1.

どこにでも売っているよな、だけどきっとこの先絶対に忘れないような味がある。
それは小さな頃の小さな胸にしまってあった、大きな思い出の味だった。

繋がれていた右手は、精一杯伸ばしてやっと届く場所にあった。
左手に持ったべっこう飴を、決して噛まずに舐め続けていた。
飴玉だったらすぐに歯で噛み砕いてしまうけど、出来るだけ長い間それを口に含んだ。

暖かな体温を感じる右手の上に視線を上げると、短い茶色の髪を、さらりとかき上げながらこっちを優しく見る笑顔があった。

確かその時泣いていた。同じ保育園の子にいじめられたのが原因だった。
今でも背の低さを事あるごとに指摘される。高い厚底ブーツを履き、大人びた化粧をし、背伸びする。
早く大人になりたい。ずっとそう思っていた。
正確には、大人になりたいというよりも、あのお姉さんみたいになりたい、と思っていただけだった事に最近気づいた。

今では背の低さも、自分のキャラクターとして捉える事が出来るようになった。
あの頃からずっとコンプレックスに感じていたけど、 友達と話していてもそれを笑い話しにもっていけるようになった。

僅か5年程度しか生きていなかった当時、その人の容姿や仕草に憧れていた。
髪をかきあげる仕草や、歩き方、笑い方などちょっとした事をすぐ真似ていた。
それを思い出す度、かなりのマセガキだったと心の中で苦笑する。

少し雲がかった夕暮れの空を真正面に受けながら閑静な住宅街を抜け、緩やかな坂を登りきった所に、1つの出店があった。
綺麗に建築された家しかないこのあたりの風景に対して、 全く溶け込んでいない薄汚れた出店。

15年前、私を慰めるためにお姉さんが買ってくれたべっこう飴が売っていた出店だった。
今の子供達はこの味を知っているのだろうか。
ボリボリとスナック菓子を頬張る保育園児の姿を思い浮かべながら、店の前に立ち止まった。

「いらっしゃい」
「どーも」

べっこう飴を作っているおばさんは、あの時と同じ人だった。
15年という月日は、自分も20歳になって変わったけれど、おばさんの顔の皺も深みを増しているような気がした。
ばっちり面影は残っているので、あの時のおばさんだと確信は出来る。

あれから15年経ったあの人は、今どこで何をしていて、どんな大人になっているのだろう。
当時15歳ぐらいだったから、今は30前後という事になる。

すでに結婚して、幸せな家庭を気づいているのかもしれない。
ヤンキースタイルの制服姿で止まっている自分の中では、あの人のウェディングドレス姿は想像できなかった。

「べっこう飴1つください」
「あいよ」

べっこう飴を受け取ると、坂の頂上からオレンジ色のライトを浴びた町並みを見下ろした。
残暑の残るこの時期に、少し冷えた風が体を触った。

2.

「うっ・・・うっ・・・」
「くやしかったらここまでのぼってきてみろって」
「うぐっ・・・」
「まぁミニマムヤグチにはむりだろうけどねぇ」
他の子供達はほとんど親が迎えに来て帰っていた。
先生達も建物の中にいた為、日が落ちそうなその時間帯に外にいたのはふたりだけだった。

ジャングルジムのてっぺんからそう叫ばれたけど、真里は長方体に設計された鉄の棒に触れる事が出来なかった。
高い所に登る勇気がなかった。そこはとんでもない高さのように感じた。

その子はとても運動神経が良くて、かけっこも早かったし他の運動も何でも器用にこなした。
見た目も男の子っぽく、ここに来てあまり経っていないのにもかかわらず、ガキ大将のような存在になっていた。

実際、周りの男の子を何度も泣かしていた。
真里は首が痛くなる程の高さの上にいるその子を悔しさで涙をためながら、睨む様にして見上げていた。

「こらっ!紗耶香!!アンタまた真理ちゃんの事いじめてんのか!!」
「げっ、ゆーちゃん。むかえにくるの、はやくない?」
「アホか!もう4時や!そんな事よりまた真理ちゃんの事泣かして!」
「あ、あたしがなかしたんじゃないって。かってにないてるだけだって。」
「嘘つくな!早く降りてこい!!」

何時の間にかここに、1つ人影が増えていた。怒りをあらわにしながら仁王立ちするそのお姉さんの姿を見て、紗耶香は しぶしぶジャングルジムを降りてきた。

般若のような顔をしているお姉さん中澤裕子は、一時的にこっちにきている紗耶香の姉変わりで面倒を見ていた。
当時受験真っ只中の中学3年だった筈。
「勉強勉強でうっといわー。」

と嘆いていたのを思い出した。僅か五歳の真里には何の事か理解できなかったが、その時の眉間の皺は印象に残っている。

「もう、ゆーちゃんそんなにおこらないでよ」
「ったく。いっつもいっつも意地悪ばっかりして。真里ちゃんに謝り」
「ゆーちゃんはいっつもやぐっちゃんのみかただね」
「アホ!人様泣かしといて、なにゆうてんねん!早く謝り!」
「・・・」

中澤の気迫に圧倒され、すっかり泣き止んでいた真里は、体を強く揺すられながら謝るように催促されている紗耶香に、何故か同情した。

「ゆーちゃん。あ、あのもういいから・・・」

中澤は誰にでも『裕ちゃん』と呼ばせるようにしていた。
それは真里も例外ではなく。真里は高く見上げる格好になる中澤のセーラー服の袖を引っ張りながら小さな声で言った。

「あかんあかん。悪い事は悪い。そのへんはちゃんとしとかな」

中澤は紗耶香の腕を取り、真里と対峙させた。
腕を組み、紗耶香の方を睨んでいる。

「ほら」
「・・・ン・・・」
「ん?何や?真理ちゃん聞こえたか?」

「いや、ウチには聞こえへんかった。だからもう一回」
「ゆーちゃんはかんけいないじゃん」
「ええから」
「・・・ゴメン・・・」
「ほんまにアンタは・・・真理ちゃん、ゴメンな」
「ううん」

中澤は乾きつつあった真理の頬を、指で優しく拭った。
紗耶香にいじめられた事なんて、真里の中ではどうでもよくなりつつあった。
優しさに溢れた中澤を見上げて、真里の気持ちはすっかり落ち着いていた。

「もうこんな事したらあかんで」
「フン」
「ったく。真里ちゃんとこのお母さん、今日迎えにこられへん日やから一緒に帰ろか」
「うん」
「紗耶香。帰るで」

中澤は左手に真里の手を、右手に紗耶香の手を取り、保育園を出た。

3.

3人一列に並んで、アスファルトの道を歩いていた。
夕暮れ時のこの時間帯、ほとんど車が通る事もなかったので、気兼ねなく車道を歩く。
1人歩幅の大きい中澤は、二人の歩くスピードに合わせた。

真里は握られた手を気にしつつ、中澤の右側にいる紗耶香を見た。
ふてくされたような顔をして、反対側を向いている。
真里は紗耶香が何故自分にこういう事をしてくるのか考えた。

何か悪い事をしてしまったか。
それとも単に自分の事が気に入らないのか。
他の子に対してしないような事を自分にはしてくる。
その時の真里には紗耶香の行動が理解出来なかった。

いくら緩やかな坂道といえど、小さな二人にとってこの傾斜はちょっとしたハイキングだった。
坂を登りきった所に、 祭りで見かけるような出店が見えた。
中澤はそこで足をとめた。

「おばちゃん。それ二つちょうだい」
「あいよ。二つね」

中澤は店のおばさんからべっこう飴を受け取ると、真里と紗耶香に渡した。
真里はこの飴の存在を知らなかったので、それを暫く眺めてから口に含んだ。

「ゆーちゃん。ありがと」
「ええねんええねん。めっちゃ安いからな」
「おいしいね、コレ」
「そうか?ゆっくり食べや。噛んだらもったいないで」
「そうだね。もったいないね」
「そやそや。人間ケチれる時はケチっとかな」
「ゆーちゃん。それはちがうとおもうよ」
「紗耶香ぁ。いちいちつっかかってくんなやー。うまいやろ?」
「・・・まあまあかな」
「ほんま可愛げのない子供やなぁ」
「フン」

中澤はもう一度二人の小さな手を取り歩き出した。
真里は中澤に言われたとおり、買ってもらった飴を噛まないように注意しながら舐めていた。
今までに 食べた事のないような甘さがあった。
真里の頬は、完全に乾いていた。

家路に着くまで中澤は、ずっと真里の手を握っていた。

4.

次の日、保育園の先生から紗耶香が引越しする旨が伝えられた。
この町へ、この保育園へ来てわずか一ヶ月。
その短い間にここのトップへと登りつめ、一目を置かれていた紗耶香が 引っ越すというその突然舞い込んだニュースは、他の園児をおおいに驚かせた。
何よりも急すぎた。

真里はずっと馬鹿にされ続けていた。体が小さい事。
鉄棒が出来ない事。ジャングルジムに登れない事。
その度に泣いていた。嫌いなはずだった。友達だなんて思っていなかった。

『中澤の横にいる暴れん坊』

そんなイメージ。そして暴れるその対象は自分。
そんな思いとは裏腹に、胸は締め付けられるように痛かった。
初めての別れの経験だった。

紗耶香のここでの最後の時間が終わり、みんなが帰った後、 紗耶香と真里はグラウンドに二人きりだった。
今日も中澤と一緒に3人で帰る日。そしてそれは最後。
ポケットに手を突っ込んだ紗耶香の後ろを、真里は無言でついていった。
二人はジャングルジムの前で立ち止まった。

「のぼらない?」
「えっ?」
「これ」
「む、むりだよ」
「だいじょーぶ。ゆっくりいけば」
「こ、こわいよ」
「あたしがのぼったところ、ついてくればいいから」
「で、でも・・・」

紗耶香はゆっくりとジャングルジムを登り始めた。
一段一段あがっていく。真里は下からその様子を見ていたが、 やっぱり怖くて手が動かなかった。
真ん中程まで登ったところで、紗耶香が下を見た。
手をぎゅっと握って目をつぶっている真里の姿があった。

「ほら、こいよ。チビチビやぐっちゃん」

真里は今まで言われた事のない呼び方をされたのに腹を立てた。
ふと顔をあげると、上から自分を見る紗耶香がいた。
口の端をあげて笑っていた。そして紗耶香は再び登り始めた。

腹の立った真里は、勇気を出してジャングルジムに触れた。
少し錆びたその鉄の棒は、ひんやりと冷たかった。
それに触れた手が震えて、中々上に進めなかった。
登ってみたい、というドキドキワクワク好奇心。 高さへの恐怖心。

「ゆっくりでいいから」

すでに登りきっていた紗耶香はそう言った。
真里はゆっくり登り始めた。1段1段 ゆっくり足と手を動かす。
半分まできた時、ふと下を見てしまった。
その高さに怖くなり、ぎゅっと棒を握り、目をつぶった。

「バカ。めをつぶるなって。ゆっくりでいいから」
バ、バカってなんだよ。さやかのほうがとししたのくせして! ねんしょうぐみのくせして!

真里はバクバクする心臓を抑えながら、もう一度登り始めた。
何とか一番上に辿り着いた時、小さな体の中にあるエネルギーを 全部使ったみたいだった。
真里は恐る恐る紗耶香の隣に腰を下ろした。

「なんてことないだろ?」
「う、うん・・・」
なんて事ない、真里は強がった。とても怖かったのに。 紗耶香は目線を前に移した。
「ここからみるのがだいすきなんだ」
「えっ?」
「ほら」

紗耶香が指差した方向は、昨日歩いた坂道だった。
道の両側に街路樹が立ち並んでいた。歩いた時には見えない光景。
その坂の向こう側に、オレンジ色の太陽が沈みかかっていた。
綺麗なその景色を見ていると、高さに対する恐怖心は自然と消えていった。

「このとくとうせき、やぐっちゃんにあげる」
「えっ?」
「もうあたしはのぼれないからさ」
「さやか・・・」
「ゆーちゃんがくるまでのじかんの、このばしょがさいこーだから」
「うん。きれいだね」
「のぼってよかったろ?」
「うん」
「ほかの子はしらないところだから、ここは」
「わたしとさやかだけしかしらないんだね」
「そう、ゆーちゃんもしらないんだよ」
「うん」

暫く二人はその景色を眺めていた。
風が坂道に立ち並ぶ街路樹の葉を揺らした。

「とおくにいっちゃうんだね」
「かえるってだけだよ」
「ともだちはたくさんいるの?」
「いるよ。こぶんがいっぱいね」
「なんででわたしにここ、おしえてくれたの?」
「やぐっちゃんはあたしの1のこぶんだからね」
「わたし、さやかのこぶんなんだ」
「そう、いちばんのね」
紗耶香は『一番』を強調した。

「そっか・・・またこっちにくるの?」
「おやぶんはこぶんのことを、しんぱいするもんだよ。
 おやぶんのいうこときいて、よくのぼってこれましたねー」
紗耶香はナデナデといった感じで、真里の頭を撫でた。
「なに、それ。ばかにしてる?」
「どーとられてもいいけど」
「もう!」

紗耶香はふっと笑顔を残し、視線を前に戻した。
真里はその横顔を見た。短く黒い髪が風で流れていた。
ずっとそこからの景色を見ていると、下から中澤の声が聞こえた。
二人並んでいる姿を見て、どこか嬉しそうな声を出した。

「おーい。二人で何やってんねんなー」
「あ、ゆーちゃんだ」
「何や、仲良さそうやなー」
「そんなことないってー」
「何が見えんのー?」
「ひみつだよー」
「何でやー?」
「なんでもー」
「ウチも登ってええかー?」
「「ダメ!」」

5.

紗耶香は本来の生活の場に戻った。それと同時に、ここに中澤が姿を現すこともなくなった。
紗耶香を迎えに来る必要がなくなったのと、受験勉強で忙しくなったのが重なり、 真里に会う暇もなくなっていった。

小学校の入学式の日、中澤は新しいセーラー服を身にまとい、 真里の前に姿を現した。
紗耶香が戻ったその日以来。真里の目に映るその姿は、茶髪で不良っぽい所は変わっていないのに、 さらに大人っぽく見えた。

中澤はほとんど中身の入っていないぺったんこの鞄から、 一本のシャープペンシルを取り出した。
「真里ちゃんもこれから一生懸命勉強せなあかんな」

大きなランドセルを背負ったピカピカ一年生の真里に、 1本のシャープペンシルを手渡した。
小学一年生の真里にとってそれは、まっさらに研がれた鉛筆とは違って、 ズシリと重みを感じた。
そのシャープペンシルを丁寧にティッシュでくるみ、 筆箱に大切にしまっておいた。
それからお互いの生活が始まり、会う機会はパタリとなくなった。

真里の中にはいつも紗耶香と中澤がいた。
小学生になっても、たまにここに来てはジャングルジムを登った。
少しずつ背も伸びて、その高さも感じなくなっていた。

中学生、高校生と人生の階段を登るにつれ、そこに行く事もなくなった。
新しい出会い、様々な別れ、何度も経験した。
高校を卒業した時、この町を出た。ここに帰ってくるのは2年ぶりだった。
15年経った今も、町の風景はほとんど変わっていない。
坂道も、町のにおいも、店のおばさんも、そしてべっこう飴の味も。

あの時もらったシャープペンシルは、きちんと保管していたとはいえ、 10年以上も経っているので、すでにボロボロになっていた。
でもそれを捨てようなんて考えは、一度も頭をよぎらなかった。

6.

坂の上で立ち止まっていた真里は、ふと思い立ったようにあの保育園へと足を動かした。
すでにべっこう飴は溶けてなくなっていた。 あの時紗耶香と見た坂道を下り始めた。
あの時あんなに時間がかかった坂道も、今ではあっさりと進める。

保育園に着いた時、中には人の気配はなかった。
園児達もみんな帰っていったのだろう。静まり返ったグラウンドを横切り、 ジャングルジムへと向かった。 今でも確かに背は小さい。
150センチぐらいしかないけれども、あの頃とは目線はぜんぜん違う。

真里は一歩一歩登り始めた。紗耶香と一緒に登った時の事を思い出していた。
あれから、紗耶香にも中澤にも一度も会っていない。
だけど、ずっと紗耶香は自分の親分だし、中澤は憧れのお姉さんである事に変わりはない。
登り終えた真里は腰を下ろし、さっき下ってきた坂道を見た。
あの時と全く変わりない風景がそこにはあった。

「裕ちゃんの事でオイラに嫉妬してたなんて、紗耶香子供だったなー」
「でも、これは紗耶香からのプレゼントだもんね」
「裕ちゃん。オイラは今でもあなたみたいになりたい、って思ってるよ」
「今あなたはどんな風になってますか?」

小さな子供が大好きで、ヤンチャな紗耶香の面倒を見て、
いつも明るくて厳しくて、でもそこには必ず愛情があった。

「今のオイラは、少しでもあなたに近づいていますか?」

あの時の中澤と似た色にした髪の毛をいじってみる。
そういう事じゃないって分かってるけど、少しでも近づきたかった。

明日またここを離れたなくてはいけない。 忙しい日々は始まる。束の間の休息。
思い出深いこの場所にまた来れるのはいつになるだろう。
次は今の中澤と同じ、30歳ぐらいになった頃だろうか。
その時、自分は一体何をしているのだろう。

きっと背が伸びる事はないだろうけど、色々なものを胸にしまっておきたい。
あの時感じたように、絶対忘れないって思えるような大切な思い出を。

ジャングルジムの一番上の鉄の棒に触れる。
そこには10円玉で傷つけられた部分があった。
何年にもわたって雨風にさらされていたので、
ほとんど読み取る事は出来ない。
本人だから分かる、二つのいびつな文字。

『いちー』
『やぐち』

鉄の棒にそう傷つけた。その文字の上を指でなぞる。
真里ははっとして、その二つの文字の少し上を見た。
その傷は二つの傷に比べ、格段に新しいものであるのは明確だった。

『ゆーちゃん』

裕ちゃん・・・これ、見つけたんだ。 あの時、確かに紗耶香と約束した。
二人だけの秘密、だって。でも、裕ちゃんだったらいいよね。
あの時、オイラと紗耶香が見てたもの、何か分かったかな?

ゆーちゃん、と書かれたその文字を見つめる。
だから気付かなかった。自分がいるジャングルジムのてっぺんに 登ってきたその姿を。

「これやってんな。やっと分かったわ。二人の秘密」
ふいに投げかけられたその言葉に、手を滑らせてそこから落ちそうになった。
慌てて声のする方を見る。

あの頃の面影を思いきり残した、その姿があった。
髪は肩まで伸びていて、目には青いカラーコンタクトが入れられている。
でも、あの優しい笑顔は全く変わっていない。
自分にだけ見せてくれた、紗耶香を嫉妬させたその笑顔。
聞きたい事がたくさんある、もっと言ってほしい事がたくさんある。

「すぐ分かったで。あの頃より大きくなったし、可愛くなったな。  パグみたいやん。ぎゅってしたい感じやわ」
頭を優しく撫でられた感触が伝わった。

この人にはなれない。絶対なれない。でも、それでいい。
自分は自分でいいんだ。背伸びする必要なんて何も無い。 自分は矢口真里だから。

話したい事がたくさんあるのに、うまい具合に言葉に出来ない。
何とか言葉を出す。

「・・偶然って、すごいね」
「すごいなー。偶然ついでに、ちゅーでもする?」
「・・・しないよ」
「ケチ」

冷えた風が二人の体をすり抜け、夏の終わりを告げた。