1.
最近体を鍛えている。腹筋は勿論、腕立て背筋にも力を入れている。
毎朝のランニングも欠かさず行っている。きっかけは特に無いんだけど、
いつ何を言われてもすぐさま対応出来るような状態にしておくことは大切だと思う。
今、体の変化をよく感じる。
背も伸びるし、あんまり思いたくないけど全体的に体も大きくなってる。
それに食欲も以前と比べて格段に増えている。
「豆」からの脱皮もそう遠くないと勝手に思っている。
体だけではない。精神的にももっと大きく、強くならなくてはいけないと思っている。
また新しい子が入ってきて、自分が一番年下だった時はもうとっくに終わってる。
えらそうな事は言えないけど、あたしだってもう何年もここにいる訳だし、教えれる事はたくさんある。
そう、精神的に強くならなくてはならないのだ。ただ体を鍛えているだけでは駄目なんだ。
最近の食欲を考えると、それをサボるのも絶対駄目。食べる量を減らすことなんて出来ないんだから。
体は常に動かしてなくちゃならない。それでなくても食べたものが全部身になってる感覚があるんだから。
だけど、精神修行っていっても、何をすればいいんだろう。まさかお寺に行って座禅を組むわけにもいかないし。
体の鍛え具合だったらすぐ分かるんだけどなぁ。
自分で触ってみれば違いを感じるし、自信が無ければ誰かに聞けばいいし。
腕にぐっと力を入れ、力こぶを作る。
「ねぇねぇ、まこっちゃん。ちょっと触ってみて」
「ん、何を?」
「これこれ」
「おおー!」
「ね?すごいでしょ!?毎日腕立てやってんだから」
「ぷにゅぷにゅ。気持ちいいー」
「嘘!?すごい硬くない?」
「いや、全く」
「んもう、いいよ!まこっちゃんに聞いたあたしが馬鹿だったよ」
「何よそれ。聞かれたから答えて、触れって言われたから触ったのに、何で怒られるの?」
まこっちゃんに聞いたのはあたしのミスだったかもしれない。だってまこっちゃん、たまにアホだもん。ていうかアホだもん。
今日はきっとアホの日だったのよ、間違いない。だって確実に筋力上がってるもん。
ちゃんと分かってくれる人に聞かなきゃ。
「あいちゃん、ちょっといい?」
「何?どしたん?」
「これ触ってみて」
「何で里沙ちゃんのお腹さわらんといかんの」
「いいからいいからね、ほらどう?」
「おおー!」
「ね?すごいでしょ!?毎日腹筋やってんだから」
「ぷにゅぷにゅ。気持ちいいー」
「嘘!?すごい硬くない?」
「いや、全く」
「んもう、いいよ!あいちゃんに聞いたあたしが馬鹿だったよ」
「何よそれ。聞かれたから答えて、触れって言われたから触ったのに、何で怒られるの?」
あいちゃんに聞いたのはあたしのミスだったかもしれない。だってあいちゃん、たまにトんでるもん。
ていうかいつもトんでるもん。
今日はきっとトんでるのよ、間違いない。だって確実に筋力上がってるもん。
もう誰に聞いても一緒。でも、今大事なのはそういう事じゃないの。
第一、効果なんてそんなすぐに出てくるようなものでもないし。
大体精神力を鍛えるっていったって、どうしたらいいか分かんない。
野菜が食べられない子供が、分からないように混ぜて食べるのとは違う。
苦手なものを食べる時、お母さんどうしてくれてたっけなぁ?
苦手なもの?
そうだ、苦手なものを克服すればいいんだ。そうすれば自然と精神力も強くなる。
得意なものを伸ばしていくのも大切だけど、苦手なものから逃げるのは嫌。
あたしが強くなれば、大好きなモーニング娘のためにもきっといい。いいに違いない。
だけど、そこまで苦手なものってあるかなぁ。今すぐにでも克服しなくちゃいけないようなもの。
何とかしたいと思ってるようなもの。こういうのって、意外に見つからないものだなぁ。
胡坐を組んで深呼吸をし、目を閉じてみる。真っ暗な目の前にチカチカと光る丸い物体が瞬いている。
やっぱスタイルって大事だなって思う。だって、いい案が浮かんできそうだから。
いい「苦手なもの」が浮かんできそうだから。
人差し指に軽く唾をつけ、眉毛に塗ってみる。自慢の眉毛に塗ってみる。
そうそう、こうやって眉毛に唾をつけると、人に騙される事がなくなるの。
あたしはすぐに人の言うことしんじちゃうから、こうやってないとすぐに騙されて馬鹿にされる。
違うっつーの!眉毛じゃなくて頭だっつーの!
何かのアニメでやってたように、頭に唾つけて目を閉じればポクポクって音がしてチーンっていうの!
あぁ、こんな所人に見られたら変態だって思われちゃう。口に出してないよね。心で一人でジタバタしてるだけだよね。
変なことは思われたくないの。まこっちゃんみたいな扱いはあたしには無理、やってけないから。
それじゃやってみるから。見てて見てて。見られたくないんだけどね。
さんはい、ポクポクポクポク・・・・・・・・チーン!
あっさり浮かんだ。
里沙は娘に入ってからの数年の記憶を手繰り寄せた。
風景A
「お願い梨華ちゃん、ちょっとだけ」
「駄目です、今日はよっすぃと用事があるって言ってるじゃないですか」
「五分だけ付き合ってやぁ」
「中澤さんのお酒の相手すると次の日疲れるんですよ。それにここは仕事場ですよ。早く帰ればいいじゃないですか」
「だってさー、帰ったって誰もおらんし。一人で飲むより二人で飲んだ方が楽しいやん」
「ハナちゃんがいるじゃないですか」
「おるけどそれとこれとは話が別や」
「と・に・か・く。私は帰ります」
「何やねん!私がどれだけアンタの世話したと思ってんねん!ちょっとぐらい付き合ってくれたってええやんか!」
「中澤さんのお世話になった覚えはありません。それにそんなに怒鳴られる覚えもありません」
「あぁごめんなさい。今のは違うんです、間違えました。そこのキュートなお嬢さん」
「さようなら」
「ちょっと待ってーや」
「あ、よっすぃ。いこっか」
「いいの?中澤さん泣いてるみたいだけど」
「いいのいいの」
「お前らー!」
(所要時間 6分 石川の楽屋前)
風景B
「紺ちゃーん、ええもんあげる」
「何ですか、いいものって」
「はい、これ」
「いいんですか、こんなもの頂いて」
「ええのええの。紺ちゃんはええ子やからなぁ」
「ありがとうございます」
「その変わりっちゃなんやけどな」
「何ですか?何でも言ってください、私なんかに出来ることなら」
「そうか?ほんま紺ちゃんはええ子やなぁ。完璧な子やなぁ」
「完璧じゃないです」
「んじゃ、ちょっとついてきてくれる?」
「はい」
紺野はただただ従順に中澤の後に続いた。紺野は気がつかなかった。
ついていった先は、誰も利用していない部屋であるという事。
さらにそこはもう何年も使われていない開かずの間であるという事。
何故かそこの部屋の鍵を持っているのは中澤だけであるという事実を。
真後ろにいてその様子を見ながら会話を一部始終聞いていた里沙。
二人に気づかれる事は無かった。
数時間後から、紺野から生気が無くなっていた。いつもにも増して虚ろな目でぼんやりとしていた。
まるで大切な何かを失ったかのように。
(所要時間 4分 真後ろ3メートル)
風景C
「中澤さぁーん」
「パス」
「何ですかそれぇ。待ってくださいよー、まだ何も言ってないじゃないですかぁ」
(所要時間8秒 収録現場までの廊下)
風景D
「亀井ー!」
「え?な、何ですか?え、絵里何も悪い事なんてしてません。夜ベッドで人の悪口なんて言いません。
寝る前にチョコレートなんて食べません。本当に何もしてませんから許してくださいー」
「は?何言うてんねん、あほか。亀ちゃんに折り入ってお願いがあってな」
「そ、そっちの方が怖いですよ。絵里が中澤さんのお願いなんて叶えれる訳無いじゃないですか」
「そんなたいそうな事やないって。五分ぐらいで済む話やから」
「ええっ・・・無理です」
何が何か分からず、すっかり怯えきってしまっている亀井。いらつく中澤。
「ええから黙ってゆう事聞け!分かったんか分かってないんか、どっちや!」
「はい・・・分かりました」
「分かったらそれでええねん。ちょっとストレスを解消したいだけやねん」
「ストレス・・・ですか」
「この年になるとなぁ、色々とある訳ですよ。ちょっとぐらい協力してや、な?」
「はぁ・・・」
亀井は「自分のストレス発散のために人を使うなっつーの、絵里は暇人じゃないんだからね」という言葉を二度と
出てこないように体の奥底まで飲み込んだ。
「で、絵里は何をすればいいんですか?」
「うん、とりあえずこれに着替えてきて」
「こ、これは・・・」
中澤は満面の笑みで見たことのある衣装を手渡した。最近何度か袖を通した衣装だった。
確かにお気に入りでこれを着るといつも以上に可愛くなれる気がするからテンションは上がるんだけど、
理由も無く今やれって言われても。そうだ、理由は?
もう仕事も終わってジャージ姿ですっかりリラックスムードの絵里の気分を削ぐ程の理由は?
「何でそれを今着るんですか?」
「だって可愛いやん。それにエロいし」
「エロい・・・って何ですか?」
「グダグダ言うとらんとさっさと着替えてこい!お前に意見する権利は何一つないんじゃ!」
「そ、そんな・・・」
無茶苦茶な、奥底へ飲み込む二つ目の言葉。絵里は半ベソをかきながらトイレへ駆け込んだ。
「おお、やっぱええなぁそれ」
「・・・」
「やっぱ私はエリックよりもエリーゼ派やな、うんうん」
「あのう・・・」
「とりあえず後ろ向いて」
「は?」
「は?やない。後ろ向けゆうてんねん」
「はぁ」
何で絵里がこんな目にあわなくちゃいけないんだろう。最近悪いことなんて全くしていないのに。
今日は朝が早くてTVの占い見れなかったけど、きっと今日はやぎ座は12位だったんだ。
きっと今日はお気に入りで着てきたこのジャージのグレイがアンラッキーカラーだったんだ。
あー、もう最低最悪。さゆはさっさと帰っちゃうし。終わったら買い物に行こうねって言ってたのに。
さゆと二人でお買い物なんて久しぶりだったからすごい楽しみにしてたのに、ムキー!
で絵里は今何してるの?ん?何か下半身がスースーする。へっくしょい、さゆが絵里のこと噂してんのかなぁ、えへ。
ちょっと待ってよ・・・
「ええわー、ええわー」
亀井が恐る恐る振り返ると、そこには32歳の大人の女性とは思えぬ、目じりが垂れ鼻の下が伸びきっているただのおっさんとしか
思えない中澤裕子がいた。この人は悪魔か幻か、はたまた女性の皮を被った神か。
中澤ははらりとスカートをめくり、満面の笑みで目の前の光景を見ていた。
「な、何やってんですか中澤さん!」
「ちょっとスカートの中、見せてもらってるだけやん」
「ただのど変態じゃないですか!止めてください」
「いや」
「止めてください!」
「そんなに抵抗するんやったら、こんなこともしてまうぞ!」
「うぎゃー!」
里沙はそっとドアを閉めた。
(所要時間17分 自分の楽屋のドアの隙間)
里沙の頭の中で、いくつかの断片が1つに繋がった。自分にはこれまで極力避けてきた道があった。
それは通りづらく、通ったとしても突っ切る自身の無い道であった。
年齢的なものもある(倍違う)、あたしが大好きなモーニング娘を作ってきた人で、さらにそのリーダーだった人。
まこっちゃんもあいちゃんもあさ美ちゃんも、色々な事を言われながらも今では普通に話したりしてる。
でも、まだあたしは出来ていない。あの「ノリ」を自分に置き換えても、何かリアクションが出来るとも思えないし。
後からまこっちゃんとかに聞いたら、「えー、だってすごい楽しいよ、中澤さんといると」なんて言ってたし。
あさ美ちゃん、亀井ちゃんとも明らかに接する態度に違いがあるのに。
それでも同じラインに立って、ぶつかっていくまこっちゃんはすごいと思う。
何も考えてないアホって言葉で片付けられない。
何もきっかけが無かったら、きっとこのまま中澤さんとはうまく話せないまま終わっちゃうかもしれない。
でも、これは上の人とうまく話すための社会勉強で精神修行だと思えば、何とかなるかもしれない。
たくさんの人と触れ合って、自分を大きくしなくちゃ。今のままじゃ小春ちゃんにも何も言えやしない。
「あ」
これは偶然か必然か。ここはスタジオのあるビルの一階ロビーであるから、起こらないとも言えない。
念じてみれば結構願いなんてものは叶うのかもしれない。
実際、その出会いを願っていたかどうかは微妙なラインではあるのだが。
見つけてしまった。そのソファーに座る後姿はとりわけ巨大な山のように見えた。
これを乗り越えたならば、きっと1回りも2回りも大きくなっているはず。
一大決心をし、徐々にその背中に近づく。
その漠然としていた後姿がはっきりとしてくるにつれ、小さくも大きい背中がカタカタと震えているのが分かった。
そして右手には・・・茶色のビンが。よく見ると左手にも同様に茶色のビンがある。
「あの、中澤さん・・・」
本当は止めておこうかと思っていた。この人がお酒を飲んでいる所は何度も見たことがある。
その都度被害者は生まれていた。
「おー、誰かと思ったらガキさんやんか、珍しいなぁ。とりあえずこっちおいで」
里沙は中澤の横に恐る恐る座った。
中澤の表情を見ると目は真っ赤に充血していて、何かに飢えている動物のようにも見えた。
誰もおらんから寂しかってん。酌してくれい」
「は、はぁ」
お酌をするって意味は知ってるけど、コップが無い場合はどうすればいいのかなぁ。
ほら、あたしが何もしなくても一人でビンをラッパ飲みしてるじゃないですか。左右のビン変わりばんこに。
あ、それにもう空のビンが4本もある。今お昼前の11時なんだけどなぁ。後2時間もすれば収録始まっちゃうんだけどなぁ。
それにこんなにベロベロな状態、お父さんでも見た事がないよ。
でも、お化粧とか髪の毛のセットとかはきっちりしてる。こういう所は同じ芸能人として見習わなくちゃいけない。
とはいえこんな状況、新垣里沙辞書には載ってないからどうしたらいいのか分かんない。豆知識なんて言ってる場合じゃない。
「いやぁ、カワイ子ちゃんが傍にいてくれるとやっぱ違うなぁ」
何だか目の焦点も合ってないしあんまり呂律も回ってないし、せっかく頑張ってお話しようと思ってきたけど、
そんな状況でもないみたいだからもう帰ろうかな。
「あ、あのすいません。あたしはこれで失礼します」
「ちょい待て」
それまでご機嫌な顔をしていた中澤の表情が一気に曇った。曇りを省略して雨模様、落雷注意。
眉の間に渓谷ができ、口がとんがった。
「来たばっかやんけ。もうちょっとゆっくりしていかんかい」
あのー、ここはビルでして、中澤さんのお家では決してない訳でして。
それにもうお昼が近づいてきているからかな。さっきから人の通りがガンガン増えてきている気がします。
人の視線というものは全く関係ないんでしょうか。その・・・体裁のようなもの。
まだアイドルや、ってよくおっしゃってるじゃないですか。
今日の目標は失敗という思いとこんなので引き下がれないという思いで葛藤している里沙を見て、中澤はその距離をぎゅっと縮め方に手を回した。
「どうしたんや、急に黙ったりして」
「いや、その・・・」
苦手なものを克服しようと言う意識は薄れ、一秒でもこの場を去りたいという今の気持ち。
どうしたらいいか分からないという戸惑いも伴い、里沙は俯いたまま動けなかった。
この固定された状態をどうにかしてほどいて逃げたい、それが里沙の気持ちだった。
だが、中澤の受け取り方は違っていた。彼女の思考は酒も手伝い、プラス思考へと。
「そうか、そういう事な」
「は?」
中澤は分かった、うんうんと頷いた。里沙はその真意が分からず、ポケっと首をかしげた。
中澤はより里沙の体をぐいと引き寄せた。
「ちょ、ちょっと、中澤さん」
抵抗するが勝てない。顔が一瞬近づいた。お酒くしゃいです。
肩の辺りがもぞもぞする、と思ったらそれはだんだんと下がってきた。
ん?と自慢の眉毛を逆ハの字にする。「それ」は首とお腹の間ぐらいで止まった。
「それ」は上半身の左と右をモゾモゾ行き来していた。ぱっと前を見ると、ニヤついた中澤の表情が見えた。
嘘!?
里沙は今の状況を理解してしまった。あの人達と同じ運命を自分も辿ってしまったのだと。
「んわーーー!!!」
里沙には全く免疫が無かった。
「あれ?おい、どうしたんや?」
「な、中澤さん、何やってんですか!?里沙ちゃん!大丈夫?ぺしぺし。気失ってる・・・中澤さん!」
たまたま通りかかった小川は、その光景を見て驚いた。
「い、いや、小川さん、私ちゃうで。ここで倒れとったからこんな所で放置もできんし、介抱してあげなあかんなおもて」
「その手にあるビールは!?」
「これも私のちゃうねん・・・」
「何で里沙ちゃんにこんな事やってんですか・・・?」
「いや、だって赤い顔して俯いて黙ってるからてっきりそういう事なんかな、みたいな・・・」
「野獣」
「新鮮なリアクションが欲しくてつい・・・」
「猛獣」
「ごめんなしゃい、調子に乗りました・・・」
「ど変態」
「『ど』はつけんとって・・・」
まだ無理だった。
救急車のサイレンが鳴り響いた。