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観心覚夢鈔(対訳)
序説
夫れ、菩提を得んと欲せば、すべからく自心を知るべし。
さて、覚りを得ようとするのであれば、かならず自己の心を知らなければならない。
之を知るは、寔に唯識の教門にあり。
これを知ることができるのは、まさに唯識の教えにおいてです。
求法の人、誰か学ばざらんや。
真理を求める人ならば、どうして学ばないでよいことがあろうか。
但し、文義広博にして、頓に学ぶこと能わず。
しかし、教えの内容が幅広いので、短期間で学び取ってしまうことはできない。
今、略中の略を取りて、聊かその旨趣を示さん。
そこで今、略中の略を取って、ほんの少し、その内容を明らかにしたいと思う。
一つめは重要視する経典。二つめはお釈迦様が御一生のどの時期に、どのような教えを説かれたか。三つめは百法二空。四つめは四分の説明。五つめは三類境の意味。六つめは種子の熏習。七つめは十二縁起。八つめは三種類の自性について。九つめは三種類の無自性について。十には二諦が互いに依存しあっていること。十一には二重の中道。十二には唯識の道理。十三には刹那におさめられること、これらです。
第一章 重要視する経典
唯識疏に云く、「六経を爰引す。所謂、華厳と深密と如来出現功徳荘厳と阿毘達磨と楞伽と厚厳となり」と。
『述記』に、「六つのお経を引用する。すなわち華厳経と解深密経と如来出現功徳荘厳経と大乗阿毘達磨経と楞伽経と厚厳経とである」とある。
ゆえに六経を以て本経と為すなり。
これより、六つのお経を根本のお経とするのです。
但し、この六経の中、解深密経を以て殊にその本と為す。
しかし、これら六経の中でも『解深密経』を特にその根本のお経とする。
正しく唯識の三性、十地因果の行位を明かす、了相大乗中道教のゆえなり。
正しく唯識の三性と、十地の修行の次第を明らかにしている、一つ一つをはっきりと説き示す、大乗仏教中道の教えだからです。
また、荘厳経と阿毘達磨経とおよび厚厳経とは未渡の経なり。唯識論の中には、数、その文を引く。
また、荘厳経と阿毘達磨経とおよび厚厳経とは日本にはまだ伝わっていないお経です。しかし唯識学の論書の中で、しばしば、そのお経の文章が引用されている。
問う。若ししからば深密の説処と教主と対揚等とは何ぞや。
問う。それでは『解深密教』が説かれた場所と、教えの教主と、その相手とはどのようであったのか。
答う。説処は華蔵世界なり。
答える。説かれた場所は蓮華蔵世界です。
教主は盧舎那佛なり。
教えの教主は、盧舎那佛です。
対揚は法雲、究竟なり。
相手は、第十地の法雲地の菩薩と、究竟位の佛陀の方々です。
義理は中道了義なり。
内容は中道の完全に明らかにされた教えです。
皆、経に見ゆ。
すべてお経に書かれています。
長きがゆえに載せず。
長くなるので省略します。
第二章 お釈迦様の御一生における教えと、その時期
第一節 先徳の教判の批判
古来の諸徳、教を判ずること同じからず。
昔の先人たちの仏様の教えの整理の仕方は、一つではありません。
或は一時教を立て、或は二時教を立て、乃至、或は五時教を立つ。
ある者は、時期を分けずに教えを説かれたと唱え、ある者は二つの時期に分けて教えを説かれたと唱え、ないし、ある者は五つの時期に分けて教えを説かれたと唱えました。
これらの所立は皆教文なければ、依用すること能わず。
これらの所説は、どれも(根拠となる)お経の教文がないので、採用することはできません。
ゆえに『義灯』に云く、「一、二、四、五時教を立てること、聖教の文なければ、並びに依るべからず」と。(正文見るべし)
ですから『了義灯』で言っています、「一、二、四、五時教を立てるのは、聖なる経文による裏付けがないので、どれも採用してはいけない」と。(原文参照)
第二節 三時の教判
(1)総 説
宗家の意は、『解深密経』によって三時教を立つ。
法相宗の教義では、『解深密経』によって、三つの時期に分けて教えを説かれたものと主張します。
是を以て、彼の「無自性品」を披くに、勝義生菩薩、有・空両経の相違を挙げて如来に請問す。
そこで、その「無自性品」を開いてみると、勝義生菩薩が、有を説いている経典と、空を説いている経典とにおける教えの違いを取り上げて、お釈迦様に教えを請うています。
世尊、これに答えて一代教の大意を演べて、その相違を会したもう。
世尊は、これにお答えになって、一生の間に説かれた教えを大まかにのべられて、それらの違いを説明なされました。
文言繁長なり。
しかし、その説明は大変長いものです。
略を取りて、意の云く
よって省略して、その旨趣を言いますと、
遍計と依と円との三性に依止して、次いでのごとく相と生と勝義との三種の無性を建立す。
遍計所執性と依他起性と円成実性との三性を根拠として、順番に、相と生と勝義との三種の無自性性を立てます。
相無性とは遍計所執なり。
相無自性性とは、遍計所執性についてのものです。
体性都無にして、譬えば空華のごとくなれば相無性と名づく。
本体や本性は全く存在しないものであり、たとえば眼の病気の人に見える、目の前にちらつく毛や花のようなものなので、相(姿)無自性性と名づけます。
生無性とは、依他起性なり。
生無自性性とは、依他起性についてのものです。
無自然性なり
つまり自然にあるようなものはない、ということです。
譬えば幻事のごとくなれば生無性と名づく。
たとえるならば、マジック(手品)のようなものなので生無自性性と名づけます。
勝義無性とは、一切諸法は法無我にして、衆相を遠離す。
勝義無自性性とは、一切の存在は実体のないものであり、姿形から全く離れています。
譬えば、虚空のごとくなれば勝義無性と名づく。
たとえるならば、大空のようなものなので勝義無自性性と名づけます。
かくのごとき三種の無性によるがゆえに、我、説いて一切諸法皆無自性と言う。
これらのような三種類の無自性性によって、私は説いて、すべての存在は皆、実体がないというのです。
相無性の空と、および勝義無性の自性、凝然常住の義とによるがゆえに、我また説いて無生無滅、本来寂静、自性涅槃と言う。
あるいは相無自性性の空的な性格と、勝義無自性性の本性の不変・常住的な性格、この(両方の)道理によって、私はまた説いて、生じることもなく、滅することもなく、本来寂静であって、ものの本性そのものは涅槃であると言い、
生無性の依他の体に依るがゆえに、我また説いて五蘊、四諦等の種々法という。
生無自性性における依他起的存在の本体によって、私はまた五蘊、四諦などのさまざまなことがらを説いたのです。
ゆえに前後の説、相違せざるなりと(言わんとす)。
したがって、相前後して説いたことは、矛盾するわけではありません(このようにおっしゃった)。
時に勝義生菩薩、深く領解を生じて一代諸教に有・空・中道の三時教を立つ。
このとき勝義生菩薩は、深く納得して、お釈迦様の御一生の教えを、有・空・中道の三つの時期に分けることを提案しました。
そのとき、如来、これを嘆印したもう。
そのとき、お釈迦様は、これを賛嘆してお認めになりました。
初時教とは、所謂、如来、初めに一時において施鹿林にありて、諸々の声聞のために広く蘊・諦等の諸々の善巧を説きたもう。
初時教とは、お釈迦様が最初に、一時、施鹿林(ミガダーヤ)におられたときに、多くの弟子たちのために広く五蘊、四諦等のさまざまな巧みな教えをお説きになったことを言います。
これすなわち正しく生無自性の依他の諸法に当たる。
これは、まさに生無自性性における依他起性のさまざまなことがらに当たります。
その義、最浅なるがゆえに小機に対して最初にこれを説きたもう。
その道理が最も浅いものであるために、初心者に対して最初に、これをお説きになりました。
第二時とは、如来、在昔、諸の菩薩のために鷲嶺等において、広く諸法皆無自性、無生無滅、本来寂静、自性涅槃と説きたもう。
第二時とは、お釈迦様が昔、諸の菩薩たちのために霊鷲山等において、広く一切の存在は皆、実体がないこと、生じることもなく、滅することもなく、本来寂静であり、本性において涅槃である、とお説きになったことを言います。
これすなわち正しく三無性門に当たる。
これは正しく三無自性性の法門に当たります。
これ、猶、総説隠密教のゆえに中根の器に対して漸次にこれを説きたもう。
これはなお、正論ではあるが、初心者にはなかなかわかりづらい教えであるために、中級
レベルの素質の者に順次これをお説きになりました。
已上の二教は、また希奇なりといえども、皆、隠密のゆえにこれを諍論安足の処所と名づく。
以上の二つの教えは大変貴重ですばらしい教えでありますが、どちらにも隠されているところがあるので、したがってこれを論争の起こりやすい場所と名づけます。
第三時とは、如来、今、華蔵界等において、広く遍計等の三性によって三種の無性を建立するの旨を説きたもう。
第三時とは、お釈迦様が、今、蓮華蔵世界等において、広く遍計所執性等の三性を根拠として、三種の無自性性を立てられる趣旨をお説きになっています。
具足して空・有の諸法を顕了したもう。
空と有の教えを、二つながら揃えて公にされています。
これすなわち最極円満教のゆえに、普く一切乗の者のために、これを説きたもう。
これは最高に円満な教えであるために、普く一切の宗教修行者のために、これをお説きになっているのです。
如来所有の密意尽く顕れて永く諍論を離る。
お釈迦様のすべての真意が尽く顕れていて、永遠に論争を離れています。
ゆえに無諍無容の教と名づく。
このゆえに争いがなく、疑問の余地のない教えと名づけます。
是れ、その三時教の大綱なり。
これらが、三時教の大綱であります。
(2)三時教の名前の由来
然るに仏、教を設くるの由来は、但し、これ義理浅深の次第なり。
しかし、お釈迦様がさまざまな教えを設けられる由来は、道理に浅いものから深いものまでの順序があるからです。
謂わく、有は最浅のゆえに初めにこれを説き、乃至、非空非有は最深のゆえに第三に説く。
すなわち、有の教えは最も浅いものであるために、初めにこれを説き、非空非有の教えは最も深いものであるために、三番目にこれをお説きになったのです。
かくのごとく、その義理の浅深をもって機に随って説くとき、自ら年月を経て前後次第す。
このように、その浅い、深いのある道理を、相手の資質にしたがって説くとき、自ずと年月を経て、前後の順序ができます。
この経る所の年月の時を取ってもって名号となし、三時教と号す。
この浅から深へと次第に進んでいく年月の時をとって、それを名前として、三つの時期のある教え(三時教)とよびます。
ゆえに由来を尋ぬれば義理の浅深なり。
したがって名前の由来を尋ねれば、それは道理の浅深であります。
その名号を論ずれば年月の次第なり。
名前を論じたならば、それは年月の進み行きであります。
彼の理の浅深もまた年月の義に違せざるがゆえに、名と義と相当して、教時能く成ずるなり。
さらに道理の浅深もまた年月の意味に合致するので、名前と意味とがマッチして、教えの時期に関することがらがうまく成立するのです。
是を以て『華厳』を第三時に摂し、および、『遺教経』を初時に摂する等、皆、相違せざるなり。
これらのことから、(お釈迦様が悟りを開かれた直後に説かれ、深い内容を持った)『華厳経』を第三時に割り当て、(お釈迦様が亡くなられる直前に説かれ、比較的浅い内容を持った)『遺教経』を初時に割り当てるなどしても、何も間違いはないのです。
(3)名前と意味とが合致することについて
問う。義理の浅深、時の名に違せずとは、その意、如何。
問う。道理の浅深が時期の名前とうまくマッチするとは、いかなる意味であろうか。
答う。『瑜伽抄』の中に、彼の『本論』所説の時死・非時死の文を釈すらく、「時とは道理の義。或は、時分に応可するの義なり」と。
答えます。『瑜伽師地論略纂』の中で、本論(『瑜伽論』)で説かれている、寿命で死ぬことと、それ以外の死(事故死)についての文を注釈して、「時とは道理という意味、あるいは時分にかなっているという意味である」とあります。
「時」の言、本と道理の義を兼ねること、その旨、分明なり。
「時」という言葉が、もともと道理という意味を兼ね備えているという趣旨が明らかに見て取れます。
これすなわち、「時」とは分位・相称・剋性の義なるがゆえに道理に亘るなり。
これは、「時」が分位、相適っていること、刻む性質という意味を持っているから、道理(道筋)という意味に通じるのです。
ゆえに、その専らとするところは、年月の時をもって名づけて三時教と為すといえども、その「時」の言の中、自ずから三重の道理を含むなり。
したがって、もともとは年月という意味の−時−から名づけて三時教とするのだけれども、その「時」という言葉の中に自ずから、三重の(浅深の)−道理−を含んでいるのです。
第三節 法相宗でのもう一つの教判
加之、宗家、諸教を判ずるに、大いに二門あり。
それに加えて、法相宗の祖師方が、さまざまな宗派の教えを判定する場合、大きく二つに分けます。
所謂、頓悟門は、ただ一時教を立つ。
いうところの頓悟門(即座に悟りを開く方法論を提供する宗派)では、ただお釈迦様は時期を分けることなく教えを説かれたと説きます。
頓悟の人は一切の教を聞いて中道を悟るがゆえに。
頓悟(即座に悟る)の人は、すべての教えを聞いて中道を悟るからです。
これすなわち、佛の意は、初時に有と説くも中道の有なり、これ三性の中の依・円の有のゆえに。
これはどういうことかというと、仏様の意図されたことは、初時に有を説かれたとしても、これは中道の有なのです。というのも、この有は三性の中の依他起性・円成実性の有であるから。
第二時の空も、また中道の空なり。
第二時で説かれた空も、また中道の空なのです。
これ三性の中の所執の空のゆえに。
これは三性の中の遍計所執性が空である、という意味での空であるから。
頓悟の前には三時の別無し。
というわけで、頓悟の前では、三つの時の区別はないことになります。
二に漸悟門はすなわち三時教なり。
二つめに漸悟門(順序を追って時間をかけて悟りを開く方法論を提供する宗派)においては、三つの時期に、それぞれの教えがあります。
漸悟の人は、根、漸熟のゆえに、有・空・中道の三時の悟解にその階級あり。
順番を追って悟っていく人は、素質的にいって、次第に成熟していくタイプなので、有・空・中道の三時における悟りに階級があるのです。
ゆえに佛は、かならず三重の教を説くなり。
したがって仏様はかならず三段階に教えを分けて説かれるのです。
是を以て、阿含、般若、深密等の次第は、専らこれ漸機の前の教相なり。
ここから、阿含経、般若経、解深密経等の順番は、ひとえに順序を追って悟りを開く人々の前にある教えの姿なのです。
このゆえに、之を以て三時の本と為す。
このゆえに、これが三時ということが言われる、そもそもの大本であることがわかります。
然り而して、時教を安立の習い、教として尽きざることなし。
このようなわけで、教えをさまざまな時期に分ける場合には、いかなる教えでも、かならず、どこかの時期に割り当てられることになるのです。
ゆえに必定して華厳等を摂するなり。
したがって、かならず『華厳経』等も、どこかに収められることになります。
ゆえに頓悟の門には一代の諸教を皆一時に摂す。
したがって、頓悟の宗門においては、お釈迦様の御一生の諸の教えを、すべて、一時におさめ尽くします。
漸悟門の中には、一代の諸教を皆三時に摂す。
漸悟の宗門においては、お釈迦様の御一生の諸の教えを、すべて、三時に収めます。
彼此欠くることなく、義・道、円満す。
いかなるものも欠けることなく、意味内容と道理とが円満に整合します。
第三章 百の存在と二つの空
第一節 総 説
夫れ百法は、空執を遣らんが為なり
百の存在を立てるのは、空(何もない)というこだわりを退けるためです。
二無我は、有執を遣らんが為に施設する所なり。
二つの無我を立てるのは、有(ある)というこだわりを退けるためです。
第二節 百法総説
まず百法を論ずるに、略して五法と為す。
まず百の存在を論ずるに先だって、これらを略して五つのグループとします。
一には心法
一つめは心のグループ。
梵に質多という。
サンスクリット語でチッタといいます。
此に名づけて心と為す。
これを訳して心と名づけます。
是れ積集の義、集起の義なり。
これには「積み重なった集まり」という意味と、「集まり起こる」という意味があります。
二には心所有法。
二つめは心所のグループ。
心が家の所有なれば心所有と名づく。
心という家の所有物であるので、心所有と名づけます。
三には色法。
三つめは物質のグループ。
質礙を義と為す。
何らかの質を持ち、それがその空間を特徴づけ、他の存在を排除する、という意味です。
四には心不相応行法。
四つめは心に対応しない行に属するグループ。
行はすなわち行蘊なり
行というのは行蘊(意志の集まり)のことです。
行蘊に二あり。
行蘊に二種類があります。
謂わく、相応行と不相応行となり
すなわち、心に対応する行と、心に対応しない行とです。
今は前に簡ぶがゆえに不相応と名づく。
今は前者ではないので不相応と名づけます。
五には無為法。
五つめは無為(因果法則に含まれないもの)のグループ。
為とは作の義なり。
為というのは作るという意味です。
此の法、常住にして造作を離るるがゆえに名づけて無為と為す。
このグループに属するものは常住であって、作ったり作られたりという生成過程とは無関係であるので無為と名づけるのです。
この中、心王は一切に最勝なるがゆえに、心所有法はこれと相応するがゆえに、その諸の色法は心王と心所との所現の影なるがゆえに、不相応行は心と心所と色との位の差別なるがゆえに、諸の無為法は心と心所と色と不相応行との顕示する所なるがゆえに、是の如く次第す。
この中で、心王はすべてのものの中で最も勝れているため、心のはたらき(心所)は、この心王に結びつけられて(対応して)いるため、さまざまな物質は、心と心のはたらきの中に現れる影であるため、不相応行は心と心のはたらきと物質とから抽象されたものであるため、無為のグループに属するさまざまなものは、心と心のはたらきと物質と不相応行のグループに属するものたちにおいて、顕示されるものであるため、これらの理由からこのような順番になっています。
(1) 心王
第一、心法に略して八種あり。
一番目の心に属するグループには、略して八種類のものがあります。
(五識の起こるときには、意識はかならず起こる。
(五識が起こるときには、意識もかならず起こっています。
意識起こるときは五(識)、必ずしも起こらず。
意識が起こる際には、五識は必ずしも起こっているとは限りません。
五識もまた、すなわち必ずしも倶起せず)
五識どうしも、また、必ずしも同時に起こるとは限りません)
1、眼識
一には眼識。
一つめは眼識です。
眼根に依止して、四顕色を縁ず。
眼を依り所として、四つの色(青・黄・赤・白)を対象とします。
別種の所生なり。
別に種子があって、そこから生じます。
三性に通ず。
善・悪・そのいずれでもない(無記)の三つの性質を持つ可能性があります。
欲と初禅とにあり。
欲界と初禅界にあります。
四の所依あり。
四つのものから影響を受けます。
一には眼根。
一つめは眼。
二には意識。
二つめは意識。
三には末那。
三つめは末那識。
四には頼耶なり。
四つめは阿頼耶識です。
若し三量を論ずれば、ただ、是れ現量なり。
もし三量(対象を認識する三つの方法)を論じれば、直知(直接的知識)のみです。
相応の心所は三十四あり。
対応している心のはたらきには三十四種類があります。
然れども、同時にあらず。
けれども、すべてが同時に働くわけではありません。
爾許相応す。
若干のものが応対して働きます。
下に明かすがごときなり。
それは以下に示すとおりです。
2、 耳識・鼻識・舌識・身識
二には耳識。
二つめは耳識です。
耳根に依止し、声を縁じて境と為す。
耳を依り所として、音を縁じて対象とします。
乃至、相応の心所の数等は上の識に明かすがごとし。
以下、対応する心のはたらきの数等は、上の識のところで説明しておいたとおりです。
三には鼻識。
三つめは鼻識です。
鼻根に依止し、香を縁じて境と為す。
鼻を依り所として、香りを縁じて対象とします。
余は上に説くがごとし。
そのほかのことは上で説明したとおりです。
但し界繋は、ただ欲界にのみあり。
ただ、それが存在する世界の条件としては、欲界のみに限られます。
四には舌識。
四つめは舌識です。
舌根に依止し、味を縁じて境と為す。
舌を依り所として、味を縁じて対象とします。
余はまた、上のごとし。
そのほかは上と同じです。
五には身識。
五つめは身識です。
身根に依止し、触を縁じて境と為す。
身を依り所として、感触を縁じて対象とします。
余はまた、上のごとし。
そのほかのことは上と同じです。
但し界繋は眼・耳識に同じ。
ただ存在する世界の条件としては眼識・耳識と同じです。
3、 意識
六には意識。
六つめは意識です。
意根に依止し、法を縁じて境と為す。
心の根を依り所として、物事を縁じて対象とします。
法とは、すなわちこれ一切諸法なり。
物事とは、つまり一切のもの、ということです。
意根とは、すなわちこれ第七末那なり。
心の根とは、第七番目の心である末那識のことです。
別種の所生なり。
別に種子があって、これより生じます。
三性に通じ、三界繋に通ず。
善・悪・そのいずれでもない無記に通じ、三界いずれの世界の条件をも満たします。
二の所依あり。
二つのものから影響を受けます。
意根と第八となり。
心の根である第七末那識と第八アーラヤ識とからです。
三量に通ず。
直知、記述知(言語的知識)、間違った認識の三つの認識方法により対象を認識します。
一切の心所、みな、相応することを得。
一切の心のはたらきに対応しています。
然れども同時にあらず。
しかし同時にというわけではありません。
下に明かすがごとし。
以下で説明するとおりです。
4、 末那識
七に末那識。
七番目は末那識です。
ここに意識という。
和訳をすると意(マナ)識となってしまいます。
第六は依主なり。
六番目の心である意識における意+識は、依主釈というサンスクリット語での修飾関係にあり、意(末那)に依存する識という意味になります。(例:社会人=社会の人)
これは持業のゆえに、二は各別なり。
こちらの識は持業釈という修飾関係にあり、意即識という意味で、二つは別物です。
(例:スター選手=スターである選手)
恒に審らかに思量すること、余識に勝るがゆえに別して末那と名づく。
断絶することなく審細に思量(マナ)することが、他の識より勝っているので、特に末那識(思量する識)と名づけるのです。
別種の所生なり。
別に種子があって、それより生じます。
ただ有覆性なり。
善悪の性質からは、汚れている(覆っている)無記の性質に属します。
三界繋に通ず。
三界いずれの世界にも属することが可能です。
第八を依と為す。
第八アーラヤ識から影響を受けます。
ただこれ非量なり。
これはもっぱら誤った認識しかしません。
但し、第八の見分を縁じて境と為す。
ひたすら第八アーラヤ識の見分を縁じて対象とします。
十八の心所、同時に相応す。
十八種類の心のはたらきが同時に働いています。
5、 アーラヤ識
八には阿頼耶識。
八番目はアーラヤ識です。
ここに翻じて蔵と為す。
和訳すると蔵となります。
能蔵と所蔵と執蔵との義のゆえに名づけて蔵識と為す。
収蔵するはたらき・収蔵される場所・愛着される蔵、このような意味によって蔵識と名づけられます。
別種の所生なり。
別に種子があって、それより生じます。
ただ無覆性なり。
ひとえに汚れていない無記の性質です。
無覆性の中に四無記あり。
汚れていない無記の性質に四つの無記があります。
1、異熟無記…前世の果報としての心
2、威儀無記…(歩いたり、立ったり)普通の動作をしている心
3、工巧無記…仕事中の心
4、通果無記…神通力を起こす心
この識は、ただこれ異熟無記なり。
この識の無記の性質は、ひとえに異熟無記(過去の行為の果報としての無記)です。
三界繋に通ず。
三界いずれの世界の条件にも当てはまります。
第七を依と為す。
第七末那識からの影響を受けます。
ただこれ現量なり。
ひとえに、この識の認識方法は直知のみです。
三種の境を縁ず。
三種類の対象を縁じます。
種子と五根と器界、これなり。
種子(個人的無意識)と五つの感覚器官(身体)と、われわれの住む世界(集合的無意識)、これらのものです。
相応の心所は、ただこれ五数なり。
対応している心のはたらきは五種類だけです。
凡そ一切法の能生の種子は、皆、今、この蔵識の中に在り。
ありとある一切のものを生み出す種子は、すべて、ただいま現在、この蔵識の中にあります。
(2) 心のはたらき
第二は心所。
第二番目は心のはたらきです。(注:心のはたらきが起こって初めて、心は目覚めます。)
略して六種あり。
略して六種類があります。
(心王起こるとき心所かならず起こる。
(心王が起こるときには、心のはたらきも、かならず起こります。
心所起こるとき、心王かならず起こる。
心のはたらきが起こるときには、心王も、かならず起こります。
一聚に約して論ず。
したがって、これらを一つのまとまりとして論じることができます。
1、遍行に五あり。
1、遍行の心のはたらきには五種類があります。
一切心の中に定めて得べきがゆえに、名づけて遍行と為す。
すべての心の中に、かならず含まれているので、遍行と名づけられています。
2、別境に五あり。
2、別境の心のはたらきには五種類があります。
別々の境を縁じて而も生ずることを得るがゆえに、名づけて別境と為す。
それぞれ別々の対象を縁じて生じるので、別境という名前があたえられています。
3、善に十一あり。
3、善の心のはたらきには十一種類があります。
ただ善心の中に生ずることを得べきがゆえに、これを名づけて善と為す。
善心の中にのみ生じることができるので、これを善と名づけます。
4、煩悩に六あり。
4、煩悩の心のはたらきに、六種類があります。
性、これ根本煩悩の摂なるがゆえに、煩悩の名を得。
性質が根本煩悩に含められるので、煩悩という名を得ました。
5、随煩悩の中に二十種あり。
5、随煩悩の中には二十種類のものがあります。
ただこれ煩悩の等流性のゆえに随煩悩と名づく。
これらは根本煩悩より流れ出たものなので、随煩悩と名づけます。
6、不定に四あり。
6、不定の心のはたらきには四種類があります。
善・染等において、皆、不定のゆえに不定の名を立つ。
善性であるか、汚れたものであるかなど、どれも決まっていないので、不定という名前があります。
1、 遍行
遍行の五とは謂わく(今、この五種の心は定めて倶起す)
遍行の五つの心のはたらきとは(これら五種の心はたらきは、かならず同時に起こります)
一に作意。
一つめは喚起です。
心を警するをもって性と為し、所縁の境において心を引くをもって業と為す。
心を目覚めさせることが本性であり、縁じている対象の上に心を引くことがはたらきです。
別種の所生なり。
別に種子があって、それより生じます。
三性と三界と三量と八識に通じて相応す。
善悪等の三つの性質と、三つの世界と、三つの認識方法と、八つの心に、すべて対応しています。
然れども、その所依と所縁と性と界と量等は、皆、一聚の心王に同じ。
そのとき、その影響を受けるもの、その対象、善悪の性質、所属する世界、認識方法などは、すべて、一つのあつまりの心王と同じです。
二に触。
二つめは接触です。
三和、変異、分別して、心・心所を境に触れしむるをもって性と為し、受・想・思等の所依たるをもって業と為す。
感覚器官と対象とを心に和合し、変異・分別させることによって、心と心のはたらきとを対象に接触させることが本性であり、感受・想い(概念)・意志等に影響をあたえることがはたらきです。
別種と三性等は前の法のごとし。
種子が別にあることや、三つの善悪などの性質等は、前のものと同じです。
三に受。
三つめは感受作用です。
順と違と倶非の境相を領納するをもって性と為し、愛を起こすをもって業と為す。
心に受け入れたい(楽)、受け入れたくない(苦)、そのどちらでもない(不苦不楽)、このような対境の姿を、心に迎え入れることを本性とし、愛着を起こすことがはたらきです。
別種、性等は前の法のごとし。
別の種子があることや性質などは前と同じです。
ここにおいて五受を開く。
これに五種類の感受作用があります。
憂と苦と喜と楽と捨となり。
憂いと苦しみと喜びと安楽と中庸です。
四に想。
四つめは概念(言語作用)です。
境において像を取るをもって性と為し、種々の名言を施設するをもって業と為す。
対象から、ひとまとまりの像を取り出すことが本性であり、さまざまな概念を作り出していくことが、はたらきです。
余はまた前のごとし。
そのほかのことは上と同じです。
五に思。
五つめは意志作用です。
心をして造作せしむるをもって性と為し、善品等において心を役するをもって業と為す。
心に働きかけて行動を起こさせようとすることが本性であり、善行動などに心を駆り立てることが、はたらきです。
余はまた上のごとし。
そのほかのことは上と同じです。
2、別境
別境の五とは(今、此の五法は必ずしも倶起せず。
別境の五つの心のはたらきとは(これらの五つのはたらきは、必ずしも同時に起こるわけではありません。
或は一、或は二、乃至五倶なり。
あるいは一つだけ。ある場合は二つ。ないし五つがすべて一緒にということもあります。
総、別、合して三十一句あり。
全体を合わせると三十一のパターンがあることになります(2の5乗−1)。
一に欲。
一つめは意欲です。
所謂、所縁の境において希望することをもって性と為し、勤の依たるをもって業と為す。
縁じられた対象に対して希望することが本性であり、精進に影響をあたえることがはたらきです。
別種の所生なり。
別に種子があって、それより生じます。
三性と三界と三量と六識に通じて相応す。
善悪等の三つの性質と三つの世界と三つの認識方法と六識に、すべて対応します。
七・八識を除く。
第七末那識と第八アーラヤ識は除きます。
その所依等は一聚の王に同じ。
その影響を受けるものなどは、ひとまとまりの心王と同じです。
二に勝解。
二つめは確信です。
謂わく、決定の境において印持するをもって性と為し、引転すべからざるをもって業と為す。
すなわち、決定された対象を心に留め保持することを本性とし、もう動かすことができないことがはたらきです。
別種所生等はまた前の法のごとし。
別に種子があること等は、また前のものと同じです。
三に念。
三つめは、記憶(注意)です。
所謂、曽習の境において、心をして明記して忘れざらしむるをもって性と為し、定の依たるをもって業と為す。
かつて人から習った対象に対して、心がそれを記憶して忘れさせないようにすることが本性であり、禅定に影響をあたえることがはたらきです。
余は前の法のごとし。
そのほかのことは前と同じです。
四には三摩地。
四つめは禅定です。
所観の境において、心をして専注して散ぜざらしむるをもって性と為し、知の依たるをもって業と為す。
観じている対象の上に心を専注させて、他に向けさせないことが本性であり、智慧に影響をあたえることがはたらきです。
余は前のごとし。
そのほかは前と同じです。
五に慧。
五つめは智慧です。
所謂、所観の境において簡択するをもって性と為し、疑を断ずるをもって業と為す。
観じている対象の上で選び分けることが本性であり、疑いを断じることがはたらきです。
七識に通ず。
これは七つの心に対応します。
第八を除く。
第八アーラヤ識は除きます。
余はまた前のごとし。
そのほかは前と同じです。
3、 善
善の十一とは、(この中、軽安を除いて余の十は、かならず倶起す)
善の心のはたらきの十一とは、(この中、軽安を除いて、そのほかの十種類は、かならず同時に生じます)
一に信。
一つめは信仰心です。
所謂、実と徳と能とにおいて、深く忍し、楽し、欲して、心をして浄ならしむるをもって性と為し、不信を対治して善を楽うをもって業と為す。
真実と有徳の人と善がもっている力能とを、深く認め、憧れ、欲して、心を清浄にさせることが本性であり、不信仰を治して、善に向かわせることがはたらきです。
別種の所生なり。
別の種子より生じます。
ただこれ善性なり。
ひとえに善の性質のものです。
三界繋に通ず。
三界いずれの世界にも対応します。
定めて現・比に通じ、六識に通ず。
直知と記述知のみに対応し、六識に通じます。
七・八識を除く。
第七末那識と第八アーラヤ識は除きます。
所依等は一聚の心王に同じ。
影響をあたえるもの等は、ひとまとまりの心王と同じです。
二に精進。
二つめは精進です。
謂わく、善と悪との品の、修と断との事の中において勇悍なるをもって性と為し、懈怠を対治して善を励むをもって業と為す。
すなわち、善事と悪事を、それぞれ修し断じることの中で、勇敢であることが本性であり、怠け心を治し、善事に励むことがはたらきです。
余は前の法のごとし。
そのほかは前と同じです。
三に慚。
三つめは慚愧のはたらきです。
所謂、自と法との力に依って賢善を崇重するをもって性と為し、無慚を対治して悪行を止息するをもって業と為す。
自らの良心、あるいは教えと真理の力によって、賢く善いことを尊重することを本性とし、慚愧の心がないことを治して、悪を行うことを止めることがはたらきです。
余はまた前のごとし。
そのほかは前と同じです。
四に愧。
四つめは羞恥心です。
所謂、世間の力に依って暴悪を軽拒するをもって性と為し、無愧を対治して、悪行を止息するをもって業と為す。
いわゆる世間の目によって、暴悪を軽く払い除けることが本性であり、羞恥心のないことを治して、悪を行うことを止めることがはたらきです。
余はまた前のごとし。
そのほかは前と同じです。
五に無貪。
五つめは貪らない心のはたらきです。
謂わく、有と有具とにおいて著なきをもって性と為し、貪著を対治して善をなすをもって業と為す。
すなわち、生存と生存をもたらすもの(煩悩と業)に対して執着がないことが本性であり、貪りの心を治し、善を行うことがはたらきです。
余はまた前のごとし。
そのほかは前と同じです。
六に無瞋。
六つめは怒らない心のはたらきです。
謂わく、苦と苦具とにおいて、恚ることなきをもって性と為し、瞋恚を対治して善をなすをもって業と為す。
苦しみと苦しみをもたらすものに対して、怒らないことを本性とし、怒りの心を治し、善を行うことがはたらきです。
余はまた前のごとし。
そのほかは前と同じです。
七に無癡。
七つめは愚かでない心のはたらきです。
謂わく、諸の理と事において明解するをもって性と為し、愚痴を対治し、善を作すをもって業と為す。
すなわち、さまざまな道理あるいは事柄を、明了に理解することが本性であり、愚かさを治し、善を行うことがはたらきです。
余はまた前のごとし。
そのほかは前と同じです。
(已上の三法を三善根と名づく)
(以上の三つ[無貪・無瞋・無癡]を三善根という)
八に軽安。
八つめは軽安という心のはたらきです。
謂わく、麁重を遠離して、身・心を調暢して堪任するをもって性と為し、こん沈を対治して依を転ずるをもって業と為す。
重たい心から離れ、身と心をのびのびと軽やかにし、やすやすと事を運ばせることを本性とし、沈んだ心のはたらきを治し、心を根本的に転換させることがはたらきです。
余はまた前のごとし。
そのほかは前と同じです。
但し二界にありて、欲界においてはなきなり。
ただし、この心のはたらきは色界・無色界の二界にのみあって、欲界にはありません。
九に不放逸。
九番目は専念の心のはたらきです。
精進と三善根との断じ修する所において、防し修するをもって性と為し、一切の世・出世間の善事を成満するをもって業と為す。
精進と三善根とが、(悪を)断じたり修行したりするときに、(悪を)防ぎ、修行する作用が本性であり、すべての世間的・宗教的な善事を完成させることがはたらきです。
別の種子なし。
別に(精進と三善根以外の)種子があるわけではありません。
三界に通ず。
三つの世界に対応しています。
余は上の法のごとし。
そのほかのことは上と同じです。
十に行捨。
十番目は高ぶりのない平静な心のはたらきです。
謂わく、精進と三根の心をして平等に正直に無功用に住せしむるをもって性と為し、掉挙を対治し、静住するをもって業と為す。
精進と三善根の心を、平等に正直に、そして無理をしないスムーズな状態にさせることが本性であり、騒ぎ立つ心のはたらきを治し、静かな生活を導くことがはたらきです。
また別種なし。
やはり別に種子があるわけではありません(精進と三善根の種子があるのみです)。
余はまた前のごとし。
そのほかは前と同じです。
十一に不害。
十一番目は害さない心のはたらきです。
諸の有情において損悩を為さず、無瞋なるをもって性と為し、能く害を対治して悲愍するをもって業と為す。
すべての生きとし生けるものに対して損なったり悩ましたりせず、怒ることがないことが本性であり、傷つけようとする心を治し、同情し憐れむことがはたらきです。
別の種子なき等はまた前の法のごとし。
(無瞋以外の)別に種子がないことなどは、また前と同じです。
無瞋は、これ慈、不害は、これ悲なり。
無瞋の心のはたらきは慈しみであり、不害の心のはたらきは哀れみです。
4、 煩悩
煩悩の六とは、(この六、これを開いて十煩悩と名づく。
煩悩の心のはたらきの六つの種類とは、(これらの六を拡張して十煩悩と名づけます。
下に明かす所のごとし。
以下に説明するとおりです。
この十煩悩は、或は倶起するあり。
これらの十煩悩は、あるものは同時に生じることもあります。
或は倶起せざるあり。
あるものは同時に生じない場合もあります。
種々不同なり。
さまざまであって同じではありません。
『唯識論』第六巻に明かすがごとし。
『成唯識論』第六巻に説明されてあるとおりです。
然るに無明起こるに余は必ずしも起こらず。
しかし無明が起こるときには、他のものは必ずしも起こるとは限りませんが、
若し余の起こるときには、無明かならず起こる。
そのほかのものが起こるときには、無明はかならず起こっています。)
一に貪。
一つめは貪りの心のはたらきです。
所謂、有と有具とにおいて染著するをもって性と為し、能く無貪を障えて苦を生ずるをもって業と為す。
すなわち、生存と生存をもたらすものに対して心が離れず愛着することを本性とし、貪らない心のはたらきを妨害して、苦を生じさせることをはたらきとします。
別種の所生なり。
別に種子があって、それより生じます。
不善と有覆との二性に通じ、三界繋に通じ、三量に通じ、七転識に通ず。
不善と汚れた無記の二つの性質に通じ、三つの世界に通じ、三つの認識方法に通じ、七つの転変する心に通じて対応します。
第八を除く。
第八アーラヤ識は除きます。
所依等は一聚の心王に同じ。
影響をあたえるもの等は一つのあつまりにおける心王と同じです。
二に瞋。
二つめは怒り。
所謂、苦と苦具において憎恚するをもって性と為し、能く無瞋を障え、不安と悪行との所依たるをもって業と為す。
苦しみと苦しみをもたらすものに対して、憎しみ怒ることが本性であり、怒らない心のはたらきを妨害し、不安と悪い行いに影響をあたえることがはたらきです。
別種の所生なり。
別に種子があって、それより生じます。
ただこれ不善なり。
ひとえに不善の性質のものです。
ただ欲界のみにあり。
欲界のみにあります。
三量に通じ、六識に通ず。
三つの認識方法に通じ、六つの心に通じます。
七・八識を除く。
第七末那識と第八アーラヤ識は除きます。
所依、縁等は心王に同じ。
影響をあたえるもの、対象などは心王と同じです。
三に慢。
三つめは慢心。
所謂、己を恃んで、他において高挙するをもって性と為し、能く不慢を障え、苦を生ずるをもって業と為す。
自分自身に得意になって、他者に対し思い上がった態度を取ることが本性であり、慎みの心のはたらきを妨害し、苦しみを生じさせることがはたらきです。
別種の所生なり。
別に種子があって、それより生じます。
不善と有覆無記とに通じ、三界繋に通ず。
不善と汚れのある無記とに通じ、三つの世界に通じます。
定めて現量にあらず。
直知では決してありません。
六・七識に通ず。
第六意識と第七末那識に通じます。
五・八識を除く。
五つの(感覚的)心と第八アーラヤ識は除きます。
余は上の法のごとし。
そのほかのことは上と同じです。
所依等はまた一聚の王に同じ。
影響をあたえるもの等は、また、一つのまとまりの心王と同じです。
この中において七慢と九慢とを開く。
この中で、さらに七つの慢心と九つの慢心に拡張することができます。
四に無明。
四つめは無明です。
謂わく、諸の理と事において迷暗なるをもって性と為し、能く無癡を障え、一切の雑染の所依たるをもって業と為す。
さまざまな道理や事柄に対して、よくわからないことが本性であり、愚かでない心のはたらきを妨害し、すべての雑多な汚れに影響をあたえることがはたらきです。
種子と三性と界繋等は上に同じ。
種子と三つの善悪などの性質と属する世界などは上と同じです。
三量に通じ、七転識に通ず。
三つの認識方法に通じ、七つの転変する心に通じます。
第八識を除く。
第八アーラヤ識は除きます。
所依等はまた一聚の王に同じ。
影響をあたえるもの等はまた、ひとまとまりの心王と同じです。
五に疑。
五つめは疑いの心のはたらきです。
所謂、諸の諦と理とにおいて、猶予するをもって性と為し、能く不疑の善品を障うるをもって業と為す。
さまざまな真実、道理にたいして猶予することが本性であり、善である疑わない心のはたらきを妨害することがはたらきです。
種子と三性と界とはまた上に同じ。
種子と三つの善悪などの性質と所属する世界とは、また上と同じです。
定めて現・比にあらず。
直知・正しい記述知では決してありません。
ただ第六にのみあり。
ただ第六意識にのみあります。
余は上の法のごとし。
そのほかは上と同じです。
六に不正見。
六つめは正しくない意見を持つことです。
諸の諦と理において顛倒推度する染慧をもって性と為し、能く善見を障え、苦を招くをもって業と為す。
さまざまな真実・道理にたいして、誤って考える汚れた智慧を本性とし、善なる正しい意見を妨害し、苦しみをもたらすことがはたらきです。
別の種子あることなし。
(誤った智慧のほかに)別に種子があるわけではありません。
性と界とは、また上に同じ。
三つの性質と所属する世界とは、また上に同じです。
ただこれ非量なり。
これはただ誤った認識です。
ただ六・七にのみあり。
ただ第六意識・第七末那識にのみあります。
五・八識を除く。
五つの(感覚的な)心と第八アーラヤ識は除きます。
余はまた上のごとし。
そのほかのことは上と同じです。
開いて五見と為す。
より詳しくいうと誤った意見は五つとなります。
今、この五見はかならず倶起せず。
今のこれらの五つの意見は、決して同時には起こりません。
一に薩伽耶見。
一つめは身体があると思う意見です。
謂わく、五取蘊において我・我所と執し、一切の見趣の所依たるをもって業と為す。
すなわち、(色、受、想、行、識の)五つの執着の集まりにたいして、それを「私である」とか「私のものである」とかと執着することにより、すべての誤った意見に影響をあたえることがはたらきです。
二に辺執見。
二つめは極端な意見です。
謂わく、即ち彼において随いて断と常とを執し、処中の行と出離とを障うるをもって業と為す。
つまり、人間が死んだ後、無となる、あるいは永遠となるということにこだわって、中道の修行や、この世界からの解脱を妨害することがはたらきです。
三に邪見。
三つめは不正な意見。
謂わく、因果と作用と実事とを謗すると、および四見にあらざる諸余の邪執となり。
因果の道理や実際に働いている作用や本当のことを批判したりすること、および他の四つの間違った意見以外の、すべての不正なこだわりとです。
四に見取。
四つめは間違った思い込みです。
謂わく、諸見とおよび所依の蘊とにおいて、執して、最勝にして能く清浄を得と為す。
さまざまな間違った意見や(そのような意見を持っている)自分に執着して、これらを、最も勝れたものであり、清浄な境地が、よく得られているとみなすことです。
一切の闘諍の所依たるをもって業と為す。
すべての争い事に影響をあたえることがはたらきです。
五に戒禁取。
五つめは間違った思い込みによる宗教的戒律や修行。
謂わく、諸見に随順せる戒禁とおよび所依の蘊とにおいて、執して、最勝にして能く清浄を得と為す。
さまざまな間違った意見に従った戒律や修行、および(そのような戒律や修行を行っている)自分に執着して、これらを、最も勝れたものであって、清浄なる境地が、よく得られているとみなすことです。
無利の勤苦の所依たるをもって業と為す。
無益な勤苦に影響をあたえることがはたらきです。
5、 随煩悩
随煩悩の二十とは、(この二十の中、或は倶起するあり、或は倶起せず。
副次的煩悩の二十種類とは、(この二十の中、あるものは同時に生じることもあり、あるものは同時に生じないこともあります。
下に分別するがごとし。)
下に解説しているとおりです。)
一に忿。
一つめは短気。
所謂、現前の不饒益の境にたいするに依って、憤発するをもって性と為し、能く不忿を障え、杖を執るをもって業と為す。
目の前の気に入らない対象に面することによって、短気を起こすことが本性であり、短気を起こさないことを妨害し、棒を手に取ることがはたらきです。
これ瞋の分位にして別の種子なし。
これは怒りの心のはたらきの一部であって、(瞋の種子よりほかに)別に種子があるわけではありません。
ただ不善性なり。
もっぱら不善の性質です。
ただ欲界繋なり。
ただ欲の世界にのみ存在します。
定めて現量にあらず。
決して直知ではありません。
ただ第六にあり。
ただ第六意識にのみあります。
所依・縁等は一聚の王に同じ。
影響をあたえるもの・対象等は一あつまりの心王と同じです。
二に恨。
二つめは恨み。
所謂、忿を先とするによって、悪を懐いて捨てず。
短気がもととなって、よからぬ気持ちが捨てられません。
怨を結ぶをもって性と為し、能く不根を障え、熱悩するをもって業と為す。
恨むことが本性であり、恨まないことを妨害し、悩み苦しむことがはたらきです。
また瞋の分位にして別種なき等は上の法に同じ。
これもまた怒りの心のはたらきの一部であって、別に種子があるわけではない等は、上と同じです。
三に悩。
三つめは悩ませることです
所謂、忿と恨とを先となし、追触、暴熱して很戻するをもって性と為し、能く不悩を障え、蛆螫するをもって業と為す。
短気と恨みの心のはたらきがもととなって、それを思い返し、かっかして、性格がひねくれてしまうことが本性であり、悩まさないことを妨害し、ちくちくと嫌がらせをすることがはたらきです。
また瞋の分位にして別種なき等は上の法に同じ。
これもまた怒りの心のはたらきの一部であって、別に種子があるわけではない等は、上と同じです。
四に覆。
四つめは罪を隠すことです。
所謂、自作の罪において利誉を失わんことを恐れて隠蔵することをもって性と為し、能く不覆を障え、悔悩するをもって業と為す。
自分が作った罪を、利益・名誉を失うことを恐れて、ひた隠しにすることを本性とし、隠さないことを妨害し、後悔することがはたらきです。
貪と癡の分位にして別種なき等は、また上の法に同じ。
貪りと愚かさの心のはたらきの一部であって、別に種子があるわけではない等は、上と同じです。
五に誑。
五つめは、たぶらかしです。
所謂、利誉を獲んが為に、矯く有徳を現じて、詭詐するを性と為し、能く不誑を障え、邪命を業と為す。
利益・名誉を得ようとして、偽って徳のあるふりをして人をだますことが本性であり、たぶらかさないことを妨害し、間違った生活を送ることがはたらきです。
不善と有覆無記とに通じ、欲と初禅とに通ず。
不善性と汚れた無記とに通じ、欲界と初禅界とに通じます。
余はまた上と同じ。
そのほかのことは上と同じです。
六に諂。
六つめは、へつらいです。
所謂、他を網せんがためのゆえに、矯く異儀を設けて険曲なるをもって性と為し、不諂と教誨とを障うるをもって業と為す。
他人を罠にかけるために、偽って、心にもないことを言ったりやったりして、性格が極度に曲がっていることを本性とし、へつらわないことや、他人の忠告を妨害することがはたらきです。
余はまた上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
七にきょう。
七つめは驕りです。
所謂、自の盛事において深く染著を生じて、酔傲なるをもって性と為し、能く不きょうを障え、染の依たるをもって業と為す。
自分が他人より勝れている所を、深く自慢に思い、酔いしれ、傲慢となることを本性とし、おごり高ぶらないことを妨害し、汚れのもととなることがはたらきです。
これ貪の分位なり。
これは貪りの心のはたらきの一部です。
三界に通ず。
三つの世界に通じます。
余は上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
八に害。
八番目は暴力です。
所謂、諸の有情において心に悲愍することなく、損悩することをもって性と為し、能く不害を障え、逼悩するをもって業と為す。
さまざまな生き物に対して心に憐れむことがなく、害を加え、悩ますことが本性であり、暴力を加えないことを妨害し、危害を加えることがはたらきです。
これ瞋の分位なり。
これは怒りの心のはたらきの一部です。
ただ不善性なり。
もっぱら不善の性質です。
ただ欲界繋なり。
ただ欲の世界のみにあります。
余はまた上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
九に嫉。
九番目は嫉妬の心のはたらきです。
所謂、自の名利を殉め、他の栄に耐えずして、妬忌するをもって性と為し、能く不嫉を障え、憂しゃくするをもって業と為す。
自分の名利をもとめるがゆえに、他者の栄誉に耐えることができず、妬むことを本性とし、ねたまないことを妨害し、憂い煩うことがはたらきです。
余はまた上に同じ。
そのほかのことはまた、上と同じです。
十に慳。
十番目は物惜しみの心のはたらきです。
所謂、財と法とに耽著し、慧捨すること能わずして、秘りんするをもって性と為し、能く不慳を障え、鄙畜するをもって業と為す。
財産、あるいは教えに深く愛着し、賢く喜捨することができず、心密かにためらうことが本性であり、物惜しみしないことを妨害し、卑しく蓄えることがはたらきです。
これ貪の分位なり。
これは貪りの心のはたらきの一部です。
余はまた上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
(已上の十法は各別に起こるがゆえに、小随惑と名づく)
(以上の十法は別々に起こるので、小随惑と名づけます)
十一に無慚。
十一番目は慚愧心がない心のはたらきです。
自と法とを顧みずして、賢・善を軽拒するをもって性と為し、能く漸を障礙して、悪行を生長するをもって業と為す。
自分の良心と真理の教えとを顧みず、賢く善なるものを簡単に払い除けることを本性とし、慚愧心を妨害して、悪い行ないを助長することがはたらきです。
別種の所生なり。
別に種子があって、それより生じます。
ただ不善性なり。
ひとえに不善の性質です。
ただ欲界繋なり。
ただ欲の世界のみにあります。
三量に通じ、六識に通ず。
三つの認識方法に通じ、六つの心に通じます。
七・八識を除く。
第七末那識と第八アーラヤ識は除きます。
所依等はまた一聚の心王に同じ。
影響をあたえるもの等は、一つにまとめている心王と同じです。
十二に無愧。
十二番目は恥を知らない心のはたらきです。
世間を顧みず暴悪を崇重するをもって性と為し、能く愧を障礙して悪行を生長するをもって業と為す。
世間を顧みず、道理をはずれた悪を称え重んじることが本性であり、恥じる心を妨害して、悪い行いを助長することがはたらきです。
余は上の法のごとし。
そのほかのことは上と同じです。
(已上の二法は、不善に遍ずるがゆえに中随惑と名づく)
(以上の二つは、すべての不善の心に伴うので中随惑と名づけます)
十三に不信。
十三番目は不信仰です。
実と徳と能とにおいて、忍し、楽し、欲せず、心を穢するをもって性と為し、能く浄心を障え、惰の依たるを業と為す。
真実と有徳の人と善の力にたいして、認め、憧れ、欲することなく、心を穢すことを本性とし、清らかな心を妨害し、怠け心に影響をあたえることがはたらきです。
別種の所生なり。
別に種子があって、それより生じます。
不善と有覆無記に通じ、三界繋に通ず。
不善性と汚れた無記とに通じ、三つの世界に通じます。
通じて七識にあり。
七識を通して存在し得ます。
第八識を除く。
第八アーラヤ識は除きます。
余は上の法のごとし。
そのほかのことは上と同じです。
十四に懈怠。
十四番目は怠け心です。
善と悪との品の、修と断との事の中において、懶惰なるをもって性と為し、能く精進を障え、染を増するをもって業と為す。
善いこと、悪いことを、修し、断じることにおいて、怠惰であることを本性とし、精進を妨害し、心の汚れを増加させることがはたらきです。
余はまた上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
十五に放逸。
十五番目は勝手気ままな心のはたらきです。
染と浄との品において、防し修すること能わずして、縦蕩なるをもって性と為し、不放逸を障え、悪を増し、善を損するの所依たるをもって業と為す。
汚れたこと、清らかなことを、防ぎ、修行することができず、勝手気ままであることが本性であり、専念することを妨害し、悪を増し善を損なうことに影響をあたえることがはたらきです。
懈怠と貪と瞋と癡の四の分位なり。
怠け心と貪りと怒りと愚かさの四つの心のはたらきの一部(抽象されたもの)です。
別の種子なし。
別に種子があるわけではありません。
余はまた上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
十六にこん沈。
十六番目は沈んだ心のはたらきです。
心をして境において無堪任ならしむるをもって性と為し、能く軽安と毘鉢舎那とを障うるをもって業と為す。
心を対象にたいして不適応な状態させることが本性であり、軽安の心のはたらきとヴィパッサナー(観の修行)とを妨害することがはたらきです。
別種の所生なり。
別に種子があって、それより生じます。
余はまた上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
十七に掉挙。
十七番目は落ち着かない心のはたらきです。
心をして境において寂静ならざらしむるをもって性と為し、能く行捨と奢摩他(止の修行)とを障うるをもって業と為す。
心を対象にたいして寂静でない状態にさせることが本性であり、中庸の心と禅定を妨害することがはたらきです。
余はまた上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
十八に失念。
十八番目は不注意。
諸の所縁において明記すること能わざるをもって性と為し、能く正念を障え、散乱の所依たるをもって業と為す。
さまざまな対象において、きちんと記憶(注意=確認)することができないことが本性であり、正しい注意を妨害し、注意散漫に影響をあたえることがはたらきです。
念と癡との分位にして、別の種子なし。
記憶(注意=確認)と愚かさとの一部であって、別に種子があるわけではありません。
余はまた上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
十九に不正知。
十九番目は正しく知らないことです。
所観の境において謬解するをもって性と為し、能く正知を障え毀犯するをもって業と為す。
観じている対象において間違って理解することが本性であり、正しく知ることを妨害し損なうことがはたらきです。
慧と癡との分位にして別の種子なし。
智慧と愚かさの一部(間違った智慧)であって、別に種子があるわけではありません。
余はまた上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
二十に心乱。
二十番目は心が注意散漫である心のはたらき。
諸の所縁において心をして流蕩せしむるをもって性と為し、能く正定を障え、悪慧の所依たるをもって業と為す。
さまざまな対象にたいして、心を散漫ならしめることが本性であり、正しい禅定を妨害し、間違った智慧に影響をあたえることがはたらきです。
別種の所生なり。
別に種子があって、それより生じます。
余は上に同じ。
そのほかは上と同じです。
(已上の八法は、染心に遍するがゆえに大随惑と名づける。染心と言うは、不善と有覆なり)
(以上の八つは、すべての汚れた心に伴うものであるから大随惑と名づけます。汚れた心というのは不善性と汚れた無記のことです)
6、 不定
不定の四とは、(此の四法の中、初めの二法、および後の二の随一は、ある時は倶起す。
不定の四つの心のはたらきとは、(これらの四つの中の初めの二つと、後の二つの中の一つは同時に生じることもできます。
後の二、相望んでかならず倶起せず)
しかし後の二つは、お互いが同時に生じることはありません)
一に睡眠。
一つめは眠気の心のはたらきです。
謂わく、不自在、昧略ならしむるをもって性と為し、観を障うるをもって業と為す。
すなわち、身体の自由を奪い、心をはっきりとさせなくするのが本性であり、ヴィパッサナーの修行の妨害をすることがはたらきです。
別種の所生なり。
別に種子があって、それより生じます。
三性に通ず。
三つの心の性質(善、悪、無記)に通じます。
ただ欲界繋なり。
ただ欲の世界のみにあります。
定めて現量にあらず。
決して直知ではありません。(注:睡眠とは何かを考えることであると捉えられている)
ただ第六にあり。
ただ、第六意識にのみあります。
所依・縁等は一聚の心王に同じ。
影響をあたえるもの・対象等は、一あつまりの心王と同じです。
二に悪作。
二つめは後悔です。
所作の業を悪んで追悔するをもって性と為し、止を障うるをもって業と為す。
自分の行った行いを悔やんで後から後悔することが本性であり、禅定の修行を妨害することがはたらきです。
余はまた上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
三に尋。
三つめは粗い思考作用。
所謂、心をして、そう遽ならしめ、意言の境において麁に転ぜしむるをもって性と為す。
すなわち、心を浮き足立たしめて、心の中でのつぶやきの中で、粗雑に心を引き回すことが本性です。
思と慧との分位にして別の種子なし。
意志作用と智慧の心のはたらきの一部であって、別に種子があるわけではありません。
欲と初禅とに通じ、三量に通ず。
欲の世界と初禅の世界とに通じ、三つの認識方法に通じます。
余は上に同じ。
そのほかは上と同じです
四に伺。
四つめは繊細な思考作用。
所謂、心をして、そう遽ならしめ、意言の境において細に転ぜしむるをもって性と為す。
心を浮き足立たしめ、心の中でのつぶやきの中で繊細に心を引き回すことがはたらきです。
中間禅に通ず。
中間禅(初禅と第二禅との間の禅定の世界)に通じます。
余はまた上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
この二は倶に、安と不安とに住する身心の分位の所依たるを業と為す。
この二つはともに、安定したり不安定になったりする身心の一部に影響をあたえることがはたらきです。
(尋伺は一体同用にして、ただ麁と細とを異にするのみ)
(粗い思考作用と繊細な思考作用とは、本体もはたらきも同じものであって、ただ粗雑であるか、繊細であるかの違いがあるだけです)
(3) 物 質
第三に色法
三番目は物質です。
(略して十一種あり。)
(略して十一種類があります)
1、 五つの感覚器官(五根)
一に眼。
一つめは眼です。
照了と導との義なり。
明らかに照らすもの、そして(諸識を)導くものという意味です。
分位の法にあらず。
抽象されたものではありません。
別種の所生なり。
別に種子があって、それより生じます。
眼識の所依、羅耶の所変なり。
眼識に影響をあたえるものであり、アーラヤ識が変化しもの(相分)です。
第六意識、ある時はまた、これに依り、ある時はまた、これを縁ず。
第六意識は、ある時は、これから影響を受け、ある時は、これを対象とします。
謂わく、五識と倶なる意識は、これに依り、独頭はこれを縁ず。
すなわち、五つの(感覚的な)心と同時に生起した意識(五倶の意識)は、これから影響を受け、独り生起した意識(独頭の意識)は、これを対象とします。
本質は皆、これ羅耶の所変なり。
本質(=七転識の対象の依り所=前五識→器界、意識→アーラヤ識の見分・器界・五根、末那識→アーラヤ識の見分)は、すべて、アーラヤ識が変化したものです。
二に耳。
二つめは耳です。
所謂、能聞の義なり。
聞く能力という意味です。
耳識の所依なり。
耳識に影響をあたえるものです。
自余は上に同じ。
それ以外は上に同じです。
三に鼻。
三つめは鼻です。
所謂、能臭の義なり。
嗅ぐ能力という意味です。
鼻識の所依なり。
鼻識に影響をあたえるものです。
四に舌。
四つめは舌です。
所謂、能嘗の義なり。
味わう能力という意味です。
舌識の所依なり。
舌識に影響をあたえるものです。
五に身。
五つめは身体です。
所謂、積集と依止との二義なり。
集まったものという意味と(諸感覚器官の)依り所という二つの意味があります。
身識の所依なり。
身識に影響をあたえるものです。
一一の余義は、眼・耳根に同じ。
それぞれのほかの項目は眼根・耳根と同じです。
以上の五法を名づけて五根と為す。
以上の五つを五根と名づけます。
根は増上、出生の義なり。
根というのは勝れたもの、生み出すものという意味です。
眼等の識のために威勢となるがゆえに。
眼などの心に力をあたえるものだからです。
2、 色
六に色。
六つめは、色(いろ)です。
所謂、一には顕色なり。
(さらに細分すると)一つめは、明らかな色です。
謂わく、青、黄等なり。
青色や、黄色などです。
分位の法にあらず。
抽象されたものではありません。
各別の種より生ず。
それぞれ別々の種子より生じます。
その本質は羅耶の所変なり。
その本質はアーラヤ識が変じたもの(器界)です。
影像は、すなわちこれ眼識の所変なり。
見える姿は、眼識が変じたもの(相分)です。
第六意識も、ある時はまた縁ず。
第六意識も、時に、これ(本質と影像)を対象とします。
二は形色なり。
二つめは形です。
謂わく、長、短等なり。
すなわち長い、短いといったものです。
三には表色なり。
三つめは動きです。
謂わく、行、住等なり。
すなわち動いている、止まっているといったことです。
今、この形と表とは別の種子なし。
この形とか動きとかに、別に種子があるわけではありません。
第六識の境なり。
第六意識の対象です(→独影境)。
七に声。
七つめは音です。
所謂、因執受と因不執受と、および因倶生と可意と不可意と倶相違となり。
すなわち、生物が発声する音と、無生物が発声する音と、生物と無生物とが協働して発声する音と、さらに快い音と、不快な音と、快でも不快でもない音とです。
今、この六種は皆、別種ありて分位の法にあらず。
今のこの六種類の音は、すべて別に種子があるものであり、(種子のない)抽象されたものではありません。
(注:抽象されたもの、すなわち仮法は、意識の抽象化作用によって生み出されるものであり、種子から生み出された果ではなく、独頭の意識によって生み出されるものです。独頭の意識には見分の種子はありますが、相分には別に種子はありません。しかし注意すべき点は仮法はそれでも依他起性であり、さらに抽象度の高い、都無の法である遍計所執性とは区別されます。→独影境)
その本質は第八の所変なり。
その本質はアーラヤ識の変じたもの(器界)です。
影像は、すなわちこれ耳識の所変なり。
その姿は耳識が変じたものです。
第六意識も、ある時は、また縁ず。
第六意識も、時には対象とすることがあります。
八に香。
八番目は香りです。
所謂、好、悪、平等の三なり。
よい香り、悪い香り、普通の香りの三種類があります。
皆、別の種子あり。
すべて別に種子があります。
その影像は鼻識の所変なり。
その姿は鼻識が変じたものです。
余は上の法に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
九に味。
九番目は味です。
所謂、苦、酢、辛、甘、鹹い、淡等の味なり。
いわゆる、苦い、酸っぱい、辛い、甘い、鹹い、淡白等の味です。
皆、別種あり。
すべて別に種子があります。
その影像は舌識の所変なり。
その姿は舌識が変じたものです。
余はまた上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
十に触。
十番目は感触です。
所謂、地、水、火、風を四大種と名づく。
いわゆる、地(堅さ)、水(湿り気)、火(煖かさ)、風(動き)を四大種と名づけます。
各各、別の能生の種子あり。
各々、別々に、それを生み出す種子があります。
今、この四大は余の諸色を作る。
今の、この四大元素が、そのほかの物質を形作っています。
四塵、五根は並びに、この所造なり。
色と香りと味と感触、および五つの感覚器官は、この四大元素によって作られています。
ゆえに能造と名づく。
これより能造(素粒子)と名づけます。
影像は、すなわちこれ身識の所変なり。
その姿は身識が変じたものです。
滑、渋、軽、重等は四大種の分位にして、別の種子なし。
滑らかさ、ざらざら感、軽さ、重さなどは四大素粒子から抽象されたもの(独頭の意識の相分→遍計所執性)であり、別に種子があるわけではありません。
第六、これを縁ず。
第六意識が、これを対象としているのです。
余はまた上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
已上の五法を名づけて五境と為す。
以上の五つを五境(五つの対象)と名づけます。
また五塵と名づく。
また五塵(五つの物質)と名づけます。
これに内、外あり。
これに内と外があります。
内とはすなわち、これ有情の依身なり。
内というのは生き物の身体です。
外とはすなわち、これ器界の体なり。
外とは、われわれが住んでいる世界の本体です。
3、 法処所摂色
十一には法処所摂色。
十一番目は、法処(第六意識[今は独頭]の対象)に含められる物質です。
これに五種あり。
これに五種類があります。
極略と極きょうとおよび受所引と遍計所起と定所引とこれなり。
極略と極きょうと受所引と遍計所起と定所引です。
この中、四色は定めて、これ仮法にして別の種子なし。
この中の四つは常に仮のものであって、別に種子があるわけではありません。
定所引色は仮あり実あり。
定所引色は仮の場合もあり、本当の場合もあります。
実は別種より生じ、仮は別種なし。
本当の場合は別に種子があって、それより生じ、仮の場合は別に種子があるわけではありません。
この五種色は、皆これ第六所変の境なり。
これらの五つの物質は、すべて第六意識が変じた対象です。
その定果の実色は、また、眼等の所縁なり。
定所引の本当にある物質の場合には、眼などの対象にもなります。
極略色とは、すなわちこれ極微なり。
極略色というのは理論上の素粒子のことです。
極きょう色とは、すなわち、これ空界の色なり。
極きょう色というのは、空間にある、すなわち明、闇、光等(いわゆる物質と物質の隙間=真空)にある物質です。
受所引とは、すなわちこれ無表なり。
受所引とは、受戒したときに体内に形成される物質です。
遍計所起とは、すなわちこれ水月、鏡像等なり。
遍計所起とは、水に映った月、鏡像など(そこに本当はないのにあると思ってしまった物質)のことです。
定所引とは、定力所変の五塵等なり。
定所引とは、禅定の力によって作り出される五つの物質などです。
(4) 心不相応法行
第四に心不相応行法。
四番目は心に対応しない行に所属するものです。
略して二十四あり。
略して二十四種類があります。
一に得。
一つめは得ることです。
所謂、獲、成就の義なり。
獲得すること、完成することです。
色・心の分位にして、別の種子なし。
物質と心から抽象されたものであり、別に種子があるわけではありません。
第六識の境なり。
第六意識の対象です。
二に命根。
二つめは命です。
謂わく、すなわち、これ住持・決定の義なり。
生命を維持し、運命を決定するという意味です。
阿頼耶識・能生の種子の分位なり。
アーラヤ識を生成する種子から抽象されたものです。
余は上の法に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
三に衆同分。
三つめは生き物の相似性です。
謂わく、相似の義なり。
(犬は犬に、人は人に、マグロはマグロに)似ていることです。
諸の有情類の身心の分位なり。
さまざまな生き物たちの身体や心から抽象されたものです。
四に異生性。
四つめは凡夫性です。
謂わく、すなわち聖道非得の義なり。
つまり聖者の道(見道・修道・無学道)を、まだ獲得していないということです。
三界の見惑の種子の分位なり。
三つの世界にたいする分別から起こる煩悩の種子から抽象されたものです。
五に無想定。
五つめは無想定です。
謂わく、すなわち身をして安和ならしむる義なり。
身体を安楽ならしめることです。
これ能厭の心の種子の分位なり。
これは世を厭い離れさせようとする心の種子から抽象されたものです。
但し、外道所修の無心定なり。
但し、これは外道が修行している無心状態になる禅定です。
ただ六識を滅す。
ただ六つの心を滅しただけのものです。
六に滅尽定。
六つめは滅尽定です。
謂わく、また身心をして安和せしむる義なり。
身と心を安楽にさせるという意味です。
また、能厭の心の種子の分位なり。
これもまた世を厭い離れさせようとする心の種子から抽象されたものです。
これ聖者所修の無心定なり。
これは聖者が修行している無心状態になる禅定です。
通じて六識と染汚の末那とを滅す。
六識と汚れている第七末那識とを、ともに滅します。
七に無想事。
七つめは無想天です。
謂わく、すなわち酬因の義なり。
(無想定を修習した)原因にたいする酬いという意味です。
彼の天の第六報心の種子の分位なり。
無想天の果報の中の、第六意識に相当するものの種子から抽象されたものです。
八に名身。
八つめは単語のあつまりです。
謂わく、すなわち自性を詮するの義なり。
自らの本性を言い表すという意味です。
声塵の分位なり。
音という物質から抽象されたものです。
これに一名と二名と多名とあり。
これには一つの単語(山、川等)、二つの単語(夫婦、草食動物等)、沢山の単語(仏弟子因縁物語等)とがあります。
九に句身。
九つめは文章です。
謂わく、すなわち能く差別を詮するの義なり。
物事の違いを(言い)表すという意味です。
また声の分位なり。
これもまた音という物質から抽象されたものです。
これに一句と二句と多句とあり。
これに一つの文章と二つの文章と多くの文章があります。
十に文身。
十番目は文字です。
謂わく、名、句の二の所依の義なり。
単語や文章のもととなるものという意味です。
また声の分位なり。
これもまた音という物質から抽象されたものです。
これに一字と二字と多字とあり。
これに一字と二字と多字とがあります。
十一に生。
十一番目は生じることです。
謂わく、本無・今有、これ生の義なり。
もともと無かったのに、今、有る。これが生じるということです。
色・心の分位なり。
物質と心から抽象されたものです。
十二に老。
十二番目は老いることです。
謂わく、凝然にあらざる義なり。
じっとしていないということです。
また色心の分位なり。
これもまた物質と心から抽象されたものです。
十三に住。
十三番目は住すること。
謂わく、しばらく用有るの義なり。
しばらくの間、はたらきが存続するという意味です。
また色心の分なり。
これもまた物質と心から抽象されたものです。
十四に無常。
十四番目は無常です。
謂わく、後無の義なり。
後に何も(残って)無いという意味です。
また色心の分なり。
これもまた物質と心から抽象されたものです。
十五に流転。
十五番目は流転です。
所謂、因果不断の義なり。
原因と結果の鎖は、途切れることなく続いていくという意味です。
また色心の分なり。
これもまた物質と心から抽象されたものです。
十六に定異。
十六番目は、定めです。
謂わく、善悪因果互相差別の義なり。
善と悪の原因と結果が、たがいに明らかな秩序のもとに、整然として乱れないという意味です。
また色心の分なり。
これもまた物質と心から抽象されたものです。
十七に相応。
十七番目は結びつきです。
所謂、因果感赴の義なり。
原因は相応しい結果に赴く、という意味です。
また色心の分なり。
これもまた物質と心から抽象されたものです。
十八に勢速。
十八番目は勢速です
所謂、諸行迅速の義なり。
作られたものどもの移りゆきが極めて速いという意味です。
また色心の分なり。
これもまた物質と心から抽象されたものです。
十九に次第。
十九番目は順序です。
所謂、編列、序あるの義なり。
列をなしているものには順序があるという意味です。
また色心の分なり。
これもまた物質と心から抽象されたものです。
二十に方。
二十番目は方角です。
謂わく、すなわち、これ処所分斉の義なり。
これは空間的秩序という意味です。
色法の分位なり。
これは物質から抽象されたものです。
二十一に時。
二十一番目は時間です。
所謂、尅限・称可の義なり。
時の刻み・道理という意味です。
また色心の分なり。
これもまた物質と心から抽象されたものです。
二十二に数。
二十二番目は数です。
所謂、諸法の度量の義なり。
さまざまなものの数量という意味です。
また色心の分なり。
これもまた物質と心から抽象されたものです。
二十三に和合性。
二十三番目は和合性です。
所謂、すなわち、これ相乖違せざるの義なり。
これは背き違わないという意味です。
二十四に不和合性。
二十四番目は不和合性です。
謂わく、上の和合性に翻ずるの義なり。
上の和合性と反対の意味です。
この二十四は、皆、別の種子なし。
これらの二十四のものは、どれも皆、別に種子があるわけではありません。
第六識の境なり。
第六意識の対象です。
(5) 無為法
第五に無為法。
五番目は原因と結果の世界とは無関係のものです。
(略して六種あり。
(略して六種類があります。
前の九十四法の性なり)
前の九十四法の本性です)
一に虚空。
一つめは虚空無為です。
謂わく、諸の障礙を離るるがゆえに虚空と名づく。
さまざまな障害を離れているので虚空と名づけます。
これに二種あり。
これに二種類があります。
一に識変による。
一つめは意識が変じたもの。
すなわちこれ、心所変の虚空無為の相なり。
つまりこれは、意識に映った虚空無為の姿(相分)です。
相似のゆえに名づく。
似ているので名づけました。
実は有為なり。
その実は有為法(原因と結果の鎖の中にあるもの)です。
二に法性による。
二つめは、ものの本性によったものです。
すなわちこれ、真理にして心変の相にあらず。
これは真理であって心が変じた姿ではありません。
実の無為なり。
真実の無為です。
二に択滅。
二つめは択滅無為です。
謂わく、簡択力によって諸の雑染を滅して究竟証会す。
識別の力によって、さまざまな汚れを消滅させ、完全な悟りに達することです。
これに二種あり。
これに二種類があります。
一に識変による。
一つめは心の変じたものです。
すなわちこれ心所変の択滅無為の相なり。
これは心が変じた択滅無為の姿です。
余は上の法に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
三に非択滅無為。
三つめは非択滅無為です。
択力によらず本性清浄、或は縁闕所顕のゆえに非択滅と名づく
識別の力によらない本性そのものの清浄さ、あるいは縁が欠けて、穢れた存在が現れないために、かえって顕れ出るものであるから非択滅と名づけます。
これに二種あり。
これに二種類があります。
一に識変による。
一つめは心が変じたものです。
すなわち、これ心所変の非択滅無為なり。
これは心が変じた非択滅無為です。
余はまた上に同じ。
そのほかのことは上と同じです。
四に不動。
四番目は不動無為です。
謂わく、苦楽受を滅す。
苦と楽の感受を消滅させたものです。
ゆえに不動と名づく。
これより不動と名づけます。
第四禅の中の所顕の法なり。
第四禅の中で現れるものです。
二種は上に准ず。
二種類のものは上に準じます。
五に想受滅。
五番目は想受滅無為です。
謂わく、想、受、行ぜざるを想受滅と名づく。
概念化作用や感受作用が行われなくなるのを想受滅と名づけます。
滅尽定の中の所顕の法なり。
滅尽定の中で現れるものです。
二種は上に准ず。
二種類は上に準じます。
この五は皆真如によって仮立す。
これらの五つは、どれも真如から仮に立てられたものです。
六に真如。
六つめは真如です。
謂わく、理、妄倒にあらざるがゆえに真如と名づく。
物事の真理は、決して間違ったものではないので、真如と名づけるのです。
真とは謂わく、真実にして虚妄にあらざることを顕す。
真というのは、真実で虚妄ではないことを表しています。
如とは謂わく、如常にして変易なきことを顕す。
如は、永遠のようで変化することがないことを表しています。
二種は上に准ず。
二種類のことは上に準じます。
真如もまた、これ仮施設の名なり。
真如というのも仮に名づけられた名前です。
第三節 煩悩の種類
(1) 煩悩障と所知障
問う。
質問があります。
煩悩・所知の二障如何。
煩悩障と所知障という二つの障害とは、どのようなものですか。
答う。
答えます。
煩悩障とは、すなわち上に明かす所の諸の煩悩なり。
煩悩障というのは、これまで説明してきたような、さまざまな煩悩のことです。
所知障とは、諸の煩悩の中、一一皆あり。
所知障とは、さまざまな煩悩の中に、ひとつひとつ皆あるものです。
所謂、用に迷うを名づけて煩悩となし、その法体に迷うを所知障と名づく。
用い方で迷っているのが煩悩であり、存在本体に迷っているのが所知障です。
このゆえに、二障別体なきなり。
したがって二つの障害が迷っているもの自体は同じと言えます。
その用に迷う分は、すなわち発業、潤生の用あり。
使用方法で迷っている方は、行動を起こし、人生を潤すというはたらきがあります。
有情を擾悩して生死に輪廻せしむるをがゆえに煩悩と名づく。
命あるものを憂い苦しめて、生死の世界に輪廻させ続けるので煩悩と名づけます。
その体に迷う分は、発業・潤生の用あることなし。
本体に迷う方は、行動を起こさせ、人生を潤すはたらきはありません。
但し、これは所知の境界を隠覆して菩提を得ざらしむれば所知障と名づく。
但し、これは、知っている対象世界を覆い隠して、悟りを得させなくするので所知障と名づけます。
また、智障とも名づく。
また智障とも名づけます。
このゆえに煩悩障は真涅槃を障え、その所知障は大菩提を障う。
したがって煩悩障は真涅槃の障害となり、所知障は大菩提の障害となります。
彼はこれ、生空智の所断。
前者は、生き物は空であると悟る智慧が断じるものです。
これはこれ、法空智の所断なり。
後者は、存在は空であると悟る智慧が断じるものです。
聖道の功力に分限あるがゆえに、分かちて二障と為す。
聖道の力に、それぞれ持ち分があるために、分けて二障とするのです。
而も実には同体なり。
しかし実際には、同じものについて迷っているのです。
六煩悩に約して正しくその相を明さば、しばらく貪の中について、一有情に対して貪愛を起こすとき、その仮者を愛するを名づけて煩悩と為し、その法体に著するを名づけて所知と為す。
六煩悩を例として、正しくそのありようを説明しましょう、たとえば貪りの心のはたらきの中では、ある一人の人間に対して貪愛を起こしたとき、その仮の人格を愛することを煩悩障と名づけ、その存在の本体に執着している(そのような人格が在ると思っている)ことを所知障と名づけるのです。
五蘊は、これ体、仮者はこれ用なり。
五つのあつまりが存在の本体であり、仮の人格がはたらきです。
(注:五蘊、すなわち五つの集まりとは、仏教で人間を構成していると考えられている五つの集まりのことで、具体的には、
1、色(物質、肉体)
2、受(感受作用)
3、想(概念、言語作用)
4、行(意志作用)
5、識(認識作用)
の五つです。)
五蘊の法体、聚集和合して常一主宰の用に相似するを有情と名づく。
五つのあつまりに属する存在の本体が集まり和合すると、恒常性を持った一人の人格が働いているのによく似てくるので、これを生き物とよぶのです。
ゆえに若し五蘊、如幻虚仮なりと解すれば、豈、此の法の和合する仮者において貪愛を起さんや。
だから、もし五つのあつまりは幻の如くであり、虚仮であると理解するならば、どうして、さまざまなものが和合しただけの仮の人格に対して貪愛を起こすことがあるだろうか。
法体に迷うがゆえに、ついに仮者に迷うてこの愛著を生ず。
存在の本体に迷うことが原因となって、つづいて仮の人格性に迷って愛着を生じてしまう。
まさに知るべし、煩悩はかならず所知によって起こることを得るなり。
まさに知らなければならない。煩悩障はかならず所知障によって起こることとなるということを。
ゆえに、この貪の中、かならず智障あり。
だから貪りの心のはたらきの中には、かならず智障があるのです。
自余の諸煩悩、一一皆かくのごとし。
これ以外の諸煩悩も、それぞれ皆、同様です。
(2) 見道で断たれるものと、修道で断たれるもの
問う。
問う。
煩悩の中において見・修・の惑あり。
煩悩の中に、見道の迷いと、修道の迷いとがあります。
何者か見惑にして、何者か修惑なるや。
どのようなものが見道の迷いで、どのようなものが修道の迷いですか。
答う。
答えます。
分別起のものは見道所断なり。
分別心から起こるものは、見道において断ち切られるものです。
倶生起のものは、修道所断なり。
持って生まれて起こるものは、修道において断ち切られるものです。
麁は断じ易きがゆえに見道に彼を断じ、細は断じ難きがゆえに修道に此を断ず。
粗いものは断ち切りやすいので、見道で断じ、繊細なものは断ち切りがたいので修道で断じます。
十煩悩の中、疑と後の三見とは、ただ分別起なり。
十の煩悩の中で、疑いと五つの間違った意見の中の後半の三つの意見(邪見、見取見、戒禁取見)は、分別心からしか起こりません。
ゆえにただ見惑なり。
だから純粋に見道の迷いです。
所余の煩悩は、一一、二に通ず。
残りの煩悩は、それぞれ二つに通じます。
所謂、貪の中の分別の貪は、すなわち見所断なり。
まとめると、貪りの心のはたらきの中でも、分別心による貪りは、すなわち見道によって断ち切られるものです。
倶生の貪は、これ修所断なり。
生まれつきもっている貪りの心のはたらきは、修道において断ち切られるものです。
余の瞋、慢等も、皆、准知すべし
そのほかの怒り、慢心等の心のはたらきも、すべて、同様に知らなければなりません。
問う。
問います。
所知障の中にもまた、かくのごとき見・修の差別ありや。
所知障の中にも、このような見道・修道の区別がありますか。
答う。
答えます。
また、この別あり。
また、このような別があります。
謂わく、見所断の煩悩の中の所知障は、すなわち見所断の所知障なり。
つまり、見道において断ち切られるべき煩悩障の中には、所知障も含まれていますが、これが見道において断ち切られるべき所知障です。
修道所断の煩悩障の中の所知障はすなわち修所断の所知障なり。
修道において断ち切られるべき煩悩障の中の所知障は、すなわち修道において断ち切られるべき所知障です。
これは菩薩に約して論ずる所なり。
これらは菩薩に限定して論じられるものです。
二乗は所知障を断ぜざるがゆえに。
声聞乗と縁覚乗では所知障を断ち切らないからです。
但し、定障において稍相濫あり。
ただ、(所知障を断じて入るとされるが、二乗も入ることができる)無想定・滅尽定を妨げる障害にかんして、やや混乱があるように見えます。
然るに、実には断ぜず。
しかし実際には断じてはいないのです。
但し、これ折伏なり。
ただ現れるのを押さえているだけです。
(3) 煩悩の性質について
問う。
問います。
その煩悩において、何者か不善、何者か有覆なる。
それら煩悩の中で、どのようなものが不善性であり、どのようなものが汚れた無記なのでしょうか。
上界の煩悩は、皆、これ有覆なり。
色界・無色界の煩悩は、すべて汚れた無記です。
欲界の中に分別起のものは、ただこれ不善なり。
欲界の中の分別心より起こるものは、ひとえに不善性です。
倶生起の中、悪行を発すものは、また唯不善なり。
生まれつき起こるものの中では、悪行を起こすものは、ただ不善性です。
所余は有覆なり。
それ以外は汚れた無記です。
その所知障は一切有覆なり。
所知障は、すべて汚れた無記です。
不善に通ぜず。
不善性になることはありません。
但し二乗に望むれば、また無覆と名づく。
ただ二乗を考慮に入れた場合には、汚れてはいない無記と名づけます。
彼の障にあらざるがゆえに。
彼らの場合には障害にはならないからです。
第四節 二つの空
(1) 総 説
次に二空とは、(百法の上の一切の妄執を遮す。
次に二空とは、(百の存在の上の一切の妄執を防ぎます。
即ち是れ、真理に入るの門なり)
即ち、これは真理に入るための門なのです)
一には生空。
一つめは生き物が空であることです。
すなわち、これ補特伽羅無我なり。
つまり生死流転の主体(=補特伽羅)、そのようなものはない(=無我)ということです。
補特伽羅を数取趣と名づく。
生死流転の主体を”数々の生涯をくり返し取ってきた者”と名づけます。
これ人我の名なり。
これは人格的主体のことです。
人我というは、すなわち、これ主宰・自在の義なり。
人格的主体というのは、人生を取り仕切って自由自在にできる者、という意味です。
然るに堅実の主宰・自在なきがゆえに無我という。
しかし、堅実な、人生を取り仕切って自由自在にできる者、など存在しないので無我というのです。
我は、すなわち、これ生なり。
(人)我とは、生きもののことです。
無我は、すなわち空なれば、また生空と名づく。
また無我とは空のことだから、生空と名づけるのです。
二には法空。
二つめは法空です。
すなわち、法無我なり。
つまり法無我のことです。
法とは軌持なり。
法とは、軌持ということです。
軌は謂わく、軌範、物の解を生ずべし。
軌とは、すなわち、物についての理解を生じさせる軌範(あるべき姿)です(例:耳が長いので、ウサギだ)。
持は謂わく、任持、自性を捨てず。
持は、任持、つまり自らの性質を保持するという意味です。
然るに堅実の自性・勝用なければ法無我と名づく。
しかし、堅実な自性・勝れたはたらきなどないので、法無我と名づけるのです。
無我はすなわち空なれば、また法空と名づく。
無我は空という意味なので、また法空とも名づけるのです。
(2) 生空についての問答
1、無我って、本当?
問う。
問います。
現に世間を見るに諸の有情あって、人・畜等の状、宛然として眼に当たる。
現に世間を見てみると、さまざまな生きものがいて、人や動物などの姿を、そっくりそのまま眼にすることができます。
今、無我という、誰人か信ぜんや。
今、あなたは無我、つまり、そんなものはないとおっしゃいますが、いったい誰が信じるでしょうか。
答う。
答えます。
言う所の我人とは、何をもって体となすや。
いわゆる、私、人などというものは、何が本体であろうか。
若し色法をもって体となすといわば、色、何んがこれ無常なるや。
もし色(いろ)が本体だというのであれば、その色は、どうして無常(いつか無くなってしまう)なのか。
また何んが病苦あるや。
また、どうして病苦があるのか。
もし、これ我ならば、まさに自在たるべきがゆえに。
もし、これ(色)が我であるならば、まさに自在にコントロールできるはずであるのに。
余の耳・鼻等、皆、まさに准知すべし。
残りの耳や鼻なども、すべて、このように知るべきです。
もし長・短等をもって体となさば、長・短は、すなわち、これ色塵の分位にして別の体性なし。
もし長とか短とかが本体であるというのならば、長・短は色(いろ)から抽象されたものなので、やはり色と別のものではありません。
余の滑・渋等の触塵等の分もまたまさに准知すべし。
残りの滑らかさ、ざらざら感などの感触などについても同様に知るべきです。
もし心をもって体となすと言わば、心、何んがこれ無常なるや。
もし心が本体であるというのならば、心はどうして無常なのか。
また、何んがその苦あるや。
また、どうしてそれに苦しみというものがあるのか。
八識の心王、五十一の心所、一一皆かくのごとし。
八つの心をなす心王たちや五十一種類の心のはたらきも、一つ一つすべてこのようです。
若ししからば、我の言の目す所の体は、これ何物ぞや。
もしそうなら、「我」という言葉が見つめるその本体は、何であろうか。
頭より趺に至り、皮より髄に至り、六腑・五臓・骨・肉・脈等一切の諸物、乃至あらゆる種々の心識、念念等の中に一一推求するに、我人の名言の目するところの実体は、終に不可得なり。
頭の先から足の裏、皮膚から髄に至り、大腸、小腸、胃、胆嚢、三焦、膀胱の六腑、肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓の五臓、骨、肉、血管など一切の物質的存在、ないし、あらゆる種々の心の瞬間瞬間の中に、ひとつひとつ探し求めても、「我」、「人」という言葉が名指そうとしている物の実体は、結局、得ることはできない。
畢竟、都無にして、ただこれ無常、苦、不自在の色、声、香等なり。
所詮、そのようなものはどこにもないのであり、ただ無常で、苦しみで、自在とはならない色や、音や、香り等があるのみです。
ゆえに無我という
だから無我、つまり、ないというのです。
2、 どうして誰もが有るというのか。
問う。
問います。
若ししからば、何がゆえに世間と聖教とに我人ありと説くや。
もし、そうなら、なぜ世間一般に、あるいは聖なる教えにおいても、「我」や「人」があるように言っているのか。
世間の我は謂わく、有情、命者等なり。
世間一般で言われている「我」は、生きもの、命あるものなどです。
聖教の「我」は謂わく、預流、一来等なり。
聖なる教えでの「我」は、預流者、一来者などです。
もし、すべてその体なくば、是の如く施設するところ、何によりて起こるや。
もし、すべて、その本体がないというのなら、このようにあると思われているものは、どのようにして起こるのか。
世間の所設は、たとい迷謬なりといえども、その聖教のよぶところ、豈、都無ならんや。
世間で言われているものが、たとえ迷いであり、誤謬であるとしても、聖なる教えの中でよばれているものが、どうしてすべて無であるということがあろうか。
何に況んや、その世間の迷情においても、もし所由なくんば起こるべからざるをや。
世間の迷情でさえ、ゆえなくして起こるということは考えられないので、なおさらです。
答う。
答えます。
世間と聖教との施設するところは、ただ、仮によって立つ。
世間一般と聖教とが設けているところのものは、仮に立てられたものです。
実に性あるにあらず。
実際に、そのようなものがあるわけではありません。
その仮立とは、すなわち識所変の五蘊の諸法、聚集和合して作るところの巧能、仮に常一・主宰のものあるに似たり。
仮に立てられたものというのは、心が変じた五つのあつまりが、それぞれ集まり、和合して作ったものが示すはたらきが、仮に、常住で一つのまとまりがある主催者がいるようにみえるということなのです。
この相似の分を説いて仮我と名づく。
この似ているところのものを仮我と名づけるのです。
もしこの分を撥無せば、かえって損減の執なり。
もしこの部分を全くないとすれば、かえって損ない減じる執着となります。
もしこの分を増せば、すなわちこれ増益の執なり。
もしこの部分を実際に在るとすれば、これは補い増やす執着となる。
まさに知るべし、我人は仮有・実無なり。
まさに知らなければならない、「私」、「人」は仮にあるもので、実際にはないものです。
仮有を観ずるがゆえに、大悲これを救いて覚岸に到らしむ。
この仮の存在を観じられるがゆえに、大悲世尊は、これを救い、悟りの岸へとお渡しになるのです。
実無を悟るがゆえに、大智これを泯じて能く真理を顕す。
実際にはないことを悟られるがゆえに、大智はこれを消滅させて、真理を顕現させるのです。
然るに、諸の愚夫は、無始の時より以来、この相似に迷いて、定めて真実と思う。
けれども多くの愚か者たちは、無始の時より以来、この似たものに迷って、まさに真実に違いないと思う。
この情解を呼んで、すなわち有情・命者等の言を説く。
この俗的な理解を名づけて、生きものだとか命あるものとかの言葉となっているのです。
これすなわち、世間所執の我なり。
これが世間で執着されるところの「我」というものです。
而るに諸の聖者は、この相似を悟りて堅実と言わず。
しかし、諸々の聖者は、この似ているものをお悟りになって、堅実なものだとは言われない。
この仮我を呼んで、すなわち預流・一来等の言を説く。
そして、この仮の我に名づけられて、預流だとか、一来だとかの言葉をお説きになっているのです。
これを聖教所説の我と為すなり。
これが聖なる教えで説かれている「我」というものです。
問う。
問います。
若し爾らば、何がゆえに前に、すべて人我の体無しと言うや。
もしそうであれば、どうして前には、全く人格的主体など無いと言ったのか。
答う。
答えます。
前は堅実を遮して仮似を遮せず。
前は堅実な主体は排除しましたが、仮の、主体に似たものを排除したわけではありません。
何に況んや、この仮は、猶、是れ法の用なれば実は法に属す。
まして、この仮のものは、ものがはたらいている姿なので、その実の部分は存在(仮有)に所属しています(依他起性のこと)。
法の外には都無なり。
存在(仮有)の外にはまったく何もありません(遍計所執性のこと)。
ゆえに無我という。
だから無我というのです。
3、 五つの集まりが仮に和合するということについて
問う。
質問があります。
五蘊和合して常一に似たりというその義、なお闇し。
五つのあつまりが和合したものが、常住で一つのまとまりあるものに似ているという、その意味が、まだよくわかりません。
乞う、また詳らかに明かせ。
お願いする、詳細に説明してほしい。
答う。
お答えします。
五根、五塵、心、心所等、もし和合せずんば、いずくんぞ人等の相状、巧能あらんや。
五つの感覚器官、五つの物質、心、心のはたらきなどが、もし和合しなかったならば、どのようにして人などの姿やはたらきがあるでしょうか。
和合をもってのゆえに、この相用あり。
和合しているからこそ、この姿があり、はたらきがあるのです。
然るに、この相用は法の外に体なし。
しかし、この姿、はたらきは、(和合する前の)個々のものの外には、本体はないのです。
但し、これ色・心、一一の巧能の和合によるがゆえに、是の如き、常一・主宰、自在の相あるに似たり。
ただ、個々の物質・心の一つ一つのはたらきが和合するから、このような常住で一つのまとまりのある、自在者の姿があるのに似ているにすぎないのです。
所以に、聖教には、この似分を呼んで即ち仮と名づくるなり。
ゆえに聖なる教えでは、この似ているところを呼んで、仮と名づけるのです。
重ねたる意の云く、ある人斧をもって、その樹等を伐るに、形貌、身体、威勢、動作は泛爾の色、香等の分に超えるに似たり。
重ねて申し上げると、ある人が斧をもって木などを切るとき、その容姿や体つきや力強さや動きは、ただの色や香りという分を超えているように思われます。
而るに実は超えず。
しかし実際には超えてはいない。
所以は如何。
それはなぜか。
斧を振るう動作は、これ四大の用なり。
斧を振る動作は、これは四大元素の一つである風(動き)のはたらきです。
即ち触塵なり。
つまり感触という物質です。
動かんと欲する加行は、すなわち欲、思等なり。
動こうとする熱意は、意欲、意志などの心のはたらきです。
これ心・心所なり。
これは心や心のはたらきです。
手、足等の形は、すなわちこれ形色にして色塵の分位なり。
手や足の形は、形色であって、これは色という物質から抽象されたものです。
総体は、すなわち、これ五蘊の諸法なり。
すべては、つまり、五つのあつまりに属するさまざまなものなのです。
そのほかに物なし。
それ以外のものはありません。
まさに知る、ただこれ五蘊和合して、仮に是の如く、一物あるに似たるのみ。
だから、ただこれらは、五つのあつまりのそれぞれのものが集まり和合して、仮に、このような一つのものがあるように見えるだけなのです。
もし合せざれば、この分有り難し。
もし集合していなければ、このような似たものもなかったでしょう。
合するがゆえに、是の如し。(言わんとす)
集合していたから、このようなことがあるのです。(以上である)
深く之を思惟して、増・損すべからず。
深くこれらを考察して、増やしたり、削いだりしてはならない。
もし中を得れば、還って有・無を泯じ、四句、ここに絶し、百非悉く亡ず。
もし中道を得ることができたなら、反対に有と無とが滅び、四句(Aです。非Aです。Aかつ非Aです。Aにもあらず、非Aにもあらず)、ここに絶し、百非、すべて消え失せます。
今、この真理、是を生空廃詮勝義と名づく。
今の、この真理を、生きものが空であることの思考を絶した勝れた道理と名づけます。
その能顕門は、すなわちこれ補特伽羅無我なり。
それを顕わにする教門は、補特伽羅無我です。
(3) 法空についての問答
1、 では、もの(法)は有るのか?
問う。
問います。
若ししからば、無我なりといえども、而も法体は実有なり。
もしそうなら、無我と言っても、存在の本体は実際には有るではないか。
さらに何の道理ありてか、また法無我を立てるや。
さらにどのような道理があって、存在の本体も実体はないと主張するのか。
また、法無においてなお無我という。
また存在の本体が無いというところを、どうしてことさらに実体(我)が無いというのか。
答う。
答えます。
法体を有と称するは、しばらく人我に対す。
存在の本体は有るとわれわれが言うのは、しばらく人我に対するときのみです。
我空に入らしめんが為に、六二の法を説くことは是の義か。
我が空であることを理解させるために、十二の存在(十二処)を説くのは、この意味です。
すなわちこれ、法中の世俗施設なり。
つまりこれは、教えの中の、一般向け方便です。
もし真門に入れば、五根、五塵、心王、心所、一切、夢の如し
もし真理の門に入ったならば、五つの感覚器官、五つの物質、心、心のはたらき、これら一切は夢のようです。
非有似有なり。
あるのではなく、あるのに似ているのです。
すべて堅実の自性・勝用なし。
堅実不変の、ものの本性・定まったはたらき、などはありません。
但だ、これ依他の衆縁所成にして虚仮の事相なり。
ただこれらは、他に依存した存在が、多くの縁により成立した、かりそめの姿です。
是のごとき色・心縁生の道理の真実・如常・不生・不滅をすなわち無為と名づく。
このような物質・心が縁により生起する道理が真実であり・常にそうであり・生じることもなく・滅することもないことを、無為と名づけるのです。
さらに堅実別体の無為なし。
それ以外に、堅実な、別に本体のある無為などというものはないのです。
すでに堅実の有為・無為なし。
このようにして堅実の有為も無為もないことがわかりました。
ゆえに法空と名づく。
そこで法空、存在の本体は空であると名づけるのです。
但し、無我とは自然を遮するなり。
ここで(無ではなく)無我と言うのは、天然自然に存在するという偏見を除去するためです。
自然は、すなわち、これ我の義のゆえなり。
自然とは、まさに「我(実体性)」という意味だからです。
2、 もの(法)は空ではなく、やはり有るのではないか?
問う。
問います。
人我の体性は求むるに不可得なるその理、然るべし。
人我の本体や本性はもとめても得ることはできないという道理は、その通りであろう。
五蘊の法体は、その事、顕然たり。
ところが五つのあつまりに属する、それぞれの本体は、その姿が歴然と明らかです。
可見・可聞ないし識知の体性・作用、一一皆存す。
見られるもの、聞かれるもの、ないし、知られるものの本体や本性、作用などは、一一皆存在しています。
今、説いて空と為す。
しかし今、空と説いている。
豈、信ずることを得んや。
どうして信じることができようか。
答う。
お答えします。
法体無量なりといえども、皆、是れ四縁の作なり。
存在の本体は無量にあるとはいえ、すべて、四つの原因から作られたものです。
心法は四を具して生じ、色法は二によって起こる。
心は四つ(因縁、所縁縁、等無間縁、増上縁)が、すべて揃うことにより生じ、物質は二つの原因(因縁と増上縁)によって起こります。
縁起の道理も、また、これ事が家の理なり。
縁起の道理も、また現象の中を貫く道理です。
すでに自然の性なし。
よって、ここで天然自然に存在している本性(=実体性)などないことがわかります。
誰か自性ありと言わん。
とすれば、誰がものの本性があると言うだろうか。
問う。
問います。
若ししからば、今、見聞覚知するところの諸の色・声等はその体、これ何ぞや。
もしそうなら、今、見たり聞いたり知ったりしているところのさまざまな色・声などの本体は何であるか。
答う。
答えます。
これ他の所作にして、自の体性なし。
これは自分以外のものによって作られたものであって、自分みずからに本体や本性があるわけではありません。
他とは、すなわちこれ因縁なり。
自分以外のものというのは、因縁のことです。
この諸縁のために生起せらる。
つまり、これらさまざまな縁によって生起させられるものだということです。
事の四縁具足すれば、すなわち縁慮の事生ず。
現象が起こるための四つの縁が揃えば、認識作用(心)という現象が起こります。
二縁和合すれば、すなわち質礙の事生ず。
二つの縁が和合すれば、物質という現象が起こります。
その縁慮の中、八識差別す。
その認識作用の中で、八つの心が区別されます。
その質礙の中、五塵等不同なり。
物質の中では、五つの物質などの違いがあります。
各各、一一、みな分に応じて縁具足するとき、彼の事、相差別して生ず。
各々、それぞれ、みな自分に適合した縁が揃ったとき、それらの現象が生起するのです。
ゆえに見聞等の境不同なり。
それで見たり聞いたりなどの対象は同じではないのです。
今、空と言うは無自性なることを指す。
今、空というのは、自分の本性というものはないということを指します。
いずくんぞ信ぜざらんや。
どうして信じないのか。
3、 説一切有部は、それでも有ると言っている
問う。
問います。
薩婆多等、みな、四縁六因等の法を立つ。
設一切有部など、みな、四つの縁、六つの因などを立てている。
然りといえども、三世の諸法は恒有にして全く如幻・空不可得にあらず。
けれども過去・現在・未来の三世にあるさまざまなものは、あらゆる瞬間に実際に存在していて、全く幻でもなければ、空で得ることができないものでもない(と主張しています)。
今、四縁所成のゆえに空なりという。
今、四つの縁によって成立するものであるから空なのであると言っている。
その義、未だ明らかならず。
その意味が、まだよくわからない。
答う。
答えます。
余乗の所執は唯識を知らず。
他の学派が固執している説においては唯識を知りません。
四分を立てず、羅耶を信ぜず。
四分説を立てず、アーラヤ識を信じません。
羅耶なきがゆえに親因縁なし。
アーラヤ識がないために、直接原因がありません。
親因縁なきがゆえに疎縁もまた成ぜず。
直接原因がないので間接原因もまた成立しません。
縁、すでに成ぜざるがゆえに、縁生に実義なし。
原因がすでに成立しないので、原因から生じるということが無意味となっています。
すでに実義なきがゆえに、四縁生と云うといえども、還って自然生に堕す。
すでに無意味となっているので、四つの原因から生じるといっても、かえって天然自然に存在しているものが(現象の中で)生じたり滅したりしているという考え(自然生)に堕してしまっています。
ゆえに法体恒有という。
だから存在の本体は常に存在しているなどと言っているのです。
まさに知るべし。
まさに知らなければならない。
法空は唯識によって成ず。
存在の本体が空であるということは、ただ心のみがあることによって成立するのです。
法空に入らしめんが為に、また唯識を説くとは、この意なり。
存在の本体が空であることを悟らせるために、ただ心のみがあることを説いているというのは、この意味です。
問う。
問います。
法は縁より生ずるがゆえに無自性と名づけば、その能生の縁は、これ自然有となさんや。
存在は原因に依存して生じるから自らの本性はないというのであれば、それを生み出す原因の方は自然に存在しているとするのであるか。
若ししからば、その法は無我にあらざるや。
もしそうなら、そのものには実体がないとは言えないのではないか。
答う。
答えます。
縁もまた縁より生ず。
原因もまた原因から生じます。
その縁も、また是の如し。
そのまた原因も、原因から生じます。
このゆえに、一切法は一切みな無我なり。
ここからすべての存在は、すべてみな実体がありません。
展転してみな因縁より生ずるがゆえに。
次から次へと、すべて因縁から生じるからです。
因縁所生法 我説即是空 とは、その理、誠なるかな。
因縁から生じたものを 私は空であると説く と世尊がおっしゃったことは、誠に真実であります。
4、 仮法・実法とは何だったのか?
問う。
問います。
若ししからば、諸法は一切虚仮にて、仮・実、種々の差別なかるべし。
もしそうなら、さまざまな存在はすべて虚仮であって、仮法や実法などのいろいろな差別はないはずです。
何がゆえに前に色・心等の中に仮・実ありと言うや。
どうして前に物質や心などの中に、仮のものや実のものがあると言ったのか。
答う。
答えます。
この問いは非なり。
この質問は間違っています。
今、虚仮・如幻・如夢と言うは、真門・空理に推入する談なり。
今、虚仮、幻の如し、夢の如しと言うのは、真実の門、空の真理に、それを推しはかり入らせようとするときの話です。
もし世諦道理門に依らば、自ら種子あって生ずる所の諸法を、多分、名づけて有為の実法と為す。
もし世俗で道理を説く立場からすれば、自分の種子があって、そこから生じるほどのものは、多くの場合、原因と結果の法則に従う、実の存在とします。
今、この位には、等しくみな虚仮法と名づく。
しかし、今の、存在の本体は空と見なす立場からは、どれもみな等しく虚仮の存在であると名づけるのです。
全く相違せず。
だから何の問題もないのです。
5、 どうして誰もが有るというのか。
問う。
問います。
真門に推入するとき、等しくみな無我ならば、何がゆえに世間とおよび聖教の中に法体ありと説くや。
真実の門に推入するときは、等しくみな実体はないのであれば、どうして世間一般、あるいは聖なる教えの中で存在の本体はあると説いているのか。
世間の法とは実・徳・業等なり。
世間一般での存在とは実体・性質・運動などです。
聖教の存在とは蘊・所・界なり。
聖なる教えでの存在とは、五つのあつまり・十二の場所・十八の領域のことです。
もしすべて自性なくんば此の如く説かんや。
もしすべて自らの本性がないのであれば、このように説くことがあるだろうか。
答う。
答えます。
世間と聖教所説の法とは、ただ、仮に依って立つ。
世間一般と聖なる教えの中で説かれているものは、ただ仮に立てられているものです。
実有の性にあらず。
実際に存在する本性のようなものではありません。
その仮立とは、すなわち識所変の五蘊の諸法、色にあらざれども色に似、心にあらざれども心に似る。
仮に立てられているというのは、心が変じた五つの集まりの存在は、物質ではないけれども物質に似、心ではないけれども心に似ている。
その相似は、すなわちこれ仮法なり。
その似ているというところが、仮の存在だと言うのです。
然るに、諸の愚夫は無始の時より以来、この似に迷いて、執して堅実の色・声等と為す。
しかし多くの愚か者たちは、初めを知らぬ遠い過去より以来、この似たものに迷って執着し、堅実の色、声などと思っている。
己が情解を呼んで色・声・香・味等の言を説く。
その自らの素朴な理解をそのまま名づけて、色・音・香り・味などと言っているのです。
すなわち夫れ世間所説の法なり。
それが世間一般で説かれているものです。
大聖これを愍れみ、この虚仮を悟り、義をもって体に依せて、すなわち色・声等の種々の法を説きたもう。
大聖世尊は、これを憐れみ、これらが虚仮であることを悟り、道理をもって本体があるかのように、色だとか音などのさまざまなものをお説きになったのです。
これを聖教所説の法と名づくるなり。
これを聖なる教えで説かれるところのものと名づけるのです。
6、 法空とは何か。
是のゆえに、諸法は仮有・実無なり。
したがって、さまざまなものは仮に存在するのであって、実際にはないものです。
仮有を悟らざれば損減の執を起こし、実無を悟らざれば増益のの執を起こす。
仮にあることを悟らなければ、損ない減じる妄執を起こし、実際にはないことを悟らなければ、増し補う妄執を起こす。
深く之を思惟して増損すべからず。
深くこれらのことを考えて、補ったり損なったりしてはならない。
もし中を得已れば、空・有、みな遣る。
もし中道を悟ったならば、空も有もみな払い除けられる。
四句・百非、一切悉く亡ず。
四句も百非も、ことごとくすべて、なくなってしまう。
この無相を指して名づけて法空と為す。
この何もないところを、存在の本体は空である、と呼び習わすのです。
この空を門として顕すところの真理はその体、空にあらず。
この空を入り口として顕わになる真理は、その本体は空ではありません。
名言道断す。
しかし名づけて言おうとする道は断たれています。
是を真如と名づく。
これを真如と名づけます。
此の如く微妙にして分別及ばず。
このように(真理は)微妙で分別の及ばないものです。
これすなわち法空の廃詮勝義なり。
これが存在の本体が空であることの、思考を超絶した勝れた意味です。
前の生空門は、すなわちこの空の中の方便の一門なり。
前の生きものが空である教門は、この空の中の方便のための一教門です。
その真如は、すなわちこの真如の一分の義なり。
その真如は、この真如の一部分です。
今、この二空所顕の真如は、すなわち前の百法の中の無為なり。
今の、この二つの空によって顕される真如は、前の百法の中の無為です。
この能顕の空は、すなわちこれ、今、言う二空これなり。
それを顕す空は、今いうところの二空です。
空とは単空にあらず。
空とは、有を否定しただけの、ただの無ではありません。
空も有も、みな空無なり。
空も存在も、どちらも空無です。
これ、今のいわゆる空なり。
これが今いっている空です。
すなわち中道のゆえに一・異、倶・不倶等あることなし。
すなわち中道であるので、同一であったり違っていたり、共通していたり共通していなかったりすることなどはないのです。
空花等のごとく、性相都無なり。
眼病の人に見える糸や花びらなどのように、本性もその姿もすべて無です。
この都無はすなわち、この空なり。
このすべて無というところが、この空です。
深くこれを思うべし。
深くこのことについて考えてみるべきです。
問う。
問います。
若ししからば、前に無自性をもって法空と名づくと言うは、豈、相違せざらんや。
もし、そうであれば前に、自らの本性がないことをもって、その存在の本体は空である、と名づけたことと矛盾するのではないか。
無自性とは単空なるべきがゆえに。
自らの本性がないとは、ただの無のことだ(と、あなたは主張する)からです。
答う。
答える。
誰かいう。
誰が言ったのか。
無自性はこれ、単無の無なりと。
自らの本性がないというのは、ただの無という意味の無であると。
自然性を遮すといえども、全く他作を妨げず。
天然自然に在るということは否定するが、他によって作られることは全然、否定はしません。
他作を妨げざるがゆえに縁生を離れざるの無なり。
他によって作られることは否定しないのだから、原因から生起することから離れることのない無です。
その縁生法は、すなわち、これ仮有なり。
その原因から生起するものが、(それだから)仮の存在です。
すでに仮有を離れざるの無自性のゆえに、無自性というといえども偏無の無にあらず。
すでに仮の存在から離れることのない無自性であるから、無自性と言っても完全な無のような無ではありません。
有相・無相、倶に不可得の無性なり。
姿をもつ、姿を持たない、どちらも言うことのできない無性です。
般若皆空とは、すなわちこの義なり。
般若皆空というのは、この意味です。
(4) 仮の意味・我の意味
1、 仮の意味
問う。
問います。
仮我・仮法の二種の仮は、その義、等しきや。
仮の我、仮の存在というときの二種類の仮は、意味としては等しいのであろうか。
答う。
答えます。
仮法は仮なりといえども、その体は、すなわち法なり。
仮の存在は、仮といっても、その本体は存在です。
仮我は、我といえども、その実は我にあらず。
仮の我は、我といっても実は我(実体)ではありません。
実はこれ、法の用の相似分のゆえに。
実際は、存在(五蘊)のはたらきから抽象された、我に似たようなものだからです。
この義によるがゆえに、理実をもって言わば、ただ仮法あって、すべて我法なし。
この意味からすると、道理と実際からいえば、ただ仮法だけがあり、我という存在はないと言えます。
ゆえに仮我の仮は、この義さらに増す。
したがって仮の我というときの仮は、その意味が大きくなっています。
増すといえども、また、全く相似なきにあらず。
大きくなっているといっても、似たようなものも全くないというわけではありません。
もしこれを撥無せば、また大邪見なり。
これを全くの無と言ってしまったら、これもまた非常に間違った意見となります。
偏執の人、おそらくは解し難からんか。
偏って執着している人には、おそらく理解し難いであろう。
2、 我の意味
問う。
問います。
その法無我と人無我と二種の我は、その義、斉しきや。
法無我と人無我における二種類の我は、その意味は等しいのであるか。
答う。
答えます。
夫れ我と言うはすなわちこれ、主宰・自在の義なり。
我というのは、主宰・自在という意味です。
たとい法我といえども、豈、すべてこれを廃せんや。
たとえ存在の主体といっても、どうしてまったくこれがないと言えようか。
但し人我は、この義さらに増して、その相、はなはだ顕なり。
ただ、人における我は、この意味がいっそう増して、そのようなありさまが非常に顕わです。
法我の義分は、この義、微細にして、その相、はなはだ隠る。
存在の主体における我は、この意味が微細で、そのようなありさまは極めて隠れています。
然る所以は、色・声・香等の一一の法体、幻の如く縁生にして、本、主宰にあらず。
その理由は、色・音・香り等の一つ一つの存在の本体は、幻のように原因から生じ来たるもので、もともと主催者ではないからです。
然るに、その虚仮の軌持の体用、念念生起し、相続流来して、微細に自然の物あるに相似す。
しかし、その虚仮のまとまりの本体やそのはたらきは、瞬間瞬間、生起し、相続して流れ、細かいけれども自然の物があるように見えます。
所謂、色に非ずして仮に色あるに似る等なり。
いわゆる、物質ではないけれども、仮に物質があるのに似ている(と今まで言ってきた)あれです。
この分に迷い執して実有の色・声等の法となすを法我見と名づく。
このところに迷って、執着し、本当の色や音などの物と見なすことを、法我見と名づけます。
この分は直ちに、常一・主宰の我と言い難し。
一方、このところは、直ちに、常住で一つのまとまりのある主催者である我とは言い難いものです。
五根・五塵・心・心所等、各々別々なれば虚仮・相似の自在の勢力、はなはだ微隠なるがゆえに。
五つの感覚器官や、五つの物質や、心や、心のはたらきなどは、各々別々なので、虚仮であり、似ているに過ぎない存在の自在であるはたらきの力は極めて微弱であるからです。
而も、これらの法、和合合成すれば、彼の一一の用、互いに資助して、極めて、一体の者ありて、衆縁を待たずして長時常住して、自力をもって独存し、割断自在の威力強勝なるに相似す。
しかし、これらのものが和合し合成されれば、あの一つ一つのはたらきが互いに助け合うことにより、一体の者があって、それが多くの原因などなくても長時間持続し、自力をもち独立して存在し、自由自在のパワーを持っているのに極めて似てくるのです。
この分に迷い執して、実に人畜等の物有りとなすを、人我見と名づく。
このところに迷い、執着して、実際に人や動物のようなものがあると見なすことを、人我見と名づけるのです。
この分は、すなわちこれ、常一・主宰増勝の我なり。
この部分は、常住で、一つのまとまりがある、主催者であることの際だった我です。
ゆえに二種の我は斉等にあらざるなり。
だから、二種類の我は、等しいわけではありません。
(5) 二つの空と唯識観との関係
問う。
問います。
諸の唯識観は、みな、法空観なるや。
さまざまな唯識観は、すべて存在の本体を空なるものと観る法空観であるか。
答う。
お答えします。
諸の法空観は、みな、唯識観なり。
さまざまな法空観は、すべて、ただ心のみがあると観る唯識観です。
唯識観は、みな、法空観なるにあらず。
しかし唯識観が、すべて法空観であるわけではありません。
何をもってのゆえに。
なぜであるか。
生空唯識観あるをもってのゆえに。
生きものが空であると観る、生空唯識観があるからです。
問う。
問います。
若ししからば、生空観は、みな、唯識観なりや。
もしそうなら、生空観は、すべて唯識観であろうか。
答う。
答えます。
生空観にして唯識観にあらざるあり。
生空観であるけれども唯識観でないものがあります。
所謂、二乗の生空観なり。
いわゆる二乗の生空観です。
問う。
問います。
菩薩所修の単の生空観、もし唯識ならば、その義、如何。
菩薩が修行している単純な生空観が、もし唯識でもあると言えるとすれば、それはどのような意味でしょうか。
答う。
答えます。
仮我・仮法、倶に識変に依るがゆえに、みな唯識なり。
仮我も仮法も、ともに心の変じたものであるから、それらもすべて心に過ぎません。
上に述べ畢るが如し。
上に、すでに述べたとおりです。
識所変とは、相・見、二分なり。
心の変じたものとは、見えるものと見るものの二つの部分に分かれます。
四分の義は、下に明かすところのごとし。
四分の意味は以下に説明されているとおりです。
第四章 四分の解説
第一節 総 説
問う。
問います。
八識心王とおよび諸の心所との所縁の境は、もし能縁の外に別に体有りや。
八つの心という王様と、さまざまな心のはたらきによって縁じられる対象は、それを縁じる心の外に別に本体があるのでしょうか。
もし爾りと言わば、唯識に違すべし。
もし、そうだと言うならば、ただ心のみがあることに矛盾します。
もし爾らずと言わば、その体、如何。
もし、そうではないと言うのならば、その本体は何でしょうか。
もし、すなわちこれ心ならば、すでに慮と非慮と、体と用と各別なり。
もし、その本体は心であるというのであれば、すでに思考作用を有するもの(心)と有しないもの(対象)、本体とはたらきと、別々であるはずです。
もし各別なりといえども、猶、すなわち心ならば、その理、最も難し。
もし別々であっても、それでも心であるというのであれば、その理屈は非常に難しいものです。
おそらくは不可得ならん。
たぶん、理屈をつけることは不可能であろう。
答う。
答えます。
一切の境界は、みな、自心の用なり。
すべての対象世界は、みな自分の心のはたらきです。
有為の万法は心外になし。
原因と結果の鎖の中にある無数の存在は、心の外にはないのです。
凡そ、厥の心は慮知の法なり。
およそ心というものは、知るものにほかなりません
もし所知なくんば、何を知ってか心となさん。
もし知られるものがなくては、何を知っているがゆえに、心と言ってよいのでしょうか。
今、この縁起の理、必然のゆえに、心・心所、生ずるとき、自体転変して一の所慮・所託の用となる。
今、この持ちつ持たれつの縁起の道理は必然的であるので、心や心のはやらきが生じるとき、その本体が転じ、変化して、知られるもの・託されるものという一つのはたらきとなるのです。
今、この所慮の用を親所縁縁と為す。
今、この知られるはたらきを、親しい対象という原因、とします。
これを相分と名づく。
これを相分と名づけます。
相分、すでに現ずれば、定めてこれを縁ずる能縁の作用有り。
相分がすでに現れているのであるから、かならずこれを対象とする、対象化の作用(志向性)が働いているはずです。
これを見分と名づく。
これを見分と名づけます。
見分、すでに起これば、定めてこれを知る内縁の作用有り。
見分がすでに起こっているのであるから、かならず、これを知る内縁の作用がなければなりません。
今、この作用を自証分と名づく。
今、この作用を自証分と名づけます。
この用、すでに起これば、また定めて、これを知る内縁の作用あり。
このはたらきが、すでに起こっているのであるから、またかならず、これを知る内縁の作用がなければなりません。
この用を名づけて、証自証分と為す。
このはたらきを証自証分と名づけます。
この用、すでに起これば、また定めてこれを知る内縁の作用あり。
このはたらきが、すでに起こっているのであるから、またかならず、これを知る内縁の作用がなければなりません。
これ、すなわち返って前の自証分なり。
これは元に戻って前の自証分となります。
心分すでに同なれば、まさにみな証すべきがゆえに、是の如く証知するに、その用満足す。
心の部分として同じであって、どの部分も証知されるべきであるので、このように証知すれば、そのはたらきは満足されることになります。
ゆえに自証分は見分、および第四分を縁ず。
このようなわけで自証分は見分、および証自証分を縁じます。
このゆえに第五分を立てざるなり。
したがって第五分は立てないのです。
是の如きの妙理、能く成立しおわれば、心と境と、慮と非慮なりといえども、みな一心の用にして如幻、虚仮なり。
このような察しがたい真理が、うまく成立しているので、心とその対象、知るはたらきのあるもの、そうでないものと言っても、すべては一つの心のはたらきであって、幻の如く、虚仮です。
ゆえに唯識の義、能く成立するなり。
だから、ただ心のみであるという教義が成立するのです。
その重ねたる意に云く
繰り返し、その意味を述べよう
心、もし堅実ならば、心、転じて境となり難し。
心がもし、堅い実体であったならば、心が転じて対象となることはできない。
境、もし堅実ならば、また心内となり難し。
対象が、もし堅い実体であったならば、また心の内部にあることはできない。
諸法は心より起きて、みな、夢境の如くなるがゆえに、虚仮の慮・非慮なり。
さまざまなものが心から起こって、すべてが夢の境のようであるから、虚仮の知るはたらき・知られる対象なのです。
実の能、所取なし。
実体として、取るもの(知るもの)・取られるもの(知られるもの)があるわけではありません。
誰を執してか心外となさん。
心の外に、(自分といわれる)執着の対象を置くことができるだろうか。(自己はかならず心の内にいる)
ゆえに一切唯識なり。
だからすべてのものは、ただ心のみのものです。
第二節 さまざまな問い
(1) 八つの問い
問う。
問います。
(第一問)もし心は能知の法なるがゆえに、心転じて境とならば、境もまた、所知の法なるがゆえに、境転じて心となるや。
(第一問)もし、心は知るものであるから、心が転じて対象となるのであれば、対象もまた、知られるものであるから、対象が転じて心となることもあるのか。
(第二問)次に、たとい境体心外にありといえども、心起きて之を縁ぜば、知慮の法成ず。
(第二問)次に、たとえ対象の本体が、心の外にあったとしても、心が起動して、これを縁じることができれば知るということが成立します。
何んが、かならず心体転じて境となるや。
どうして、かならず心の本体が転じて対象とならなければならないのか。
(第三問)次に、たとい相現ずといえども、自証直ちに縁ずべし。
(第三問)次に、たとえ相分が現じるということがあるにしても、(心の本体である)自証分が直接これを縁じるべきであろう。
かならず見分の用を起こすは、何の深理有りや。
かならず見分のはたらきを起こさなければならないというのは、どのような深い理由があるのか。
(第四問)次に、もし見分を起さば、心・境の二、ここに足んぬ。
(第四問)次に、もし見分を起こしたならば、心とその対象という二つが、これで足りてしまう。
なんぞ見分の外に、また自証分を立つるを須いん。
どうして見分の外に、また自証分というものを立てなければならないのか。
(第五問)たとい自証分を立つるとも、見分、通じて内を縁ぜば三分をもって足るべし。
(第五問)たとえ自証分を立てたとしても、見分が(外である相分と)兼ねて内(自証分)を縁ぜば、三分でもって足りるであろう。
なんぞ第四を立つることを須いん。
どうして証自証分を立てる必要があるのか。
たとえば、自証分、見と証自証とを縁ずるがゆえに、第五を立てざるが如し。
たとえば自証分が、見分と証自証分とを縁じるので、第五番目を立てる必要がなかったようにである。
(第六問)次に、境は所知のゆえに、心の定めて縁ずるは尤もその理あり。
(第六問)次に、対象は知られるものであるから、心が、かならずこれを縁じるのはもっともであり、道理もあります。
その後三分は、みな、能縁の中の差別なり。
後半の三分(見分、自証分、証自証分)は、どれも知るものの中の区別です。
なんぞ強いて見を知り、ないしまた、証自証を知るや。
どうして強いて見分を知ったり、ないしまた証自証分を知ったりする必要があるのか。
もし知らずんば何の失ありや。
知らなかったら、どのような過失があるのか。
(第七問)次に、自証分もまた、これ心用ならば、四分皆用たり。
(第七問)次に、自証分もまた心の作用であるなら、四分すべて作用ということになる。
何をもって心体となすや。
何が心の本体なのか。
(第八問)抑も、唯識とは心外に別法あることなき義なり。
(第八問)抑も唯識とは、心の外に別にものがあることはないという教えであった。
ただ、一心を立ててもって宗と為すべし。
ただ一つの心を立てて宗義とするべきではないのか。
心内の法というといえども、猶、非心の法を許さば、豈、これ心外無別法の教ならんや。
たとえ心の内のものであると言っても、やはり心ではない存在を許すのであれば、どうしてこれが心外無別法の教えと言えようか。
(2) 答え
1、 第一問への回答
答う。
答えます。
色・声等の法は質礙を体となす。
色・音などのものは、質礙(質量[度をもった質]を持ち、何らかの空間を占めるもの)が本体です。
(定果の色等は、無見無対といえども、心に対すれば、猶、これ有質礙なり)
(禅定の結果、顕れる色などは、見ることも触ることもできないとはいえ、心に対するときは質礙あるものとなります。)
仮令、心の所縁たらずといえども、而も猶、色・声等の法たるべし。
たとえ心の対象でなかったとしても、やはり色や音といったものであるだろう。
ゆえに境体転じて心となる義なし。
だから対象の本体が転じて心となる道理はありません。
諸の心・心所は縁慮を体と為す。
さまざまな心や心のはたらきは、なにものかを志向(縁じて知ること)することを本体とします。
仮令、縁慮せらるる物なくば、何物を縁慮して縁慮の法とならん。
もし志向される物がなかったなら、何を志向して志向するものとなれるだろうか。
ゆえに心体転じてかならず境となるなり。
したがって心の本体が転じて、かならず対象となるのです。
これすなわち、縁慮分別の法は、法の中に勝るがゆえに、自在の力ありて能く諸法を造す。
このようなことがあるのは、志向したり、分別したりするもの(心)は、存在するものの中でも勝れたものであるために、自在の力があって、さまざまなものを造り出すことができるからです。
非縁慮の法は、体性鈍劣なれば、豈、体転じて縁慮の用を起こすに堪えんや。
知るはたらきを持たないものは、本体・本性が鈍く、劣っているので、どうして、その本体が転じて、知るはたらきを起こすことができるでしょうか。
2、 第二問への回答
但し、心外の実境を許さざるは、多くの道理あり。
ただ、心の外に実の対象を許さないのには多くの道理があります。
『唯識』等に外道・小乗の実我・実法を破する種々の文理、すなわちこれなり。
『成唯識論』などにおける、外道や小乗仏教徒が主張する、実の我、実の存在を論破する、さまざまな文に示された道理がそれです。
挙げ尽くすに遑あらず。
挙げていったらきりがありません。
然るに、今、しばらく『阿毘達磨経』の中の所説の四智成就の菩薩の所観を挙げ、略してその相を示さん。
しかし今は、ひとまず『阿毘達磨経』の中で説かれている、四智成就の菩薩が観る智慧を挙げて、略説ながらも、どのようなものであるかを示そうと思います。
一に相違識智。
一つめは、識るところが相違するという智慧です。
謂わく、一処において、鬼・人・天等は、業因の力に随いて所見各別なり。
すなわち、一つの場所でも、餓鬼・人・天などは、業という原因の力にしたがって、見えるものが各々別になります。
鬼は見て火となし、人は見て水となし、天は瑠璃と見、傍生は宅と見る。
餓鬼は火であると見るし、人間は水であると見、天人は宝石であると見、動物(魚)は家であると見ます。
是の如き等の見、種々不同なり。
これらの見え方は、さまざまであって同じではないのです。
境、もし実有ならば、是の如く、能見の者の業因の差別に随いて、種々転変すべけんや。
対象が、もし実際に在るのなら、このように見るものの業の原因の違いによって、さまざまに、ころころ変わるであろうか。
二に無所縁識智。
二つめは対象がなくても識る智慧。
謂わく、過去・未来・夢等の非実の境を縁ずる時、境は実有にあらざれども心は現に可得なり。
すなわち、過去や未来や夢などの非現実の対象を縁じるとき、対象は実際に在るわけではないけれども、そのような心は現に存在します。
心、もしかならず外境に託して起らば、是の如きのとき、その事、如何。
心が、かならず外の対象に依存して起こるのであれば、このような場合は、どう説明されるのであろうか。
これをもって、一切の境界を例知すべし。
これから、すべての対象世界についても、参考にして知るべきです。
三に自応無倒智。
三つめは自然に悟ってしまっているという智慧。
謂わく、もし境体、定めて実有ならば、一切の凡夫、みな、まさに、これ聖なるべし。
もし、対象の本体が実際に在るということに間違いないならば、普通の人が、すべて聖者でなければなりません。
本来、心外の境を悟証するがゆえに。
初めから、心の外の対象を悟っているからです。
若ししからば、功用を仮らずして自然に解脱をうるべし。
もしそうなら、努力しないでも自然に解脱が得られることになるでしょう。
なんぞ然らざるや。
どうして、そうなってはいないのか。
四に随三智転智。
四つめは、三つの智慧にしたがって転じる智慧です。
謂わく、三智とは、一に随自在者智転智。
すなわち、三つの智慧とは、一つめは自在者にしたがって転じる智慧です。
謂わく、己に心自在を証得せる人、自らの所欲に随いて水等を転変すること、皆、能く成ず。
すなわち、自身が心自在という超能力を証得した人は、自分の思うままに水などを現し出すことが、すべてできます
境、もし実ならば、なんぞ是の如く、心に転じて転変すべけん。
対象が実体なら、どうしてこのように、心を転じるだけで(対象が)転変したりするのか。
二に随観察者智転智。
二つめは、観察する人の智慧にしたがって転じる智慧です。
謂わく、勝定を得て法観を修する者は、一境を観ずるに随いて青お等の相、種々顕現す。
すなわち、勝れた禅定を得て、存在にかんする観法を修する人は、一つの対象を集中して観じるとき、青く爛れた死体などの姿が、さまざまに顕現してきます。
境、もし実ならば、豈、是の如く心に随いて顕現すべけん。
対象が実体であるなら、どうして、このように心にしたがって顕現してくるのであろうか。
三に随無分別智転智。
三つめは分別のない境地において転じる智慧です。
謂わく、実を証する無分別智を起こせば、一切の境相、皆、顕現せず。
すなわち、実の境地を悟る無分別智を起こせば、一切の対象の姿が、すべて現れません。
境、もし実ならば、なんぞ是の如く、実を証する智の前に顕現せざるや。
対象が、実体であるなら、どうしてこのように、実を悟る智慧の前に現れてこないのか。
菩薩、この四智を成就するとき、唯識の理において決定して悟入す。
菩薩が、この四つの智慧を完成させるとき、ただ心のみであるという真理にかならず悟入します。
このゆえに、心外の境を許さざるなり。
このようなわけで、心の外の対象を認めるわけには行かないのです。
3、 第三問への回答
次に自証分とは、心、還って自を知る用なり。
次に、自証分とは、心がふり返って自分(見分)を知るはたらきです。
豈、直ちに相分の境を縁ずべけんや。
どうして直接、相分の対象を縁じなければならないことがあろうか。
このゆえに、心、境を縁ずる作用を起こすは、これすなわち見分なり。
したがって、心で対象を縁じる作用を起こすのは見分です。
若ししからば、自証直ちに境を縁ずべしとは、言うに足らざるなり。
もしそうなら、自証分が直接対象を縁じるべきであるなど、言う価値もないことであろう。
4、 第四問への回答
次に、凡そ能量・所量の法は、かならず量果あり。
次に、あらゆる量るものや量られるものには、かならず量られた結果があります。
若ししからずんば、この量知において、果、成する所なし。
もしそうでないなら、この量り知ることにおいて、結果というものが成り立ちません。
豈、道理に応ぜんや。
どうして道理に合うであろうか。
是のゆえに、是の如く、第三分ありて見分を証知す。
ゆえに、このように三つめの部分があって、見分を証知しているのです。
見分は能量にして相分を知るなり。
見分は量るものであって、相分を知ります。
譬えば人ありて、丈尺をもって、絹等を量るときの如し。
たとえば人が、物差しでもって、絹などの長さを測るときのようです。
絹等は所量、丈尺は能量、人は量果なり。
絹などは量られるもの、物差しは量るもの、人は量った結果です。
丈尺の能く絹等のものを量るは、その量るところ成ずるを、人、証知すればなり。
物差しが絹などのものを量ることができるのは、量られたということが成立していることを人が証知するからです。
若しその人の証知を引かずんば、丈尺の能量、絹等の所量、何の用あらんや。
もし人が証知をするということがなかったならば、物差しの量る能力、絹などの量られるもの、これらに何の用があろうか。
丈尺、能く絹等を量るとき、人能く丈尺の分斉を証知す。
物差しが絹などを量ることができるときとは、人がその物差しの分量を証知するすることができるときです。
ゆえに、能・所量の義、能く成立す。
だから量るものと量られるものとが成立できるのです。
若し丈尺なくんば、人、豈、絹等の分斉を知ることを得ん。
もし物差しがなかったなら、人はどうやって絹などの分量を知ることができるだろうか。
若し絹なくば、人、またなんぞ丈尺等を用いることを得ん。
もし絹がなかったなら、人はどうして物差しなどを用いることがあろうか。
若しその人なくば、誰か丈尺の能く絹等を量ることを知らん。
もし人がいなかったら、誰が物差しが絹などを量ることができることを知るだろうか。
三分の妙理も、亦また、是の如し
三分の絶妙な道理も、また、このようなものです。
相分は所量、見分は能量、見分、能く相分を量るとき、かならず内に見分の能量を証知す。
相分は量られるものであり、見分は量るものであり、見分が相分を量るときには、かならず内側で、見分が量っていることを証知している。
量知の義、これによって成立す。
量り知るということは、これによって成立するのです。
若し見分なくんば、心、豈、色等の境界を知ることを得ん。
もし見分がなかったなら、心はどうやって色などの対象を知ることができよう。
若し相分なくんば、縁用を起こすとも、何の所用かあらん。
もし相分がなかったなら、縁じる作用を起こしても、何の用があるというのか。
もし自証なくんば、誰か見分、能く相分を縁ずと知らん。
もし自証分がなかったなら、誰が見分が相分を縁じていることを知るだろうか。
是のゆえに、定めて第三分を立つるなり。
だから、かならず第三分を立てなければならないのです。
5、 第五問への回答
次に、内証の用は深細なるがゆえに、かならず現量なり。
次に、内感のはたらき(自証分・証自証分)は深細であるから、かならず直知です。
而るに、その見分は、これ外縁の用なれば、理として三量に通ず。
けれども、見分は外を縁じるはたらきなので、道理として三つの認識方法に通じます。
(五、八識等の見分は現量なり。
(五つの感覚器官やアーラヤ識の見分は現量です。
然るに、凡そ見分は三量に通ずる法なり。
しかし一般に、見分は三量に通じるものです。
ゆえに総じてこれを論ず。
だから、(今は)総じて、これを論じます)
如何ぞ己の内体を知ることを得んや。
どうして自らの内側の本体を知ることができようか。
もし自分の現量のときに約せば爾るべし。
もし自分が直知のときであれば、そのようでもあるだろう。
見分の比・非量のときは、誰か自体を知らん。
しかし見分が記述知(考えた結果わかったもの)や間違った認識のときには、誰が自体を知るのか。
明らかに知る、見分は、本、これ、相分を縁ずる用たり。
これらから明らかに、見分は、もともと相分を縁じるはたらきであることがわかる。
ゆえに現量の見なりといえども、自体を証知する義、不可得なり。
したがって直知の見分であっても、自体(分)を証知するという理屈は成り立たない。
何に況んや、もし第四分なくんば、第三の能量はまさに量果なかるべし。
さらには、もし第四分がなければ自証分には量った結果がなくなってしまう。
豈、大過にあらずや。
これが、どうして大きな誤りではないのか。
(佛果の三は四を縁ずる等のことは、下に至って知るべし)
(佛果の見分、自証分、証自証分は四分を縁じることができることなどは、後で知ることができます)
是のゆえに、かならず証自証分を立つ。
これらから、かならず証自証分を立てるのです。
その自証分は、すでに中間に居して内縁現量なり。
一方、自証分は、すでに中間に位置していて、しかも内側を縁じる直知のはたらきです。
ゆえに見分を知り、また、第四を知る、その義、成立す。
したがって見分を知り、また証自証分をも知る、その理屈が成立するのです。
なんぞ、すなわち例となさん。
どうして、それが例となり得ようか。
6、 第六問への回答
次に、この四分は、皆これ心分なれば、皆まさに証知すべし。
次に、これらの四分は、すべて心の部分なので、それぞれみな証知されるべきです。
若ししからずんば、一心の中に自ら知らざる所あるは道理に応ぜず。
もしそうでないと、一つの心の中に自分の知らない部分があることになり、道理としておかしくなります。
ゆえに後三分、みな、能縁なりといえども、その中、猶、是の如き微細なる相縁の義あり。
したがって見分・自証分・証自証分の後三分は、どれも縁じるものであるけれども、その中には、このように微細な、互いに相縁じあうはたらきがあるのです。
みな、所知を成ず、豈、深妙にあらずや。
どれもが知られるものとなる、どうして深妙でないことがあろうか。
7、 第七問への回答
次に、心は微細にして体、用、知り難し。
次に、心は微細で、その本体・はたらきは知り難いものです。
只、作用をもってこれを顕示するのみ。
ただ、そのはたらきによって、その存在が示されるだけです。
ゆえに四分は、みなこれ心用なり。
したがって四分は、すべて心のはたらきです。
然り而して、この四分の中において、強いて体・用を判ぜば、第三の自証、独りその体に当たる。
とは言うものの、この四分の中で、強いて体・用を判断すれば、第三の自証分ただ一つが、その本体に当たります。
独り中間に居して、普く前後を証す心の根本の義、余に異なるがゆえなり。
一人だけ中間に位置して、等しく前後を証知する、心の根本という意義が、他のものと異なっているためです。
8、 第八問への回答
次に、唯識とは、諸法の源を尋ねて有為の起こりを論ず。
次に、唯識とは、さまざまな存在の源を尋ねて、原因と結果に縛られているものどもの起こりを論じるものです。
まったく唯祇一個の心法にして、すべて余法なきにあらず。
まったくただ一つの心だけがあって、そのほかのものは何ひとつないというものではありません。
是のゆえに万差の諸法を許すといえども、みな心より起きて一法として心内に非ざること有るなし。
したがって千差万別のものを許すけれども、すべて心から生起し、一つとして心の内でないということはありません。
心内に在りといえども、色・声・水・火・眼・耳等の法、種々の差別、宛然として存せり。
心の内に在るといっても、色や音や水や火や眼や耳などといった、さまざまなものが、そのまま、私たちが見るとおりに存在しています。
存すといえども、みなこれ自心より起こりて夢境の如くなるがゆえに、唯識と名づくるなり。
しかし存在するといっても、すべて自らの心から起こったもので、夢の世界のようなので、唯識と名づけるのです。
これによって、まさに心内の諸法は、諸法、みな存す。
ここから、心の内のさまざまなものは、すべてみな存在すると言える。
心外の諸法は、諸法みな無なりというべし。
心の外に在るさまざまなものは、すべてみな無であると言わなければならない。
「経」の中の「心外無別法」とは、すなわちこの義なり。
『華厳経』の中の「心外無別法」とは、この意味です。
この理を知らざる人は、唯心の教文に迷い、返って因果撥無の悪見を発す。
この道理を知らない人は、ただ心のみの教えの文章に迷って、返って因果の法則を否定してしまう間違った考えを起こしてしまうのです。
甚だ悲しむべし。
大変悲しいことです。
第三節 八つの心における四分のはたらき
問う。
問います。
今、この四分を八識に相配するの方、如何。
今、この四分を八つの心に割り当てたら、どうなりますか。
答う。
答えます。
八識の一一に、みな、四分あり。
八つの心の一つ一つに、みな四分があります。
相応の心所の一一も、また然り。
対応している心のはたらきの一つ一つにも、また四分があります。
しばらく、眼識において四分を明さば、今、この識体生起のとき、第八識所変の色塵をもって疎所縁と為す。
しばらく眼識を例にとって四分を説明しますと、今、この眼識の本体(自証分)が生起するときには、第八識が変じた物質(器界)を疎い対象とします(眼識が生起するとき、アーラヤ識もかならず同時に生起していることを思い出そう)。
ゆえに自体転じて色の影像を現ず。
これにより眼識の本体が転じて、色(青・黄・白等)の影像が現れます。
この影像をもって親所縁と為す。
この影像を親しい対象とします。
ゆえに、これを縁ずる能縁の作用を起こす。
ここから、これを縁ずる作用が起こります。
その色の影像を名づけて相分と為し、これを縁ずる作用を名づけて見分と為す。
その色の影像を相分と名づけ、これを縁じる作用を見分と名づけます。
今、この二分は心の自体の上の所現なり。
今の、この二分は心の自体の上に現れたものです。
この二用を起こす、所依の自体を自証分と為す。
この二つの作用を起こす依り所となった本体を自証分とします。
自体を証する用を、これすなわち、名づけて証自証分と為す。
自体を証知するはたらきを証自証分と名づけます。
是の如く、耳等の余識の四分も、これに準じて知るべし。
このように、耳などの残りの心の四分も、これに準じて知るべきです。
五塵の境をもって、是の如き眼等の五識に相配するに、その相、顕然たり。
五つの物質的対象を、このような眼などの五つの心に配当すると、その姿(質感)が明らかとなります。
第六意識は十八界の諸法を縁じて境と為す。
第六意識は十八の領域のすべてのものを縁じて対象とします。
応に随いて諸法の影像を変現し、応に随いて、この能縁の作用を起こす。
場合に応じて、様々なものの影像を変現し、場合に応じて、これを縁じる作用を起こします。
これすなわち第六意識の自体分の転変する所なり。
これは第六意識の自証分が転変したものです。
第七末那は、第八識の見分を縁じて境と為す。
第七末那識は、第八アーラヤ識の見分を(疎縁=本質として)縁じて対象とします(→帯質境)。
第八羅耶は、種子・五根・器界の三種の境界を変現す。
第八アーラヤ識は、種子・五根・器界の三種類の対象世界を変現します。
余義は、前に准ず。
残りの意義は、前に準じます。
然るに、諸の後二分は、みなこれ、ただ現量なり。
ところで、それぞれの後半の二分(自証分と証自証分)は、ただ直知のみです。
見分の量は識に随いて同じからず。
見分の認識方法は、心によって違います。
謂わく、五・八識の一一の見分は一向に現量なり。
五つの(感覚的な)こころ、第八アーラヤ識の一つ一つの見分は、ただただ直知のみです。
第七の見分は、一向に非量なり。
第七末那識の見分は、ただただ間違った認識です。
第六の見分は、まさに三量に通ずべし。
第六意識の見分は三つの認識方法に通じます。
相分は非縁慮のゆえに、三量の摂にあらず。
相分は志向するものではないので、三つの認識方法には所属しません。
相応の四分は、これに準じて知るべし。
対応している心のはたらきの四分は、これに準じて知るべきです。
第四節 八つの心の相分の本質について
問う。
問います。
八識聚の相分は、みな本質ありや。
八つの心の相分には、みな本質があるのか。
答う。
答えます。
五識と第七とは、かならず本質あり。
五つの(感覚的な)こころと第七末那識の相分には、かならず本質があります。
五識は、ただ第八の相分に託して(三種の境の中、器界は五塵を体となす。
五つの(感覚的な)こころは、ただ第八アーラヤ識の相分(器界)のみに依存して(第八アーラヤ識の三種類の対象の中で、器界は五つの物質[もの自体としての波動関数に当たる]を本体としています。
五識、之を縁じて本質と為すなり)
五つの(感覚的な)心は、これを縁じて本質とします)
本質と為すがゆえに。
本質とするので。
第七は、恒に第八の見分を縁じて本質と為すがゆえに。
第七末那識は、恒に第八アーラヤ識の見分を縁じて本質とするので。
第六識の境は、本質の有・無、時に随いて不定なり。
第六意識の対象に本質があるかないかは、時によりで、決まっていません。
ある時は質あり。
あるときは本質があります。
謂わく、五塵を縁ずる時等なり。
すなわち、五つの物質を縁じるときなどです。
ある時は質なし。
ある時は本質はありません。
謂わく、過・未および亀毛等を縁ずるの時、これなり。
すなわち、過去や未来、亀の毛などを縁じるときがそうです。
第八識の境は、一向、質なし。
第八アーラヤ識の対象は、まったく本質をもっていません。
先業力に依って、任運に境を変じて、所杖の本質に随わざるがゆえなり。
(前世および現世の)過去の業の力によって、自動的(ユニタリー変換)に対象が変じるので、頼りとするような本質を必要としないからです。
然るに、その疎所縁縁においては、有・無、不定なり。
しかし、その疎い対象としての原因においては、あることもあれば、ないこともあり、不定です。
謂わく、依身(扶塵根)、器界は、他の有情の変をもって疎所縁と為す。
すなわち、身体や、私たちの住む世界は、他の生きものたちも共通に変化させるものであるので、これ(他の生きものたちの気持ち?)を疎い対象とします。
正根、および種子は、ただ、親所縁縁にして疎所縁縁なし。
五つの感覚器官や種子(自分の経験の集積)は、ただ親しい対象としての原因であるのみであって、疎い対象としての原因はありません。
本質の境と疎所縁縁とは大旨、同なりといえども、而も少異あり
本質としての対象と、疎い対象としての原因とは、大旨、同じものだけれども、すこしの違いがあります。
深く、これを思うべし。
深く、これを思うべきです。
第五章 三種類の対象の意味
第一節 本性を有している対象(性境)
問う。
問います。
諸の心・心所、所変の境界に幾種ありや。
それぞれの心や心のはたらきによって変じられる対象世界には、何種類がありますか。
答う。
答えます。
総じて、諸境を判ずるに三類不同なり。
全体を見て、さまざまな対象を判定すると、三種類の違いがあります。
一には性境。
一つめは本性をもつ対象です
所謂、一切、実種より生じて、実の体・用あり。
すなわち、すべて実の種子より生じて、実の本体・はたらきがあります。
能縁の心は、彼の自相を得。
縁じる心は、対象自らの姿を得ることができます。
その境は性を守りて、心に随わざるがゆえに、性境と名づくるなり。
その対象は本性を守って、心に随わないので、本性をもつ対象と呼ばれます。
すなわち、この中において三不随あり。
この中に、三つの(心に)随わないものがあります。
一には性不随。
一つめは、善悪の性質が随いません。
能縁の心と必ずしも同性ならず。
縁じる心と、必ずしも善・悪等の性質が同じではありません。
或は異性のゆえに。
あるいは反対の性質かもしれません。
(性とは善等の三性の性なり)
(ここで性というのは、善などの三つの性質の性です)
二には種不随。
二つめは、種子が随いません。
能縁の心と別の種子のゆえに。
縁じる心とは、別の種子であるから。
三には繋不随。
三つめは所属する世界が随いません。
能縁の心と必ずしも同界、同地繋ならざるがゆえに。
縁じる心と、必ずしも同じ世界、同じ地ではないからです。
是の如く三不随を具足する境を、性境と名づくるなり。
このような三不随をすべて具えた対象を、本性をもつ対象と名づけます。
もし、その体を指さば、すなわち五・八識所変の五塵等の境、これなり。
もし、その本体を指定すれば、それは五つの(感覚的)心と第八アーラヤ識が変じた、五つの物質(影像と本質)などの対象がそれです。(より詳しくは、
1、第八アーラヤ識が変じた相分である種子・五根・器界。
2、前五識が変じた相分である五つの物質。
3、五倶の意識が変じた相分である五つの物質。
4、定心の意識が変じた相分
5、自証分・証自証分が相互に対象として捉えた相分。
6、無分別智所縁の真如
などがあります。)
第二節 独り映ずる対象(独影境)
二には独影境。
二つめは独り映ずる対象です。
所謂、その境は能縁の心と同一種より生じて、実の体・用なく、能縁の心、自相を得ず。
すなわち、その対象は、それを縁じる心と同じ種子から生じて、実の本体・はたらきはなく、それを縁じる心は、それ本来の姿を得ることはできません。
すでに本質なくして影像独り起こる。
したがって本質などはなく、影像のみが独り起こります。
ゆえに独影と名づく。
ゆえに独り起こった影像と名づけます。
すなわち、この中において三の随心あり。
この中に三つ、心に随うものがあります。
一には性随心。
一つめは善等の性質が心に随います。
能縁の心と同一性のゆえに。
縁じる心と、性質が同じですから。
二には種随心。
二つめは種子が心に随います。
能縁の心と同一種のゆえに。
縁じる心と、種子が同じですから。
三には繋随心。
三つめは所属する世界が心に随います。
能縁の心と同界繋のゆえに。
縁じる心と、同じ世界であるから。
是の如く、この三随心を具足するを独影と名づく。
このように、これらの三つの心に随うものをすべて具えた対象を、独影境と名づけます。
もしその体を指さば、第六識、亀毛、兎角等を縁ずる相分なり。
もし、その本体を指定するならば、第六意識が亀の毛、兎の角などを縁じているときの相分です。(より詳しくは
1、 第六意識が無法(亀の毛、丸い三角など)を縁じるときの相分。
2、 第六意識が仮法(心不相応行法など)を縁じるときの相分。
3、 第八アーラヤ識に対応している心のはたらきの相分。
などがあります。)
第三節 本質を帯びた対象(帯質境)
三には帯質境。
三つめは本質を帯びた対象です。
所謂、能縁の心は自相を得ずといえども、而もその境相は本質あるがゆえに、帯質境と名づく。
すなわち、縁じる心は対象本来の姿を得ないけれども、対象の姿自体は本質を有しているから、帯質境といいます。
今、この境はすでに質あるがゆえに、一向に能縁の情に随うべからず。
今の場合、この対象はすでに本質をもっているので、まったく縁じる心の情態に随ってしまうということはありません。
また、すでに境の自相を得ざるがゆえに、一向に本質の境に随うべからず。
また一方で、(縁じる心は)すでに対象本来の姿を得ていないので、まったく対象の本質の境に随ってしまうということもありません。
すなわち、この中において三種の通情本の義あり。
この中で、三種類の(能縁心の)情態と(対象の)本質に通じて随うということがあります
一に性通情本。
一つめは善などの性質が(能縁心の)情態と(対象の)本質に通じて随うというものです。
或は能縁に随い、或は所縁に随う。
あるいは縁じる心に随い、あるいは縁じられる対象に随います。
性を判ずるに不定のゆえに。
性質を判断することが定まらないためです。
二には種通情本。
二つめは種子が(能縁心の)情態と(対象の)本質とに通じて随うというものです。
その種子をもって、或はこれを相従して能縁の種と名づけ、或はこれを相従して本質の種と名づくるがゆえに。
その種子を、あるいは同様に縁じる心の種子とも名づけ、あるいは同様に対象の本質の種子(でもある)とも名づけるからです。
三には繋通情本。
三つめは所属する世界が(能縁心の)情態と(対象の)本質とに通じて随うというものです。
或は説いて能縁と同界繋と為し、或は説いて本質と同繋と為す。
あるいは縁じる心(見分)と同じ世界に所属すると説き、あるいは対象の本質と同じ世界と説きます。
是の如く、三の通情本を具足するを帯質境と為す。
このような三つの(能縁心の)情態と(対象の)本質とに通じて随うことをすべて具えている対象を、帯質境とします。
もし、その体を指さば、第七識、第八の見分を縁じて変ずるところの相分等の類、これなり。
もし、その本体を指定すれば、第七末那識が第八アーラヤ識の見分を縁じて変じた相分などの類いがこれに当たります。
今、この相分、もし能縁に随えば、有覆性と名づく。
今の場合、この相分は、もし縁じる心に随えば有覆無記の性質となります。
その種子は、或は能縁第七の種子に摂し、或は本質の第八の種子に摂す。
その種子は、あるいは縁じる心である第七末那識(の見分)の種子とされ、あるいは本質である第八アーラヤ識(の見分)の種子であるとされます。
その界繋は七・八、二識かならず同繋のゆえに、情と本との界繋は別異ならずといえども、彼此を相従して義をもってこれを説くに、同繋に依らず。
その所属する世界は、第七と第八の二識は、かならず同じ世界に所属するので、情態と本質とが所属する世界は別ではないけれども、かれこれつき合わせて道理からこれを説けば、一般には同じ世界とは限りません。
是のゆえに、この三種の義を具足するなり。
したがって、これら三種類のことを、すべて具えています。
性境の中、心・境、同種等の種々の疑、これに準じて知るべし。
本性をもつ対象の中で、縁じる心と、対象とが同じ種子ではないか等のさまざまな疑いが生まれた場合には、こちらを参考にしてみてください。
(より詳しくは、
1、 第七末那識が第八アーラヤ識の見分を縁じるときの相分。
2、 第六意識が誤認(非量)する時の相分。
などがあります。)
然るに、この三境はみな心所変なり。
しかし、これらの三つの対象は、どれも心が変じたものです。
ゆえに不随心をも、みな唯識と名づく。
だから、心(見分)に随わないものでも、みな唯識であると言えます。
その源を論ずるがゆえに。
その源を論じれば、そうなるからです。
夢境の如くなるがゆえに。
夢の世界のようなものだからです。
第六章 種子の熏習
第一節 種子から生じるもの
問う。
問います。
百法の中において、幾ばくかこれ、種子所生の法なるや。
百の存在の中で、どれだけが種子から生じたものであるか。
答う。
答えます。
六無為を除いて所余の法の中、あらゆる実法は、もしくは心にもあれ、もしくは色にもあれ、みなこれ種子所生の法なり。
六つの無為を除いた、残りのものの中で、あらゆる実の法は、心であろうと、物質であろうと、すべて種子から生じたものです。
第二節 種子とは何か
問う。
問います。
今、この種子は何をもって体となすや。
この種子は、何が本体なのか。
答う。
答えます。
それ種子は第八識中の生果の巧能なり。
種子は、第八アーラヤ識の中にある、果報を生じさせる力です。
これに二種あり。
これには二種類があります。
一に、本有種子。
一つめは、本からある種子です。
謂わく、無始法爾に、第八識処に、親しく彼彼の諸法を生ずべき巧能差別あり。
すなわち、始まりのない昔から、自然に、第八アーラヤ識の場所に、直接あれこれのさまざまなものを生じさせる(世界に備え付けの)特殊な可能力があります。
これを、すなわち名づけて本有種子と為す。
これを本有種子と言います。
二に新熏種子。
二つめは、新たに薫じられた種子。
謂わく、七転識、応に随いて薫ずるところの色心万差の種々の習気、みな、ことごとく阿頼耶の中に落在し、みな彼の識の生果の巧能を成ず。
すなわち、(アーラヤ識以外の)七つの転識が状況に応じて薫じつけた、物質や心の千差万別のさまざまな気分は、すべてことごとくアーラヤ識の中に落ち込み、それらはみな、アーラヤ識の果報を生じさせる力を形成します。
これを、すなわち名づけて新熏種子と為す。
これを新たに薫じつけられた種子と言います。
今、この新古二類の種子、倶に具足するとき、必定して自果の現行を生ぜしむ。
今の、この新旧二種類の種子が共に揃ったときには、かならず自らの果報である現われを生じさせます。
謂わく、一処の青色、生ずるときの如き、その能生の親因縁の法を尋ぬるに、定めて二種あり。
すなわち、一つの場所に青色が生じる場合などでは、それを生じさせる直接の原因を調べてみると、かならず二種類あることがわかります。
一には無始法爾に、今、この青色を生ずべき、第八識中の生果の巧能なり。
一つめは無始の昔から自然に存在してきた、今のこの−青色−を生じさせる、第八アーラヤ識中の果報を生じさせる力です。(本有種子)
二には、前心、青色を縁ずる時、その自心分別の勢力によって、相分の中に数数、薫ずるところの青色の習気、本識の中に在りて、また彼の識の生果の巧能を成ず。
二つめは、過去に心が青色を縁じた時の、その自らの心の分別の勢力によって、相分の中にしばしば薫じた青色の気分が、アーラヤ識の中にあって、それがまた、この識の果報を生じさせる力を形成しています。(新熏種子)
自余の諸法、これに準じて知るべし。
これ以外のさまざまなものについても。これに準じて知るべきです。
第三節 四つの問い
問う。
問います。
(第一問)七転識の種子を薫ずるの相、委しくこれを成ずべし
(第一問)七つの転識が種子を薫じる姿を、委しく説明してください。
(第二問)また、業種子と無漏種子とその体、云何。
(第二問)また、業種子と穢れのない種子とは、その本体はどのようなものか。
(第三問)また、ただ、新熏種子のみありて、本有種子無きの法ありや。
(第三問)また、ただ新熏種子だけがあって、本有種子がないものはあるか。
(第四問)また、ただ本有種子のみありて、新熏種子無きの法ありや。
(第四問)また、ただ本有種子だけがあって、新熏種子がないものはあるか。
第四節 第一問への回答
(1)どのようにして種子を熏じるのか
答う。
答えます。
種子熏習の義、甚だ微細なり。
種子を熏習する道理は、甚だ微細です。
その大都を論ずるに、七転識の中、勝用ある心(謂わく、善・不善・有覆無記・無覆の中において、異熟心を除く余の三無起なり)
そのおおよそを論ずると、七つの転識の中で、強いはたらきのある心(すなわち、善心・不善心・有覆無記心・無覆無記心の中の異熟心を除く、残りの三無記心、すなわち工巧無記心・威儀無記心・通果無記心です)は、
応に随って、境を縁じて、見分は能く能縁の習気を留む。
状況に応じて、対象を縁じると、見分は縁じるはたらきの気分を留めることになります。
これ後三分の種子なり。
これは後三分、すなわち見分・自証分・証自証分の種子です。
相分は、能く所縁の習気を留む。
相分は、縁じられた対象の気分を留めることになります。
中にその二種あり。
その中に、二種類があります。
一には、影像相分の種子。
一つめは、相分の影像の種子です。
二には、この本質の種子なり。
二つめは、相分の本質の種子です。
(もし瓶等の仮法を縁ずるの時は、種子を雑熏す)
(もし瓶などの仮の存在を縁じた時には、種子を雑熏[瓶と見ている見分の種子、相分の種子、本質の種子]します)
ある時はまれに、ただ、相分の自の種子を薫じて、彼の本質の種子を薫ずる能わざるあり。
ある時はまれに、ただ相分自らの種子を薫じるだけで、その本質の種子を薫じることができない場合があります。(本質を帯する独影境の場合)
これを委らかにするに、遑あらず。
これを委しく説明する時間が、今はありません。
今、この相・見、二分の熏習を用の能熏と名づく。
今、この相分・見分、二分の熏習を、(相・見の二分は)用(はたらき)を熏じる力があると言います。
まさに知るべし。
よく知るべきです。
一切諸法の種子、みなこれ、自心の自体勢力の起こす所なり。
すべてのものの種子は、みな、自らの心の自体(自証分)の勢力が起こしたものです。
しばらく一事を指さば、或は人ありて怨家の声を聞き、悪心を起こすとき、この一念の中、かならず両識あり。
しばらく一例を挙げると、あるところに人がいて、日頃、憎らしいと思っている家の人の声を聞き、悪心を起こすとき、この一念の中には、かならず二つの識が含まれています。
一には耳識、二には同縁の第六識なり。
一つめは耳識、二つめは同じものを縁じている第六意識です。
今、この両識は、そのとき、その性ともに不善にして強用あり。
今の、この二つの識は、そのとき、その性質はともに不善であって強いはたらきをもっています。
ゆえに彼此の見分、ともに能縁不善の習気を留む。
したがって、それらの見分は、ともに不善の縁じるはたらきの気分を留めます。
耳識見分の留むる所は、すなわちこれ不善耳識の種子なり。
耳識の見分が留めるのは、不善の耳識(見分・自証分・証自証分)の種子です。
意識見分の留むる所は、すなわちこれ不善意識の種子なり。
意識の見分が留めるのは、不善の意識(見分・自証分・証自証分)の種子です。
是の時、彼此両識の前に、各一箇の声塵の相分、現ず。
このとき、それぞれ二つの識の前には、各々一つの音の相分が現われています。
今、この彼此両箇の相分、各相分、声塵の習気を留め、および本質、第八所変の声塵の習気を留む。
今の、これら二つの相分は、各々の相分が、音の気分を留め、さらにその本質、すなわち第八アーラヤ識が変じる音の気分を留めます。
彼の相分の自の習気は、すなわちこれ耳識・意識の各々の相分の種子なり。
相分の自らの気分、すなわちこれが耳識・意識の各々の相分の種子です。
これらの種子は、併せて、これ、悪心の熏習する所なり。
これらの種子はともに、(一つの)悪心が熏習したものです。
所謂、耳識の見・相の所熏は、みなこれ、不善の耳識の自体の勢力、これを薫ず。
すなわち、耳識の見分・相分が熏じるものは、みな不善の耳識の自体の勢力が薫じたものです。
同時の、意識の見・相の所熏は、みなこれ、不善の意識の自体の勢力、これを薫ず。
同時に起こっている意識の見分・相分が熏じるものは、みな不善の意識の自体の勢力が薫じたものです。
これはこれ、しばらく心王に約して、之を明かす。
これらのことは、しばらく心王を例にとって説明したものです。
もし、心所を併せば、すなわち衆多の見・相の所熏あり。
もし、心のはたらきをも合わせれば、さらに多くの見分・相分によって薫じられるものがあることになります。
是の如く、一時一念の所熏に多の種子あり。
このように、一時・一念の間に薫じられるものでさえ、多くの種子となります。
何に況んや念念をや。
まして念念を考えれば、大量となるでしょう。
(2) 熏習される場所
この諸の種子、みな、ことごとく自心の底に落在す。
これらのさまざまな種子はすべて、一つ残らず自心の底に落ち込みます。
一、落在しおわれば、聖道をもって断捨するを除くの外、相続流来して、猶、暴流の如し。
一度、落ち込んでしまうと、聖道をもって断ち、捨ててしまわない限り、相続して流れ続けること激しい河の流れのようです。
念念生滅して、間断あることなし。
瞬間、瞬間、生滅をくり返して、断絶や休みはありません。
その心底とは、すなわちこれ第八阿頼耶識なり。
その心の底とは、第八アーラヤ識です。
此の識、独り諸法の種子を持して、失壊せざらしむ。
この識、ただ一つがさまざまな種子を維持し、失ったり壊したりさせません。
余の一切法は、みな、この力なし。
残りのすべてのものに、この能力はありません。
所以は如何。
それは、どうしてでしょうか。
或は間断のゆえに。
あるいは断絶したり休んだりするからです。(アーラヤ識以外の諸識)
或は転易のゆえに。
あるいは善悪の性質が変わったりするからです。(第六意識等)
或は堅密のゆえに。
あるいは逆に、永遠不変のものであるからです。(無為法)
或は主に非ざるがゆえに。
あるいは主体ではないからです。(心のはたらきなど)
みな、諸の種子を受容する徳無し。
どれも、さまざまな種子を受容する資格がありません。
種を持すること能わず。
種子を維持することはできません。
所以に第八心王、独り諸法の種子を持す。
ゆえに第八心王のみが、ただ独り、さまざまな存在の種子を保持しているのです。
しばらく一事を指しおわんぬ。
しばらくの間、一例を挙げおわりました。
余はこれに准じて知るべし。
その他のことは、これに準じて知るべきです。
(3) 熏習することができないもの
一切、異熟の心・心所法は、その性、羸劣にして種を薫ずること能わず。
すべての先業の果報としての心および心のはたらきは、その本性が貧弱であるために種子を薫じることができません。
その法の種子は他識、これを縁ずる相分の中に、彼の種子を薫ず。
そのものの種子は、他の識がこれを縁じる相分の中で、その種子を薫じます。
すなわちこれ、本質の種子なり。
それは本質(器界・五根・アーラヤ識の見分)の種子です。
その勝用ある相応の心所もまた、一一彼彼の種子を薫ず。
その強い作用のある、対応する心のはたらきも、また、一つ一つあれこれの種子を薫じます。
王と異なること無し。
心王と異なるところはありません。
その異熟心、相応の心所もまた、心王の如く種を薫ずること能わず。
その先業の果報としての心に対応している心のはたらきも、また、心王と同じく種子を薫じることはできません。
みな、心王に准じてその相、知るべし。
すべて心王に准じて、そのありようを知るべきです。
第五節 第二問への回答
(1) 業種子とは何か
次に業種とは、是の如き三性の諸の心・心所、種子を薫ずる中、善悪二心の見分、各々、善悪、二性の自の後三分の種を薫ず。
次に、業種子とは、このように三性のさまざまな心や心のはたらきが種子を薫ずる中で、善と悪の二つの心の見分は、各々、善と悪の二つ性質の後三分、すなわち見分と自証分と証自証分の自身の種子を薫じますが、
その中、思の心所、所熏の自の種子は殊に造作強勝の功力あり。
その中で意志の心のはたらきが薫じた自身の種子には、強力な創造力があります。
当来果報の種子を資助して(すなわちこれ一切異熟無記の諸法の種子なり)当来、総・別の果報を生ぜしむ。
それは、やってくる果報の種子に助力して(すなわちこれは、すべての先業の果報の無記心のさまざまな種子です)、やってくる未来の、全体としての果報(総報)、そして、その内容としての果報(別法)を生じさせるからです。
この用、もっぱら思の種子の処にあり。
このはたらきは、もっぱら意志の種子にあります。
今、この善・悪の思種の上の異熟の果報を生ぜしむる巧能を名づけて業種と為す。
今のこの善悪の意志の種子にある、先業の果報を生じさせる力(の面)を業種子と名づけます。
(2) 名言種子とは何か
彼の諸の三性の諸法の種子を、総じてみな、名づけて名言種子と為す。
さまざまな三つの性質のさまざまなものの種子を、総じて、すべて名言種子と名づけます。
或は名言を聞きて、一一の相を変じて熏成する所のゆえに。
あるいは、言葉を聞いて、一つ一つの印象を変じて熏習が成立するところから。
或は心・心所、能く境相を顕すこと、名言のごとくなるがゆえに、その所熏種を名言種と名づく。
あるいは、心や心のはたらきが対象の姿を顕すことが、言葉によく似ているところから、それらが薫じつける種子を名言種子と名づけるのです。
今、この名言種子は、各々みな自果を生ず。
今のこの名言種子は、各々すべて自身の果報を生じます。
このゆえに、これを説きて親因縁と名づく。
ここから、これを直接原因と名づけます。
謂わく、色の種子は色の現行を生じ、心王の種子は心王の現行を生じ、心所の種子は心所の現行を生じ、善法の種子は善の現行を生じ、不善の種子は悪の現行を生じ、有覆の種子は有覆の現行を生じ、無覆の種子は無覆の現行を生じ、乃至、色中の五根、五塵と心中の八識と、心所の中の作意、触、受、想、思、是の如き等の類、無量の差別、一一各、爾り。
すなわち、色の種子は色の現れを生じ、心王の種子は心王の現れを生じ、心所の種子は心所の現れを生じ、善法の種子は善の現れを生じ、不善の種子は悪の現れを生じ、有覆の種子は有覆の現れを生じ、無覆の種子は無覆の現れを生じ、ないし、物質の中の五つの感覚器官、五つの物質、心の中では八つの心と、心のはたらきの中では喚起、接触、感受、概念、意志、これらのような種類の、無数の品々が一つ一つ各々同様です。
各々の必定して親しく自果を生じ、他性・他法の現行を生ぜず。
各々のものは、かならず直接、自身と同一本性の果報を生じ、他の性質を持ったものや、他の本性をもった存在の現れを生じさせません。
是のゆえに、之を親弁自果、自体弁生の親因縁と名づく。
ここから、このことを、(種子は)親しく自身の果報を弁え、自体を見きわめて生じさせる直接原因である、と言います。
(3) 異熟無記の種子について
是を以て、異熟無記の種子は異熟無記の果報を生ず。
したがって先業の果報である無記の種子は、先業の果報である無記の果報を生じます。
すなわちこれ、名言種子の随一なり。
すなわちこれは名言種子の一種です。
今、この異熟無記の種子の中に、第八識の種子と、相応の五数の心所の種子と、眼等の五根の正根と扶根との二類の種子と、異熟無記の六識の種子と、各々相応の心所の種子と、みな悉くこれあり。
今のこの先業の果報である無記の種子の中には、第八アーラヤ識の種子と、対応している五種類の心のはたらきの種子と、眼などの正根と扶塵根との二種類の種子と、先業の果報である無記の六識の種子(個々人のパースペクティヴ=見分・自証分・証自証分)と、それぞれ、それに対応している心のはたらきの種子とが、ことごとくすべてあります。
(純個人的な先業の果報の種子=内の異熟果)
その器界は、四塵を体と為す。
われわれの住む世界は、四つの物質、すなわち色、香り、味、感触を本体とします。
もし声を起こすときは、五塵を体と為す。
もし音を発声させたときには、五つの物質を本体とします。
是の如き、四塵・五塵の種子は、内の異熟果の種子に非ずといえども、またこれ、すでに有情所居の外の依処となるがゆえに、同業所感なり。
これらの四つの物質、五つの物質の種子は、純個人的な先業の果報の種子ではありませんが、現に生きもののたちが住んでいる外側の依り所ですから、(他の生きものたちと)共通した業が感じたものであるといえます。
是のゆえに名づけて、外の増上果と為す。
ここから、これを外側の勝れた果報と言います。(私たちの宇宙に備え付けの六種類の世界=六道)
所以に器界・五塵の種子も、またこれ、業種の資助する所なり。
したがって、われわれの住む世界、五つの物質の種子も、また、業種子が助力するところとなります。
(4) 業種子は異熟無記の種子をどのように助けるのか
是の如き、果報の諸の無記の種は、羸劣にして独り自ら現行を生ずること能わず。
このような、果報としてのもろもろの無記の種子は、力が貧弱なので、自分一人の力で現れを生じさせることができません。
ゆえにかならず他の強勝の法の能資助の縁を待ちて、まさに現行を生ず。
だからかならず、他の強力な存在からの助力の縁を待ってはじめて、現れを生じさせることができます。
理、必然のゆえに、善・悪、二類の思業の種子、応に随いて、彼の総・別報の無記の種に随逐するとき、その善・悪種の強勝の勢力、異熟無記の種子に蒙らしめ、その異熟無記の種子をして当果を生ぜしむるなり。
そこで道理からいって必然的に、善または悪、二種類の意志行為の種子が、状況に応じて、彼の全体的な、そして細別的な果報をもたらす無記の種子に随行するときに、(まさに磁石が鉄粉を吸い付けるように)その善または悪の種子がもつ強力な勢力を、先業の果報である無記の種子に蒙らしめることによって、(やっと)その先業の果報である無記の種子に、まさにその未来の果報を生じさせるのです。
善・悪二性は法の中に強勝のゆえに、業はかならず善・悪の二中に限る。
善と悪の二つ性質は存在の中で強力なので、業種子は、かならず善か悪かの二つの中のどちらかに限られます。
その有覆等は、この勢力なきがゆえに業を成ぜず。
汚れのある無記等は、このような勢力がないので、業種子となることはできません。
今、この善・悪は、その正業を論ぜば、思数にありといえども、然も、その一聚の同時相応の心王・心所も、みなこの生を感ずる勢力なきにはあらず。
一方で、今のこの善と悪のはたらきは、その中心を論じれば、意志の心のはたらきにあるとは言え、そのとき同時に生起している一群の心王・心のはたらきも、すべて、この生を引き起こす力がないわけではありません。
業の眷属をも、また業と名づくるがゆえに。
業の仲間たちも、また、業と名づけるからです(したがって、これらも業種子と呼ばれます)。
是を以て、しばらくその悪業を造るとき、一念の中に多の悪種あり。
ここから、たとえば悪業を造るときには、一念の中に多くの悪の種子があります。
所謂、もし、瞋恚を起こすとき、三業の中において、第六意識の不善の心王と、不善五数とおよび瞋煩悩と、不善の無明と、八大随惑と中随の二惑と決定相応す。
すなわち、もし怒りを起こすときには、身・口・意の三つの行為の中において、第六意識の不善の心王と、不善の五つの遍行の心のはたらきと、怒りの煩悩と、不善の無明と、八つの大随惑と、二つの中随惑とが、かならず対応しています。
所余の心所は、時に随いて、或は起こる。
それ以外の心のはたらきも、時と場合により起こるときもあります。
是の如き、多法、一一不善なり。
これらの沢山のものも、一つ一つ不善です。
一念の中、一時に種を薫ず。
そして一念の中で、一時に種子を薫じます。
この諸の種子は、即時に我が蔵識の中に落在して、当来果報の種子を資助す。
このもろもろの種子は、即時に我らの蔵識に落ち込み、来世の果報の種子たちに助力します。
念念相続して、間断あることなし。
一念一念相続して、間があったり断絶することがありません。
然るにその中において、思の心所を以て業種と為すがゆえに、その種の巧能を殊に業種と名づく。
しかし、その中でも、意志の心のはたらきから業種子とするのですから、その種子がもつ能力を殊に業種子と名づけるのです。
是の如く、是の如く、数数資くるがゆえに、今生の果報終尽の時、最後の一念、命終心の後に、次の刹那の中、その資助するところの果報の種子、すでに悪業の資助を蒙るがゆえに、その生じ、現ずるところの依・正二法は、みな悉く、非愛・醜穢・麁卑なり。
このように、このように、しばしば助けるので、今生の果報が尽きる時、最後の一念である命終心の後の、次の刹那の中で、その助力をあたえられ続けてきた果報の種子は、すでに悪業の助力を受けてきていますから、それが生じ、現じる−世界・身体−の二つの酬いは、ことごとく、嫌なもので、醜く、汚らわしく、粗末で、卑しいものとなります。
或はこれ地獄、或はこれ畜生、或はこれ鬼道、みなこれ、かの能資助業の差別に任ずるなり。
あるいは地獄、あるいは動物、あるいは餓鬼道かもしれません、これらはみな、あの助力をあたえ続けてきた業のはたらきの違いによります。
善業は、これに翻じて、その業を知るべし。
善業の場合は、これとは反対に、そのはたらきをしるべきです。
発業・潤生は、これ第六識の不共業なるがゆえに、第六識について、これを論ずるなり。
業を発し、人生を潤すのは、第六意識の他と共通しないはたらきですので、これまで第六識について論じてきました。
五識を名づけて随転発業と為す。
また五つの(感覚的)心を、(特に意識に)したがって転じ、業を発すものと呼びますが、
ゆえに相従して、またこれを知るべし。
ここから(意識と)同様に、またこれを知るべきです。
第七は一向に有覆無記なり。
第七末那識は、恒に有覆無記です。
第八は一向に無覆無記なり。
第八アーラヤ識は、恒に無覆無記です。
是のゆえに、みな発業の心にあらざるなり。
ゆえに、どれも業を発すような心ではありません。
ゆえに要を取りていわば、業種子とは、第六相応の善・悪の思の種子の、異熟無記の種子を助けて果報を生ぜしむるの功能なり。
ゆえに要をとっていえば、業種子とは、第六意識に対応している善または悪の意志の種子であって、先業の果報である無記の種子を助けて、果報を生じさせる力のことです。
今、この思の種も、また能く自の思業の現行を生ず。
今、この意志の種子も、また自らの意志の業の現れを生じさせます。
その辺を名づけて、名言種子と為し、業種とは名づけず。
その意味では、それを名言種子と名づけ、業種子とは名づけません。
二辺の功能、混濫すべからず。
二種類の意味を混乱させてはいけません。
(5) 無漏種子とは何か−五つの種姓
次に無漏種子の相においては,有情界において五乗の種姓、法爾に各別なり。
次に、穢れのない種子のありように関しては、生き物の世界で五種類の素質が、自然に分かれています。
その中に、三乗道を得べき者は、その身内、本識の中において、無始法爾に、本、無漏法を生ずべき種あり。
その中で、菩薩、独覚、声聞の三乗の道を得ることになる者の身体内のアーラヤ識の中には、無始の昔から自然に、もともと、穢れのない存在を生じるべき種子があります。
この種姓において、本来四種、不同なり。
この素質に本来、四種類の違いがあります。
1、 菩薩種姓
一には決定大乗種姓。
一つ目は大乗に決定している素質です。
所謂、法爾に、ただ佛乗三品の種子あり。
すなわち、(この素質の中には)自然に、ただ佛乗のみに属する三等級の種子があります。
三品というのは、一に下品種、謂わく、見道の種なり。
三つの等級というのは、一つ目は下品種であり、これは見道の種子です。
すなわちこれ、妙観・平等二智の種子なり。
すなわち、これは妙観察智・平等性智の二つの智の種子です。
この両智において、また各根本・後得二智の種子、相分かり、生空・法空の単・重の三智の種子不同なり。
この両智において、また各々、根本智と後得智の二つの智に分かれ、生きものが空であると悟る智と、存在が空であると悟る智の、単体を悟る智慧と両者を悟る智慧の計三種類の智慧の種子の違いがあります。
また、智というのは、これ相応の中の一数の名なり。
また智というのは、これは対応する心のはたらきの中の一つのもの(慧の心所)の名前ですが、
無漏位においては、智、強勝なるがゆえに、勝にしたがって名と為す。
穢れのない位においては、智慧が強力となるので、強いものにしたがって名前としているのです。
実によって論ぜば、しばらく一の妙観察智の中について、総じて論ずるに、具に二十二法あり。
実際にしたがって論じれば、一つの妙観察智の中には、すべて一つ一つ数え上げると二十二のものがあります。
所謂、無漏の第六心王と、遍行と別境の各五と、および善の十一と是なり。
すなわち、穢れのない、第六意識と、遍行と別境(この中に慧の心のはたらきがあります)の心のはたらきの各五つと、善の十一の心のはたらきです。
因位には、また無漏の尋・伺あり。
修行の位では、さらに穢れのない粗雑な思考作用・精妙な思考作用があります。
もし之を併せば二十四なり。
もし、これを合わせれば二十四となります。
この二十四法、各、みな四分を具す。
この二十四のものは、各々みな、四分を具えています。
その相分の中、応に随いて、また五塵等の法あり。
その相分の中には、状況に応じて、また五つの物質などがあります。
是の如き、諸法、一一の種子、各々みな、一妙観察智の種子の中に在り。
このような、もろもろのもの一つ一つの種子が、みな、一つの妙観察智の種子の中にあります。
委細に論ずれば、是の如く多くの種子の数あるなり。
したがって委細に論じれば、このように多くの種子があるのです。
その平等性智は、因位の中に在りては、有為の諸法を縁じ、或は縁ぜずという解釈、往々にして学者の意、別なり。
平等性智に関しては、菩薩の位にあっては、原因と結果の鎖の中の諸々のものを縁じるか、縁じないかについて、学者の意見が分かれることが多いです。
もし諸法を遍縁する義に依れば、一智品の中、所有の種子は観察智の如し。
もし、さまざまなものを縁じるという考えに従えば、一つの平等性智の中のあらゆる種子は妙観察智と同じようになります。
もし、ただ八と如とを縁ずるの義に依れば、この智品の中、また本と後とあり。
ただ第八アーラヤ識と真如とを縁じるという考えによると、この智慧の中には、また根本智と後得智とがあります。
その相応法も、また二十二なり。
それに対応する心のはたらきも、また二十二あります。
これらは上の如し。
これらは上と同様です。
但し、その尋・伺は、定めて倶ならざるべし。
ただ尋と伺は、決して伴いません。
ゆえに、彼の二を除く。
従って、それらの二つは除かれます。
これらの種子も、また一一あり。
これらの種子も、また一つ一つあります。
(下品の種子、大旨、かくの如し)
(下品の種子は大体、このようです)
次に、中品の種は、すなわち修道の種です。
次に、中品の種子は、これは修道の種子となります。
またこれ、妙観・平等の二智品の種子なり。
再び、これらは妙観察智・平等性智の二つの智慧の種子となります。
委しき旨は、前の如し。
委しい説明は、前と同じです。
但しその勝劣を二品の別と為す。
ただ、その優劣が二品の別となります。
次に上品種は、所謂、すなわちこれ、佛果の種子なり。
次に、上品の種子は、すなわち、これは佛果の種子です。
これ、すなわち四智品の種子なり。
これは四つの智慧の種子となります。
四智と言うは、その実義を論ぜば、すなわち、無漏の八識聚なり。
四智と言っても、具体的に言えば、穢れのない八つの心の集まりのことです。
相応の智に従いて、総じて智の名を立つ。
対応する慧の心のはたらきに従って、全体でも智という名前を立てます。
是のゆえに、之を開けば、すなわち八智なり。
従って、これを開くと八つの智慧となります。
一には無漏の眼識相応なり。
一つめは、穢れのない眼識に対応するものです。
この中に具に二十二法あり。
この中には、つぶさに言うと、二十二のものがあります。
乃至、無漏の身識相応なり。
さらに、穢れのない身識に対応するまでのものがあります。
この中にも、また二十二法を具す。
この中にも、また二十二のものがあります。
今、この二十二法の中、慧の心所を標し、総じて名づけて成所作智と為すなり。
今、この二十二のものの中から、智慧の心のはたらきを冠して、全体で成所作智と名づけます。
所以に、この智に五箇の智あり。
したがって、この智には、五個の智が含まれています。
六には、無漏の第六相応。
六つめは、穢れのない第六意識に対応するもの。
この中にも、また二十二法を具す。
この中にも二十二のものが具わっています。
七には、無漏の第七相応の、二十二法なり。
七つめは、穢れのない第七末那識に対応する、二十二のものです。
八には、無漏の第八相応の二十二法なり。
八つめは、穢れのない第八アーラヤ識に対応する二十二のものです。
各、その中の慧の心所の名を標して、次の如く名づけて、妙観察智・平等性智・大円鏡智と為す。
それぞれ、その中の慧の心のはたらきの名前を冠して、順番に、妙観察智・平等性智・大円鏡智と名づけます。
今、此の八識の二十二法、各々一一、四分を具す。
今の、この八つの心の二十二のものは、それぞれが一つ一つ、四分を具えています。
その相分の中、すなわち無辺の相好・光明・浄土等の体・根・塵等の法あり。
その相分の中に、無量無辺の相好・光明・浄土などの本体や感覚器官や物質などがあります。
すなわちこれ、一一、後得智の境なり。
これは、一つ一つ、後得智の対象です
その根本智は、相分あることなし。
根本智には相分はありません。
真如の理を以て境界と為すがゆえなり。
真如の真理を、対象世界とするからです。
その浄土は、すなわち無漏の四塵をもって体となす。
その浄土は、穢れのない四つの物質を本体としています。
宮殿・楼閣・華池・宝樹・長・短・方・円・滑・渋・麁・細等の種々の形は、この四塵の上の仮相なるがゆえに、別にこれを論ぜず。
宮殿・楼閣・華池・宝樹・長い・短い・四角い・円い・滑らか・ざらざら・粗い・繊細等のさまざまな形は、これら四つの物質の上に現れた仮の姿ですので、別にこれを論じることはありません。
ある時は声を加え、五塵を体と為す。
ある時は音を加えて、五つの物質を本体とします。
所謂、波声・風響等の起こるも、またその体なるがゆえに。
波の音、風の響きなどが起こったとしても、その本体は音だからです。
その相好は、無漏の五根・五塵を体と為す。
その相好は、穢れのない五つの感覚器官と五つの物質を本体とします。
五根においては、正根と扶根とあり。
五つの感覚器官においては、本当の感覚器官と、それを助ける物質的感覚器官とがあります。
扶根は、また四塵をもって体と為す。
助ける感覚器官は、四つの物質を本体とします。
浄土の体の如し。
浄土の本体と同様です。
正根は、すなわちこれ、大種の所造にて、無漏・清浄・微妙の色法なり。
本当の感覚器官は、四大元素からできていて、穢れなく清浄で、微妙なる物質です。
その光明等は偏に色塵の摂なり。
その光明等は、もっぱら色(いろ)に所属します。
是の如き、種々衆多の法体、一一の種子、みな、この上品種子の中に在り。
このような種々さまざまなものの一つ一つの種子がすべて、この上品種子の中にあります。
(上品の種子、大旨、是の如し)
(上品の種子は、大体このようです)
今、この三品の浄妙の種子は、無始より法爾に、みな悉く具足して本識の中に在り。
今のこの三品の清らかで妙なる種子は、無始の昔より自然に、みな悉く揃って、本識であるアーラヤ識の中にあります。
(已上、菩薩種姓の人、所具の種子、委細の相なり)
(已上は、菩薩種姓の人が具えている種子の詳しい様子です)
2、 独覚種姓
二には決定独覚種姓。
二つめは、独覚に決定している素質です。
この人も、また三品の種子あり。
この人にも、また三品の種子があります。
所謂、見・修・無学道の種なり。
すなわち、見道・修道・無学道の種子です。
これ、すなわち第六識相応の中の生空無漏の本・後二智の一分の種子なり。
これは第六意識に対応している中の、生きものが空であることを悟る、穢れのない智慧の根本智と後得智の二つの智慧の一部の種子です
これもまた、二十二法等と倶なり。
これもまた二十二のものと一緒です。
その体、上の如し。
その本体は、上と同じです。
もし佛智に対せば、すなわち妙観察智の中の生空無漏の一分の巧能に当たる。
佛智と比較すれば、これは妙観察智の中の、生きものが空であることを悟る穢れのない智慧の一部のはたらきに当たります。
その後得智は、極めて狭劣たり。
その後得智は、とても狭く劣っています。
広縁の用なきがゆえに、一切種智と名づくることを得ず。
広く生きものたちと関わるはたらきがないので、一切種智と名づけることはできません。
3、 声聞種姓
三には決定声聞種姓。
三つめは声聞の素質に決定している人です。
無漏の分斉、大旨は、独覚種姓に異ならず。
穢れのないありようや大旨は、独覚種姓と変わりません。
但し、差異は七異あり。
ただ七つの違いがあります。
その相、常の如し。
その様子は、いつも言われているとおりです(鈍根か利根か。教えを聞いて悟るか、無師独悟か。教えに依るか、悟りに依るか。四諦を観ずるか、十二因縁を観ずるか。預流等の四果を経るか、直ちに無学道に入るか。三生六十劫修行を積んだか、四生百劫修行を積んだか、説法をするだけか、神通力も示現するかの七つです)。
4、 不定種姓
四には、不定種姓。
四つめは、不定の素質です。
この人は、三乗種姓、各々の三品の無漏種子を具す。
この人は三つの乗の素質の各々の穢れの無い種子をもっています。
上に准じて知るべし。
上に準じて知るべきです。
5、 これら四つの種姓について
今、この四類の種姓の中、第一の種姓を名づけて頓悟と為す。
今、これら四種類の素質の中で、第一の素質を、即座に悟る素質の人と言います。
直ちに大乗に入りて、迂廻せざるがゆえに。
直ちに大乗仏教に入って、迂回しないからです。
第四の種姓を名づけて、漸悟と為す。
第四番目の素質を、徐々に悟る素質の人と言います。
先に余乗を経て、漸に大に入るがゆえに。
まず他の乗り物を経て、だんだんと大乗に入るからです。
中の二の種姓を名づけて、定姓二乗の人と為す。
真ん中の二つの素質を声聞乗・独覚乗の二乗の素質に定まった人と言います。
一向に寂に赴いて、無余に入るがゆえに。
まっすぐ寂滅に赴いて、無余依(依り所の消滅した)涅槃に入るからです。
このほかにも、また菩薩・独覚の二姓を具足し、菩薩・声聞の二姓を具足し、声聞・独覚の二姓を具足する種々の人あり。
このほかにも、また菩薩・独覚の二つの素質がともに具わっていたり、菩薩・声聞の二つの素質がともに具わっていたり、声聞・独覚の二つの素質がともに具わっていたりする種々の人がいます。
初めの二は、すなわちこれ不定種姓なり。
初めの二つは、素質が定まっていない人です。
決定、廻心して、大覚を求むるがゆえに。
かならず改心して、大いなる悟りをもとめるからです。
後の一も、また定姓二乗なり。
最後の人も、また二乗に定まった素質の人です。
二乗の中には不定姓なりといえども、大乗に望むれば、定姓二乗なるがゆえに。
二乗の中では定まってはいませんが、大乗から見れば二乗の素質に定まっているからです。
これら無漏法爾の種子は、無始以来、有漏第八の中に在りといえども、本性は殊勝・至明・妙善にして、煩悩の勢力の汚すところとならず。
これらの穢れのない、自然に具わった種子は、無始の昔より、穢れた第八アーラヤ識の中にあるといっても、本性は殊勝、至明・妙善であって、煩悩の勢いによって汚されることはありません。
苦果の異熟性の摂とならず。
苦の果報である先業の果報と同じ性格のものではないのです。
但、これ第八本識に依附して、前滅後生して展転伝来す。
そうではなく、これは第八アーラヤ本識に依り添い付着して、生滅をくり返しながら、展転、伝来しているのです。
6、 無姓
その無姓の人は、欠けて、これらの無漏の種子無し。
素質のない人は、欠けていて、これらの穢れのない種子がありません。
然も人天の勝妙の果報を以て至極と為すなり。
そして人間や天のすばらしい果報を最高のものとするのです。
第六節 種々の問答
(1)何の根拠があって、このような説を立てるのか
問う。
問います。
五姓各別は、余家に許さず。
五つの素質が、それぞれ違っているという説は、他の宗派では認められていません。
今、自宗の意、何の至極・決定の文理を以て、これを成立するや。
今の私たちの宗派の意見は、どのような至極もっともで決定的な聖教の文や道理があって、これを主張しているのですか。
答う。
答えます。
有為の人・法は法爾に差別す。
原因と結果の鎖の中にある人やものは自然と差別されています。
法の中、所有の蘊・処・界等は、すでに法爾に別なり。
存在の中でいえば、あらゆる五つの集まりや十二の場所や十八の領域などは、自然に分かれています。
人中の三乗・五姓等の別、なんぞ爾らざらんや。
とすれば人間の中においても、三乗や五姓などの別が、どうしてないと言えるのか。
もし、法の中に衆多の差別を許して、人の中に種々姓を許さずんば、彼此の異因、得べからざるがゆえに。
もし、存在の中では多くの差別を許して、人の中では種々の素質を許さないとしたら、彼とこれとどうして異なるのか、その原因がわからないからです。
是を以て、『深密』、『楞伽』、『勝鬘』、『涅槃』等の大乗経、『瑜伽』、『顕揚』、『荘厳』、『佛地』等の諸大乗論に明らかに法爾五姓の不同を立つ。
だから、『解深密経』や『楞伽経』や『勝鬘経』や『涅槃経』などの大乗経典や、『瑜伽師地論』や『顕揚聖教論』や『大乗荘厳経論』や『佛地経論』などの大乗論書の中で、明確に自然にある五つの素質について違いを立てているのです。
有姓・無姓・三乗定姓は諸教の所説、実に以て煥然たり。
素質を持つことや素質を持たないこと、三乗に定まった素質を持つことなどは、さまざまな教えで説かれているところであり、まったくもって明らかです。
中に就いて、『深密』には明らかに一乗を会して五姓を立つ。
中でも、『解深密経』では明らかに一乗の説を解釈しなおして、五姓説を立てています。
『涅槃』には詳らかに、皆成をもって不解我意と為す。
『涅槃経』では、詳しく、みな成仏するということは、私の意を理解していないとしています。
一生補処の大聖慈尊、佛意を弘宣して、更に八義を立つ。
一生だけ兜率天におられる大聖弥勒菩薩は、佛の意いを広く述べ伝えて、八つの説を立てられました。
無著菩薩、世親菩薩、慈尊に稟承して十因を開く。
無著菩薩と世親菩薩は、慈尊の教えを承って十の因を開かれました。
みな、一乗を会して五姓を弘むるなり。
どれも一乗説を解釈しなおして、五姓説を広めるものです。
一宗の伝灯の人、みな知る所なり。
我が宗の教えを受け継いでいる人なら、誰も知っていることです。
もし、爾らば有・無の二姓は倶に聖の所説なり。
もし、そうなら、素質があること、あるいは、ないことは、ともに聖者の説かれているものです。
更に、何のゆえありてか、有姓を許しながら無姓を許さざるや。
更に、どのような理由があって、素質があることは認めながら、素質がないことは認めようとしないのか。
三乗の衆生は皆、乗の所被なり。
三乗にある衆生は、みな乗り物に乗っています。
更に何の故ありてか大乗の定姓を許しながら二乗の定姓を許さざるや。
更に、どのような理由があって、大乗の定まった素質を認めながら、二乗の定まった素質を認めようとしないのか。
これらの教理、みな盤石の如し。
これらの教理は、どれも盤石であると言ってよい。
誰人か、動ずることを得ん。
誰が動かすことができよう。
もし『法華』等の皆成説をもって、その証となさば、我は『深密』等の五姓説をもって、その誠証と為さん。
もし『法華経』などの、皆、成佛するという説をもって、その証拠とするのであれば、私は『解深密経』の五姓説をもって、その誠実な証拠としよう。
もし『法華』の開三顕一をもって、その由と為さば、我は『深密』の会一立五をもって、その所由と為さん。
もし『法華経』の、三乗説を解釈しなおして一乗とする説をもって、その理由とするのであれば、私は『解深密経』の、一乗説を解釈しなおして、五姓を立てる説をもって、その理由としよう。
もし『法華』の説相、厳重をもって、余教の徳に超過すと為さば、『深密』は華蔵世界の所説、教主は、すなわちこれ盧舎那、正機は、すなわちこれ観音、弥勒等の諸八地已上の大士、一部五巻、正宗七品、文文悉く、性相の奥底を尽くし、品品、自ら究竟了義と証す。
もし『法華経』の説き方が厳かであるのが、他の教えに超過するというのであれば、『解深密経』は蓮華蔵世界で説かれ、教主は盧舎那仏であり、教えを受ける人は観音菩薩、弥勒菩薩などの八地以上の大士であり、一部五巻、正宗七品の文章のそれぞれは、すべてものの本性と姿の奥底を尽くし、それぞれの章は、自ら、究極の、完全な教えであることを証明している。
十八円満の報土にありて、不了義を説きたもうは、これ何ぞや。
蓮華蔵世界という十八の円満な徳を備えた報土に在って、不完全な教えを説かれるとしたら、これはなんであろうか。
至極深位の大士に対して浅近門を演べたもうは、また何の用ぞや。
至極の深い位におられる菩薩大士に対して、浅くて近道の教えを述べられたのは、何の用があってのことだろうか。
何に況んや『法華』には三乗を会すといえども、未だ五姓を会せず。
まして『法華経』は、三乗説を解釈し直したといっても、五姓説は未だ解釈されていない。
『深密』には、分明に一乗を和会す。
『解深密経』では、分明に一乗説を見事に解釈している。
『法華』には、未だ大乗の性相を説かず。
『法華経』では、いまだに大乗の、ものの本性と姿の説を説いていない。
『深密』には詳らかに回向菩提の声聞の成仏を説く。
『解深密経』では、詳しく、菩提に回向し直した声聞の成仏が説かれている。
両教の隠顕、思いて、これを知るべし
二つの教えのどちらが隠れているか、あるいは顕かであるか、よく考えて、知るべきです。
文理、繁しといえども、大都、是の如し。
文章や道理は、繁雑となったが、おおよそこのようです。
(2) 凡情の疑惑
問う。
問います。
凡心は自ら種姓を知ること能わず。
聖者ではない凡夫には、自分の種姓を知ることはできません。
なんぞ、我は定姓、無姓に非ずと知らん。
どうしたら、自分は二乗の素質に定まった者、あるいは素質がそもそもない者ではないと知ることができるのか。
もし佛性なくんば、佛道を修するも無用なり。
もし佛となる素質がないのだとしたら、仏道を修行しても無駄です。
若し爾らば五姓教を習学する人は、常にこの疑あり。
もしそうなら、五姓の教えを習学する人には、常に、この疑いがあることになります。
豈、大難に非ずや。
これは大きな困難ではないだろうか。
只、皆成仏宗を学んで、決定の想を成ぜんには如かず。
はじめから、みな成仏すると説く宗派の教えを学んで、間違いなく自分は成仏できるとの思いを確立させる方がよいであろう。
これも、また佛説にして、大聖の所伝なれば、尤も依学するに足る。
これもまた仏説であって、大聖世尊からの所伝であるので、いかにも就いて学ぶに足るものです。
答う。
答えます。
今の所論は、これ宗の権・実なり。
今、私が論じているのは、宗の教えが仮のものであるのか、それとも本当のものであるのか、ということです。
今の所問は、これ愚人の想なり。
ところが、あなたの今の問いは、愚か者の単なる想いです。
豈、愚者の疑に依って法門の権・実を決せんや。
どうして愚か者の疑いに依って、教えが仮のものであるのか、それとも本当のものであるのかを決めることができようか。
その迷を愍れんで、その実を隠すは、すなわちこれ、方便引誘門なり。
その迷いを哀れんで、真実を隠すのは、これは方便引誘の教えです。
その実を顕して、その理を尽くすは、すなわちこれ、真実顕了教なり。
一方、真実を顕して、道理を尽くすのは、真実で顕かな教えです。
宜なるかな。
もっともなことです。
五姓の妙理、華蔵の秘説たることを。
五姓の妙なる道理は、蓮華蔵世界の秘説であるということが。
但し、自身の種姓においては、もし真実の覚知を論ぜば、これ諸佛の境界なり。
ただ、自身の種姓に関しては、もし本当の覚知を論じるのなら、これは諸佛の対象世界です。
もし、随分の信解を謂わば、教相の施設に任すべきなり。
もし私自身の信仰理解を言えというのなら、教えの中で言われていることに任せるべきです。
所謂、本論・瑜伽等の中に広く本性住種姓の相と説く。
すなわち、『成唯識論』や『瑜伽師地論』などの中では、広く、本来的に具備している佛への素質のありさまを説いています。
之を披きて、静かに思え。
これを開いて、静かに考えてみてください。
我が身の心行、その相ありや否や。
われわれ自身の心の行いに、そのようなことがあるのか、ないのか。
また、同じく広く無種姓の相を説く。
また、同じく、広く、素質のない人のありようを説いています。
之に臨んで、己を計れ。
これに当たって、自分自身にあてがってみてください。
また、前に説くが如し。
また、前に説いたようなこともあります。
「阿陀那の教は、我、凡愚において開演せず」とは、本経の所説なり。
「アーラヤ識に関する教えは、私は愚か者たちに説いたりはしない」とは、本経である『解深密経』の説です。
唯識説の中に、凡愚を釈して、云わく、「凡とは、すなわち無姓。
これについて唯識の説の中で、愚か者(凡愚)という言葉を解釈して言っています、「凡とは、素質のない者のことです。
愚は、すなわち趣寂」と。
愚は、すなわち、寂静に赴く二乗の者のことです」と。
今、此の教を学んで、これに依って深く大菩提を求むる人、豈、これ趣寂・無姓の類ならんや。
今、この教えを学んで、これに依って、深く大いなる悟りを求めようとするほどの人が、どうして寂静に赴く者や、素質のない者の類であることがあろうか。
信ずるといえども、その心、深固に非ざれば、これ具縛の習いなり。
信じてはいるが、その心が深くも固くもないと言うのならば、それは長い間、煩悩に縛られ続けてきた習慣によるものです。
この為に懈怠ある者は、他宗の学者もまた爾なり。
このために、怠け心があるというのは、他宗を学ぶ者も、また同じです。
誰人か、最初始学の位に広大堅固の信を起さんや。
誰が、一番最初の学びはじめから、広大堅固の信を起こすことができよう。
凡そ、宗の権・実は凡智計り難し。
そもそも宗の教えが、仮のものであるのか、本当のものであるのかは、凡人の智慧で計ることは難しいものです。
みなこれ、法界等流の教なり。
これらはみな、真理の世界から流れ出た教えです。
何んが定めて浅近、何んが定めて深遠ならんや。
どうして決まって浅近で、どうして決まって深遠であると決めることができるでしょうか。
その高祖は、みな、大聖の権化なり。
その宗祖の方々は、みな、大聖世尊の権化です。
その所依は如来の金言なり。
依り所とされているのは、如来の金言です。
何に況んや、補処の慈尊においておや。
まじて兜率天におられる弥勒菩薩においては、なおさらです。
何に況んや、舎那の極説においておや
況んや、盧舎那仏の至極の説においては言うまでもありません。
大聖慈尊、権門の教を弘むとは会通の路を失するの戯言なり。
大聖弥勒菩薩が、仮の教えを広められたなど、解釈の路を失うほどの戯れ言です。
華蔵世界、不了教を演ずとは、自ら言非を顕す妄説なり。
蓮華蔵世界で不完全の教えが述べられたなど、自ら間違いを申し立てているような妄説です。
それ大聖の教は、かならず機を待って応ず。
大聖の教えは、かならず相手を待って、それに応じられたものです。
正法千年の内、学慧識盛の時、補処、ことさらに人間に降りて、有・空の両見を破せんがために無著等の深位の大士に対して中道甚深の極理を演説す。
正法が世に出てから千年以内の、学問の智慧が大いに盛んな時に、弥勒菩薩は特に選んで人間の世界に降りてこられ、有と空の二つの意見を論破するために、無著菩薩などの深い位の菩薩大士たちに対して、中道の非常に深い最高の真理を述べ伝えられました。
何の所以あってか、これ権教ならんや。
どういう理由で、これが仮の教えであることがあろうか。
もし、これを権教と為さば、補処の慈尊、豈、遂に実義を説かずして止めんや。
もし、これが仮の教えであるとすれば、兜率天の弥勒菩薩は、どうして、結局、本当のことを説かれないで止められたのであろうか。
もし、根機未熟と云わば、その機、何れの時にか熟すことを得べけんや。
もし、人格が未熟であったからだというなら、その人格はいつになれば熟すことができるのだろうか。
もし、皆成佛道の学人は、これ、その純熟の根機と云わば、慈尊、そのときにおいて、降下して彼に対して真実教法を説くべし。
もし、皆が佛道を成じることができると学ぶ人々が、その純熟の人格を具えた者であるというなら、弥勒菩薩は、そのとき降下して、彼らに対して真実の教えを説くべきです。
なんぞ然らざるや。
しかし、なぜそうなっていないのか。
加之、『法華』に四車を説くは、我が宗、許さず。
加えて、『法華教』では四車を説いていますが、それは我が宗では許されていません。
『解深密経』に五姓を説くは、他宗、之を許す。
『解深密経』では五姓が説かれていますが、他宗はこれを許しています。
何れか極成の教、何れか不成の宗、彼此校量して優劣を知るべし。
どちらがよくできた教えで、どちらができの悪い宗であるか、比較考量して、優劣を知るべきです。
是の如く、対望するに、重々委曲なり。
このように、比較してみると、複雑で曲がりくねっています。
たとい他家なりといえども、執なく信ある清浄正見の人は、定めて思量に及ばんか。
たとえ他の宗派の人であっても、偏見のない、信仰心のある、清浄なる正しい意見の持ち主であったなら、かならず一度は考えてみることであろう。
これに依って清弁菩薩、猶、以て決智を逸多の暁に期す。
これに依って(中観派の)清弁菩薩は、なお真偽の決定を、弥勒菩薩が下生される暁に期待されました。
況んや、已下の輩をや。
いわんや、菩薩に及ばない者たちなら、なおさらそうするべきです。
是のゆえに、種姓、有無の疑、甚だ無用なり。
ゆえに、種姓が有るとか、無いとかの疑いは、まったく無用のものです。
只、無益の労疑を止めて、了義究竟の教えを信学せんには如かず。
ただ、益のない煩瑣な疑いは止めて、完全な究極の教えを信じて学ぶに限ります。
(3) さらなる疑問
(第一問))問う。
(第一問))問います。
五姓の道理、猶、いまだ分明ならず。
五姓の道理が、なおいまだに、よくわかりません。
重ねて詳らかに成立せよ。
重ねて詳しく説明してください。
(第二問)次に、真如の理は万法の所依、法のこれに従うて起こらざるなし。
(第二問)次に、真如の真理はすべてのものの依り所であり、存在するもので、これに従って起こらないものはありません。
若し爾らば、これすなわち諸法の種子なり。
もしそうなら、これはすべての存在の種子です。
何ぞ煩わしく、別に有為の種子を立つるや。
どうして煩わしく、別に原因と結果の鎖の中にある種子を立てるのか。
(第三問)中に就いて、有漏の第八はその性、異熟無記なり。
(第三問)中でも疑問なのは、穢れた第八アーラヤ識は、その性質は異熟無記です。
無漏の種子は本来善性なり。
穢れの無い種子は、本来、善性です。
豈、有漏無記性の法、横に無漏清浄の種子を以て、生果の巧能と為すべけんや。
どうして穢れのある無記の性質のものが、横暴にも、穢れのない清浄な種子を(養い育み)、結果を生み出す能力あるものとすることができるだろうか。
何に況んや、一切の種子は、皆これ第八所縁なり。
いわんや、すべての種子は、皆、第八アーラヤ識によって縁じられるものです。
いまだ知らず、無漏の種も、また彼の所縁なるか。
そこでわからなくなります、穢れの無い種子も、また、彼の第八アーラヤ識によって縁じられるものなのでしょうか。
若し爾らば、云何ぞ有漏心、無漏清浄の相分を変ずるや。
もしそうなら、どのようにして穢れのある心が、穢れのない清浄な相分を変じることができるのでしょうか。
若し爾らずんば、無漏の種子は識の自相等の五種の唯識には、これ何の所摂ぞや。
もしそうでないなら、穢れの無い種子は、一切は心であることの根拠となる五種の唯識説、すなわち心王は心自身の姿であるから、心のはたらきは心に付随して働くものであるから、物質は心が変じたものであるから、心に対応しない行に属するものは心と物質とから抽象されたものであるから、原因と結果の鎖から無関係にあるもの(無為法)は心の本性であるから、だから心から離れないという理由の中の、どれに当たって、心から離れないことになるのか。
もし五種の外ならば、無漏の種子は唯識成じ難し。
もしこれら五種類に含まれないならば、穢れの無い種子においては、ただ心のみであるという唯識の教えが成立しなくなるのではないか。
(第四問)次に、無姓の有・無、猶、もって疑惑あり。
(第四問)次に、素質がないことなど有るのか・無いのかについて、なおもって疑惑があります。
凡夫の学者、何の方便をもって審決することを得んや。
凡人の学者は、どのような手段でもって判断すればよいのか。
本論所説の本種姓の相は、性と為して六度の心相を具足すという。
『成唯識論』で説かれている佛となる素質を持っている者の姿は、本性として六つの完成(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の心の姿がすべて具わっているという。
もし我が身において、その一相を闕かば、すなわちこれ無姓の人たるべきか。
もし我が身において、その一つでも欠けるならば、素質のない者となってしまうのか。
若し爾らば、信じ難し。
もしそうなら信じ難いことです。
慳・貪・嫉妬は凡界の常の習い、懈怠・散乱は愚者の常相なり。
物惜しみや貪り、嫉妬は凡人の世界では当たり前のことであり、怠けたり、気が散ったりすることは愚者の常の姿です。
教の如きの人、甚だもって、有り難し。
教えに説かれているような人は、この世にあり得ないのではないか。
豈、一切人、佛性なからんや。
どうして、すべての人に佛性がないということがあろうか。
答う。
答えます。
1、 第一問への回答
有・無、二姓の随一の姓の故に、乗所被の故にという、これ至極の理なり。
素質はあるか、ないかのどちらかでなければならないから、そしてあるとしたら、三乗の中のどれかということになるからという、これは、これ以上のことが考えられない道理です。
深く、これを思うべし。
深く、このことを思うべきです。
豈、己が楽いに順ずるをもって、これを判じて実教と為し、己が楽いに順ぜざるをもって、これを判じて権教と為さんや。
どうして自分の願いに合致するから、これを真実の教えと判断し、自分の願いに合致しないからといって、これを仮の教えと判断してよいだろうか。
謂わく、法の実理は、本と迷情に違す。
すなわち、ものの上に実際にはたらいている真理は、もともと、迷い多き生きものたちの思惑とは異なるものです。
ただ、須く分明の理を依信すべし。
ただ明らかな道理を信頼し信じるべきです。
まったく欣・厭に任すべからざるが故なり。
まったく好き嫌いに任せてしまってはならないからです。
2、 第二問への回答
然るに、今、その源を尋ぬるに、因縁所生の法は体事、かならず衆多なり。
しかし、今、その源をよく観察してみると、原因から生じたものは、その本体・現象には、かならず多くのものが含まれまていす。
体事衆多の法は、かならずこれ因縁生なり。
その本体・現象に、多くのものを含んでいるものは、かならず原因から生じたものです。
体性一味の法は、定めて因縁生に非ず。
本体・本性が平等・一様であるものは、かならず原因から生じたものではありません。
因縁生に非ざる法は、体性、定めて一味なり。
原因から生じたのではないものは、本体・本性は、かならず平等・一様です。
これすなわち、各々差別の相なり。
この(五姓)は、おのおの差別されてある姿をもっています。
その差別の相の、親因縁に依るは、法爾として一味に非ず。
したがって、直接原因に依っている、その差別の姿は、自然と、平等・一様ではありません。
もし一味の法は、体性常住にして、前後転変の義あることなきがゆえに、これ諸法の親因縁に非ざるなり。
しかし、もし平等で一様のものがあったら、本体も本性も常住で、前後に転変することはないので、これは、さまざまなものの直接原因とはなりません。
是を以て、法の種々の差別、無始法爾なるが如く、人の中の所有種々の差別も、またまさに是の如く無始法爾なるべし。
ここから、存在のさまざまな差別が、無始の昔から自然にあるように、人の中のあらゆるさまざまな差別も、また無始の昔から自然にあるものです。
彼此ともに同じく、有為の事相にして、皆因縁生の相用なるがゆえに。
どちらも同じく原因と結果の鎖の中の現象の姿であり、すべて原因から生じたものの姿のはたらきだからです。
而るに、その差別の親因縁とは、すなわちこれ有為の本・新の種子なり。
一方、その差別の直接原因も、原因と結果の鎖の中にある本有・新熏の種子です。
もし有為の種子に非ずんば、親因縁の義、得べからざるが故に。
もし原因と結果の鎖の中にある種子でなかったなら、直接原因という道理が成立し得ないからです。
真理は、すでにこれ無相・常住・一味の法性なり。
真理は、はじめから姿がなく、常住で、一味のものです。
豈、有相・転変・衆多事相の法に望めて、親弁自果・自体弁生の親因縁ならんや。
どうして姿があり、転変し、多くの現象の姿をもつ存在に対して、親しく自身の果報をわきまえつつ、自体を見きわめながら(それらを)生じさせる直接原因であることができるでしょうか。
所以に有為の種子を立てずして、真如の理を以て種子と名づくるは、おそらくは諸法の親因縁を失せん。
したがって原因と結果の鎖の中にある種子を立てないで、真如の真理を種子と名づけるなら、おそらく、さまざまなものの直接原因を失うことになるでしょう。
無為は、これ因縁生に非ざるが故に、すなわちこの親因縁の種有ること無し。
無為は、原因によって生じるものではないので、この直接原因の種子はありません。
有為は、すでに、これ因縁生の故に、必定してこの親因縁あるなり。
有為は、はじめから原因によって生じるものですから、必然的に直接原因があります。
但し、この事・理、互いに相依るは、これ増上縁にして親因縁に非ず。
ただ、これらの事(有為)と理(無為)とが依りそいあっているの(関係)は、補助原因であって直接原因ではないのです。
故に有相と無相と、生滅と常住と、彼此、同にあらざれども、全く過失なし。
だから姿があることと、姿がないこと、生滅していることと、常住であること、彼とこれと同じではないけれども、全く過失はありません。
真如を以て種子と名づくと言うは、おそらくは増上縁を親因縁と為すならん。
真如を種子であると言ってしまったら、おそらく補助原因を直接原因であるとしてしまうことになるででしょう。
もし一向相即の義の故に、これらの不同の難あることなしと云わば、これすなわち相即の辺路に滞りて、不即不離の中道に迷うなり。
もし、ひたすら一体の道理を理由に、これらの(有相・無相、生滅・常住の)違いによる困難はないと言うのなら、それは一体という偏った考えに滞ってしまって、一体でもなく離れているのでもないという中道に迷っているのです。
もし、我もまた即にも離にも非ずと云わば、その不即の門は、我が不即と異なるや異ならざるや。
もし、私も一体でもなく離れているのでもないと言うのなら、その一体ではないというのは、私の言う(本性と姿と違っているので)一体ではないと異なるものなのか、異ならないものなのか。
もし、異ならずんば、還って前難あり。
もし異ならないと言うなら、再び前の困難(真如を直接原因[種子]であるとすることからくる、さまざまな違いの説明がつかないという困難)があります。
もし異ならば、また偏即に堕す。
もし異なっているなら、また偏った一体に落ちてしまいます。
明らかに知んぬ、事相と真理との差別門を許さざるがゆえに、事相の中、委曲を弁ぜず、返って事相を撥して真如の理を以て種子と名づくることを。
現象の姿と真理とを差別することを許さないので、現象の姿の中を詳細に正しく区別をすることができず、かえって現象の姿を無視して、真如の真理を種子であるとしてしまったことは明らかです。
3、 第三問への回答
無漏種子の唯識においては、『唯識論』に云わく「無漏種子は、この識に依附すといえども、而も、この性の摂に非ず。
穢れの無い種子ついて、唯識教義においては、『成唯識論』に「穢れの無い種子は、この心に添付されているけれども、善・悪の性質は同じではありません。
故に所縁に非ず。
したがって縁じられるものではありません。
所縁に非ずといえども、而も、相離れず。
縁じられはしないけれども、相離れていません。
真如性のごとく、唯識に違せず」と。
真如という本性のように、ただ心のみには違いありません」と言っています。
同じく『本疏』に云わく、「無漏の種子は、但し一義を具す。
同じく『成唯識論述記』に、「穢れの無い種子は、ただし一つの意味を持っている。
謂わく、識を離れざるがゆえに説いて唯と名づく」と。
すなわち、心を離れないので、唯と名づける」と言っています。
故に総門不離の義をもって、唯識と名づくるなり。
だから、広い意味では離れていない、という意味で、ただ心のみがあると名づけるのです。
心は、すでに法の主として、一切に最勝なり。
心は、最初から存在の主人として、すべてのものの中で最勝です。
たとい何の義なりといえども、これを離れず。
たとえ、どんな意味であっても、これを離れることはありません。
皆、唯識と名づく。
したがって、すべて、ただ心のみと言うことができます。
故に全く違せざるなり。
だから全くおかしなところはありません。
もしこの上に、強いて五種門に摂せば、すなわちこれ識所変の唯識の摂と謂つべきなり。
もし、この上に更に、強いて五種の唯識のどれかに収めなければならないとすれば、それは心が変じたものだから、という唯識に収められると言うべきでしょう。
並びに、これ種子にして種類同じきがゆえに相従して論ずるなり。
あるいは、これも種子であって、(相分という)種類が同じなので、同様に論じられるのです。
故に撲揚は解釈して云わく、「因位に在りては見が所縁に非ずといえども、これ相分の類なれば余の相分にしたがって相分の所摂なり」と。
だから中国法相宗第三祖智周は解釈して「菩薩の位においては、見ることはできないけれども、やはり相分の種類なので、その他の相分と一緒にして、相分に収められる」と言っています。
4、 第四問への回答
凡そ、自他宗、諍論に似たりといえども、実は諍論なし。
そもそも、自分の宗派と他の宗派とが言い争っているように見えることがあるけれども、実際には争いはないのです。
所以は如何。
それはなぜでしょうか。
それ諍論は、一門一事を説くの中に二義水火の出来する所なり。
言い争いというのは、一門の中で一事を説いている中で、二つの解釈が水火の如く出てくるところに起こるものです。
他宗、もし諸法の性相を談ずること我が宗に異ならずして、なお、皆成を立て、五姓各別の義を許さずんば、尤も論を為すべし。
他の宗派が、もし諸々の存在の本性や姿を談じることが我が宗派と異ならず、しかも、なお、すべての人の成仏を主張して、五つの素質というものがあって別々であることを許さないのであれば、このときには議論も起こるであろう。
而も、今、性相の論談を委しくせず、事相の中の安立を具にせず、一向に事を理性門円融の義に依せて定姓・無姓の不同を許さず。
しかし、今、ものの本性や姿がどうなっているのかについて議論を委しくすることもなく、現象の姿がどのようになっているのか詳細に説明もせず、もっぱら事実を、真理である本性の、一つに融合する面からのみとらえて、定まった素質を持っている者と素質を持っていない者とは同じではないことを許さない。
所立すでに、これ各別の門なり。
我が宗の立論は、はじめから各々別々に議論するものです。
何すれぞ諍論せん。
どうして言い争うことがあろうか。
また、もし我が宗、理性一味の義門の中に、、一乗を立てずして五姓を立つれば、また諍論を為すべし。
また、もし我が宗が、真理の本性の平等・一様の道理の中に、一乗を立てないで五姓を立てれば、また言い争うこともあろう。
而も、その義なし。
しかし、そのようなことはありません。
理門には皆成にして五姓の別無し。
真理の中においては皆成仏しているのであって、五つの素質の違いはないからです。
当に知るべし。
まさに知らなければならない。
我が宗は一乗も真実、五乗も真実なり。
我が宗においては、一乗も真実であり、五乗も真実です。
事相條然の故に、理性凝然の故に。
現象の姿は筋道だってはっきりしているし、真理の本性は静寂で不動であるからです。
その事相は無定相の相にして、如幻虚仮の五種姓の故に、真理平等の一乗に違せず。
現象の姿は定まった姿のない姿であり、幻の如く虚仮の五つの素質なので、真理平等の一乗に違反するところはありません。
その理性は縁生の真性にして、内に各別に証して共相に非ざるが故に、法爾差別の五姓に違せず。
真理の本性は縁より生じる存在の真の本性であり、それぞれの存在の内側でおのおの別々に証され、それなりに差別されているものなので、自然と差別されている五つの素質に違反するところはありません。
不即不離にして、一も立し五も成ず。
一体でもなく離れているのでもなく、一も立ち、五も成じます。
何ぞ自義の一門に限るを執して、強いて他宗の諸門周備するを疑わんや。
どうして自らの立場一つに限ると執着して、強いて、他の宗派が、さまざまな立場をあまねく備えているのを疑うのか。
故に我が宗の習い、諍論を好まず。
だから我が宗の習慣として、言い争いは好まないのです。
その旨、具に中宗略要の如し。
その内容は、詳しく『中宗略要』に書かれています。
これすなわち、能く一代の諸教を会して、更に仮相の戯論なき教えなるが故なり。
これは、お釈迦様御一代のさまざまな教えを解釈して、さらに仮の姿の無駄話のない教えだからです。
但し、自身の種の有・無においては、実に以て決し難し。
ただ、自身に佛の種子があるかないかについては、実に決定することは難しいものです。
教の権・実はこれに依るべからず。
教えが仮のものであるか、真実のものであるかを、このことに関連させて決めてはいけません。
これはこれ、別事なり。
これは関係のないことです。
尤も推尋すべし。
よくよく考えるべきです。
然るに本論の中に、「四煩悩に纏饒せらるる者は種姓ありといえども、その相、稍隠る」と。云々取意
けれども『成唯識論』の中に、「四つの煩悩に纏わり付かれている者は、佛の素質があっても、その姿がすこし隠れてしまう」とあります。(取意)
故に、たとい慳・嫉等の過ありといえども、これをもって忽ちに無姓と定むべからず。
したがって、たとえ物惜しみや嫉妬などの欠点があっても、これで直ちに素質を持たないと決めてしまってはいけません。
これすなわち多生串習等の故なり。
これは度々の生まれ変わりの間に習慣となってしまったことなどのせいだからです。
所以に六波羅蜜の相において、たとい一二三等の相を具すといえども、根本の大心の相を欠かざれば、まさに知るべし、すなわちこれ菩薩種姓なり。
したがって六つの完成行の姿において、たとえ一つ、二つ、三つの姿しかないといっても、根本の大菩提心の姿さえ欠けていなければ、まさに知るべきである、この者は菩薩の素質を持っているのです。
もし、なお、疑惑せば、須く大聖の加被を乞うべきか。
もし、それでも疑うのであれば、大聖のお力をお願いすべきであろう。
是を以て、三蔵大師、昔、西天において霊像に祈って、その証験を得たもう。
だから三蔵法師玄奘大師は、昔、西方のインドで霊像に祈って、その霊験を得られたのです。
これ、豈、末代の研心を引導せんがために非ずや。
これが、どうして、後の世代の、修行する者の心を導くためでないことがあろうか。
第七章 十二の縁起
第一節 人はなぜ輪廻をするのか?−十二の原因
問う。
問います。
生死流転の果は、何に依って起こるや。
生死の流転は、なぜ起こるのか。
答う。
答えます。
その本源を論ぜば、無明より起こる。
その本源を論ずれば、それは無知から起こります。
所謂、凡心は極めて明了ならず、因果の理を知らず、出離の道を了ぜず、三途の苦報、なお、厭うこと能わず、何に況んや人中、天上の勝果をや。
すなわち、凡人の心は大変暗く、何事にも曖昧で、因果の道理を知らず、解脱の道を理解せず、餓鬼・動物・地獄の三途の苦しみの果報さえ、なお厭うことができず、況んや人間や天国のすばらしい果報なら、なおさらです。
これすなわち、第六相応の分別の無明の力なり。
これは第六意識に対応している分別の無知の力です。(→分別起の煩悩)
是を、無明支と名づく。
これを無明支と名づけます。
是の如き愚癡力に依止するがゆえに起こすところの善悪二種の心行は、皆ことごとく流転の業因を成ず。
このような愚癡力が依り所となって起こす、善悪二種類の心の行いは、すべてみな流転の原因となります。
今、この業は、すなわちこれ第六相応の思なり。
今の心の行いとは、第六意識に対応している意志の心のはたらきです。
この思の心所、ある時は信等の善の心所と倶にして身・口・意の中、応に随って一切の善法を造作す。
この意志の心のはたらきは、ある時は信仰心などの善の心のはたらきと一緒になって、身体・言葉・心の中で、状況に応じて、一切の善事を造り出します。
ある時は、貪等の諸煩悩と倶にして身・口・意の中、応に随って一切の悪法を造作す。
ある時は貪ぼりなどのさまざまな煩悩の心のはたらきと一緒になって、身体・言葉・心の中で、状況に応じて、一切の悪事を造り出します。
今、この善悪の三業の思数、おのおの種子を薫ず。
今、この善・悪の身口意の三つの行為を引き起こした意志の心のはたらきは、おのおの種子を薫じます。
その諸の種子は、みな悉く、自己の仮我相続の本識に落在す。
それらの諸々の種子は、すべてみな、自分の仮りの我の相続(自分はあると思っている意識の連続した流れ)の本にあるアーラヤ識に落ち込みます。
是を行支と名づく。
これを、行支と名づけます。
今、この行支、随って、能く本識を資助す。
今のこの行支は、随行して、アーラヤ識に影響をあたえ続け、助成します。
これを行所持の苦果の種子と名づく。
この影響を受け続ける種子を、行が維持している、苦しみの果報をもたらす種子と言います。(いわゆる異熟無記の種子です)
その所資の苦果の種子において五種類あり。
その影響を受ける、苦しみの果報をもたらす種子に五種類があります。
一には本識能生の種子。
一つめはアーラヤ識を生み出す種子。
これを識支と名づく。
これを、識支といいます。(総報=全体[天・人間・畜生・餓鬼・阿修羅・地獄のどこへ行くか]としての果報の種子に当たります)
二には名色所摂の種子。
二つめは心と物質に所属する種子。
謂わく、本識能生の種子と及び六処、触、受の種子とを除いて外の、所余の異熟無記の種子なり。
すなわち、アーラヤ識を生み出す種子と、六つの場所、接触、感受の種子とを除いて、その他の、残りの先業の果報である無記の種子です。
これを名色支と名づく。
これを名色支と名づけます。(別報=細々とした内容としての果報の種子に当たります。以上は、依報=世界です)
三には眼等の六根の種子、これを六処支と名づく。
三つめは眼などの六つの感覚器官の種子で、これを六処支といいます。
この中の意根は、これ末那に非ず。
この中の意根は、末那識のことではありません。
但し、異熟の等無間の意を取る。
ここでは、先業の果報である直前の刹那に滅した意識のことです。
四には、異熟の触数の種子、これを触支と名づく。
四つめは、先業の果報である接触の心のはたらきの種子、これを触支と名づけます。
五には異熟の受数の種子、これを受支と名づく。
五つめは、先業の果報である感受の心のはたらきの種子、これを受支と名づけます。
(以上は正報=身体です)
今、この識等の五支の種は、総じてこれを論ずれば、すなわちこれ当来苦果の依・正を生ずべき種子なり。
今のこの識などの五つの支は、総じていえば、未来にやってくる苦しみの果報である−世界と身体−を生じるはずの種子です。
然るに、異熟の法はその性、羸劣にして独り自果の現行を生ずること能わず、かならず他の強勝の法の助けを待つ。
しかし先業の果報であるものは、その性質が脆弱なので独力で自らの果報を生じさせることができず、かならず他の強力な存在の助けを待たなければなりません。
是のゆえに、彼の善悪二業の資助の勢力に随って、或は好果を生じ、或は悪果を生ず。
そこで、彼の善悪の二つの業の助けの力にしたがって、あるいは良い結果(天などの−世界と身体−)が生じ、あるいは悪い結果(地獄などの−世界と身体−)が生じます。
好悪、異なりといえども、みな無記性なり。
良い、悪いが違っていても、どちらも無記(善悪いずれでもない)の性質です。
然るに、この行等の六支の種子は、かならず潤縁を蒙りて後に現行を生ず。
しかし、これら行などの六つの支の種子は、かならず潤されるという縁を待って、後に現われが生じます。
たとえば、外種の地中にありといえども、雨露の潤を蒙りて、まさに芽茎を生ずるが如し。
たとえば、外界の種子が地中にあったとしても、雨や露の潤いを受けてはじめて、芽や茎を生じるようなものです。
内法の種子も、またまた是の如し。
内側の種子も、そっくりそのようです。
その潤縁とは、すなわち諸の煩悩なり。
その潤いをあたえる縁とは、さまざまな煩悩です。
もし、人、煩悩を発起するの時、かならず当来苦果の種子を潤ず。
もし、人が煩悩を起こす時には、かならず将来、苦しみの果報をあたえる種子を潤しています。
諸の煩悩、みな、この力ありといえども、貪をもって本と為す。
すべての煩悩がみな、この力を持っていますが、貪りの心のはたらきが其本となります。
貪愛は水の如く、ことに潤生の勢力あるがゆえなり。
貪愛の心のはたらきは水のように、特に生を潤す力があるからです。
是を以て、若し臨命終の時、細相現行の位に至って、倶生下品の微細の貪愛、法爾として起きて、自体及び境界等を顧恋す。
ここから、もし、命が終わる時に臨んで、微細な相が現れてくる状態に至ったときにも、生まれつき具わる下級の微細な貪愛が自然とわき起こってきて、自分の身体や世界を顧恋するならば、
そのとき、すなわち彼の行等の六支の種子、正しく潤う。
そのとき、やはり、あの行などの六支の種子が、正しく潤います。
然るに、いまだ極に至らざるこの下品の貪を名づけて愛支と為す。
しかし、まだ完全に潤うには至っていない、この下級の貪りの心のはたらきを愛支と名づけます。
是の如く、愛惜、数数相続して、遂に上品倶生の貪等を起こす。
このようにして、愛惜の念が何度も継続して、ついに、上級の[決定的な]生まれつき具わっている貪りの心のはたらきなどを起こします。
そのとき、すなわち彼の六支の種子、潤縁ことごとく具して、生果の巧能、みな、決定しおわる。
そのとき、あの六支の種子は、潤いの縁がことごとく具わり、果報を生み出す力(どこに、どのような状態で生まれるか)が、すべて決定しおわります。
今、この上品の貪愛等の惑、これを取支と名づく。
今のこの上級の貪愛などの煩悩を、取支と名づけます。
この愛と、及び取との正潤は、すなわちこれ第六相応の倶生の煩悩なり。
この愛や取が正しく潤していくということこそ、まさに第六意識に対応している、生まれつき具わっている煩悩です。
今、この所潤の行等の六支を合して、有支と名づく。
今の、この潤いおわった行などの六支を合わせて、有支と名づけます。
今、この有支、託生の最初の刹那に至って、正しく苦果の依・正、二法を生ず。
今の、この有支は、生を受ける最初の刹那に至って、正しく、苦しみの果報である−世界・身体−の二つを生み出します。
その苦の果報の有根身、いまだ衰変せざりしより来、総じて生支と名づく。
その苦しみの果報(の一つ)である感覚器官のついた身体が、まだ衰えていないときから今までを、総じて生支といいます。
衰変以後、命終の位に至るまでを、総じて老死支と名づく。
衰えはじめて以後、命終の時にいたるまでを、総じて老死支といいます。
(正支は正報なり、依報を類摂す)
(生・老死支は身体のことですが、しかし、ここでは世界も含めます)
第二節 人はなぜ輪廻をするのか−輪廻の姿
今、この一期に、また無明を起こす。
今の、この人生で、再び無知の心のはたらきを起こします。
無明業を発し、乃至愛を起こして、苦の種子を潤ず。
そして無知の行いを起こし、ないし貪りを起こして、苦しみの種子を潤します。
前の次第と等しくして異あることなし。
前に言った順番と同じで、異なるところはありません。
是の如く、是の如く、輪転無窮にして、無始際より今に至るなり。
このように、このように、ぐるぐる回ること窮まりなく、無始の際より、今に至るのです。
故に生死の流れは無明を源と為す。
故に、生死の流れは、無知の源から発しています。
その無明は、すなわちこれ無明の種子の所生なり。
その無知の心のはたらきは、無知の心のはたらきの種子から生じたものです。
その種子は、すなわち彼の過去の無明の現行の熏習する所なり。
その種子は、過去の無知の心のはたらきの現れが熏習したものです。
その所熏の種は本識の中にあって、自類相生して間断なきがゆえに、是の如く是の如く無明を生起す。
その薫じられた種子は、アーラヤ識の中にあって、同じ種類のものを生じ合いながら継続して断絶することがないので、このように、このように、無知の心のはたらきを生起させ続けるのです。
是の如く、是の如く、無明を生ずるが故に、是の如く、是の如く、輪転絶えず。
このように、このように、無知の心のはたらきを起こすので、このように、このように、輪廻の回転は絶えないのです。
その能持の本識も、また自種より生ず。
それを保持しているアーラヤ識も、また自らの種子より生じます。
その本識の種子は、還って本識の中に在り。
そのアーラヤ識の種子は、再びアーラヤ識の中にあります。
すなわちこれ、六・七、二識の所変の相分の薫ずるところの本質の種なり。
これは第六意識と第七末那識の二つの心が変じた(アーラヤ識の)相分が薫じた、(影像ではなく)本質の種子です。
その六・七識も、また六・七、二識の種より生ず。
その第六意識と第七末那識も、また第六意識と第七末那識、二識の種子より生じます。
その種子は、すなわち六・七識の自の薫ずる所なり。
その種子は、第六意識と第七末那識が自ら薫じたものです。
薫じ已れば、また自の本識の中に在り。
薫じおわれば、(その種子は)また自らのアーラヤ識の中にあります。
是の如き、一切の種子、みな第八識の中に在りて自類相生す。
このように、一切の種子は、すべて第八アーラヤ識の中にあって、自らと同じ種類のものが生じあっています(種子生種子;現代的に言えばユニタリー変換)。
たとえば暴流の相続して絶えざるが如し。
たとえるならば激しい河の流れが継続して絶え間ないようなものです。
無始已来、種は現行を生じ、現は種子を薫じ、種は種を生ずるが故に、生死の流転、尽ることなきなり。
無始より以来、種子は現れを生じ、現れは種子を薫じ、種子は種子を生じる、この故に生死の流転は尽きることがないのです。
まさに生死輪廻は、唯これ自心の作なるを知るべし。
まさに生死の輪廻は、ただ自らの心が作ったものであることを知るべきです。
第三節 行動を起こさせる煩悩と生を潤す煩悩
問う。
問います。
今の無明は、すなわちこれ経中に説く無明住地か。
今、言っている無明は、『勝鬘経』の中で説かれている無明住地のことか。
答う。
答えます。
爾らず。
違います。
謂わく、無明において煩悩及び所知の二障あり。
すなわち、無知の心のはたらきの中には、煩悩によるもの(煩悩障)と、知るべきものを知っていないことによるもの(所知障)の二つの障害が含まれています。
凡そ、十煩悩・二十随惑、一一、是の如し。
一般に煩悩においては、十煩悩や二十随煩悩も、一つ一つこのようになっています。
是のゆえに、まさに言うべし、所知障は諸の煩悩の中の一一の底の微細分なり。
したがって、まさに所知障は、さまざまな煩悩の中の一つ一つの底に眠っている微細な煩悩を言うのです。
故に、まさに言うべし、所知障の上の麁強の分を煩悩と名づくるなり。
逆に、まさに所知障の上の、粗雑で強力な部分を煩悩と名づけるのです。
煩悩は用に迷いて、有情を擾悩して生死を取らしむれば、煩悩障と名づく。
煩悩は、はたらきに迷って、有情を乱し悩まして、生死を取らせるので、煩悩障と言います。
所知は体に迷いて所知の境を覆うて、菩提を得ざらしむれば、所知障と名づく。
所知障は、本体に迷って、知るべき対象を覆って、悟りを得させないようにするので、所知障と言います。
その煩悩障は、発業・潤生の用あり。
煩悩障には、行いを起こさせ、生を潤すはたらきがあります。
その正発業の惑は、すなわち分別煩悩なり。
まさに行いを起こさせる煩悩は、分別から起こる煩悩です。
助発業の惑は、また倶生に通ず。
行いを起こさせることを助ける煩悩は、さらに生まれつき具わっている煩悩にも通じます。
その正潤生の惑は、すなわち倶生の煩悩なり。
まさに生を潤す煩悩は、生まれつき具わっている煩悩です。
助潤生の惑は、また分別に通ず。
生を潤すことを助ける煩悩は、また分別起の煩悩にも通じます。
発業の惑の中、無明、力勝れたり。
行いを起こさせる煩悩の中では、無知の心のはたらきの力が勝れています。
然るに発業の法、重発の義なし。
しかし行い起こさせるものには、重ねて起こさせるという道理はありません。(注:行動を起こさせる、その瞬間のみ、一度だけ必要であるということ)
所以に一の無明支を建立す。
ゆえに一つの無明支を立てるのみです。
潤生の惑の中、貪愛、力勝れたり。
生を潤す煩悩の中では、貪りの心のはたらきの力が勝れています。
然るに潤生の法は、数数灌漑す。
ところが生を潤すものは、何度も何度も灌漑をします。
この故に、愛・取の二支を建立す。
ゆえに、愛と取の二支を立てるのです。
その所知障は、この発業・潤生の作用なし。
所知障には、この行いを起こさせたり、生を潤す作用はありません。
ただ、能く所知の境界を隠覆して、佛菩薩の智を生ずることを得ざらしむ。
ただ知るべき対象世界を隠覆して、佛菩薩の智慧を生じさせません。
而るに経所説の無明住地は、これ所知障なり。
しかし経に説かれている無明住地は所知障です。
是のゆえに、今の無明支に非ざるなり。
随って、今の無明支ではないのです。
問う。
問います。
若し、一切の煩悩の中、みな、所知障あらば、また名づけて貪・瞋・慢等と為すべし。
もし、すべての煩悩の中に、みな所知障があるのであれば、また貪り・怒り・慢心などと名づければよい。
何がゆえに経中、偏に無明住地の名を立つるや。
どうして、お経の中では、もっぱら無明住地の名前だけを立てているのか。
答う。
答えます。
所知障の中、無明、増すがゆえに、総じて無明と名づく。
所知障の中では、無明の力が比較的強いので、総じて無明と名づけているのです。
実に拠らば、貪・瞋・慢等なきに非ず。
実際には、貪り・怒り・慢心などの心のはたらきがないわけではありません。
第四節 他の教えを批判することについて
この中の上下簡他の門は、唯、末学の邪語執心を遮す。
この本の中で、上下をつけたり、他の考えを批判しているのは、ただお釈迦様の教えを後から学んでいるものたちの間違った言葉や執着心を防ごうとしているものです。
更に彼の正法の妙理を毀せず。
それ以上に、彼の正しい教えの妙なる真理を毀つものではありません。
彼、皆深要なり。
それらは、みな、すべて深く大切なものです。
豈、信行せざらんや。
どうして信じ行わないでいられようか。
それ遇い難き法に逢て、邪乱執心して、自宗の正理を顕すこと能わず。
遇い難き御教えに逢うことができたのに、邪に乱れ、執心して、自らの宗教の正しい真理を明らかにすることができない。
また、大いに他宗の教理を謗滅す。
また他の宗派の教理を大いに誹謗し、滅しようとする。
これによって、かならず大地獄の中に入って、多百千劫出ることを得ること能わず。
これによって、かならず大地獄の中に入って、多くの百千劫、出ることができない。
これ、只、執心の致す所なり。
これらは、ただ、執着心がもたらすものです。
若し互いに相和せば、諸佛の慧眼、自然に遍満し、随宜の所益、まさに窮尽なかるべし。
もし、互いに相和すことができたなら、諸佛の智慧の眼が自然に遍満し、所を得た利益は、まさに尽きる所を知らないであろう。
もし、互いに相毀せば、無量の法宝、同時に磨滅し、一切衆生、諸の大苦を受けん。
もし互いに誹りあえば、無量の教えの宝が同時に磨滅し、すべての生きものたちが、さまざまな大きな苦しみを受けるであろう。
大聖、悲悩したもうは、只この事か。
大聖が、悲しみ、悩まれるのは、ただこのことであろう。
但し、その執を遮せんと欲すれば、還って、その法を遮するに似たり。
ただ、その執着心を遮ろうとすれば、かえって、その教えを遮るのに似ている。
その法を立てんと欲すれば、、猶、その執を立つるが如し。
その教えを立てようとすれば、その執着心を立てるようです。
もし、互いに遮せずんば、また誰かその執を誡めん。
しかし、もし互いに遮らなければ、また誰が、その執着心を誡めるだろうか。
進退、維、谷る。
進退、ここに極まります。
これを如何せん。
これをどうすべきか。
伏して願わくは、智者、他の破を聞かば、かならず自の執を顧み、自立を得ば、まず他の和を求めよ。
伏してお願いする、智者の方々よ、もし他人が自分の宗派を非難しているのを聞いたなら、かならず自身の執着心を顧み、自分の宗派が正しいと思ったなら、まず他の宗派との和合を求めよ。
清浄一味にして、正法の昔に同ぜんことを。
清浄で一味であった、正法が支配した昔と同じようにならんことを。
第八章 三種類の自らの本性
第一節 三種類の自性とは何か
(1) 百法との関係
問う。
問います。
言う所の百法は、遍計等の三種自性において何んが判属するや。
百法は、遍計所執性などの三種類の自性の中の、どれに判断され所属するのか。
答う。
答えます。
もし、人、大綱を論ずれば、前の九十四法は、これ依他起性なり。
もし大まかに論じるなら、最初から九十四番目までは、依他起性です。
後の六種の無為は、円成実性なり。
最後の六種類の無為は、円成実性です。
もし、細に談ぜば、六無為において、識変と依如との二種の別あり。
もし詳細に話せば、六無為においては、識変無為と法性無為との二種の別があります。
委しき旨は、前の如し。
詳細は、前に話したとおりです。
この依・円、二性の百法において、或は増益して有と執し、或は損減して空と執す。
この依他起性・円成実性の二性の百法に対して、ある者は増し補って有と執し、ある者は損ない減じて空と執します。
是の如きの惑執に当たって現ずる所の偏有・偏空の相、これをすなわち名づけて遍計所執性と為す。
このような惑いの執着に応じて現れる、有に偏り、空に偏った姿、これを遍計所執性と名づけます。
二無我は、これを除遣するなり。
(2)三性の名前の由来
何がゆえに名づけて遍計所執と為す。
どうして遍計所執性という名前がつけられたのか。
乃至、何がゆえに円成実と名づくるや。
ないし、どうして円成実性と名づけられたのか。
答う。
答えます。
妄情遍計の所執なるがゆえに、名づけて遍計所執性と為すなり。
妄情による遍き思い込みによって執着されたものなので、遍計所執性と言うのです。
ゆえに遍計とは、能執の名なり。
ゆえに遍く思い込んでいるとは、執着している者に名づけられたものです。
所執と言うは妄境の名なり。
執着されたものとは、妄情の対象に名づけられたものです。
能迷の妄情は周遍計度す。
迷っている妄情は、さまざまなものを遍く思い込みます。
ゆえに遍計と名づく。
そこで遍き思い込みと名づけるのです。
所縁の妄境は、彼に取著せらる。
縁じられている妄情の対象は、その思い込みによって執着されます。
ゆえに所執と名づく。
そこで執着されたものと名づけます。
依他起とは、他の衆縁に依って、而も起こることを得るがゆえに、以てその名と為す。
依他起性とは、自分以外の他の多くの縁によって、はじめて起こることができるので、ここからその名前とします。
円成実とは諸法の実性にして円満成就す。
円成実性は、すべてのものの真実の本性であって、円満に完成されています。
ゆえにその名と為す。
したがって、その名前としています。
(3) 三性の有・無、仮・実
問う。
問います。
この三性において幾ばくか無、幾ばくか有、幾ばくか仮、幾ばくか実なりや。
この三性の中で、どれだけが無であり、どれだけが有であり、どれだけが仮であり、どれだけが実であるか。
答う。
答えます。
遍計所執は体性都無なり。
遍計所執性は、本体も本性も全くありません。
但これ、妄情計度して有と為す。
ただこれは、妄情が思い計って、有ると思っているだけです。
ゆえに情有・理無の法と名づく。
そこで、情としては有るように見えるが、道理としては無いものと言います。
依他起性は、如幻・仮有なり。
依他起性は、幻の如きもので仮の存在です。
衆縁の所成にして、その体は空ならず。
多くの縁によって成立しているもので、その本体は空ではありません。
円成実性は真実・如常にして、その性、凝然たり。
円成実性は真実で永遠のようであって、その本性は不変です。
仮に非ず、無に非ず。
仮でも、無でもありません。
今、この二性は聖者の境界にして妄情の境に非ず。
今のこの依他起性・円成実性の二性は聖者の対象世界であり、妄情の対象ではありません。
ゆえに、理有・情無の法と名づく。
したがって、道理としては有るものの、情としては無いものと言います。
(4) 遍計所執性はどこから起こるのか
問う。
問います。
遍計所執は体性都無ならば、凡夫の妄心、何を以て縁と為して起こることを得るや。
遍計所執性は本体も本性も全く無いのならば、凡夫の妄心は何を原因として起こるのか。
答う。
答えます。
心中現の依他の相を以て所縁縁と為す。
心中に現れた依他起の姿を、対象としての原因とします。
この依他において、誤って実有と謂い、或は全無と謂う。
この依他起のものに対して、誤って実際に有ると思い、あるいは全くの空であると思う。
ゆえに心外において増・損の相現ず。
だから心の外に、増し補った姿や、損い減じた姿が現れます。
是を以て、妄情を能遍計と為す。
ここから妄情は、遍く思い込むものであることがわかります。
心中現の境を所遍計と為す。
心中に現れた対象は、遍く思い込まれたものであることがわかります。
当情現の相を名づけて遍計所執性と為すなり。
そこで、まさに妄情に現れる姿を、遍計所執性と名づけるのです。
問う。
問います。
円成実性は所遍計に非ずや。
円成実性は、遍く思い込まれたものではないのか。
答う。
答えます。
真は妄執所縁の境に非ず。
真理は妄執が縁じる対象ではありません。
ゆえに親迷所遍計の境に非ずといえども、而もその依他の真実性なるがゆえに、展転に依って説かば、また所遍計なり。
ですから本当に迷っている遍き思い込みの対象ではありませんが、依他起の真実の本性なので、間接的に言えば、遍く思い込まれるものともいえます。
第二節 これらの三性はものの上にどう現れるのか−一段階目の中道
(1)総 説
問う。
問います。
今、この三性は是一体と為さんや、是異体と為さんや。
今のこの三性は一体なのか、それとも別々なのか。
答う。
答えます。
『唯識論』に云く、「まさに倶非と説くべし。別体なきがゆえに。
『成唯識論』に言っています、「まさにどちらでもないというべきです。別々の本体があるわけではないからです。
妄執と縁起と真義と別のゆえに」と。
妄執が縁じる対象であるか、縁によって起こったものか、真実の道理であるか、別であるからである」と。
ゆえに、この三種は不即不離なり。
したがって、この三種のものは一体でもなく離れているのでもありません。
別体なきがゆえに名づけて不離と為す。
別の本体があるわけではないから、離れてはいないと名づけます。
妄等別なるがゆえに名づけて不即と為す。
妄執など別々なので、一体ではない、と名づけます。
(2) 草の葉の青色の例
問う。
問います。
大都を聞くといえども、猶、未だ詳審ならず。
おおよそを聞かせてもらいましたが、まだ詳しくはわかりません。
しばらく一事を指して、その相を明かすべし。
すこし例を挙げて、その姿を説明してくださいませんか。
答う。
答えます。
しばらく、一の草葉を見るに、その色、青色なり。
たとえば一枚の草の葉っぱを見ると、その色は青色です。
今、この青色は定めて自然有に非ず。
今のこの青色は、決して自然に存在するものではありません。
因縁・増上の二縁の所生なり。
直接原因と間接原因の二つの原因によって生じたものです。
因縁と言うは、阿頼耶識所持の種子なり。
直接原因というのは、アーラヤ識が保持している種子のことです。
増上縁とは風・雨・地等の種々の疎縁なり。
間接原因とは風や雨や土地などの、さまざまな遠い原因です。
是の如きの親・疎、衆多の因縁和合して、この草葉の色を生ず。
このような近い・遠い、さまざまな原因が組み合わさって、この草の葉の色を生じています。
すでに、これ因縁所生の法なるがゆえに、自然無しといえども而も都無に非ず。
したがって、これは原因から生じたものであるので、自然にあるとは言えないけれども、全くの無ではありません。
幻の如く、夢の如く、有に非ず、無に非ず、是を依他と名づく。
幻の如く、夢の如く、有でもなく、無でもなく、これを依他起性と名づけます。
この如幻の草葉の青色において、常途の凡夫、執して実色と為す。
この幻のような草の葉の青色に対して、普通の凡夫は執着して実際の色であるとします。
是の如く執する時、心中所現は、すなわち如幻の青なり。
このように執着している時にも、心中に現れているものは、幻の如き青です。
当情所現は、実有の青相なり。
ところが、まさに妄情に現れているものは、実際に有ると思われている青色の姿です。
この相は理無なり。
この姿は、道理としては無です。
これを増益の遍計所執と名づく。
これを、増し補う遍計所執性と名づけます。
或は、一類の空見の者ありて、この色を撥無し、執して都無と為す。
あるいは、空の意見を持っている一派がいて、この色を無視して、全く無いものであると執着します。
是の如く執する時、心中所現は似の都無の相なり。
このように執着している時、心中に現れているのは、全く無いという姿に似ているだけのものです。
当情所現は、実の都無の相なり。
ところが、まさに妄情に現れているものは、実際に有ると思われている−全く無い−という姿です。
この相は理無なり。
この姿は、道理としては無です。
名づけて、損減の遍計所執と為す。
これを名づけて、損ない減じる遍計所執性といいます。
今、この増・損の、実有とし、都無とする妄所執の相を、この草葉の青色の中において、恒恒時において、常常時において、一切遠離して、凝然常住なり。
今の、この増し補い、損い減じて、実際に有るとなし、また全く無いとする、これらの妄情によって執着された姿から、この草の葉の、まさに青色の中において、永遠に、恒久に、一切、遠く離れたなら、それは不動にして永遠です。
此の理、真実にして不生不滅なり。
この真理は、真実であって、生じることもなければ、滅することもありません。。
これをすなわち名づけて、円成実性と為す。
これを円成実性と名づけます。
ゆえに、この三性は不即不離なり。
したがって、これらの三性は、一体でもなく離れているのでもありません。
(しばらく一事を指しおわる。諸法、みな此の如し)
(しばらく一例を挙げたが、すべてのものは、みな、このようである)
(3) 蛇・縄・麻の喩え
問う。
問います。
法相、甚深にして、その旨、迷い易し。
存在のありようは、甚だ深く、その意味は迷いやすい。
願わくは譬喩を引きて、その相を顕すべし。
どうか譬喩を引いて、そのありようを説明してほしい。
答う。
答えます。
『摂論』の頌の中に、蛇・縄・麻の喩えを引きて顕わせり。
『摂大乗論』の中で、蛇・縄・麻の喩えを引いて説明しています。
その大意は、闇夜に一縄あり。
その大意は− 闇夜に一本の縄がありました。
愚人、見て蛇と謂い、種々の恐怖、これに依って起こる。
愚か者が、これを見て蛇だと思い、さまざまな恐怖が、これに依って起こりました。
眼、眩み、心、騒ぎ、手足、振動す。
目が眩み、心は騒ぎ、手足は震えました。
そのとき、覚者、これを教えて悟らしむ。
そのとき、覚者が、この者に教えて悟らせました。
迷乱深きがゆえに、輙く、覚悟し難し。
しかし、迷乱が深いので、容易には悟ることができません。
数数思惟して、漸漸に醒悟す。
何度も何度も思惟して、だんだんと目が覚めていきました。
遂にその迷いを除いて、忽ち蛇、空なりと知る。
遂に、その迷いが取り除かれて、たちまちにして蛇などはいないのだと知りました。
是の如く知りおわりて、これを見るに、ただ、縄なり。
このように知ることができた時に、これを見ると、それは、ただの縄でした。
その縄の相貌、極めて蛇形に似たり。
その縄の姿が、非常に蛇の形に似ていたのでした。
似るがゆえに愚眼、見迷うて蛇と為す。
似ているので、愚かな眼は見誤って、蛇だと思ったのでした。
これ一重の覚なり。
これは、一段目の覚りです。
然れども、猶、縄を執して真実の物と為す。
しかし、まだ縄に執着して真実の物だと思っています。
尚数、思惟して、遂に縄、空なりと知る。
さらに何度も思惟して、ついに縄も存在しないと知ることができました。
その性は、すなわち麻にして、さらに実の縄なし。
その本性は麻であって、その上に、実際に縄という物があるわけではありません。
縄相は、ただ、これ衆縁の所生なり。
縄の姿は、ただ多くの縁が集まって生じたものに過ぎません。
如幻・仮有にして、有に非ず、空に非ず。
幻の如く、仮の存在であって、あるのでもなく、空でもない。
その麻は、すなわちこれ、有に非ず、無に非ず、縄の実性なり。
麻の方も、あるのでもなく、ないのでもなく、縄の真実の本性です。
彼の実蛇の相、及び実縄の相は、この麻中において一向に遠離す。
あの実際の蛇の姿、実際の縄の姿は、この麻の中においては、全く遠く離れている。
三性の諸法も、また是の如し。
三性のさまざまなものも、またこのようです。
愚者の迷眼は能遍計に喩え、種々の恐畏は生死の苦に喩え、覚者これを教うるに佛・菩薩に喩う。
愚か者の迷いの眼は、遍く思い込むものに喩え、種々な恐怖は生死の苦に喩え、覚者が、この者に教えることは、佛・菩薩に喩える。
実蛇の相は、実我の相に喩え、忽ち蛇空を知るは、生空を知るに喩え、実縄の相は、実法の相に喩え、縄の空を知るは、法空を知るに喩え、虚仮の縄は、依他の体に喩え、蛇の形貌に似るは、仮我の分に喩え、その性の麻は円成実に喩う。
実際に有ると思われている蛇の姿は、実際に有ると思われている我の姿に喩え、たちまちに蛇などいないと知ることは、生きものなどいないと知ることに喩え、実際に有ると思われている縄の姿は、実際に有ると思われているものの姿に喩え、縄などないと知ることは、ものなど無いと知ることに喩え、虚仮の縄は、依他の本体に喩え、蛇の姿に似ていることは、仮我があるように見えることに喩え、その本性である麻は、円成実性に喩えます。
この麻の中において、常に実蛇・実縄の相なきは、理の無相に喩う。
この麻の中に、常に、実の蛇や、実の縄の姿がないことは、真理には姿はないことに喩えています。
是の如く喩うる時、妙理、能く顕わる。
このように喩える時、妙なる真理が、よく顕されています。
(解釈の義をもって、私に、委しく之を喩う)
(解釈するという意味で、個人的に、詳しくこれを喩えました)
是の如く、三性は不即不離なり。
このように、三性は一体でもなく離れているのでもありません。
ゆえに此を以て名づけて、一重の中道と為す。
そこでこれを、一段階目の中道と名づけます。
第三節 一法中道−二、三段階目の中道
(1)二段階目の中道
1、 遍計所執性における中道
問う。
問います。
今、此の遍計所執性は、これ偏空と為さんや。
今のこの遍計所執性は、完全に無だとするのか。
答う。
答えます。
これ偏空に非ず。
これは完全に無だということではありません。
所以は如何。
理由はなぜか。
体都無なりといえども、而も妄情に当たって、その相、顕現す。
本体は全くの無だとしても、妄情においては、その姿が現れているからです。
さらに、この事、有ること無しと言うべからず。
このようなこともないのだと、言ってしまってはならない。
まさに知るべし。
まさに知らなければならない。
この相は空に即するの有なり。
この姿は、空と一体となった有です。
之を説いて名づけて計所執性と為す。
これを遍計所執性というのです。
ゆえに『義林章』に云く、「無と言うも無もまた有と言うべし。情に当たって我・法の二種、現ずるがゆえに」と。
ゆえに『義林章』に言っています、「無と言っても、無もまた有と言わなければならない。妄情の前には−我・もの−の二種類が現れているからです。
是の如く、有と言うといえども、理実にはすべて無体なり。
このように、有と言っても、実際の道理としては、すべて本体は無です。
但、これ妄情計度して有と為す。
ただ、これは妄情が思い込んで、有としているに過ぎません。
まさに知るべし。
まさに知らなければならない。
この空は、有に即するの空なり。
この空は、有と一体となった空です。
この妙空を説いて相無性と名づく。
この妙なる空を、相無性と名づけます。
ゆえに又『章』に云く、「遍計所執は無なり。我・法、倶に遣ると知る」と。
ここから、又『義林章』に、「遍計所執性は無です。−我・もの−ともに取り除いたと知る」と言っています。
ゆえに、これ中道なり。
したがって、これは中道です。
2、 依他起性における中道
問う。
問います。
今、この依他虚仮の法は、これ偏有と為さんや。
今の、この他に依って起こる虚仮の存在は、完全に有とすることができるのか。
答う。
答えます。
すでに虚仮という、豈、偏有ならんや。
すでに虚仮だと言っているのだから、どうして完全なる有であると言えるだろうか。
因縁生の法は自性無きがゆえに、之を説いて空と為す。
原因より生じるものは、自らの本性が無いのだから、これを空と説くのです。
かならず有に留まらざるの有なるがゆえに、之を名づけて依他起性と為す。
かならず有に留まることのない有であることから、これを依他起性と名づけます。
かならず無に留まらざるの無なるがゆえに、之を名づけて生無自性と為す。
かならず無に留まることのない無であることから、これを生無自性と名づけます。
ゆえにこれ中道なり。
したがって、これも中道です。
3、 円成実性における中道
問う。
問います。
今、この円成実性の理は、これ偏有と為さんや。
今の、この円成実性の理は、完全なる有としてもよいのか。
答う。
答えます。
すでに無相の理と称す、豈、これ偏有ならんや。
すでに姿のない真理と言ってきた、どうして、これを完全な有としてよいものか。
法無我性は、諸の障礙を離る。
実体がない、ものの本性は、諸々の障礙から離れています。
譬えば虚空の如し。
譬えば虚空のようなものです。
一切の妄想、必然に遠離す。
一切の妄想から、必然的に遠く離れています。
ゆえに説いて空と為す。
そこから空と、説かれます。
今、この空理は真実・如常なり。
今の、この空という真理は真実であり、永遠のようです。
ゆえに説いて、有と為す。
そこから有と、説かれます。
まさに知るべし。
まさに知らなければならない。
この有は、空に即するの有なり。
この有は、空と一体となった有です。
ゆえに、之を名づけて円成実性と為す。
ゆえに、これを円成実性と名づけます。
まさに知るべし。
まさに知らなければならない。
この空は、有に即するの空なり。
この空は、有と一体となった空です。
ゆえに、之を名づけて勝義無性と為す。
ゆえに、これを勝義無性と名づけます。
ゆえに、亦中道なり。
ゆえに、また中道となります。
(2)三段階目の中道
1、 遍計所執性における中道
問う。
問います。
所執情有の辺は、一向これ有か、今、この理無の辺は、一向これ無か。
執着されている妄情による有は、もっぱら有なのか、今の、この道理としての無は、もっぱら無なのか。
答う。
答えます。
これまた然らず。
これもまた、そうではありません。
情有と言うは、すでに実有に非ず。
妄情による有というものは、すでに実の有ではありません。
たとい増益の相にまれ、たとい損減の相にまれ、偏迷の情想にして定相有ること無し。
たとえ増し補った姿であれ、たとえ損ない減じた姿であれ、偏った迷いの妄情の想いであって、定まった姿はありません。
ゆえに、亦中道なり。
だから、また中道です。
今、この増・損の有・空、二相は倶に不可得なるを名づけて理無と為す。
今の、この増したり損なったりの有・空、二つの姿が、ともに存在しないので、これを道理として無と名づけるのです。
豈、これ偏空ならん。
どうして、これが完全な空であろうか。
ゆえに、亦中道なり。
だから、また中道となるのです。
2、 依他起性における中道
問う。
問います。
依他の仮有は、これ一向有と為さんや、今、この実無は、これ一向無と為さんや。
依他起の仮の有は、もっぱら有なのか、今、これの実際における無は、もっぱら無なのか。
答う。
答えます。
これ、また然らず。
これも、また違います。
増・損、倶離の有なれば、これを仮有と名づく。
増すことも損なうことも、ともに離れた有なので、これを仮有と名づけるのです。
豈、偏有ならんや。
どうして完全なる有であろうか。
ゆえに中道なり。
ゆえに中道です。
増・損、倶空の無なれば、これを実無と名づく。
増すことも損なうことも、ともに空じた無であるので、これを実際には無と名づけるのです。(注:相[姿]はあります=有相)
豈、偏無ならんや。
どうして完全なる無であろうか。
ゆえに中道なり。
だから中道です。
3、 円成実性における中道
問う。
問います。
円成の無相空は、これ一向空と為さんや、今、この真実有は、一向有と為さんや。
円成実性が姿を持たず、空であることは、これはもっぱら空なのであろうか、今のこの円成実性の有は、もっぱら有なのか。
答う。
答えます。
これまた然らず。
これも、また違います。
増・損、倶無ならば、これを無相と名づく。
増すことも損なうことも、ともに無いので、これを姿がないと名づけるのです。
豈、これ偏空ならんや。
どうして、これが完全な空であろうか。
この理、真実なれば、これを真有と名づく。
この真理が、真実なので、これを真実の有と名づけるのです。
豈、また偏有ならんや。
どうして、また完全な有であろうか。
ゆえに、亦中道なり。
だから、また中道です。
4、 まとめ
然らば、所執一性の中、情有と理無とのゆえに総じて名づけて中道と為す。
したがって遍計所執性の一つの性の中で、妄情による有と道理としての無があるので、全体として中道と言えます。
二門、各、また辺路に留まらず。
二つの見方の各々があり、また一方のみに留めることもできません。
依他一性の中、仮有と実無とのゆえに総じて名づけて中道と為す。
依他起性の一つの性の中で、仮の有と実際は無ということがあるので、全体として中道と言えます。
円成一性の中、無相と真実とのゆえに、総じて名づけて中道と為す。
円成実性の一つの性の中で、姿がないことと真実ということがあるので、全体として中道と言えます。
彼此の二門、また各一一、辺路に留まらず。
それぞれの二つの見方は、また一つ一つ、一方のみに留めることはできません。
第四節 三性における不即不離
問う。
問います。
所執の情有と依他の仮有と円成の真実と、これ一向各別の義と為さんか、所執の理無と依他の実無と円成の無相と、また是一向各別の義なるか。
遍計所執性の情有と、依他起性の仮有と、円成実性の真実と、これらはもっぱら別であるとするのか、遍計所執性の理無と、依他起性の実無と、円成実性の無相とは、またもっぱら各々別であるとするのか
答う。
答えます。
これも、また然らず。
これも、また違います。
所執の情有は本、依他の仮有の上において現ず。
遍計所執性の情有は、もともと依他起性の仮有の上に現れたものです。
何となれば法体、本来都無ならば何に迷うて執を起さん。
どうしてかというと、ものの本体が本来全くの無であったら、一体、何に迷って執着を起こすことができるのだろうか。
実有に非ずといえども、然も実有に似たり。
実際に有るわけではないけれども、実際に有るのに似ている。
ゆえに諸の妄情、この仮有に迷うて、当情の相、現ず。
だから、多くの妄情は、この仮有に迷って、まさに思い込んでいる姿が現れます。
豈、依他の仮有と定めて別ならんや。
どうして依他起性の仮有と、全く別でなければならないことがあろうか。
然れども偏即に非ず。
けれども完全に等しいわけでもありません。
まさに知るべし、すなわちこれ不即不離なり。
まさに一体でもなく離れているのでもないと知るべきです。
今、この仮有は、本、円成の真実より起こる。
今のこの仮有は、もともと円成実性の真実から起こるものです。
もし凝然の理なくんば、その事、豈、起こることを得んや。
もし不変不動の真理がなければ、現象が、どうして起こることができるだろうか。
衆多の事相に非ずといえども、然も、各々の法性あり。
多くの現象の姿があるわけではないが、しかし、各々のものに本性[宇宙全体が畳み込まれている本性]があります。
この故に、因縁合する時、虚仮の事相、成ずることを得。
この故に、原因が和合するとき、虚仮の現象の姿が現成します。
然れども偏即に非ず。
しかし完全に等しいわけではありません。
まさに知るべし、すなわちこれ不即不離なり。
まさに、これは、一体でもなく離れているのでもないと知らなければなりません。
その所執の理無は、依他の実無に帰す。
遍計所執性が道理として存在しないことは、依他起性が実際には無であることに帰します。
所以は如何。
それは、なぜか。
因縁生の法は無自性とは、その遮する所の自性は、すなわち自然生性にして、我・法の実に当たるがゆえに。
原因から生じるものは自らの本性を持っていないというけれども、その否定している自らの本性とは、自然に存在している本性のことであって、これは実体としての−我・もの−に相当するからです。
然るに彼の理無は一向に相を遮す。
一方、あの道理としての無は、もっぱら姿を否定しています。
今、この実無は、また体上の義なり。
そして今の、この実体としての無は、本体が無いという意味です。
まさに知るべし。
まさに知らなければならない。
またこれ、一向即に非ず、一向離に非ず。
またこれも、もっぱら一体でもないし、もっぱら別でもありません。
今、この依他実無の義は、すなわち円成無相の義に帰するなり。
さらに、今のこの依他起性が実際には無であるということは、、結局、円成実性に姿はないということに帰します。
凝然の真理は、恒に衆相を離る。
不変不動の真理は、常時、いかなる姿からも離れています。
彼の無自性の理なるがゆえなり。
あの自らの本性など無いという真理そのものだからです。
然るに彼は仮有に属する実無なり。
一方で依他起性は仮有に所属し、実際には無、というものです。
これはこれ、真実に属するの無相なり。
円成実性は、真実に所属する姿の無いものです。
ゆえに、またすなわちこれ、一向即に非ず。
ゆえに、またこれはもっぱら等しいわけではありません。
一向離に非ず。
もっぱら離れているわけでもありません。
是を以て三性は、これ別体に非ず、また即一に非ず。
したがって三性は、別でもなければ一つのものでもありません。
これを即する時は、所執の空は、すなわち依・円の空なり。
これを一つとみる時は、遍計所執性における空は、依他起性・円成実性の空と同じです。
依・円の有は、すなわち所執の有なり。
依他起性・円成実性の有は、遍計所執性の有です。
これを離する時は、彼此、また異なり。
これを離れているものとみる時は、彼此、また別です。
第五節 現象と真理、真理と真理、現象と現象の不即不離
(1) 総 説
事・理、相対して、その即・離を論ずるも、亦復これの如し。
現象と道理とを比べながら、それが一体のものか離れているものかを論じても、同様です。
これを即せんと欲すれば、すなわち相・性の跡分かちて色・空に類す。
これを一体のものとみなそうとしても、姿と本性とがはっきりと分かれて、物質と空性のようです(空即是色)。
これを離せんと欲すれば、亦真・俗、和融して氷・水に似たり。
これを離そうとしても、また真実と世俗とが和み融して、氷と水のようです(色即是空)。
事中無量の差別相の不一・不異も亦、復、是の如し。
現象の中の無量の差別の姿における一でもなく、異なるのでもないという道理も、また、これと変わりません。
理中無辺の内証門の不即不離も、亦復、是の如し。
真理の中の、さまざまにある悟りの種類の各々が、一体でもなく離れているのでもないことも、また、これと同様です。
ゆえに『唯識論』に云く、「これは世俗に依って言う。もし勝義に依って言わば、心所と心と不即不離なり、諸識相望するも、まさに知るべし、また然り。
だから『成唯識論』に言っています、「これは世俗に合わせて言っているのであり、もし本当のことを言えば、心のはたらきと心とが一体でもなく離れているのでもないように、八つの心を見比べてみても、まさに同様であると知らなければならない。
これを大乗真俗の妙理という」と。
これを大乗仏教の真実と世俗の妙なる真理と言う」と。
又云く、「先に説く所の如き識差別の相は、理世俗に依り真勝義に非ず。
また言っています、「先に説いた心の差別の姿は、世俗の道理に従ったもので、本当の真実ではありません。
真勝義の中には、心・言絶するがゆえに」と。
本当の真実の中では、心も言葉も絶えてしまうからです」と。
また、云く、「八識の自性は定んで一と言うべからず。
また言っています、「八つの心の本性は、一つであると決して言ってはなりません。
行相と所依と縁と相応と異なるがゆえに。
縁じる心と、影響をあたえるものと、対象と、対応する心のはたらきとが異なっているからです。
また、一滅する時、余は滅せざるがゆえに。
また一つのものが滅したとしても、残りも滅するわけではないからです。
能・所熏等の相、各、異なるがゆえに。
薫じたり、薫じられたりする姿が、それぞれ異なっているからです。
また、定めて異なるにも非ず。
また、まったく異なっているわけでもありません。
経に八識は水波の如く差別なし、と説くがゆえに。
お経の中で、八つの心は水と波のように差別はない、と説かれているからです。
定めて異ならば、因果の性に非ざるべきがゆえに。
まるきり異なっていたら、原因と結果という関係を持ち得ないからです。
幻事等の如く、定性無きがゆえに」と。
幻のように、定まった本性など無いからです」と。
『唯識章』に云く、「然るに諸法の上に、各自に有る理を内に各別に証すれば共と言うべからず。
『大乗法苑義林章』に「しかし、それぞれのものの上に、各自にある真理を、内側で各々別々に証明しているので、一緒と言うわけにはいかない。
然るに、体は共相にあらざれども、万法これを離れず。
しかし、本体は共通の姿をしてはいないけれども、すべてのものが、これ(真理)から離れていません。
理、一にして二なきがゆえに、また共相と名づくべし」と。
真理は一つであり二つはないのだから、また共通の姿をしていると言うべきである」と。
是の如きに由るがゆえに、事事、相対して不即不離なり。
これらのようなことから、相対している現象と現象は、一体でもなく離れているのでもありません。
理理、相対して不即不離なり。
相対している真理と真理は、一体でもなく離れているのでもありません。
事理、相対して不即不離なり。
相対している現象と真理は、一体でもなく離れているのでもありません。
然るに、その事事の不即不離は不即を本と為す。
しかし、現象と現象が一体でもなく離れているのでもないことは、一体でないことが其本です。
事相は衆多なるがゆえに。
現象の姿は多様であるからです。
その理理不即不離においては不離を本と為す。
真理と真理とが一体でもなく離れているのでもないことにおいては、離れていないことが其本です。
真理は一味なるがゆえに。
真理は一味だからです。
理事不即不離は、二門均等なり。
真理と現象が一体でもなく離れているのでもないことにおいては、二つは均等です。
相・性、相依は即・離、みな順ずるがゆえに。
姿と本性とが互いに依り添いあっているところにおいては、一体と離れていることとが、すべて調和しているからです。
(2) 現象と現象の不即不離
問う。
問います。
しばらく、事事の不即不離について、何がゆえに不即なる、何がゆえに不離なる。
しばらく現象と現象とが、一体でもなく離れているのでもないことについてお伺いしますが、どうして一体ではないのですか、どうして離れてはいないのですか。
乃至、何がゆえに不即を本と為すや。
乃至、どうして一体ではないということを其本とするのですか。
答う。
答えます。
因縁所生の法は、因縁一に非ざるがゆえに、相状衆多のゆえに、体事万差のゆえに、かならず種々非一の差別あり。
原因から生じたものは、原因が一つではないから、姿や状態がたくさんだから、本体や現象がさまざまだから、かならず種々の、一つには限らない差別があります。
このゆえに不即を本と為す。
これらの理由から、一体ではないことが其本となります。
然るに、その体、虚仮にして如幻如夢の故に、互いに因果となるがゆえに、定実の別あること無し。
しかし、その本体は虚仮であって幻の如く、夢の如くであるから、お互いが原因となり結果となるから、実体として定まった別々の本体があるわけではありません。
豈、定めて相離すべけんや。
だから、どうして、かならず相離れていなければならないことがあるでしょうか。
ゆえに不即なりといえども、而もまた不離なり。
だから一体ではないといっても、離れているわけではありません。
八識、不一不異の論文、その意、分明なり。
八つの心が一体でもなく異なっているのでもないという論の文章の、その意味は明らかです。
私に一喩を取りて、その意を顕して云く、世間に所有種々の仮物は、その相、万差にして無量無辺なり。
個人的に一つの喩えを取って、その意味を説明しようと思いますが、世間にある、あらゆる種々の仮の物は、その姿はさまざまであって無量無辺といっていいでしょう。
所謂、房舎・門楼・牆壁、台閣等なり。
すなわち、家屋、門・塀・建物などです。
是の如き諸事、曾て定相なし。
しかし、これらの事物には、いまだかつて定まった姿はありません。
もし屋宅を壊して門楼と為さば、すなわち成ずることを得べし。
もし家を壊して門とすれば、それは、そのようになるでしょう。
もし門楼を壊して牆壁と為さば、また成ずることを得べし。
もし門を壊して垣根や塀にすれば、またそうなるでしょう。
その理、かくの如くなるがゆえに、その事、みな不定なり。
その道理が、そのようであるから、その現象も、みな、定まったものとならないのです。
物体、かくの如くなるがゆえに、未だ壊せざるの時、その彼彼の相、みな、決定せず。
物の本体は、このようなものであるから、まだ壊れていない時には、その先の未来の姿は、まだ、みな決定されていません。
事事和融す。
現象と現象は、和み融けあっています。
この義、必然として、さらに疑惑なし。
この道理は必然であって、さらに疑うところはありません。
然れども、屋宅はすなわちこれ屋宅にして、而も、門等には非ず。
しかし、家は家であって門などではありません。
門はすなわちこれ門にして、而も、屋等に非ず。
門は門であって、屋根などではありません。
一一の事相、宛然として乱れず。
一つ一つの現象の姿は、そのとおりにあって乱れてはいません。
定相なきを以て、豈、一切みな、乱雑すべけんや。
定まった姿がないからといって、どうして、すべてみな乱雑とならなければならないということがありましょうか。
ゆえに虚仮なりといえども、虚仮の分位、各々相分かる。
従って虚仮であるといっても、虚仮の区分は、整然と、各々、相い分かれています。
定相無しといえども、誰か不有の有相を廃せんや。
定まった姿がないからといって、誰が、本当は無いけれど、やはり有る姿を廃止しなければならないことがあるでしょうか。
是のゆえに、謂いつべし、無定相に即するの定相なりと。
従って言うべきである、定まった姿がないことと一体となった定まった姿なのだと。
これ、すなわち因縁所成の功力、かならず損減せず。
これは、要するに原因から作り出される効力は絶対に損減することはない、ということです。
因果、相称して輙く転ぜざるがゆえに、因縁尽きざれば、彼彼の相状、みな存することを得るなり。
原因と結果は互いに結びついていて、容易には解消されないので、因縁が尽きてしまうまでは、あれこれの姿や状態は、すべて存在することになるのです。
是の如く、存すといえども、然もその自性は定相無きがゆえに、互いに和融するの義、また決然なり。
このようにして存在するとは言え、その自らの本性には定まった姿はないので、互いに和み融けあうということが、また必然的なのです。
有為の諸法も亦復、是の如し。
原因と結果の鎖の中にあるさまざまなものも、また同様です。
色法と心法と、心王と心所と、五根と五境と、三界と六道と、因位と果位と、是の如き等の類、無量の差別、一切、皆これ各々自性なるも因縁所成法のゆえに定相あることなし。
物質と心と、心王と心のはたらきと、五つの感覚器官と五つの対象と、三界と六道と、修行の位と佛果の位と、これらの無量の差別の一切は、皆、各々自らの本性ではあるものの、さまざまな原因から成立したものなので、定まった姿はありません。
定相無きがゆえに一切和融す。
定まった姿がないので、すべて和み融けあっています。
豈、互いに転ぜざらんや。
どうして互いに転じ合わないということがあろうか。
然るに因縁所成はその事、空に非ざるがゆえに、因縁尽きざれば種々の事相、條然として相分かれ、彼此すべて乱れず。
しかし、さまざまな原因によって成立した現象そのものは、空ではないので、因縁が尽きてしまうまでは、種々の現象の姿は、明白に相分かれており、彼とこれとが、すべて乱れることはありません。
是のゆえに、事事不即不離は不即の門を以て本と為すなり。
したがって、現象と現象とが一体でもなく離れているのでもないことにおいては、一体ではないことが其本となるのです。
(3) 真理と真理の不即不離
問う。
問います。
若し爾らば、理理不即不離は何がゆえに不即なる、何がゆえに不離なる。
もしそうなら、真理と真理とは一体でもなく離れているのでもないことにおいて、どうして一体ではないのか、どうして離れているのでもないのか。
乃至、何がゆえに不離を本とするや。
ないし、どうして離れていないことを其本とするのか。
答う。
答えます。
真理、もし定めて異ならば、これすなわち、まさに有為なるべし。
真理が、もし決まって異なる本体を持つようなものならば、それはまさに原因と結果の鎖の中にあるさまざまなものと同じであろう。
体性衆多の法は、かならずその因縁を待つ。
本体や本性がさまざまにあるものは、かならずその原因を待って、はじめて存在します。
もし因縁有って生ぜば、まさにこれ有為なるべきがゆえに。
そして、もし原因があって生じるのであれば、まさに、このもののことを有為というのであるから。
況んや、もし異相あらば、すなわち、まさにこれ事相なるべし。
まして、もし異なった姿があるのなら、まさに、これは何らかの現象の姿であると言えよう。
豈、法性と名づけんや。
どうして、ものの本性と名づけることができようか。
真理、もし定めて一ならば、まさに各々の性にあらざるべし。
真理が、もし決まって一なるものであるなら、各々のものの本性であることはできないであろう。
もし、各々の性に非ずんば、何ぞ諸法の性と名づけん。
もし各々のものの本性でなかったなら、どうしてさまざまなものの本性であると名づけられようか。
況んや、もし一相あらば、すなわち、まさにこれ事相なるべし。
まして、もし一という姿が有ったならば、まさに、これは現象の姿であると言えよう。
何ぞ法性と名づけんや。
どうして、さまざまなものの本性と名づけられようか。
この故に真理は不即不離なり。
これより、真理は一体でもなく離れているのでもない。
但し、詮門に依せて強いてこれを施設せば、一味を本と為す。
ただ、あれこれ詮索する部門に倣って、強いてあげつらうならば、一味を其本とすると言えるでしょう。
所以は如何。
それはなぜか。
無相法の中、別相なきがゆえに。
姿のないものの中においては、別々なものの姿はないのだから。
この義に依るがゆえに、色の理なりといえども、理は質礙なし、何ぞ心性に異ならん。
この道理によって、物質の真理だといっても、真理には何らかの質による障礙はありません、どうして心の本性と異なるところがあろうか。
心の理なりといえども、理は縁慮なし、何ぞ色性に異ならん。
心の真理だといっても、真理は縁じたり、考えたりすることはありません、どこが物質の本性と異なるだろうか。
乃至、五根・五塵・心王・心所等の法の種々の理、各々相対して、是の如く知るべし。
ないし五つの感覚器官、五つの物質、心王、心のはたらきなどのものの種々の真理も、各々見比べて、このように知りなさい。
ゆえに衆多の不同は、みなこれ、有為の相にして、全く真性の中の不同に非ず。
だから多くのものが同じではないのは、すべて有為の姿であって、全く真理である本性の中にある種々の違いとは違います。
ゆえに聖教の中には名づけて平等性と為し、称して虚空界と為す。
だから聖教の中では、これを平等性と名づけたり、虚空界と称したりしています。
これすなわち、事相は無量万差なり。
つまり現象の姿は無量で億万の差別があります。
真理は一味にして不生不滅、非一非異、非色非心、非内非外、差別なきがゆえに。
真理は一味であって、生じることなく、滅することなく、一に非ず、異なるに非ず、物質に非ず、心に非ず、内に非ず、外に非ず、差別というものがないからです。
是を以て、三科・四諦等の性、三界・五趣・三乗等の理、みな互いに融通して、彼此隔たりなし。
ここから、五蘊・十二処・十八界の三科や四聖諦などの本性、三界・五趣・三乗などの真理は、みな互いに融通して、彼とこれと隔たりはありません。
然るにこの一理、各々の事相の性たるは、色性は凝然として質礙すべき理、心性は凝然として縁慮すべき理、乃至一一みな、是の如くなるがゆえに、不即の門は事相に従う。
しかし、この一つの真理、すなわち各々の現象の姿の本性であるものは、物質の本性は不動不変ながら、何らかの質により障礙するべき真理であり、心の本性は不動不変ながら、縁じ考えるべき真理であり、ないし、一つ一つすべてこのようであるので、一体ではないという見方からすると、それは現象の姿に従うのです。
その至実を談ずれば、これ真理の剋性門に非ず。
ただその本当の意味からすると、これは真理はバラバラであるということではありません。
直ちに理体を論ずれば、これ一味なるがゆえに不即不離なり。
真理の本体を、直に論じるならば、それは一味ですから、一体でもなく離れているのでもないものです
思議し難き中に、もし強いて施設せば、不離を本と為すなり。
それは考えることも議論することも難しいものですが、もし強いて言うなら、離れていないことを其本とするのです。
(附 論:十界互具について)
問う。
問います。
若し爾らば、地獄界の理は、すなわち佛界の理なりや。
もしそうなら、地獄の世界の真理は、佛の世界の真理でもあるのか。
乃至、佛界の理は、すなわち地獄界の理なりや。
ないし、佛の世界の真理は、地獄の世界の真理でもあるのか。
その鬼畜乃至声聞等の一一の界において問いを為すことまた爾り。
餓鬼や動物、ないし声聞などの一つ一つの世界においても同様に伺います。
答う。
答えます。
十界互具は他宗の法門か。
十の世界をお互いに備えあっているという教えは、他宗(天台宗)の教えであるが…。
自宗の意は、二門あるべし。
自分の宗では、二つの答えがあります。
有為の事より伝えて之を論ずる時は、爾らざるを本と為す。
原因と結果の鎖の中にあるさまざまなものの側から、これを論じる時は、そうではない、ということを其本とします。
所以は如何。
それはなぜか。
地獄の依・正は極苦の色・心なり。
地獄の−世界と身心−は、極苦の物質と心です。
その実性を説いて、安立真如と名づく。
その真実の本性を、安立真如と名づけます。
佛界の依・正は極善の妙体なり。
佛界の−世界と身心−は、極善の妙なる本体です。
その実性を説いて正行真如と名づく。
その真実の本性を正行真如と名づけます。
彼此の理性、條然として乱るることなし。
彼とこれの真理である本性は、整然としていて乱れることはありません。
一一の法性、各別に証するがゆえに。
それぞれのものの本性は、各々別々に証しているからです。
もし直ちに理体を談ずれば、平等にして差別なし。
もし直接、真理の本体を言うならば、平等であって差別はありません。
更に所属なきがゆえに互具の義、また必然なり。
これ以上、属するところはないので、互いに備えあっていることは必然的です。
安立真如と正行真如と、みな、一真如・法性の理なるがゆえなり。
安立真如と正行真如とは、どちらも一つの真如であり、ものの本性である真理だからです。
ゆえに『唯識疏』に云わく、、「詮を廃して体を談ずれば、すなわち一真如なり」と。
だから『成唯識論述記』に、「詮索を止めて本体を論じれば、一つの真如です」と言っています。
何に況んや、事相もまた定相なし。
いわんや、現象の姿にも決まった姿はありません。
不即を本と為すといえども、また不離の義あり。
ところが、一体ではないことが其本だといっても、また離れていないという道理もあります。
各々の真理、豈、定んで異ならんや。
とすれば、各々の真理が、どうして異なっていなければならないでしょうか。
若し、この門に約せば、事相、みな融して互具の義、爾、劬労なし。
もし、こちらの考えでまとめれば、現象の姿はみな融けて、互いに具えあっていることが、さらに容易に説明できます。
(4) 現象と真理の不即不離
1、 総 説
問う。
問います。
理事相対の不即不離は、何がゆえに不即なる、何がゆえに不離なる。
真理と現象が相対しての、一体でもなく離れているのでもないことについては、どうして一体ではないのか、どうして離れてはいないのか。
乃至、何がゆえに二門均等なる。
ないし、どうして二つは均等なのか。
答う。
答えます。
『唯識論』に、云わく、「異ならば、まさに真如は彼の実性に非ざるべし。
『成唯識論』に、「異なっているなら、真如は彼のものの実の本性ではないはずです。
不異ならば、この性はまさに、これ無常なるべし。
異なっていないなら、この本性は、まさに無常でなければならない。
彼此ともに、まさに浄・非浄の境なるべし。
彼も、これも、共に、清浄かつ清浄でない対象とならなければならない。
すなわち本・後の智用、まさに別なかるべし」と。
つまり根本無分別智と後得清浄智とのはたらきに違いはないことになる」と。
これすなわち、本経『解深密』の中に善清浄慧菩薩、勝解行地の衆多の小菩薩、各執して理事の一・異を諍論して、或は一向即といい、或は一向相離といい、或は猶予簡択して決定の解を生ぜず、種々不同なるを挙げて如来に請問す。
これは本経である『解深密経』の中で、善清浄慧菩薩が、勝解行地の多くの小菩薩たちが各々執着して、真理と現象とが一体のものであるか、異なったものであるかを諍論して、ある者は全く同一であると言い、ある者は全く相離れていると言い、ある者はどちらにするか猶予して理解を決定しないというように、種々の意見に分かれていることを挙げて如来に教えを請いました。
如来、之に答えて、その偏即・偏離の二義において、佛自ら、種々の難破を致し、大いに之を呵して言いたもう。
如来はこれにお答えになって、その同じであることに偏った意見、違っていることに偏った意見の二つの考え方を、仏さま自らがさまざまに非難し論破され、大変に、この者たちをお叱りになって言われた。
「愚癡、頑鈍にして明らかならず、善ならず、理の如く行ぜず」と。
「愚かで、頑固で鈍く、明らかでなく、善でなく、道理に則して行ってもいない」と。
その文、繁広なり。
その文は長大です。
披いてこれを見るべし。
自ら披いてみてください。
『唯識論』等は、すなわち、これより起これり。
『成唯識論』などの議論は、ここから起こっています。
その大綱は、事理、もしこれ一向に相離せば、真如はまさに諸法の実性に非ざるべし。
その大綱は、現象と真理とが、もし全く離れたものであったなら、真如はさまざまなものの本性ではないことになる。
性は、すなわちこれ、法の至実なるがゆえに。
本性というものは、ものの究極の実体であるからです。
事理、もしこれ一向相即せば、真如はまさに真実如常に非ざるべし。
現象と真理が全く同一であれば、真如は真実であり永遠の如きものではなくなる。
随縁転変して生滅すべきがゆえに。
縁にしたがって転変して、生じたり滅したりしなければならなくなるからです。
自余の諸難、みな本文の如し。
それ以外のさまざまな非難は、みな本文にあるとおりです。
繁きがゆえに載せず。
長くなるので、ここには載せません。
是の如き等の理、みな、必然のゆえに、事理相対の不即不離は二門均等にして、さらに差異なし。
このような道理は、すべて必然的であるので、現象と真理が同じものであるか違ったものであるかの二つの見方は、どちらも均等に可能であり差異はありません。
もしは一を本と為し、もしは異を本と為すこと、みな不可得なり。
一体であることを其本とすることも、別異であることを其本とすることも、ともに許されません。
すべて由なきがゆえに。
どちらにも理由がないからです。
2、 一体であることへの疑問
問う。
問います。
事は、これ有相、理はこれ無相、事は生滅すべし、理は常住なるべし。
現象には姿があり、真理には姿がありません、現象は生滅し、真理は常住です。
事は衆多なり、理は平等なり。
現象には数多くのものが存在し、真理は平等(平坦)です。
是の如き不同、実に一混し難し。
これらような違いは、実に混ぜ合わすことはできないであろう。
若し爾らば、まさにこれ一向各別なるべし。
もしそうなら、これらは全く別々ではないのか。
何ぞ即門ありや。
どうして一体であるというような教えがあるのか。
答う。
答えます。
事、もし堅実ならば、この難、爾るべし。
現象というものが、もし堅実なものであったなら、この非難は正当であろう。
事、すでに虚仮なり。
ところが現象というものは、すでに虚仮であることが分かっています。
何ぞこの疑に及ばん。
どうしてこのような疑いを持つのか。
偏に他力を以て成じて自性あることなきがゆえに、有相に似るといえども、而も定実の相なし。
全く他の力を借りて成立し、自らの本性というものがないのだから、姿が有るように見えるけれども、実体としての定まった姿などないのです。
生滅に似るといえども、而も実の生滅なし。
生じたり滅したりしているように見えるけれども、実際に生じたり滅したりしているわけではありません。
衆多に似るといえども、而も実の衆多なし。
数多くのものがあるように見えるけれども、実際には数多くのものがあるわけではありません。
皆、夢境の如く、不可思議なり。
すべて夢の世界のようであり、いくら考えても考えの及ばないものです。
ゆえに、更に無相の真理に違せず。
だから、さらに姿がない真理とも矛盾しないのです。
彼此和融して、互いに相即するなり。
彼とこれと和み融けあって、お互いがお互いに等しいのです。
3、 離れていることへの疑問
問う。
問います。
若し爾らば、またまさに一向に相即すべし。
もしそうなら、全く同じであってよいではないか。
何ぞ別門あるや。
どうして別々であるという教えがあるのか。
答う。
答えます。
その義、前に顕わる。
それについては、前にも出ました。
何ぞ、この問いを煩わさん。
どうして、このような問いをわざわざするのだろう。
定実の相なしといえども虚仮の相なきにあらず。
実体としての定まった姿はないといっても、虚仮の姿がないわけではありません。
実の生滅無しといえども、仮の生滅なきに非ず。
実際の生滅があるわけではないけれども、仮の生滅がないわけではありません。
実の差別無しといえども、仮の差別なきに非ず。
実際に差別があるわけでは無いけれども、仮の差別がないわけではありません。
真理は、是の如くならざるがゆえに、また不即の門あるなり。
一方、真理においては、このようなことはないので、一体ではないという教えもあるのです。
4、 水波の喩え
問う。
問います。
この義、思い難し。
意味がよく分かりません。
喩えを引いて、之を顕せ。
喩えを引いて、これを説明してください。
答う。
答えます。
水面、湛湛として高下あること無く、相貌有ること無し。
(静かな)水面は、なみなみとして高下はなく、また姿形はありません。
風等の縁来たるとき、波浪、忽念として起こる。
そこに風などの原因が来たとき、波浪がたちまちにして起こります。
その勢、或は高く、或は下し。
その勢いは、あるところは高く、あるところは低い。
その形、華の如く、綾の如し。
その形は、華のようであり、また綾のようです。
今、この事相は縁来たれば、すなわち生じ、縁謝すれば、すなわち滅す。
今のこの現象の姿は、原因が来れば生じ、原因が去れば、消滅します。
その水の体性は、縁来たるによって、まさに始めて起こることを得るに非ず、縁尽きるによって、まさに随って滅することを得るに非ず。
しかし、その水の本体・本性は、原因が来ることによって始めて起こったものではないし、原因が尽きることによって、それとともに滅してしまうようなものでもない。
今、しばらく波に対して不生滅と為す。
今の例でいえば、波と比べて、(水の本体・本性は)生滅することがないと言えます。
ゆえに、水を以て本有常住に喩う。
ここから水を、根本存在の常住性に喩えます。
豈、彼の波と一向に相即せんや。
どうして、あの波と全く同一であると言えようか。
然るに波は、全く水なり。
しかし、波はすべて水です。
水の外に何の別の物体あらんや。
水のほかに、どのような物体があるというのか。
是の如く見るときは、また実に不離なり。
このように見れば、また実際に離れてはいないとも言える。
これすなわち波相は仮有・実無にして、有相に似たりといえども、而も定実の相なし。
ここから波の姿は仮の有、実際には無であって、あるように見えるけれども、実体としての定まった姿はないのです。
起滅に似たりといえども、而も実の起滅なし。
起こったり滅したりしているように見えるけれども、実際に(実体が)起こったり滅したりしているわけではありません。
衆多に似たりといえども、実の衆多なし。
数多くのものがあるように見えるけれども、実際に(実体が)数多くあるわけではありません。
如幻・縁生にして難思の故なり。
幻の如く、原因から生じるものであり、(その実際を)思うことが難しいからです。
波、もし堅実ならば、水とは偏に別なるべし。
波がもし堅実なものであったなら、水とは全く別のものとなるだろう。
波は虚仮のゆえに水と相和して不即不離なり。
波が虚仮であるがゆえに、水と相い和して、一体でもなく離れているのでもないのです。
諸法の事理の不即不離、この譬喩を以て知るべきおや。
さまざまなものの現象的な現れとその真理が、一体でもなく離れているのでもないことは、この譬喩で以て知るに越したことはないであろう。
5、 水波の喩えへの疑問
問う。
問います。
今、この譬喩は相即の譬喩なり。
今のこの譬喩は、互いに一体であることの譬喩です。
水波は一向に一体にして、すべて別門有ること無し。
水と波は、全く一体であって、いかなる意味においても別ということはありません。
ゆえに、風等の縁によって起こるところの波相は実にその体なし。
だから風などの原因によって起こる波の姿は、実体としての本体があるわけではありません。
ただこれ水面の高下なり。
ただ、それは水面が上下しているだけです。
華等の相に似たるは、ただこれ相似にして、実にその相なし。
華などの姿に似ているのは、ただの相似であって、実体として、その姿のものがあるわけではありません。
もし、これを喩えと為さば、諸法もまた、まさに真理の外に法あること無く、有為の事相は、皆、迷いの前の境なるべし。
もし、これを喩えとすると、さまざまなものも、また真理の外にあるわけではなく、原因と結果の鎖の中にあるさまざまな現象の姿は、ただ、みな迷っている者の前に現れる対象でなければなりません。
今、引いて喩えと為す、その意、如何。
今、引いて喩えとするのは、どのような思いからなのか。
答う。
答えます。
この難、甚だ非なり。
この非難は完全に間違っています。
不即の義門は、前に具に顕しおわんぬ。
一体ではないという道理は、前に詳細に説明しました。
もし、その上の難ならば、すなわちこれ一向に波浪の起滅を許さざるや。
もし、その上で非難するのであれば、あなたは全く、波浪が起こったり、起こらなかったりするということを認めないのか。
将又、一向に水分の常住を許さざるや。
また(一方で)、水の部分が常住していることを全く許さないのか。
もし並びに許さずんば、おそらくはこれ横執ならん。
もし二つとも許さないのであれば、おそらくそれは間違った執着であろう。
もし、また倶に許さば、不即の義門、自然に成立す。
(逆に)もしともに許すならば、一体ではないという道理が自然に成立するであろう。
相似は、これ仮にして、更に都無に非ず。
あるに似ているというのは仮ということであって、それ以上の全くの無ということではありません。
もし難者の如くならば、おそらくは仮法を誤って無法と為すなり。
もし非難している者のようであるなら、おそらく、それは仮であるものを、無いものとしているのです。
仮法と無法と、その義各別なり。
仮のものと、無いものとは、その意味が違います。
混濫せしむること勿れ。
混乱させてはいけない。
仮とは、亦有亦無の義なり。
仮とは、有でもあり無でもあるという意味です。
無とは都無にして、更に有の分無し。
無とは全く無いことであって、それ以上、有るという部分の全くないものです。
今、この波浪は仮にして無に非ず。
今のこの波浪は仮であって無ではありません。
もし都無ならば、何ぞ縁来たるとき、その相、生起し、縁尽きるとき、その相、滅するや。
もし全くの無であったなら、どうして原因が来たとき、その姿が生起し、原因がなくなったとき、その姿が滅するのか。
もし仮と許さば、何ぞ前の答えの上に難を為すや。
もし仮と許すのであれば、どうして前の答えの上に非難をするのか。
ゆえに、この譬喩は、よく不即不離の喩えを成ずるなり。
したがって、この譬喩は一体でもなく離れているのでもないことの喩えとして成立するのです。
もし、所難の如くならば、恐らくは、これ一向に事相を撥無するならん。
もし非難されているとおりであったなら、おそらく、これは全く現象の姿をはじき出して無としてしまうだろう。
事相、もし無ならば、真理も亦無なるべし。
現象の姿が無であるならば、真理もまた無となってしまうであろう。
真理は独り真に非ず、必ず俗の真なるがゆえに。
真理というものは単独で真であるのではなく、かならず世俗的な事柄の真であるからです。
真俗、みな撥無せば、すなわちこれ大邪見なり。
真理も世俗も、すべてはじき出して無としてしまうならば、これは大変誤った考えとなります。
もし、猶、事なく理ありと言わば、その義、必然として不可得なり。
もし、それでも現象はなく、真理のみあるというならば、その道理は必然的にあり得ないものとなってしまいます。
もし事を撥せず迷いの前に在るがゆえにと言わば、若し爾らば、悟りの前には無し、何すれぞ事を許さんや。
もし、現象をはじき出してはいない、迷いの前にはそれはあるのだから、と言うならば、悟りの前には無いことになる、どうして(悟りの前の)現象を許さないのか。
情有理無は法体に非ざるがゆえに。
妄情の前には有るものの、道理としては無いと言っているのは(遍計所執性)、ものの本体(依他起性)のことではないから(悟りの前には有る)。
もし之に依って悟りの前の事を許さば、一向相即は責めざるに自ら破る。
もし、このような理屈によって、悟りの前の現象を許すのであれば、全く一体であることは、こちらからは責めていないのに、自ら破れてしまう。
不生の理の上に虚仮の生滅、必然として相分かれて唯一に非ざるがゆえに、もし虚仮のゆえに相即すと云わば、また虚仮のゆえに定めて即すべきこと難し。
生じることのない真理の上に生じたり滅したりしている虚仮の存在の姿は、必然的に相分かれて唯一ではないのであるから、もし虚仮であるから一体だというなら、また虚仮であるから一体となすことは決まって難しいとも言えるだろう。
すなわちこれ不即不離の義なり。
すなわち、これが一体でもなく離れているのでもないということなのです。
何ぞこれ、一向に相即の義ならんや。
どうしてこれが、全く一体でなければならないことになるのだろうか。
もし、之に依って、我れ、不即不離の義を許すと云わば、法相の義門、自然に成立す。
もし、これによって、私は一体でもなく離れているのでもないことを認めると言うのなら、法相宗の教えは自然に成立することになる。
百法の性相・法爾の五姓、皆これ虚仮の事相の中の不即の一門なり。
百の存在の本性とその姿、あるがままの五つ素質、これらはみな虚仮の現象の姿の中の、一体ではない一部門です。
すなわち彼の如幻人法の前の不一差別の所以なり。
すなわち、彼の幻の如き人やものの前にある、一体ではない差別の理由です。
もし、また説いて、悟前の事相は、これ事相なりといえども、法体は常住・不生不滅のゆえに相即すと言わば、言うところの事相は、これ因縁生と為さんや、因縁生に非ずと為さんや。
もしまた説いて、悟った者の前に現れる現象の姿は、現象の姿であるといっても、ものの本体は常住であり、不生不滅だから一体であると言うのであれば、現象の姿と言っているものは、それは原因から生じるものなのか、それとも原因から生じるものではないのか。
もし、これ因縁生ならば、何ぞ不生不滅ならん。
もし原因から生じるものであるなら、どうして不生不滅だと言えるのか。
縁生にして不滅ならば、また正理に違す。
原因から生じて、しかも不滅ならば、これは正しい道理に反する。
もし因縁生に非ざれば、今の所論の事に非ず。
もし原因から生じるものではないのであれば、今、論じている現象ではありません。
今の所論は、縁生の事に対する一異の義のゆえに。
今、論じているのは、原因から生じる現象に対して、それが(真理と)一体であるのか、そうではないのか、ということだからです。
何に況んや、その事は、これ有相と為さんや、これ無相と為さんや。
さらには、その現象は、姿を持っているとするのか、姿を持っていないとするのか。
もし、これ有相ならば、かならず因縁性なり。
もし、それが姿を持っているならば、かならず原因から生じたものです。
無因自然は正理に違するがゆえなり。
原因なく自然に存在することは、正しい道理に反するからです。
自然を因とするも、また悪因のゆえに。
自然が原因だとしても、それは悪い(誤った)原因だからです。
もし、これ無相ならば、すなわち真如の理なり
もし、これに姿がないならば、それは真如である真理です。
何ぞ、事相の法体、常住なりと云って、事理相即の義を成ぜんと欲するや。
どうして現象の姿の本体は常住であると言って、現象と真理は一体であるという道理を成立させようと欲するのだろう。
もし、また説いて真如を事と名づけ、これ法体のゆえに、常住の事とは、すなわちこれ、この事なり、言う所の相とは実相の相なり、ゆえにすなわち深理なりと言わば、また今の所論に非ず。
もしまた説いて、真如を現象であると見なし、これはものの本体であるから、常住の現象とは、まさにこの現象のことであり、今いっている姿とは、実在の姿のことであり、だからこれはとても深い真理なのであるというのなら、また今、論じていることではありません。
今の所論は縁生に望むるがゆえに。
今、論じているのは、原因から生じるものに対してのものだからです。
もし、また説いて、因縁生の事は、すなわち真理の相なり、ゆえに事即理にして不生不滅なり、この外に何ぞ別の真理あらんと言わば、還って、前の難あり。
もし、また説いて、原因から生じる現象は、真理の姿である、ゆえに現象即真理であって不生不滅である、この外にどんな別の真理があるのかというなら、再び前の困難があります。
因縁生の事にして而も不生滅なること不可得のゆえなり。
原因から生じる現象であるにもかかわらず、生じたり滅したりしないことはあり得ないからです。
もし、その生滅は仮に生滅に似るがゆえに真理の不生滅に摂帰すと云わば、すなわちこれ、我が宗の不即離の中の不離門なり。
もし、その生滅は仮に生滅に似ているに過ぎないのだから、真理が不生滅であることに結局は収まり帰ると言うのなら、それは我が宗の一体でもなく離れているのでもない教えにおける、離れているのではない教えに当たる。
何ぞ、別義のために劬労を致さんや。
どうして、別の道理を考え出して苦労しなければならないのか。
凡そ三性門の委細の安立は、「総料簡章」の時教等の中に、その意、顕念なり。
そもそも、三性の教えに関する委細の説明は、『義林章』第一章「総料簡章」の時教などの中で、その意義が明らかとなっています。
披いてこれを見るべし。
開いて、これを見るべきです。
第九章 三種類の本性が無いこと
第一節 どのような本性がないのか
問う。
問います。
三無性の中、後の二無性は、何をもって体となすや。
三つの無性の中で、後の二つの無性は、何が本体なのか(=何が無いと言っているのか)。
もし所執を体と為さば、相無性と何の別異か有る。
もし遍計所執性が本体であるなら、相無性とどんな違いがあるのか。
もし、依・円を体と為さば、依・円、豈、その自性無からんや。
もし依他起性や円成実性を本体とするのであれば、依他起性・円成実性に、どうしてその自性がないことがあろうか。
答う。
答えます。
後の二無性の体は先徳二伝なり。
後の二つの無性の本体には、先徳の二伝があります。
もし南寺の諸徳の意に依らば、三無性の体は、皆、これ所執なり。
もし南寺の諸徳の意見に従うと、三無性の本体は、すべて遍計所執性です。
もし南寺の護命僧正と及び北寺の諸徳の意に依らば、後の二無性は、次の如く、依他・円成を体と為す、云々。
もし南寺の護命僧正と北寺の諸徳の意見に従うと、後の二つの無性は、順番に、依他起性・円成実性を本体とします、などなど。
この中、しばらく後伝の意に依らば、依・円の二性は中道有のゆえに名づけて有と為すといえども偏有に非ず。
この中で、しばらく後伝の意見に従うと、依他起性・円成実性の二性は中道の有なので、有と名づけはするけれども、偏った有ではありません。
偏有に非ざるがゆえにかならず空の義を帯す。
偏った有ではないので、かならず空の意味を帯びています。
この空の義を取って無性と称するなり。
この空の意味を取って無性と称しているのです。
この空の義は、すなわち依他起は自然性なし、円成実性は一切の相を離る、此の如きの虚仮の空と及び空性の空とは、法爾として本来、法体の上に有する所の義なり。
この空の意味は、依他起性においては自然性がないということであり、円成実性においては一切の相を離れていることであって、このような虚仮であるから空ということと、空性の空ということとは、本来自然に、ものの本体の上に備わっている道理です。
今、此の義を取って無性と称することは、是の如きの義有るがゆえなり。
今、この道理を取って無性と称するのは、このような道理があるからです。
性、全無に非ずといえども、妄執を除かんが為のゆえに仮に無性と名づくるなり。
本性が全く無であるということではないけれども、妄執を除くために、仮に無性と名づけたのです。
ゆえに『唯識論』に、「後の二無性において倶に同じく説いて仮に無性と説く、性、全無に非ず」と言えり。
だから『成唯識論』に、「後の二無性においては、ともに仮に無性と説くのであって、本性が全く無であるわけではない」と言っているのです。
性、全無に非ずとは、法体中道のゆえに、名づけて有と為すといえども、復た有に留まらず、有に留まらずといえども亦全無に非ず。
本性が全く無であるわけではないとは、ものの本体における中道のゆえに、有るとはいうものの、有に留まることなく、また有に留まることはないといっても、全くの無でもないということです。
その無は、すなわちこれ一分の義なり。
その無というのは、一部分がそうであるという意味です。
この一分を取って総じて無性と説く。
この一部分を取って、全体を代表させて無性と説いているのです。
(言わんとす)
(ということです)
ゆえに三無性は、次の如く、三性をもって体となすなり。
だから三無性は、順番に、三性をもって本体としているのです。
これによって喩えを説いて、空華と幻事と及び太虚空とに相配す。
この理由から、遍計所執性を空華に、依他起性を幻事に、円成実性を太虚空に、それぞれ相配して喩えるのです。
もし、みな所執をその体と為さば、唯一の空華の喩えを取り、終わる。
もし、すべて遍計所執性を、その本体としているのであれば、空華の喩え、ただ一つを取れば、それで終わるはずです。
何ぞ、各別の三譬喩を用いんや。
どうして各々別々に三つの譬喩を用いたのであろうか。
『般若経』の中、この三種を以て密意をもって説いて、一切諸法皆自性無しと言うは、未だこの三種の無性を顕了にせず。
『般若経』の中で、この三種類の譬喩を秘密の意図をもって説き、すべてのものは、みな、自らの本性がないと言ったのは、まだ、この三種の無性を明らかに顕したものではありません。
是のゆえに、之を総説無性と名づく。
そこで、これを総説無性と言います。
第二節 遍計所執性が空なのではないのか
問う。
問います。
依・円二性に有する所の空の義は、則ちこれ遍計所執の空なり。
依他起性・円成実性の二性が持っている空の意味は、遍計所執性が空であるという意味です。
所以は如何。
それはなぜか。
依他起性に自然無きことは、遮する所の自然は、則ち、所執の自然性なるがゆえなり。
依他起性に自然に在るものが含まれていないのは、排除される自然が遍計所執性である自然性だからです。
円成実性の無相空は、遮する所の相は、またこれ所執の種々相なるがゆえなり。
円成実性に姿がなく空であるのは、排除される姿が、また遍計所執性の種々の姿だからです。
若し爾らば、後の二無性も正しく所空を論ぜば、皆、計所執に当たる。
もしそうなら、後の二つの無性も、正しく空じられるものを論じれば、すべてそれは遍計所執性に当たることになります。
何ぞ、所執空の伝を嫌わんや。
どうして遍計所執性が空であるとする伝統を嫌うのか。
之を捨てて殊に体空の伝を存せば、その所空の法は尤も不審なり。
この伝統を捨てて、ことさらに本体を空とする伝統を保存するというのであれば、さらに、その空じられるものについて、(私は)極めて不審である。
もし、直ちに依・円の体を空ずと言わば、その所空の分は此れ何の分ぞや。
もし直接、依他起性・円成実性の本体を空じると言うなら、その空じられる部分は、どの部分なのか。
その不空の分は、また何の分ぞや。
その空じられない部分は、どの部分なのか。
所執は妄法のゆえに、之を空ずるに由有り。
遍計所執性は妄情によるものであるから、これを空じるのは理由のあることです。
依・円は妄に非ざるがゆえに、之を存するに由有り。
依他起性・円成実性は妄情によるものではないので、これには(逆に)保存する理由があります。
その妄に非ざる中、更に何の由ありて、空ずる所の分ありや。
その妄情ではない中で、それ以上のどんな理由があって空じる部分ができるのか。
もし、全く遣らずんば、返って執空を成ず。
もし何も除外するものがないならば、反って遍計所執性を空じることが成立することになります。
もし全くこれを遣らば、則ち空見に堕す。
もし、すべて除外してしまうならば、空見に堕してしまう。
彼を察し、此を顧みるに、執空に如かざるべし。
あれこれ考えてみれば、結局、、遍計所執性を空じているとするのが最もよいのではないか。
答う。
答えます。
この義、深細にして輙く成立し難し。
ここのところは深細であって、容易に説明するのは困難です。
練習已後、之を知るべきか。
修練の後に、これを知ることができるようになるのであろう。
但し、しばらくその入門を指示せば、所執なき法は、これ依・円なり。
ただ、しばらく、その入り口の所を指示すると、執着のない存在は、依他起性と円成実性です。
ゆえに此の法を呼んで名づけて無性と為す。
だから、これらのものを呼んで名づけて無性と言ったのです。
無の名は、すでに法体に蒙らしむ。
無の名は、すでにものの本体(依他起性と円成実性)が請け負っています。
ゆえに体空と名づく。
だから本体が空であると言うのです。
然るに全無に非ざるがゆえに、仮説無性と名づく。
しかし全くの無ではないので、仮に無性と説くと名づけるのです。
第十章 二つの真実が互いに依存していること
第一節 四段階のある二つの真実
(1)一般仏教による二つの真実
問う。
問います。
法門は無尽なり。
教えの門は無限にあります。
何の義門をもって勝義真実門と為すべきや。
どの教えの門を、勝れた意味での真実の門となすべきか。
答う。
答えます。
我が宗の意は四重の二諦を立つ。
我が宗派の意見としては、四段階の二つの真実を立てます。
所謂、世俗に具に四重有り。
まず、世俗の真実に四段階が揃ってあります。
勝義も亦爾り。
勝れた意味の真実においても、また同様です。
世俗の四重とは、一には世間世俗。
世俗の真実の四段階とは、一つめは世間における世俗の真実。
謂わく、瓶・衣・軍・林等なり。
すなわち瓶や衣服や軍隊や林など(があるということ)です。
二には道理世俗。
二つめは道理としての世俗の真実。
謂わく、蘊等の三科なり。
すなわち、五蘊などの三科(五蘊・十二処・十八界)です。
三には証得世俗。
三つめは証得するべき世俗の真実。
謂わく、苦等の四諦なり。
すなわち、苦しみなどの四つの真実です。
四には勝義世俗。
四つめは勝れた意味での世俗の真実。
謂わく、二空真如なり。
すなわち、人空、法空における真如です。
勝義の四重とは、前の世俗に形して次第にこれを立つ。
勝れた意味での四段階とは、前の世俗にならって、順番にこれを立てます。
すなわち、初めの俗に形して、四重の真を立つ。(世間勝義諦)
すなわち、最初の俗(世間)にならって、四段階の真実を立てます。(世間における勝れた意味での真実)
所謂、三科と四諦と二空と一実と、これなり。
すなわち(1)三科と(2)四諦と(3)二空と(4)法界とです。
第二の俗に形して三重の真を立つ。(道理勝義諦)
第二の世俗諦にならって、三段階の真実を立てます。(道理としての勝れた意味での真実)
所謂、四諦と及び二空と一実とこれなり。
すなわち、(1)四諦と(2)二空と(3)法界とです。
第三の俗に形して二重の真を立つ。(証得勝義諦)
第三の世俗諦にならって、二段階の真実を立てます。(証得するべき勝れた意味での真実)
所謂、二空と一実とこれなり。
すなわち、(1)二空と(2)法界とです。
第四の俗に形して一重の真を立つ。(勝義勝義諦)
第四の世俗諦にならって、一段階の真実を立てます。(勝れた意味での勝れた意味での真実)
所謂、一真法界これなり。
すなわち、一なる真実の法界です。
今、此の廃立は三乗合して明かすなり。
今の取捨選択は声聞乗・独覚乗・菩薩乗の三乗に共通して明かしたものです。
(2) 大乗仏教での二つの真実
もし、偏に菩薩の二諦を明さば、実我・実法を第一の俗と為す。
もし、菩薩の二つの真実のみを説明すると、実の我、実の法を第一の(世間)世俗諦とします。
五蘊・四諦等の十善巧を第二の俗と為す。
五つの集まり、四つの真実などの十善巧を第二の(道理)世俗諦とします。
(注:十善巧=1、五蘊 2、十八界 3、十二処 4、十二縁起 5、処非処(道理と非道理)6、二十二根 7、三世 8、四諦 9、三界 10、有為無為)
三性・無性・唯識の理等を第三の俗と為す。
三性・三無性・唯識の道理などを第三の(証得)世俗諦とします。
二空真如を第四の俗と為す。
人空・法空の真如を第四の(勝義)世俗諦とします。
今、此の後の三は、則ち是れ、勝義の中の前の三なり。
今のこの後の三つは、勝れた意味での真実の中の前の三つに当たります。
その第四重の真勝義諦は、即ち是、二空の廃詮談旨にして一真法界なり。
その第四段階目の真の勝れた意味での真実は、二空を考えたり語ったりすることの廃れた一なる真実の法界です。
第一の俗に形して四真を立つ等の義は前の如し。
第一の世俗諦にならって四つの真実を立てるなどのことは前と同様です。
第二節 真理と世俗は互いに形成しあうこと
(1) 理 由
凡そ真は独り真なるに非ず、必ずこれ俗の真なり。
そもそも真理は単独で真理であるのではなく、必ずそれは世俗の真理です。
是を真俗相形の義と為す。
これを真理と世俗は互いに形成しあう関係にあるとします。
ゆえに俗事の中に定めて真理有り。
したがって俗事の中には、必ず真理があります。
真理の中に定めて俗事有り。
真理の中には、必ず俗事があります。
もし、その一を欠かば、必ずその二を失す。
一方を欠けば、必ずその他方を失います。
もし二を失せば、即ちこれ撥無の大邪見なり。
もし二つとも失ってしまえば、これは弾き出し無としてしまう大邪見です。
もし俗事無くんば真理有るべからず。
もし俗事がなければ真理はあるはずはありません。
もし真理なくんば、俗事あるべからず。
もし真理がなければ、俗事もあるはずはありません。
これ必然の理の故に。
これは必然的真理であるから。
これによって正智、如を縁ずるの位に、有為の万像は宛然として失せず。
これによって正しい智慧が真如を縁じる地位にあっても、有為の万像もそのままあるのであり、なくなってしまうことはありません。
能縁の正智は、即ちその万像の中の一法なり。
縁じる側の正智も、その万とある像の中の一つです。
所縁の真理は、即ちその能縁の智の自性なり。
縁じられる側の真理は、縁じる側の智慧自身の本性です。
正智と言うは、しばらく相応の一数の名を挙ぐ。
正智と言いましたが、これはとりあえず、対応している心のはたらきの中の一つの名前を挙げたに過ぎません。
実を以て論ぜば、同時一聚の心王・心所にして二十二法、この時、皆、各々の自体の平等の実性を証す。
真実のままを論じれば、同時に生起している一あつまりの心王と心のはたらきが二十二あって、このとき、すべてみな、心の本体の平等なる真実の本性を証明しています。
その依身等は、即ち第八識の長時所変なり。
身体などは、第八アーラヤ識によって長時にわたり変じられてきたものです。
その七・八等は、條然として存す。
第七末那識や第八アーラヤ識も、整然と存在しています。
一切衆生の無量の事相、無辺の諸佛の無数の依・正も、亦復、是の如し。
すべての生きものたちの無量の現象の姿、無辺の諸佛の無数の世界・身体も同様です。
是の如く、心と佛と及び諸の衆生との平等の実性は、即ち是の正智の所縁なり。
このように心と佛とすべての生きものたちがもっている平等なる真実の本性が、この正智の対象となるのです。
是の如く、万差衆多の事相、もし、これなくば、その真理は是れ誰の真理ぞ。
このように万差の多くの現象の姿がありますが、もし、これらがなかったら、その真理は、いったい誰の真理となるのか。
ゆえに俗諦成立して真諦能く成ず。
したがって世俗的真理が成立して始めて、真実の真理が成立することができるのです。
真諦成立して俗諦能く成立す。
真実の真理が成立して始めて、世俗の真理も成立することができます。
この義に由るがゆえに、能く法相を談ずれば、能く法性を知る。
このような意味から、ものの姿をよく述べることができるならば、ものの本性も、よく知ることができるのです。
もし法相を弁ぜずして能く法性を知るは、この処有ること無し。
ものの姿を区別しないでも、ものの本性をよく知ることができるような道理はありえません。
(2) どのように形成しあっているのか
今、この四重二諦は、即ち是れ、四重の相対なり。
今のこの四段階の二つの真実は、そのまま四段階の相対となります。
謂わく、一に有・無の対。
つまり一つめは有と無の対です。
第一世俗は、これ所執のゆえに体性都無なり。
世間世俗は、遍計所執性であるため本体・本性は全くの無です。
所余の四重は所執に非ざるがゆえに、体性都無に非ず。
残りの四段階は遍計所執性ではないので、本体・本性は全くの無ではありません。
二に事・理の対。
二つめは現象と真理との対。
前の有の中において五蘊等の法は、浅近の相のゆえに、是を名づけて事と為す。
一つ前の有の中で、五蘊などのものは、浅く身近な姿なので、これを現象(事)と名づけます。
三性等の法は深遠の性の故に、之を名づけて理と為す。
三性などのものは、深く遠い本性なので、これを真理と名づけます。
三には浅・深の対。
三つめは浅い・深いの対です。
前の理の中において、三性等の法は差別門のゆえに、之を名づけて浅と為す。
一つ前の理の中で、三性などのものはさまざまなものを差別する部門なので、これを浅いと名づけます。
二空等の如は、一味の理の故に、之を名づけて深と為す。
二空などの真如は、一味の真理であるので、これを深いと名づけます。
四に詮・旨の対。
四つめは、表現と意味の対。
前の深の中において、二空真如は、猶、空門に依って施設するがゆえに、之を名づけて詮と為す。
一つ前の深の中で、二空による真如は、まだ空というものに頼って成立するものなので、これを詮(言語表現)と名づけます。
一真法界は、すべて詮門を超ゆるがゆえに、名づけて旨と為す。
一なる真実の法界は、言葉によって詮じたてることをすべて超えているので、これを旨(意味)と名づけます。
今、この四重に無量万差の法門を摂在して尽きざることなし。
今の、この四段階に無量万差のものや教えの部門を収めて尽くして、余ってしまうようなことはありません。
四俗・一真は『本論』の説く所、四重の勝義は『唯識』の明かす所なり。
四つの世俗の真実と一つの真理は『瑜伽論』で説かれており、四段階の勝れた意味での真実は『成唯識論』が明かしているものです。
具には「二諦義林」の中に述ぶるが如し。
詳細には『義林章』「二諦義林」の中で述べられているとおりです。
第十一章 二段階の中道
第一節 中道とは何か
問う。
問います。
我が宗の意、何の義門をもって中道と名づくるや。
我が宗の意見としては、どのような教えを中道と名づけているのか。
答う。
答えます。
『義林章』の中に中道の義を明かすに、二重の義あり。
『義林章』の中で中道の意味を説明していますが、それに二段階の意味があります。
一には言詮の中道。
一つめは言葉による表現における中道。
謂わく、縁生の法は体、都無に非ず。
すなわち、原因から生じるものは、その本体は全くの無ではありません。
この縁生において妄計する、一切の遍計所執は体性都無なり。
この原因から生じるものの上に、妄情が思い計る、一切の執着された思い込みは、その本体・本性など全くの無です。
この縁生の中、唯一切の所執を遠離する空性の真如あり。
この原因から生じるものの中に、ひたすら、すべての執着から遠離している空性の真如があります。
彼の空性においても、亦、この因縁生を有することを得。
その空性においても、また、これらの原因から生じるものを保有することができます。
ゆえに一切法は空・不空に非ず。
したがって、すべての存在は空でもなければ不空でもありません。
是の如く、三性相対して中道の義を詮顕するなり。
このように三性を相対させることで、中道の道理を言葉で表現し、顕すことができます。
二には離言中道。
二つめは言葉を離れた中道です。
謂わく、一切の法は体、是の如く、或は有、或は無なりといえども、真勝義の中には、心・言絶するがゆえに、名づけて中道と為す。
すなわち、一切の存在の本体は、このようにあるいは有、あるいは無であると言っても、勝れた意味での真実の中では、心も言葉も絶してしまうので、これを中道と名づけます。
今、この二重は、その法体を談ずれば、更に別異なし。
今の、この二段階のものは、その本体を論じるならば、何も別なものはありません。
但、これ三性、不即不離の法門なり。
ただ、これは三性が一体でもなく離れているのでもないということの教えなのです。
然るに、他門に対して、その義を詮せば、我・法は有に非ず。
しかし(三性を立てない)他の宗門に対して、その道理を表現すれば、−我やもの−は有ではありません。
空と識とは無に非ず。
空と心とは無ではありません。
有を離れ、無を離るるがゆえに中道と名づく。
有を離れ無を離れているから、中道と名づけるのです。
これ言詮なり。
これは言葉による表現です。
もし内証に住して、思議を止めば、これすなわち一実離言の中道なり。
もし内側での悟りに住して、思ったり議論することを止めれば、これが一なる真実の言葉を離れた中道です。
第二節 四段階の中道
(1) 第一段階
問う。
問います。
それ中道とは一の法体、二辺を離るるの義なり。
中道とは、一つのものの本体に対して、有と無との二辺を離れるという意味です。
今、成ずる所は所執の空と、依・円の有と、彼此相対して中道と名づくるか。
今、成立したのは、遍計所執性が空であることと、依他起性・円成実性が有であることと、彼とこれと比べて中道と名づけたのではないか。
若し爾らば、すでにこれ各別の法門なり。
もしそうなら、これはすでに別々のものにたいするものとなっている。
豈、これ一法の非空・非有ならん。
どうしてこれが、一つのものが空でもなく、有でもないということであろうか。
中に就いて、所執は体都無のゆえに、これ法体に非ず。
中でも、遍計所執性は、その本体は全くの無であるので、これはものの本体とは言えません。
その法体は、但、これ存実の依・円二性なり。
ものの本体と言えるものは、ただ実際に在ると言える依他起性・円成実性の二性です。
ゆえに、遂に帰する所は一切の法体、有の一辺に留まる。
したがって、ついに、すべてのものの本体が、有の上にのみ留まることに帰してしまいます。
豈、これ中道究竟の理ならんや。
どうしてこれが中道の究極の真理であると言えようか。
答う。
答えます。
この疑、皆。、以て来るべからざるなり。
この疑いは、すべて見当違いのものです。
誰か言う、三性は各別の法体なりと。
誰が三性は各、別々のものの本体であるといったのか。
これ一法中の非空・非有の中道の義なり。
これは一つの存在の中での空でもなく有でもないという中道の道理なのです。
これ一法中道の義なりといえども、妄執と縁起と真義との三重の浅深、條然とし相濫せざるがゆえに、開いて三自性の法門と為すなり。
つまり、これは一つのものの中での中道という意味なのだけれども、妄執と縁起と真実という浅深の三段階の区別が整然としていて、混乱することがないので、開いて三つの自性の教えとするのです。
ゆえに『唯識論』に云わく、「此の三は異と為すや、不異と為すや。
だから『成唯識論』に、「この三は異なったものとするのか、異なっていないものとするのか。
まさに倶非と説くべし。
まさに、ともに違うと説くべきです。
別体なきがゆえに。
別に本体があるわけではないから(異なっていない)。
妄執と縁起と真義との別のゆえに」と。
妄執と縁起と真実との別があるから(異なっている)」と言っています。
誰の有智の人か無別体故の文を見ながら、猥りに別体定離の法門と為さんや。
どんな智慧ある人がいて、別体なきがゆえに、という文章を見ながら、何の理由もなく、別体であって必ず離れているとする教えなのだ、とする人があるだろうか。
然らば、三性すなわち一性、一性すなわち三性、三に非ず、一に非ず、亦三亦一、これ、その三性の義理なり。
であれば、三性はすなわち一性であり、一性はすなわち三性であり、三でもなく一でもなく、三でもあり一でもある、これが、その三性の道理です。
已上、しばらく所執を空と為し、依・円を有とするに約して大都を論ずるなり。
以上、しばらく遍計所執性を空とし、依他起性・円成実性を有とすることに話を絞って、そのおおよそを論じました。
(2) 第二段階
1、 遍計所執性
もし委しく談ぜば、空といえども空もまた、これすなわち有なり。
もし詳しく議論すれば、遍計所執性は空であると言っても、この空も、やはり有なのです。
実我・実法は情に当たって現ずるがゆえに。
実の我や実の存在は、妄情に当たっては(確かに)現れているからです。
此の分を撥無せば、亦損減と為す。
この部分をはじき出してしまうと、また損ない減じてしまうことになります。
然るに、理に拠って言わば、その体は都無なり。
しかし、道理から言うと、その本体は全くの無です。
この門を弁ぜざれば、また増益と為す。
この方面を言っておかないと、また増し補うことになります。
まさに知るべし、遍計所執性もまた、これ空に非ず有に非ざるなり。
まさに知らなければならない、遍計所執執性も、また空に非ず有に非ざるものです。
2、 依他起性・円成実性
その依・円の性は有と言えども、有もまた空というべし。
その依他起性・円成実性は有と言っても、有もまた空と言うべきです。
所執の真・俗、体性空のゆえに。
遍計所執性の真も俗も、その本体・本性は空であるからです。
(注:つまり、依他起性・円成実性を有と言ってしまった瞬間に、それらは遍計所執性になってしまうということであろう)
もしそれ依・円を称して有とするがゆえに、すなわち依・円は一向に有と言わば、これ妄執のゆえに、すなわちこれ増益なり。
もし依他起性・円成実性は有であるといわれているので、依他起性・円成実性は偏に有であると言えば、これは妄執なので増し加え補うことになります。
然るに聖智の境の離言の法体は、その体、無に非ず。
しかし聖智の対象である言葉を離れた存在の本体は、その体は無ではありません。
これを撥無すれば、亦損減と為す。
これをはじき出してしまうと、また損ない減じることになります。
是のゆえに、依・円の二性も、これ空に非ず有に非ざるなり。
ゆえに、依他起性・円成実性も、空に非ず有に非ざるものなのです。
これ、猶、大都なり。
これでも、まだ、大まかに言ってるに過ぎません。
(3) 第三段階
1、 遍計所執性
もし、更に委細に、その実を論ぜば、その計所執の理無の中にも、また非空・非有の義あり。
もし、更に詳細に、その実際を論じれば、あの遍計所執性が道理として無であることの中にも、また空でもなく有でもないという道理があります。
所謂、増益・損減の相、皆これを遣るがゆえに、能く偏有を遮し、また偏空を遮す。
すなわち、増し補った姿・損ない減じた姿、これらをすべて排除するので、有に偏った見方、空に偏った見方を排除できます。
豈、これ一向撥無の空ならんや。
どうして、これが全くすべてはじき出してしまう空であろうか。
是の如く、すなわち情有の中にも、また非空・非有の義あり。
同様に、妄情の有の中にも、また空に非ず有に非ずという道理があります。
しばらく一人の如く、一分の妄情、偏有と執するとき、その相しばらく偏有に似て現ずるといえども、悟証門より総じてこれを見れば、当情の相、未だ必ずしも是の如くならず。
しばらく一人の人を見てみると、ちょっとした妄情によって、偏有であると執着するとき、その姿はしばらく偏有に似て現れますが、悟りの見地から全体的に、これを見ると、妄情の姿は必ずしもこのようなものだけとは限りません。
或る類は、また執して偏空と為すがゆえに。
ある種類の人々は、執着して偏空と見るからです。
明らかに知んぬ、この偏有の相の自性は、本来決定せざるなり。
明らかに知ることができます、この偏有の姿の自らの本性は、本来決まったものではないのです。
また一人の如く、一分の妄情偏空と執する時、悟証門より総じてこれを見れば、当情の相、未だ必ずしも是の如くならず。
また、このもう一人の人のように、ちょっとした妄情が偏空であると執着するときにも、悟りの見地から全体的に、これを見ると、妄情の姿は必ずしもこのようなものだけとは限りません。
或る類は、また執して偏有とするがゆえに。
ある種類の人々は、また執着して偏有としてしまうからです。
明らかに知る、この偏空の相の自性も、亦、もと決定せざるなり。
明らかに知ることができます、この偏空の姿の自らの本性も、また、もともと決定していないのです。
これすなわち、妄情の思い、定相無きがゆえなり。
これは妄情の思いには、定まった姿がないからです。
重意の云わく、妄情の執見は増・損、時に随う。
重ねて言いますと、妄情の執着したものの見方は、増したり・損なったり、それは、その時々によって違います。
ゆえに所執の二相、各、決定の相に非ずと。(言わんとす)
したがって執着された二つの姿は、どちらも決定されている姿ではありません。(ということです)
是の如く論ずるときは、当情現の相は定めて偏有に非ず、定めて偏空に非ず。
このように論じてみると、まさに妄情に現れる姿は偏有と決まっているわけでもなく、偏空と決まっているわけでもない。
これもまた、豈、中道の義に非ずや。
これもまた中道ということではないだろうか。
2、 依他起性・円成実性
もし、その依・円、非有門の中にも、亦非空・非有の義あり。
もしくは、依他起性・円成実性は有ではないという見方の中にも、また空に非ず、有に非ずの意味もあるのです。
一切の妄執を遠離する義のゆえに増・損、皆離る、即ち是れ、中のゆえに。
一切の妄執を遠離するという意味から、増し加えることや、損ない減じることから、すべて離れています、これは中道だからです。
是の如く、依・円、非空門の中にも、亦非空・非有の義あり。
同様に、依他起性・円成実性の空ではない見方の中にも、また空に非ず、有に非ずという意味もあります。
即ちこれ離言なり。
それは言葉を離れているということです。
誰か有・無と定めん。
誰が有とか無とかを定められよう。
もし一向に非空ならば、豈、これ執法に非ずや。
もし空ではないと決まっているなら、どうしてこれが、ものに執着していないと言えるだろうか。
もし、これ執法ならば、豈、依・円と名づけんや。
もし、これがものに執着していることであったなら、どうして依他起性・円成実性と名づけられようか。
道理、甚だ明らかなり。
道理は極めて明らかです。
何事か、これに如かん。
何か、これ以上、言うことがあるだろうか。
(4) 第四段階
是の如く、重重なれども、猶、尽きざるあり。
このように重重だけれども、まだ尽きることはありません。
所以は如何。
それはなぜか。
しばらく所執理無の中、増益を遣る門の如き、有を遮するがゆえに名づけて非有と為すといえども、すでに偏有を遮して中有を遮せざれば、豈、偏空ならんや。
しばらく遍計所執性が道理として無であることの中で、増し加えることを排除することにおいて、有を防ごうとして有に非ずと言うけれども、ここでは偏有を防いでいるだけで中道の有を防いでいるわけではないから、どうして偏空と言えるだろうか。
ゆえに亦非空・非有の義なり。
したがって、また空に非ず有に非ずの意味があります。
自余の一一の義門、皆之に准ずべし。
これ以外の一つ一つの場合についても、みなこれに準じてください。
是の如く、是の如く、遂に絶言に至る。
このように、このように、ついに言葉を絶するに至ります。
(5) 中道は結局、三性に帰す
然るに、その重重非有の義は、これ重重といえども、而も束ねて所執の空門に帰す。
しかし、その重重の有ではないという道理は、重重であるとはいえ、束ねて遍計所執性が空であるということに帰します。
又、その重重非空の門は、これ重重といえども、而も束ねて、皆、依・円の有門に入る。
又、その重重の空ではないということは、重重であるとはいえ、束ねて、みな依他起性・円成実性が有であるということに帰します。
これ何の故ぞや。
これはどうしてか。
但、これ三性不即離の故に、所執の空、依・円の有、一際に帰入す。
それは三性は一体でもなく離れているのでもないので、遍計所執性が空であることや、依他起性・円成実性が有であることが、結局、一という辺際に帰入するからです。
是の如き等の無尽の義あるなり。
このような尽きることのない道理があるのです。
若し而らば所執の空を偏空と為し、及びその依・円の有を偏有と為し、偏有・偏空の両門、相対し合して中道と為すの意を得て疑を為す。
そうなると(今度は)遍計所執性が空であることを偏空とし、依他起性・円成実性が有であることを偏有とし、偏有・偏空の二つを合して中道とするのだと誤解をして疑いを懐きます。
豈、言うに足らざるの疑に非ずや。
これは言及するまでもない疑いではないだろうか。
一切の執を遣って遣虚とするは、これ何の義ぞや。
一切の妄執を除いて、虚妄を取り除くとは、いかなる意味であろうか。
豈、依・円の上の偏有・偏空の諸の僻執を遮するに非ずや。
依他起性・円成実性の上の偏有・偏空のさまざまな誤った妄執を遮ることではないのか。
是の如く、遮しおわって、依・円を顕得す。
このように防いだ後に、依他起性・円成実性を顕し、証得するのである。
豈、一向偏有の法ならんや。
どうして、完全に偏有のみのものであろうか。
偏有に非ざれば定めて、これ中道の有なり。
偏有でなかったら、これはかならず中道の有です。
もしこれ中道の有ならば、豈、有に留まるべけんや。
もし中道の有であったなら、どうして有に留まらなければならないだろうか。
已上、しばらく言詮中道に就くに、猶、以て是の如し。
以上、しばらく言葉で考える中道にしたがってきましたが、それでも、このような結果となりました。
何に況んや、その勝義勝義、廃詮談旨、微妙究竟、一実体においておや。
まして、勝義勝義、廃詮談旨、微妙究竟、一実体にしたがったなら、ますますそのような結果となるでしょう。
第三節 中道に関する、さまざまな問い
(1) 依他起性・円成実性の中の中道
問う。
問います。
今、論ずる所は、依・円を一として、所執の空に対する義門の談なり。
今、論じていたのは、依他起性・円成実性を一つのものとして、遍計所執性が空であることに対しての道理に関する議論であった。
もし、その依他と円成実と各別に論ずるときも、亦、各、中道の義あることを得るや。
もし依他起性と円成実性と各別に論じても、また各々に中道の意味があるのか。
答う。
答えます。
亦、即ちこれあり。
また、それはあります。
所謂、依他は体虚仮のゆえに、是れ実有に非ず、亦都無に非ず。
すなわち、依他起性は本体が虚仮ですから、これは実の有でもなければ、また全くの無でもありません。
円成の妙理は、体無相のゆえに有の相あることなし、また無の相もなし。
円成実性の妙なる真理は、本体に姿がないから有の姿はありません、また無の姿もありません。
是のゆえに一一、皆中道なり。
このゆえに、どちらも中道です。
その一一の門の重重の義、乃至事理不即不離の諸門、総束の義、皆上の如し。
その一つ一つが重重であること、ないし現象と真理が一体でもなく離れているのでもないことのさまざまな議論や、これらが束になることなど、みな上に同じです。
(2) 慈尊の説かれた偈頌に関する中道について
問う。
問います。
慈尊所説の二行の偈頌は、(虚妄の分別は有なり、此において二は都無なり、等の頌なり)
弥勒菩薩が説かれた二行の偈頌は、(虚妄の分別は有である、これにおいて二つは全くの無である、などの頌である)
これ何の門の中道を明かすや。
これは、どのような中道を明らかにしているのか。
もし言詮門ならば、慈尊何ぞ浅近の門を説くや。
もし言葉で考えるものであれば、弥勒菩薩は、どうして浅い教えを説かれたのか。
もし離言門ならば、文すでに三性、相対して空・有の義を説く、豈、言詮中道門に非ずや。
もし言葉を離れた教えならば、文がすでに三性が相い対しての空や有の道理を説いている、どうして言葉による中道の教えでないのか。
答う。
答えます。
彼の頌は、慈尊、無著等に対して正しく中道の義理を授る文なり。
彼の頌は、弥勒菩薩が無著菩薩などに対して、正しく中道の義理を授けた文です。
ゆえに言詮門にして離言門に非ず。
したがって言葉で表された教えであって、言葉を離れた教えではありません。
離言門は直ちに内証を指す。
言葉を離れた教えは直接、内なる悟りを指します。
これ対機説法門に非ざるがゆえなり。
これは人にあわせて説法された教えではないからです。
然るに此の頌の中、竊に離言門の義を顕示するあり。
しかし、この頌の中に、密かに言葉を離れた教えが顕示されています。
これはこれ深由なり。
これには深い理由があります。
口伝を受くべし。
口伝を受けるべきです。
(3) 三性が一つのものについての中道であることの再説
問う。
問います。
三性相対、猶、これ一法中道の談というは、尚未だ分明ならず。
三性が相対しても、やはりこれは一つの存在の上の中道であるという議論が、やはり、まだよく分かりません。
詳しく、これを成ずべし。
詳しく、これを説明してください。
答う。
答えます。
それ遍計等の三自性は本、これ一法の三自性なり。
遍計所執性などの三自性は、もともと一つのものの上の三自性です。
所謂、しばらく一色塵の中に就いて、その自性を尋ぬるに、この塵の自性は、これ何の法ぞや。
つまり、しばらく一つの色物質の中で、その自性を考えてみると、この物質の自性はなんであろうか。
すでに縁生の故に、如幻虚仮なり。
すでに原因から生じたものであるので、幻の如く虚仮です。
是れ実有に非ず。
これは実の有ではありません。
亦、都無に非ず。
また全くの無ではありません。
然るに諸の愚夫は妄情迷乱して、或るは実有と執し、或るは都無と執す。
しかし多くの愚か者は、妄情により迷乱して、ある者は実の有とし、ある者は全くの無であるとします。
今、この妄情所執の相状は、これ、この(妄情)塵中の一自性なり。
(注:原文の中に「妄情」の文字がありますが省きます)
今のこの妄情が妄執している相状は、この物質の中にある一つの自性です。
然るに、その法体は衆縁の所生なり。
しかし、そのものの本体は多くの縁から生じたものです。
自然無しといえども縁生は空ならず。
自然にあるわけではないけれども、縁から生じたものは空ではありません。
これも、また、この塵の一自性なり。
これも、またこの物質の一つの自性です。
今、この縁起縁生の法の中、定めて一切の妄執・偏有・偏空の相を遠離するの妙理あり。
今の、この縁から起こり、縁より生じたものの中に、必ず、一切の妄執・偏有・偏空の姿から遠く離れた妙なる真理があります。
この理、真実にして妄倒に非ず。
この真理は真実であって妄情による顛倒ではありません。
これも、また、この塵の一自性なり。
これも、また、この物質の一つの自性です。
是の如く、一色一塵の中、この三重の妄と仮と真との性あり。
このように、一つの色物質の中に、この三重の妄情と仮と真実の三つの性があるのです。
今、この三重、皆、此の色法にして更に別法に非ず。
今の、この三重のものは、すべてこの物質であって、それ以外ではありません。
ゆえに三と名づくといえども、亦即ち一体なり。
だから三といっても、また一体でもあります。
これを一箇の色塵の自性と為す。
これを一つの色物質の自性とするのです。
一切の諸法、皆以て是の如し。
すべてのものも、みなこの様になっています。
豈、その一法の中道義に非ずや。
どうして、これが一つのものの上における中道の道理でないことがあろうか。
是のゆえに、まさに言うべし、我が宗の諸法の真実は常住なり、仮は生滅に似たり、実有の生滅は体性都無なり。
このゆえに、まさに言うべきである、我が宗においては、すべてのものの真実は常住である、仮は生滅しているのに似ている、実有の生滅は、本体も本性も全くの無である、と。
この真と仮と無と、豈、相隔つべけんや。
この真実と仮と無とが、どうして相い隔てられていなければならないのか。
ゆえに、もと一体なり。
ゆえにもともと一体なのです。
第十二章 唯識の道理
第一節 ただ心のみという教え
(1)唯識の教えの帰する所はどこか
問う。
問います。
上来、明かす所の種々の法門の、その帰する所は、これ何の法ぞや。
今まで説明してきた種々の教えが帰する所は、どのような教えなのか。
答う。
答えます。
もし、有為の主に帰すれば一切みな唯識なり。
もし有為に関するものの中で主だったものに帰するとすれば、すべてはただ心のみであることです。
もし無為の主に帰すれば、一切みな真如なり。
もし無為に関するものの中で主だったものに帰するとすれば、すべてはみな真如であるということです。
もし簡択の主に帰すれば一切みな般若なり。
もし選び分けるものの中で主だったものに帰するとすれば、すべてはみな智慧であるということです。
(2) どの教えが一番重要か
三門の中、何の義門を最要と為すや。
これら三つの中では、どの道理が最も重要であるか。
又唯識とは、有漏・無漏二類の中、何の識に帰するや。
また、ただ心のみであると言われましたが、穢れのあるもの、穢れのないものの二種類の中、どちらの心に帰するのですか。
答う。
答えます。
この三門の中、唯識を最と為す。
この三つの中では、ただ心のみであることが最も重要です。
もし、この門に入れば一切を具するがゆえなり。
もし、ここから始めれば、すべてを兼ね備えることになるからです。
又唯識とは有漏識に帰するを以てなり。
また、ただ心のみであると言っている心とは、穢れのある心に帰するからです。
所以は如何。
それはなぜか。
もし一切法は皆心より起こると知れば、諸法如夢の悟り、忽念として現前することを得。
もし、すべてのものはみな心から起こっていると知れば、いかなるものも夢のようであるという悟りが、たちまちにして現れます。
もし夢の如しと知りおわれば、実の我・法、速やかに除く。
もし夢のようであると知ったなら、実体としての−我・もの−の考えが速やかに除かれます。
その実我・実法とは、損減、或るは増益、有・無、一・異等の一切の妄執なり。
その実体としての−我・もの−とは、損ない減じたり、増し加えたりすることや、有るとか無いとか、同じであるとか違っているとかの、すべての妄執です。
是の如きの妄執、皆止まることを得れば、無分別智、忽念として現起し、一真法界の理に冥合するなり。
このような妄執が、すべて止んだなら、無分別智がたちまちにして現れ、一なる真実の法界の真理に冥合するのです。
今、此の自心は即ちこれ自の妄心にして、これ有漏識なり。
今の、この自分の心は、つまり自分の妄心であって、これは穢れた心です。
その無分別智は、これ簡択の至極、すなわち観照の般若なり。
その無分別智は、選び分けるものの究極であり、あるがままに観照する智慧です。
その一真法界は、すなわち諸法の真如なり。
その一なる真実の法界は、すべてのものの真如(真実のあるがままの姿)です。
是を以て、能く自心より万法を生ずと知れば、自ら般若に帰し、また真如に帰す。
これらから、自らの心からすべてのものが生じると知れば、自ずから智慧に帰し、また真如に帰します。
豈、最要に非ずや。
どうして最も重要でないことがあろうか。
無漏識は愚夫未だ発す能わず。
穢れのない心は、愚か者は、まだ起こすことはできません。
三界の妄境も、亦此より起こるに非ず。
三界の誤った対象も、また、これより起こるのでもありません。
無始の迷を翻じて、情に当たって現ずる所の一切の境界は、皆夢境の如く、著すべからざる義を知らんと欲するとき、自の妄心、諸法を生起するを思惟して、廃詮の極理に入ることを得るがゆえなり。
無始の迷いを改めて、情に当たって現れるすべての対象世界は、みな夢の世界のようであって執着してはならない、その意味を知ろうと欲するとき、自分自身の妄心がすべてのものを生起させていることを悟って、言葉を離れた究極の真理に入ることができるからです。
是のゆえに、無始の妄心、忽ち改まって、速やかに無生を証して大覚位に入るは、唯識の観解に如かざるものをや。
したがって、無始の妄心が、たちまち改まり、速やかに(再び)生じることのない境地を証して、大いなる悟りの位に入るためには、唯識の見方と理解をおいて他にはないであろう。
(3) どうしたら一切は心から生じると知ることができるのか
1、 二つの理由
問う。
問います。
若し爾らば、云何ぞ、諸法は自心より起こると知ることを得るや。
もしそうなら、どのようにして、すべてのものが自身の心より起こることを知ることができるのか。
答う。
答えます。
義は無量なりといえども、要を取るに二あり。
道理は無量にあるけれども、要点を取れば二つあります。
一には熏習の道理、二には転変の道理なり。
一つめは熏習の道理であり、二つめは転変の道理です。
熏習の道理とは、有為の実法は、一一皆能生の種子有り。
薫習の道理とは、有為の実法(注意:虚仮ではあるが仮法ではありません)には、一つ一つみな、それを生み出す種子が有ります。
その種子は、みなこれ自心の所熏なり。
その種子は、すべて自らの心が薫じたものです。
謂わく、自証分は体の能熏なり。
つまり、自証分は、本体を薫じます。
相・見二分は、用の能熏なり。
相分と見分は、はたらきを薫じます。
見分は能く能縁の種子を薫じ、相分は能く所縁の種子を薫ず。
見分は縁じるものの種子を薫じ、相分は縁じられるものの種子を薫じます。
その所縁の種は、所縁の境に堕する色・心万差の諸法の種子、皆悉くこれを薫ず。
その縁じられるものの種子というのは、縁じられた対象世界に含まれる物質や心の、億万とある、さまざまな種子が、みなことごとく薫じられるということです。
謂わく、色を縁ずる時、色の種子を薫じ、心を縁ずる時、心の種子を薫ず。
すなわち物質を縁じるときには物質の種子を薫じ、心を縁じるときには心の種子を薫じます。
色の中、種々の不同、心の中、種々の差別、一一その法を縁じて、その法の種子を薫ず。
物質の中のさまざまな違い、心の中のさまざまな差別、一つ一つ、それを縁じて、その種子を薫じます。
是の如く、熏習は悉くこれ、我が自心の自体分別の勢力により起こす所なり。
このように、熏習というものはすべて、私自身の心の本体(自証分)の分別する力によって引き起こされるものです。
今、此の種子所生の法は、豈、我が自心より起こるに非ずや。
今の、この種子から生じたものが、どうして私自身の心から生じたものでないことがあろうか。
転変の道理とは、すでに自体分、転じて相・見を成ず。
転変の道理というのは、すでに自体分というものがあれば、かならず転じて相分と見分を現成させます。
その義、上の如し。
その道理は、上述したとおりです。
一切の縁慮の法は、かならず慮解する所あり。
すべての縁じて慮るものには、かならず慮り、理解されるものがあります。
その慮解する所は、即ちこれ、応に随う一切の諸法なり。
その慮り、理解されているものは、その状況に応じているすべてのものです。
もし能慮解は定めて所縁を帯す。
慮り、理解するものは、かならず縁じられるものを帯びています。
豈、縁慮法として転変力無からんや。
どうして縁じ慮るものであって転変力のないものがあろうか。
この理、決然たり。
この道理は決定的です。
是のゆえに、自心自体の勢力、能く変現して諸の境界を成ずるなり。
このゆえに、自らの心の本体の勢力が、よく変現して、さまざまな対象世界を現成させているのです。
上の二理を以て、唯心無境の義を信ずべきなり。
上の二つの道理によって、ただ心のみであり、(外界に)対象は無いのだということを信じるべきです。
2、 心が転じて対象となるとはどういうことか
問う。
問います。
心、転じて境を成ずということ、尚、未だ分明ならず。
心が転じて対象を現成させるということが、まだよく分かりません。
何を以て決定して爾るを知るを得るや。
どうしたら間違いなくそうであることを知ることができるのか。
答う。
答えます。
しばらく眼を閉じて、青・黄等の色を思惟するの時の如き、その青等の思い、即時に転じて青等の相を成じて心の前に顕現す。
しばらく眼を閉じて、青や黄色などの色を思うときなど、その青などの思いは、即時に転じて、青などの姿を現成させて心の前に顕現させます。
その義、必然なり。
その道理は必然です。
今時、情に当たって覚知する所のものは、是れ遍計所執の相なりといえども、当情現のものは必ず心中現より起こるがゆえに、当情現をもって心中現を推す。
今の場合のような、主観的に知覚されるものは、(相分としての種子を持たない)遍計所執性の姿ではあるけれども、主観的な心の現れは、当然、心の中に現れるから起こるのですから、主観的な心の現れから、(ものの姿は)心の中に現れるということを(ひとまず)推測できます。
その青等の思は、是れ見分なりといえども、見分はかならず自体より起こるがゆえに、見分の用をもって体の転変を推す。
(次に、)その青などの思いは、見分の思いではあるけれども、見分はかならず自体(自証分)より起こるので、見分のはたらきから、自体が転変したことを推測できます。
此を以て一切を准知すべきなり。
(そこで)これらから一切のことをも推察するべきです。
是を以て眼を開いて青等を見る時、心上に浮かぶ青等の相は、疑いもなく、皆、これ自心の思いの転じて、その境を成じるなり。
したがって、眼を開いて青などを見る時も、心の上に浮かぶ青などの姿は、疑いもなく、これはすべて、自らの心の思いが転じて、その対象を現成させたのです。
その本質の境は、但し、これ、今の能縁の思いを起こす疎縁なり。
その本質としての対象(アーラヤ識の相分にある器界)は、今の縁じる思いを起こさせた疎所縁です。
心、この縁に託して青等を思う時、その心の自体、即時に転変して、青等の相、成じて心の前に現ず。
心がこの疎所縁に依せて青などを思う時、その心の本体が即時に転変して、青などの姿が現成して、心の前に現れます。
その心中所現は、これ正しき所縁なり。
その心中に現れたものは、正しく(本当に)縁じられたものです。
この親所縁縁は、即ちこれ相分なり。
この親所縁縁が、相分です。
その本質の境は、今の能縁心の所変に非ずといえども、これ第八識の自体、転変して心中に現ずる所の親相分なり。
その本質である対象は、今縁じている心が変じたものではないけれども、これは第八アーラヤ識の自体が転変して、(アーラヤ)心中に現われた親所縁縁である相分です。
第八識の前にも、また夢の如く現ず。
第八アーラヤ識の前にも、また夢の如く現れているのです。
その第八識は、また、これ今時、観心の根本として同じく自の一心の中に在り。
その第八アーラヤ識も、また、今、観心の根本として同じく自らの一心の中にあるものです。
その所変の相、豈、自心の外に在らんや。
それが変じた姿が、どうして自心の外に在ることがあるだろうか。
ゆえに一切の境界は、皆、自心の所変なり。
だから、すべての対象世界は残らずみな、自らの心が変じたものなのです。
3、 すべては夢
問う。
問います。
今、熏習と転変との道理を以て、諸法は、みな心の所作なりと知るといえども、之に依って万法如夢の旨、尚、未だ信解せず。
今、熏習と転変との道理によって、すべてのものは、みな心が作り出したものであると知ることができましたが、これによってもなお、一切が夢のようであるということが、いまだに信じられません。
答う。
答えます。
列子が夢中六十五年、久しといえども、只これ一夜の妄想なり。
列子の夢の中での六十五年は、長いといっても、たった一夜の妄想でありました。
唯自心の分別より起こりて種々の苦楽の境界を変現す。
これは、ただ自心の分別から起こって、種々の苦楽の境涯を変現させているのです。
即ち、自ら変現して、自らをして、これを執せしむ。
つまり自ら変現して、みずからを執着させているのです。
或るは受苦と謂い、あるは受楽と謂い、或るは此死と謂い、或るは生彼と謂い、或るは偏有と謂い、或るは偏無と謂い、或るは定めてこれ亦有亦無と謂い、或るは定めて非有非無と謂う。
あるいは苦しみを受けていると思い、あるいは楽を受けていると思い、あるいは、これが死んだと思い、あるいは彼を生んたと思い、あるいは偏有と思い、あるいは偏無と思い、あるいは、かならず有でありかつ無であると思い、あるいは、かならず有でもなく無でもないと思う。
是の如き妄執、是の如き相状、その夢覚めおわれば、皆以て現ぜず。
このような妄執、このような有り様も、その夢から覚めたならば、すべて現れることはありません。
唯、虚仮不思議の縁あり。
ただ(そのような夢を見させた)虚仮・不思議の縁(原因)があるのみ。
今、この夢境と、その覚境と、ただこれ妄心分別の有無なり。
今の、この夢の境と、その目覚めた後の境とは、ただ妄心による分別が有るか無いかの違いです。
諸法の因縁も亦是の如し。
この世界のさまざまな因縁も同様です。
一切法は心より起こると知りおわれば、夢に類して必然の理、思うべきなり。
すべてのものは心より起こると知りおわれば、夢を参考にして、その必然の道理を思うべきです。
その百法等の一切の法門、みな心を本と為す。
百法などの一切の教えも、すべて心を本としています。
皆、心より起こる、その理、顕念なり。
すべては心から起こっています、その道理は明らかです。
皆、上に述ぶるが如し。
すべて上で述べたとおりです。
ゆえに百法を談ずれば一心自ら成立し、もし一心を観ずれば百法即ち宛然なり。
だから百法を議論すれば心というものが自然と成立し、もし一つの心を観じれば百法は自ずから明らかです。
乃至十二の生死因縁に無明と名づけて、行と名づく、皆これ自の心数なり。
ないし十二の生死の因縁(十二縁起)で無明と呼ばれたもの、行と名づけられたもの、みなこれは自らの心のはたらきです。
愛と云い、亦取と云う、皆これ自心の惑なり。
愛と言い、取と言ったものも、すべて自らの心の煩悩です。
識等の五支の種は、みな自心の所熏なり。
識などの五つの支の種子は、どれも自心が薫じたものです。
生死二支の果は、豈、自心の生ならずや。
生死の二支の果報は、自らの心が(今)生きている以外の何であろうか。
我が今の、依身・器界・飲食・衣服等の種々の物は、皆悉く先世に我が胸の中に起こす所の種々の分別の熏、積もりて、是の如く成ずるなり。
私の今の身体、世界、飲食物、衣服などの種々の物は、すべてみな、前世に私の胸の中で起こしたさまざまな分別の熏習が積もり積もって、このように現成しているのです。
この理を知らざるがゆえに生死に輪廻す。
この道理を知らないから、生死に輪廻しているのです。
もし、この理を覚しおわれば生死永く棄つ。
もしこの道理を覚りおわったならば、生死を永遠に捨てることができる。
心を一処に制して、常にこの理を思わば、無始の罪暗、寧ぞ滅せざらんや。
心を一つの場所に集中させて、常にこの道理を思っていれば、無始の暗い罪も、どうして滅しないことがあろうか。
第二節 さまざまな問い
(1)問 い
(第一問)問う。
(第一問)問います。
『華厳経』に云く、「三界は唯一心なり、心外に別法なし、心と佛と及び衆生と、是の三は差別無し」と。
『華厳経』に、「三界はただ一つの心である、心の外に別にものはない、心と佛と生きものたちと、この三つに差別はない」と。
今、成立する所の義は、即ち此を云うか。
今、成立した(熏習と転変の)道理は、このことを言っているのか。
(第二問)問う。
(第二問)問います。
次に、五重唯識及び識の自相等の五の唯識の中、是は何れの門に摂するや。
次に、五重唯識と識の自相などの五つの唯識の中で、これ(熏習と転変の道理)はどれに属するのか。
(第三問)問う。
(第三問)問います。
次に菩薩、加行位の中において為す所の四種の尋伺等の観は、即ち、成立する所の唯識観か。
次に、菩薩が加行位で行う四種類の尋伺などの観は、今、説明されてきた(熏習と転変による)唯識観か。
(第四問)問う。
(第四問)問います。
次に、唯識とは唯これ有漏識に摂帰するか、また、唯、有為主に摂帰するか。
次に、ただ心のみと言うのは、ただ穢れのある心に帰するのか、また、ただ有為だけに帰するものなのか。
無漏識に帰し、無為主に帰する義、之無きや。
穢れのない心に帰し、無為に帰する道理は無いのか。
(2) 第一問への回答
(第一問)答う。
(第一問)答えます。
今、成ずる所は即ち、是三無差別の義なり。
今、成立したものは、「これら三つに差別無し」の道理です。
何となれば、今、熏習・転変等の道理を以て、もし唯心如夢の解を得しおわれば、既に定まれる我・法無し。
どうしてかといえば、今、熏習や転変などの道理によって、もし、ただ心のみであって夢のようであるという理解を得ることができたとすれば、実体としての我やものというものは、すでに無くなっています。
何に対して実の他あらん。
とすれば、何に対して実体としての他者があろうか
是のゆえに心外にすべて衆生なし。
このゆえに、心の外に、全く生きものたちは存在しません。
又、既に是の如く、実の凡界無し。
また、すでにこのようにして、実体としての凡夫の世界はありません。
亦復、何に対して実の佛界あらん。
とすれば、何に対して実体としての佛の世界があるだろうか。
是のゆえに、心外に更に佛界無し。
したがって、心の外にさらに佛の世界はありません。
是れ即ち、一切如幻・如夢にして、定実なきがゆえに。
これは一切のものが幻の如く、夢の如きものであって、定まった実体がないからです。
定実の我・他、定実の凡・聖、皆これ迷情の前の妄想なり。
定まった実体としての我や他者、定まった実体としての凡夫や聖者、これらはすべて迷っている妄情の前の妄想です。
皆、之を遣るがゆえに。
そして、(今は)すべてこれらを払い除けているからです。
その空寂の性は、即ち、これ平等の法性なるがゆえに。
その空寂なる本性は、平等である、ものの本性だからです。
その上の虚仮如幻の事相は、能縁と所縁と不即不離、本質と影像と不即不離、佛界と凡界と不即不離、体と用と、因と果と不即不離なり。
その上の虚仮・幻の如き現象の姿において、縁じるものと縁じられるものは不即不離であり、本質と影像は不即不離であり、本体とはたらきと、原因と結果とは不即不離です。
ゆえに三界唯一心を知りおわらば、三無差別の理、自然に成立するなり。
だから、三界はただ一つの心であることを知りおわれば、(心と佛と及び衆生との)三つのものに差別がないことは自然に成立します。
この義に由るがゆえに、その不離門には、即ち佛の色・心と衆生の色・心と行者の色・心と平等なり。
この道理によって、その離れていない見方によると、佛の物質と心、生きものたちの物質と心、修行者の物質と心とは平等です。
此れ即ち、万法一心より起きて幻夢の境の如く定実無きがゆえなり。
これは、あらゆるものは心より起こり、それが幻で夢の境のようで、定まった実体がないからです。
相に定相なく、性はこれ無相なり。
姿には定まった姿はなく、本性には姿はありません。
一塵・法界・本来無礙にして是の義あるなり。
一つの素粒子も、ものの本性の世界も、本来妨げあうものではないから、このような道理があるのです。
(3) 第二問への回答
(第二問)次に、上の成ずる所は簡要なり。
(第二問)次に、上で説明してきたことは要点です。
之を開けば即ち五重の階級あり。
これを詳説すれば、五段階に分けることができます。
謂わく、熏習と転変の理に依って万法唯心の旨を知ることを得れば、事・理、性・相は不思議に存し、増益・損減は執として遣らざること無し。
すなわち、熏習と転変との道理によって、すべての存在が、ただ心のみである旨を知ることができれば、現象と真理、本性と姿は不思議にも共存し、増し加えたり、損ない減じたりする妄執は、すべて払い除けられてしまいます。
此れ即ち五重の第一重なり。
これが五段階の内の第一段階です。
これを遣虚存実の唯識と名づく。
これを虚妄を払い除けて実を存す唯識と名づけます。(遍計所執性→依他起性・円成実性)
又、万法を摂して唯識と為すがゆえに、内境有りといえども唯境と称せず。
また、一切のものを収めて、ただ心のみとするので、内側の対象はあるとするけれども、ただ(外側に)対象があるのみと言うことはありません。(外境→内境)
これ第二重なり。
これが第二段階です。
これを捨濫留純の唯識と名づく。
これを乱れているものを捨てて、純粋なものを留める唯識と言います。
又、既に色心万差の諸法は、みな自心分別の勢力によって種を薫じて用を起こす。
また、すでに物質や心に属する多くのさまざまなものは、みな自心の分別の力によって種子を薫じ、またはたらきを起こしています。
是の如く知る時、その所摂帰の色・心の諸法は、即ちこれ能縁・所縁の二用なり。
このように知る時、その帰り収められる物質や心に属するさまざまなものは、つまり縁じるもの(見分)と縁じられるもの(相分)との二つのはたらきです。
その能摂帰の自の内心は、即ち心の自体なり。
その帰り収める自らの内心は、つまり心の自体(自証分)です。
正しく第三に当たる。
これがまさに第三段階です。
是を摂末帰本の唯識と名づく。
これを末端をおさめて本に帰る唯識と言います。(見分・相分→自証分)
又、是の如く一心に帰するを以ての故に心所を論ぜず。
また、このように心に帰すのであるから、心のはたらきは論じません。
亦第四に当たる。
これが第四段階に当たります。
是を隠劣顕勝の唯識と名づく。
これを劣ったものを隠して勝れたものを顕す唯識と名づけます。(心所→心王)
又、是の如く一心の体に帰する時、一切、夢の如く、相の取るべき無ければ、作証する所は、但、これ廃詮一実の境界なり。
また、このように心の本体に帰する時、すべては夢のようで、まだ見ておきたいような姿はもうないので、悟るところは、ただ言葉を絶した一なる真実の世界です。
これ第五重なり。
これが第五段階です。
これを遣相証性の唯識と名づく。
これを姿を払い除けて本性を証する唯識と名づけます。(依他起性→円成実性)
次に、識の自相等の五種の唯識も、亦、この中にあり。
次に、心の自らの姿などの五種類の唯識(自相、相応、所縁、分位、実性)も、またこの中にあります。
謂わく、熏習と転変の理によって、一切法を摂して自心に帰する時、その心の正体は、これ識の自相なり。
すなわち、熏習と転変の道理によって、すべてのものは自心にほかならないとする時、まさにその心の本体が心の自らの姿です。
その所摂の中、所有の心所は、これ識の相応なり。
そのすべてのものの中で、あらゆる心のはたらきが、心に対応するものです。
一切の境界は、これ識の所変なり。
すべての対象世界は、心が変じたものです。
諸の不相応は、これ識の分位なり。
さまざまな不相応行法は、心から抽象されたものです。
是の如く摂帰して、皆唯識と為し、遂に実性平等の妙理を顕す。
このように収め帰して、すべてはただ心のみであるとすると、ついには実の本性である平等なる妙理を顕します。
これ識の実性の唯識なり。
これが心の実の本性の唯識です。
(4) 第三問への回答
(第三問)次に、四尋伺等は、即ちこの唯識観なり。
(第三問)次に、四尋伺などの観法は、まさに、この唯識観です。
諸法自心に帰すれば、皆仮有・実無なり。
すべてのものが自らの心に帰するのですから、すべて仮の存在であり実際には無です。
ゆえに二取の空を印して唯識の実性に入る。
ここから能取(主観)と所取(客観)の二取の空を見極めて、ただ心のみの実なる本性に入ります。(以下、実際のやり方)
然るに諸法において能詮の名あり。
しかし、すべてのものにおいて、それを言い表す名前があります。
所詮の義あり。
言い表される意味があります。
その名において自性・差別あり。
その名前において、自らの本性があり、また差別があります。
その義も、また自性・差別あり。
その意味にも、また自らの本性があり、また差別があります。
今、この名と義と自性と差別との四種の諸法、みな自心の変にして、仮有・実無なり。
今の、これらの名前と意味と自性と差別との四種類のものは、すべて自心が変じたもので、仮の存在であり、実際には無です。
是の如く観ずるなり。
このように観じるのです。
この観の浅位を四尋伺と名づけ、深位を名づけて四如実智と為す。
この観法の浅い位を四尋伺観と名づけ、深い位を四如実智観と名づけます。
是の如く観ずるは、即ち熏習と転変等の理に依って、一切、皆、夢境の如くなるがゆえなり。
このように観じるのは、まさに熏習と転変などの道理によって、すべてはみな夢の世界のようになるからです。
ゆえに上に成ずる所は正しくこの観に当たるなり。
したがって上に述べてきたことは、まさにこの(四尋伺などの)観に当たります。
(5) 第四問への回答
(第四問)次に、五種・六門の唯識、異説一に非ず。
(第四問)次に、五種や六門の唯識など、唯識にはさまざまな説があります。
凡そ、一代の教所説の種々万差の法門、皆これ唯識の異の名号なり。
そもそも、お釈迦様御一代の教えの中でお説きになった種々万差の法門は、どれも唯識の別の名に過ぎません。
「唯識章」に、具に、その相を述ぶるが如し。
『義林章』「唯識義林」の中で詳細に、そのありようを述べているとおりです。
披いて、これを見るべし。
披いてこれを見るべきです。
若し爾らば、無漏に帰し、無為に帰するの門も、また以て必然なり。
もしそうなら、穢れのないものに帰し、無為に帰する道理も、また必然です。
但し有漏位には、智は劣り、識は強し。
ただ穢れのある位では、智慧が劣っている一方、識は強力です。
無漏位の中には、智は強く、識は劣る。
穢れのない位では、智慧は強力である一方で、識は微力です。
是のゆえに、有漏・無漏の両位に、皆、具に識・智の二法有りといえども、識の名は多く有漏位に順ず。
したがって、穢れがある・ない、どちらの位にも、ともに識と智慧の両方がありますが、識という名前は、多くの場合、穢れがある位に従います。
又、識とは了別なり。
また、識とははっきりと区別することです。
真如は無分別なり。
真如は無分別です。
もし了別の性を論ずれば、また是真了別なり。
しかし、もし了別の本性を論じるなら、これは真実の了別です。
七真如の中の唯識真如は、即ち、この義なり。
七真如の中の唯識真如は、この意味です。
ゆえに『義林章』に云わく、「或るは識の言、具に理と事とあり」と。
だから『義林章』で、「あるいは識という言葉(の意味)には、真理と現象とがともにある」と言っています。
或るは「円成の真性識」と名づくるなり。
ある場合には「円成実性である真性の識」と名づけるのです。
然りと言えども、了別の名、正しく顕すところは、専ら有漏縁慮の心法にあり。
とは言え、はっきりと区別するという名前が正しく顕しているのは、専ら、穢れのある、縁慮のはたらきをするこころの方です。
是の如きの義のゆえに、唯識の名は、殊に有漏の妄心に帰する義なり。(言わんとす)
このようなわけで、唯識という名前は、特に穢れのある妄心に帰するという道理となります。(ということです)
ゆえに『唯識論』の初めに、我法熏習の位を約して、三能変識の法門を明かす。
だから『成唯識論』の初めに、−我ともの−とが熏習される状況を要約するところで、三つの変じる心(アーラヤ識・末那識・了別境識[六識]の三つ)の教えを明かしていますが、
正しく『華厳経』の三界唯心の説に同じ。
これは、まさしく『華厳経』における、三界はただ心のみの説と同じです。
また『中辺論』に虚妄分別というに同じ。
また『中辺分別論』で、虚妄分別と言っているのと同じです。
三界心といい、妄分別という、皆、有漏心に帰する義なるがゆえなり。
三界は心と言ったり、妄分別と言ったりするのは、みな穢れのある心に帰する道理があるからです。
是すなわち、凡夫、自ら自心を観じ、速やかに覚位に至るの要術なり。
ここから、これが、まさに、(心に穢れのある)凡夫が自ら、自心を観じ、速やかに覚りの位に至るための要となる方法であることがわかります。
頓証菩提の道、実に此の法に在るをや。
即座にに菩提を証する道は、実にこの方法に在るのです。
人、夢中に処して、自らこれ夢と知らば、その夢、かならず覚めん。
人が夢の中で、自らこれは夢であると知れば、その夢はかならず覚めるであろう。
我ら、今、生死の夢中に処して、数、唯心如夢の道理を観ぜば、覚悟の朝に至らんこと、定めて近きにあらんか。
(それと同じく)私たちは、今、生死の夢の中にいますが、度々、ただ心のみで夢と同じであるという道理を観じれば、覚悟の朝に至ることは確実に近いことであろう。
ゆえに『唯識』に云わく、「もし是の如く、唯識の教を知りおわれば、すなわち能く無到に善く資糧を備えて、速やかに法空に入り、無上覚を証し、含識の生死輪廻を救抜せん」と。
だから『成唯識論』に、「もしこのように、ただ心のみである教えを知りおわれば、よく顛倒することなく、善く資糧を備えて、速やかに法空に入り、無上の悟りを証し、生きものたちを生死の輪廻から救済するであろう」と。
第三節 修行の仕方
問う。
問います。
若し爾らば、この観を修行するとき、止観の行相、云何が知るや。
そうであれば、この観を修行しようと思ったとき、止観のやり方は、どのようにして知ればよいのか。
答う。
答えます。
唯識止観の法は具に『解深密密』「分別瑜伽品」に在り。
唯識の止観のやり方は、詳細に『解深密経』の「分別瑜伽品」に書かれています。
披読してこれを知るべし。
披いて読み、このことを知ってください。
問う。
問います。
上来、明かすところは、猶以て広博なり。
今までで明らかになったものは、なお広すぎます。
最初の始行、当分の要法、願わくは肝心を示せ。
最初にやらなければならないことや、さしあたっての重要な修行法の、願わくは、肝心なところを話してください。
答う。
答えます。
大聖慈尊、教授の頌に云わく、「菩薩は定位において、影は唯是心のみと観じて、義相即ち滅除し、審らかに唯自想のみなりと観ず、是の如く内心に住して、所取は有に非ずと知り、次に能取も亦無なりとし、後に無所得に触す」と。
大聖弥勒菩薩の教授の頌に、「菩薩は禅定の境地に、影像はただ心のみと観じて、外的世界の姿を滅除し、審らかに、ただ自らの想いのみであると観じる、このように内心に住して、客観は有ではないと知り、次に主観もまた無であるとし、最後に、何も存在しない境地に触れる」と。
所取というは、有・無、一・異、倶・不倶等の一切の定相なり。
客観というのは、有と無、同じである・違っている、共通・共通でないなどの、すべての定まった姿です。
能取というは、今、この相を取る一切の心なり。
主観というのは、今の、この姿(客観)を把取する、すべての心です。
この諸の心と境とは、みな自心より起こるがゆえに夢境の如し。
この、さまざまな心と対象は、みな自心より起こるので、夢の世界のようです。
覚悟の智の前に何の所得か有らん。
覚悟した智慧の前に、何の得るものがあろうか。
頌の意、是の如し。
頌の意味は、このようです。
但、此の意を以て、正しく観法を修せよ。
ただ、この意味をもって、正しく観法を修せよ。
猶、之を思うべし。
いっそう、これを思うべし。
第十三章 刹那に収められること
第一節 修行の階梯
(1) 総 説
問う。
問います。
唯識の行人・行位の次第は、その相、云何。
唯識の修行をする人や修行の位は、どのように進んでいきますか。
答う。
答えます。
『唯識論』に云わく、「資糧位の中に、能く深く信解し、加行位に在りて、能く、漸く、所取・能取を伏除して真見を引発し、通達位に在りて、如実に通達し、修習位の中に、所見の理の如く、数数修習して、余障を伏除し、究竟位に至りて、出障円明なり。
『成唯識論』に、「資糧位の中で、深く信解するようになり、加行位で、徐々に客観・主観を抑え、除き、真実の見方を引き起こし、通達位で実際に真如に通達し、修習位の中で、その目で見た真理を何度もくり返し修習して、残っている障礙を抑え、除き、究竟位に至って、障礙から抜け出て円明となる。
よく未来を尽くして、有情類を化し、また唯識の相性に悟入せしむ」と。
未来尽きるまで、生きものたちに感化をあたえ、また、ただ心のみがあることの姿や本性を悟らせる」と。
(2)三道について
1、 見 道
問う。
問います。
見・修・無学の三道の種子は何の位に増長せしめ、何の位にか現行を生じ、如何が修習するや。
見・修・無学の三道の種子は、どの位で養い育て、どの位で現れを生じ、どのように修習するのか。
答う。
答えます。
始め法界等流の教を聞き、数数、多聞熏習の力のゆえに、深固の大心を発して自り以来、法爾無漏の種子を熏増す。
始めに、ものの本性の世界から流れ出た教えを聞き、何度も何度もたくさん聞いた熏習の力によって、深く固い大菩提心を発して以来、自然に具わっている穢れの無い種子を、熏習の力によって養い育てていきます。
乃至世第一法の位、その時、見道無漏の種子、生果の巧能、悉く皆具足す。
このようにして世第一法の位まで来たとき、見道の穢れの無い種子の、果報を生じる力がことごとく備わります。
此より無間に歓喜地に入る。
ここから間を置かず歓喜地に入ります。
その初刹那に真見道の無分別智を得。
その最初の刹那に、真実なる見道の無分別智を得ます。
此に無間・解脱の二道あり。
これに無間道と解脱道の二つの道があります。
無間道の位は、正しく、能く、分別所起の一切の二障を断除し、解脱道の位は、まさに能くその滅を証す。
無間道の位では、正しく、分別から起こったすべての二つの障害(煩悩障と所知障)を断除し、解脱道の位では、それがまさに消滅したことを証明します。
是の如き時間、多念を経といえども、而も能く念念に理智冥合し、その相等しきがゆえに、総じて一心と名づく。
これにかかる時間は、多くの瞬間(念)を経るとは言え、念念に真理と智慧が冥合していて、その姿が等しいので、全体として一心(見道)と名づけます。
この道は究竟して、次に三心見道の位に入る。
この道が行き着くところまで行き着くと、次に三心見道の位に入ります。
これ後得智なり。
これは悟りの後の智慧です。
然も猶、如を縁ずるがゆえに非安立なり。
しかし、なお真如を縁じているので言葉を超越しています。
非安立なりといえども、而も相を変ずるがゆえに相見道と名づく。
言葉を超越しているといっても、姿を変じているので相見道と名づけます。
その三心とは、一には内遣有情仮縁智。
その三心とは、一つめは、生きものという仮のものを内側で払い除けることを縁じる智慧です。
即ち生空の後得智、生空の真如を観ず。
つまり生きものたちが空であることを観じる後得智が、生きものたちが空であることから生じる真如を観じています。
二には内遣諸法仮縁智。
二つめは、さまざまな存在という仮のものを、内側で払い除けることを縁じる智慧です。
即ち、法空の後得智、法空の真如を観ず。
つまり、存在が空であることを観じる後得智が、存在が空であることから生じる真如を観じています。
三には遍遣一切有情諸法仮縁智。
三つめは、一切の、生きものと存在という仮のものを、遍く払い除けることを縁じる智慧です。
即ち倶空の後得智、二空の真如を観ず。
つまり、ともに空であることを観じる後得智が、二空から生じる真如を観じています。
今、この単と重との三心を発しおわって、次に十六心相見道に入る。
今、この単体と複合の三心を発しおわって、次に十六心相見道に入ります。
十六心とは、苦等の諦において、各四智を起こすがゆえに十六有り。
十六心というのは、苦などの四諦において、各々四つの智慧を起こすので十六となります。
此においても亦二種の十六有り。
これにも二種類の十六があります。
一には所取・能取の十六心なり。
一つめは客観と主観の十六心です。
八は真如を観じ、八は正智を観ず。
八つ(法智忍、法智)は真如を観じ(客観)、八つ(類智忍、類智)は正智を観じます(主観)。(注:智忍は無間道、智は解脱道に相当します)
二には上・下八諦の十六心なり。
二つめは上・下八諦の十六心です。
八は下界の四諦の真如を観じ、八は上界の四諦の真如を観ず。
八つ(法智忍、法智)は下界(欲界)の四諦の真如を観じ、八つ(類智忍、類智)は上界(色界・無色界)の四諦の真如を観じます。
今、この二種の十六の前後は、宗家異釈す。
今、この二種類の十六心の前後、どちらが先かには、宗家に解釈の違いがあります。
或るは所取・能取を先とし、或るは上・下八諦を先とし、或るは行者の意楽によって不定なりとす。
あるものは客観・主観を先とし、あるものは上・下八諦を先とし、あるものは修行者の意向によって決まってはいないとします。
上来、一心と三心と十六と、みなこれ下品無漏の種子の所生なり。
これまでの一心と三心と十六心は、どれも下品の穢れの無い種子から生じるものです。
2、 修 道
是の如く、三重の駅を経歴しおわって、次に修道に入る。
このように三段階の駅を通過しおわって、次に修道に入ります。
その初めは、猶これ歓喜地の内なり。
始めのうちは、まだ歓喜地の内です。
今、此の無漏は、即ち中品無漏の種より生ず。
今のこの無漏は、中品の無漏の種子から生じます。
その中品の種は見道の間、念念に増長す。
その中品の種子は、見道の間に、念念に養い育てられていきます。
是の如く、是の如く、熏増せらるるがゆえに、即ち、修道初念の智、生ずることを得。
このように、このように、熏習により養い育てられることによって、修道の初念の智慧が生じることができるのです。
この時、彼の見の下品の種子も、亦中品の種子に転斉す。
このとき、あの見道の下品の種子も、また中品の種子に転じ斉しくなります。
ゆえに修に入りおわれば、下品の種なし。
したがって修道に入れば、下品の種子は無くなります。
これより已後、地地に倶生の智障を断除し、数数、無分別智を修習して、即ち金剛に至る。
これより以後、地から地へと移るに従い、生まれつき具わっている所知障を断除していき、何度も何度も無分別智を修習して、金剛喩定(佛果を得るための禅定)に至ります。
この時、一切倶生の煩悩及び極微細の所知障の種、悉くみな断除す。
このとき、一切の生まれつき具わっている煩悩障と極微細な所知障の種子が、悉くみな断除されます。
是の如く、十地を修習するの間、念念に上品の種子を熏増す。
このようにして、十の地を修習する間、念念に上品の種子を熏習によって養い育てます。
3、 無学道
所以に遂に佛果の初念に至る。
よってついに佛果の最初の瞬間に至ります。
その時、一切の非障の有漏と及び劣無漏と、みな悉く捨しおわって、上品の種子、初めて現行を生じ、所有一切の中品の種子も、亦復上品の種子に転斉す。
そのとき一切の障害とはならない穢れのある種子(有漏の善と無記の種子)と劣った穢れの無い種子(中品の種子が持つ中品という性質)とをことごとく捨て去って、上品の種子が初めて現れを生じ、すべての中品の種子も、ふたたび上品の種子に転じ斉しくなります。
ゆえに佛果の位には、下・中品なく、但、最極上品の種子のみあり。
したがって佛果の位には、下・中品の種子は無く、ただ最極上品の種子のみがあります。
今、この上品の種子の中に、最上無漏八識の心王の各々の種子と、二十一種の相応の心所の各々の種子と、この心・心所各々の相分の一一の種子と、相分の中の五根と五境等の諸の種子とを、みな悉く具足す。
今のこの上品の種子の中には、最上の穢れのない八つの心の心王の各々の種子と、二十一種類の対応している心のはたらきの各々の種子と、この心と心のはたらきの各々の相分の一一の種子と、相分の中の五つの感覚器官と五つの対象などのさまざまな種子とが、ことごとくみな具わっています。
相好・光明・周円、際なし。
相好や光明は周円して限りがありません。
衆宝荘厳の浄土の体、最極善性の五塵の種子、みなこの中にあり。
たくさんの宝石により荘厳された浄土の本体や、最極善性の五つの物質の種子が、みなこの中にあります。
要を取ってこれを言わば、即ちこれ無漏の十八界の種なり。
要するに、これらは穢れのない十八界の種子です。
是の如き諸の種子、佛果に入る初念に、一時に現行を生ず。
これらのような、さまざまな種子が、佛果に入る最初の瞬間に、一時に現れを生じます。
譬えば、日輪初めて山に出で、千光万耀、一時に具足するが如し。
たとえば、太陽が初めて山から顔を出したとき、千の光、万の輝きが、一斉に現れるようなものです。
是の如きに由るがゆえに、諸佛・諸根・相好、一一無辺にして、身量・国土、辺際を知らず。
このような理由から、諸々の佛、諸々の感覚器官、相好、一つ一つが無辺であって、身体の大きさ、国土には限りがありません。
凡そ一切の事、思議の道を越ゆ。
およそ一切の現象が、思考の範囲を超えています。
これ即ち三大無数劫の間、無量無辺恒沙の福慧の資糧を修習して、限りなき善根を以て、まさに感得するところなるがゆえに、一一の相好、一毛端に至るまで、恒沙塵数の功を以て成ぜざるなし。
これは三大無数劫の間、無量無辺、ガンジス川の砂の数ほどの福と智慧の資糧を修習した、限りのない善根によって感得されるものですので、一つ一つの相好、一本の毛の先に至るまで、すべてガンジス川の砂の数ほどの功徳によらないで現成したものはありません。
是を即ち名づけて自受用身と為す。
これを自受用身(→大円鏡智)と名づけます。
その法身とは、この智の証する所の円満真如なり。
その法身とは、この(自受用身の)智慧が証している円満真如です。
その他受用及び変化は、この智の現ずる所の相分の佛なり。
その他受用身(→平等性智)と変化身(→成所作智)は、この智慧が現じる相分の佛です。
その化身の中に、乃ち無量無辺の随類応同の身形あり。
その化身の中には、無量無辺の相手に随って姿を現じる身形があります。
所謂、虎・狼・野干・み猴等の身及び人中・欲天・色天等の種々の身なり。
すなわち虎や狼や狐や猿などの身、あるいは人中、欲天、色天などの種々の身です。
是の如く、他受用と及びその変化と重重の化相、一一皆、五蘊・十八界等の諸法を具す。
このように他受用身とその変化身、およびさまざまな化相の一つ一つが、すべて五蘊や十八界などのさまざまなものを備えています。
みな八識あり、諸の心所あり。
みな八つの心があり、さまざまな心のはたらきがあります。
凡身を現ずるときは、すなわち十煩悩・二十随惑等の雑染法、みな悉く具足す。
凡夫の身体を現じるときは、十の煩悩や二十の随煩悩などの汚れたものも、みな悉く具えています.。
その体は依他にして各々皆能生の種子あり。
その本体は依他起性であって、各々にはみな、それを生じる種子があります。
是の如き化現の色・心の種子も、また皆無始所具の法爾無漏種子の中に在り。
このような変化身が現じる物質や心の種子も、またすべて、無始から自然に具わっている穢れの無い種子の中にあります。
今、果に至りおわれば、すなわち自受用大円鏡智相応の浄識の持する所なり。
今は佛果に行き着いているので、自受用大円鏡智に対応する清らかな心が保持しているものです。
是の如き化現の心・心所法は、その体、これ種子所生の依他の性なりといえども、而も相分心にして実心に非ざるがゆえに、みな非縁慮なり。
このような変化身が現じる心や心のはたらきは、その本体は種子から生じた依他起性ではあるけれども、相分としての心であり、実の心ではないので、すべて知ったり考えたりすることはありません。
ゆえに煩悩、惑障を具足するといえども、而も実の凡に非ず。
だから煩悩や煩悩による障礙をちゃんと備えているとは言え、実際に凡夫であるわけではありません。
実に、これ無漏清浄の法なり。
実に、これは穢れのない清浄なる存在なのです。
また、この位の中、浄八識は自他展転して、みな互いに縁ず。
また、この位の中では、清らかな八つの心は、お互い同士、互いに縁じあいます。
謂わく、眼識聚の心王・心所、通じて八識の心王・心所を縁じ、乃至、第八の心王・心所、通じて八識の心王・心所を縁ず。
すなわち、眼識の集まりにおける心王と心のはたらきは、八つの心と心のはたらきをすべて縁じることができ、ないし第八アーラヤ識の心王と心のはたらきは、八つの心と心のはたらきをすべて縁じることができます。
一聚の王・所、異聚の王・所、皆障礙せず。
一群の心王と心のはたらきと他の一群の心王と心のはたらきとは、みな妨げあいません。
能く遍縁するがゆえに。
広く縁じることができるからです。
また、この位の中の四分は、相縁して不可思議なり。
また、この位の中では四分は、縁じあうことができ、とても不思議です。
謂わく、一の見分、通じて四分を縁じ、一の自証分も、また通じて四分を縁じ、証自証分も、亦復かくの如し。
すなわち、一つの見分が四分すべてを縁じることができ、一つの自証分も、また四分すべてを縁じることができ、証自証分も、また同様です。
但、その各々の自分縁は刀の自ら割かざる理、必然のゆえに、これ直ちに自分の用を縁ずるに非ざるなり。
ただ、その各々の自分を縁じるはたらきについては、刀が自らを斬らない道理は必然なので、直接、自分自身のはたらきを縁じることはありません。
他の所変の自分の影像を以て、所杖の質と為して、相分を変じて自らを縁ずることを得るなり。
他の心が変じた自分の影像を頼りの杖である本質として相分を変じ、自らを縁じることができます。(鏡に似ています)
これ復、云何。
これ、またどのようにか。
しばらく一聚の心王・心所、相縁の時の如き、受の心所が心王の見分を縁じて変ずるところの影像は、すなわち、此の心王、彼の影像を以て本質とするがゆえに、亦影像を変じて自の見を縁ずるなり。
たとえば一群の心王・心のはたらきが縁じあっているときなどに、感受の心のはたらきが心王の見分を縁じて変じた影像を、ふたたび心王がこの影像を本質とすることによって、また影像を変じて、見分自身を(間接的に)縁じるのです。
自余は、これに准ぜよ。
これ以外については、これに準じるべきです。
(二釈有りといえども、しばらく勝釈に依る)
(二つの解釈がありますが、しばらく勝れた解釈に依ることにします」
又、此の諸智品の真・俗を証することは種々なり。
また、それぞれの智慧が真実と世俗を証する様子はさまざまです。
円鏡と平等とは、恒時に真・俗の二境を合観し、妙観察智は応に随って自在なり。
大円鏡智と平等性智は、常に真実と世俗の二つの対象を合わせて観ていますが、妙観察智は時に随って自在です。
或るは唯理観、或るは唯事観、或るは二倶に観ず。
ある場合には、ただ真理のみを観、ある場合には現象のみを観、ある場合には二つともに観ます。
成所作智は事を成ずる智なるがゆえに俗観を本と為す。
成所作智は現象を現成させる智慧ですので、俗観を其本とします。
神通変化、難思の事業は、専ら此の智の能なり。
神通変化などの考えの及ばない事業は、専らこの智慧の能力です。
各々の相応の心王・心所は同一縁のゆえに、亦復是の如し。
各々に対応している心王と心のはたらきは同一の縁ですから、また同様です。
又、此の智は、みな遍く能く一切法を縁ずといえども、而も用は異あり。
また、これらの智慧は、みな、漏れなく、すべてのものを縁じることができますが、はたらきには違いがあります。
謂わく、鏡智品は自受用身と浄土との相を現じ、平等智品は他受用身と浄土との相を現じ、観察智品は自他の功徳と過失とを観察し、成事智品は能く変化身と及び土との相を現ず。
すなわち、大円鏡智は自受用身とその浄土の姿を現し、平等性智は他受用身とその浄土の姿を現し、妙観察智は自他の功徳と過失を観察し、成所作智は、変化身とその土地の姿を現します。
加之、諸の有情類は、無始の時より来、種々法爾に相繋属す。
これに加えて、さまざまな生きものたちは、無始の時から、さまざまに互いに所属し合っています。
或るは多、一に属し、或は一、多に属す。
あるいは多くの生きものたちが一人の佛に所属し、あるいは一人の生きものが多くの佛に所属します。
もし、その所化、共して縁有るときは、その有縁の佛、たとい無数なりといえども、同処同時に身土を変為して、形状、相似て、相妨礙せず。
もしその感化を受ける生きものたちが、ともに縁有るときには、その有縁の佛は、たとえその(生きものたちの)数が無数であっても、同じ場所、同じ時刻に、身体と土地とを変現され、その形状は相似ており、妨げあうことはありません。
展転相雑して増上縁となり、所化の生をして、一佛土に一佛身あり、為に神通を現じて説法饒益すと謂わしむ。
あれこれさまざまなことが補助的な原因となり、感化を受ける生きものたちに、一つの佛国土に一つの佛身があり、私たちのために神通力を現じて、説法の御利益を与えてくださっているとおもわせます。
是の如き等の事、みな不思議なり。
これらのことは、みな、私たちの考えのとても及ぶ事ではありません。
然るに、この三身、すなわち一佛身にして、各別の諸佛身の如くに非ざるがゆえに、彼の非縁慮の相分心と自受用の縁慮の実心と、長時和合して、彼の用と此の体と、而も種々の利益の事を作すなり。
しかし、この三つの身体は、一佛身にほかならず、各別の佛の身体があるわけではありませんので、彼の非縁慮の相分心と自受用の縁慮の実の心とは、悠久に和合し合い、彼のはたらきと、この本体とが、さまざまな利益ある現象を作り出されるのです。
(3) それぞれの修行にかかる時間
問う。
問います。
今、この五位は三阿僧祇に如何が判属するや。
今のこの五つの位は、三阿僧祇劫に、どのように配置されるのか。
答う。
答えます。
地前の資糧と加行との二位を総じて一大阿僧祇劫と為し、その初地より第七地に至るまでを総じて第二阿僧祇劫と為し、第八地より第十地に至るまでを総じて第三阿僧祇劫と為す。
十地以前の、資糧位と加行位との二つの位を合わせて一大阿僧祇劫とし、初地から第七地に至るまでを合わせて第二阿僧祇劫とし、第八地から第十地に至るまでを合わせて第三阿僧祇劫とします。
金剛心の位は第十地の終わり、すなわちこれ等覚なり。
金剛心の位は第十地の終わりで、これは等覚(佛と等しい位)です。
相好の百劫も、また此の中に在り。
相好の百劫も、またこの中に含まれます。
問う。
問います。
此の三大劫において超越の類有りや。
この三大阿僧祇劫において飛び級をする者はあるのか。
答う。
答えます。
もし、これ上々精進の菩薩は、或るは衆多の中劫を超越するあり、或るは衆多の大劫を超越するあり。
もし、非常に精進をする菩薩であれば、ある場合には多くの中劫を飛び越えていく者があり、ある場合には多くの大劫を飛び越えていく者があります。
然而、決定して無数の大劫を超越すること有ること無し。
しかし決して一大阿僧祇劫を飛び越える者はありません。
第二節 修行にかかる時間が非常に長いことへの疑問
(1)摂在刹那
問う。
問います。
若し爾らば、此の時、すでに長遠なり、何れの日、何れの時にか成佛することを得んや。
もしそうなら、その時間は長遠である、いつの日に、いつの時に成佛することができるのか。
答う。
答えます。
唯識の『本疏』に、此の疑問を挙げて、自ら答えて云わく、「夢に処して多年と言う。
『成唯識論述記』に、此の疑問を挙げて、自ら答えて言っています、「夢の中で多くの年月という。
摂論に広く説くが如し」と。
『摂大乗論』無性釈に広く説かれているとおりである」と。
退いて『摂論』を勘がうるに、速証菩提の義を述釈して云わく、「夢に処して年を経という。
『摂大乗論』無性釈に戻って考えてみると、速やかに菩提を証すことの道理の解釈を述べて、「夢の中で年を経たと言う。
悟れば、すなわち須臾の頃なり。
悟ってしまえば、一瞬の間です。
ゆえに無量なりといえども一刹那に摂在す」と。
だから無量といっても、一瞬の間にまとめて存在するのである」と言っています。
此の文、意を得るに学者の義、区なり。
この文の意味については、学者の意見はまちまちです。
今、一義に云わく、法体如幻にして三世は一念なり。
今、一つの意見として、存在の本体は幻の如きものであり、過去・現在・未来の三世は一念です。
現在一世一刹那の中に、過去漫漫の劫数を摂在し、また未来永永の年歳を摂す。
現在の一刹那の中に、過去漫漫の劫数をまとめて収め、また未来永永の年歳をまとめて収めている。
此れ即ち、現在一念の法に、前に酬いるの相あるを、仮に過去と名づけ、これを曽因と為す。
これは、現在の一念に、以前に報いる姿があるの(この以前の姿)を、仮に過去と名づけ、これを、かつての原因としているのです。
実の過去無し。
実体として過去があるわけではありません
後を引く用あるを、仮に未来と名づけ、これを当果と為す。
後からのものを牽引するはたらきがあるのを、仮に未来と名づけ、これを、これから来る結果としているのです。
実の未来無し。
実体としての未来があるわけではありません。
この現在の法、前に望め、後ろに望めて、仮に名づけて果と為し、仮に名づけて因と為し、実の現在、因果の二法無し。
この現在の法も、前に望み、後ろに望んで、仮に結果と名づけ、仮に原因と名づけたに過ぎず、実体としての現在や、因果の二つがあるわけではありません。
是の如く、如幻・仮有・実無の三世の安立不思議のゆえに、長時も定に非ず、短時も実に非ず。
このように幻の如く、仮の存在で、実体としては無であるという三世のあり方の不思議さのゆえに、長時間も定まったものではなく、短時間も実体としてあるわけではありません。
実の長時と謂い、実の短時と謂うは、みなこれ妄執なり。
実体として長時間があると言ったり、実体として短時間があると言ったりするのは、みな妄執です。
もし、唯心如幻の覚を得おわれば、更に定実の三祇劫の量無し。
もし、ただ心のみであり、幻のようであるという悟りを得てしまえば、もう定まった実体であるような三阿僧祇劫の長さなどはありません。
ゆえに妙覚の智、一、起こるとき、三大僧祇無辺の劫数、皆、夢境の如く、一念刹那の相分に摂在す。
ゆえに妙覚(佛の位)の智慧が、一度び起こるときには、三大阿僧祇、無辺の劫数は、みな夢の世界のようで、一念の刹那の相分にまとめて収まってしまうのです。
質・影、違せず、心・境、乖かず。
しかも本質と影像は離れることなく、心と対象も背いていません。
ゆえに三祇を執して長遠と為すは、但これ、我が心の愚妄なるのみ。
だから三阿僧祇劫を妄執して非常に長い期間であると思うのは、ただ、これは私の心が愚かで乱れているからに他なりません。
数数、唯心の道理を思惟し、漸漸にその定実の迷いを翻ぜば、分分に、皆まさに長時の嘆きを除くべし。
何度もただ心のみである道理を思惟し、徐々に、その確実に実体としてあると思う迷いを改めていけば、その人なりに、みな、非常に長いと思う嘆きを除くことができるであろう。
何ぞ徒に劬労して、日月を経んや。
どうして何の甲斐もなく苦労して、月日を送る必要があろう。
(2) 即身成仏について
問う。
問います。
今、成ずる所は、三大僧祇、如幻の理に依って刹那に摂すと観じて、長遠の定執を除遣するなり。
今、説明されたことは、三大阿僧祇劫を、幻のようであるという道理によって、刹那に収まっているものと観じ、長遠であるという固定観念を取り除くものです。
仍って、しばらく、これを置く。
よって、しばらく、これは置いておきます。
もし、我が宗の意、未だ妙覚に至らざる前、乃至資糧等も、また即身成仏の義あるや。
私たちの宗の意見として、まだ妙覚に至らない前、ないし資糧位などにおいても、今のこの身で佛となる道理はあるのでしょうか。
答う。
答えます。
もし分証を論ずれば、その義あるべし。
もし一部分の悟りであれば、その道理はあるはずです。
謂わく、上根・上智の機ありて、勇猛に唯識観を修習せば、即身に初発心住に入るべし。
すなわち、素質がすばらしく、智慧も優れた人がいて、勇猛に唯識観を修習すれば、その身そのまま、初発心住(資糧位の十住の最初の位。初めて菩提心を起こす位)に入ることができます。
初発心住に、能く八相を現ずるは宗家の定判なり。
初発心住で、八相成道を現すことができるとは、宗家が太鼓判を押しているところです。
ゆえに、その時分に即身成覚の義あるべきなり。
したがって、今いったような時分でも、その身のまま覚りを成じる道理はあるはずです。
所謂、分得の覚智、已に起こる。
いわゆる部分的に得る覚智が、そこに起こっているのです。
此の覚は、これ第六識の中の分得智品なりといえども、一身の八識、一・異ならざるがゆえに、その不異門は、彼此無礙にして隔つる所なければ、仮説して、応に四智菩提と名づくべし。
この覚りは、第六意識の中で部分的に得た智慧ではあるけれども、一身上の八つの心は差別はないのですから、その異なっていないという考えからすると、彼とこれと妨げがあることもなく、隔てあうこともないので、まさに四智をともなった菩提であると、仮には説いてもよいはずです。
例せば、彼の他染熏成に由りて、変じて我・法に似るが如し。
たとえば、彼の第六識や第七末那識の汚れた心による熏習によって、−我・もの−に似たものが変じられてくるようなものです(前五識、第八アーラヤ識に罪は無いが、はからずも協力してしまう)。
染を以て浄を推すに、その義疑いなし。
汚れたものから清らかなものを推量すれば、その意味において疑いはないでしょう。
依身・相好、皆、この心変なり。
身体も相好も、すべて、この心が変じたものです。
能変・所変、能依・所依も、また即離せざれば、応に佛体と名づくべし。
変じるもの・変じられるもの、依るもの・依られるものも、また離れていはないので、まさに佛体と名づけるべきです。
その所観の理は、即ち唯識性の一実境界なり。
それによって観じられている真理は、−ただ心のみであること−の一なる真実の対象世界です。
亦擬宣して、法身と名づくることを得べし。
これもまた、とりあえず法身と名づけてもよいであろう。
是の如く、分得仮説の時、即ちこれ、三身具足の佛体なること、その理必然なり。
このように、部分的に得ることを仮に説くときでも、これは三身をすべて具えた佛の身体であることの道理は、必然的です。
もし、此の智を得おわれば、たとい八相成道を化現せざる時といえども、常に覚者と名づくべし。
もし、この智慧を得ることができれば、たとえ八相成道を、まだ化現していない時であっても、常に覚者と名づけなければなりません。
これ即ち、法体如幻虚仮にして、皆、無礙なるがゆえに、もし一分の覚悟智を得おわれば、之を説いて佛と為すに全く相違なし。
これは、ものの本体が幻のようで虚仮であり、すべてに妨げがないので、もし一分であれ覚悟の智慧を得てしまえば、この者を佛であるといっても、何の相違もないからです。
但、その上根・上智の機は、先世、数数、この行を修習して、今生に初発心住に入るに堪えたる大機なり。
ただ、その素質が勝れ、智慧に優れた人というのは、前世に何度も、この行を修習して、今生に初発心住に入ることができるような大器です。
その機は末代、尤も奇なるものか。
そのような資質は、末の世においては最も希であろう。
此の分に非ずといえども、心を励まして修習せば、分に随い、堪うるに随いて、その益あるべし。
しかし、たとえ、このような分際ではないといっても、心を励まして修習すれば、その人なりに、受けるに値するほどの利益はあるであろう。
大乗の法力不思議のゆえに、実相の理、大神験の故に。
大乗の法力は不思議であり、真実の姿には大いなる霊験があるからです。
然らば、只、無用の疑網を止めて、須く勇猛の勤修を企つべきものか。
そうであるなら、ただ、無用の疑いの網を張り巡らせるのは止めて、ぜひとも勇猛の勤修を企てるべきです。
今、世間を見るに、正見・邪見、利根・鈍根、その機、現に区なり。
今、世間を見てみると、正しい意見を持っている者・間違った意見を持っている者、賢い者・鈍い者、その資質はまちまちです。
その中、質直利根の人、決定の信を取りて一心に修行せば、分分の得益、必然の事か。
その中で、まじめで頭のよい人が、揺るぎない信仰心を持って、一心に修行をすれば、分に応じた利益を得ることは、必然であろう。
もし、分に聞法以前と異なる解を起こすことを得、三毒等の失、聊か微なることあらば、これ随分の益なり。
もし、それなりに、教えを聞く以前とは異なった理解を起こすようになり、貪・瞋・癡の三毒などの過失が、すこし微弱になるようなことでもあれば、これはもう分に応じた利益です。
但し、自心に当たって、深く愚癡を悲しむ。
ただ、自分自身に当たってみれば、深くその愚癡を悲しむものです。
何れの世にか随分の知解を起こすことを得ん。
いつの世になれば、分に応じた知解を起こすことができるのであろう。
唯、願う所は、此の微縁を以て、当来に悟りを得んことを。
ただ願うことは、このわずかな縁を以て、未来に悟りを得ますように。
豈、己が愚を以て、総じて世間を推さんや。
どうして自らが愚かであるからといって、すべて世間までも推し量ることができようか。
法滅の時、入見の者あるは、宗家の釈なり。
教えが滅する時でも、見道に入る者があることは、宗家の解釈です。
正見の明人、怯弱すること勿れ。
正しい意見を持った明晰な人よ、怯んではならない。
上来、述ぶる所の義理・推尋、片言も実に契わば衆生に施与して、願わくは有縁と共に菩提心を発して同じく浄刹に生じ、尽く佛道を成ぜん。
今まで述べてきた教えの内容や推測が、片言でも実際と合っていたなら、生きものたちに施与して、願わくは縁のある者たちと共に、菩提心を発して、同じく浄土に生まれ、すべてのものが皆、佛道を成じますように。
抑も一切の罪の中に謗法を最要と為す。
そもそも一切の罪の中で、謗法が一番重い罪です。
たとい一門を信ずといえども、余法を謗毀することあらば、皆これ地獄の業なり。
たとえ一つの宗派を信じているといっても、その他の教えを謗ることがあれば、みなこれは地獄行きの行為です。
『十輪経』に説くが如し。
『十輪経』に説かれているとおりです。
恐るべし、恐るべし。
恐れるべきです。恐れるべきです。
慎むべし、顧みずんばあるべからず。
慎まなければなりません、顧みないでいることはできません。
見ずや、夫れ『深密』此の意を説き、他は之を諍わず。
まだ見ていないのでしょうか、『解深密経』で、このことを説いており、他者とは争わないのです。
定めて知る、これ諍い無き舎那の金言なり。
ここで、これは諍いのない盧舎那仏の金言であることが、はっきりとわかるのです。
『瑜伽』、この旨を演べて、世、これを疑わず。
『瑜伽師地論』は、この旨をのべましたが、世間で、これを疑うものはありませんでした。
定めて知る、これ疑いなき補処の伝灯なり。
そこで、これも疑いようもない弥勒菩薩からの伝灯であることが、はっきりとわかるのです。
既に決定の佛意なりと知りおわんぬ。
これで、確実に佛さまの思いであることを知ることができました。
信・謗の益・損、豈、小なるべけんや。
信じること・謗ることの利益・損失は、どうして小さいことがあろうか。
この誹謗とは、未だ必ずしも罵詈するに非ざるも、軽浅撥無、みなこれ誹謗なり。
誹謗というのは、必ずしも罵詈するだけではありません、軽蔑したり無視することも、みな誹謗です。
而るに他家の門葉、偏執の小生、頻りに権宗の名を呼び、実に法性を隔つという。
しかし他宗派の門弟で頭の凝り固まった度量の小さな者たちは、しきりに我が宗を仮の教えであると呼び、実に、ものの本性から隔たっていると言う。
その言の意、未だ審定を得ず。
しかし、その言葉の意味は、未だはっきりとは定まらないでいる。
これ、法中一向にすべて此等の性相なし、但、これ如来、機を誘うが為のゆえに名づけて権と為すと為さんや。
これは、ものの中には、全く、これらの本性や姿などはなく、ただこれは如来が資質ある人を誘うためのものなので、仮の教えであるとするのだろうか。
これ、法中この実有りといえども而も真理に非ず、これ事相のゆえに名づけて権と為すと為さんや。
あるいは、これは、ものの中にこのようなことは確かにあるけれども、しかし真理ではなく、現象の姿に過ぎぬものであるから、仮の教えとするのであろうか。
もし前の如くならば、如来、豈、妄語を以て衆生を利せんや、
もし前者のようであるなら、如来がどうして嘘をついて生きものたちを利するようなことがあろうか。
衆生、豈、虚説を信じて解脱を得んや。
生きものたちが、どうしてありもしない説を信じて解脱を得ることがあろうか。
もし方便教は皆以て然るがゆえにと云わば、豈、方便教、みな妄語ならんや。
もし方便の教えというものは、みなそのようなものだと言うのなら、方便教はみな嘘なのか。
我が宗は然らず。
私の宗派はそうではない。
たとい方便教も、みな実義あり、たとい隠密の説も必ず顕了に順ず。
たとえ方便の教えであっても、どれも実際の道理を含み、たとえ隠密の説であっても、明了に説かれた教えに順わなければなりません。
ゆえに頓悟の前には、みな、中道教にして悉く法性を詮す。
だから速やかに悟りを開いた者の前では、すべて中道の教えであって、どの教えも、ものの本性を言い表しているのです。
上に抄しおわるが如し。
上に略説したとおりです。
未だ見ず、未だ聞かず、聖教の中に虚妄の語あることを。
私は、未だに見たこともなく、未だに聞いたこともない、聖教の中に嘘偽りの言葉があることを。
謂いつべし、汝等は自宗に迷い、また他宗に迷うて、是の如き誤りを致すと。
あなたたちは自らの宗派にも迷い、また他の宗派にも迷って、このような誤りを犯しているのだと言わなければならない。
もし後の如くならば、汝等が宗の極理は、豈、廃詮に過ぎんや。
もし後者であるなら、あなたたちの宗の究極の説は、言葉を捨てるというに過ぎなくなるのではないか。
もし即事を以て、その勝と為さば、何ぞ事を降ろして権と為すや。
もし現象(事実)に即することが、勝れたことだとするなら、どうして現象(事実)を見下して仮の教えであるとするのか。
もし偏即を以てその勝と為さば、豈、辺をもって中を破せんや。
もし偏って即することが勝れたことだとするなら、どうして偏向した考えで中道を論破できようか。
もし定離は中道に非ずと云わば、汝等は不即不離の文を見ざるや。
もし−真如は必ず離れている−という考えは中道ではない、と言うなら、あなたたちは、一体でもなく離れているのでもない(不即不離)の文を見ないのか。
もし学者、定離と謂うと云わば、豈、学者の謬解を以て宗教の失とせんや。
もし(法相宗の)学者が必ず離れていると言っている、というなら、どうして(一部の)学者の間違った考えによって、宗派の教え(そのもの)の過失となるのだろうか。
汝が相即の偏執、豈、また宗の失ならんや。
あなたの真理と現象が一体であるという偏った妄執が、どうして、あなたの宗派の過失だといえるだろうか。
もし、妄語に非ず、また事相に非ず、但これ麁浅門にして而も実義に非ずと云わば、夫れ諸法を摂するは三重に過ぎず。
もし、嘘ではない、また現象の姿でもない、ただこれは粗雑で浅薄な教義であって、真実の理法ではないというのなら、では、さまざまなものをまとめると三種類に過ぎません。
謂わく、事と理と如なり。
すなわち現象と真理と真如です。
もし妄語に非ずんば、定めてこの三重の一を詮すべし。
もし嘘ではないのなら、必ずこの三種類の中の一つを言っているはずです。
而も事相に非ず。
しかも現象ではありません。
而も妄に非ずんば、これ何の法ぞや。
しかも嘘でもないとしたら、これは何か。
もしこれ所執ならば、佛、豈、所執を説きて衆生を利益せんや。
もし、遍計所執性であるなら、どうして佛さまが遍計所執性を説いて生きものたちを利益できようか。
もし、これ事なりといえども而も深事に非ず、と云わばその深事とはこれ何ぞや。
もし、これは現象であるけれども、深い現象ではないのだ、と言うなら、その深い現象とは何か。
もし、この礙・無礙を超ゆる不可思議言の事相有りや。
もしかして、この物質性・非物質性を超える、言うも不可思議な現象の姿とやらがあるのでしょうか。
もし、常住にして、すべて生滅なきを以て、その深義と為し、仮に生滅に似たるを、猶、浅と為さば、これはこれ真理にして更に事相に非ず。
もし、常住であって、全く生滅しないことを深いの意味とし、仮に生滅に似ているのを浅いとするのであれば、それ(深事)は真理であって、さらさら現象の姿ではありません。
汝、何ぞ理を、誤って、以て事と為すや。
あなたは、どうして真理を、誤って現象であるとしてしまっているのだろう。
又復、我が宗の談は、全く依他に局らず、帰する所は、専ら廃詮一実の極理なり。
さらに、我が宗派で言っていることは、全く(事相である)依他起性に限っているのではなく、帰する所は、ひとえに、言葉を絶した一なる真実の究極の真理です。
もし相即を以て深義と為さば、その難、前に准ず。
もし真理と現象は一体であるということが深いということの意味なのだとしても、そこから生じる困難は、前と同様です。
旁、之を推徴するに謗法疑いなし。
これらのことから推測するに、教えを謗っていることは疑いのないことです。
是の如き悪人は、能く無量衆生の正慧眼を抜くなり。
このような悪人は、無量の生きものたちの正しい智慧の眼を引き抜いてしまう。
是の如きの毒言は、能く恒沙諸佛の妙法を害うなり。
このような毒の混じった言葉は、ガンジス川の砂の数ほどの諸佛の妙法を損なうものです。
哀れなるかな、一旦の執情に依って、冥然として無窮の苦輪に向かわんことを。
哀れであるかな、一時の妄情によって、暗昧となって無窮の苦しみの輪廻に向かっていくことは。
凡そ像・末の世には質直の人、奇にして、観行を習う者は性相を名づけて浅近と為し、性相を学ぶ輩は観行を喚んで戯論と為す。
おおよそ像法・末法の世には、まじめで正直な人は希であり、観行を習う者は、ものの本性や姿を学ぶことを浅近だと言うし、ものの本性や姿を学ぶ者たちは、観行を戯言だと言う。
これすなわち、差別は浅に似るがゆえに、他、その深理に迷い、観行は戯に似るがゆえに、人、その実徳を失するなり。
これは、ものを差別することは浅薄な行為に見えるので、他の者は、それが持つ深い道理に迷い、観行はふざけているように見えるので、人は、それが持っている本当の意義を見失うのです。
中に就いて、観行の宗を弘むる時は、すなわち所観の法を説くを至極の要と為す。
この中で、観行の教えを弘めようとする時には、何を観じるのかを説くことが、最も大切な要です。
観行の法は、皆以て然るがゆえに。
観行というものは、すべて、それによって正しく行うことができるからです。
若し然らざれば、証を得ざるがゆえに。
もし、正しく行うことができなければ、悟りを得ることはできないからです。
これ乃ち、専注を勧めて、偏執を勧めざるなり。
これはつまり、修行に専念することを勧めているのであり、(理論に)偏執することは勧めていないのです。
而るに、返って余の教相を謗るは、但これ学者の失なり。
しかし、そうだからといって、他の人が真実の姿を教えることを謗るのは、これは学ぶ者としての過失です。
まさに知るべし、祖師の意を弁ぜず、観慧を引かずして還って悪慧を引くことを。
まさに知らなければならない、それでは祖師の意を弁えていないことになり、観行による智慧を引発しないばかりか、かえって間違った智慧を引き起こしてしまうことになるということを。
性相の宗を弘むる時は、則ち遍く一切を了して究竟の説と為す。
ものの本性や姿の教えを弘める時には、何から何まで一切を了解した究極の説とするのです。
性相の道、定めて然るべきがゆえに。
ものの本性や姿を究める道は、必ずそのようでなければならないからです。
もし、然らずんば疑いを断ぜざるがゆえに。
もしそうでなかったら、疑いを断じることができないからです。
これ乃ち、簡択を勧めて、堅執を勧めざるなり。
これはつまり、智慧によって選び分けることを勧めており、(修行に)堅く執することは勧めていないのです。
而るに返って他の修行を謗するは、但これ学者の失なり。
しかし、だからといって、他者が修行することを謗るのは、これは学ぶ者としての過失です。
まさに知るべし、自宗の旨を弁ぜず、諸門を尽くさずして、還って小門に滞ることを。
まさに知らなければならない、自らの宗派の宗旨をも弁えず、さまざまな教えの門をも尽くさないで、反対に、小さな教えの門に滞っていることを。
一味の法水、此が為に濁乱し、無礙の慧光、此に依って減没す。
一味の教えの水が、このために濁乱し、障礙のない智慧の光が、これによって減じ、没す。
悲中の悲、何事かこれに如かんや。
悲中の悲、これ以上に悲しいことがあるだろうか。
之を以て、之を思うに、性相を信解して、而も観行を修するに如かざるをや。
これらのことから、このことを考えてみると、ものの本性や姿を信じ理解して、しかも観行を修行すれば、これに越したことはないわけです。
その観行は、宗に随って不同なり。
しかし、その観行は、宗派によって違いがあります。
その不同は、即ち方便門なり。
ところが、その違いは、方便によるものです。
実は、みな、違せず。
実際には、すべて違ってはいないのです。
是を以て、観行純熟の人は性相を謗ぜず。
ここから、観行に習熟した人は、ものの本性や姿を学ぶことを謗ったりはしません。
性相通達の人は、観行を謗ぜず。
ものの本性や姿に通達した人は、観行を謗りません。
その毀謗有るは、只これ膚受の輩なり。
毀謗する人というのは、ただ、表面だけを受け取っている輩です。
古を聞き、今を見るに、皆以て、是の如し。
昔のことを聞き、今を見ても、すべてこの通りです。
之を以て、還って自ら思察するに、己においても、また此の恐れ有り。
これらによって、ふり返って自らのことを思察するにつけ、自分自身においても、またこの恐れがあります。
悲しい哉、何為、如かず、ただ、須く、口を閉じ、念を摂して、常に正理に住せんには。
悲しいことですが、ではどうすればよいのか、ただ口を閉じ、念を収めて、常に正しい真理に住する、これ以外にはあるまい。
但し、一向無言は像似正法なり。
ただ一向、無言一点張りでは、像似正法となってしまう。
もし利益あらば、豈、黙止すべけんや。
もし利益があるならば、どうして黙ってじっとしていられよう。
慎まずんばあるべからず。
慎むべきです。
顧みずんばあるべからず。
顧みるべきです。
彼と云い、此と云い、静かに之を審らかにすべし。
ああであると言い、こうであると言い、そして静かに、これを詳しく説明するべきです。
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