こんなお寺(縁起・寺己紹介)

本尊・寺宝

  本尊  一尊四師勧請
  寺宝  本尊立像釈迦牟尼佛(推永禄年間作)
     蓮・朗・像三師御真骨、日像・大覚本尊等

     朝鮮香炉
      (朝鮮古渡、気比神宮寺代より保存)
     名刀「番神丸」(鎌倉期作銘「僧定秀」)

縁起

       当山は北陸総鎮守「気比神宮」の学問所とし、藤原不比等の子、北家藤原家「藤原武智麻呂」により、「春鶯山 気比神宮寺」として創建される。その後、永仁二年(1294)三月、日蓮聖人の法孫である日像上人が華洛弘教の途中、当山にて一夜の宿を申し出た。時の別当であった「覚円」はその数四六番の法論を交わすも、日像上人は悉くそれを論破。教化を受けた覚円は気比神宮寺を現寺山号に改める。覚円が日像上人の弟子となった事により、覚円の弟であった「明覚」は寺宝である「名刀番神丸」を手に夜襲を企てたが成らず、かえって教化されたという。寺伝には、「夜襲行いしかども、三十番神上人を守りこれにて、改宗いたし・・・」とある。
 時は流れ、当山第七世「三智院日森上人」は宗風を盛んにし本山客末上首となる。これにより、本山と同じであった山号に「最初」の二字を加わり「最初具足山 最初妙顕寺」と号し、日像菩薩「四箇聖跡」中第一の名刹となったのである。

 史実より元亀元年四月、織田信長が、朝倉氏天筒山城攻めの折り、当山にて陣を張ったことより、当山が地方の要所であったことがうかがえる。
 宝永・天保年間の二回の大火により、塔頭八支院を含め全山焼失するも、その後歴代再興を尽くす。しかしながら昭和二十年七月戦火にて、再度焼失。当山歴代四十四世「教智院日洸上人」本堂・庫裡再建、四十六世「教護院日晨上人」本堂再々建、四十七世「教應院日亮上人」書院・庫裡増築、現在に至るのである。