関ヶ原から今須宿の間には、古代の三関といわれた美濃不破関があった。
今でも、壬申の乱に纏わるいろいろな逸話が残っていた。
今須宿は美濃路の最後(初)の宿場である。
守護代の長江氏により建立した妙応寺とともに大いに繁栄したようだが、
当時の面影は残っていなかった。
平成十六年三月十七日、今日は垂井宿から関が原宿を経て柏原宿まで歩くつもりである。 関ヶ原宿から今須宿間は、旧道が残っている。
関ヶ原宿から西首塚を過ぎ、松尾で国道から離れて、左の道に入って行く道が旧中山道である。
月見の宮の石碑や福島正則陣跡の案内や井上神社の大きな石柱があり、落ち着いた家が並んでいた (右写真)
少し歩いて行くと、「不破関庁舎跡」の案内板があった。
不破は近江と美濃の国境という重要な位置に位置し、北に伊吹山、南に鈴鹿山系の山々
が迫っていて、その間はせいぜい数kmという狭い盆地になつている上、琵琶湖を渡って
くる風が伊吹山にあたり、冬季は雪が深い土地柄である。
民家の狭い道を通り抜け、七十メートルほど行った畠の中に、小さな社があった。
この中には天武天皇が兜を掛けたという石と沓を脱いて置いたといわれる自然石が祀られていた (右写真)
この一帯は昭和四十九年〜五十二年に行われた調査で不破関の庁舎があったことが
確認され、 「 奈良時代には掘立柱や瓦葺きの建物が建っていた 」 というところである (詳細は巻末参照)
街道に戻って歩く。 不破関は藤古川の左岸の自然の要害の地形を利用して設置され、
中央部に東山道が通っていた。 平安時代の延暦八年(789)、桓武天皇により関は廃止
されたが、天皇の崩御や都でなにか騒動があると固関使(こげんし)が派遣され、関の
周囲を警戒していた と、いう。
(注)右写真は民家の敷地一角にある関守の跡地と伝えられるところである。
しかし、鎌倉初期には、 東関紀行 に 「 越えはてぬれば不破の関屋なり。 萱屋の板庇年経にけりと見ゆるにも、後京極摂政殿の荒れにしのちはただ秋の月 ・・・ 」 と、書かれているように、不破の関庁舎は廃屋になってしまう。
しかし、いつの頃かはっきりしないが、関と関守が再び復活する。
東山道を通行する人や荷物から関銭(せきせん)を徴収するために関所が設けられた
のである。
屋敷の裏は小公園のようになっていて芭蕉やその他の人々が詠んだ石碑
があった。
全国で展開された関銭(せきせん)であるが、信長の楽市楽座で象徴される
ように、
自由な往来を保証する時代に姿を消していった。 江戸時代に入ると、不破の関所
もすっかり寂(さび)れたようすで、
芭蕉は 軒端朽ちたるあばら屋になった関跡 を偲んで、
『 秋風や 薮も畠も 不破の関 』 と、いう句を残している (右写真)
芭蕉句碑は美濃派の人々が建立したもので、その他の句碑も美濃派の師匠のものだろう。
近くに、発掘調査で出土された土器類を収納した不破関資料館があった。
坂を下りるところは大木戸という地名だが、不破関の西城門があったことから地名が付いたといわれる。 流れる川は「関の藤川」とよばれた藤古川で、関所のそばを流れるのでそう呼ばれた。
川にかかる橋の上に立つと、現代の交通の4つの動脈、つまり新幹線、高速道路、東海道線と国道を一度に眺めることができ、また川の両岸の景観もなかなかよい。 梅の花の季節だったが、川に張り出した枝には白い花が咲いていた (右写真)
藤古川は壬申の乱(じんじんのらん)の古戦場で、川を挟んで東側に大海人皇子軍、西に大友皇子軍が陣をとり、戦った。
平安時代以降、藤古川は歌枕になって多くの歌が詠まれている。
『 みのの国 せきの藤河 たえずして 君に仕えん 万代までに 』
(古今和歌集) はその1つである。
壬申の乱では地元の村人も巻き込み 村が東西に分かれて応援をした とあり、壬申の乱後、川の東側の松尾村は天武天皇を祭った井上神社を、西の藤下村と山中村>は弘文天皇を祭り、別々の氏神としている、という。 大変興味のある話である。 川を渡ったところに戸佐々神社があったが、祭神は弘文天皇なのだろうか?
坂は上りになり、途中にある二股の小高いところに、大谷吉隆の墓七丁の石碑と小さな社が見えた。 お堂には地蔵菩薩が安置され、その下に矢尻の井があった(右写真)
大海人皇子の兵士が水を求めて矢尻で掘った井戸と伝えられているが、水はなくくぼみがあるという程度のものだった。
やがて民家もないところにでた。 道の左側は低地になっていて、下には田畑が見え、その先には山が広がっていた。
「 大海人軍の将、村国連男依は、大津の近くの山前で自害した大友皇子の首を戴き、不破の野上に凱旋した。
天武天皇(大海人皇子)は御首験を行い、この丘陵に葬り奉つた。 」 と、伝えられているが、天武天皇の墓と伝えられるものが山裾を登って行った自害峯にある (右写真)
(注) 大友皇子は明治時代に天皇に列せられ、謚名を「弘文天皇」とされた。
その先は国道であるが、横断歩道ではなく、横断歩道橋になっている。
橋で渡って下りたところが東山道の宿駅でもあった旧山中村の山中集落である。 北山
の縁に貼りついたように家が並んでいた。 右側に若宮八幡神社の石碑があり、小高い
ところに神社がある (右写真)
奥には大谷吉継の陣跡があるようだが、鉄道線路を渡るので危険とあった。
中山道を横断している小川に沿って、奥に上って行くと、煉瓦造りの鉄道橋があり、下の
トンネルをくぐりぬけると、1km弱で大谷吉継
の墓があった。
街道に戻る。 ここに流れる川は壬申の乱で吉野方と近江方との激戦が
あったといわれ
る黒血川(くろちがわ)である。 両軍の血潮で黒々と染まったといわれるほどの激戦
だったところで、山中川という川の名が、その後黒血川に変わった、とあった。
室町時代の歌人で太政大臣の一条兼良は、
『 白波は 岸の岩根にかかれども 黒血の橋の 名こそかはらね 』
と、詠んでいる。
左側に流れを変えて流れる川には鴬の滝があった。 滝の高さは4.5m程なので小さな滝だが、水量が多く冷気が立ちのぼっていて、年中、うぐいすがなくというところだったとあり、一条兼良は 『 夏きては なく音きかぬ うぐいすの 滝のみなみや 流れあふらむ 』 と、いう歌を残している。 (右写真)
その傍らには荷物を運ぶ馬子や駕籠かき人足が杖をたてて休む立場茶屋があったとあり、今須峠を行き来する旅人にとって滝は気の休まるところであったようである。
滝の近くには2つの祠に地蔵尊が祀られていた。
一つは黒血川地蔵で、もう一つは鶯滝
地蔵である。 ここで、道は西から南西に方向を変えた。
80mほどで、右側に小さな祠があり、地蔵尊が祀られていた。 常盤地蔵である。
祠の横の道を少し入ったところに、義経の母常盤御前の墓があった (右写真)
伝説では、
「 義朝の妾常盤御前と乳母千種は、平治の乱に負けて散々になった時、義経の後を追って東国に下る途中、この山中で盗賊に襲われ殺害された。
里人はこれを哀れんで墓をつくり供養した。 」 とあり、二つの宝筐印塔2基と五輪塔があった。
その傍らの芭蕉句碑には、
『 義朝の 心に似たり 秋の風 』 と、刻まれていた。
この句は野ざらし紀行 にある (詳細は巻末参照)
三叉路で左の道をとる。 ここにあった馬頭観音は道標をかねているが、大正時代のものだった。 人家もなくなり、突然東海道本線が現れたので、びっくり。
踏切を渡り、坂をのぼっていく。
今須峠(いますとうげ)の入口である。
急坂だが鉄道のトンネルを見ながら上った (右写真)
道は、舗装され、普通自動車一台が通れるほどの道幅があった。
東海道本線もここは急なので、2つに分かれて線路が作られているのである。
山の中に入り、ゆるやかな坂道で蛇行しながら続いていた。
峠はどこだったのかわからないまま、やがて眼下に今須の町並みが見えてきた。
坂を下り、、国道に合流する (右写真)
もう少しで、美濃路の最後の宿場・今須宿に到着である。
(ご参考) 不 破 関(ふわのせき)
壬申の乱(672)の勃発にあたって、大海人皇子(おおあまのおうじ)の舎人(とねり)であった美濃出身の村国連男依(むらくにのむらじおより)らが不破道を塞いだことが、日本書紀に記されている。
乱後、不破道の重要性から関が設けられ、大宝律令(701年)の中に越前の愛発(あらち)、伊勢の鈴鹿(すずか)とともに美濃不破関として定められた。 これらを古代の三関(さんげん)という。
不破の関は藤古川の左岸の自然の要害の地形を利用して設置されたもので、敷地は約450m四方の大きさで、中央部に東山道が通っていた。 街道に接した北側には築地塀で囲まれた約一町(108m)四方の内郭(ないかく)が設けられ、瓦葺の建物が数多く建てられていた と、ある。
関の役割は、@国家非常時に際しては兵を配して備えること A関を通行する人に対して、過所(かそ・通行証明書)により検判(けんばん)を実施することだった。
しかし、平安遷都を行った桓武天皇は、延暦八年(789)、三関を突如として廃止した。 関の維持に大きな負担がかかっていたことに加え、長岡京・平安京の遷都という大事業があり、財務上立ち行かくなったためだろうといわれる。 しかし、その後も、天皇の崩御や都で騒動がある度に固関使(こげんし)が発遺され警戒にあたった。
(注)関ヶ原町教育委員会の資料を参考にして作成しました。
(ご参考) 壬申の乱
長等山は現在の三井寺(長等山園城寺)がある山である。
『 西暦671年12月、天智天皇が崩御されると、近江側は実子の大友皇子(弘文天皇)を立てたので、吉野へ隠棲していた叔父の皇太子・大海人皇子(のちの天武天皇)との関係はいよいよ危険な状態となった。
近江側は山科に御陵を築くためとして、美濃や尾張から人を集めたのを、吉野側は吉野攻撃の準備とみて、動きが不穏となった。
翌年5月、吉野側の大海人皇子は兵を起こす密使を美濃に送り、まず”不破道”を押さえさせた。
そして、鈴鹿の関を越え、桑名を経て、不破(関ヶ原)の野上に行宮(本営)を置き、全軍に指令したのである。
両軍の最初の戦いは玉倉部付近で始まり、二軍に編成された大海人皇子軍により、近江軍はしだいに押されていった。
近江軍は瀬田川の決戦で敗退し、大津京は陥落、大友皇子は長等山において自害した。
勝利した大海人皇子は都に戻り、天武天皇になった。 』
と、いうのが、乱のあらましである。
壬申の乱で敗れた弘文天皇の菩提を弔うため、皇子の大友与多王が天武十五年( 686)に建立したのが三井寺の創始と伝えられ、当初は大友氏の氏寺だったが、平安時代に比叡山の智証大師が寺を復興して 延暦寺の別院とした。 なお、三人の天皇の出生にかかわっていることから三井寺といわれるようになった と、案内板にあった。
(ご参考) 野ざらし紀行
松尾芭蕉の 野ざらし紀行 には、
『 大和より山城を経て、近江路に入て美濃に至る。 今須・山中を過ぎ、いにしへの常磐の塚有。
伊勢の守武が云える 「義朝殿に似たる秋風」 とはいずれの所か似たりけん。
我も又、
義朝の 心に似たり 秋の風
不 破
秋風や 藪も畠も 不破の関 』 と、この部分が記されている。
国道の左側には、歩道があるが、右側にはないので怖い。
大型トラックの通行が多いので、なかなか向こう側には渡れなかった。
右手の線路上の小高いところにある建物は美濃路に入ってしばしば見た 御嶽教教会 のようである。
線路脇には、 青坂神社がある(右写真)
長江氏の祖・ 鎌倉権五郎景政 が祭られている神社である。
景政の子孫の 長江秀景 が、承久の乱後この地に移り住み、西濃の地域に勢力をもつようになり、室町時代には今須は、長江氏一族の領地になったのである。
その先には、 家康の腰掛岩 がある。
本陣の伊藤家で保管されていたが、本陣廃止後ここに移転されたとある。
左側に、平成二年に復元された一里塚があった (右写真)
昭和三十年に国道工事で取り壊されたものを少し東につくったもので、ケヤキが植えら
れていた。 少し歩くと、国道から別れ左に入る道がある。 これが旧中山道である。
川に架かる橋の手前に 常夜燈 があったが、銅版が貼ったもので、いつの時代のもの
だろう?
今須橋 (いますばし)と書いてあった。
少し先の右側に大きな駐車場があり、石碑がいくつか建っていた。
妙応寺のものだった。
妙応寺は国道そして東海道線のガードをくぐって行く。
門前では、老婆が2人座っておしゃべりをしていた (右写真)
寺は、長江氏の初代、重景により、正平十五年(1320)、曹洞宗の大徳峨山禅師を開山として、母の菩提を弔うために建立された。 寺領を多く寄進したので、久しく栄えたという。
火滅薪盡道場でもある。
境内には長江氏代々の墓がある。
今須宿は、天保十四年(1843)、1784人、464軒と、このあたりの宿場では人口一番の
宿場町であり、宿内には本陣1、脇本陣2、旅籠は13軒、茶屋、造り酒屋や商店など軒を連ね、大いに賑わったという。
また、近江と伊勢との交易ルートにあったので、問屋場は一時7ヶ所もあり、荷車の使用が認められたのは垂井宿と共に街道で最初である。
本陣の跡には小中学校が、脇本陣跡には改善センターとJAの建物が建っていた
(右写真)
当時の面影が残っているのではないかと期待して訪れたが、道がかろうじて中山道当時のまま一本続いているが、古い家はほとんどなかった。
当時の雰囲気を伝えるのは、 木田問屋跡(山崎家) である (右写真)
山崎家は、江戸時代の問屋場なので、荷車が入る広い玄関や吹上、苔むした土間などが残っている。
対面にも古そうな家があったが、くわしくは分からなかった。
その左の民家の一角に、常夜灯があった。
金比羅大権現永代常夜灯 と呼ばれるものである。
『 京都の河内屋という問屋が大名の荷物を運ぶ途中、その荷をなくしてしまった。
金比羅さんに願をかけたところ、この宿にあることがわかった。
その礼として問屋場(現在の山崎家)の前に建てたと伝えられている。
その後、現在の地に移転された。 』
とあった (右写真)
真宗寺を越えた先に、八幡神社の鳥居があった。
神社への参道になっているが、少し高くしたところに、石塔がある。
今須八幡神社遥拝塔 といわれるものだろう (右写真)
『 八幡神社は、暦仁元年(1238)、この先の森の中に勧請鎮座したもので、慶長七年に
再造された、 とする棟札があるという。 遥拝塔は、本殿下の橋が氾濫で度々流された
ので、ここに設けられた。 』 とあった。
関ヶ原から今須宿のはずれまで歩いたが、途中、商店は1軒もなく、今須のここでも商店
らしい店もなく、自動販売機が数台設置されているのを見ることができただけである。
国道にはコンビニや飲食店もあるのかも知れないが、ここで暮らす人々はどのように
いておられるのか?
少し興味を感じた。
これで、中津川市の落合宿から始まった 美濃路の旅 は終了である。
平成16年3月
平成16年5月(野ざらし紀行の部分を追加)