよ、シューベルトの歌曲集は、優柔不断でロクに打ち明けることも出来ないナヨナヨした男の失恋ストーリーなんで、男らしい(?)ワタクシとしては歌詞に共感することが今迄あまり無かったのです。
ところがこれを女性に置き換えると、(男の発想って叱られるかも知れないけど)恋が実らずに去っていく美しく可愛そうな、思わず抱きしめてあげたくなるような女性のイメージになって、歌詞が抵抗無く受け入れられる不思議。

ところで、ボサノヴァの名曲「イパネマの娘」をアストラット・ジルベルトが歌う時は、娘(Girl)ではなく「Boy」に変えていたのだけれど、クラシックの世界では歌詞は変えないんですね。
(当日は、字幕付きでした)

ピアノ伴奏は、ゲルネの「水車小屋」の時と同じエリック・シュナイダー。「伴奏」を超えた対等の演奏で、実に見事にストーリーを創る、現代最高の声楽伴奏者の一人に違いありません。


ロンドン交響楽団創立百周年記念来日コンサート
with サー・コリン・デイヴィス & 内田光子
(3月17日 サントリーホール)

初めてP席(サントリーホールの舞台の向こう側の席)の最前列が偶然買えたので、2日連続で行ってきました。第2ヴァイオリンのすぐ後ろで、まるで自分が楽員になったような気分! ホルンの音がモロにこっちに向かって鳴ってくるっていう「弊害」もあるけど、サー・コリンの指揮ぶりや表情、そして、内田光子さんとサー・コリンや楽員たちとの表情による会話を、思う存分、堪能しました。

まず、英国ならではのブリテン「ピーター・グライムズ」から”4つの海の間奏曲”で調子を整えた後、内田さんによるモーツアルトのピアノ協奏曲26番「戴冠式」。1楽章のカデンツァで、「フィガロの結婚」の1幕第1曲の二重唱のフレーズを巧みに取り込んでの、あたたかく自由で、しかも気品に満ちながら親しみをもって語りかけてくる”音の魔法”に、もう、そこからウルルン状態に。
そして、2楽章の、歌うような旋律で、またまた感涙で顔はグチャグチャ。1音たりとも無駄が無いシンプルな旋律の中に全てを語っている!
3楽章で体じゅうが至福に満たされ、全身がすっかりピュアになった感じ。
内田さんは、ピアノ・パートの無いところは、楽員たちの方を見やりながら嬉しそうに体を揺り動かし、ときにサー・コリンに向かって、目で「とってもいい演奏!」って合図を送っていました。こんなに楽しそうに演奏しているんですね。
これぞ、まさに、内田さんと、サー・コリンと、楽員たちがモーツアルトと時を共有し、一体となっているんです。そしてその感動を、会場のみんなも一緒になって分け合っているんですね。

鳴り止まぬ拍手に、ピアノソナタK.330の2楽章!の大サービス!!!
いやぁ、これで、私の体に詰まっていた(脳梗塞ならぬ)「感動梗塞」がすっかり治癒し、ちょっとしたことでも感動できるカラダに戻ったといって過言ではありません。

3曲目はシベリウスの5番の交響曲。北欧の作曲家の曲はロンドン交響楽団の得意とするところ。フィナーレの間のおき方を、サー・コリンがどう振るか、P席ならではの楽しみ方ができました。

アンコールは英国のエルガーのエニグス変奏曲から。ハリウッド映画の映画音楽の数々を録音しているLSOならではの、まるで映画音楽のような美しく燃える演奏に拍手!
さらに、前日のアンコールのチャイコフスキーがこの日も。同じ曲を、2晩続けて、前からと後ろからの双方で聴けた訳です。
まさに100周年記念公演に相応しい2晩でした。


ロンドン交響楽団創立百周年記念来日コンサート
with サー・コリン・デイヴィス & 内田光子
(3月16日 サントリーホール)

ベーム&ウィーンフィル来日公演時のブラームス1番やモーツァルト41番のときの、あの感動と、そう、”感涙量タイ記録”の、一生もんの心の財産!のモーツァルト ピアノ協奏曲22番でした。コリン・デイヴィス卿率いるLSOの、出だしのファゴットやフルート・ソロのところから、もう、そのハートがジーンと語りかけてきて、ウルルン状態に。そして内田光子さんのピアノ...、おそらくモーツァルトが生きていたら、「あぁ、ボク、永いこと、こういうのを聴きたかったんだ。嬉しいなぁ。」って言ったに違いない、間も、タッチも、表現全てがこれ以上望み得ないもの!
1楽章のカデンツァに差しかかったころには涙ボロボロ。2楽章なんぞ、(モーツアルトだから当然なのだろうが)1音たりとも無駄が無く、必要最小限の音の並びの中で、地球に生まれ、生き、聴き、ピュアになれ、体じゅうが生まれ変わって天に昇っていくような至福の体験に、もう、顔じゅうグシャグシャになるほどの感涙。3楽章が始まるや、内田さんが、まるで子供のような純心無垢の表情で弾き始め、サー・デイヴィスも至福の時の共有を心から喜んで振っている模様に、こちらもニコニコ顔に。
鳴り止まぬ拍手に、シューベルトの楽興の時(変イ長調)のアンコールあり、これまた、内田さんならではの心の底から自然に湧き出てくる感動的な構成!

後半のベートーヴェン8番は、"Living Music"を標榜するLSOならではの、(古色蒼然たるドイツ風&フルトヴェングラー風ベートーヴェンとは全く違う)、まるでロッシーニのオペラのような活き活きとした楽しさと躍動感に満ちた演奏!サー・デイヴィスとLSOとの永年の信頼関係があってこそなのだろう。2楽章なんぞ、メトロノーム的画一テンポに陥ることなく、実に楽しい。

アンコールに演奏されたシューベルトの3番からの、ピアニッシモの弦の美しさ、そして、チャイコフスキーのエフゲニ・オネーギン(ポロネーズ)で示した、まさに英国貴族的な、堂々と、格調高く、他方、自在なテンポで英国人ユーモアさえ感じさせる技量に至ってや、もう、完全に脱毛、いや、脱帽!
明日のチケットも買ったので、もう、楽しみで、今夜は眠れることができるでしょうか?


九州交響楽団創立50周年記念東京公演
(2月22日 サントリーホール)

九州出身で、現在、アメリカを活動拠点にしている大山平一郎の指揮で、ウェーバーの「精霊の王」序曲、ベートーヴェンのピアノ協奏曲5番「皇帝」(ピアノ:園田高弘)、ブラームスの交響曲第1番、アンコールにメンデルスゾーンの交響曲第5番の第2楽章というプログラム。
我国ピアノ界の重鎮、園田さんは、モーニング姿で、75歳(?)という年齢を感じさせないカクシャク
とした歩みで舞台に登場。ホロビッツもフリードリッヒ・グルダも生で聴けなかった私としては、つい、「今のうちに園田さんの演奏を生で!」との意気込みで臨んだ次第。曲が終わった直後に、何組かのオバサマ連中が、まるで事前に打合せていたかのように、一斉に何となくわざとらしい(?)スタンディング・オベーションをしたのはちょっと興醒め。

とはいうものの、地方でプロのオーケストラを運営することは大変な苦労があると思うが、50年もの間、地元に根付いた活動をしてきたこの実績に心からの拍手を贈るとともに、この東京公演を実現させた熱い情熱に乾杯!

南国九州のカラッと開放的な音を想像してたのだが、ベートーヴェンもブラームスも、意外と重くドッシリとした音づくり。アンコールの弦の響きの美しさは絶品。


カノン ワンマンライヴ
(2月21日 原宿Blue Jay Way)

幼少からニューヨークとブリスベンで暮らし、クィーンズランド州立音大オペラ科を卒業した国際派若手女性ヴォーカリスト(日本人)の、CD発売記念、自作自演ライヴ。
ピアノ弾き語り、および、ヴァイオリン(ときどきヴィオラ持ち替え)やシンセサイザーをバックにした清楚な歌声は、高音部でマライア・キャリー的なこぶしを利かせ、中音部では宇多田ヒカルにちょっと沖縄っぽさ(?)の入ったようなフィーリングも。キース・ジャレットのソロを思い出させるピアノ弾き語りで、日本語と英語のミックスされた歌詞の自作の数々をゆ〜っくり聴かせて、癒しのひとときを与えてくれた。
大自然いっぱいオーストラリア育ちならでは(?)の、東京暮らしでは考えにくいピュアな歌詞と、クラシックとPOPSとを融合させた自称「クラシ・ポップ」メロディーが、どこまで日本の音楽市場に受け入れられるか、ちょっとウォッチしてみたい新人。


笠原純子&友田恭子ピアノ・デュオリサイタル
(1月10日 東京文化会館小ホール)

姉妹ならではのピッタリ息の合った、この国で稀にみるといって決して過言ではないデュオの名演でした!

前半が四手(1台のピアノを二人で)の曲集。まず、バッハのプレリュードとフーガイ短調(BWV543)が、決して機械的にならず命の息吹のような大きなヒューマニティーを感じさせ、ホール内をすっかり一つにしてしまった。
次のモーツアルトの四手のためのソナタ ハ長調K.521が絶品!!
間の採り方(特に2楽章)の何と素晴らしいことか!あと0コンマ05秒長くなると嫌らしくなるし、短かいと教科書になってしまう、シンプルな中の難しさを、信じられないような澄んだ高音で魅了した!
そして3楽章の、まるで天国で遊んでいるような温かさ!モーツアルトの父親が亡くなった翌日に完成されたこの曲の偉大な不思議さと完成度を、濁り無く、まさにモーツアルト自身が我々に語りかけてくれているように弾いてくれた。
シャブリエの前奏曲の後に弾いた、久隆信の「ピアノ四手のための"Blue Eyes"」(作曲家の前で演奏)は、現代物でありながら決して難解ではなく、時代を超えた楽しさに満ちていた。

後半は2台のピアノによる曲集。
モーツアルトの二台のピアノのためのソナタ ニ長調K.448は、CDで聴いていては絶対に楽しめない、ライヴならではの二人の対比やかけ合いの妙に満ちていた。ここでも特筆すべきは間の採り方と澄んだ音の素晴らしさ! モーツアルティアンとしては、天にも昇る気持ち!
ラヴェルのスペイン狂詩曲のラテン・リズムを楽しんだ後のアンコールには、5年前にこの姉妹のために書かれた「アミューズの時」から、まさにジャズそのものの曲と、まるでラヴ・ロマンス映画のテーマのようなうっとりする曲とが続き、バッハから21世紀まで、デュオの極意を堪能できた一夜でした。

帰宅後、NHKハイビジョンで、アルゲリッチとキーシンによるモーツアルトのK.521のライヴが放送されていました。まるで母子のような微笑ましさのある巨匠たちの映像と、この夜の姉妹の演奏と、偶然にも同じ曲を比較してしまうことになった訳ですが、もう、ここまでの感動と喜びに昇華した演奏は甲乙付けようとすること自体、無駄であり、ただただ、モーツアルト万歳!で、ぐっすり眠りについた次第です。


リオ・ブルネロ&小山実稚恵デュオ・コンサート
(12月12日 紀尾井ホール)

去年のアファナシエフとの共演でこの人の魅力に取りつかれ、今年も同じホールへ。
ベートーヴェンのチェロ・ソナタ3番イ長調、シューマンの「アダージョとアレグロ」(OP.70)、武満徹の「オリオン〜チェロとピアノのための(1984)」、ブラームスのチェロ・ソナタ第1番ホ短調、アンコールにカタロニア民謡(カザルス編)「鳥の歌」、ロッシーニ「一粒の涙」という充実のプログラム。
目立とうとかウケようとかといった嫌らしさが全く無く、心の底から湧き出てくる真摯な思いを、まるでそのまま声に出すように、ベートーヴェンもブラームスも、チェロという楽器の特性をフルに出し切り、それに小山のピアノが、丁度良い塩梅で合わせる。

武満の曲は、死んだ後も成仏できない魂たちが、都会の中でさまよっているような不安定な前半と、それらの魂が、一転して宇宙空間にさすらい、混沌とした地球を眺めているような後半との、20世紀後半を象徴するような不思議なフレーズに衝撃。

「鳥の歌」の演奏の前に、ブルネロは、カザルスが1971年に国連でこの曲を演奏した時に語ったと同じメッセージを聴衆に語りかけた。
「カタロニアの鳥たちは、青い大空に飛び上がると、Peace!Peace!といって鳴くのです。」
当時94歳のカザルスが、音楽を通じて非戦・平和を訴えた映像(当時NHKで放映)は、今でも強烈に頭の中にこびりついているが、あの時テレビで観た感動がブルネロのアンコールで甦り、思わず涙。さらにもう1曲弾いたアンコールが「一粒の涙」。
武満の曲のイメージも含め、イラクやアフガンの現状に対するブルネロ(&小山?)の出来る限りのメッセージだったと思えてなりません。

不幸なことをくい止めるために、音楽を通じて出来ること、ビジネスを通じて出来ることって、そして、個人で出来ることって、何でしょう?


関定子ソプラノ・リサイタル
(12月7日 オペラシティーホール)

前半が「宵待ち草」、「からたちの花」、「小さい秋みつけた」等の日本の名歌、後半が、「ウィーンわが街」、「雪が降る」、「アカシアの雨がやむ時」、「悲しい酒」、「愛燦燦」等々、内外の懐かしい曲の数々、といったポピュラーなプログラム。ピアノがFM番組なども持っている小原孝。

プログラムに書いてある通り、オペラ歌手の枠にはまり切らない「異色の大器」として、特に中年のご婦人方に人気のようで、そのようなお客様がグループで多数来ていました。

ゲルネのドラマチックなコンサートの後だったたせいか、日本の愛唱歌をたて続けに聴くと、どこか平坦に聞こえるのは、(決して歌手のせいではなく)、日本と欧州の文化の違いなのかな?と感じた次第。


マティアス・ゲルネ:シューベルト「美しき水車小屋の娘」
(12月5日 王子ホール)

昨年来日するはずが延びて、今回、待望の初来日した期待のドイツ人バリトン。フィッシャー=ディースカウの後継者とのふれこみだが、ディースカウのリートがどちらかというと理知的なのに対し、ゲルネのドラマチックな表現力に、ただただ脱帽!

水車小屋の娘に惚れ、ロクに打ち明けられないまま、ライバルが登場し、悲観して川に入って自殺するっていう、今どき考えられないようなメメしい曲ということもあり、今迄、名手のライヴを聴いても心から感動するということが無かったが、ゲルネは違う。フォルテから、ささやくような弱音まで、そして息使いまでも、表情たっぷりにダイナミックなドラマに仕立て上げてみせた。
(ルックスが、どうみても頑丈そうな大男なため、この歌詞の主人公のイメージと全く逆だったのが仕方の無いことだろうけど...)

ザルツブルク音楽祭やメトロポリタン歌劇場で、「魔笛」のパパゲーノ役で大成功したとのことだが、さもありなん、ちょっとひょうきんで、楽しそうな風貌は、まさにパパゲーノなんかピッタリ!(機会あれば是非観てみたい!)
間違いなく、今、最も旬のバリトン!

伴奏のエリック・シュナイダーのピアノが、また、素晴らしい。ピアノが、そばに流れる川の位置付けで、歌とピアノとが、全く対等な関係&コミュニケーションを保ちながら、一大ドラマに仕立て上げた。(昨年は、ブレンデルが自ら伴奏を買って出るはずだった)

ステージと客席とがあまり離れておらず、かつ音のいい小規模会場(銀座王子ホール)でのこの感動で¥7,000とは、超おトク。


イングリッド・ヘブラー ピアノ・リサイタル
(11月21日 紀尾井ホール)

一生忘れ得ぬ心の財産となったと言って過言でないほどの、まさに至福の2時間でした。
モーツアルトのロマンスK.Anh.205、ピアノソナタのK.331、K.545、シューベルトの4つの即興曲D899といったポピュラーな名曲ばかり(アンコールもモーツアルトのソナタ)のプログラム。小学生も弾くこれらの曲が、なんと奥が深く、かつ、よけいなものも足りないものも一切無い、ピュアなものなのか!
偉大な作曲家と演奏家とが、聴衆のみならず、あらゆる生き物や環境に対して、人間のこころの豊かさ、温かさ、繊細さなどを伝えてるんだな、なんて思えたコンサート。
ふくよかな西洋のおばあちゃまが、ゆっくりステージに登場し、自己主張するでもなく、ましてやウケを狙うなんてことは微塵もなく、静かに淡々と弾く中に、普遍的なホンモノがある。歳を重ねるにつれて≪感動指数≫が高まってくる、ヴィンテージ・ワインのような円熟!
こういうのを、アメリカもイラクもイスラエルも、そして世界中の指導者が聴くべきです!
争いのバカバカしさに気付くはずです。(今風「魔笛」台本みたい!?)

F.グルダも志ん朝も、ナマで聴かないままだった私にとって、これぞというアーティストは生きてるうちに体験しなくちゃ..って、やや焦ってもいます。


ウィーン・シンフォニア・シュランメルン
(11月7日 紀尾井ホール)

第1、第2ヴァイオリン、ネックが2つあるコントラギター、短い高音クラリネット、ボタン鍵盤式アコーディオンの5名による、伝統的なウィーンの、それはそれはアットホームで楽しい演奏に、ソプラノのマルセラ・セルノがジョインしたコンサート。
こういうのは、ちょいとイッパイひっかけて楽しむのがいいですね。思わず、ウィーンの森のカーレンベルクの丘あたりのホイリゲ(ワインの新酒を飲ませる、地元市民のたまり場的な造り酒屋の居酒屋というか家の庭?)を思い出します。
ちなみに、第1ヴァイオリンはウィーン交響楽団のコンサートマスター。そして、禿げ頭のギターのオジサン(ペーター・ヒルシュフェルト)の笑顔が絶品! ウィーンっ子ならではの緩急自在のワルツのテンポの小粋さをヴァイオリンやアコーデオンが演じた時、その通奏部分を受け持つ彼の目がニタッて笑い、嬉しそうにノリにノッてくる。
ほんとうの幸
せって、ひょっとしたら、お金より、こういうひとときなのかナ?なんて感じた一夜でした。


桐’76 第28回コンサート
(10月13日 カルラホール)

いやぁ、超オトクの大満足マチネでした。
未曾有の大雨にもかかわらず満席の熱気の中で、まず、笠原純子のショパンから。OP.70-3は、決して感傷的になりすぎることなく、しかも彼女ならではのハートがにじみ出たテンポ&タッチで、観客とすっかり一つになってしまった。世界初演の久隆信作曲「Piano-Pop」は、難解な現代曲ではなく、時代を超えた様々なステキ・フレーズが、自由奔放に流れていき、楽しい限り。途中でピアニストが手を叩くなんて所もあったが、奇をてらったといった感じは無い。作曲者も会場に顔を見せ、クラシックが現代に生きている実感を共有できた。世界の平和を祈りながらといって弾いたシューマンは、演奏者の温かさに満ちていた。
続く芦田興子が歌うラヴェル「5つのギリシャ民謡」は、フランス語による”オトナの感情表現”に、思わずゾクゾクッ!として来、こりゃ脱帽。片桐典子のピアノも美しく、とてもいい雰囲気。次回は是非とも彼女のフランスもののソロを聴いてみたい。山田耕筰は、最近、日本語の良さをじっくり味わえる歌を聴くことが殆どなかったこともあり、大人の心にしみいる、秋の日にピッタリの”心の深呼吸”をさせてもらった気分。日欧のオトナの感情表現や心の響き方の違いを、見事に対比してくれた。そして、小林秀雄の「落葉松」は、親しみ易いメロディーの中に、日本人ならではの心の機微で響いてきた。
三川泰子のリストは、決して技巧に走ることなく、まさに初秋に相応しくしっとりと訴えかけてきた。そして、ドビュッシー(前奏曲第1集より)は、貴婦人的外観と異なり、目を瞑るとヴィジュアルが見えてくるような親しみ易さがあった。ナマで聴く秋のピアノは、やっぱりいいですね。


コッソット出演の「イル・トロヴァトーレ」
(9月19日 BUNKAMURAオーチャードホール)

ジプシーのアズチェーナ役のフィオレンツァ・コッソットが会場全体を圧倒!
68歳という年齢を感じさせない声量と表現力に、終演後も拍手鳴り止まず、久々に客席全てスタンディング・オベーションという燃えた夕べでした。
マンリーコ役の韓国人テノール、チェチュル・ペーも、張りのある声で、国際的にもトップクラスの好演。他に、レオノーラにベテランの関定子、伯爵役に、これも韓国のハンス・チョイ、フェランド役に志村文彦、女性指揮者のニコレッタ・コンティ率いる東フィル&東京オペラ・シンガーズ等々。
演奏会形式で舞台装置は無いものの、簡単な照明演出で充分に楽しめたのは、他でもない、イタリア・オペラは歌手の力量が魅力の原点であるってことを、あらためて示してくれたような気がしました。
かつての大御所が、衰えどころが圧倒的な存在感を示しつつ、これからの実力派が国籍を超えて頑張ってる...、そんなミクスチャーを、しかも安心して楽しめた一夜でした。


五嶋みどりミュージック・シェアリング・コンサート
(6月29日 オペラシティーホール)

みどり教育財団がNPO法人「ミュージック・シェアリング」となって、初めてのツアーの初日。
及川浩治のピアノ、沢井一恵の箏、石川高の笙などのゲストも交え、パガニーニの「ラ・カンパネラ」、グリーグのヴァイオリン・ソナタ3番、エイミー・ビーチの「サパテアード」、ショパンのポロネーズ(及川)、それに箏の六段や雅楽の越天楽等のバラエティーに富んだ、かつ、子供の入場ウェルカムのチャリティー・コンサートでした。
出演者各氏へのインタビューも入れ、子供たちが音楽の楽しさを実体験できる工夫や、邦楽に接する機会の創造等、音楽ファンの広がりに貢献する企画。このような地道な活動を続けている五嶋さんの姿勢に頭が下がります。


ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
(6月20日 東京芸術劇場)

前半がベートーヴェンの交響曲7番、後半がブラームスの1番、アンコールにベートーヴェンのエグモント序曲とブラームスのハンガリー狂詩曲5番。
身も心も≪元気復活!≫させてくれた一夜でした。
ベートーヴェンの7番は、それぞれのパートがそれぞれに弾いてるな、っていう感じもありましたが、楽章の間を殆ど空けずに、一気に四楽章の≪元気≫に引っ張っていったギュンター・ヘルビッヒという指揮者は、かつてのヘルベルト・フォン・カラヤンを思わせる指揮ぶり。
当日は前から5列目の席ということもあり、指揮ぶりも表情もよく見えたのですが、分かり易い指揮という面では、やはり小澤征爾さんってピカイチだなぁって、改めて感じました。やはり、サイトウイズムの偉大さ?
後半は、それぞれの楽器が温まってきたのか、音が全く違い、オーケストラ全体が一つに纏まって、アンコールも含めて、上り坂をぐいぐい登っていくように、よく鳴っていきました。
ブラームス1番の4楽章あたりにさしかかると、もう、いつのまにか手を握り締め、体じゅうエネルギーがこみ上げ、目頭が熱くなっているワタシ!
何度聴いても、名曲ですねぇ。
私が死んだ時は、モーツアルトのレクイエムかアヴェ・ヴェルム・コルプス、はたまたバッハのマタイかロ短調ミサなんぞをかけてほしいナ、なんて思ってましたが、
いやいや、ブラームス1番を聴かせてくれたら元気百倍、生き返っちゃいますね。

ベートーヴェンも決してくど過ぎず、まるで4曲が1つの組曲のようにThat's Deutsch Musik!の一夜でした。


F.プライ & R.グルダ「美しき水車小屋の娘」
(5月26日 日経ホール)

あのヘルマン・プライの息子のフローリアンと、あのフリードリッヒ・グルダの息子リコとが共演するというので、興味津々で行ってきました。

フリードリッヒ・グルダが作曲したピアノ曲で「For Rico」ってあったのは、この息子のために書いた曲だったんですね。息子のグルダは、日本人みたいな顔(そりゃお母さんは日本人だもん)で、しかも、ちょっと頭を薄くして丸い帽子をかぶらせたらオヤジさんそっくり!ちょっとしたしぐさも似てる!
でも、ピアノは違って、残念ながらオヤジさんの、あの小粋な感じや深さは感じられない。水車小屋の伴奏の前に、プログラムには無かったオマケで弾いたシューベルトの即興曲なんぞ、「指慣らしの練習をお客の前でしないでょ!」って言いたくなるほど。しかし、水車小屋の伴奏の中ほどからは音が変わって、いい雰囲気になってきました。

他方、プライの息子も、どこかにオヤジさんの声を彷彿させるところがありました。バリトンというより、ほとんどテナーの声で、(お父さんと比べたら酷かも知れないけど)深さがぜ〜んぜん違ってました。
でも、「美しき水車小屋の娘」って曲は、純情な若い独身男が恋して失恋する歌な訳で、荒削りで平坦なところがあったとしても、ホントはこういうフレッシュな歌声の方が合ってるのかも知れません。
好感が持てました。

しかしまぁ、この歌曲集、勝手に恋して、ライバル登場に勝手に悩んで、そいつと勝負しようともせず、彼女に強烈なアプローチをする訳でもなく、入水自殺してしまう。現代人からみると、「なに、こいつ?」って思ってしまいますよね。昔の人は純情だったのですかね。


忌野清志郎ほか、アースデー・コンサート
(4月22日 日本武道館)

忌野サンのパワーを貰って、オジサンは大いに燃えてしまい、若返ったのデス!
佐野元春、及川光博、夏川りみも登場し、途中、エベレストにいる野口健氏とのTV電話生中継や、エインディングでは、出演者それぞれの環境メッセージが会場の大スクリーンに現れるなど、盛りあがった一晩でした。
それにしても、忌野サン、いつまで経っても過激で、衰えを知りませんねぇ。アコースティック・ギターでのパワフルな曲演(?)もお見事。
某商社社長が、(今の日本人は)「怒り、悲しみ、喜びの感性が衰えている。自分の利益に結びつかないことには無関心で怒ることもなく、机を蹴飛ばすことも無い。もっと激しさを持て!..そういう文化をつくりたい。」と発言されていましたが、まさに激しさ、怒りのカタマリが忌野サンでした。この強烈な自己主張は、かつての全共闘世代の数少ない≪生き残り≫(それじゃまるでまるで絶滅危惧種)なの?
(及川クンの王子様的エンタテイメントも楽しいだろうが)若者よ!オジサン世代に負けずに、もっと怒れ!

ところで、当日はFM東京が生中継放送をしていたため、イヤホンでラジオを聴きながら会場のライヴを聴いてみるという実験(?)をしてみたところ、面白かったです。
ラジオの音声が聴こえた後に会場のPA(スピーカー)からの音声が聴こえてくるんですね。武道館のような広い会場の場合、音の伝達速度は1秒に約340mですから、舞台から私の席に音が伝わってくるまでに1秒の数分の一の時間がかかるが、一方、ラジオの方は、マイクで拾った音をそのまま電波(秒速約30万Km)で飛ばせるってワケですね。
もう一つ面白かったのは、忌野氏の「北朝鮮へ行こう」等の超過激ソングは、生放送でもさすがにカットされてましたね。でも、ボブ・ディランの曲くらいならいいのにね。


M.コルボ指揮ローザンヌ声楽・器楽アンサンブル
バッハ「ヨハネ受難曲」
(2月24日 サントリーホール)

かつてのカール・リヒター&ミュンヘンバッハの来日公演と比べ、かなり小編成でしたが、小編成ならではの心のこもった名演でした。決してドラマチックにつくろうとしないシンプルな中に、しかし、終わった後で目頭が熱くなっている、不思議な体験でした。

マタイ受難曲に比べると、どうしても地味に聴こえるヨハネですが、今回初めて”燻し銀”的な良さを知ったような気がします。67番のコーラスの響きは、何年経っても心に焼きついていることでしょう。

それにしても、アメリカがイラクに対して宗教戦争的な、ちょっと怖い様相を示してきました。このヨハネでも聴いて、冷静さを取り戻してみたら如何でしょう。


義経千本桜
(2月1日 歌舞伎座)

2月の歌舞伎座は義経千本桜通し狂言。初日の夜の部(四段目「木の実」、「小金吾討死」、五段目「すし屋」、六段目「川連法眼館」)を、まさに堪能。
何と言っても、四段目、五段目の、團十郎演ずるいがみの権太が、さすがの迫力&名演!
悪さを繰り返してきた権太が、父親弥左衛門(松助)が匿っていた弥助実は維盛(時蔵)の首を取り、しかもその妻子も突き出してしまったことにに弥左衛門は怒り、権太を刺す。死に際に権太が、じつは自分の妻子を身代わりに出したと述懐する、悪人の善人へのもどりのくだりが泣かせる。
(シェークスピア劇にも通じる、古今東西、普遍的なテーマと、あらためて感じた次第)

六段目は、静御前の鼓の音にひかれて出てくる忠信実は源九郎狐(菊五郎)の変化が見もの(猿之助のような宙吊りまではせず)なのだが、それ以上に、竹本喜太夫の浄瑠璃の熱演が見事!
今年還暦のミック・ジャガーだって、これほどの迫力は出せますまい。

奇をてらった新演出などなく、「次はこうなる」って分かっていても堪能できてしまう歌舞伎の魅力って、クセになりますねぇ。


寿 初春大歌舞伎
(1月2日 歌舞伎座)

出雲の阿国が京で歌舞伎踊を始めたのが慶長8年(1603)。
今年は歌舞伎400年ということで、大盛況の歌舞伎座初春公演の初日(昼の部)に行ってきました。正月の歌舞伎座って、やはり何となく華やかで、いいもんですね。

まず、歌舞伎400年記念の瀬戸内寂聴の新作、「出雲の阿国」の初演で、瀬戸内さんも2階でご鑑賞。福助演ずる阿国と、幻想として現れる名古屋山三(菊の助)のご両人の妖艶な舞が見事!こういう記念すべき舞の初日を体験したってのも、一生の心の財産となりますね。

お次は、「矢の根」。三津五郎の曽我五郎が、これぞ歌舞伎十八番の堂に入った迫力。橋の助の曽我十郎役とあわせ、思わず声をかけたくなります。ところで、昔は、初夢を見るとき、枕の下に、宝船の絵の他にお年玉もしのばせたんですね。

さぁて次なるは、期待の玉三郎演ずる「京鹿子娘道成寺」(道行〜鐘入り)。左右の囃子のステレオ・ダイナミック生演奏サウンド、まばゆいばかりの舞台、華麗に変化する衣装、そして玉三郎の清姫...。全てが一大スペクタクルの、まさに世界に誇る華麗な総合舞台芸術といえましょう。
こういうのを観ると5年は寿命が延びます。
しかしまぁ、女性にとことん惚れられるってのも、大変なこってすねぇ。殿方諸君、お気をつけなされ。

さてどん尻に控えしは、菊五郎(弁天小僧)、団十郎、松緑、菊之助、團蔵、田之助、幸四郎といった豪華総出演の「弁天娘女男白波」(浜松屋〜稲瀬川勢揃い)
”不祥事を起こした世の社長さんたちや政治家諸君もコソコソ言い訳ばかりしないで、「知らざぁ言ってきかせぁしょう!」って、男らしくやったらどうなんだ。全くもう、今のご時世のニュースときたら、日本も海外も、歌舞伎ネタになるようなスカッとしたのがまるでないよっ!小ザッパばかりで大物がいないヨッ...”、な〜んてお屠蘇気分で思いながら、この極めつけを観てスカ〜ッとした次第。

歌舞伎も音楽同様、TVやビデオではゼッタイに味わえない、ライヴならではの感動がいっぱい!
やみつきになりますね。


レニングラード国立バレエ 「シンデレラ」
(12月26日 東京文化会館)

久々のバレエ・ライヴ体験をしてきました。
オクサーナ・クチュルク演じるシンデレラの、表情から指の先に至るまで全身全てによる愛情表現の完璧までの美しさに脱帽。(これは、カーテンコールの会釈まで含めて、一貫していました。)
オケの演奏(レニングラード国立歌劇場管弦楽団。指揮:アンドレイ・アニハーノフ)も、舞台があってこそ発見できる(曲をCDで聴いているだけでは感じられない)楽しさがありました。


第27回オール青山; ヘンデル「メサイア」
(12月23日 青山学院講堂)

べつにクリスチャンではないのですが、クリスマスになると こういうのを聴きたくなります。
この曲、(第2部終わりの有名な)ハレルヤ・コーラスのために全体があるのかなぁ、と、いつもながら思ってしまいます。
バッハのマタイや、モーツアルトのレクイエムなどと比べちゃいけないんでしょうが、長編曲の全体の音づくりでのドラマ性の有無って、ありますよね。
この大作を、指揮、ソリスト達以外は全てアマチュアが力演し、好感が持てました。


海老澤敏氏のモーツアルト歌曲レクチャー・コンサート
(12月22日 二期会スタジオ)

「すみれ」、「ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いた時」、「夕べの想い」、「春への憧れ」の4曲のリートにつき、延々3時間余りにわたって海老澤先生の、それはそれは充実したお話と、二期会メンバーによるそれぞれの歌曲のライヴという、珠玉のひとときでした。

50年以上にわたる先生のモーツアルト研究の、ごくごく一部の紹介でしたが、いやぁ、さすがに奥が深い!
先生ご持参のテープ、CD、書籍、オリジナル楽譜のファクシミリ版等も使いながらのモーツアルトへのオマージュは、聴講していて、もう、ワクワクドキドキのし通し。
(「すみれ」では、ゲーテのこの詞による当時のジングシュピールの話から始まり、それをモーツアルトは3番までの歌ではなく一つのドラマに昇華させたこと、さらに楽譜の違いに至るまで語られ、また、「ルイーゼ..」と「夕べの想い」では、モーツアルトにとって周囲の様々な死との対面の年であった1787年のことを、ドン・ジョヴァンニの冒頭のシーン、弦楽5重奏(K.516)、ロンド(K.511)や、父親への手紙なども交えながら掘り下げ、さらに、「春への憧れ」では、この曲の日本語版である文部省唱歌「五月の歌」の訳詞と原曲の”憧れ”との文化比較に至るまで、3時間ではとうてい語り尽くせない!!)

しかし、先生がおっしゃるように、モーツアルトって、天才を通り越して、この世の人間業でない異星人(エイリアン?)ですね。そして、3時間以上、立ったままで淡々と、しかし、それはそれは楽しそうに語る海老澤先生って、ホントにモーツアルトを愛してやまないのですね。
帰宅して、我家に飾ってある「すみれ」自筆譜のファクシミリ印刷版をあらためて見つめながら、日々モーツアルトを聴けることに感謝すると共に、日夜、モーツアルトの世界探検に没頭できる海老澤さんに、思わず 「羨ましい!」

そういえば、ザルツブルクのモーツアルテウムに入ったところの壁に、海老澤先生ご夫妻の名前が大理石にしっかり刻まれています。日本が世界に誇れる文化として、もちろん歌舞伎、能、浮世絵、その他の伝統芸術もあるけれど、SONY、HONDA、手塚&宮崎アニメ、そして海老澤先生もあげたいですね。


国立ワルシャワ室内歌劇場オペラ「魔笛」
(12月21日 東京文化会館)

海外からの引越し公演にしてはお手頃価格。ただし、室内歌劇場という制約からか(?)、シンプルな舞台装置(3つの扉、階段、左右に数本づつの柱のみ)が、若干の照明の工夫はあるものの幕開けからラストまで全く変わらないこともあって、もう少しメリハリが欲しかったナ、といった
一夜でした。同様に、大仕掛けの装置の代わりに3人の着ぐるみが、時に3匹の大蛇役になったり、炎になったり、水になったりと、小回りのきく工夫(??)も。フィナーレで金色の紙吹雪が舞い降りるアイディアは、さっそく「今風」に取り込ませていただきました。

照明、メイクや衣装(3人の侍女、3人の童子)ともに、赤(R)、緑(G)、青(B)の3原色をテーマにした意図は?
この、光の3原色をミックスすると白(=空=Emptiness)になるという、哲学的な意味でも込めていたのか?それとも日本の映像技術への賛歌(まさか?)

ソリストはパミーナのアリアが聴かせてくれたかナ?ってところ。
あらためて、日本の水準の高さを感じた次第。


神奈川オペラフェスティバル'02「魔笛」
(11月9日 神奈川県民ホール)

中高生席\500、シルバー席\3,500もあり、気軽にオペラを楽しめる機会をプロデュースしてくれた主催者・関係者(神奈川オペラフェスティバル実行委員会・横浜シティオペラ、共催:神奈川芸術文化財団(県民ホール)、協賛:NEC、三菱信託芸術文化財団、
ヤマハ横浜)にまず大きな拍手を送りたい。

字幕つきということもあろうか、親子連れも結構あった。子供の時からのこのようなLive原体験が如何に大切なことかを主催者は熟知のことと思う。それでもなお空席が残っていたのが残念。世界的なトップ・アーティストが出なけりゃオペラじゃないとでも思っている日本人が多いのだろうか?
ザラストロの大澤健が安定した底力を示し、山下一史率いる神奈川フィル(の特に弦)が、目立ち過ぎることなく、しかし温かに心理描写をしていた。3人の童子も好演。パミーナのアリアも聴かせた。

しかし、タミーノの、あの衣装は何だ!?
上がダブッとしてて下のほうがゲートルかブーツもどきでキュッと締めたズボン姿に、肩から斜めにかけた革ベルト。そのうえ、魔笛をサーベルのように腰に下げて...、どうみたってこれじゃぁ、ヒトラーか旧日本陸軍の悪徳古参兵じゃないか! オープニングが大蛇が出てくる代わりにタミーノが持つ機関銃のダダダダってSoundで始まり、2幕おしまいの火と水の試練の時には中央スクリーンに何やらヒトラーのマークや原爆キノコ雲、ニューヨークの貿易センタービルらしき映像が出てくるのだが、絵がミックスされてクリアでなく意味不明。にも拘らず、それ以外は、ごくごくオーソドックスな衣装や舞台。恐らく演出家(中村敬一氏)は、20世紀の軍人がフランス革命直前の時代に紛れ込んで、という設定で、現代と当時との共通点を炙り出したかったのだろうが、その意図は大失敗だったと言えよう。だってタミーノがヒトラーもどきの衣装を最後まで着たままで、ヒーローになって皆から賛美されるストーリーなんて、どうしてもナチス万歳&軍国主義賛美としか見えず、不快感&不愉快そのもの。
せっかくのいい曲も、スタッフやサポーターたちの情熱も、たった一人のコスチューム(衣装:半田悦子)で死んでしまった。オペラって、本当に総合芸術ですね。

ってなことで、今風「魔笛」は、悪夢の軍国イメージを払拭するため1週間のお休みになってしまいました。


P.ブーレーズ&ロンドン交響楽団 + M.ポリーニ
(10月21日 東京文化会館)

ピエール・ブーレーズ指揮のロンドン交響楽団
(LSO)来日コンサート初日。
この日はポリーニ・プロジェクトのシリーズ・コンサートの目玉でもあり、ブーレーズの自作自演による「弦楽のための本」にはじまり、ポリーニ登場によるバルトークのピアノ協奏曲1番、そして休憩をはさんでストラビンスキーの「火の鳥」、アンコールにブーレーズの小品というプログラムで、会場は満席。

20世紀を代表するオーケストラ(LSOは今年で設立98年目)に、20世紀を代表する作曲家と、20世紀を代表するピアニストが、全て20世紀の曲で纏めた、一見、とっつきにくそうで、しかし聴いてみたら大いに楽しめた一夜でした。
「火の鳥」など、まるで映画音楽のようにビジュアルにシーンが浮かんできそうなビビッドな演奏で、さすがハリウッドの映画音楽を多数手がけているLSOならではのうまさ(例えばホルンがピアニッシモであんなに正確かつ感情タップリに奏でるとは!!)を、ブーレーズがしっかり引き出していました。LSO&ブーレーズは、20世紀ものの相性がものすごく良いですね。現代物は、良い演奏をナマで聴いてこそ楽しめるといったら言い過ぎでしょうか?

ポリーニはステージに立っただけでもう「圧巻!」ですが、”魅せるカデンツァ”のようなソロパートが無い曲だったため、「あぁ、1曲、ソロを聴きたい!」って、ついオネダリしたい気持ちにも..。

21世紀に入ってからこのようなプログラムを聴くと、20世紀の音楽って、作曲家が意識するしないにかかわらず、多分に「工業化社会」のにおいを感じます。
20世紀の歪みを引きずりながら、エコロジーやココロの大切さを認識し始めたオツカレ気味の21世紀。今世紀に生まれる音楽で、「クラシック」と呼ばれ後世に残るものは、どのようなものなのでしょう?
そして、23世紀になってからも演奏される20世紀の音楽って、どんなものが残っているのでしょう?ビートルズ?武満?ブーレーズさんは残ってる?


ふるさときゃらばん「パパの明日はわからない」
(9月1日 赤坂ACTシアター)

今風「魔笛」のライバルで、お手本でもある「ふるきゃら」最新作サラリーマン・ミュージカルの東京公演初日を観てきましたヨッ!
まさに「男はつらいよ」と同様、”偉大なるワンパターン”で、分かっちゃいるけど、泣けて笑えて元気が出てきちゃう。
今回は、破綻寸前の食品メーカーの中間管理職を中心に、自分もリストラ失業し、家庭も崩壊しかけるが、最後は会社も家庭も元気になって、みんなそれなりにハッピーエンドで幕...というストーリー。(こう書いてしまうとつまらないので、詳細は、ふるきゃらのホームページで是非ご確認を。 http://www.furucara.com/index.html )

相変わらず、歌はそんなに上手くない。ダンスだってエクセレントじゃない。「下座バンド」と呼ばれる楽団も最少限の人数でやりくり。恐らく制作予算は、ブロードウェイミュージカルと比べたら、2ケタは少ないでしょうが、Oh! however, その対顧客訴求力たるや、どんな舞台をも凌ぎ、オツカレ気味のオジサン達を元気にさせ、倦怠期の夫婦がお互いを認め合い、コミュニケーションを復活させるパワー満載のオススメ舞台。
公演終了後、さっきまで舞台に出ていたキャストたちがお客の帰り道に二列に並び、炎天下、汗だくになりながらお客の一人一人に握手してお礼を言う姿は、まさにお客様商売の鏡!舞台上も、舞台から降りても、「徹底顧客志向」なのです。頭が下がります。企業の研修用にふるきゃらミュージカルが活用されているというのも理解できます。

未体験の方は、一度お試しあれ。


ヒーリング・ビートルズ チャリティーコンサート
(7月31日 目白、聖カテドラル教会)

レコード会社サウンド・デザイン社長
の南里さんご夫妻が、このコンサートの全ての経費をご負担なさり、かつ、チケット売上の全額を、障害児のためのNPOに寄付なさった、本当に感謝いっぱいのコンサートでした。
ドイツの弦楽クァルテットが織りなす、クラシックの名曲の中にビートルズの曲を織り込んだヒット曲集。

カテドラル教会独特の、天にも届くような尖った天井のある異次元空間の中での非常に長い残響、そして正面の十字架に当てられたブルーの照明が、あたかも深海の中でのコンサートのような不思議な世界へ導いてくれます。
演奏に合わせて、ダウン症の子供たちから自然に沸き起こる声が、残響効果で、(以前テレビで聞いた)海の中のイルカの鳴き声そっくりに空間全体に響きわたり、それが弦の響きと不思議に調和してくる。子供たちのピュアな心あってのこの調和なのだろうか?自然に発せられる声が、ここでは音楽の一部として溶け合っている不思議!?
ずいぶん昔にここで聴いた小澤征爾指揮のバッハ「マタイ受難曲」で、キリストが命尽きる時に「Eli, Eli, lama asabthani!」と叫ぶころでの、それはそれは長い残響の「間」の深い感動を想い出しました。

会場に向かう直前に、幼なじみの同級生が癌で逝ったとの連絡を受け、日頃は教会など行かない私に、このコンサートが導いてくれたような運命的なものを感じ、期せずして個人的な追悼音楽会となりました。


ミラノ・スカラ弦楽合奏団
(7月29日 東京オペラシティ)

ピエロ・トーゾ(ヴァイオリン)率いる13人に、オーボエの古部賢一、フルートの高木綾子を迎え、ヴィヴァルディの四季、アルビノーニのオーボエ協奏曲、ヴィヴァルディのフルート協奏曲、アルビノーニのアダージョ、バッハのフルート、オーボエ、ヴァイオリンのための協奏曲(BWV1064)、といった、まさに ”ザッツ・バロック名曲集!


人間の耳に聞こえる音は2万ヘルツくらいまでであり、CDもデジタルオーディオ機器も、割り切って2万ヘルツ以上はカットしてしまっています。しかし、癒しの音の要素は2万ヘルツより高い音域にあるそうですね。インドネシアの民俗音楽のガムランや、モンゴルのホーミー、そして、弦楽器の音色に含まれている倍音の数々などに、人間の耳には聞こえないが身体や脳や心に届く超高音域がタップリ含まれている。

この夜のコンサートは、この”癒し”の音色が会場全体に響きわたり、オツカレ気味のオジサン&オバサマ方には絶好の”癒しのひととき”となりました。弦の響きに織りなすオーボエが(過度に牧歌的にならず)フレッシュで好感が持てました。

疲れた時にはアリナミンやリゲインもさることながら、バロックの生演奏に限ります。
繰り返しますが、CDじゃ癒し効果に限界あり。だから皆さん、どんどんコンサートに行きましょう!


デュトワ&アルゲリッチ with PMFオーケストラ
(7月27日 サントリーホール)

元夫婦による、プロコフィエフのピアノ・コンチェルト3番を中に挟み、最初にラヴェルの「マ・メール・ロア」組曲、最後にリヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲というプログラム。
たしか’90に、バーンスタインの指導により世界の若手演奏家を集めて札幌で始めた教育プログラムが、いまも脈々と受けつながれ、Pacific Music Festival 2002の締めくくりとして公演された、まさに”音楽は世界をつなぐ”を地でいっているコンサート。

相変わらずのペタペタ歩きで登場したアルゲリッチは、若い頃の”自由奔放”というキャッチフレーズを超えた円熟の境地か?そして、さすがデュトワは、ラヴェルにしてもR.シュトラウスにしても、じつによく”寄せ集めの若手たち”を短期間のうちにまとめ、私たちを楽しませてくれた。全体のハーモニーが整いながらも、それぞれの音がストーンと直接伝わってくる心地よさがありました。
R.シュトラウスの「アルプス交響曲」は、目を閉じるとビジュアル・シーンがの浮かんでくるダイナミックな演奏でした。彼が現代に生きていたら、間違いなく映画音楽をやっていただろうと想像した次第。この楽員の中から、将来、巨匠と言われる人も出てくるんでしょうね。

ところで、S席だったのに、2階席の一番後ろから2列目の、それもセンターではなく左端。音は良かったのですが、しかし、最近のS、A、B、C、D席の割振りって、昔よりもセコくないですか?


マリオ・ブルネロ&ヴァレリー・アファナシエフ・デュオリサイタル
(7月26日 紀尾井ホール)

ブルネロ(チェロ)とアファナシエフ(ピアノ)の15年ぶりの共演で、前半がギョーム・ルクーのチェロ・ソナタ、後半がシューベルトのアルペッジョーネ・ソナタ・イ短調(D821)と、ブラームスの「ひばりの歌」、「失望」、歌の調べのように」、「湖上にて」。
いやぁ、極上の赤ワインといった感動でした。(シャンパンでも、甘い貴腐ワインでも、ドライな白ワインでもない)
ギスギスした所が全く無く、まろやかで、でも、甘くなったりはしない。非の打ち所の無い演奏で、しかも、ヘンに学究的になったりせず、歌ごころがある!
特にシューベルトは絶品!ブラームスにも酔いしれた!とっつきにくいと思ったルクーも、全く違和感なく楽しめた。
これでS席\6,000は、超満足!

ところで、アファナシエフは変わり者と言われているそうだが、(たしかに聴衆にニコニコ愛想をふりまくなんてことは一切しないが)、ここまでくると感動とステージマナーの良否とは別もんですね。
一方、ブルネロは、マイスキーよりも人気が出ておかしくない!マスコミさん、もっと書いてよ。


カルリーン プラハ・オペレッタ劇場 「こうもり」
(7月13日 新宿文化センター)

日本流に言うなら、まさに”歌舞伎十八番
”の、とっておきの引越し公演。日本では無名の地元ソリストたちばかりだけれど、みんな楽しませてくれるんです!
おそらく、何十回、何百回とやってきてるんでしょうね。誰かが飛びぬけて優れているというのではなく、全員の息が合い、決して奇をてらうことなくオーソドックスな中にシッカリ聴かせ、見せ、魅せてる。
何万円もする来日公演が多い中で、1万円内外でこの内容はお値打ち!でした。

2幕と3幕の間の舞台転換のツナギを、幕を閉じた前でのバレエで飽きさせないようにしたり、(ラデツキー行進曲まで出てきてしまう)、ファルケ博士が最後に本当にこうもりの格好をして出てきたり、とても分かり易く、楽しく、飽きさせない演出。オーケストラは、序曲ではちょっぴり素朴かな?って思えたけれど、甘美過ぎないこういうのもあっていいのかも。

そういえば、何十年も前に、NHKのFMラジオで毎週日曜の午後に「オペラアワー」という番組をやっていて、このオープニング・テーマが、「こうもり」の序曲でした。レギュラーで司会をしていたベテラン女性アナウンサー(名前が思い出せません。誰か教えて!)の語り口がじつに上品で、今でも鮮烈に覚えています。今では殆ど無くなってしまった日本語の美しさが、当時の番組にはあったんですね。こういうステキな話し方をする人に逢ってみたいもんです。


メラニー・ホリデー主演Musical「サウンド・オブ・ミュージック」
(7月7日 東京文化会館)

歌は英語、セリフはドイツ語という公演。びっくりしたのは、お客さんの年代層の広いこと!小学生から初老の紳士まで、メラニーさん目当てのクラシックファンから率先手拍子&ノリノリのミュージカルファン、そして開演直後からグーグー寝てばかりのおばあちゃんまで、ほぼ満席。そういえば、日本でこの映画が公開されたのが1960年代だったから、当時20代の映画青年も今や60代なんですよね。

たしか、このミュージカル。もともとメリー・マーチンの舞台でヒットし、その後、ジュリー・アンドリュース&クリストファー・プラマーで映画化されてオスカーを貰ったというステップだったと思いますが、今回初めて観た舞台と、何度も見た映画とを比較すると、ザルツブルクの実写風景をふんだんに取り入れた映画の勝ち、って感じがしました。映画が持つリアル映像と編集手法は、時にナマの舞台を凌ぐ。特に(オペラと違って)マイクで拾った歌声の舞台だと、曲の伝わり方が映画とあまり違わなくなってきてしまう? だから、チャチな舞台装置の限界や、舞台変換時間の制約などが、いかようにもロケや編集できる映画と比較してしまうとマイナス要因になりかねない。

とは言うものの、それなりに楽しめちゃうのは、なぜなんでしょう?
ハッキリ言って、メラニーさんのマリアと修道院長以外は、歌はそんなに上手くないのに、大感動はしないけど、それなりに楽しめ、満足しちゃう。これって、ミュージカルだから? メラニー・ホリデーだから? それともネイティヴの人たちによる公演だから?


広上淳一&新日フィル「ドン・ジョヴァンニ」
(6月23日 オーチャードホール)

サッポロビール特別協賛ということで、ロビーで新発売のビール味発泡酒飲み放題の演奏会形式ハイライト版。
稲垣俊也(D.ジョバンニ)、佐々木典子(D.アンナ)、望月哲也(D.オッターヴィオ
)、木下美穂子(D.エルヴィーラ)、今尾滋(レポレッロ)、黒木純(騎士長&マゼット)、森麻季(ツェルリーナ)という、旬のソリストたちを迎え、頼近美津子のナレーションまで付いての1時間のお楽しみ。(前半は寿名義和のピアノによるラフマニノフのコンチェルト3番)

このホール、音が聴衆に向かってストーンと来ることがなく、なんとなくホワーンとゴッタ煮のミックス音で届くので、ソリストたちにはかわいそうなんだけど、なかなかの表情に満ちた歌の数々に、広上さんの程よい音創りが加味されて、楽しめました。(広上さんがレチタティーヴォ部分でチェンバロを弾く際、指揮台から舞台の奥の方に降りるもんだから、よけいにちっちゃく見えちゃったのは可哀想な演出だたけど)

せっかく「シャンパンの歌」もあったんだから、次は発泡酒じゃなく、シャンパンとまではいかなくても、せめてスパークリングワインを出してくれる協賛スポンサーに巡り会えたら言うこと無いんですけどね。とは言うものの、今日はサッポロビールさん、小粋な計らい、ありがとうございました。


二期会創立50周年記念30日連続演奏会より
(5月16日 サントリー小ホール)

フランス歌曲ばかりの夕べで、なんと22名ものソリストたちが延べ30曲以上をうたう「顔見世興行」
日本の声楽界の層の深さをあらためて感じました。親子ほども年代の違う歌手たちが同じステージに集う姿を見、そして30日連続で毎晩異なる30本のプログラムを挙行出来るということに、この組織の50年の歴史の、タダモノではない重さとパワーを痛感した次第。


M.J.ピリス ピアノの世界(4月8日 オペラシティー)

会場入口で、「お願い」の紙が渡された。「本日の演奏会は、全体をひとつのドラマとして構成・演出しております。つきましては、拍手はそれぞれの曲の間ではなく、前半はシューベルト:ピアノソナタ第13番、後半はベートーヴェン:創作主題による32の変奏曲の後までお待ちいただきたく存じます。」とのこと。前半がベートーヴェンの歌曲とシューベルトのピアノ曲を、後半はその逆で、それぞれ交互に計5〜6曲づつ演奏。テノールはルーフス・ミュラー。
このプログラムはピリスの構成によるものだそうですが、二人の作曲家の作品たちが何らの不自然さもなく、見事にひとつのトータル・ストーリー性をもって会場を満たしてくれました。
ピリス、ミュラーの二人とも、目立ちたがり屋とか派手さといったこととは正反対の、ステージと客席がともに真摯に内面の深さを共有し合う密度の高い音空間を創ってくれました。
秋に聴くシューベルトもいいですが、春の息吹の中でしっとり聴くシューベルトもまた格別。


春のミニコンサート(3月17日 原宿アコスタジオ)

桐朋音楽科の高校1年生たちの、それはそれはフレッシュでエネルギッシュな演奏を聴く機会がありました。
中でも、ピアノの柘植涼子
によるプロコフィエフの1番のソナタが楽しめました。アルゲリッチがショパンコンクールに優勝する前の、’60年代後半の録音を聴いたときのような、若い情熱が自由奔放にほとばしりながらもシッカリ”うたごころ”を聴衆に訴えかけていくSomethingがありました。
極めつけは、メンデルスゾーンのピアノトリオ(Op.49の1楽章)(ピアノ:柘植涼子、ヴァイオリン:雨宮弘奈、チェロ:渡邊彩子)。若いエネルギーが見事に一つになり、ホール全体が一つの渦に巻き込まれていくさまは、円熟のプロたちの演奏にも、そして、モー娘にも無い、真剣勝負のフレッシュさが爽やかでした。これからが楽しみなこのような若手の公演機会がもっともっと増えるといいですね。


二期会「フィガロの結婚」(3月2日 新宿文化センター)

久々に「フィガロの結婚」をナマで楽しみました。
二期会設立50周年記念講演の一環で、宮本亜門の演出。
さすが、歌は世界レベル。これが新宿区のバックアップもあって数千円からというお手頃価格で堪能できるなんて、オトク!立見も出るほどの盛況でした。
パルテノン多摩などもガンバッテますが、これからもいろんな自治体さんの文化行政に期待してますよ。


ウィーン・リング・アンサンブル ニューイヤーコンサート
(1月15日 サントリーホール)

「珠玉のひととき」、「魅惑の宵」、「一晩中踊りあかしたい」、「生きてるってステキ」etc.いやぁ、これほどシアワセ気分いっぱいになってコンサートホールをあとにしたって経験、そうはありません。
キュッヒルさんはじめウィーン・フィルの9人がかもし出す、それはそれは極上のシャンペンのような、でも、ウィーン郊外のホイリゲでシュランメルンを聴きながら飲む新酒ワインの親しみも同居した、舞台と客席とがほんとうに一つになった一夜でした。

モーツアルトのオペラ・メドレー(ヨーゼフ・ランナーの「モーツアルト党」)にせよ、メリーウィドウ・オペレッタ・メドレーにせよ、この独特のウィーンの「粋」やテンポはゼッタイにウンィーンっ子でなければ出せない!(先週体験したハンガリー産「こうもり」と、この夜のウィーン産とで、同じ曲でもこんなに違いが!)

元日にNHKで観たフルオーケストラ版のウィーンフィルよりも、この小編成の方が、同じ青きドナウでも、ラデツキー行進曲でも「ウィーンならではの音楽づくり」がハッキリみえてくる。あぁ、またウィーンで音楽三昧したい!


ハンガリー国立歌劇場「こうもり」(1月12日 東京文化会館)

メラニー・ホリデイが ロザリンデ役で登場。新春歌舞伎十八番の洋番といった感じで、出演者も楽しみながらの、力まず手馴れた、難しいこと抜きで肩の凝らない好演。歌唱力だけみたら日本人にも もっと上手い人がたくさんいるけど、アデーレやイーダ役の身のこなしやバレエ等も含め、晩餐会のトータルな雰囲気づくりなんぞ、さすがセイヨージン。

ところで、メラニー・ホリデイの母校、インディアナ大学には、舞台がメトロポリタン歌劇場と同規模とのウワサのホールがあります。10年以上前にこの大学に短期留学していた時、ここの音楽学部の先生や学生達による「こうもり」を観たことがあります。チケット代はたったの6ドル。冬はマイナス27度にもなるブルーミントンという田舎町ですが、近隣農家のオジサン&オバサン達もちょっぴり着飾ってホールに集い、楽しんでいたのが印象的でした。舞台のクォリティーも大したもの。田舎町にもこのような場があることは、演ずる側にとっても聴く(観る)側にとっても、層の深さ、奥の深さにつながるステキなことですね。
ちなみに、インディアナ大の音楽学部には、ちゃんと「音楽経営学」のような講座があり、教科書売場には「コンサートでお客を集める方法」なんぞというテキストが売られていました。最近の日本の音大には、「音楽マーケティング」のようなカリキュラムって、あるんでしょうか?


小澤征爾&ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート
(1月1日)

みなさん、ご覧になりましたか?
NHKは、教育、衛星2、衛星ハイビジョン、FMと、何と4チャンネル生中継してました。まさに日本が誇る世界のマエストロ小澤の記念すべき初登場ですもんね。
前半はサイトウイズムの真摯な振り方っていうか、「お正月のシュトラウスなんだもん、クライバーのときみたいのもっと力を抜いて遊ぼうよ。」なんて、つい素人がつぶやきたくなりかけましたが、いやいや、アンコールあたりには幸せ気分でからだじゅう満たされて、最後の聴衆の大喝采のときには感涙に...。マエストロのおかげでいいお正月を迎えられました。


聖ヶ丘病院クリスマス・コンサート(12月22日)

多摩丘陵に、まるでお城かホテルっていう感じの病院があり、院長先生がピアノをお弾きになることもあって、ここで毎年クリスマス・シーズンに、入院患者さんやホスピス患者さんたちのためのボランティア・コンサートが開かれているそうです。
ここでSusannaが12曲ほど歌いました。(お年寄りの患者さんも多く、前半は親しみ易いフォスターや日本のうたなどを、後半はフォーレやカルメン(ハバネラ)、そしてクリスマスソング、等々)
2〜3曲目あたりから、患者さんたちの上半身が、曲に合わせて静かにスゥイングし始め、楽しそうな表情で隣の看護婦さんに何か囁いたり、じっと目を瞑って聴いていた車椅子のおじいちゃんが、クリスマスソングを一緒に歌いはじめたり、とても和気藹々の素敵な雰囲気デ、いやぁ、音楽が持つ癒しのパワーをあらためて痛感し、この空間全体に感動して目頭が熱くなった次第。

それにしても、この日のSusannaは、曲の表現力といい、発声といい、表情といい、語りの時の絶妙な”間”といい、”華”の要素といい、(身内が言うのもなんですが)なかなかのもんでした。
お客様が楽しそうに聴いてくれることが、そして、抜群のピアノ伴奏が、こんなにも演奏者にプラスに効くのかと、これまた感動した次第。来年は絶対にリサイタルですね。


ベルリン・フィル・ヴィルトゥオーゾ&小山実稚恵
(11月27日 オペラシティー)


13人編成の弦楽アンサンブルは、モーツアルトのピアノ・コンチェルト12番で、大オーケストラとは違った爽やかな、幸せ感とやすらぎを届けてくれました。くたくたに疲れた時に、どんなビタミン剤よりも効くクスリがモーツアルトって、あらためて感じた、まさに「音の仏様」に出逢えたような、ありがたいひとときでした。

ものごとが全て順調にいってる時にこれを聴いたら、さぞかし天国でしょうね。苦しい時に聴くと仏様になる。28日の日経夕刊に、「救ってくれるのはモーツアルトだけ」というエッセイが掲載されていますが(作詞家の松本隆氏)、まさにこれ。
(最後の所を引用。”夜半、本を読みながら、BGM的にぼんやり聴いていると、時折、刺刀でさっと撫でるように切られるときがある。そういうとき、理由もなく涙があふれ、その空間の切れ目から
もれる光に身をひたす。その切れ目の向こうに広がるのは、天国でも地獄でもない光の世界だ。友人のクラシックの生き字引のような吉野金次は、若いときに結核を患ったという。「でも救ってくれたのはモーツアルトだけなんです」と言っていた。ぼくもへこたれるとモーツアルトを聴く。あの「魔」に触れてこそ、初めて救済の光が見えるのかもしれない。”)

そして、ショスタコーヴィチの室内交響曲。この時代の曲を毛嫌いしがちだった私にとってカルチャーショックでした。不景気で夢も希望も見えず不安な現代日本を見事に音で表現したといってもいいくらい、今の私たちの気持ちにピッタリはまって訴えてくる。しかも決して鋭角的過ぎず、どこかに優しい気持ちを残しながら。


マリア・グレギーナ イタリアオペラ歌曲リサイタル
(11月18日 パルテノン多摩)


お疲れ気味のオジサンに「燃えるような恋心」の炎を焚き付けてしまった、っていって過言ではないほどのドラマティックなマチネでした。
同じ時速30Kmでもベントレーとカローラじゃ乗り心地が全く違うように、ピアニッシモでも大きな世界の中で訴えかけてくる。そしてヴエウディやベッリーニのアリアは、これぞ21世紀の歌姫登場!ホール全体に響きわたる迫力は、パワーで押す感じではなく、”この恋心を、この想いを、聴いて!”と、ググッ〜って私たちの心の中にすごい迫力とリアリティーで入り込んでくる。

ところで、こんな”お買い得”なコンサートに(当日学生半額割引があったにもかかわらず)空席が目立ったのはもったいないョ。(誰とは言わないが、マスコミ人気だけで大したことのないのが即売になる、ヘンな日本の音楽市場??)


徳永二男&イギリス室内管弦楽団
(10月31日 オペラシティー)


久々に体中が素晴らしいα波に包まれ、幸せいっぱいなひとときを過ごしました。
まず、プログラム構成が嬉しかったですね。
モーツアルトの交響曲はハイドンの影響を多分に受けているのは確かですが、その初めて書いた曲ではじまり、最後をハイドンでくくるというのがニクい。さらに、モーツアルトから影響を受けたベートーヴェンが、未だクドさもしつこさもない若い時期の、それこそモーツアルトに通じるロマンスを間に入れるなんて、そしてヴァイオリン・コンチェルトの5番が時を繋ぐ(というか超越した)ブリッジになっていました。
モーツアルト:交響曲第1番:
よく言われる、最後の交響曲(41番、ジュピター)の第4楽章のテーマがこの1番の2楽章のホルンに既に出ているという部分も含め、レコードやCDで聴いていた時には気づかなかった様々な「発見」がありました。まだ小さな子供の時の作品故、同じ晩にハイドンと聴き比べてしまうとそりゃあ違いますが、やはり天才ですよね!!
モーツアルト:ヴァイオリン協奏曲第5番:
徳永節が出ていましたね!良い仕事をする英国集団と徳永節との、意外なコラボレーションを楽しみました。
ベートーヴェン:ロマンス第2番Op.50:
小学生の頃、家に届いたビクターのステレオ装置(当時は真空管のアンプの一体型で、4本の脚がついているもの)にオマケとして付いてきたサンプルレコードがこの曲であったのを想い出し、ノスタルジックな気分になりました。
ハイドン:交響曲第87番:
モーツアルトの交響曲に比べると奥の深さが今一つなんて言う人もいますが、なかなかすてたもんじゃない。最初のモーツアルトに比べるとスッキリ端正な音に変貌!?し、爽やかな感動が残りました。
モーツアルト:ディベルティメント第1番より(アンコール):
端正かつあったか味のある、充分に弾き慣れたって感じのα波のダメ押し!
帰りのお酒が美味かった、”夫婦円満の素”の音楽会でした。


アバド&ベルリンフィル:ヴェルディ「レクイエム」:
(10月27日)

NHK BSデジタルで、いま、この曲のLive録画を観ました。いやぁ、名演!
でも、しばらくみないうちに、アバドの顔がげっそりこけてしまって、かわいそう。


アルフレッド・ブレンデル ピアノリサイタル:
(10月20日 オペラシティー)

楽しみにしていたマティアス・ゲルネが急きょ来日中止となり、伴奏のA.ブレンデルの、短調の曲ばかり集めたリサイタルになりました。
確かに巨匠ではあるが、ハッキリいって、つまらない演奏会でした。特に、後半のベートーヴェン「ディアベッリの主題による33の変奏曲」は、延々と1時間にもおよぶ、これといって盛り上がりの無い”こんな演奏も出来ます”集。弾き手や学び手のお手本にはいいかも知れませんが、聴かされる方はたまらない!?

前半は、ハイドンのト短調ソナタ、モーツアルトのニ短調幻想曲(K397)、同イ短調のソナタ(K310)の3曲。それなりに聴かせてくれるんですが、何となく(ビールの宣伝風にいうと)キレがない。教則用の演奏としては完璧かも知れませんが、例えばグルダのモーツアルトの同じ曲などと比べると「芸術的資料」と「生きているココロの表現」との違いみたいに思えてしまうのは私だけでしょうか?

なお、この日の昼にNHK BSでウィーンフィル来日公演のLive中継を放送していましたが、ラトルのベートーヴェンは良かったですね!!そのココロがある!新しい時代の大御所登場! でも、ベートーヴェンって、やっぱりしつこくってクドいなぁ。


女性だけの音楽集団「桐’76」のミニミニ・コンサート:
(10月8日 荻窪かん芸館)

荻窪の閑静な住宅街の中に、せいぜい50人くらいしか入れない「かん芸館」という洒落たミニミニ・ホールがあります。ここで、Susannaたちが永年活動してきた音楽集団のミニミニ・コンサートがありました。ショパンが愛した「PLEYEL」製のピアノで弾くショパンは、スタインウェイなどとは趣の異なった、温か味と柔らかさと、少しの繊細さと、燻し銀的な曇り加減のある音色で、なかなかのもの。(弾きやす過ぎて怖い面も、というピアニスト達の弁も)
秋に聴くノクターン「遺作」は絶品。Susannaの「女の愛と生涯」も、ますます表情が出てきて逸品。


BSデジタルテレビの音楽体験:(10月7日)

BSデジタルチューナーを取り付け、この日はBSデジタル三昧でした。
BSフジが、1966〜67年の日本フィル&渡辺暁雄のライヴ映像(モノクロ)をやっていました。12回にわたり、近衛秀麿、齋藤秀雄、ミュンシュ等の指揮による日フィルの映像が楽しめるとのこと。
私が小学生のまだ4年か5年の頃、往復ハガキを送ると、日フィル&渡辺暁雄氏の公開録音番組の入場券がもらえました。曲間にCMタイムがあり、バックに魔笛の一節が流れていたのを覚えています。
昼からは、LFX488(ニッポン放送のBSデジタルラジオ)のナマ番組、「サンデー蔵出しアナログ盤アワー」でオールディーズを楽しんでました。思わず局にEメールしたら直ぐに何度も読んでくれ、嬉しいと思う前に、「殆ど聴いてる人がいないのかナ?」などと心配してしまった次第。
夜は、小柳ゆきのLiveまで観てしまったため、今風「魔笛」の台本には取りかかれないまま、また一日が過ぎてしまいました。


オマーラ・ポルトゥオンドのコンサート:
(9月8日 オーチャードホール)


ブエナビスタ・ソシアル・クラブで日本でも一躍人気になった、キューバの大御所おばあちゃま歌手のコンサート。いやぁ、元気そのもの。そして、ラテンのリズムは幼い頃の日本のヒット歌謡曲のルーツの一つともいえ(?)、懐かしさがこみあげてきました。

経済的には日本よりも大変であろうにもかかわらず、この国は、このような音楽が人々の毎日の生活の中に”元気の素”となって しっかり根付いているんだな、と感じた次第です。
ところで、久し振りに、PA(音響機器)でホール中に鳴らす、いわゆるポピュラー系のLiveだったのですが、なんであんなに大音量でガンガンやるのでしょうかね? 繊細なニュアンスが全く聴こえてこない。それとも、「Liveはノリなのヨ。音楽が聴きたきゃ、自宅のCDで楽しみなさい」ということなのでしょうか?


市川「西洋館倶楽部」サロンコンサート:
(7月15日)

大正末期に建てられた、文化庁の有形文化財指定の古い木造洋館が市川(千葉)にあり、そこに、ほんの60名くらいしか入れない、でも、とても響きが良く、雰囲気も素敵なコンサートホールがあります。そこで開かれたアットホームな音楽会が、なかなか心がこもっていて、嬉しくなってしまいました。
ドビュッシーを、あたかも映像が眼に浮かぶように鮮烈に弾いた凄いピアニストが、後半でJAZZトリオをバックに「イパネマの娘」を(無謀にも?)歌ってしまったり、小学生のバイオリニストがピアノ伴奏で弾いた時、展開部が急にJAZZバージョンのアレンジになったり、美人メゾソプラノ(じつはSusanna)がガーシュインをクラシカルに歌ってみせたかと思うと、飛び入りのJAZZメンとのセッションになったり、別のピアニストがオカリナを始めたり、そうかといえば、モーツアルトのホ短調のヴァイオリンソナタ(K304)を弾き始めた女性のバックに、天窓から差し込んだ夕日が華を添える等々、大ホールのコンサートとは違った手づくりの楽しさでした。
かつてシューベルト等がいだったのかもた時代のサロンコンサートって、こんな雰囲気だったのかも知れません。日本のアーチストたちとの、こんなステキな出逢いって、意外と身近にあるんですよ。


「ふるさときゃらばん」ミュージカル:(7月13日)

知ってますか?全国巡業のオリジナル・ミュージカル「ふるさときゃらばん」。
ハッキリいって、オリジナルの曲も歌も決して洗練されているとは言い難い。でも、約3,000ステージで観客動員実績300万人以上、芸術祭賞その他数々の賞を受賞、米国、スペイン、中国公演でも絶賛、等々のスゴい連中なのです。
観ていて、笑いながらジーンと涙がこみあげてくるのは、ときに数千人もの取材を通して、普通の人の目線で創られる真実味や温か味いっぱいのストーリーと、全てのキャストやスタッフたちの全身全霊でぶつかるパワーとオーラ(?)だからでしょうか?
公演が終わって帰る際、なんと、さっきまで舞台で汗いっぱいに熱演していたキャストたちが、廊下に一列に並んで、全てのお客を見送るんです。これでまた感激してしまう。
(ステージ・ビジネスでのOne to One Marketingの本質を知り尽くし、実践している、恐らく唯一の人達??)

この日観たのは、親子で楽しめる、動物なんかも登場する平易なものでしたが、人類による地球環境破壊のおろかさが全編に貫かれた、フィロソフィーのあるものでした。「魔笛」的なメルヘンをちょっぴり感じながら、ウィーン国立歌劇場で観た魔笛とは違ったウルルン体験をしてしまえる、不思議な集団です。


聞き手が主役のコンサート談話室(2)
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