吠える。吠える。吠える。  けたたましい遠吠えが森中に響き渡っていく。  音は木々を打ち、月明かりに濡れる森を揺らす。  声の中心。そこには、獣がいた。  大型の狼に似たそれは、苦痛を訴えるかのように慟哭をし続ける。 「……騒がしいよ」  静かな声が、しかし叫びを切り裂くように流れていく。  少女が、そこにいた。  140cmに満たないであろう小柄な少女は、背の高い木と草が広がる森の中に今に も埋もれてしまいそうだ。  身に纏うフリルとレース、リボンが大量にあしらわれた青の混じった黒衣もその体躯 と相まって、夜闇の中ではそこに何もないかのように映るだろう。  しかし、獣はそうは思わなかったようだ。少女のつぶやきが流れた途端、叫び声が止 んでいた。  顔の半分を覆っているあまり可愛げがあるとは言えない丸眼鏡と、不機嫌さを隠そう ともしない雰囲気が無ければ、間違いなく少女は美人に属するものだろう。  異常に伸びた黒髪は互いに逃げ合うようにあっちこっちへ跳ね回り、手入れなどまる でされていないことが明白だが、不思議と汚らしいとは思えない。  その髪の毛を指でいじりながら、少女は獣に近づく。 「ねぇ君。泣くんならもっと人がいるところでやってくれないかなぁ……。この辺りは ボクの散歩コースなん……うわっ」  少女は理不尽な文句を並べたてようとするが、意に介さずに獣は突進する。  両の爪を使ったそれは、むなしく空を切る。 「人が話している間に攻撃。マナー違反だよ」  獣の背後。さっきまで獣が立っていた場所に少女はいた。  そのことに獣が気付いたのと同時。少女は動く。  獣の目の前にニヤニヤと笑顔を浮かべた少女が出現する。直後、顎、そして腹部への 衝撃が走った。  自分が中空に飛ばされていたのを認識するが、少女の攻撃は終わりでは無かった。  顔面への踏み付け。落下しつつも抵抗を試みるも、紐状の何かが獣を縛り上げる。獣 は地上へ無理な姿勢で叩きつけられ、鈍い音をあげながら地面へめり込んでいく。  獣は動かない。少女は鬱陶しそうにそこから飛び降りると、獣を見もせずに服の埃を 払う。  軽いあくびをしながら元来た道を引き返していく少女だったが、その足は数歩で止ま ることになる。 「しぶといんだね……ひひひ」  後ろを振り返った彼女には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。  笑顔の先には、半分潰れたような顔を少女に向けた獣。  ヲヲヲォォォォォォ――ッ!  咆哮とともに獣の眼前が歪み、"何か"が少女に射出される。  ほんの僅かに顔を笑みを崩した少女は、高速で迫りくる"何か"をまるでハエでも払う かのように弾いた。 「……魔術?」  少女が呟く。だがそれ以上の余裕は少女には無かった。同様の"何か"が無数に迫って いたからだ。  時には手で払い、時には体を揺らし、少女は"何か"を避け続ける。避けながら考え事 をしているようだった。  その間も叫びは続く。叫びに呼応するかのように空間は次々と捻られ、"何か"を生 成、射出していく。  獣の反撃は止まない。  大音量の声に答えるように、獣の後方が"断絶"する。  千切れた空間。そこから四本の鎖が擦れる音を立てながら飛び出た。鎖はまるで蛇の 用に先端を振り、一斉に少女の方向を向く。刹那の静止、そして殺到する鎖。  "何か"をさばいている少女に迫る鎖の群れ。それは少女の体を貫く……かに見えた。  ……髪の毛。少女の長すぎる髪の毛が鎖を抑えている。叩き落とされ、縛り上げられ た鎖は耳障りな音を立てるのが精一杯だった。 「あー、もしかして……」  少女は何かに気付いたようだ。「めんどくさいなぁ」と呻きながら、ひたすら"何か" を射出しながら新たな鎖を出そうとする獣へ向かい、翔けた。  "何か"の隙間。小さい体を最大限生かした移動で、真横へ回り込む。  ほぼ獣に密着した状態になった少女は、両腕を獣の横っ腹に当てる。 「お休み」  獣の意識は、そこで途絶えた。  朝。  朝は憂鬱だ。  面倒だから明日に回そう。と思ったことをやらなくてはいけないからだろうか。  単純に寝起きが悪くて頭が痛いだけだからかもしれない。  ともかく、朝は憂鬱なのだ。  ふかふかベッドから上半身だけ起こす。……さて、確か昨日は面倒事を明日に回した 記憶があるのだが……残念ながら、朝のボクのふわふわした思考は記憶のサルベージに は適していない。  なんだったろうかと考えていると、視界が少しぼやけていることに気付く。  ボクは、視力が悪い。裸眼だと……どうだろう、鼻頭を本で挟むぐらいに近づけない と物が見えない。  とはいえ普段はちょっとした『ウラワザ』で正常な人間よりも良好な視界を確保して いる。普段付けている眼鏡もお洒落用になっているぐらいだ。  その『ウラワザ』が今日に限って調子が悪い。……なんだろう、面倒事と関係がある ような。……繰り返すが朝は中々思い出せないものなのだ。  体を完全に起こして、ベッドから降りる。全身をほぐすついでに『ウラワザ』……人 術を実行する。  ほのかな温かさがボクを包み、一般的な人間の視力を取り戻す。気だるさが残ってい た体中も、何度もの寝返りの犠牲になったくしゃくしゃの髪も少しだけマシになってい く。見なくても判るが、部屋に備え付けられている鏡を覗けば、そこには年中無休の麗 しさを誇るボクが映ることだろう。  それほど今夜は寝苦しくは無かったが、それでも少しは汗をかいている。とりあえず 洗い流して一緒に頭をすっきりさせようと部屋を出る。  ボクの寝室は家の二階をすべて占拠しており、部屋の外はすぐ階段だ。あちらこちら に本が置かれて大人が通れるか通れないかの道を下って行く。こういう時小さい自分の 便利さを実感する。  階段を降りると、その先は……本の山だ。一つのソファーを除いては本、本、本。ど こを見ても本だらけ。本に埋もれる部屋を見てボクは幸福の笑みを浮かべる。  ああ、なんて素晴らしきブック・ワールド。世界は本で満ちている。ひひひひひ。  と、そこでボクは書物の世界に一つだけ異物が紛れ込んでいることに気づいた。  "それ"と視線が合う。女の子。一人の女の子だ。  なんていうか、幼い印象を受ける。しかし完璧に幼い少女とは言い難い。言うならば ギリギリ幼女かもしれないけど、仮にそのレベルが幼女だとがっかりする感じ……だろ うか。  そんな女の子が、何故か何も着用せずにソファーの上で横になっていた。  ボクと同じで今起きたばかりだと思われる彼女はその証に、半分寝惚けたようなまな こを向けている。推察では見開かれるとくりくりして可愛らしいのではなかろうか。  そして、彼女のボサボサの頭の上に付く二つのモノ、微妙にぴょこぴょこ動くそれら は、なんていうか、犬の耳。イヌミミだ。  昨夜の記憶がフラッシュバックする。……そうだ、彼女が昨日の面倒事だった。  今後について頭を抱えていると、唐突に目の前の女の子は覚醒を遂げる。 「!」  パッと目を見開く。全身を使って周囲を見渡し、最後に遠慮のない視線をボクにぶつ けた。 「だ、誰ですか!?」  どうも昨日の出来事は覚えていないらしい。……ボクだけ面倒だったこと覚えている なんて不公平ではないだろうか。 「あー、えっと、そうだね」  仕方ないから説明をしてやろうと一歩前に進む。女の子は軽く後ずさろうとするがソ ファーの背もたれと無数の本が邪魔で下がるところなどあるはずがない。 「こ、こないでください!」 「いや、ボクは……」  素っ裸で震えている可愛い子はちょっとイイかもしれない。……なんて思いつつ一 歩、また一歩と近づいて行く。  女の子は逃げ道を探そうとして……ようやく自分が何も服を纏っていないことに気づ いたようだ。顔を真っ赤にしてなんだか目に見えて慌てだした。良く判らない感じに腕 を振ったり、視線をあっちこっちに向ける。  挙句の果てには、ボクと自分を見比べて、 「て、手遅れですかっ!?」 「いや何もしてないからね!?」  ……助けて、損したかなぁ。  ボクは、混乱して右往左往する女の子を宥めることにした。  警戒心全開の彼女と対するのは中々に面倒だったが、飲み物を用意したり、着る物を 用意したり、右斜め上45度で殴打したりしていたらどうやら落ち着いたようだ。ちゃ んとソファーに腰を下ろしている。 「言ってみればボクは君の恩人なわけだよ、おーけー?」 「は、はぁ……?」  今は現在の状況について軽くレクチャーしてあげている最中だ。  ボクも着替えを終えて普段着であるフリルとレース、リボンだらけの黒青装束になっ ていた。  ちなみにボクの前で頭を痛そうに押さえている彼女も同じような服装。  彼女は必死に「そんなコテコテの少女趣味な服は嫌です!」などと拒否を示していた けど、この家には残念ながらボク好みのそんな服しか無いのだ。素っ裸と嫌な服の二択 を迫られた彼女は、仕方なしに袖を通したという。  ……そんなに嫌かなぁ、可愛いと思うんだけど。  じっと見つめた。 「な、何です……?」  顔は……まぁ、及第点。  くりくりしたやや大きい漆黒の目が幼さを表現している。  これまた黒い髪の毛は肩ぐらいまでかかっており、上の方で一つくくっていた。ちな みに髪留めの代わりにリボンを使わないかというボクの意見は却下された。  これが昨夜の獣と同一存在であるということを疑いたくなるほどに細く華奢な体躯を ボクとほとんど同じデザインの服が覆っている。 「いやいや、何でもないよ。うん」  じっと女の子から放たれる疑惑の眼差し。  ボクは眼鏡を軽く撫でながら何食わぬ風を装った。  しばらく微妙な空気が流れた後。これ以上の追求には意味が無いと思ったのだろう。 彼女はため息を吐く。 「えっと、それで……何でしたっけ? 私が犬になってあなたに襲いかかったけど、あ なたはそれを撃退して元の人間の姿に戻して、このまま放置するよりかはと家に連れ帰 った。ですか?」 「まぁ、細部は違うけどね。主にボクに対する形容詞が足りない」  可愛いとか美しいとか綺麗だとか美麗だとかが。  女の子は何があったのか呆れ顔を浮かべつつ、 「……色々言いたいことはありますけど。なんで私が犬になってるんですか?」 「いや、それをボクに聞かれてもねぇ」  むしろボクが気になる。 「人術の暴走だとは思うんだけど……獣になっちゃうような暴走か……」  指で髪の毛を絡み取りながら頭を巡らす。  人術は最も単純な反面。術に対する適正が高すぎると無意識で過剰な力を振り回して しまうことは多々ある。訓練もしていないような一般人なら尚更だ。  だが、理性を失った上に肉体が変容してしまう程となると……うーん。 「何か心当たりとか、そういうのは無いの? 人術の最大出力チキンレースをしようと していたとか。人体変容でマーメイドー、をやろうとしてたとか」  マーメイドごっこならボクもやった記憶がある。  実際にやってみるとちょっとグロテスクなんだよね、アレ。しかも体の感じが違うか らむしろ泳ぎにくいし。  女の子を見ると、戸惑いの表情を浮かべ、人差し指で頬を撫でていた。ああ、やっぱ り人に言えないような馬鹿な真似でもしていたんだろうかと納得する。  ゆっくり数秒溜めて、女の子は言葉を発した。 「…………人術って何ですか?」  ……。  …………。  知らない?  マジで?  ボクは昔から呆気に取られた表情を頻繁に浮かべていた。とはいえその大半が本当に 呆気に取られているわけではなくて、馬鹿だなぁひひひひひと嘲りを埋め込んだもの だ。  きっと、今のボクの顔は本当に呆気に取られたときの顔だろう。  ……いやいや、落ち着け。案外最近の教育課程では術のことなんて教えていないのか もしれない。ボクが教育機関に在籍していたことなんてもう大分前のことだし。  日常生活でも意識して術を使っている者は少ないって言うし。子供が危険な術を振り 回して危ないから情報規制を敷いているのかもしれないな、うん。  しかし、術は歴史にも関わることである。なんとなく目の前の事態から逃避してみた が、何ですか? なんていうのはありえない。  本物の馬鹿か、それとも……。  あはは、と女の子は困った声を漏らした。 「どうもなんだか、記憶が曖昧みたいでして……」  肉体が変貌するほどの暴走だから記憶に影響があっても不思議は無いのだが。  ……だからってそんなことまで忘れなくてもいいのに。  ボクは頭を押さえると、頬を撫でる仕草がアホっぽく見えてきた彼女に対する説明を 開始することにした。