| 聴き手が主役のコンサート談話室(3) (2008年1月以降の分) |
| 新聞や雑誌のコンサート評、チラシやコンサート・プログラムの記載、CDの ライナーノート等に何と書かれていようがいまいが、 それぞれの聴き手が自分で感じたことを、ホンネ・ベースで語り合えるのが Internet時代のいいところでは? この談話室は、音楽や舞台芸術全般にわたって、 徹底した「聴き手志向」で、しかも、マニアックにならないようにしながら、 無名だがステキなコンサートやアーティストをお互い発掘しあったり、 巨匠だが「こりゃ、どうみてもヘンだょ」といったことを注意喚起しあったり しながら、「ココロのごちそう」を みんなで堪能していく一助にしていきたい と思います。 ご感想や投稿をお待ちしてます。 掲示板 CLICK HERE ⇒ Eメールはこちらへ⇒ ![]() |
★★★★★(4月8日 サントリーホール)
★★★★(3月17日 サントリーホール)
★★★★(3月7日 HAKUJU HALL)
★★★★(2月4日 イタリア文化会館)
★★★(12月24日 新宿バルト9)
★★★(12月16日 東京フォーラム ホールC)
★★★★★(12月5日 HAKUJU HALL)
★★★★(11月4日 東京文化会館)
★★★★(10月12日 昭和音楽大学「テアトロ ジーリオ
ショウワ」)
★★★★★(9月12日 東京文化会館)
★★★★(7月30日 東京文化会館)
★★★(6月15日 立教大学第一食堂)
★★★(6月13日 サントリーホール)
★★★★(6月7日 東京文化会館)
★★★(6月6日 東京カレドラル聖マリア大聖堂)
★★★★(6月4日 ルーテル市ヶ谷センターホール)
★★★★★(6月1日 東京文化会館)
★★(5月29日 オペラシティホール)
★★★★(5月16日 王子ホール)曲は、演奏順につぎのとおり。
・ケルビーノ・ブサッティ(?-1644): 「あなたは天使」
・ジョヴァンニ・フェリーチエ・サンチェス
(ca1600-79): パッサカリアの主題によるカンターダ
・クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643):
「苦悩はかくも快く」
・ジローラモ・フレスコバルディ(1583-1643):パッサカリアの主題による100曲のパルティータ
・ビアージョ・マリーニ(1587-1663):「恋人は手の届かぬところへ」
・ジョヴァン=バッティスタ・フォンタ-ナ(1630-?):2つのヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ
第8番
・ジョヴァンニ・ステファーニ(17世紀後半):「幸せな恋人
(休憩)
・マルコ・ビーズリー(1957〜。この日のテノール):タランテッラT、U、V
・作者不詳:「カルピーノ娘に捧げる歌」
・セヴェリーノ・コルネーティ(1530-82): 「ぼくの魂はあなたのもの」
・作者不詳: カラーブリア地方のタランテッラ
・作者不詳: 「すてきな知らせ」(ウェディング・ソング)
・作者不詳: 「高らかに打ち鳴らせ」
(アンコール)
・「ガランチーノのうた」
・「オーソレミオ」
・カッチーニ: 「アモールよ何を待ってるの?」
・「幸せな恋人」
朗々と歌うイタリア歌曲やオペラとは全く異なり、フォルテで張り上げるようなことはせず、澄んだ柔らな
声で軽やかに歌い、それを古楽器アンサンブルが”癒し成分”タップリに、これぞアナログの原点ってな
温かさで伴奏する。
ロビーでスパークリング・ワインをちょいとひっかけてから聴いたこともこれあり、いやぁ、聴くにつれてカラ
ダの中からストレスらしきものがどんどん飛び去っていき、リラ〜ックス気分に!
前半は著名作曲家の作品、後半が世俗曲中心というプログラムだったが、当時のイタリアの古典曲が、
その後のイタリアもの(カンツォーネ等)よりも、むしろスペイン歌曲に近い歯切れの良さがあって楽しい。
ビーズリーの澄んだ声は、古典も、彼の作曲した現代ものも、時代を超越した柔らかな癒しに満ち、「恋
人は手の届かぬところへ」では、こよなく美しい旋律を胸に迫る「音楽の力」で静かに訴えかけてきたし、
アカペラで歌った彼の作曲の「タランティッラ」は、温ったかでピュアでホッとするひとときを与えてくれた。
アンコールの「オーソレミオ」を、こんなにソフトに柔らかく、まるでセレナータのように歌うとは!
「歌と魔法」のタイトルが、ここでやっと思い出した。
こりゃ、歌の魔法だ。
ラ・フォル・ジュルネ・ジャポン; 天羽明恵のソプラノと
鈴木大介のギター
★★★(5月6日 相田みつを美術館)
2日に聴いた天羽さんが、こんどは鈴木大介氏のギター伴奏でのシューベルトの歌曲集リサイタル。
つぎの曲の数々を、最前列の席で愉しんだ。
・「春の想い」 D686
・「泉のほとりの若者」 D300
・「ただ憧れを知るものだけが」(ミニョンの歌)
D877-4
・「糸を紡ぐグレートヒェン」 Op.2 D118
・メルツ編曲によるギター独奏: 「涙の賛美」
Op.13-2 D711
・メルツ編曲によるギター独奏: 「我が宿」(歌曲集「白鳥の歌」D957より)
・メルツ編曲によるギター独奏: 「セレナード」(歌曲集「白鳥の歌」D957より)
・「野ばら」 Op.3-3 D257
・「夜咲きすみれ」 D752
・「ます」 Op.32 D550
・「アヴェ・マリア」(エレンの歌 第3)D839
ギター伴奏によるシューベルトの歌曲、という体験は初めて。
同じ曲でも、ピアノ伴奏によるものとは全くイメージが違って来、どの曲も、セレナータを聴いているような
ものになるのは面白い。
ただ、、同じ歌手、同じ会場で、同じ曲を、ほんの4日後に聴いてみると、ピアノ伴奏に比べて、6弦を5
本の指で鳴らすギターというのは、どうしても表現力に限界があることが、あらためて如実に感じられた。
天羽のソプラノは、この殆ど響かない会場では辛そうに感じられなくもなかったが、「ただ憧れを知るもの
だけが」の、深く静かな想いの表現と、「糸を紡ぐグレートヒェン」の2曲には、恐らくは当時の「シューベル
ティアーデ」にあったであろう”サロン的な温かさの中の直接の感動共有”が、まぎれもなく、あった。
一方、3曲のギター独奏は、シューベルトの名曲を、”ヨーロッパ映画音楽”に変身させてしまったかのよ
う。
それはそれで楽しいのだが、シューベルトの時代にもギターがあったにも拘らずギターのための曲が無い
のもうなずける、楽器としての表現力の限界を感じさせた。
ラ・フォル・ジュルネ・ジャポン; バーバラ・ヘンドリックスの歌曲
★★★(5月5日 東京フォーラム ホールC)
今はスウェーデン在住の米国人ソプラノ、バーバラ・ヘンドリックスと、ルーヴェ・デルヴィンイェル(スウェー
デン)のピアノによる、シューベルトのつぎの歌曲の数々。
・ズライカT Op.14-1 D720
・ズライカU Op.31 D717
・「愛らしい星」 D861
・「夜と夢」 D827
・「若い尼僧」 D828
・「君こそ我が憩い」 Op.5903 D776
・「さすらい人の夜の歌」 Op.96-3 D224
・「ミューズの子」 D764
・「トゥーレの王」 Op.505 D367
・「糸を紡ぐグレートヒェン」 Op.2 D118
(アンコール)
・「ます」
・「シューベルトの子守歌」
ピークを過ぎたんだナ? という印象を感じながら聴き始めたが、「愛らしい星」の、「やさしく輝いているの
を見ると、私の胸は幸福と悲哀とで不安になり、また重くなる」のフレーズの、深い心の機微の表現は、
さすがのベテラン。
そして圧巻は、「ミューズの子」、「トゥーレの王」の2曲。一気に歌いあげた。
でも、アンコールも聴かせて貰って、そのあと、殆ど何も心に残らないのは、どうしてなのだろう?
ラ・フォル・ジュルネ・ジャポン; カペラ・アムステルダム&
ヴュルテンベルク室内管弦楽団
シューベルト
ミサ曲第5番
★★★★(5月4日 東京フォーラム ホールA)
シューベルトが、3年を費やして作曲した「ミサ曲第5番
変イ長調 D678」が、
ユッタ・ベーネルト(ソプラノ)、マルフリート・フォン・ライゼン(メゾ・ソプラノ)、トマス・ウォーカー(テノール)、
デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(バス)、カペラ・アムステルダム(合唱)、それにダニエル・ロイス指揮
のヴュテンベルク室内管弦楽団によって演奏された。
ソプラノはドイツ人、メゾ・ソプラノはオランダ人、テノールはスコットランド人、バスはイギリス人、合唱と
指揮はオランダ人、オケはドイツという、「ヨーロッパ大連合!」
出だしの「Kyrie」で、弦、それも低音部の響きの荘厳さに感心!
そして「Gloria」の、Gratias agimus tibi〜のところの、弦の静かな出だしからソプラノに移っていくところや、
Domine Deus, Agnus Dei,〜のところの、アルトからクラリネットへ、そして、バスのソロに移り静かに合唱
も入って、そしてオーボエ、ファゴットといった木管の美しい響きを経て、テノールへと繋がり、フォルテに
なって盛り上がっていく一連の流れに、シューベルトが、宗教曲の分野でも素晴らしい「うたごごろ」や構
成力を持っていることをリアルに再認識できた。
一方、「Sanctus」の、アルプス・ホルンのような響きから合唱に至るパートには、思わず、インスブルック
で見た山々のおごそかさを感じ、「Benedictus」のチェロのピチカートから3人のソロ、そして合唱に続く
パート、さらには最後の「Agnus Dei」での静かな弦〜ソプラノ〜4人のソロへのつながりの流れに、キリス
ト教という宗教が、オーストリアの自然と風土に根付いたものであることをあらためて感じた。
4人のソリストも合唱も、そしてオーケストラも、特に華がある訳ではないが、日本ではなかなか生演奏で
聴く機会の無いこの曲の価値を体験するのに充分な、真摯な表現力を持っていた。
ラ・フォル・ジュルネ・ジャポン; 小曽根真、児玉麻里、児玉桃、
大友直人指揮 上海交響楽団
★★(5月4日 東京フォーラム ホールA)
最初に、バッハの「3台のピアノための協奏曲
ニ短調 BWV1063」が、小曽根真、児玉麻里、児玉桃の3
人のピアニストを迎え、大友直人指揮の上海交響楽団で演奏された。
3人のソリスト達が、客席にお尻を向ける形で、小曽根氏を真ん中にして並んで座り、その後ろにオケと
いう配置で演奏するのだが、なにぶん5千人も入る巨大ホールでの演奏のためか、全ての音がボワ〜ン
とこもってミックスされ、3人の手の動きを見ていないと誰の弾くピアノの音かも分らない。
2楽章のカデンツァ部分の小曽根氏の弾きぶりに期待していたのだが、これまたオケの音とゴッタ煮に
なってしまって、ボワ〜ン、モワ〜ンとこもってしまい、結局、終始、「風呂場で聴くバッハのBGM」といっ
た感じで終わってしまった。
最悪だたのが、2曲目の、シューベルトの交響曲第8番
ハ長調 D944 「グレイト」。
オケ全体の音が何とも「無機的」であり、1楽章のフォルテの部分なんぞ、軍楽隊の演奏による行進曲
といった感じで、トランペットの金属的な音だけが耳に直接突っ込んで来る一方、他の音の塊が、あたか
も視界の悪いスモッグの中から現れた戦車隊のように冷たく押し寄せてくる。
2楽章の静かなフレーズでやっと「戦車隊」が消えたと思いきや、客席の幼児が何やら喋り出し、暫くし
て(恐らく親がその子に喋るのを止めるよう叱ったのだろう)ギャーと大声で泣き出し、その親子が会場を
去るまでの数分のハプニングで、もう、会場はシラケっ放し。
大人だって退屈に思える、こんな演奏に、幼児は耐えられないのは当然だろう。
3楽章でも、まるで、雲の間から陽がさすことが無い、どんよりとした天気のような音の塊が延々と続き、
この楽章が終わったところで、(恐らく、「もういいヨ」という意味なのか?)パラパラと拍手が起きるあり様。
といった具合で、なんとも後味の悪いひとときでした。
ラ・フォル・ジュルネ・ジャポン; 仲道郁代のピアノ
★★★★★(5月4日 東京フォーラム ホールD7)
2日前の感動を引きづりながら、定員222席の5列目の、中央から若干右側で聴いた。
プログラムは、つぎのようなシューベルトの名曲ばかり。
・即興曲 変ホ長調 OP.90-2 D899-2
・即興曲 変ロ長調 OP.142 D935-3
・ピアノソナタ第13番 イ長調 Op.120 D664
シルバーのロングドレス姿で現れた仲道さんは、弾き始めるなり、ピアノを弾くというより歌っている感じ。
このホールは、2日に聴いた相田みつを美術館とは異なり天井も高く、かといって大ホールほどの残響も
無く、インティメイトな感じでいい音を聴くには丁度良い具合の響き。一つ一つの音の粒と、曲全体のうね
りとが連携して、言霊ならぬ「音魂(霊)」となって、聴いている者の胸に心に、そして全身に、ぼわ〜ん、
じわ〜んと、直接訴えかけてくる!
これって、単なる「心地良さ」とかでは無いし、悲しみや苦しみの表現といったレベルのものでも無い。
「人の喜怒哀楽の音楽表現」といったものを超えた、人類、いや地球、いや宇宙が生まれて以来、もとも
と存在していた、何か根源的・本質的なものが、「音楽」という「波長」となって、まるでニュートリノのよう
にストレートにカラダに入って来、楽器としてのカラダの波長と共鳴し、そのニュートリノが他の人たちの
カラダにも同じように作用しているかのうよう!?
ひょっとして、共鳴する波長は、人によって、さらには同じ人でもその時の状態によって異なり、たまたま
その波長に共鳴する外的波長(=音楽演奏)に巡り合うと、共鳴し、その共鳴作用が「感動」となって、
「ぼわ〜ん、じわ〜ん現象」となってくるのかも?
或いは、
自然と共生し、季節の変化やもののあわれに敏感な、日本人ならではのDNAのようなものが、(タイプ
は同じではないが)内田光子や仲道郁代の中にあり、その演奏の中に現れるそのDNAが、どこかに同じ
ようなDNAを持つ日本人の心に共鳴するのかも?
そして、シューベルトやモーツァルトは、特に日本人のDNAなのか波長なのかに共鳴し易い何かを持って
いるのかも知れない。
そんな「宇宙的想像」を広げさせてくれた名演だった。
ラ・フォル・ジュルネ・ジャポン; 小曽根真のピアノ即興
★★★★★(5月3日 東京フォーラム ホールC)
2年前のラ・フォル・ジュルネで弾いたモーツァルトの「ジュノム」以来、この人に大注目中であり、今回も
前売り開始日の開始時間から粘ってこのチケットを先ず押さえておいた。
1,490席のホールの舞台中央にスタインウェイのフルコンサートが1台置かれ、やがて、舞台の下手の袖
のドアが開く。
さぁ、小曽根氏登場か、と思いきや、出てこない。
アレレ?と思った瞬間、黒の細身のパンツに黒のシャツをはおい、シルバーのレザー・スニーカーといった
カジュアルな格好で、(客の常識を裏切って)上手から登場。それでもう、ホール内は笑いに包まれ、
いい雰囲気に。
そして、小曽根氏は、ピアノの上に置いてあったマイクを持ち、客席に向かってジェスチャーたっぷりに
話し出す。しかし、声が聞こえない。
アレレ?と思った瞬間、「スタッフの方、驚かせてゴメンなさい。」と。またのジョークで会場爆笑。
そんな中で、時に語りも交えながら弾いたのは、それぞれ、つぎのシューベルトのフレーズを基にした、
小曽根氏の完全オリジナル即興演奏の数々。
・「野ばら」 (小曽根JAZZ風)
・「ます」 (小曽根ラグタイム風)
・「菩提樹」 (小曽根ゴスペル七変化風)
・即興曲 D935
・アンコール: アヴェ・マリア (小曽根バラード風)
いやぁ、いつ聴いてもワクワク・ドキドキの楽しさいっぱいで、これぞ音楽の愉しみ!!
もし、シューベルトの時代に小曽根さんが「シューベルティアーデ」に招かれ、こんな感じで弾きまくったら、
恐らくシューベルト氏は、前向きで明るく楽しい性格に変身し、恋人もでき、ちゃんと結婚もし、その結果、
悪い病気にもかからず、もっと長生きもして、明るい曲やオペラを含め、より多くの名作を残したのではと、
つい、楽しい想像を膨らませてしまった。
大満足の1時間!
来年のラ・フォル・ジュルネは、バッハ特集とのこと!
JAZZとBACHとの相性は抜群ゆえ、小曽根さん、来年も、ますます期待してますよ!
ラ・フォル・ジュルネ・ジャポン; 田部京子のピアノ
★★★(5月2日 東京フォーラム G409)
同じ日に、同じ会場の、同じピアノで、曲は異なるものの、同じシューベルトを、違うピアニストで聴き比べ
ることができる、というのも、ラ・フォル・ジュルネならではの楽しみ。
海老彰子さんとは対照的に、田部京子さんはヘアスタイルもメイクも、黒のロングドレスも、大ホールでの
リサイタルのようにバッチリきめて登場。
弾いたのは、即興曲集 Op.142 D935。
名曲中の名曲を、モーツァルトの幻想曲とショパンのピアノ曲との「つなぎ役ふう」といった感じで弾いた。
海老さんが中低音部をよく響かせたのに対し、同じ日に同じピアノを使いながら、田部さんのピアノは高
音部の方がきれい。ピアニストによってこんなにも音に違いが出てくるとは!
もちろん、田部、海老、仲道の各氏ともに、日本を代表する著名ピアニストで、テクニック的には優劣つけ
難いプロ中のプロたち。
しかし、仲道さんの即興曲を聴いてしまった後に聴いた田部さんの即興曲は、上手いのだが、「胸キュン
体験」の無いまま終わってしまった。
べつに、トチリがある訳でも、ヘンなテンポや表現をしている訳でもない、いい演奏なのだが、こんなにも
感動力に違いが出てくるとは!
ラ・フォル・ジュルネ・ジャポン; 天羽明恵と仲道郁代の歌曲等
★★★★★(5月2日 相田みつを美術館)
東京フォーラム内にある「相田みつを美術館」内の展示ルームで開かれた、天羽明恵(ソプラノ)と仲道
郁代(ピアノ)による、つぎの曲集のオール・シューベルト・コンサート。
・「野ばら」 Op.3-3 D257
・「ガニュメート」 Op.19-3 D544
・「糸を紡ぐグレートヒェン」 Op.2 D118
・「グレートヒェンの祈り」 D564
・ズライカ T Op.14-1 D720
・ズライカ U Op.31 D717
・即興曲 変ホ長調 Op.90-2 D899-2
・「春のあこがれ」 D957-3
・「ます」 Op.32 D550
この会場も天井が低く、かつ、僅か102席という小ぢんまりとしたスペースで、周囲の壁には相田みつを
の「書」が掲げられている。そして、客席と同じ高さのフロアにポツンと置いてあるピアノは、ウォールナット・
カラーのスタインウェイという、まさにサロン的雰囲気で、演奏者とほんの5mほどの近さで聴いた。
黒地に花柄のドレス、そして栗毛色のウィッグ(?)姿の天羽さんと、黒一色のドレス姿の仲道さんが登
場。ここでもホール残響は殆ど無く、かつ、曲順を変えて「野ばら」から始めたことも手伝って、会場全体
が、まるでどこかの家で音楽好きが集まって開いたホーム・コンサートのような、アットホームな感じにな
った。
2曲目の「ガニュメート」は、歌のみならず、歌の間のピアノが実にいい。シューベルトの歌曲って、歌と
ピアノとが対等にコミュニケートしながら1つの完成された作品になっているのがよくわかる。
3曲目の「糸を紡ぐグレートヒェン」は、天羽の実力を存分に発揮!
追い立てられるような不安、そして、心の「破裂」、とでも言おうか、真に迫る苦しみが聴く者にダイレクト
に迫ってくる。
うって変わって、「グレートヒェンの祈り」では、静かに、自分の悲しみを真摯に聖母に祈る、深い気持ち
が、歌とピアノとが融合しながら聴き手に迫ってくる。
聴きながら、館内に掲げてある相田みつをの書を、2つ3つ、何となく見てみた。
そして気づいた。
ひらがなだけの平たい言葉を綴った文(詩?)にしても、ヘタっぽく
こねくり回したひらがなの書体にして
も、単にウケを狙っただけの(或いは、たまたまウケちゃっただけの)、なんとまぁ浅いものか!?
(秋川ナニガシや、フジコ・ナントカと同じく、どっかでマスコミに紹介されて売れちゃったたぐい??)
シューベルトとゲーテの深さと比較されては、みつをサンも「バレたかぁ....」って苦笑せざるを得ないの
やも?
ズライカTでは、出だしのピアノの嵐の激しさから最終フレーズの静かさに至る全体の構成の良さが絶
妙。ピアノの冷静さがまたいい。
ズライカUでは、決して悲しさだけでない、どこかに期待のワクワク感を秘めた感情表現がよく、歌の間、
そして仲道のピアノのリズム感の素晴らしさも相まって、その深さは、相田みつをの「浅さ」と対照的。
そして、この日の最大の「感動もの」は、即興曲 変ホ長調のピアノ・ソロ。
仲道郁代のライヴを聴くのは初めてであったが、この人、凄い。
女性では珍しくオーディオ・マニアと聞いていたので、ひょっとしてメカニックな演奏では?とイメージして
いたが、それは大間違い。大ホールではなく、このような直接に音が伝わってくる、ごまかしのきかない
会場で、音に込められた「心」までもがビンビン伝わって来、思わず目頭が熱くなってくる。
この深い感動の後、「春のあこがれ」で天羽が強く一気に歌いあげ、そして最後の「ます」で、息づかいま
でをも音楽にしてしまったようなドラマ性を感じさせてくれた。
これで1,500円というのも感動もの!
ラ・フォル・ジュルネ・ジャポン; 海老彰子のピアノ
★★★(5月2日 東京フォーラム G409)
いよいよ今年も始まりました、「熱狂の日」音楽祭!
今年は「シューベルトとウィーン」がテーマ。
聴く方も目いっぱい愉しんじゃおうとのワクワク・ドキドキ感をカタチにすべく(?)、この日は、ロンドンは
Savile RowのRichard Jamesの白の麻のジャケットに、超細身の黒のジーンズ、それに、伊勢丹で作った
オレンジ・ストライプのボタンダウン・シャツ、といったいでたちでキメて出掛けた次第。
最初のプログラムは、海老彰子のピアノ・ソロによる、つぎのシューベルト。
・ピアノソナタ18番 ト長調 作品78 D894
「幻想」
・リスト編曲 「アヴェ・マリア」(エレンの歌
第3) S.588-12
・リスト編曲 「セレナード <きけきけヒバリ>」
変ロ長調 S.558-9
会場は、G409という会議室(135席で、天井の高さも普通のオフィス並み)で、そこに、スタインウェイの
フルコンサートのグランドピアノが鎮座しており、私が座った席は、そのほぼ正面の、ほんの5mほどの
ところ。
現れた海老さんは、黒のニット姿で、メイクもヘアースタイルも、ごくごく「普通のオバサマ」(失礼)といっ
た感じで、何となく、知り合いが集まってのサロンコンサートってな感じ。
部屋の特性もあり、「ホール残響」的なものは皆無に近く、飛び出してきた音が、そのままストレートに耳
に届く。まさに、スタジオ録音に立ち会っている感じで、まるで録音エンジニアになったような気分で、ピア
ノの多彩なパターンの音を聴き分ける愉しみがあった。特に、調律の見事さもあって(?)中低音の響き
が心地よく、「最上質のオーディオ・システム」でCD等を聴く際の、自分にとってのリフェレンス・サウンド
として記憶に留めたいと思えたほど。
一方、演奏だが、確かに一流どころで上手いのだが、最初のソナタは、聴いていて、どういう訳か、途中
で飽きてきてしまった。
「アヴェ・マリア」は低音の主旋律の太さが、まるでかつてのオーディオ名器「クレデンザ」で聴いている
ような懐かしさがあった。
演奏うんぬんよりも、良質なピアノが発する音そのもののサウンドや深みを確認するのに丁度良い機会
だった。
今、自宅のオーディオで、内田光子さんが弾く同じソナタのCD(1996年、ウィーンのMusikveren Grosser
Saal録音)を、エフェクトは全てオフにし、(当日の海老さんの演奏のサウンドを思い出しながら)聴いてみ
ているのだが、(さすがに1千万円以上もするオーディオ・システムにはかなわないものの)、それなりに
原音に近い音が出ているナ、と再認識したところ。
鈴木秀美のガットサロンVol.3「シューベルトの夕べ」
★★★(4月25日 王子ホール)
オーケストラ・リベラ・クラシカを主宰し、バッハ・コレギウム・ジャパンの重鎮でもあるチェロの鈴木秀美氏
がプロデュースする、王子ホールでの、まるで「シューベルティアーデ」みたいなサロン的コンサート。
出演は、鈴木秀美(チェロ)、若松夏美(ヴァイオリン。オーケストラ・リベラ・クラシカのコンサート・ミストレ
ス)、成田真(ヴィオラ)、今野京(コントラバス)、平井千絵(フォルテピアノ)、畑儀文(テノール)で、
当日、オール・シューベルトでの演奏曲目は以下のとおり。
・弦楽三重奏曲1番変ロ長調D471 (若松、成田、鈴木)
・「恋人の近く」 Op.5-2 D162 (畑、平井)
・「音楽に」 D547 (同)
・「花大根」 D752 (同)
・「ミューズの子」 D764 (同)
・「冬の旅」より「春の夢」 D911-11 (同)
・「鱒」 Op.32.D550 (同)
-- 休憩 --
・ピアノ五重奏曲 イ長調 Op.114. D667 「鱒」
(若松、成田、鈴木、今野、平井)
まず始めの弦楽三重奏の出だしで、思わず、「おやっ?
どうしたんだろう?」と思ってしまった。
ヴァイオリンが、何とも不安そうに、恐る恐る弾き始めた感じなのだ。
その疑問の答えはすぐに解けた。
ビブラートをかけずに、弦を弓で押さえるように弾く、いわゆる「ピリオド奏法」なのだ。これって、音程を
きれいに揃えるのが、よほど難しいのか、後半になってやっとペースに乗ってきたって感じ。
(鈴木氏のチェロは、始めからそれなりにビブラートをかけ、静かながら深い音で魅了していたのだが)
つぎは、フォルテピアノの伴奏によるリートの数々。
平井氏のフォルテピアノの、特に中音部〜低音部の温かいサウンドが素敵だった。フォルテピアノの音
を聴いてしまうと、現代のピアノが何となく金属的な響きに思えてしまう。この日の曲をフォルテピアノ伴
奏にしたのは大正解。
一方、畑氏のテノールは、きれいに澄んだ声の持ち主なのだが、常に目線が手持ちの楽譜の方に行き、
観客に顔の表情でもアピールして音楽性を倍増させよう、なんていう演出意図などまるで無いようで、
良く言えば、とても真面目な歌い方、悪く言えば、(失礼ながら)面白味が今一つで、お陰様で、久々に
夢うつつのステキなウトウト状態を体験させて頂いた。
(これって、とても贅沢なひとときなんですよね。悪い演奏では、こんな幸せなウトウトはできないもん)
休憩後の「鱒」は、ピリオド奏法の弦とフォルテピアノのアンサンブルが、とても温か味に満ちた演奏と
なって、派手さやきらびやかさの世界とは違う、「漢方薬」的なジワジワ〜ッとくる名演となった。
小ぶりのコントラバスも、地味ながら良い響き。また、鈴木氏のチェロは、エンドピンを出さずに(即ち、床
につけずに)チェロのボディーを両足で抱えるようにしながらの演奏で、しっとりと落ち着きのある響きを
聴かせてくれた。
それにしても、この曲の最終楽章の後半って、終わりそうにみえて、また同じフレーズが何度も繰り返さ
れるのだが、この「しつこさ」は、曲想は全く違うものの、ベートーヴェン的??
さて、王子ホールで嬉しいのが、スパークリングワイン。なんと400円でミニボトル1本+おつまみ付き。
夫婦二人で1本頼んだら、親切にもその1本を2つのグラスに均等に注いでくれた。(以前は、木村屋の
アンパンも置いてあったのだが、この日はサンドイッチだけだったのが残念)
ワーグナー「ワルキューレ」 by 二期会
★★★★★(2月23日 東京文化会館)
”舶来崇拝”の時代は終った
歌手陣、指揮、オーケストラ、演出、照明、舞台や衣装等、あらゆる要素でこれほどバランス良く優れた
「ワルキューレ」は、恐らく本場ドイツでも、そう多くはお目にかかれないのではないだろうか?
奇をてらった目障りな装置や衣装、無駄な動き等の無い、まさに”正統派”の演奏であったうえ、全ての
歌手・演奏者達の粒のそろった質の高さのおかげで、安心して私の全身全霊を解放して舞台に集中す
ることができ、4時間半をあっという間に堪能するとともに、まるで三ツ星フレンチ・レストランのフルコース
を味わった後のような、おなかいっぱいの充実感!
ワグナーを堪能するのに、海外オペラ座の来日引越し公演を待つ必要は、もう、無くなった。
ジークムント: 成田勝美、フンディング: 長谷川顕、ヴォータン: 小森輝彦、 ジークリンデ:
橋爪ゆか、
ブリュンヒルデ: 横山恵子、フリッカ: 小山由美、ワルキューレ達: 渡海千津子、江口順子、礒地美樹、
橋本啓香、津山恵、庄司祐美、金子美香、西舘望、ローゲ:
桜観、指揮: 飯守泰次郎、東京フィルハー
モニー交響楽団、演出・装置: ジョエル・ローウェルス、照明:
石井リーサ明理、衣装: 小栗菜代子、舞
台監督: 小栗哲家、他。
42.195Kmのマラソン・フルコースを全力疾走しながら歌うような、歌手陣の実力
大音量のオーケストラに負けない声量で、マイクも付けず、楽譜も見ずに、原語で、何時間も舞台に出
ずっぱりで歌うだけでも凄いのに、ましてや全体のアンサンブルをピタリと合わせながら、感情を音で表
現し、演技もしていくとなると、こりゃ、フルマラソン距離を全力疾走しながら歌えというくらいに、或いは、
西洋人が歌舞伎座で仮名手本忠臣蔵を通しでやる以上に大変なことと思う。
ましてやワグナー。肉食人種ならではの重厚な「メタボリック・サウンド」を、切れ目なく、延々と表現する
ことをもって感動に結びつけなければならない。
お茶漬けサラサラの日本人には、どだい無理、と思われがちな、その「メタボリック的な感動創造」を、
しかし、この日の歌手達は、何の大変さも客席に勘ぐらせることも無く、ケロッと(?)やってのけた!
1幕で、特に感動的だったのは、第3場。ジークムントが、「一本の剣を父は約束した...」と、淡々と歌
い始め、「ヴェルゼ!、ヴェルゼ!」と高まっていき、そこでまた、木管ソロを聴かせるオケの「静」が。そ
こに、ジークリンデが登場し、剣の在りかといわれを歌う高まり。(パミーナが魔笛のいわれをタミーノに
伝えるシーンに似てる?)
そして、「冬の嵐は去り...」と、兄と妹(兼)愛し合う二人としての二人の感情の高まりがあり、ジーク
ムントと名乗り〜幹から剣を抜き取ると、オケがワ〜ッと盛り上がり、「あなたを見て憧れる私はジーク
リンデ」との熱唱、そして、「二人の子らの血よ栄えよ!」とフィナーレにつながっていく、途切れの無い
感情の”うねり”と高まりの見事さ! 成田勝美、橋爪ゆか両氏の「バイロイト級の力量」のたまもの。
2幕は、全体にのしかかる(おもしろさならぬ)「重暗さ」が聴きもの。
ヴォータンは、(客席からみると、何となく米米クラブのカールスモーキー石井氏のような衣装&風貌?
で)、ダイナミックなパワーや貫禄というよりも、「神でありながら俗そのものであり、一方、権力に固執す
る人にありがちな弱さや不安心」のような雰囲気も出していた。これは、「神だの何だのといったところで、
所詮は単なる男じゃない?」といった演出なのかも??
フリッカ役の小山由美は、「女の強さ」が表れており、古今東西、神の世も人の世も、「女性の力で地球は
回っていくのか?」なんて、つい悟ってしまった(?)次第。
2幕3場の、ジークムントとジークリンデが登場しての苦悩のシーンも真に迫っていた。
(他の場面もそうだが、男女愛と兄妹愛と近親相姦と、それに父子関係や神と人間界とのしがらみも含
め、こんなに複雑な心境を、どう歌で表現するか、さぞかし役づくりは大変だったことだろう。)
そして、その後に続く、ブリュンヒルデがジークムントに予告するシーンの、何という辛さ。そして、その苦
しさと対称的に、降ってくる雪と照明の何という美しさ!
そして、息子を殺さざるを得なかった父親の苦悩!
この、どうしようもない重たさに輪をかけるように、オケのダイナミックな重低音が、まるで駄目押しの一
刺しのように、客席の我々にグサリと刺して、第3幕に繋げようとするなんて、
作詞作曲家のワグナーさんよ、あなたは相当重厚な味付けの「肉食人種」なんですね!
同じ「死んじゃうオペラ」でも、イタリアもんは”ゴシップ記事的な軽さの救い”みたいなのがあるのに、
ワグナーサンは神様まで登場させてシリアスかつ徹底的にやっちゃうんだから!!
そして、例の「ワルキューレの騎行」で始まる3幕。子供(ジークフリート)を宿したことを知って熱唱する
シーンのジークリンデも感動的だったが、何といってもブリュンヒルデと父ヴォータンとの長く辛いやりとり
と別れ、そして、フィナーレに続く場面が圧巻!
フィナーレの、天井から吊るした真白の布と、そこにあたっていく真紅の照明も、シンプルかつ効果的。
引き続き第2夜「ジークフリート」も観たくなってしまうのは、さすが!
飯守泰次郎氏とJ.ローウェルス氏の実力
さすが、かつてバイロイトで経験を積んだ飯守さんだけあって、オーケストラの音創りも見事だった。
管楽器がフォルテッシモで、これでもか、これでもかって鳴らすことの多いワグナー。それだけに、管の
トチリがあると目立ってしまい、どうしてもシラけてしまうのだが、この日はそんなシラケが殆ど無かった
のみならず、歌手陣とオケとのバランスも、全体のテンポや構成も、じつに自然に聴こえて来、そして、
「これぞ正統派」とでもいおうか、奇をてらったところが無いのが嬉しかった。
弦の高音部がもう少し美しく響いてくれたらもっといいナ、と思えなくもなかったが、東フィルって、こんな
にいいんだ!と再認識した次第。
演出(ローウェルス氏)も「正統派」で好感が持てた。
(自分だって”今風「魔笛」”を書いているワケで、偉そうなことは言えないが)、ワグナーの場合は、ヘン
に現代物にしたり宇宙船が出てくる未来物などにしない、オーソドックスな方が好きだ。
まだ40歳そこそこのローウェルス氏だが、美術、歴史学、科学、数学もやってきたマルチ人間だそうで、
これからの活躍が楽しみ。
一方、白と赤が印象的だった照明や、じっくり動いていく舞台バックの美術も、目立ち過ぎることなく歌手
達を良く引き立てながら、しかもアートになっていた。
このキャスト&スタッフ陣で、「指輪」全曲4夜連続一気公演の実現を、近いうちに、ぜひ!!
クリスティアン・ゲルハーヘル バリトン・リサイタル「冬の旅」
★★★★★(2月1日 王子ホール)
シューベルトの「冬の旅」や「美しき水車小屋の娘」といえば、もちろん名曲中の名曲ではある。しかし、
その『チョー内気な失恋男のメメしい逃避行ドラマ』の主人公に、つい、「おい、おまえ男だろ!もっとシャ
キッとしろヨ!」と文句でも言いたくなるようなストーリー(歌詞)上の違和感が、もう何十年もの間、私の
深層心理のどこかに根付いてしまっていたように思う。それは、歴史的名盤といわれたフィッシャー=ディ
ースカウやハンス・ホッターの録音を聴いても、或いは、ヘルマン・プライやシュライヤー、マティアス・ゲ
ルネといった超一流のライヴを体験してでもそうで、《感動はするけれど、どっかにシラけた後味の悪さ》
が残っていた。
しかし、この日のクリスティアン・ゲルハーヘルで、私は、初めて、《シラけ感》の一切無い、心から共感
できる『冬の旅ドラマ』に巡りあえた。
これは、王子ホールという小規模で響きの良いホールのおかげ、ということもさることながら、ゲルハー
ヘルのたぐいまれなる表現力と構成力のたまもの。
ステージ上で、凛とした風貌&ステージマナーで歌い通し、(注:ゲルネがステージで頻繁に鼻をクチュ
クチュさせていたのと大違いで、顔の表情や視線は変化に富むものの、手を組んだりチョコチョコ動きま
わったりは決してしない)、もうそれだけで、『ひ弱でネクラな若僧』ではなく、『分別のある大人の男』の
上質な世界観を醸し出していた。
そして、弱音のところでも決して「メメしさ」や「心細さ」を感じさせず、出だし第1曲の「おやすみ」からして、
目いっぱい喉を解放させた、極めてナチュラルで上品な声が会場全体にスーッと届いてくる心地良さ!
一方、感情をあらわにフォルテで歌う部分(第8曲「回想」あたりから)でも、大声だからといって、決して
「荒れた声」にはならず、だから、「失恋男のバカなヤケッパチ」にはならない。
ピアノのゲロルト・フーバーは、ゲルハーヘルと同じ、ドイツのバイエルン州シュトラウビング生まれの幼
馴染みで、永年、ゲルハーヘルの伴奏をしてきたとのことで、(何ヶ所か、「あれっ!」と思わせるトチリ
はあったものの)、さすがに息は合っていた。
ゲルハーヘルによる《「冬の旅」への新たな開眼》体験の後、週末に、プライ、ヘフリガー、フィッシャー=
ディースカウ、中山悌一による、それぞれの「冬の旅」のCDを聴き比べてみた。
それぞれに表現は違うものの、決して『チョー内気でひ弱なネクラ男』ではない、凛とした気品を、改めて
感じた次第。まさに、ゲルハーヘルさんのおかげ!
ところで、高齢化が急速に進む日本では、今後、孤独な老人たちの寂しい「冬の旅」が増えるのではな
いだろうか?
老人たちの孤独死増加に今から警鐘を鳴らすべく、≪今風「冬の旅」≫の詞も書かなくては!?
プラハ国立劇場オペラ「魔笛」
★★(1月16日 東京文化会館)
「ドン・ジョヴァンニ」や「皇帝ティトゥスの慈悲」が初演された、モーツアルトゆかりの由緒正しき”国立”
劇場の引越し公演が、S席で@19,000円で楽しめるというので、夫婦&娘で出掛けたのだが、期待外れ
であった。
序曲が始まる前から、男女共通の茶色の寸胴の衣装を着たバレリーナ達が、舞台上でチョロチョロして
いる。序曲の最中も、曲に合わせてモダンダンスもどきを踊り、その後もこの”茶色の物体達”が到る所
で動き回り、かつ、その茶色姿で、パパゲーノが追いかける”鳥たち”になったり、天井からぶら下がって
いる大きな布の上げ下げのロープ引っ張り役までやるのだが、ハッキリいって、観客の、音やソリストに
対する神経集中を妨げ、それでなくても支離滅裂なストーリーの中で、よけいに支離滅裂な感じになって
しまっていた。
この演出家、ひょっとして、舞台上で常に誰かをチョロチョロ動かすことがサービスとでも思っているのだ
ろうか? (日本の歌舞伎等の)”動かない美”、というのもあるのに!
序曲の中の、例の、管の”3和音”は全て舞台裏から鳴っていた。念の為、オリジナル総譜をみても、そ
のような指摘は書いてないのだが、何故、敢えてそうしたか、舞台の”チョロチョロ”との整合性も無いの
でよけいに不可解。
なお、このオケ(プラハ国立劇場オペラ管弦楽団)は、その他の部分でも、たとえば、金管の音がやたらと
大きかったり、弦の”繊細な機微”の美しさが最後まで殆ど出てこなかったり等々、イマイチだった。
指揮はヤン・ハルペツキーという人。
舞台装置も、良く言えば「省エネ・オペラ」。悪く言えば「手抜き」で、1幕初めのに出てくる大蛇も、舞台
上の大きな布をユラユラさせて代替しThat's
All。背景も、バレリーナ達の衣装と同じ色のカーテンだけ。
ソリストの中で、声がちゃんと出ていて、かつ、それなりに”華”があったのは、夜の女王(エレオノーレ・
マルゲール)とパミーナ(パヴラ・ヴィコパロヴァー)くらい。モノスタトスの声はオーケストラの音に埋もれっ
放しだし、ザラストロは、到る所で音程がブレるのが気になってしまう。
パパゲーノとパパゲーナは、声は悪くないのだが、何せ、衣装とメイクが余りに気持ち悪く、せっかくの
ユーモアやコケティッシュな雰囲気の役が、このヘンなミテクレのために全て帳消しになってしまっていた。
まるで「青鬼」そのもので、二人とも、顔まで薄気味悪い青色に塗りたくり、髪の毛も鬼のようにボサボサ。
衣装も、二人とも、濁った寒色のダブダブ&ボロボロ・イメージで、これじゃぁ、いくら楽しそうにパ・パ・パ
なんぞと歌っても、明るさや軽快さが出ようがないのだ。
また、2幕はじめの、ザラストロの部下(神官)たちが出てくるシーンでは、神官たちが、まるで「オペラ座
の怪人」のような白い仮面をかぶっていた。なぜこのシーンだけ、こんな格好なのかも意味不明。
演出にも疑問だらけ。1幕はじめで、タミーノが、まだ見ぬパミーナの絵姿を見て歌うアリアで、なんと、
パミーナが舞台に出てきてしまう。そして、ヘンなカツラをかぶらされたり、顔のアップをカメラ撮影して舞
台上の大きな布に投影したかと思うと、こんどはタミーノの顔を(本人が舞台で歌っているのに)同じよう
に映し出したりする。しかも、布がたわんでいるので、映される顔も歪んでユラユラしてしまっている。
タミーノとパミーナは、2幕フィナーレの場面でも意味不明の奇妙な行動となって現れた。舞台奥で二人
が立っているのだが、パミーナがどういう訳か急に奥に引っ込み、すると今度は、舞台の袖から別人の
(?)パミーナがスポットライトを浴びて(タミーノ同伴ではなく独りで)登場する。コレ、何を言いたいの?
一方、タミーノが魔笛を吹くシーンは、全て、18世紀の衣装を着たフルーティストが舞台に登場して、(タ
ミーノに代わり)タミーノの横で実際にフルートを吹く。ザラストロやザラストロの部下(神官)達はスーツ姿
(でも、ヘンな前かけみたいなものを下にまとっているが)なのに、衣装の時代設定がバラバラ&マチマチ。
これまた支離滅裂・不可解状態を助長する。
タミーノとパミーナの、最後の、火と水の試練のシーンでも、テーブルの上に二人が乗っかって、ただ、す
っ立ってるだけ。何が”試練”なのか、さっぱり伝わってこない。
演出・衣装・照明の妙で、唯一楽しめたのが、1幕で夜の女王が登場したシーン。紅白歌合戦での小林
幸子のような超デカ衣装で、空からスーッと降りて来、キラキラと照明を当てて”謎のスゴモノ”を印象づ
けたのは、このオペラの原点にも即していて見事だった。
他方、2幕で、夜の女王、3人の侍女、モノスタトスが地獄に落ちるシーンは、中途半端以前の演出ミス
ではなかろうか?彼女らが単に大布の後ろに引っ込んだだけで、しかも、直ぐにその大布から善人達が
登場してしまうのだが、これじゃあ、誰が見ても、女王達が地獄に落ちたとは見えず、結果、フィナーレの
讃辞との対比の妙が出てこない。
ということで、ご教訓:
「今風”魔笛”」こそ、このストーリーの支離滅裂を見事に解消し、しかも、不自然さ無く、老若男女
あらゆる人が、クラシック初めての人もオペラ通も、ともに笑いながら感涙にむせび泣くことができ
る、時代を超越した、”魔笛解釈”の決定版なり!(?)
一日も早く、この「今風版」の上演で、この日の入場者の皆様の「お耳直し&お目直し」、そして、
”今風”による世界平和と地球環境改善に向けての共感の輪の拡大をしていかねば!?!?!
(エヘヘ)
★聞き手が主役のコンサート談話室(2)
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