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法相二巻抄

良遍法印鈔之

およそ我が宗の意、法門を立つること義門、区なり。しばらく唯識三性百法四縁四分種子五性作業受果五位の修行につきて、形の如く、注し申し候。

(唯識)

まず一切の諸法は、みなわが心に離れず。大海、江河、須弥、鉄囲、みずしらぬ他方世界、浄土菩提、ないし一実真如の妙理まで、併せながら我が心の中にあり。 いかに況んや、我が身の頭目、手足、衣服、飲食等をや。心の外に有ると思うは迷乱なり。この迷乱によるがゆえに、無始より以来、生死に輪廻する身となれり。諸法は心に離れずと知りぬれば、生死の輪廻、永く絶えて無上覚王の位に至らずということなし。

されば、誰もみな心の外に有りと思える万の物の形は、ことごとく、これ体性都無の法なり。心を執して実と思うも、また迷乱なり。心を執して心の外に置くがゆえなり。空を執して実と思うもまた迷乱なり。心の外に空の相を見るがゆえなり。このゆえに心の外に有ると覚る相は、色も心も有も無も、皆ことごとく実の法に非ず。この僻事の形を滅ぼし失いて、不思議の智を発し、内に一心を悟るを唯識真実の観となづく。

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(三性)

これに五重あり。その中に遣虚存実の唯識というは、この不思議の一心の中に性あり、相あり。性はすなわち真如の妙理なり。これを円成実性となづく。円満成就して本来凝然なるがゆえなり。相は、すなわち有為の諸法なり。これを依他起性となづく。かの真如の上に、他の縁によりて仮に起れる相なるがゆえなり。いわゆる色・声・香・味・触・眼・耳・鼻・舌・身。内のもろもろの心。資財・資具・舎宅、田園、山林、河海など、これなり。この仮の相を仮の相とも悟らずして、実に有るとおもう、前に当たりて現ずる実有の面影を遍計所執となづく。これ都無の法なり。これすなわち、先に申しつる心の外の僻事の形なり。普くはからい思う、迷いの心の執するところなるがゆえに、遍計所執となづく。

喩えば、縄を見て蛇と思う時、三重のことあり。縄の性は藁なり。藁の上に手足などを縁として仮に起れる形なり。その縄、形きわめて蛇に似たり。これによりて人誤りて蛇と思うことあり。その蛇の形は、ただ、ひがめる心の上の面影にて、体性都無なり。かの縄の形は縁より起こりて仮に有るに似たれども、実の体は無し。実の性は、ただ藁なり。されば、蛇の相はその性、ひたすらになし。縄の相は仮に有り。藁の体は縄の性として、実に有り。円成の理はその藁の如し。依他の諸法は、かの縄の如し。遍計所執は、かの蛇(くちなわ)の形の如し。

この中に依他の様を殊に心に懸けてよく思い開くべきにて候。世間にあらゆる物の色・形・香・味、ないし人の心に至るまでも、皆これ夢、幻、露、電などの如く、あだにかりそめなる法なり。かりそめなるべきゆえは、かくの如し。もろもろの物どもは、併せながら自ら有ること能わずして、みな縁を待ちて生ずるゆえなり。

されば青も青に似たり。実に青きにはあらず。黄なるも黄なるに似たり。実に黄なるにあらず。いづれも皆かくの如し。かかるものを凡夫の心の拙くて、真実に有る物とのみ思うなり。この誤りより事起こりて、物も欲しく、腹も立ち、慢も起こり、疑いもあることなり。この理をよく思い開きなば、自ら遍計所執の体性なきことも知られ、円成の理も真実なりと悟られ、もろもろの煩悩、悪業も、滅び失せんずることにて候。これを遣虚存実の唯識となづく。残り四重、これを略す。

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(百法)

今、この遍計・依他・円成の三つ、三性の法門とは申し候なり。この三性を委しく開き候えば、百法あり、二無我あり。百法というは、依他起性には、つぶさに九十四あり、円成実性には六種の無為あり。これを百法となづく。二無我というは、遍計所執の虚しきことをいうに二あり。補特伽羅無我と法無我となり。

まず依他の九十四法というは、心王は八あり。心所に六の位あり。委しく開けば五十一の心所あり。色法に十一あり。不相応に二十四あり。合して九十四あり。

(心王)

その心王の八というは、一は眼識、色を見る心。二は耳識、声を聞く心。三は鼻識、香りを嗅ぐ心。四は舌識、味わいを知る心。五は身識、身に触ることを、あつし、寒し、柔らかなり、粗し、とも知る心。六は意識、万の見ること、聞くこと、ないし見もせず、聞きもせぬことをも思い案じつづくる無辺法界の心なり。七は末那識。凡夫の心の底に常に濁りて、先の六の心はいかに清く起れる時も、我が身、我が物という差別の執を失せずして、心の奥はいつとなく汚るるがごときなるは、この末那識のあるによりてなり。八は阿頼耶識。これ一切諸法の根本なり。諸法の種子をおさめたもてる心なり。この心なくは、諸法の種子をば誰かこれをたもたん。たもちおさむる所なくは、諸法の種子なかるべし。もし種なくは、いづくよりか生ぜん。先の七つの心はみな種子をたもつこと能わず。道理教文、これを略す。

この八識にとりて、先の六識は起こらざる時もあり。その様、また、さまざまなれども、しばらく人のよく寝入りて夢見るときは、眼・耳・鼻・舌・身の五識、みな起こらざる時なり。夢に物を見、聞き、味わい、あつし、冷たしとも思うは、みな第六識の分別なり。五識の起れるにはあらず。夢も見えぬほどに寝入りぬれば、意識もまた滅しぬ。ただ、かの末那識、阿頼耶識のみあり。されば二の心は、いかなる時も起こらぬということなし。生まるる時も死する時も、覚めても寝ても、長時相続して絶えざる心なり。今、この二の心ありということ、極めて知り難し。中にも第八阿頼耶識は極めて甚深なり。甚細なり。このゆえに小乗浅近の教の中には、これを説かず。大乗最極の教の中にのみ、これを説けり。いわゆる、花厳、深密、楞伽、厚厳等の経、瑜伽、顕揚、荘厳、集量、唯識等の論なり。

(心所)

そもそもこの八識は、心の中の本なるがゆえに、これを心王となづく。この八の王に多くの眷属あり。これを心所となづく。つぶさには心所有法となづく。略して心所という。これも同じく心なれども、さまざま種々に細かなる心は、この眷属とす。これに六位あり。一には遍行。これに五あり。五、異なりといえども、みな心の起こるごとに普く必ずあるがゆえに遍行となづく。二には別境。これに五あり。この五は各々別々の境を縁ずるがゆえ、別境となづく。境というは心の知る処の法なり。縁ずというは物を知るを申すなり。。三には善。これに十一あり。善と言うは、およそ色心の諸法の性をいうに、また三性あり。善性・不善性・無記性なり。無記性というは、善にもあらず、悪にもあらざる性なり。この十一の心所は、その性かならず善なり。かるがゆえに善となづく。四には煩悩。これに六あり。委しく開けば十あり。この十は有情の身心を煩わし悩ますがゆえ、煩悩となづく。五には随煩悩。これに二十あり。この二十は煩悩が等流の種類なるがゆえに、随煩悩となづく。六には不定。これに四あり。この四は善悪等の性も、これが有る所も、心王と共なる様も、みな不定なるがゆえに不定となづく。五と五と十一と六と二十と四と合して、五十一なり。その名をば、みな百法論に説けり。

(遍行)

まず作意の心所というは、心を驚かして起こらしむる心なり。触の心所というは、心を心が知るべき所に、よく触れしむる心なり。受の心所というは、楽をも苦をも、心の中の憂い悦びをも、いづれにもあらざることをも、心に受け取る心なり。想の心所は、殊に物の形を知り弁えて、その種々の名を説くなり。思の心所は、心を善にも悪にも無記にも作り成す心なり。遍行の五というはこれなり。

(別境)

次に欲の心所というは、善をも悪をも無記をも、願いそむる心なり。勝解の心所は、何事もひしと思い定むる心なり。念の心所は、経て過ぎにしことを心のうちに明らかに記して忘れざる心なり。三摩地の心所は、何事にも知らんと思うことに留まりて、散乱せしめざる心なり。これをば、また定の心所となづく。慧の心所というは、万の知らんと思うことの徳失をよく簡び弁えて、疑いを除く心なり。これすなわち智なり。別境の五と申すは、これなり。

この十はみな、善なる時もあり、不善なる時もあり、無記なる時もあり。性は不定なれども、遍行は一切の心に遍して定めて有り、別境は三界の衆生に、みな定めて有り。ゆえに不定の心所となづけず。

(善)

次に信の心所というは、よく常に信を起こすというは、これなり。貴く目出たきことを、深く忍びて願いて、澄み清き心なり。精進の心所は、善を修するに、勇み清き心なり。漸の心所は、身にも恥じ、法にも恥じ、もろもろの罪を作らざる心なり。愧の心所は、世間に恥じて諸罪を作らざる心なり。無貪の心所は、万のことを貪ることの無き心なり。無瞋の心所は、我に背くことあれども、怒ることなき心なり。無癡の心所は、万の事、物の理、おろかなることの無き心なり。軽安の心所は、身にも心にも安く覚えて、うれしき心なり。この心所は、常の時は起こらず。定に入る時、起こるなり。不放逸の心所は、罪を防ぎ、善を修する心なり。常に欲しきままに罪を作るをば、放逸と申す。これに相違して、殊に罪をば恐れ憚り、功徳をば造らんと思う心なり。行捨の心所は、心を平等正直にならしむる心なり。不害の心所は、人を哀しむる心なり。慈悲とは無瞋と不害とを申すなり。無瞋は慈なり。不害は悲なり。善の十一というは、これなり。誰もみな善心を起こす時は、この十、必ず起こるなり。定をしたる人は軽安も起こる、このゆえに十一みな起こる。

(煩悩)

次に貪というは、万の物を貪る心なり。瞋というは、我に背くことあれば、必ず怒る心なり。慢は、我が身をたのみて人をあなづる心なり。無明は、また癡となづく。万の事、物の理にくらき心なり。疑は何事にもその理を思い定むること能わずして、兎角、疑う心なり。不正見は、僻事を強く思い定めて、真の道理を知らざる心なり。煩悩の六と申す心、これなり。

(五見)

これを十に開く様は、不正見の中に五見とて、五の相、相分かれたり。一には薩伽耶見、すなわち我執なり。我が身・人の身、我が物・人の物を、きびしく分かつ心なり。二には辺執見。略しては辺見とも申す。我が身はいつとなく有らんずるように思い、我れ死なん後は永く失せんずるように思う心なり。三には邪見。罪ということも無し、功徳ということも無し、地獄・餓鬼・畜生の果報も無し、人間・天上・浄土菩提の果報も無しと思うなり。すなわち三宝を誹謗する心なり。四には見取見。略して見取ともいう。かくの如き僻事を犯するもろもろの心を、いみじき心なりと思い、あるいはかくの如き僻事をいう人は目出たく悟りたりと思う心なり。五には戒禁取見。略して戒取という。これは外道の立てたる戒をいみじき禁戒なりと思い、あるいは、その戒説く人を貴しと思いて、その戒を守りて、徒に身を苦しむる心なり。世間に外道の苦行というはこれなり。かく開きては十煩悩となづく。

(随煩悩)

次に忿とは、腹を立てるによりて、杖を取りて人を打たんと思うほどに怒る心なり。恨は人を恨むる心なり。恨を結ぶ人はおさえ忍ぶこと能わず、心のうち常に悩まし。悩は、腹を立て人を恨むるによりて、ひがみもとおれて、心のうち常に悩ます。物をいうに、その言はかまびすく、険しく、賤しく、荒くして、腹黒く、毒々しき心なり。覆は、名利を失わんことを恐れて、作れる罪を隠すなり。罪を隠す人は、後に必ず悔い、悲しむことあり。。誑は名利を得んが為に、心に異なるはかりごとを廻らして、かたましく徳ありと顕す偽の心なり。世間に誑惑の者というは、この心増せる人なり。諂は、人をくらまかし迷わさんが爲に、時に随い、事に触れて、かたましく方便をめぐらして人の心をとり、あるいは我が過を隠す心なり。世の中に諂曲の者というは、この心増せる人なり。憍は、我が身をいみじき物に思いておごれる心なり。害は、人を哀れむ心なく、うたてく情け無き心なり。世の中に慈悲の性も無きものというは、この心増せる者なり。嫉は、我が身の名利を求むゆえに、人の栄を見聞きて、深く嫉ましきことに思いて安からざる心なり。ものねたみする人は、この心増せるなり。慳は財宝に耽着して人に施す心なく、いよいよ蓄えんとのみ思う心なり。慳貪のものは、この心増せるなり。無慚は、人にも恥じずして善根を軽くして、もろもろの罪を作る心なり。無愧は、世間に恥じずして諸罪を造る心なり。恥じ無き人と申すは、この無慚無愧の増せる人なり。不信は、貴く目出たきことを見聞くとも、忍び願う心なく、穢れに凝れる心なり。かかる人は多く懈怠なり。懈怠はもろもろの善事の中に怠り、もの憂き心なり。かかる人は不信なり。放逸は、罪を防ぎ、善を修する心なく、恣に罪を作る心なり。こん沈とは、沈みほれたる心なり。掉挙は、動き騒ぎする心なり。失念は、物忘れする心なり。かかる人は多く散乱せり。不正知は、知るべきことをあやまちて知る心なり。心乱は、心を散らし乱する心なり。このゆえにまた散乱の心所となづく。随煩悩の二十というは、これなり。

この中に無明、こん沈と相似して弁え難し。無明は闇く迷えり。沈みほれたるにはあらず。こん沈は、ただ迷えるにはあらず、重く沈みほれたるなり。掉挙は、たとえば一つ事に向かいても、その心騒がしきなり。散乱は、数多のことに心の兎角移りて乱れたるなり。

今、この煩悩・随煩悩は、その性必ず染汚なり。染汚というは、不善と有覆となり。不善というは悪なり。有覆というは、悪まではなけれども、濁れる心なり。この二の性は、みな穢らわしき心あるがゆえに染汚性の法となづく。

(不定)

次に睡眠の心所というは、心を暗からしめ、身を自在にあらざらしむる心なり。人の眠るは、この心所の起こる時なり。悪作は万のことを悔しむ心なり。かかるゆえに、または悔の心所となづく。尋と伺と、物をいわんとて万のことを押し計らう心なり。それに取りて、浅く推度する時をば尋となづく。深く推渡する時をば、伺となづく。不定の四と申す、これなり。

五十一の心所、荒々かくの如し。今、この五十一は、みな心の眷属なれば、八識の心王に随えり。その随う様は、眼識には三十四の心所あり。いわゆる遍行の五、別境の五、善の十一、煩悩の中に貪・瞋・癡、随煩悩の中に無慚・無愧・不信・懈怠・放逸・こん沈・掉挙・失念・不正知・心乱、これなり。耳識にも、ないし身識にも、みなかくの如し。意識には五十一ながら、皆有り。末那識には十八の心所あり。遍行の五、別境の中に慧、煩悩の中に貪・慢・無明・我見、随煩悩の中に不信・懈怠・放逸・こん沈・掉挙・失念・不正知・心乱、これなり。阿頼耶識には、ただ遍行の五のみあり。

これが中に、煩悩・随煩悩、起こる時は、相応の心王も遍行も、別境あらばそれも、もし不定あらばそれも、皆ことごとく染汚性なり。善の心所の起こる時は、これらの法、みな善性なり。煩悩・随煩悩も起こらず、善の心所も起こらず、無記なる時は、これらの法、みな無記なり。八識に取りて眼識ないし意識、この六は善なる時もあり、染汚なる時もあり、無記なる時もあり、時に随いてその性、ともかくも不定なり。末那識はいつとなく染汚性なり。阿頼耶識はいつとなく無記性なり。その各々の相応の心所も、またかくの如し。

心王の心所を具したる一具をば一聚となづく。一聚というは一むらなり。されば八識は八村の心にて候なり。たとえば八人の王、各々眷属をうち具し、うち具しして八村まであらんが如し。然るにその一村のうちの心王・心所は必ず同じ性にて、善なればみな善に、染汚なればみな染汚に、無記なればみな無記なり。

また五識と第八識とは、いずれもありのままに物を知るなり。末那識はいずれもひがめる心なり。意識はありのままに知る折りもあり、ひがめる折りもあり。八識の心王、五十一の心所のありさま、大旨かくの如し。

(色)・・・(五根)

次に色法に十一ありと申すは、その名ども、また百法論にあり。その中に眼根ないし身根を五根となづく。先に申しつる眼識ないし身識の所依の根なり。所依の根というは、心の物を知る時、これを力として能く知る。たとえば光りある球をもって物を照らして、これをもて見るが如し。五根は球の如し。心の物を知るは、能く見るが如し。知らるる物は、見らるる物の如し。眼識・耳識なんどいうは、眼根・耳根なんどいうは別々の法なり。識というは心法なり。根というは色法なり。この根は人の実の目・実の耳・実の鼻・実の舌・実の身なり。当時、顕わに見ゆる眼耳等をば扶根となづく。かれは色・香・味・触の類なり。実の扶根・眼耳根等に非ず。実の眼耳等は、顕わに見ゆる眼耳等の底に、清浄精妙なる物の、玉の様なるがあるなり。これを正根となづく。今の五根、これなり。

(五境)

次に色ないし触をば五塵ともなづく、五境ともなづく。これはかの五識が五根によりて知る所のものなり。いわゆる眼識は眼根によりて色を見る。色というは青・黄・赤・白の色なり。耳識というは耳根によりて声を知る。ないし身識は身根によりて触を知る。次第にかく当てて知るべし。

(法処所摂色)

次に法処所摂の色というは、かの第六意識の無辺法界のことを知る中にある色法なり。常には青く、黄に、赤く、白き、なんどをこそ色とは申せども、法門には声をも、香をも、味をも、触をも、みな色と申すなり。その中に青・黄・赤・白は色の義、顕わなれば顕色と名をいう。声・香・味・触は色義なお隠れたれば、みな別々の名を立てるなり。

今、この心王・心所・色法の中には実法あり、仮法あり。いずれもみな依他如幻の法なれば、かりそめの相用なれども、仮なる中にも重重の相用あり。かるがゆえに己と種子あるほどの法をば実法とす。その実法の上にわきて出して別の体なきものをば仮法という。仮法と無法とは替わりて候なり。つやつや無きものを無法とす。実あるにもあらず、またつやつや無きにもあらず、かりそめなる法は仮法という。先に申しつる遍計所執は無法にして候が、仮法は依他起の中に開ける法なれば、無法にはあらず。

(不相応行)

次に不相応に二十四とは、また百法論に列ねたる二十四なり。これみな仮法なり。二十四を不相応となづくることは、五蘊と申す法門あり。色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊、これなり。この五が中の第四の行蘊には、もろもろの心所並びに得・命根・衆同分等の法をおさめたり。その中に心所と心王と相応す。相応すというは、それと親しく相伴う義なり。この得等の二十四は心王と相応せざるがゆえに不相応となづく。さればつぶさには心不相応行法となづく。この二十四は心にも非ず、色にも非ず、色法・心法が上にあらゆる(あるところの)義分なり。また別体なし。ゆえに二十四ながら、みな仮法なり。

しばらく得というは、人の物を得たると申すは、その得られたる金銀の物も正しき得に非ず、能く得る人も正しき得に非ず、またとらする人も得に非ず。能く得る人と、得らるる物と寄り合える時、その中に得たりということは候ぞかし。さればこれは仮法なり。

命根とはいのちなり。命というものは別体なし。ただ生きたる間、一期の身心を保てるが用なり。残りの衆同分・異生性なんども、みな加様の事なり。

人の身、人の心をはじめとして、馬・牛・蟻・螻・食物・着物・舎宅・田園・山・河・石・瓦・金銀・日月・星宿・雲霧・雨土、これに限らず、一切もろもろの物の体を案ずるに、八識の心王・五十一の心所・十一の色法に離れたる物は一も無し。二十四の不相応は、これが上に立てたるなり。ものに種々の名あり。ものに種々の数あり。それもこの不相応なり。四方も四角も四季も十二時も、みなこの不相応なり。さらに別の体あることなし。よくよく案じ解くべし。依他起性の中に九十四の法のありさま、荒々かくの如し。

(無為)

次に円成実性に六ありと申すは、六無為なり。六の名、また百法論のごとし。この六は体性、常住にして他のために為作せられず。為作とは作りなす義なり。他とは縁なり。

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(四縁)

その縁に四あり。因縁・等無間縁・所縁縁・増上縁なり。
因縁とは、種子は現行を縁とす、またやがて種子を縁とし、現行は種子を縁とするをいうなり。この縁は縁の中に尤も親しき縁なり。因体やがて果となるゆえなり。その事、奥に種子のことを申す所に申すべし。等無間縁とは、心の起こるが滅する時、次の心、引き起こすをいうなり。後の心は前の心を縁として生ずるがゆえなり。所縁縁とは、心の知る所のものをいう。心は知らるるものを縁として生ずるゆえなり。増上縁とは、この外もろもろのものの縁なり。身は心を縁とし、心は身を縁とし、我は人を縁とし、人は我を縁とし、有情は非情を縁とし、非情は有情を縁とし、非情の中に舎宅・山海・草木等は大地を縁とし、大地は三輪を縁とし、舎宅の中に垂木、梁、牆、さまざまのものどもの互いに縁となり、山海・草木の中に風雨・水石・根茎・枝葉・花果さまざまのものどもの互いに縁となり、ないし人の身の四肢・五体、万の物ども互いに縁となるよう、無量無辺なり。加様の縁共、みな増上縁なり。かくの如く四縁に依るは、すなわち他に作り為さるるなり。かかる法は、みな無常なり。

真如常住の妙理は、かくの如きの四縁に作り出されたるに非ず。ゆえに無為となづく。ただ真如は一味平等なり。実には六の体あるにはあらざれども、位に寄せ、義相に依せて六無為を開く。

(虚空無為)

もろもろの障礙を離れたること虚空に似たるがゆえに、虚空無為となづく。

(択滅無為)

簡択の力によりて、もろもろの雑染を滅して、究竟して証会するがゆえに択滅無為となづく。簡択というは智慧なり。雑染というは煩悩なり。証会というは、能く明らかに知るなり。

(非択滅無為)

また智慧の簡択に依らざれども、真如の体は本より清浄なり。あるいは縁欠くるときに自ずから不生の理、顕れたる。これを非択滅無為となづく。縁欠くと申し候は、何物の生ずべき様の縁欠けて、自ずから生ぜず成ることの候を申すなり。

(不動無為)

また苦受、楽受の滅するとき顕わるる無為を不動無為となづく。苦受と申し候は、身に苦しみを受くる心、楽受と申し候は、身に楽しみを受くる心なり。この二は前に申し候つる遍行の心所の中の受の心所に摂む。

(想受滅無為)

また想受の起こらざる時、顕わるる無為を想受滅無為となづく。想と申すは、先の遍行の心所の中の想心所なり。受と申すは、すなわち受の心所なり。およそこの心所に五受と申して、五つの位あり。憂受・苦受・喜受・楽受・捨受なり。憂受と申すは、心の中に憂えを受けて、いまだ身の苦しみには及ばざる心なり。喜受と申すは、心の中に喜びを受けて、いまだ身の楽しみには及ばざる心なり。捨受と申すは、楽しみにも非ず、苦しみにも非ず、憂えにも非ず、喜びにもあらざる時、万のことを請けて知る心なり。苦受と楽受は先々に申し候。今、受起こらずと申し候は、この五受、みな起こらざるなり。

(真如無為)

今、この五の無為は、みな真如無為の上に立て顕す。法性は真実如常なるがゆえに、真如無為となづく。これを六無為と申し候なり。真勝義の中には、真如という名も、なおこれ仮に説ける名なり。実の法性は有りともいうべからず。空ともいうべからず。真如ともいうべからず。不可思議なるがゆえに、言語道断なるがゆえなり。

おおかた、心王に八つ、心所に五十一、色に十一、不相応に二十四、無為に六、合して百法なり。百法論には、この百法と、二無我との名を列ねて候なり。

(二無我)

二無我は先におろおろ申し候おわんぬ。まず補特伽羅(<pudgala=人; サンスクリット語)無我と申し候は、我の相を空ずるなり。我の相と申し候は、我執(がしゅう)の前に有りとおぼゆる相なり。我執と申すは、有情とて、人にても、馬にても、牛にても、加様の心有るものあるを、実に有りと執して、我人の差別を強く思える心なり。これは僻事を思うなり。そのゆえは、人というものは、ただもろもろの色と心との寄り合いたるばかりなり。長短、方円、細く太きも、みな色の類なり。いかにに況んや、青・黄・赤・白・声・香・味・触をや。頭より趺にいたるまで、皮より骨にいたるまで、ただこれらが寄り合いたるなり。この外に人の体なし。たとえば材木の寄り合いたるを家となづく。材木の外に家というものなし。人の身もかくの如し。多くの心、多くの色の寄り合いたる外に、何も無きなり。かくの如く悟るを、補特伽羅無我とは申し候。

さてこの寄り合いたる多くの色心の一一の体を、実に定めて有るものぞと執する心を法執(ほっしゅう)とは申し候。これもまた僻事なり。そのゆえは、この諸法はみな因縁より生じ、増上縁より起こる。あるいは等無間縁に引かれ、所縁縁に保たれたり。一つとして我と有るもの無し。併せながら他力を蒙りてのみ有り。他と申すは縁なり。その縁もまた別の物に非ず。すなわち、これ諸法なり。あるいは諸法、互いに作り成せり。かくの如く、みな他の力にて有る物なれば、有りというべき様も無し。たとえばいたりて貧しき人の、助けを蒙りて世に有るは、世に有りというべきにも無きが如し。色心の諸法も、またかくの如し。有るに似たれども、実をいえば無し。かくの如く悟るを、法無我とは申し候なり。

能くこの二無我を悟れば、真如の理も顕わる。真如は無相なるがゆえに、必ず空を観じて、これを顕す。真如の理の空なるにはあらず。空に非ずといえども、その物としてあることも無し。その物としてあること無しといえども、その性はまた真実なり。詮ずるところ、真如の理と申すは、物のことわり、真実なるを申し候なり。諸法は理を以て保てり。理無くては、諸法、如何でか有らん。

このゆえに真如は諸法の性なり。性は則ち無為なり、円成なり。依他は諸法の相なり。相は即ち有為なり、体事なり。その体事は真実に非ず。有に似たれども、実の体事は無し。これを実と思いて体用を執するは、我法、二執なり。これを除くは二無我なり。されば二無我は百法の上に妄執を除かんがために立てたるなり。

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(四分)

そもそも今、この百法を見るに、唯識の理、なお信じ難し。そのゆえは、識というは、まさしく心王なり。心王の外に、すでに心所あり、色法あり、不相応あり、無為あり。まさに唯一心にあらざるをや。この疑いを開く様は、心所は同心なり。心王が伴類として心王が外に有るに非ず。色法は心心所が所変として心に離れず。不相応は色心が義分なれば心に離れず。無為は色・心・不相応が実性なれば心に離れず。ゆえに一切唯識なり。

これが中に、色法を心心所が所変と申し候様は、先に申し候つる八識の心王と五十一の心所とに、一一みな四分あり。四分と申すは、相分・見分・自証分・証自証分なり。眼識にも、この四分あり。耳識にも、この四分あり。ないし阿頼耶識にも、この四分あり。五十一の心所もかくの如く、この四分あり。

この中に自証分と申すは、心の正体なり。残りの三分は心の用(はたらき)なり。用と申すは、体にそなわれる功能なり。いわゆる相分は、心の功能の中に知らるる功能なり。心というものは、物を知るほかに別の様なし。もし知らるる物なくば、何をか知らんや。この理によりて、心の体、転変して知らるる物となる。この知らるる用(はたらき)を相分となづく。もろもろの色法は、この相分の中に有り。されば色法は心に離れざるなり。見分と申し候は、能くこの相分を知る用(はたらき)なり。知らるる物有りとも、まさしくそれを知る功能無くんばいかでか知らんや。ゆえに心の体、転変して、能く物を知る功能を起こす。この能く知る用(はたらき)を見分となづく。証自証分と申し候は、能く自証分を知る功能なり。自証分は、心の体として中に有りて、能く見分をも知り、能く証自証分をも知るなり。

心というものは明浄なること、たとえば明らかなる鏡の如し。己が用を知るのみならず、かえりて能く己が体をも知るなり。かくの如きの不思議の理、我が宗のみ談ずる所なり。重ねて委しくいわば、たとえば明らかなる鏡をもって物の形を照らす時、必ず鏡の中にその形、映れり。その影は鏡の外にあるが如し。ただ鏡の体の清きによりて、物に向かうれば必ず照らすゆえに、照さるる用として現ずる所なり。その鏡の光の親しく照らす所は、映れる影なり。疎く照らす所は、鏡に向かえる物の本体の形なり。鏡の用は清く磨ける銅の功能なり。鏡の体は清く磨ける銅なり。されば映れる影と、これを照らす光とは、鏡の用なり。鏡に離れて物体なし。心の物を知るありさま、かくの如し。知らるる物の、心のうちに浮めるをば、相分となづく。鏡の影の如し。その相分の本体の形をば本質となづく。その本質はまた、阿頼耶識の相分なり。阿頼耶識の相分に本質なし。能く知る用の、心の上に起こるをば見分となづく。鏡の光の如し。能く浮め、能く知る用を起こす体をば、自証分となづく。鏡の体の清く、銅の如し。

しばらく眼識起こりて、青・黄等、色を見るとき、眼識の前にその色、浮み顕わるる。これは相分なり。その色の本質は、則ち第八識の相分なり。眼識の能くこれを見る用は、見分なり。この見らるる色の用と、見る見分の用とを起こすは、眼識の体なり。体は則ち自証分なり。これに随える心所も、みなかくの如し。耳識の声を聞き、鼻識の香を嗅ぎ、ないし意識の万のことを思惟分別する時の心王・心所のありさまも、みなかくの如し。次第に思し召し合わせらるべく候。

ただ末那、阿頼耶識の物を知る様候、いまだ申し候わず。末那は阿頼耶の見分に向かいて、これを我我と思う。この外に物を知ること無し。無始より以来、かくの如く、阿頼耶識は種子と五根と器界とを知る。種子と申すは、諸法の種子なり。五根と申すは、色法の十一の中の眼・耳・鼻・舌・身なり。器界と申すは、山河・大地・舎宅・田園等なり。末那も阿頼耶も四分のありさま、同じ事なり。これに随える心所どもも、また然なり。されば色法も一心に離れず、一切唯識なり。

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(種子)

次に種子のこと、おろおろ申すべし。まず種子というは、いかなるものぞ。いづくとて出来たる。如何様の物を生ずるぞ。種子と申し候は、色心の諸法の気分なり。色にも心にも、各々実法あり、仮法あり。その中に実法はみな、種子より生じて、種子を薫ず。

薫ずと申すは、己が気分を留めて置くなり。留めて置く様は、まずしばらく眼識起こりて色を見るかとすれば、やがて滅す。滅するかとすれば、やがて生ず。生ずと申し候は、やがて色を見るなり。かくの如く、念念、生滅する間、その見らるる色も、見る眼識も、生ずる時は必ず各々が気分より生じ、滅する時は必ず各々が気分を残す。残す所の気分を、色も心もみな隠れ沈みて、その形を見難し。併せながら阿頼耶識の中に落ち集まる、この気分を種子(しゅうじ)と名づけて、この種子より色心の生ずるをば現行(げんぎょう)となづく。色は色の種子より現行し、心は心の種子より現行す。必ず己が気分より現行して、他の気分より現行せず。現行すと申すは、種子にてあるときは隠れ沈みたるが顕れ起こるを申すなり。。眼識の如く、耳識の起こりて声を聞き、ないし末那識が阿頼耶識の見分を縁ずるも、かくの如く種子を薫ずるなり。

(刹那生滅)

およそ有為の諸法は、みな、刹那刹那に生滅す。刹那と申すは、時のいたりて短きなり。髪筋切るよりも、なお速やかに、電の光よりも、なお疾し。時の次第に過ぎ行くをもって、御心得あるべく候。

過ぐるは、すなわち滅するなり。これを過去となづく。来たるは、すなわち生ずるなり。これを現在となづく。いまだ来たらざる後々をば、未来となづく。

何も物の過ぎぬ事やは候。しばらくもゆらえて、行かぬほどというものはなし。天地・山河のいつともなく有るようなるも、今日の日は、昨日の日には非ず。夕べ、朝のには非ず。只今のは、それより先のには非ず。かくの如く、次第次第に責め寄せてみるに、滅することの速さは、喩えていうべきものなし。世の中に久しくおぼゆる物すらかくの如し。まして余のものは申すに及ばず。ただし、かくの如く滅すといえども、常に有りと見ゆるものは、滅すればやがて同じ形にて生ず。その生ずること速やかなることもまた、滅するが如し。ゆえに常に有りと見ゆるなり。

たとえば水の上に降る雪の、降ればやがて消え、消ゆればやがて降る。かくの如く、かくの如くなるがゆえに、消ゆといえども、水の上に常に雪の有るように見ゆるが如し。世の中に人の無常なりと思えるものは、滅して後、生ずるが如く、おそく、またやがて生ずれども、同じ形にても生ぜず。先には替わりて生ずるものなり。されば滅することの速さは、一切の有為の法、みな同じことなり。生ずることの遅さと速さと、物にしたがいて不定なり。永く生ぜで止むものも有り。遅く生ずるものもあり。やがて生ずるものもあり。ある時はやがて生じ、ある時は遅く生じ、時に随いて不定なるものあり。いつも同じように刹那刹那に生ずるものもあり。凡夫迷乱して常住なりと思えり。実には、皆々無常の法なり。色も心も、みな然なり。

心の中に末那・羅耶は、絶えず生ず。意識は打ち負かせては絶えず、希に起こらざる時もあり。五識は滅してやがて起こること希なり。時々はさることもあり。

かくの如く有為の諸法の滅するたびごとに、各々が気分を残し置くを、種子を薫ずとは申し候。されば万のものは、みな我らが心中にある第八識の中の、各々が気分より起こり出で、心とも成り、身とも成り、衣服・飲食とも成り、家とも、財とも、天地・国土・山河・草木とも成るなり。


(二巻抄 下)

阿頼耶識の種子をも、阿頼耶識の中にたもてり。ただ阿頼耶識は種子を受けたもつ法にて、種子を薫ずることはなし。阿頼耶識の種子をば意識・末那識が熏ずることにて候なり。その様も事長く候えば略し候ぬ。

そもそも、今申し候、種子は新熏種子なり。始めて薫じ出すゆえに、新熏種子となづく。この外、本有種子あり。本有種子は、始めて薫じ出せるに非ず。第八羅耶の中に無始法爾として、その気分あり。これに二類あり。一には有漏の法爾種。二には無漏の法爾種なり。彼にもこれにもともに、色心万差の種ども、細々とみな有り。

今、この本有・新熏・有漏・無漏のもろもろの種子も、みな有為の法なれば刹那生滅す。滅する時は、すなわち、各々が後の類を引き起こし、いわゆる色の種子は滅する時、色の種子を引く、心の種子は滅する時、心の種子を引く。色の中にも多くの色あり。心の中にも多く心あり。みなかくの如く、我が類を引く。このゆえに諸法の種子、絶ゆることなし。たとえば早き河の流れの速やかに過ぐれば、ともに流れつづきて絶えざるが如し。

されば種子は現行を生じ、現行は種子を生ず。種子はまた種子をも生ず。この三の縁は、因の体、すなわち転じて果となり、その縁、尤も親し。先に申し候つる四縁(→四縁)の中の因縁は、この三の因縁なり。新熏・本有の種子の相、略してかくの如し。

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(五姓)

その法爾無漏の種子の中に仏の種子あり、独覚の種子あり、声聞の種子あり。これを三乗の種姓となづく。この三乗の種姓を具すること、人に随いてさまざまに不同なり。ある衆生は仏の種子のみ有り。この衆生は声聞にもならず、独覚にもならず、直ちに仏となる。これを頓悟大乗となづく。ある衆生は独覚の種のみ有りて、直ちに独覚となりて無余涅槃に入る。ある衆生は声聞の種のみあり。これは直ちに声聞となりて無余涅槃に入る。この二人をば定姓二乗となづく。ある衆生は三乗の種子みなながらあり。これはまず声聞にも独覚にもなりて後に成仏す。これを漸悟の菩薩となづく。ある衆生は三乗の種子みな無し。この人は、いつとなく凡夫にて果つるなり。これを無性有情となづく。

無余涅槃と申すは、身も心も、みな滅び失せて、またいづくにも生まれず、永くさめ果つるなり。これ則ち有為の諸法はみな失せて、無為常住の法性の真理のみになるなり。これをいみじきことにして、声聞・独覚は、かくならんと願うなり。寂滅為楽なれば、実に、これもいみじき果なり。身も心も永く失せぬと聞けば、心細きようにおぼゆるは、凡夫の心の拙くして、身も愛し、世を貪る煩悩に惑わされて、涅槃寂静、無為常住の楽を恐るるなり。

もしそれ、我が身失せ、世は永く絶えぬとも、それは苦しからず。悟りなば、衆生利益の徳の永く欠けなんことの心憂ければ、声聞・独覚にはならじ、仏にならんと思わんは、目出たき心なるべし。これ則ち大菩提心なり。

まさに知りぬ、浄土菩提に至りなば、身も楽しく、世にも有らんずれば、それに到らんと願うは、正しき浄土菩提を願うには非ず。ただ生死の輪廻を願うなり。生まれては何かせん。生者は必ず死す。楽しくては何かせん。有為の楽は必ず尽る期あり。浄土の楽しみ、この世の楽には異なるがゆえに、菩提の果は生まれて到る所に非ざるがゆえに。されば衆生済度のために二乗にはならじ、仏にならんと思うべきにこそ候なれ。この心は即ち浄土に生ずべき因なり。衆生済度する間には、身を失い、命を滅ぼすこと幾ばくぞ。衆生のためには、たとい身智永く滅ぶとも、いとわじ。さなりても、利益だに有らば、痛みとするに足らず。然れども、さなりなば衆生利益の事の叶うまじければこそ、仏には成りたく候べけれ。ここをもって明らかに知りぬ、菩提心無くては浄土に生まれずということを。

(往生についての疑問)

ただしこれにつきて尋ねて曰く、衆生の浄土を願うは楽しからんとばかりにてこそあれ。今、聞くようならば、浄土に生まれて何かせん、ただ穢土に有りなん。衆生済度は穢土にてなお勝れたるがゆえなり。

この難を答えていう、誰かいう、浄土を願うこと、欲楽を本とするとは。欲楽のために生まれんと思わんものは生ずべからず。かえりて穢土に生まれて生死に輪廻す。欲楽は穢土の相なるがゆえに、浄土の楽は愛欲の楽に非ざるがゆえに。

これによりて浄土に生まるることは二の願によるべし。一には見仏聞法のため浄土に生まれんと思う。穢土には見仏聞法、難きがゆえに。その見仏聞法は即ち衆生のためなり。二には衆生利益のために穢土に生まれんと思う。浄土には受苦の衆生無くて、大悲の所度欠けたるがゆえに。その衆生利益は則ち大菩提のためなり。かくの如く願うは、浄土に生ずる業因となる。ただし菩提心に無量無辺の階級あり。その大旨は、ただ慈悲正直なり。我らも、好まば、などか浄土に生ぜざらん。五姓各別のついでに、私の所存、僻事にもやあらん、おろおろ申し候。

(無性有情についての疑問)

問いていう。五姓各別の義につきて、我が身も定性・無性にてもやあるらん。さらば浄土菩提を願うても由なし。いかなりとても叶うまじきことなれば。かくの如く身を疑わば菩提心をおこす人あるべからず。いかがして我が身、一定、仏になるべき衆生にて有りということを知らんや。

答えていう。すべからく五姓の権実を定め候べし。豈、済度の方便を論ぜんや。五姓、もし真実ならば、密意の方便をめぐらして衆生の発心を勧むべし。それ何の痛みかあらん。むしろ愚者の疑網、これを恐れて、法門の実理を談ぜざらんや。いかに況んや、形の如くも唯識の教えを習い、また悟らんという願いをもおこすほどの人は、定んで仏の種子を具せる衆生なり。そのゆえは、深密経に定性・無性はこの教機にあらずと習えるがゆえなり。誰か有智の人が金言を信ぜずして、徒に生死に輪廻してあらんや。また法華経を読み、その心をも覚らんほどの人は仏の種子無からんや。法花と唯識とは、またこれ一体なり。その様も略すべし。種子のありさま、大方かくの如し。

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(作業と受果ー業種子と名言種子)

この外、業の種子、名言の種子ということ候。名言の種子と申し候は、上に申し候つる種子なり。善の種子は善の現行を生じ、悪の種子は悪の現行を生ず。無記の種子は無記の現行を生じ候を申し候なり。業の種子と申し候は、悪を起こせば悪の種子を薫ず。その種子の力によりて三悪道に生まる。善根を発せば、善心の種子を薫ず。その種子の力によりて人中・天上に生まるるを申し候なり。されば、これも先の種子に離れたることは候わず。されども、その種子より起こる果の様、少し替わりたるなり。三悪趣・人中・天上の体は阿頼耶識なり。阿頼耶識はその性、無記なり。これを惣報となづく。この外に別法ということあり。それも無記なり。このゆえに業の種子は、善の種子の力によりて無記の果を起こし、悪の種子の力にても、また無記の種子の力にても、その(無記の)果をも起こし候なり。委しくは事長く候。

(仏の種子)

それに取りて、仏の種子ある人の修行して仏になる時、心の起こり、悟りの開けまかり候様は、まず仏になるべき種子も、ただ種子一つには候わず。その種さまざまに相別れたり。まず八識の種子あり。その各々の心所の種子あり。心所は二十三あり。煩悩の六、随煩悩の二十、不定の心所の中に睡眠・悪作、この二十八は無し。これらはみな有漏に限る法なり。

(四智)

これらが中に、五識をば成所作智となづく。意識をば妙観察智となづく。末那識をば平等性智となづく。阿頼耶識をば大円鏡智となづく。そのゆえは、無漏の眼識ないし身識の五は、神通変化の所作を為すこと勝れたり。このゆえに成所作智となづく。無漏の意識は、妙に機根を観察して説法断疑の用(はたらき)勝れたり。このゆえに妙観察智となづく。無漏の末那識は、永く我執を離れて、平等の法性を証するがゆえに、平等性智となづく。無漏の第八識は、永く阿頼耶識の名を離れて、一切の諸法を浮めること、大いに明らかなる鏡の、一切の質(かたち)をうつすが如し。ゆえに大円鏡智となづく。

そもそも識とは心王の名なり。智とは心所の中の慧の心所なり。有漏にも識・智、みな有り、無漏にも識・智、みな有れども、有漏の位には識こわき(強き)がゆえに、殊には識となづく。智も見えず、心所も無きにはあらず。無漏の位には智こわき(強き)がゆえに、殊に四智となづく。識も、また心所も無きには非ざるなり。無漏の八識には、八つにみな、一一に慧の心所あるゆえなり。

この外、もろもろの眼・耳・鼻・舌・身、色・声・香・味・触なんどの種子、みな有り。その性、みな善なり。このもろもろの無漏の種子は、阿頼耶識に離れずといえども、しかも阿頼耶識の知るところにあらず。

(三品の無漏)

それに取りて無漏には三品の無漏ということ候。三品と申すは、下品、中品、上品なり。下品と申すは見道なり。見道と申すは、はじめて無漏の智の起こりて、粗き障りを断ずる時なり。中品と申すは修道なり。修道と申すは、無漏智の重ねてなおなお起こりて、細やかなる障りを断ずる時なり。上品と申すは仏なり。もろもろの障り、みな断じ尽くして悟りの極まる位なり。この三を、三品の無漏とは申し候なり。

上に申し候つるもろもろの無漏の種子を、この三品に分かちて当て候様は、下品の種子には、妙観察智・平等性智の種子のみあり。その相応の心王・心所、及び所変の色法の種子、みなこれが中に有り。その外の種子は無し。中品の種子も、またかくの如し。下品の妙観・平等の二智には、各々みな二十一の法あり。妙観察智には二十一の外に、尋の心所と、伺の心所と有り。ゆえに惣じて二十三あり。上品の種子には四智の種子、みなあり。心所はいずれにも二十一みなあり。尋伺は仏には無きがゆえなり。

五根・五境の種子もみなあり。如来の三十二相、八十随好、無数の大光明、無辺の仏土等も、みなことごとく、この中に有り。無漏の色・声・香・味・触に離れざるがゆえなり。されば紺頂金容の姿、丹果青蓮の粧い、花台玉楼の構え、八功七重の飾り、併せながら我が心中にあり。いかに況んや、法性清浄にして無数量の微妙の功徳、本来具足せるをや。我が身即ち仏なり。この心、即ち浄土なりと観ぜんも、まったく相違なし。

然れども我が心ながら、我が心を使うこと能わず。無明の迷いは闇の如くに暗く、薩伽耶見の執は石の如くに堅ければ、観ずといえども明らかならず、久しからず。たとえば深き闇の風激しきに、幽なる燈を持ちて行くが如し。須臾にして滅し、闇昧にして拙し。いかに況んや眼を仏教に隔て、生を辺鄙に受くる輩をや。いかに況んや、地獄・鬼畜の衆生をや。このゆえに無上大覚の種子、徒に沈み埋もれて、現行を生ずること能わず。栴檀の種の土の中にありて、さまざまの草の穢らわしきものに埋もれて、いまだ生い出でざらんが如し。

然るを、根熟し、時至れる人、衆生のために仏にならん、菩提のために衆生を利せんという心強く起こりて、寝ても覚めても忘るる時なく、生々世々動くことなければ、我と教えを聞きてもみ、人の説をも聞きて、この三品の無漏の種子、ようやく潤い萌す。かの栴檀の種、生い出べき時が近づきて、雨露の潤いを被れるが如し。

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(五位の修行)

かくのごとくして、その心、深く、堅く成り行けば、教を学し、行を修するに随いて、智慧の位、次第に進み、慈悲の徳、次第次第に重なりて、一大無数劫を経ぬれば、凡夫の分斉の悟りは、みな極まりぬ。無漏の種子、悉く潤える中に、下品の無漏、すでに生じなんとす。しかも、いまだ生ぜず。始めて堅固の菩提心を発ししより以来、この位に至るまでを、地前の菩薩となづく。いまだ十地に至らざるゆえなり。

(資糧位・加行位)

この一大無数劫が間、悟りの深く成り行く重重を申すに、三十心ということ候。いわゆる十住・十行・十廻向なり。この中に、第十の廻向の終わり方に加行の位を開く。四善根ともなづく。煗(なん)善根・頂善根・忍善根・世第一法、これなり。この四の位を明得定・明増上・印順定・無間定ともなづく。これより外の三十心をば、みな資粮の位となづく。仏道の粮をたくわうるゆえに、資糧となづく。その終りは、殊に見道の方便なるがゆえに、加行となづくるなり。

(煩悩障・所知障)

今、この地前には、もろもろの障り多くこれを伏す。障りと申すは、煩悩障と所知障となり。煩悩の様は先に申し候ぬ。随煩悩をもこれに摂む。所知障と申し候は、かの煩悩・随煩悩の一一の法の底に、体に惑える心あり。煩悩より断じ難き障りなれども、煩悩の外に別体あるにあらず。ただ煩悩の底にかすかに深き分を、所知障とは申し候なり。

たとえば夜、杌(切り株)を見て人と思う時、杌(切り株)と知らぬ心と、人と思う心と、二重なれども、人と思う心の外には杌(切り株)と知らぬ心なし。ただ用に惑うと、体に惑うとの二重なり。煩悩・所知の二障も、またかくの如し。煩悩は人と思うが如し。所知は杌(切り株)を知らざるが如し。貪も、この二重あり。瞋にもこの二重あり。ないし二十の随煩悩にも一一に、みなかくの如し。

(分別の煩悩・倶生の煩悩の断と伏)

この煩悩に粗き類あり、細やかなる類あり。荒きは分別の煩悩となづく。その底の所知障をば、やがて分別の所知障となづく。今、この分別の二障をば、見道に断ず。細かなるをば倶生の煩悩となづく。その底の所知障をば、やがて倶生の所知障となづく。今、この倶生の二障をば修道に断ず。断ずと申すは、無漏の悟り開くるをば、煩悩・所知の二障、永く滅び失せるを申し候なり。伏すというは、いまだその種子を失うには及ばず。種子はなお有れども、智慧の力によりて、現行の起こらざるを申すなり。今、地前の菩薩、もろもろの障りを多く伏すというは、分別の二障をば資糧の位に漸く伏し始めて、加行の位に伏し終わる。倶生の二障をば、加行の位に漸く伏し始めて、地前にはいまだ伏し果てず、地上に伏し果つるなり。地上と申すは、初地已上なり。その様、次に申すべく候。されば地前、一大僧祇劫が間には、障りを伏して、いまだ断ぜざるなり。

(僧祇劫について)

僧祇(サンスクリット語 asamkhya、数えられない)劫と申し候は無数劫なり。無数劫と申し候は、たとえば広さも高さも八百里にはばかりて候わん石を、天衣の極めて薄く軽きにて、希に撫で撫でし候わんずるに、石の次第につい失せて、物もなくならんまでの久しさを、一大無数劫とは申し候なり。地前の久しさはこれにて候。

(見道−通達位)

かくしつつ凡夫の分斉の悟り極まりぬれば、無漏の種子、ついに始めて下品の現行を生ず。これ則ち、下品の妙観・平等の二智なり。この位のはじめて真如の理を悟り、能く分別の二障を断ず。これを見道となづく。

これにまた重重あり。一心真見道、三心相見道、十六心見道、次第につづきて起こること、十地の中の初地の始めなり。これより後を聖者となづく。地上菩薩となづく。

(十地)

十地というは、歓喜地・離垢地・発光地・焔慧地・極難勝地・現前地・遠行地・不動地・善慧地・法雲地、これなり。初地というは、初めの歓喜地なり。今、この地と申すも、悟り開きて漸漸に仏に近づく心の位、重重を十に分くるなり。一一の位の中に、各々多倶胝百千の大劫を経候えば、初歓喜地といわるる間も、ゆゆしく久しく候。見道は三重なれども時分短きがゆえに、見道を出て修道に入りても、なお初地の中なり。

(修道−修習位)

修道に入る時は、妙観・平等の二智、重ねて起こるなり。則ち中品の無漏の種より生じ候なり。その悟り、うたた明らかにして、先に申し候つる倶生の惑を断じ始むるなり。惑とは障を申し候なり。この倶生の惑にとりて、煩悩・所知ある中に、菩薩は倶生の煩悩をば第十地の終わりに仏に成るとき断ず。それより先に修道に入りてより以来は、漸漸に倶生の所知障を断じ候なり。されば見道より出て、なお初地まである間も、倶生の所知障を断ず。初地より第二地に入り、第二地より第三地に入り、ないし第九地より第十地に入るにも、次の地に入る毎に、その次の地の障りとなる倶生の所知障を、次第に一一に断ずなり。

かくしつつ第十地より仏に成る時は、仏果の障りというものを断ず。仏果の障りと申すは、断じ残せる倶生の所知障と、わざと断ぜで置きたる倶生の煩悩となり。この二の障り、能く仏果を障うるがゆえに、正しく仏に成る時、これを断ずるなり。菩薩の倶生の煩悩をおさえて、十地の間、断ぜざることは、一には十地の障に非ざるがゆえなり。二には衆生利益のためなり。この外にもよし。その様は略し候。

十地には殊に勝れたることを申しそうろわば、各々一つの行を修し、一つの障を断じ、一つの真如を証す。所修の行をば十波羅蜜となづく。所断の障をば十重障となづく。所証の真如をば十真如となづく。その様も、また略し候。

さて初地より第七地の終わりに至るまで、また一大僧祇を経、これ第二僧祇なり。第八地より第十地の終わりに至るまで、一大僧祇を経。これ第三僧祇なり。地前一大僧祇は初僧祇なり。これを三僧祇の修行となづく。

(無漏種子の熏習)

その間の無漏智、刹那刹那に生滅す。滅する毎に種子を薫ず。薫ずる様は有漏の種子の如し。無漏の種子薫ずること、見道の第二念より薫じ始む。第二念ともうすは第二刹那なり。無始より以来、凡夫にてありつるほどに、無漏の新熏種子なし。無漏心起こさざれば、誰かこれを熏ぜん。ゆえに見道の最初の刹那の智は、ひとえに法爾無漏の種子より生ず。その後、新熏種子、出きそいては、本・新二種寄り合いて生ず。これを新古合成となづく。新古合成は無漏のみに非ず、有漏の諸法もかくの如し。いずれの法も本有・新熏の二類、ともに無きにはあらず。新古合成し候なり。

この三僧祇にとりて、初僧祇にひとえに有漏の悟りのみ起こりて、いまだ無漏の悟り開けず。第二僧祇には有漏・無漏交わりて起こる。第三僧祇にはひとえに無漏の悟りつづきて、有漏智の交わることなし。功徳、念念にはやく積もり、悟り、刹那刹那に速やかに開く。初刹那は先の二僧祇に一倍なり。第二刹那は初刹那に一倍なり。一倍と申すは、本ありつるほども相違なくて、その上に本より有りつるほどのこと、なお加わるを申し候なり。かくの如く、かくの如く、第三刹那、第四の刹那、ないし第十地の終わりの刹那まで、次第次第に倍々す。

第三僧祇の終わり方に、相好の百劫と云うこと候。いわゆる仏に成らんずる期近づきて、殊に百劫が間、諸根・相好の業を修するなり。

(金剛喩定)

かくの如きのもろもろの修行満足する時、色究竟天とて、物の形の分斉にとりては、上の果てにて候ところよりなお上に、大自在天宮と申し候は浄土にて、十阿僧祇百千の三千大千世界にはばかるほどの大宝蓮華王の座に坐して、金剛喩三摩地と申す定に入りて、先に申し候つる仏果の障を断ずるなり。この時を等覚の菩薩となづく。受職灌頂の儀式、この位にあり。

(成仏ー究竟位)

かくしつつ仏果の障り、早々断じ終わりぬれば、速やかに究竟の道に入る。この時、一切の有漏、劣の無漏は、みな滅び失せぬ。これはいわゆる、かの無始より具足するところの、上品の法爾無漏の種子より、四智悉く現行し、万徳併せながら円満するなり。これを仏となづく。

凡因位も仏果も、心も色も、無漏の法は、その性みな善なり。有漏の、三性交わるには同じからず。すでに成仏しぬれば、その身、法界に満ちぬ。諸根・相好、一一無辺なり。三僧祇長劫の中に修習するところの無辺の善根に酬いたるゆえなり。因果の理、必然として、因無辺なれば果無辺なり。

これより後は、新しく種子を薫ずることなし。ただ無始より上品の法爾無漏の種子、及び下品中品の無漏の種子の本有も新熏も、みな転じて上品に成れるのみ。無垢識の中に有り。

(第八識の異名)

無垢識と申すは、大円鏡智相応の心王なり。即ち凡夫より第七地までは、これを阿頼耶識となづく。等覚までは、これを異熟識となづく。仏果に成りぬれば、これを無垢識となづく。無垢識をば梵語には阿末羅識となづく。これ則ち八識の中の第八識なり。およそ第八識には様々の名ども候。阿陀那識も、この識の名なり。

(仏の心・心所)

このゆえに仏に成りて後も八識あり、心所あり。心所は各々二十一なり。先に申し候ぬ。今、この心王・心所に一一にみな四分あり。その相分の中に、五根・五境あり。五境の中に如来の相好荘厳、大光明等あり。不可説不可説の浄土あり。

これらの諸法の中に実法としてある法は、みな一一に種子あり。その種子をば併せながら如来の無垢識の中に摂めたもてり。生ずる時は、その一一の種子より生ず。すでに生ずるがゆえに、また必ず滅す。種子も刹那刹那に生滅し、現行も刹那刹那に生滅す。これ則ち衆縁の為に作りなされたるがゆえなり。すでに衆縁為すところなれば、仏身なれども、これを有為となづく。

(分段生死・変易生死)

有為となづくといえども、永く二種の生死を離れたり。二種の生死とは、分段生死・変易生死なり。分段生死とは、我等が受くる生死なり。長くも短くも、その命、必ず限りありて、久しからんと思えども叶わざる果報なり。変易生死とは、菩薩の受くる生死なり。久しからんと思えば、いくらも久し。その命限りなし。

(仏の生死)

ただし仏に成る時のみ、その身を捨つ。されば仏は永く二の生死を離れ給えり。生も生死の生に非ず。生死の生は、業力によりて三界に生まるる義なり。仏身の生は、有為の無漏の起れるを生ずとなづく。三界に生まるる義には非ざるがゆえなり。滅も生死の死に非ず。生死の死は業力尽きて命終する義なり。仏身の滅は、有為の無漏の刹那の滅なり。仏命、尽ることなきがゆえなり。ただこれ法体微細の刹那の生滅なり。ゆえに出離生死の仏身となづく。もし生あれども滅は無しといわば、この理あることなし。

(仏の三身−法身・報身・化身)

これを有為の報仏となづく。かくの如く、周遍法界の相好は荘厳の有為の報仏に、自受用身となづく。

すでに、これ衆生のために成り給える仏なれば、衆生を利益すること、しばらくも止むことなし。このゆえに、凡夫二乗、地前の菩薩、十地の菩薩、等覚までも、これを済度しまします。然るに、この周遍法界の真の御姿をば、等覚の菩薩すら、なお見ること能わず。いかに況んや、それに及ばざる菩薩二乗をや。いかに況んや我等が類をや。かかるゆえに、人に見えんとて様々の姿を顕しまします。その中に、我等が為に顕れましますは、丈六の仏なり。一四天下を国土とす。資糧の位の菩薩・声聞・独覚までも同じく見奉る仏なり。これを小の化身となづく。

加行の位の菩薩に顕れまします、御姿はその長けいくらと申したることは見候わねども、三千大千世界を国土とすと候えば、ことの外に大に顕れましますこそ候なれ。これを大の化身となづく。

初地の菩薩のために、一葉の広さの三千大千世界にはばかるほどの蓮花の百葉なるを座として、その座に叶うほどの仏にてまします。第二地の菩薩のためには千葉の蓮花を座とす。第三地のためには万葉の蓮花を座とす。ないし第十地のためには不可説不可説の葉蓮花を座とす。その座に相叶うほどの御姿なれば、次第に勝りまします御ほど、さこそは候らめ。この十重の仏身を他受用身となづく。その国土は、みな浄土なり。その広さは花座の如く、次第に広くなれり。されば初地より第十地に至るまで、十重の浄土にあり。極楽は即ち、阿弥陀仏の、初地の菩薩のために顕れまします時の国土と見えて候。

かくの如きの諸法の性は真如なり。如来の自受用身の中に備え給える無漏円満の智慧、能くこの真如に冥合せり。この真如を法身となづく。今、この法身・報身・化身を三身とは申し候なり。他受用身をば報身にも摂む。

浄土の中に至りて極まる浄土は、自受用の浄土なり。なお、その性を申さば法身の土なり。毘盧遮那とは、この法身なり。盧舎那とは、この報身なり。釈迦牟尼仏は、これ化身なり。

(摂在刹那)

五位の修行の様は、おろおろ加様に候をや。そもそも三大僧祇の修行の久しさは味気なく候えども、悟りの前には、これを一刹那に摂む。三僧祇、定めて久しと思う、これ無明の長夜のいまだ明けざるほど、堅執の夢、覚めざる間なり。この惑い一たび覚めては、三祇則一念、一念則三祇なりと申せば、などか修行せざらん、などか至らざらん。

(結語)

このことにも誤りもや候らん。また詞もつたなく候えども、仰せにしたがいて、かたのように記し申し候。経論文・宗家の釈などをば略して候。

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