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姉川の合戦(1570年)
○織田・徳川軍 3万4千 VS 浅井・朝倉軍 1万8千●
<背景>
1570年4月、織田信長は京から湖西を進軍し、朝倉領手筒山城を攻撃した。そして次々に朝倉方諸城を落としていった。これに対し、朝倉の古くからの盟友でかつ織田とも同盟関係にあった浅井長政は、織田との同盟を破棄して織田軍の背後を急襲した!理由として、「朝倉方に攻撃を加える際はどんな場合にも必ず浅井氏に一報してから」という織田家との約定を信長が破ったからだ、とされている。
結局、織田軍は見事に撤退し(金ヶ崎の退き口)織田軍の逆襲が始まる事になる。
<開戦>
6月、進軍してきた織田・徳川軍に対し、浅井・朝倉軍は姉川を挟んで対陣した。陣形としては、「織田VS浅井」「徳川VS朝倉」となった。
合戦が始まると、まず浅井軍の勇猛ぶりが際立つ。13段の陣を構えていた織田軍に対し、浅井軍の武将・磯野員昌隊が11段までその陣を破る活躍をするなど、当初浅井・朝倉軍が優勢に戦いを進めた。
<形勢逆転>
ところが、朝倉軍が徳川軍榊原康政隊に側面を衝かれて崩れると、一気に敗走。浅井軍の側面に徳川軍が回りこみ、織田本隊にも近隣の横山城を攻囲していた西美濃三人衆(稲葉・氏家・安藤)の援軍が駆けつけるなどして、さすがの浅井軍も劣勢になり敗走した。
<戦後>
浅井軍は勇将・遠藤直経、朝倉軍は真柄親子など、勇猛で知られた武将を失う痛手を被る。浅井家は領地的にも小谷と佐和山の間を織田家に分断される形となる。朝倉家は半分の戦力しかなかった徳川軍に大敗し、金ヶ崎の退き口に続く失策にその名声を大きく落とすことになる。
一方の織田家も損害は少なくなかったが、この後、佐和山城主だった磯野員昌を調略することに成功し、再び京と岐阜を繋ぐ街道を確保できたことの意義は大変大きかった。
こうして浅井・朝倉両家はその力を弱め、滅亡へ向かっていくのである。
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