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新田開発の背景 江戸幕府も安定期に入り、封建中央集権の確立した4代将軍 徳川家綱の時代 安定に伴う贅沢消費に武士階級の生活が苦しくなってきた。 そこで、年貢の増加を図る為の新田開発が各地で進められるようになった。 一方では貧富の差が増大して零細農民(田畑を持たない貧乏人で、すりきりともいった。)がどんどん増える反面、大地主(名請地)に土地が集約され、すりきり人は年貢の収奪に耐えられずに、他の領地に逃亡して浮浪の民となり、農民が荒廃して来たので、新田開発によって救済する必要がでてきたのである。 一方江戸の豪商たちは、有り余る資金を新田開発に振り向けて、さらに富の蓄積をはかろうとした事も新田開発を盛んにした原因でもあった。 しかし、この新田開発も、元から耕作されている本田に被害が出て荒廃させた幾多の結果から、幕府の政策も、寛文6年(1666年)【山川掟】を出して本田畑を荒らす新田開発に一定の制限を加えようとする方向に動いていた。 近世初期のがむしゃらな開発の時代は終わろうとしていた。 このような時に椿海干拓の願いが出されたのである。
写真 干潟八万石の平野を東部の台地見広坂より望む
1、江戸の豪商椿海の干拓を願い出る。 江戸の豪商白井次郎右衛門 椿海の干拓を願い出るも却下される。 前の頁の杉山三右衛門の話から数十年たった、寛文年間,江戸の豪商 白井次郎右衛門というものが、再び椿海干拓計画を幕府に願い出た。 数度にわたる願出の結果ようやく幕府もこれを取り上げ、代官伊那半十郎を現地検分に派遣したという。 しかし、この伊那氏の現地派遣の資料がなく、年代がはっきりしないが【椿新田開発記】によれば検分を行った人が伊那半十郎という事から、推定して寛文7年という事になる。 伊那半十郎は寛文6年から父の後を継いで関東郡代となり、翌寛文7年2月から常陸国谷原新田開発のため、しばしば現地におもむいているので、この間に椿の海の検分をもしたとすれば寛文7年という事になる。 この伊奈氏が検分の結果出した結論は 【この湖を干拓すれば砂地とも凡そ8万石余りあるが、砂地であるため用水場が無い、広大な水田を得る事が可能であるが、一方この湖を水源としている水下の村々は渇水による被害を受けるので、干拓は不可とする。】 と言う開発に否定的なものだった。 さすがに、当時幕府内にあって地方支配の第一人者といわれ、多くの代官を統率する関東郡代の伊奈氏だけあって、その結論の正しさは、その後の椿新田300年の歴史がありありと証明している。 この椿海の検分により、伊奈氏が幕府に提出した答申の結果、椿海干拓は、またまた不許可となった。 椿海干拓工事の再度の願いが取り上げられる。 椿の海干拓の願いが却下された事を知った白井治郎右衛門は、もう独力ではとても見込みが無いと思い、辻内刑部左衛門 を説得して仲間に入れる事に成功した。 この辻内刑部左衛門とは一体何者であろうか。そのうち椿新田開発の主役となって行くのが彼であるが、なぞの多い人物の一人である。 桑名藩主 松平定重 の家臣であり、寛文3年12月に大地震があり、被害を受けた京都二条城の改修で、幕府に功績を認められ、幕府の大工頭になっていたのである。幕府からは深い信頼のあつた人物だったのだ。この辻内が、白井の説得に応じて、椿海開拓に乗り出した。 先ず主君の 桑名藩主 松平定重に願い出た。定重はこれを大老酒井雅楽頭忠清に申し出して内諾を得たので、改めて辻内刑部左衛門より老中宛に願い書を提出させた。辻内は二条城改築で功績があった者という事でこの願書は取り上げられる事になった。 そして幕府は、勘定頭 妻木彦左衛門頼能、 書院番 伊那五兵衛忠臣 等に椿海開発の検分を命じた。 現地査察は寛文9年6月14日に出発、11月25日には江戸に戻り報告しているが、この時の検分は、すでに幕閣では開発許可の方針を決めていたようで、開拓可否の検分ではなく具体的に排水路をどこに掘ったら良いのかなどと言う、開発を推進するという前提に立った検分であった。それゆえ、次の項で述べるように、この検分に対して地元農民の反対の声が上がった。
排水路沿岸村の反対、排水路を変更して干拓許可 寛文9年6月椿海開発の検分にやってきた調査団一行は、椿海南方で、この椿海の水を用水源としている下郷13ヵ村の代表を集め これに対して下郷13ヵ村の代表たちは 「これまで通りの用水さえ確保されれば、別に差し支えはない」と答えた。 勘定頭はこれを聞くと 「新田を作れば、さらにこれまでより2割も多い用水を確保してやると、新田開発を請負った者が言っているので、心配する事は無かろう、」と言った。 これを聞いて下郷13ヵ村の代表たちはありがたく頭を下げて引き下がったという。 中央の江戸から来た偉いお役人の言うことなので、素朴な農民たちは、何の根拠もないその言葉を疑う事も無く信じたのであった。 そこで地元農民の同意を得たものと思った調査団は、椿海の水を九十九里の海に落とす排水路の具体的な測量に入った。井戸野村と仁玉村の間を掘割、海岸と古川の中流とを結ぶ、ほぼ現在の新川の線に排水路を作る考えで測量を始めた。 この状態を黙って眺めていた農民たちは、ようやく事の重大性に気がつき、まず、この掘割によって田畑を潰される井戸野村、仁玉村の名主、村役人を先頭に惣百姓が猛然と反対の訴訟に立ち上がった。 「井戸野村、仁玉村へ川筋を当てられては、両村の百姓260軒、1550石の本田が失われる。」と訴えたのである。 この調査団の団長である 勘定頭 妻木彦左衛門頼能は、この反対を見て計画を変更して、椿海東端の後草村地内より三川村の浜を見通しして、三川村、野中村の境に排水路を掘る事に決定したと言う。これが後の三川堀の路線である。 この決定を下すと勘定頭 妻木彦左衛門一行は江戸に帰っていった。 この妻木らの報告に基づいて、幕府懸案の下総国椿海干拓を正式に決定した。
幕府は椿海の干拓を正式に決定すると、代官 関口作左衛門、八木仁兵衛をこの工事の監督者普請奉行に任命して、両人は現地に向かった。そしていよいよ工事が始まるのである。 排水路の測量で農民の猛反対を受けた井戸野、仁玉路線から変更して決定したこの後草、三川路線は海岸までの距離は最短距離であり、しかも、部落の間を通り、本田への影響は少ない、 誰でもが考える当然のコースであり、当初はこのコースを計画したが、井戸野、仁玉路線は旧来の河川を利用でき、新たに掘割るこの後草、三川路線より有力であったが、農民の猛烈な反対に遭い、再び後草、三川路線にかえり決定、工事が開始されたのである。 椿海の干拓の請負人である白井治郎右衛門と辻内刑部左衛門は人足を集め、三川村の浜辺から鍬を入れ、椿海に向かい排水路の掘削を始めた。
椿海の干拓について後に書かれた「椿新田開発記」によればこの時の工事を「片輪堀」といい、堀の中央から左右に分け、片側を白井、反対の片側を辻内が分担して掘ったという、
しかし、これにも疑問がある。この工事は完成を見なかったので、後の人が 不完全 即ち片輪な堀なので 片輪掘 と言ったという説がある。ともかく、掘割工事は開始されたが、予想以上の難工事であったらしい。 ☆砂底に岩石があり、これを如何しても掘り割る事が出来なかった。 という説 ☆砂地でいくら掘っても崩れてしまう。 という砂地説 ☆海水が逆流して工事が出来なくなった. という説 いずれの説が実態なのかは解らない。又どの地点まで掘られたのかも解らない。 途中で中止になり完成しなかったということは、諸記録が一致して伝えているところである
工事請負人白井治郎右衛門の脱落 この三川掘り開盤の中止の原因は、工事の技術的なむつかしさのみではなく、工事の請負人の側により多くの問題があった。請負人の1人でこの新田開発の発案者でもあった白井治郎右衛門は、長い間の開発願いや、その吟味の過程で多くの資金を使い果たしてしまい、いよいよ念願が叶って工事に取りかかったときには、資金が続かなくなっていたのだ。何日も経たないうちに人足を雇う資金も無くなっていた、普請奉行からは工事を進めるように矢の催促であった。 せっぱ詰まった白井治郎右衛門は、ついに多年の悲願であった新田開発の望みを捨て新田開発請負人から降りたのである。これにより椿海新田開発は一頓挫することになり、普請奉行として来ていた代官 関口作左衛門、八木仁兵衛は江戸に引き上げて行った。 しかし、請負人の一人辻内刑部左衛門は、両代官の後を追って江戸に登り、椿新田の開発を、一人ででも請け負いたいと幕府に願い出たのである。 椿海干拓事業に執念を燃やしていた請負人辻内刑部左衛門は、三川堀の失敗で頓挫した工事の再開許可を幕府に再三願い出ていた、しかし、幕府は失敗の直後だけに、なかなか辻内刑部左衛門の願いに許可を与えなかった。 ここに登場するのが江戸白金台 瑞聖寺の住職 鉄牛和尚 である。 鉄牛は、時の老中 稲葉美濃守正則 の帰依を得て幕閣に顔のきく人物であったので辻内刑部左衛門は、伝手を求めて瑞聖寺に参り、椿新田請負の許可を幕閣へとりなしてほしいと鉄牛和尚に懇願した。 鉄牛も、もし失敗すると自分の過失になると断ったが、辻内は今度は失敗しないと再三にわたり瑞聖寺を尋ね懇願したので、さすがの鉄牛も辻内の熱意にほだされ、老中稲葉美濃守正則を通じて、大老酒井雅楽頭忠清に話を通じたので、辻内刑部左衛門は老中のお目見えも出来,首尾よく開発許可を取り付ける事が出来た。という。 しかしこれは、後の文化6年(1809年) 福聚寺の住職が書いたと思われる記録によった事で、江戸時代中期に書かれた[ 椿新田開発記] などの記録の中には、鉄牛和尚の話は全く出てこない。 厳密に見ると、今のところ鉄牛が新田開発に直接関係したという記録は見出す事は出来ない。 ![]() 写真 福聚寺山門 鉄牛という僧 鉄牛の画像(東庄町福聚寺蔵 県文化財)を見ると、柔和な表情の下に強い意志を秘めた鋭い眼光を持った禅僧らしい風格が漂っている。しかし、幕府権力の中枢に入って、時の老中や多くの大名を操った政僧らしい凄さを感じさせない穏やかさがある。 鉄牛は長門(山口県)須佐の生まれ、幼名才之助、名は道機、11歳で出家し27歳で長崎に赴き隠元禅師の教えを受け、後に大老となる小田原城主稲葉正則に迎えられてから諸大名の帰依を受けるようになった。その帰依した大名は46にも及んだという。 椿新田開発後この新田に許された5ヶ寺の内3ヶ寺までが鉄牛が開山した黄檗宗の寺である事は事実であり異例な事である。黄檗宗は禅宗の一派だが、全国的に見ればこの時期少数派であった。 この椿新田の開発の請負に幕府への労をとった鉄牛の圧力であり、開発請負人辻内刑部左衛門はその代償として建立して与えたのであろう。 晩年干拓地がよく見える福聚寺を陰棲地として選んだ事でも、人生の最大事業としてこの椿海干拓に情熱を傾けた事がうかがい知れる。
請負人辻内刑部左衛門椿海に向かう。 開発許可を取り付ける事ができた請負人辻内刑部左衛門は、次の工事にかかる莫大な費用の事を考えて、縁者である江戸の材木商 野田屋市郎右衛門と栗源屋源左衛門を下請けとして仲間に入れ、娘婿の辻内善右衛門を伴い寛文10年6月工事再開を目指して下総の国椿海にむかった.
再び農民の反対で工事はまたもや頓挫する。 しかし、これまでの幕府との交渉の中でどのような事が決められたのか解らないが、この再度の掘割工事は、路線変更が行われた事は確かである。即ち、失敗した三川堀コースは放棄され、井戸野、仁玉間の最初のコースが採用されたのだ。 これを知った井戸野、仁玉村の名主総百姓は、再び猛烈な反対に立ち上がり、6月22日江戸に出て幕府評定所に訴え出た。 幕府は、前年も農民達の要求を入れて、路線変更をした事なので、この度も両村総百姓の反対を受け入れ、井戸野、仁玉間コースの掘割を中止する決定を下ろした。これにより両村の農民たちは、ほっと安堵の胸をなでおろしたのだった。 開発請負人 辻内刑部衛門の執念か? しかし、一方、開発請負人辻内刑部左衛門もじっとしては居られなかった。彼にとっていまや井戸野、仁玉間コース以外の路線は考えられないのである。なんとしても井戸野、仁玉間を掘り割らなければならない。 その許可を受けるためには幕府を動かす他に手はないのである。暗々のうちに、大老、老中といった幕閣に対して猛烈な運動が展開されたであろう事が想像される。またまた、鉄牛和尚が運動されたかも知れない。 この開発請負人の運動が功を奏したのであろうか、2ヶ月後の10月上旬 辻内刑部左衛門父子と野田屋市郎右衛門、栗源屋源左衛門の一行は下総椿海に向かって江戸を立った。この行動は明らかに幕府の内諾を得たのであろう。
反訴の審議も間に合わず工事が終わる。 椿海に到着した開発請負人一行は、早速10月18日より測量を始めた。これを見て驚いたのは井戸野村、仁玉村の農民たちである。 この頃、普請奉行八木仁兵衛、関口作左衛門は両村の代表を呼び、椿海の排水路は三川村に1筋、井戸野、仁玉村間に1筋掘ることに決定した。と伝えた。これは大いなる欺瞞で、反対の鉾先をそらそうとする策略であった。
椿海の濁流 椿海の開発に関する江戸時代の記録の中で、最も信頼性の高い【椿新田記】によると、 この掘割から海に続く古川もこの豪流には耐え切れず、溢れて下流の村々の人家や耕地を襲ったのだ。 とあるように、この溢れ出た水は椿海の下郷の村々に襲い掛かり家は流され、田畑は砂にうずまり、逃げ遅れた人や馬も、この水に呑まれ行方不明となり、その数は数える事が出来ぬほど多かったという 又掘割川を流れる水は、深いところで1丈2尺(3.6m)浅いところで6尺(1.8m)となり、両岸の土手が濁流に崩れる音は、ごうごうと1里(4Km) 四方に響き渡ったという。 このすさまじい光景は、とても筆舌につくしがたいものだったと思われる。 しかも、この1日だけでなく、その後半月以上も水の中に漬かっていたのだという。 この時の被害は。多くの村々の本田畑から家屋、牛馬などの家畜から尊い人命までにおよび、当時の詳細な記録は失われてしまっているが、相当な額にのぼったものと思われる。 このような大きな犠牲を払って行った掘割による湖水の排水も、
予想外の被害に幕府も驚く 余りにも被害の大きさに驚いたためか、その後、掘割から海に至る古川の拡幅や水路全体にわたる整備など、後の新川と呼ばれるこの工事は放置されたままにされていた。 悪夢のような寛文10年が暮れ、次の年、下郷の人々は例年の通り苗代を作り種まきをしようとしたが水がない、代官所にいかに訴えても手の打ち用も無く、下郷1万石は作付け出来ずに秋を迎えた。人々は餓死寸前に追い込まれた。 広大な椿海の水を干す事によって起きた、予想を超えた自然破壊の恐ろしさを目前に、農民ばかりでなく、幕府、代官も震え上がった。 しかし、この現状を放置して置く訳には行かない。1日も早く解決策を出さなければならない。 幕府はこの責任を普請奉行を務めた代官に負わせ、寛文11年10月代官を更迭して新代官に高室四郎兵衛、熊沢武兵衛、福村長左衛門を任用して、事後の対策工事に取りかかった。
寛文11年10月(1671年)に新しく任命された代官の下で溜井堰,総堀、新川拡張工事等が漸く再開された。 下郷13カ村の用水源確保のため椿海干拓地の周辺に古田を潰して14箇所の溜井堰を設け、周辺の台地から出てくる水を溜め、これらの溜井堰を結ぶ延長40Kmに及ぶ総掘りを掘ったのである。 この総掘りは、新田側に幅9mの堤を築きその外側に幅10mの水路を掘って周辺台地からの新田に流れ込む水を制御すると同時にその水で,下郷の村々の用水としてまかなったものである。 又一方では、まだ椿海に残っている水を海に落とすため、椿海の落水口から吉崎浜の海に至る排水路、後に新川と呼ばれるようになったこの川の拡幅と、堤防の補強工事が始められた。 椿海の中にも新川の延長として,五間川、七間川と呼ばれる掘割も掘られた。 これらの工事は幕府代官の監督の下に開発請負人が担当したが、溜井堰や総掘の築造などは当初は考えても見なかったため、予想を超える大工事にとなったのである。 しかし、この大工事は請負人たちの力だけでは賄いきれなかった。そこで代官は付近の村に「御役人足」を課した。これは1人1日5合の扶持米で強制的に動員される人足である。 この一連の工事は延宝元年(1673年)に完了され,ようやく残った湖水も干上がり、椿海も湖底を見せるようになった。 写真は 14ヶ所作られた溜井堰,この堰を結ぶ総掘り、新川の延長五間川と七間川が見られます。
新田が売り出される 一連の工事が終了した翌年、延宝2年(1,674年)の春から新田の販売が開始された。このとき幕府の定めた価額は 面積1町歩につき金五両であった。大寺村の八木権右衛門が、飯塚村長者松下から椿村境までの土地9町歩を買ったのが最初であったと伝えられている。 しかし、販売を始めたとはいえ、新田用地は湿地帯であり、新田内に入居しようとする農民の屋敷地には適さなかった。 そこで幕府は椿村、大田村、江ヶ崎村、後草村の土地で椿新田に接している芝野を取り上げ、新田百姓に屋敷地として与え、新田百姓の移住を奨励した。 この頃からポツリポツリと近在の村から入居する百姓があった。 また、開発請負人の辻内、野田、栗本は元締めと称し、椿の海の落水口「締め切り」に会所を立て、そこを元締町と称して居住した。今の元締橋の近くだったという。 また、新田に入るには道路が必要であり、道路の造成についての記録は、延宝7年頃と思われる記事に次のようなものがある。 [7町7反6畝18歩、これは道路18筋、ただし、西8筋(3間道2筋、2間道6筋)東10筋(3間道4筋、2間道6筋)] これを見ると新田の東と西に3間幅および2間幅の道路が18本も通っていることが知られるが、それが東西か南北か、またどこからどこまでなのかわからない。 地元旧家に伝わる椿新田古図には、椿新田の中を南北に走る5本の大道が記されているが、これを結ぶ小道は記されてはいない。この頃は、まだ道ができたと云っても湿地帯で、人馬の通行は思うようにならなかったらしく、それから20年ばかり後の貞享2,3年(1,985〜6年)の大干魃によって、土が固まり、牛馬の通行ができるようになったと云われる。 しかし、椿新田の東北部で最も水利条件の良い八重穂村、夏目村にかけての生産力の高い土地317町歩は、幕府の「御用地」として定められていた。
7,神社と寺・市場町の建設 新田内に居住者が増してくると、農民のための寺社が必要となってきた。そこで椿新田元締め辻内善右衛門は、幕府に新田内に寺社建立を願い出た。そして延宝6年(1678年)、新田内に3社5ヵ寺の建立が許可された。 3社とは、鎌数の伊勢大明神、晴海の水神社、高生の八幡宮である。 鎌数伊勢大明神の御師梅谷左近太夫は、同家に残る記録によると、辻内刑部左衛門が生存していた寛文12年以前から、椿新田の御師を望んでおり、辻内刑部左衛門の元の主君である伊勢桑名藩主松平越中守定重を通じて刑部左衛門に懇願しその了承を得ていた。 松平越中守の家臣大関五兵衛から梅谷左近太夫に送った書状に「総州椿新田御師職の儀、御望の通相叶、御満足の由その意を得候」とある。こうして御師梅谷左近太夫は椿新田総百姓を旦那とすることに成功した。そして鎌数村には留守居として家来の作兵衛を置いて、御祓いの配布などを行わせていた。 椿海の水神社は、辻内刑部左衛門が新川締切りのところに建立したものを椿村下の野地に移して神田5町歩を寄進したもので、長谷村の如来寺が別当寺である。 また、高生村の八幡宮は、屋敷地4町歩を与えられ、神主は三川村の伊勢尉であったという。 5ヵ寺は、真言宗福寿山海宝寺(琴田)天台宗新岡山東福寺(万才)黄檗宗補陀落山福聚寺(小南)同宗如意山修福寺(春海)同宗仏日山広徳寺(鎌数)であった。 海宝寺は、大田村幸蔵寺の末で、開山は慶範上人、東福寺は溝原村東栄寺の末で、開山は什勧上人、福聚寺ほか2ヵ寺は山城国浄住寺の末で開山は鉄牛和尚であった。
椿新田の中央部を南北に通る道の中ほどは、砂地でその上水溜りが多く、あまり良い土地ではなかったが、ここを請負地としていた大田村の石毛六郎右衛門、加瀬重兵衛、加瀬喜右衛門、の3人は、ここに市場を設けることを思い立ち、元禄4年(1691年)新田村々の繁盛のためとして、年間1町歩につき運上米1表を上納することを条件に、新しい市場町の建設を願い出た。 この願いは許可になり、翌元禄5年に新市場町の屋敷地割が行われ、北の諸徳寺村下から上中下と三つの町に分けられて、それぞれ永初町、昌吉町、繁町となづけられた。この町名は時の代官設楽勘左衛門によってつけられたものという。 そしてこの年の3月3日、代官手代の関沢新五右衛門、渡辺喜八郎、椎名仁右衛門の3人が祭礼守護として出張ってきて、盛大に祭礼が行われた。 この市の祭神には、新市場建設の成就を祈願した上州妙義山より妙義大権現(現在の新町大神)を、また同時に稲荷と牛頭天王の3社を勧請した。社地は願人3人より寄進して社殿が立てられた。この祭神を中心に新市場町には、毎月三九の市(三と九のつく日に開く六斉市)がたち、江戸や近在から種々の商人が出店して繁盛していった。 しかし、この付近はできたばかりの新田村であり、まだまだ経済力は弱かったので、3年ほどたったころから不繁盛となり、初めに約束した運上米の上納もおぼつかなくなり、3人の願人は3ヵ年の運上米を納め、以後の運上は赦免してほしいと願い出て、免除となっている。 しかし、その後も初めに予想したような繁盛は訪れなかったが、市場町の中の土地はどんどん売られ、江戸や近在から屋敷や田畑を求めた人たちが移り住んできて、もはや市場町としてよりも、農村的な様相を濃くしていった。(この市場町は検地後に新町村となる。)
椿新田村の成立 椿海の水が切って落とされてから、丁度25年たった元禄8年(1695年)ようやく椿新田も、少しは新田らしい様相を見せるようになって来た時、椿新田に初めての総検地が行われた。 検地とは、耕地の縦横を計って面積を定め、上、中、下といった等級を定め、その田畑の生産額を玄米量で示し、1筆ごとに所有者を定めて石高により年貢を取り立てようとするものである。 幕府は、この検地奉行として、池田新兵衛重富、諸星内蔵助同政、竹村惣佐衛門嘉躬の3人の代官を任命した。3人の検地奉行は、それぞれ十数人の手代、手付を引き連れて江戸を出発、同年2月23日に現地に到着する予定で付近の村々に回状が回った。 予定より遅れて3月3日に到着した奉行の池田新兵衛は、大田村の佐兵衛宅、諸星内蔵助は同村の嘉右衛門宅、竹村惣佐衛門は幸勝寺をそれぞれ旅宿とし検地の準備に入った。 この検地実施のためには、新田内居住者と椿新田付17ヵ村の村々から案内者を始め縄引きや竿持ちなど多数の農民が駆り出され、大係りな準備が進められ、3月7日から大田村より検地が始められた。こうして18ヵ村の検地は4月9日に終わり、3人の検地奉行と手代一行は江戸へ引き上げて行ったのである。 しかし、この検地を受けた農民たちは、この一行をどんな気持ちで見送ったのであろうか。新田に出てきたばかりでまだ経済力の弱い農民たちにとって、この検地は非常に過酷なものであったらしい。その上、この農民たちの弱みに付け込む悪徳下役人、手代も少なくなかったのである。この検地に対する農民たちの当時の気持ちは、次の話によく現れている。 それは、検地奉行代官の1人諸星内蔵助の手代であった伊井源太夫は、大田村の検地を行ったが、このやり方を見ていた農民たちは、その「御心差悪敷」と、その苛酷であることに憤り、源太夫が馬から落ちて死ねばよいと皆願っていたという。ところが検地が終わり江戸に帰ろうという源太夫が、椿村から大寺村へ向かう途中、何に驚いたのか乗っていた馬が暴れ、源太夫は落馬、あえなく27歳の若さで死亡した。 これを見ていた農民たちは、検地は農民にとって後々までの大きな影響を持つ「万号不朽之事」であり、役人は正しい心を持って当たるべきであるのに、非道の仕方をしたので、まさに天罰が下ったと口々に話し合ったという。 この検地の結果2,741町歩の耕地が出来たことがわかった。しかし普通の耕地である上、中、下の田畑は非常に少なく、耕地の多くは「悪地下々田」や「砂畑」、特に多いのは「芝間」(448町歩)とか「砂間」(646町歩余)といった耕地化されない土地であったという。 また、市内に残る唯一の椿新田検地帳である新町村検地帳を見ると、屋敷は新町村が最初から市場町として作られたという事情もあって、163筆と非常に筆数が多いが、その所有者の中には肩書きに「諸徳寺」「大田村」などとあり、中には「多古」や「江戸」という者までいる。これらの人は村に住んでいないことは明らかだが、何の肩書きも無い71人も、どこまで家を建てていたか疑問である。この検地から18年もたった正徳3年でも、新町村の家数は85軒であった。 おそらくこの頃の椿新田は、見渡す限り渺々とした葦の生え茂る原野で、所々に新田百姓の粗末な小屋のような家がかたまって見えるという風景であったのだろう。 それでも、ともかく検地によって18ヵ村が「村」として認められ、翌年の元禄9年それぞれ村名が付けられた。
新しく付けられた村名と石高
18ケ村の村高は18,609石余で、約2万石弱であった。「干潟八万石」という言葉が,縁起を担いだ意味のない言葉であるとしても、現実は八万石とは、程遠いものであった。
こ
御用地払い下げの悲劇 新田検地の行われた翌年の元禄9年、ひと騒動が起こった。其れは幕府が「御用地」の払い下げを決定したからである。「御用地」というのは、、椿新田の東北の隅、八重穂の地先で万歳村から夏目村にかけての約317町歩余の土地である。ここは新田の中でも最も条件の良い土地で、幕府は最初から「御用地」として指定し、おそらくここから上がる年貢で、新田の管理費等を賄おうとしたのであろう。 驚いたのは「草切百姓」と言われるこの土地を開墾した農民たちであった。おそらくこの土地に入植した農民たちは自分で1鍬1鍬汗を流して開墾して田畑にした、家屋敷も作ったこの土地が何時かは自分のものになると思っていたことであろう。其れを今相当の金額を出さなければ他人のものになってしまうのである。
この五郎左衛門が何時新田に入植したかは解らないが、如来寺の過去帳に出てくるように延宝2〜3年頃であったとすれば、約20年間の血の滲むような努力が、わずか4両1歩の草刈賃金であったのである。
東北の台地よ り望む干潟八万石の平野、鉄牛和尚もこの辺から見ていたものか
元禄飢饉、雪霰、旱魃、暴風と天災が続く! 元禄の検地の結果、新田村の村名が付けられてから5年ばかり経った元禄14年(1701年)3月11日、春3月というのに冷たい雪霰が降りしきった。この時ならぬ雪霰は、これから始まる悲劇の幕開けだったのである。 この雪霰は、苗代に育っていた早苗を片っ端からへし折り、畑では穂の出掛かっていた麦に大きな被害をあたえた。そしてその後は干天が続き、一向うに雨が降らず、溜池は涸れて田には水が無く、田植えをすることが全くできなかった。 これだけでも農民にとっては死活に関わる大問題であったのに、夏に入った7月21日夜明けから襲ってきた暴風は、大海の黒潮を吹き上げて塩水の雨となって田畑や家に降りそそいだ。 これによって田畑の作物はいうまでもなく、竹や木の葉までが枯れ落ち、吹き折られ根元からくつがえる大木も多く、農民の家々も屋根が飛ばされたり、柱を折られつぶれる家が続出した。当時の記録には「村々の家は過半数がつぶれた」と記されている この暴風は、西は栗山川、東は銚子、北は小見川辺まで吹き荒れ、塩雨が降った地域は椿新田より銚子までだったという。この暴風の被害により田畑の作物は全く無くなり、農民の食物はわずかに残った菜、大根、そば、芋の類であったが、その大根、菜の種さえ手に入らず、商人が江戸から仕入れて売り出したが、目の飛び出るほど高い値であった。 そこで椿新田の村の代表が銚子の代官の元に走り、種賃金拝借を願い出た。代官もこの惨状を見て早速江戸に帰り、幕府の許可を得て、椿新田、古村とも村高100石につき金4両の種賃金の貸付を決定し、3ヶ年々賦返済という条件で貸し付けることになった。 しかし、この位の事で、この惨状は救えるものではなかった。 餓死寸前で幕府に直訴 10月頃には食料を食べつくし、折角幕府から借りたお金で買った種物も食べてしまい、これでは来年の作付けができず、田畑は荒地となってしまう。新田村の百姓たちは、相寄って相談し、割元名主の許にゆき、代官に対して扶食の拝借を願い出て欲しいと懇願した。 しかし、餓死が目前に迫っている百姓たちにとっては、事態はまさに深刻だった。そんな悠長なことを云っている割元名主に愛想を尽かし、割元名主にお構いなく、夏目村など8ヵ村から1人宛ての代表を選び、江戸に上がって幕府に直訴した。 直訴した者たちは代官の取調べを受けたが、幸いにも農民たちは願いを聞き届けられ、4人の名主は不屈であるとして召喚状が出された。 この願いが聞き届けられ、その年の12月20日から古村、新田村の人口調査が行われ、それに基づきようやく夫食(食料)が支給されることになった。その支給量は翌元禄15年3月末日まで、男は1日米2合、女は1合、4月1ヶ月間は、男1日麦2合、女1合づつが与えられた。 しかし、1日1合〜2合の麦では、湯のようなお粥にしても命をつなぐことは難しく、餓死するものも多く、達者な者は乞食となって他国に流出したという。
高い年貢に驚く この元禄15年4月、この地方の担当代官が窪嶋市郎兵衛から清野与右ヱ門に替わり、早速年貢の割付状が出された。それを見て百姓たちは驚いた。余りにも高い年貢で、その上被害で作付け出来なかった田畑にまで年貢がかけられている。 困り果てた農民たちは60人ばかりで大挙して江戸に押しかけ、種貸金の返納延期と年貢の減免を願い出た。この訴訟の結果がどうなったか、その後の資料が無くて明らかではない。 とにも、かくにもこの元禄の凶作、飢饉は、椿新田の村々、古村の人々に大きな打撃をあたえたのである。またこの飢饉の救済直訴を契機として椿新田の割元名主と農民の間には大きな溝が出来、対立を深めていったことは確かである。
椿新田開発の被害 満々と湛えていた椿海の湖水の恩恵を受けていた周辺の古村では、椿の海の干拓により大きな被害を受けることになった。湖水の排水時の際の大被害は前にも述べたように、幕府も、代官もまた農民も驚く大被害を出したが、その後も多くの被害が出ていた。 湖水の東南にある網戸村では「村明細帳」の中で椿の海干拓以後、干害になやませられるようになったことを記している。又隣村十日市場村の村明細帳にも、前には椿の海の湖水が1里程上にあり、自然と流水で潤っていたが、新田開発以来は年々旱魃で迷惑している。と また、椿海の南岸にあった大田村では、椿海の排水路が村内を通ったため、その用地になってつぶれ水田が1町歩余り、最初に湖水の排水時に水が水路から溢れ、周辺の水田に土砂が流れ込み再び田畑に戻らない土地が2町歩余り、湖水の排水と新川の掘削により水が抜けてしまい、水田が畑になってしまった土地が33町歩余りと記されている。 このように、椿海干拓により大きな被害を受けた古村ではあったが、干水後の椿海の開拓には、この古村より出て行った百姓が多く携わった。古村の被害の保障として椿新田内に土地を与えられたといわれるが、これが真の意味での保障になったかどうか疑問である。椿海跡の耕地化は、被害を受けた本田の復旧以上に困難で労力を要する仕事であったからである。 延宝2年の新田売出し以降、これを投機的に買った遠方の地主や江戸の商人などもあったが、実際に椿海の跡を耕地化し、新田を美田化したのは、椿海の週辺古村より出て行った百姓や、その2,3男の移住者である。それゆえ椿海開発の初期は周辺古村と椿新田とは一体であった。
椿海開発の恨みは残った。 椿海の豊かな水資源の消滅は、湖の水域であった古村の人々に大きな被害をもたらした。 専らその恨みは、開発を進めた幕府代官やそれに関係した辻内などの三元締めに集中した。近世の中期以後に書かれた【椿新田開発記】等を読むと、 椿新田に関係した代官等が次々と切腹を命じられたり、遠島になったりして断絶して行き、天罰が下って三元締めが自殺してゆく事を述べる言葉の端々に、心の奥深く刻み込まれた怨念がにじみ出ている。
――椿海の干拓終り――
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