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川中島という名前は、戦国ファンの方でなくても聞いたことはあるし、恐らく武田信玄と上杉謙信の戦いである事も有名だと思う。
最も激しかった、第四次川中島の合戦の地が、現在川中島古戦場とされている。
改めて概要を!
<合戦までの背景>
甲斐国を統一した武田晴信(信玄)。さらに信濃を順調に制圧していき、北信濃の強力な豪族だった村上義清、信濃守護職にあった小笠原長時を追い出すまでになる。そして信濃の大部分を制圧し終える。朝廷も信濃守護職を武田晴信に与えた。
追われた村上・小笠原両氏は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、景虎はそれに応え、両氏とともに北信濃旧領回復を目指す。
一方、晴信は後背の強力大名である関東の「北条家」・東海道の「今川家」と甲相駿三国同盟を結ぶ。こうして、武田軍の多くを信濃完全統一に差し向けられるようになった。
そうして、北信濃の川中島で武田・長尾両軍が激突することとなる!!
…しかし、第三次までの川中島の合戦は対峙するだけで大規模な衝突はあまりなかった。
<第四次川中島の合戦・始まり>
長尾景虎が関東管領上杉家を継承し、また名も変え、上杉政虎と称し、晴信が出家して信玄と号した後、遂に第四次川中島の合戦が起こる!
先に到着した上杉軍一万三千は善光寺に着陣した後、川中島南の妻女山(斎場山)に布陣する。
一方の武田軍二万は、川中島北の茶臼山に着陣した後、川中島中央の海津城に入城する。
北から来た上杉軍が南側に、南から来た武田軍が中央に陣取ったことで、互いの退路を塞ぐ、膠着状態に陥った。
<開戦!>
膠着状態が半月続くと、遂に武田軍が動くことになる!
軍師山本勘助が立案した策を用い、本隊を二隊に分け、片方が山上の上杉軍に奇襲をして上杉軍を下山させ、もう片方が下山地点で混乱して敗走してくる上杉軍を待ち伏せて叩きのめす、「啄木鳥(キツツキ)戦法」を取ったのであった!!
そして武田別働隊が妻女山に攻撃を仕掛ける…しかし、山の上はもぬけの殻!実は前日に、海津城から炊事の煙が多く立っているのに築いた上杉軍が、策のウラを読んで、夜のうちに鞭声粛々、下山していたのであった。
そうとは知らない待ち伏せ武田本軍。八幡原という場所に陣取っていた。朝になって一帯に立ち込めた霧が晴れると、目の前には見事に軍勢を整えた上杉軍が「車懸の陣」を取っていた!
士気も高く、準備万端の押し寄せる上杉軍に対し、二隊に分けたことで兵力に劣り、動揺を隠せない武田軍は防戦一方!
武田軍は、信玄の弟・信繁、軍師・山本勘助、老将・諸角虎定らが討ち死に、信玄の本陣も激戦にさらされた。
<あのシーン>
激戦の最中、床机にゆったり構える信玄の元に、一騎の騎馬武者が突撃してくる。騎馬武者の振り下ろす太刀に対して、信玄は持っている軍配で防いだ。3太刀防ぐと、武田軍の将兵が助太刀に来て、騎馬武者の乗っていた馬の尻を槍で突いた。すると、馬が暴れだし、騎馬武者は武田本陣を去っていった…
危機を脱した信玄は3太刀しか浴びていないはずなのに、7太刀分の傷が残る軍配を見て、「神の如き刀捌き、かの将が上杉政虎であったのだろう。」と述べたという。
<形勢逆転>
一方、山上で出し抜かれた武田別働隊。八幡原で鬨の声が上がるのを聞くと、本隊の危機を救うべく、急いで下山した。
完全に劣勢だった武田本隊と戦う上杉軍の後背に、別働隊が追いつくと、形勢は一気に武田へと傾く。
こうして上杉軍は川中島北端の善光寺まで退き、越後へ帰っていった…
この戦は「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」とされてはいるが、上杉に三千ほど、武田に四千ほどの死者が出たとされ、戦国史上最大の死傷者が出た戦だったと推測される。
<その後>
さらにもう一度、川中島で対峙があったようだが、衝突はなし。
武田は上州長野家を潰した後、今川や北条、最終的に徳川へと矛先を向けていく事になる。
上杉は北信濃どころでなく、国内の豪族反乱や一向一揆に悩まされる。それを鎮圧した後、北陸道を進軍していく事になる。
こうして、二度と武田・上杉間で大規模合戦が起こることは無かった。
<この話の真実>
この話の多くは、江戸期の軍記物語、「甲陽軍艦」に記載されたもの。つまり、創作部分が多いらしい!
まず、軍師・山本勘助の存在自体が怪しい(軍師ではないが山本菅助なる人物はいたらしい)。キツツキ戦法も無く、ただ霧の中の遭遇戦だったのではないか、という説が有力。もちろん、信玄と政虎が直接刃を交えたのも創作でしょう!
しかし、死者が相当数出たこと、武田信繁が死亡、上杉政虎が実際に戦ったほどの激戦だった…このことは間違いない事実だったようである。
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