私は、働きもせず結婚もせずパラサイトシングルです。
特別な事情とは、
私が統合失調症(精神分裂病)とつきあっていることです。
平成14年までは1級精神障害、
平成15年から2級精神障害の認定を受けています。
平成11年から国民年金の障害基礎年金を受給しています。
パラサイトなので、家賃なし、光熱費なし、食費なし、所得なしなので
当然、税金も払っていない父親の同居特別障害者です。
これでも昭和63年から10年間、サラリーマンで
毎日12時間ぐらい働いて、
忙しいときは日曜日さえなかった頃もあるのです。
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発病
私は、大学受験は経験が有りません。
高校から私立大学の付属高校に入学したので
エスカレーター式に大学には入れたのです。
高校が家から遠かったので、寮生活を経験しています。
家に戻って大学に通うようになり、
まもなく関係妄想・聴覚過敏に悩まされるようになりました。
19歳に精神分裂病の急性期になり、
家を破壊して措置入院となりました。
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妄想
主に関係誇大妄想と聴覚過敏で発狂しました。
妄想と言うのは、
自分の本当の父親は、
早死にした書道家の叔父さんで、
母親の連れ子に違いない。
自分は幼い頃、天才的な作曲家で
世界中のクラッシック音楽を
作曲したのは自分である。
小さい頃の事は記憶喪失で
忘れてしまっていただけである。
家にあるオーディオの中には
特別な仕掛けがしてあって
世界中のコンサートホールと繋がっているので
今音楽を聞いている間にも新しい演奏が
自分の指揮で録音されている。
自分は特別な人物なので
車を運転していても、私服の警察や
いろいろな公的組織に追跡・監視されている。
今でも家の上空は、
良くヘリコプターが飛んで行くんですが
空から助けにきてくれたと思いこんでいました。
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入院
大学に通っても友達が少なく孤独でした。
ガールフレンドでも出来れば良かったが
対人恐怖のためそれどころではありませんでした。
その頃は、保健室のようなところにも
相談しに行ったりして
自分の精神状態に疑問を感じていました。
次第に精神状態が悪化し、家にいても居場所がないと感じ
家中のガラスというガラスを
掃除機の棒で叩き割ってしまい、翌日措置入院しました。
と言っても、両親をバックシートに乗せて
自分で病院まで運転していったのです。昭和58年11月9日のことです
その時の運転はとても荒かったらしく
母親は生きた心地がしなかったそうです。
奇跡的にも割れたガラスで怪我をする者も無く
紹介された病院までの1時間のドライブも無事でした。
総合病院の精神科の病棟の中で、初診が行われました。
担当になった主治医は、精神科の部長で
子供の精神障害の専門だったと記憶しています。
初診の時の印象で記憶に残っているのは
主治医があなたの夢は?と聴いたのに答えて
わたしが、ゲーテのファウストをオペラ化して
ザルツブルク音楽祭で初演する事です。
と答えてしまったことです。
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電気ショック療法
主治医は患者とほとんど話さずに
見ただけで調子が悪いか判るようでした。
スタッフが足りなかった事もあるでしょうが、
大変忙しそうでした。
病棟は、開放病棟でしたが、
入院中は、相当暴れたらしく
何度か電気ショック療法を受けたそうです。
(記憶は全くありません。後でその頃の看護士さんに聞いた事です。)
調子の悪い時は、皮の拘束帯で目いっぱい
両手両足をベッドに抑制されました。
何ヶ月も大の字に縛られていると
とうとうお尻には床擦れが出来ました。
抑制は、やられた人で無いと判らない大変苦しいものでした。
抑制は、点滴による安定剤の投与が主な目的のようでした。
抑制中は、おしっこは管をつないでいて
うんちがしたくなると、ナースコールを押して
金属製のトレイのような物をベッドとお尻の間に
ひいてもらい縛られたままで用を足していました。
お尻をどうやって拭いていたのかは
忘れてしまいました。
多分看護婦さんに拭いてもらっていたか・・・
それは無いかな。
抑制中は、個室に入っていましたが
落ち着いてからは大部屋に移りました。
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静脈注射
大部屋に出てから暴れたり、
調子が悪くなって再入院したりしたときは
静脈注射…略して静注というのをされます。
看護士さんと先生が2・3人がかりでベッドに押さえつけて
100デシリットルぐらいの太い注射を先生が
意識がなくなるのを確認しながら静脈注射するのです。
やってもらっているときは、だんだんくらくらしてきて
すうって意識がなくなって、とてもいい気分でした。
ただ、気づいたときはだいたい抑制になっていました。
静注に関しては、恐ろしい思い出があります。
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打ちすぎ
やはり、分裂病と思われる人で
当時30代後半のYさんと言う人が一緒に入院していました。
その人は大変な資産家のうちに生まれたらしく、
病棟の食事は舌に合わないようで
毎日食事の差し入れか何かで高い仕出し弁当を
食べているような人でした。
体格がよく180cmぐらいの上背がありスポーツマンで
少し我侭なところがありましたが、性格はまっすぐで
おぼっちゃんらしくおおらかな性格でした。
ただ、社会に出て働いたことはないような感じでした。
当時Oさんという、とても美人な看護婦さんがいて、
Yさんはその人のことが好きになったらしく
言い寄った上に保護室のガラスを素手で叩き割って興奮しました。
ここで、静注をされるわけですが、体格が大きいせいか
普通一本ですむ静中を立て続けに何本も打たれたそうで
個室ベッドに抑制されました。
そのあと何度か暴れたらしく追加の注射もされるのですが
夜中に心臓が止まってしまったらしく、
翌朝には植物人間になってしまい、
集中治療室に移されてしまいました。
数日後、死んだそうです。
病棟の医療ミスということになるのか、
保険で賠償金を払ったそうです。
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入院生活
高校のとき寮生活を3年間経験していたので
病棟の生活にあまり不自由は感じませんでした。
お風呂に入る時間が男性と女性とで違うぐらいでした。
男性と女性が2・30人ずつぐらいだったような気がします。
現在の病棟は、病院経営の関係で20歳以上の人は
追い出されて、思春期の精神病の専門病棟になりましたが
そのころは、若くて20歳前後で半数ぐらいは社会人でした。
私がまだ若くて女性を見る目が無かったせいもあると思いますが
魅力的で病状の重いと言う相反する女性が多かったです。
退院するたびに、飛び降りてしまいいつも車椅子の美女。
18歳でやくざに囲われて、薬付けになり
薬を抜くための禁断症状で、何も食べられなくなり
調子の悪いときは、中心静脈から強力な栄養剤を一日中
点滴しているKちゃん。
Kちゃんとは大変馬が合い、吸っているタバコも
同じセブンスターで、自分の過去もすべて話してくれて
年も同じだったので色々な相談もしあいました。
ある日、Kちゃんが泣きながら私の部屋に飛び込んできました。
同じ部屋の女の子に自分の過去を話したところ
その子が「Kちゃんはやくざの女だったのよ」と言いふらしたそうで
もうこの病院にはいられないからお金を貸してくれと言うものでした。
そのときの女の涙にノックアウトされた私は、呆然として
ティッシュを渡して収まるのを待ちました。
渋谷までのバス代だけあればいいというので
財布をみたところバスの回数券が2枚あったので
あげてしまいました。
すると、部屋を飛び出したKちゃんはパジャマにスリッパのまま
病棟を抜け出してしまいました。
少ししてKちゃんの主治医が来て血相を変えて訊きました。
バスで渋谷に向かっていることを言うと
先生は車で猛スピードで追いかけていきました。
せっかく体から薬が抜けていたのに
またもとの木阿弥になってしまうところでした。
何とか先生はKちゃんを捕まえたらしく、
その日のうちに個室に戻ってしまいました。
そのうち、私のほうが先に退院することになったので
一番好きなラベルのピアノコンチェルトのLPレコードを
プレゼントにあげました。
再発後の入院のとき偶然10年ぶりに再会したとき
Kちゃんは、ウォークマンで聞いていたピアノ曲のカセットを
何も言わずに私に渡すと帰っていきました。
聞いてみるとラベルのコンチェルトの第2楽章によく似た雰囲気の
ピアノ曲でした。
もう今では、学校の給食のおばさんを勤めていて
社会復帰をしているので、時効だと思い書くことにしました。
親友のY君は、私にマーラーのすばらしさを教えてくれた
心の友です。
彼は潔癖症と言うか、自分の手が汚いと言う
強迫観念にとらわれていて
頻繁に熱いお湯で手を洗っていました。
それ以外はたいへんまともな感じで2人でどこへ行くのも一緒でした。
まだ日本では手に入りづらい
外版の高価な交響曲10番のアダージョのスコアを
いつも持ち歩いていていました。
二人でよくマーラーのパートをピアノで分担して弾いて、
対位法のすばらしさを教えてくれたのもY君でした。
ある日もうこのスコアは読みきったからと言って
値の張るアダージョのスコアをくれました。
今でも私の宝物です。
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大学生活
入院中の妄想がひどいときは、
試験を受けるのが大変恐ろしくて、
看護婦さんが、元気の出る注射だといって
何か皮下注射をしてもらって学校にいったのを
覚えています。
冬のとても寒い日で、担当の看護士さんに
付き添ってもらってやっと試験を受けたこともありました。
なぜあんなに、大学を出ることに固執したのか
自分の意思だったのか、父の希望だったのか
それとも、主治医の方針だったのかはわかりませんが
とにかく、3回の入退院を繰り返しながら
2留して学校を卒業しました。
そのころは、自分のやりたいことも見つけられず
ただ、父が決めた、法律学科を何の興味もなく
試験だけを受けに行ったという感じです。
最初に書いたように、クラッシック音楽に大変興味があって
妄想になるほど、グスタフ・マーラーを聞きまくっていたのですが
…今でもマーラーは大好きです…
一般教養の美学の講義を受けていたのですが
試験に自分の妄想を全部書いてしまって落第になり、
大変ショックを受けたのを覚えています。
妄想の只中にある急性期に
何をしてもだめだったなあ、
大学だから、何もできなくても存在できたというのが今の感想です。
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肝臓
最終学年は、就職活動をしたのですが
2年間何をしていたのか
という面接の答えに困りました。
その時は、正式な分裂病の告知も無かったので
障害者として就職するという選択肢は無かったです。
結局、精神科に入院していた事は隠して
肝臓を壊したということにしました。
秋になってもぜんぜん就職先が見つからなかったので
父と一緒に、就職課に行って
小さな会社に紹介してもらいました。
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総務課
昭和63年4月入社したのは、従業員200人程度の
電器製品の卸売業で、
秋葉原にある本社に配属になりました。
同期で大卒は二人だけで
残りの8人は、全国の高校から上京して
社員寮にはいっていました。
同僚とは6歳も年は違うし、最初に配属された職場は
業務課という、電話受注…いわゆる電話番でした。
先輩がみんな年下か同い年なので、
何の為に大学を出たのか判らなくなって
不思議な気持ちになりました。
この頃自分の中では、漠然とした
病気だからしょうがないな。
という気持ちがあったかもしれません。
1年間電話番をした後、とても営業はできないと思っていたので
上司から総務・人事の仕事に配置転換を告げられたとき
正直ほっとしたのでした。
給料計算や社会保険事務が主な仕事で
専務が直属の上司になりました。
社長以下役員はみな、私の母校の出身で
専務には良くしてもらい、今でも感謝しています。
給料計算の事務には、1年に1回しかない仕事もあり
前任者からは1ヶ月しか引継ぎをしなかったので
苦労は絶えませんでしたが、なんとかいろいろな人に聞きながら
仕事を覚えました。
200人のボーナスの集計など延々と計算をしなければならず
時には、社員全員の集計を間違えて決済をもらってしまい
10人の営業所の責任者から1万円づつ、
専務の決済で減らしてもらったこともありました。
電卓を覚えるにはとても勉強になりました。
その後、PCを導入してロータス123で集計をするようになりました。
それまで、月次の計算はオフコンで行っていましたが、
今ではなつかしい、MSDOSの給与計算ソフトを導入するという
たいへんな作業も経験しました。
ノートパソコンを家に持って帰って、日曜日もゴールデンウィークも
ずっと入力の日々が続きました。
なんとかPCに移行することができました。
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分裂病の社長
そのころ会社のオーナー社長がどうも精神病院に
毎週注射を打ちに通っているといううわさがありました。
とてもこわいと有名な人だったのですが
バブルが崩壊して会社の赤字が何年も続いてくると
ますます過激になり半年に一回ぐらい爆発して
…今から考えると分裂病を薬で抑えていたのだと思います。
気まぐれに、全国の営業所から所長を集めて怒鳴り散らしていました。
会社には、社会保険労務士の免許を持つ
社長の腰ぎんちゃくのような取締役役員が率いる
人事専門で秘書課のような部門がありました。
ただ、それまで専務に直結だったときも、
この人事の役員から、ちょくちょく内線で呼び出されていました。
この人も学校閥の人でしたが、性格の悪い威張り散らした人でした。
分裂病のワンマン社長の下でずっと仕えてきた人ですから
とにかく頭は切れるひとで、PCも早くから使いこなしていて
ハードディスクをはじめて導入してくれたのもこの人でした。
その頃は、まだ起動ディスクとアプリケーションディスクの
フロッピーディスクドライブが2つついてるだけというのが普通でした。
また、私を採用してくれた人もこの人でしたので頭が上がりません。
PCの新しいソフトもこの人から分けてもらっていましたし
ロータスの人事関係のプログラムを分けてもらっていて
もちろん、マクロの作り方からすべて教わったのです。
そういう訳で、内線がかかってくると
飛び上がって最上階の人事部門まではせ参じていたのです。
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天下り
会社は、松下系の商社だったのですが
そんなある日、天下りで取締役人事部長が突然私の上司になりました。
やはり同窓の先輩で、責任が軽くなり、私を気に入ってくれたので
良かったと思っていました。
この人事部長が、意外に気骨のある人で
子飼いの専務や腰ぎんちゃくの役員とうまく行きませんでした。
就業規則をちゃんと整備しようとしたのが
腰ぎんちゃくの気に障ったらしいのです。
社労士の腰ぎんちゃくとしては、もう何年も就業規則を改正していなくて
やらなければならないのは判っているはずですが
多分、分裂病の社長の怒りを買ってできないで硬直していたのです。
天下りの私の上司にしてみれば、これこそ自分のやる仕事だと
ワープロで何十枚もの就業規則改正案を作っていました。
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臨時昇給
ある時、いつものように内線で最上階まで呼び出されて
飛んでいくと、社長の許可なしに社員の給料を
勝手に水増ししてないだろうな。
ということを、腰ぎんちゃくが私に尋問しました。
これはとても大切なことだから良く考えて答えろとも言いました。
そのときは、何気なく1月前から経理の女子社員が2人
1万円ずつ昇給したことを思い出して
思わず答えてしまいました。
席に戻ってよく考えてみると、この昇給は
出納係の2人が転職するといって来たので
経理部長は、仕事が回らなくなるので何とかしてくれといってきて
上司の部長の判断で、私に臨時昇給の指示があり
実行したものでした。
この会社のシステムは変わっていて、
社長は8階の社長室に時々顔を出して決済するだけで
その決済というのも、昇給と年2回の賞与の集計表
に印鑑を押すだけで実際の会社の運営は
子飼いの専務に全部任せていました。
そんなわけで、私が集計表を10万円間違えたときも
専務が集計表に裏書してくれて
何とか大事にならないで済んだのでした。
そういう中で、上司の人事部長が女子社員2人の臨時昇給を
専務にさえ相談せずにやったのはすこしやりすぎだったかもしれません。
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懲戒解雇
そういう訳で、腰ぎんちゃくに尋問されてぽろっと答えてしまった
後ろめたさも仕事の忙しさにかまけて忘れてしまった頃
また突然、社長が全国から営業所長を緊急招集して
所長と本社全社員出席の会議が開かれることになりました。
何度か社長の会議に出たことがありましたが
席の具合で社長のそばに座ったことがありました。
そのときは1時間かそこらずっと、
社長が斜め後ろにいて怒鳴り続けていたので
最後には頭がくらくらしてきた覚えがあります。
会議当日の1時間ぐらい前、またも腰ぎんちゃくから呼び出されました。
最上階の部屋では、興奮して目をぎらつかせた社長と腰ぎんちゃくがいました。
何か怒られるのかなと思いましたが、最悪事態でした。
社長は言いました。これから、人事部長を懲戒解雇にする。
社員の給与を許可なしに昇給するからだ。
解雇の手当てを支給するから、腰ぎんちゃくに相談してくれ。
ということでした。
あんなに良くしてくれた部長をこの手で懲戒解雇にするとは
なんてことをしてしまったんだ。とパニックになりながら青くなりました。
会議が始まってまもなく、社長がみんなの前で
人事部長を懲戒解雇にする。
人事部長には、この場を即刻退席してもらう。と宣言しました。
と同時に腰ぎんちゃくが人事部長のかばんをもって、
会議室から連れ出してしまいました。
みんなはびっくりしたと思いますが、私はまだパニック状態で
ボーとしていました。
翌日から人事部長はこなくなりました。
解雇手当の計算を腰ぎんちゃくがして、
私が振り込みの手続きをしました。
次の給与計算で、臨時昇給した二人の社員の給料を元に戻すと、
二人はすぐに辞めてしまいました。
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解雇の撤回
私の上司は、また元の専務に戻りました。
専務も人事部長とは、うまくいってなかったので
会社の資料やフロッピーで、部長が持っていったものを
取り返してくるように私に言いました。
高輪にある部長の自宅近くのおすし屋さんで
待ち合わせて用を済ませましたが、
とうとう最後まで、
私が社長に密告した形であることをいえませんでした。
二人で寿司をご馳走になっているとき
ゴキブリがちょろちょろしてたのを今でもよく覚えています。
高い寿司だったと思いますが、味はぜんぜんわかりませんでした。
針のむしろに座ってる気持ちでした。
どうせ私がしたことは、頭の切れる部長のことだから
判っているだろうと、気持ちを切り替えた頃、1ヶ月ほどして、
人事部長が会社を不当解雇で訴えるぞ。と書面で通告してきました。
その内容は、社員の手当てを1万円増額することは
取締役人事部長の通常認められる範囲内の行為で
懲戒にあたる行為ではない。よって、
会社都合の解雇の扱いになるので
解雇予告手当てを、解雇を通告した日以前に払っていなければ
不当解雇にあたる。というものでした。
よく考えると、解雇予告手当てを振り込んだのは
所長会議の翌日なので違法なのです。
労働基準監督署に訴えられたくなかったら、
懲戒解雇を撤回しろというものでした。
腰ぎんちゃくは、予告手当てを小切手で用意して、
当日手渡すべきだったのです。
社長が懲役になる可能性が出てきたので
懲戒解雇は撤回することになりました。
1週間ぐらいして突然、人事部長が出勤してきました。
その日の朝礼で部長は、私はやましいことは何もしていない。
懲戒解雇は撤回されたので、
私は自分の意志で辞めます。といいました。
子飼いの専務は、大変頭にきたらしく、
何度も発言するなといっていましたが・・・
こんなことがあって、私は、
将来いつ首になってもおかしくないな。と思いました。
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糖尿病
就職して3・4年経った、この頃は、毎日11時ごろまで残業でした。
終電に乗り遅れて、タクシーで帰ることもしばしばでした。
家に帰ってするのは、自慰をして、シャワーを浴びて、
ベゲタミンを飲んで寝るだけでした。
この頃は、分裂病の病識どころか、
昼間飲んでいる薬の名前も知りませんでした。
この頃、母が糖尿病になってしまいました。
ある日家に帰ってみると、話し掛けてもうわごとのようなことを
言うだけで、いつものように、ちゃんとしなさい。
という叱咤激励どころか、ふらふらで今にも倒れそうでした。
これはおかしいと思い、私の病棟のある病院が総合病院だったので
車で連れて行きました。
血糖値が400だかあって緊急入院になりました。
一ヶ月ほど入院して食事療法を受けましたが、もう溌剌とした
母は戻ってきませんでした。
糖尿病食を作って、その上家族に食事を作るという、
重荷に耐え切れなくなって、
まったく家事ができなくなりました。
60過ぎなのに、一日中寝たきりです。
私の主治医にもかかりましたが、
軽い分裂と鬱病の混合と診断されました。
寝る前に抗鬱剤の軽いのと安定剤を飲んでます。
急に髪の毛が真っ白になってしまったのもこの頃です。
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転職の誘い
平成4年になって、相変わらず遅くまで
仕事をしていたある日のことです。
同じグループの別会社の副社長
・・・実質的にその会社を切り盛りしている
という人が私の仕事場によく顔を出すようになりました。
同じビルに本社があり、1階が副社長の仕事場で
2階に私の仕事場がありました。
前から給料の締め日とか大変忙しい時になると
突然出現して、第2次世界大戦の昔話を延々としていくのでしたが
私もその副社長の話が面白いこともありよく話を聴いていました。
副社長は先代の創業者である会長に若い頃から仕えて
分裂病の社長とは苦労をともにして
秋葉原の街を育てたような人で大変なやり手でした。
夜10時過ぎに話にきたりしてどうも変だなと思っていたら
転職の話を持ちかけてきました、
副社長がオーナーをしている住宅会社に移らないかというものでした。
やはり松下系の子会社ですが
仕事の内容は、同じような中小企業でやはり人事管理の仕事を
専属の人事課長の下で出来て、
給料も上がるというものでした。
今の分裂病の社長の下で働くよりずっとましに思えました。
ちょうど大学のゼミの同窓会があったので
卒業させてくれた、恩師に会いに行き
転職の誘いがあるがどうでしょうかと相談してみました。
条件の良い会社に移るのは良いじゃないか。
ということで、父にも相談して転職することに決めました。
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引継ぎ
上司は専務でしたので、何度も辞表を書いて辞めさせてくれ
とお願いしました。
この頃、久しぶりに分裂病の社長に突然呼び出されて
びびりながら8階の社長室に行くと
間違えて他の部屋に入ってしまい
そのことで社長はまたまた切れて、
秘書の女の子をどなりつけて泣かせていました。
用件は、4月から新卒の男女1名づつお前の部下に配属するので
仕事を引き継げ、営業所の仕事を任せるので
覚悟しておけというものでした。
席に戻って、専務に社長からの指示を伝えると
会社を辞めることは言わなかったのかと怒られました。
副社長からは、会社の人に俺の会社に移ることは
口が裂けても言うな。俺の立場がないからな。と釘をさされていました。
社長や専務に気に入られていた私を、転職させるのは秘密でした。
先輩たちに、辞めてどうするのかと聞かれたときは
父の仕事の関係で紹介された職場に行くと答えていました。
一度、嘱託の同窓の先輩がかまをかけて、
副社長に紹介されたんだろといわれて、
うっかり答えてしまったことがありました。
あとで副社長の耳に入ることになり大変怒られました。
結局、新人が2人予定通り配属されて
引継ぎをするためのマニュアル作りで忙しくなったわけですが
できるだけのことをして辞めました。
8月に退職して、9月に新しい会社に移りました。
1ヶ月も自分の好きなことが出来て楽しいかと思いましたが
自堕落な生活になっただけでした。
旅行でもすれば良かったのですが
やはり両親は、私の病気が心配だったのでしょう。
私にしてみれば、なんて過保護な親なんだと思っていました。
結局、家でぶらぶらしていました。
まだこのときは、正式な告知を受けていず、病識もなかったのです。
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新しい職場
平成4年の9月から転職先に通い始めました。
前の会社が秋葉原で、転職先が巣鴨ということで
横浜の自宅からは1時間半ほどのところでかわらず。
寛解した今、通勤ラッシュから開放されて4・5年経ちますが
10年間も、毎日よく通えたなと思っています。
今ではとてもじゃないが、出来ません。
昼間の空いた電車でも、怖くて乗れないこともあるのです。
ずいぶん、働く環境も変わりました。
それまでは、新人が配属されるまでは
一人で仕事をしてきましたが、
新しい人事課には、会長の下・・・僕をスカウトした前の会社の副社長
人事課付けの取締役、人事課長、
複雑なことに、経理は良くわかる取締役管理部長も上司でした。
同僚に、バブルの塊のような少し年下の女子社員
5歳ぐらい下の男子社員、その上、派遣社員まで雇っていました。
翌年、新人の女子を派遣に変えて配属するのですが
前の会社では230人ぐらいの給料計算を一人でやっていたのが
今度は人数が150人ぐらいに減って、
派遣と2人でやることになりました。
給料計算は日本全国、法律が同じなので対応はできましたが
プラス、新入社員のリクルートを担当することになりました。
入社した翌日、内定者の歓迎旅行に出席することになりました。
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主任に昇格
普通ならストレスでやせるところですが
なぜか逆に太ってしまいました。
翌年の春には、勤続6ヶ月なのに主任に昇格しました。
僕は会長が推薦した人間でしたし、
組織が大幅に変わるときだったので。
やはり、役がつくとなぜかやりがいも感じます。
この頃が一番楽しいときでしたが、
分裂の再発のときは、刻一刻と近づいていたのでした。
人事課付けの取締役、聞こえはいいが口の悪いただのスケベ・・・
が癌で死ぬと言う大騒動がありました。
総務にとって、社員が死ぬと言うのは悪夢です。
葬式の手配から、関係会社への訃報の連絡、
生命保険や社会保険の手続き、
とにかく辞めてから死んでほしいものです。
この頃、会社の社用車の契約を取りに
近くの日産から若い女性のディーラーがよく会社に来ました。
音楽の次に好きなものが車だったので、
よく話をしていました。
スカイラインのGTRのオーナーになるのが夢だったところに、
平成7年の1月にR33型GTRが発売されて、
彼女は発売日にカタログを持参してきました。
クーペは頭に無かったので、カタログだけもらっておきました。
結局、私は6ヶ月で落ちてしまい、
250馬力のターボエンジンのマニュアルのセダンを、
貯金をはたいて買いました。
8年たちますが、いまだにエンジンは絶好調で、
ストレート6のサウンドに酔い知れています。
私は急性期が近づいてくると、大きな買い物を
してしまうと言うパターンです。只こういうときに買ったものは
普通は後悔することが多いですが、
私の場合、感覚がとぎすまれているせいか
失敗はほとんどありません。
こういう時は、エネルギッシュに人生が輝いているようで
寝るのも惜しいくらいになります。
この頃、あまりに会社の業績が悪くて
どうなることかと思っていた時がありました。
そんな時、会長に用があって社長室に行くと、
真剣な顔で、「お前社長をやってみないか」
と聞かれたことがありました。
そのときの社長が余りずぼらな人で
バブルの塊でお金を使い放題と言う人を辞めさせたばかりでした。
会社のほかの幹部は信用できないと嘆いていましたから。
会社の裏事情もいろいろと入ってくる総務ですから、
会長の気持ちも良くわかりました。
私は、とても怖くてできません。と答えて逃げてきました。
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分裂病の再発
平成8年のこと、信頼していた人事課長の奥様が
40歳の若さで脳卒中で倒れてしまい、
寝たきりの障害が残ってしまいました。
数ヶ月は、病院が面倒を見てくれましたが、
どうしても介護をする人がいないので、
課長は退職して田舎に帰ってしまいました。
今までほとんど関係の無かった管理部長が
直属の上司になりました。
その頃には、5人いた人員が3人に減らされてしまい、
大変忙しくなり、主任として責任も重くなってきました。
この頃なぜか、昼間一粒飲んでいた薬をやめてしまいました。
セレネースか何かでしたが、その頃はほとんど
病気のことを意識していなかったのではっきりしません。
責任は重くなるし、徹夜仕事もふえて
しまいには、不眠・拒食・感覚過敏で10キロも体重が減りました。
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ボコボコ
毎日のように、夜遅く帰ると
冷蔵庫の中の卵を全部壁に投げつけていました。
そのときは、寝込んでいる母の代わりに
父が仕事から帰ってきて家事をしている音が
私に対する攻撃に聞こえてぴりぴりしていたのです。
父は、毎日こびりついた卵を雑巾でふき取っていました。
そんな、1週間ほど不眠拒食が続いていたときのことです。
妹と父との深刻な親子喧嘩の果て、
妹が私に大声で助けを求めてきました。
完全に切れた私は、父をぼこぼこに殴り続けて
最後には包丁を持ち出すところまで行きました。
そのときの暴力のすさまじさ、
何度殴られても、殴られたままにしていた父の態度。
寛解した今思い起こすたびに悲しくなります。
殴られていた父の顔も相当痛かったでしょうが、
父の心は、計り知れない哀しみに満ちていたと思います。
あの頃の切羽詰った精神状態のことを考えると
急性期のときは自分の力ではもちろん
家族がどんなに気を配っても
到底、収まらないものだと思います。
小さい頃から口喧嘩はよくしましたが、
人を殴るなどと言うことは
ほとんど無かった私が、突然のように
父親をぼこぼこにしてしまったのです。
今思うと10年以上くすぶり続けてきた
分裂病の再発なのですが
当時は、正式な告知も受けておらず
睡眠時間の確保、服薬の大切さを知りませんでした。
翌日、およそ10年ぶりの再入院となりました。
もう何ヶ月も主治医に会っていなかったので知らなかったのですが
精神科の部長だった主治医は、定年で退職していました。
中目黒でクリニックを開業していたので
クリニックに父の運転で会いに行きました。
事情を説明すると、入院が必要ということになって
主治医の後任の部長に紹介状を書いてくれました。
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十年ぶりの再入院
平成8年の1月17日のことです。
新しい先生は、話をよく聞いてくれる先生でした。
そのころは、正式な告知すらまだ無く病識もありませんでした。
自分が父に対してしたことも
妹を精神的な虐待から救ってやったのだと思っていたぐらいです。
入院中も、父のこととなると興奮気味になり、
「息子にとって父親は一度はぶっ殺さなければならないんだ」
などと語っていたそうです。
半年ほどの入院期間は、攻撃対象となった父との
冷却期間にもなりました。
会社のほうは休職扱いにしてもらいました。
父に、恩人の会長さんに診断書を持っていってくれと言ったのを
覚えています。父は青あざだらけの顔で会いに行きました。
診断書には、当然、精神神経科と言う文字があるので
それだけでもインパクトはあると思いますが
主治医は気を使って、心因反応により当分の間入院が必要
と言う感じで、休職期間を曖昧にしてくれました。
1ヶ月ぐらいで、給料はストップしたので、
健康保険の傷病手当を申請しました。
1ヶ月に1回申請書を提出するたびに
部下の顔が浮かび、2人でやっていた仕事を
1人でしなければならない状況だったので
申し訳ないという思いが強かったです。
入院生活の最初の数週間は、個室で点滴をしました。
担当の看護婦さんが、子供を育てながらやっている人で
相当な無理を色々言った様な気がしましたが・・・
個室を出てからは、精神病院の過ごし方は
体に染み付いているので、快適に過ごせました。
具体的に言うと、重症の人と、
女性とは距離を置いて付き合っていけば
大体快適に過ごせます。
10年前に入院していた人のなかの数人は
まだ入院していました。
そういう人たちはだいたい病棟の人間関係の
要なので、その人たちと仲良くできるのは
大変なメリットです。
そういうわけで、病棟の行事に出たり、
運動のプログラムにも積極的に参加して
楽しく過ごせました。
というのも、会社に復帰しようと言う
明確な目標があったからです。
只ひとつだけ苦しいことがありました。
今はその病院は禁煙になってしまいましたが
そのころは、病棟内のホールではタバコが自由にすえたのです。
若い女の子と話しているときにセブンスターを吸うんですが
日に日に本数が増えて行き、1日に40本を越えたころで
1日10本の配給制になってしまいました。
看護婦さんの見えないところで、しけもくを拾って
大変な思いをしました。
外出禁止だったので、無性にミスタードーナツが食べたくなり
妹に無理を言って差し入れてもらいました。
後で聞くと、病院の近くに店が無かったので大変だったそうです。
だんだんと外泊の割合も増えていきました。
ゆっくり休養すればよかったのですが
総務課が一人かけたままで
大変迷惑をかけていると言う思いが強かったです。
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職場に復活・・・
7ヶ月ほどの入院のあと自宅療養数ヶ月で、平成9年6月ごろ
主治医にお願いして、職場復帰を果たしました。
主治医には、あなたはまじめすぎる。といわれました。
会長に特別にお願いして、10時から4時の
パートのような扱いにしてもらいました。
ところが、戻ってみると仕事のカンが鈍ったように感じて、
集中力も大分落ちてしまっているのにショックを受けました。
上司や同僚から強いストレスを感じて
とてもきつかったです。
もともと若いころから、対人恐怖があり
片道1時間半の通勤は、ラッシュから外れていましたが
地獄のようでした。
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またも再発???
自分でもいつまた再発してあの混乱した状態になるか
考えるだけでも不安です。
個室に入院することにでもなると
お金はかかるし自由はなくなるしで
あらゆる面で浪費となるので再発は怖いです。
そんな時父が人間ドックの結果早期の胃がんであることが判り
胃を半分摘出することになりました。
一方私は仕事のストレスからか、
お知りに座り胼胝のようなものができて、
皮膚科で日帰りでできものの切除をしました。
この頃二度目の再発に近い暴力を振るいました。
平成10年の晩秋のことです。
対象はやはり父でした。
ある休日の夕方、急に興奮しだした私は
・・・今では記憶の片隅にありますが、
その頃は、父がちょうど癌の宣告を受けた頃と重なります。
父は家族にはぎりぎりまで話しませんでした。
何か父の些細な言動が私の中では我慢できなかったのでしょう・・・
缶ビールを1ダース持ち出して、父に飲むように強制し、
ほとんど飲めない自分も一気飲みをして、
父にも自分にも頭からビールをかけました。
4・5発強烈な右フックを父の顎に見舞わせました。
そして、親子なんだから殴り返したらどうだと言う感じで
父に自分を殴らせました。
1発殴らせては、全然効かないよ、
もっと強くぶん殴れよと叫んではビールをかけて、
2・3度繰り返してやっと落ち着きました。
その後気持ち悪くなった私は寝ている母のところで吐いてしまい、
父に謝りたかったのか寝ている父のところにも行き
また吐いてしまいました。
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再再再再入院
母は晩年糖尿病を患い、すい臓がんで亡くなりましたが
生前は、とても繊細で心配性な性格でした。
父は自分の入院期間中、私と母でいろいろ心配して
私の状態がまた悪くなるのを心配しました。
そこで、母のことは妹に休暇をとってもらいうことにしました。
主治医と診察の場で相談した結果
私は家から隔離すると言うことで
会社はもう一度休職扱いにしてもらい
通算5回目の入院をすることになりました。
平成10年11月24日のことです。
今回の入院は手続きから全部自分ですることができました。
又個室にも入らず比較的自由にできました。
主治医は、この機会に徹底的に精密検査をやりましょう。
ということで健康保険を使って人間ドックのようなことをしてもらいました。
分裂病の症状と似た症状になる、身体疾患もあるのです。
それを主治医は見極めたかったようです。
脳波、心電図、CTスキャン・・・脳と内臓、
血液検査、聴覚、視覚、などなど。
結果は精神以外はまったく健康体でした。
自分としては、脳のCTに興味があったので、
写真を見せてもらいましたが、
脳外科の診断はalmost normalということでした。
5回目の入院では、強烈な薬物療法を受けることになりました。
この頃、やはり父のことが心配なのか、
不眠が出てきていましたし、
患者に子供が多かったこともあり、
その子供のいたずらが大変気に障って
三日にいっぺん位は、プッツン切れてしまい
制裁を加えてしまうのを我慢できなかったからです。
いわゆる、幼児虐待のようなものでした。
一日に40錠から50錠の向精神薬を飲んでいました。
それでも不眠は続きなかなか薬は減りませんでした。
ある日先生が薬の種類を、リスパダール中心に変えたところ、
昼間からグーグー眠れるようになり、いらいらもなくなりました。
学生時代にリスパダールがあったらなあと・・・・
平成8年6月に出た新薬だったのです。
この頃「10年もたって、精神病院に再入院するなんて
何かおかしい。」と自分でも思って、
主治医に「病名は何ですか」と言うようなことを訊きました。
それまで、「学生時代の自分はなんて怠け者だったのだろう。
自分みたいなのをモラトリアム人間と言うんだろう。」
ぐらいに思っていてあまり気にしていませんでした。
主治医は、「広い意味で精神分裂病だよ。」というようなことを
告知してくれました。
それから、高い精神分裂病の本を何冊も読破して、
自分の病気に対する理解も深まりました。
精神分裂病は、脳の慢性疾患で、
睡眠をしっかりとることと、服薬が大切で、
良くなる事はあっても完治しないので、
一生病気と付き合っていく覚悟必要なんだ・・・・・
両親に聞いてみると、
学生時代に前の主治医から告知は受けていたのです。
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障害者として生きる
5回目の入院をして6ヶ月ほどたった頃、平成11年の春です。
上司である人事責任者から呼び出しを受けました。
巣鴨の会社の近くの喫茶店で父と3人で話をしました。
何時になったら復帰できるのか、
ちょうど会社の合併の話が進んでいるときで、
仕事が忙しくなるので、今のうちに辞めてくれないか、
と言うような話がありました。
会社に提出してある診断書には、心因反応としてもらっていて、
当分の間療養が必要。と期間をうやむやにしていたので、
がんばって居座ると言う手もあったかもしれません。
そこで、学生時代から私のことをよく知っている、
そのときには、精神科病棟の婦長をしていた
看護士さんに相談しました。
「経済的に困っているわけではないので、
障害年金などの社会保障を積極的に利用して
生きていくことも可能だ。
分裂病を抱えて、今の仕事に無理にしがみつく必要も無い。」
と言うような話を1時間ぐらいしました。
この忠告がきっかけになり、これから障害者として生きていく。
と言う心構えができました。
そして、主治医が家族4人と面接してくれて、
10年近く働いた仕事を辞めて、
障害年金を申請する方針を説得してくれました。
父は、やっぱりだめだったかと、随分落胆していました。
それに引き換え私は、障害者であることを受け入れて、
本当の意味での分裂病の病識をもつに至りました。
平成11年5月31日に会長に挨拶に行きました。
そのときに、会長は残念そうな感じでしたが
何気なく前の会社の社長の話をしました。
私が、学生時代から発病していることは話しませんでしたが
分裂病の社長とは若い頃から苦労をともにしてきた人ですので
私としては、軽くカミングアウトしておきました。
退職金も5年分80万ちょっといただきましたが
人事部長は、後ろめたかったのか自己都合の退職の支給率ではなく
解雇に当たるような場合に払う一時金を手配しました。
自分の保身にはとてもよく頭の回る人なので
あの、喫茶店での話が解雇予告に当たるならば
これで、訴えられることにはならないだろう。
と言う腹積もりでいたのでしょう。
まあ、自分としては会長の期待に添えなかったわけですし
総務課のみんなに迷惑をかけたし
病気が病気だからあきらめはつきました。
そういうわけで、立つ鳥は後を濁さずと言う感じで
いつの間にかいなくなるというふうに
職業人生にピリオウドを打ちました。
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国民年金障害福祉年金裁定通知書
5月に入ってからは、ほとんど外泊で自宅で過ごしていましたが
先生と自由に会える間に、
障害者年金の手続きを進めていくことになりました。
まず、病院の福祉のアドバイザーの人に相談しに行きました。
私の場合、昭和58年11月16日の19歳の時に
初診を受けていて、その1年6ヵ月後の障害認定日である
昭和60年5月9日には2回目の入院中であったので、
20歳前の傷病による障害基礎年金の支給要件に当たりました。
少し詳しく調べてみると・・・疾病にかかり、または負傷し、
その初診日において20歳未満であった者については、
障害認定日以降に20歳に達したときは
20歳に達した日において、
障害認定日が20歳に達した日以降であるときは、
その障害認定日において、
1級または2級の障害の状態にあれば、
障害基礎年金が支給される。
20歳前の傷病による障害基礎年金については、
本来の障害基礎年金の場合のような
初診日における国民年金の被保険者であるか
と言う要件は問われない。
保険料納付要件も問われない。
ということで、主治医は1級間違いないと
太鼓判を押してくれたので、
区役所に行って書類を貰ってきました。
障害認定日の診断書と申請日現在の診断書と
2通書いてもらいました。
ほかに、裁定請求書という振込口座の指定や
簡単なアンケートのようなもの。
所得状況の申告書・・・その時点では給料は止まっていて、
健康保険の傷病手当金と退職金ぐらいでしたので、
所得はありませんでした。両方とも非課税扱いです。
自分で書くもので、一番苦労したのは、
病歴・職歴等関係申立書と言うやつです。
病歴を詳しく書くわけですが、
電気ショックを受けたりして記憶がところどころ飛んでいるので、
カルテから入院の日付を教えてもらい、
とにかく連綿と続いている闘病生活を思い出して書きました。
働いているときも、薬は貰っていたので、
治療は続いていたことになるのです。
幸い病院は、一度も変えませんでしたので、
主治医としても書きやすかったと思います。
そんなわけで、5月に書類を揃えることができました。
7月には国民年金障害福祉年金裁定通知書という、
A4の通知書が送られてきました。
それによると、昭和60年5月から平成11年4月まで
精神障害2級の認定を受けていて、
平成11年5月から事後重症として1級障害の支給とするものでした。
1級か2級かの判断の節目として、
定職についているかどうかと言うのが
大きなウェイトを占めるそうです。
首になったことで、年金が増えたわけです。
バリバリ働いているときの給料は400万ほどでしたが、
所得要件には引っかからず、
その年の10月には430万ほどの5年分遡及支払いがありました。
これは、丸々福祉定期と、シルバー定期を作って、
障害者マル優を設定して年利4パーセントほどで運用しました。
2年ほど年間15万円の利子が入ってきました。
平成14年から、制度が一方的に廃止になってしまいましたが・・・
そのほか、所得税の還付請求も5年遡り手続きをしました。
税務署にいって確定申告の修正のような手続きをしてきました。
障害者手帳も申請しましたが、
手帳には何時から障害者であるか記載が無いため、
A4の国民年金障害福祉年金裁定通知書が
申告のときに役に立ちました。
昭和60年から障害者であると言う証明になったからです。
これに連動して、住民税も還付されました。
1級障害者に該当すると、自動車税も免除になります。
障害者である私が通院のために、
家族が運転する車が必要である。と言うことで、
父の運転免許書を持って県税事務所に申請に行きました。
事前に問い合わせたとき、本人は免許証の欠格事由のために、
運転できないはずだから家族の免許証を持ってきてください。
といわれました。
私は、発病する1年前18歳のとき免許を取得していて、
その後ずっと更新を続けていたし、
精神分裂病の正式な告知があったのも
再発後の入院のときだったので
何の問題も無かったのです。
ここで、気になったのは分裂病患者が車を運転していて
事故を起こしたとき、任意保険が降りるかと言うことでした。
いろいろ調べてみると自動車保険には、
病気の告知は必要ないので、法律的には問題ないようでした。
ただ薬を飲んでいて、居眠りをしてしまい
事故を起こしたらどうなるか、と言うことも心配したので
保険屋に問い合わせたところ、
車両保険などの相手の無い事故には、
保険が降りないこともあると言う感じでした。
主治医に聞くと、あくまでも自己責任で注意して運転してください。
といわれました。アメリカでは、逆に向精神薬を飲まずに、
運転すると違反になるそうです。やはり進んでるな。と思いました。
まあ、若い頃は、湾岸線で200キロぐらい出したり
無謀なこともしましたが、
今は至って安全運転で、免許証もゴールドなので、
普通に車を使っています。
保健所のケースワーカーさんにも皆さんはどうしているのか、
と聞いてみたところ、みなさん障害者手帳を持っていても、
ばんばん運転していますよ。と言うことで、安心して運転しています。
そのほか障害者手帳を持っているメリットは、
104の番号案内が只になる、ふれあい案内とか、
水道料金の割引制度などがあります。
私にとって生きる望みであるコンサートの、
チケットが同伴1名まで、半額になる制度のある、ホールもあります。
平成15年の9月からドコモの携帯電話の基本料金が半額になる、
ハーティ割引と言う制度も活用しています。
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デイケア
退院して、社会保険のいろいろな手続きも終わり、
薬の量も安定してきたこの頃は、軽いそう状態になってしまい、
大きなベッドを買ったり、自分の部屋にブラインドを取り付けたり、
パソコンを買ったり、高いオペラのチケットを買ったり、
スカイラインの改造をしたり。
貰った退職金はあっという間に使い果たしてしまいました。
突然、勉強をしなおそうかと思い立ち、放送大学か、
母校の通信制課程を受講しようかと、
真剣に考えて、入学案内まで取り寄せたりもしました。
週に1回は、主治医と会っていましたので相談すると
生活のリズムをつかむのが、大切だと言う指示がありました。
頑固な不眠が続き、寝る前の薬の強さをどうするか、
朝起きれるようにするにはどうしたら良いか、
又薬を何時飲んだら良いかと言う問題もありました。
起きれる時間がまちまちなので
日に3回の薬を、起きた時間から計算して
時間で飲むことにしました。
朝11時に午前中の薬を飲んだら
5時間後の4時に午後の薬を飲み
9時に寝る前の薬を飲む。と言う感じです。
また、私の場合3回の急性期の経験から、
睡眠の質、食欲はあるか、体重はどうか、
周りの音がうるさくなる事、プッツン切れたとき、などに注意して、
リスパダールとセレネースとレンドルミンを頓服としてもらっていて、
適宜調節しています。
健康な人でも目的の無い生活は自堕落になりがちです。
保健所のデイケアに、毎週金曜日通っていましたが、
ケースワーカーさんから、横浜市総合保健医療センター
と言うところで、週5日デイケアにかよう施設があることを
勧められました。
病院のデイケアは20歳前後までで年齢オーバーでしたが、
主治医も横浜は福祉が進んでいるので、
ぜひ通いなさい。と賛成されました。
平成12年9月からセンターのデイケアに通うことになりました。
20歳から30歳半ばぐらいまでの人がほとんどで
プログラムは、書道・・・一番気に入っています。
陶芸・手工芸・絵画・木工・英会話・週に2回スポーツ
隣に障害者のためのスポーツジムのようなものがあります。
月に1回プロジェクターでレンタル映画をみたり、
お店の厨房ぐらいのコンロやら有って調理をしたり
ゲームや話し合いの時間が有ったり
毎週金曜日は、みんなで決めたイベント
たとえば中華街に行ったりとか
クリスマスにはパーティをしたり
芸術祭というのが有ってグループで音楽をひろうしたり
毎朝起きれて、通っていればお昼の給食は只で食べれるし。
スタッフは10人ぐらいいて、実際に来る人は毎日2,30人ですか。
まあ至れり尽せりというとこです。
ただずっといることができないので、次のステップとして
就労援助プログラムがあります。
よく知らないのですが印刷の仕事みたいです。
そこでうまくできるようになると、受け入れてくれる工場とかに
うまくするとパートとかで働くところまで持っていくそうです。
担当のスタッフと、週に何回通うかとか、
生活の目標を設定して通うことになりました。
朝10時までに受付をすると、
お昼の給食が食べられるようになっているのです。
自宅からバスと電車を乗り継いで1時間15分ほどなので、
8時半には家を出ないと間に合いません。
最初は、午後から参加すると言う形で始めました。
煙草のみ友達もできて、生活のリズムも調子が良くなり、
毎日通うようになった頃、
スポーツプログラムでバレーボールやっているとき、
アキレス腱を不全断裂してしまいました。
半年ほどデイケアを休むことになり、
ホームページを開設したりして、
また昼夜逆転の生活に後戻りしてしまいました。
何度か利用期間の延長をしてもらいましたが、
平成15年の9月には退所する事になりました。
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失業保険
平成11年5月に10年間のサラリーマン人生に
ピリオウドを打ったとき、
失業保険の離職票を会社に発行してもらいました。
離職票の作成は自分でも何度も手続きをしに
ハローワークに通いましたから慣れたものです。
部下の女子社員に、作成の仕方を引き継いだのも自分でしたから、
離職票の本来の有効期間である、
離職してから1年間・・・の延長の仕方も判っていました。
離職事由も、解雇の扱いにはしませんでしたが、
健康上の理由ということで発行してもらいました。
退職してから1ヶ月たった翌日以降に、
まだ病気は治っていないという診断書を持って
ハローワークに受給期間の延長の手続きに行きました。
これで、本来の受給期間である1年間を
プラス3年延長してもらうことができました。
退職してから3年たって、受給期間が1年ほどになった頃、
ハローワークに行ってまだ就職活動はできないが、
何時までに求職の申し込みをすればいいか確認しました。
9月に入って申し込みをすれば良いと言うことが判りました。
主治医に相談もして、正式に分裂病であることをカミングアウトして、
週に20時間程度のパートなら就労可能という
診断書を作ってもらいました。
障害者としての求職の申し込みを平成14年9月9日にしてきました。
障害者の窓口で、障害者手帳のコピーも提出して、
仕事が見つかったらすぐに働く気がありますか?という
シビアな質問もありましたが、
大変緊張をして手が震えながらクリアしてきました。
失業保険を貰うためには、
失業の認定というのを4週間に1回、
受けなければならないのですが、
この認定の際に就職活動をしたと言う証拠を
申告しなければなりません。ちょうどこの年の夏から、
失業の認定の基準が厳しくなって、
インターネットで求人の検索をしました。だけで良かったものが、
月に2回はハローワークに通わなければならなくなりました。
何回かハローワークに通って、
社会保険事務・給与計算のパートの求人も見つかったりして、
私が障害者であることをハローワークの
ケースワーカーさんに電話で確認してもらい、
書類選考に応募したこともありました。
結局、その会社からは断られたのですが。・・・
そのうちに、ケースワーカーさんが社会保険労務士
の資格を取ってみたらどうか。と言ってきました。
10年間のキャリアも生かせるし、
国家資格だから受験勉強をしていれば、
求職活動をした代わりになるのでした。
認定の際、受験勉強をしていたことを申告すればよくなるのです。
合格率10パーセント前後の、今人気の資格でしたので、
やってみることにしました。
11月には、IDE社労士塾という社労士の資格専門の学校の
通信教育を始めました。
8月末の試験までの間、
全部で5〜6万ぐらいの費用を払って勉強しました。
本来ならば、資格取得の受講費用の80パーセントは、
失業保険から出るはずでしたが、
私の場合資格喪失してから3年たっていたので、
この制度は使えませんでした。
結局、平成15年11月15日に社会保険労務士試験センターから
不合格の通知が届きました。110点満点中72点が合格ラインのところ
半分の36点の成績でした。
平成14年9月から平成15年5月までの
8ヶ月間失業保険を貰いました。
障害者は、就職困難者と認められて240日間分がもらえました。
現行の制度では45歳までは300日分出るのですが、
私の場合離職日が改正前でしたので・・・
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分裂病の悲しみ
寝込んでしまった母の糖尿病食を
疲れて仕事から帰ってきて毎日続けながら
家事もこなしているときに、
胃がんの宣告を受けても、心の中にしまっていて
ビールをかけられても殴られてもじっと耐える。
分裂病を発病した私のために
どれ程両親に負担をかけたか
父が単身赴任中の母の目の前で家中のガラスを割ったとき
私を説得して病院に連れて行ったとき
2回もの暴力沙汰を起こしたとき
毎日の生活でも10年間ぴりぴりしていた私を
腫れ物を触るように接していたのかと思うと
どんなに感謝しても仕切れません。
私の父はとても頑迷な性格をしていますが、
とても忍耐強く堅実で頼りになります。
また、とても優しい性格で、小さいころから今まで
手を上げられたことは一度もありません。
その父を、理由はどうあれ両手のこぶしが
痛くなるほど殴り続けたと言う行為は
許されるものではないと思います。
父は主治医から、私が19歳のときに
分裂病の告知を受けていますし、
かっとなりやすい子供のころからの性格も十分承知していたはずです。
なぜ殴られるままでいたのか。
敬虔なクリスチャンである父が
神を信じているからこそできたことなのか。
暴力に対する恐怖もあったと思います。
でも一番大きかったのは、
学生時代に分裂病を発病したのは、
私に対する対応の仕方が間違っていたためだと
後悔の念でいっぱいだったからだと思います。
最近の分裂病に関する本を読むと
この病気は、脳の器質疾患だから、
育て方に問題があったから発病すると言う
因果関係は無いそうです。
父の胃がんの手術も全快して、私のほうも薬が効いてきて、
分裂も寛解状態になり、父と会話が成立するようになったあと
聞いた事ですが、
寝込んでいる母と再発して急性期だった私を残して、
手術が失敗して逝ってしまったら、死ぬにも死に切れない。
さすがの父も手術の前は神に祈り続けたと言うことです。
また、未だバリバリ仕事をしていた頃、
平成8年の誕生日プレゼントにオメガの時計を
父にプレゼントした事があったのですが
父はとてもそれを大切にしていて
胃がんの摘出手術をするときにも
どうしてもはずそうとしないで、大変だったと妹から聞きました。
愛と憎しみは隣りあわせと言います。
20年近く分裂病を抱えて同居しているのですが
私が優しい言葉をかけたり、気持ちがわかったり
家族である父も、私の将来の心配も含めて
安らげるといいと思います
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きずな
妹は、一番私を理解してくれる存在です。
病状の悪いときは、きっとひどい事をしただろうと
とても怖い思いがしますが、
ここ5年ぐらいの間に今までにないほど仲良くなりました。
私はほとんど家にいて時々コンサートに行くぐらいなので、
インスタントメッセージでおはようの挨拶をしています。
この前プッツン切れて小皿を10枚ほど割ってしまい
また、再発したのかと心配になり相談すると
私が調子が悪くなった時はすぐわかるそうです。
今は違うから大丈夫とのことでした、
再発した時は、一番物を言いやすい妹に向かって
おまえはおかしいから、O先生に見てもらったほうが良いよ
とか、家族の気になっていたところを指摘するようになるそうです。
自分ではそういう状態に移行している事は
ぜんぜん気づかないので、回りで理解してくれる家族がいるのは
大変心強いです。