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賤ヶ岳の合戦(1583年)
○羽柴秀吉 5万 VS 柴田勝家 3万●
・背景
1582年、本能寺の変で織田信長が明智光秀によって散り、その光秀は山崎の合戦で羽柴秀吉に敗北、逃亡時に死亡した。
織田家の嫡子・織田信忠も本能寺で討死していたため、織田家の莫大な領地・覇権を誰が握るか混沌としていた。
信長の次男・信雄と三男・信孝は大将格の人物でなく、嫡男・信忠の長子・三法師はあまりにも幼すぎた。ここで、織田家ナンバーワン家老・柴田勝家と、山崎の合戦で謀反人光秀を誅した羽柴秀吉との間で権力争いが繰り広げられる。
後継者を決めるために開かれた清洲会議で、秀吉の事前工作もあり、秀吉の推す三法師が後継者に決められた。
その後、信長の葬儀を主催、朝廷との関係などの秀吉の動きが織田政権を乗っ取るもの、と危険を察した勝家は秀吉との対立を深めていく。秀吉も勝家方の長浜城を攻囲し降伏させ、勝家方の織田信孝の居城・岐阜城を攻め落とし三法師を奪い返すなどした。しかし、北陸の雪に封じられて勝家は出兵できず、日だけが過ぎていった。
・開戦
雪がまだ残る二月末、遂に柴田勝家が動く。佐久間盛政・前田利家・不破勝光など北陸諸将が従軍した。
この報を受け、秀吉も動く。羽柴秀長・高山右近・中川清秀らを従え、進軍。両軍は琵琶湖北岸の地で遇い見えた。
山上に陣取る勝家軍に対し、平野部に陣取る秀吉軍。秀吉軍は戦上手の勝家に対し、堀・土塁・柵を巡らせて警戒した。こうしてしばらく膠着状態が続く。
・転機
秀吉と勝家の対陣が長引くのを見た、伊勢の滝川一益、美濃の織田信孝が秀吉に対して挙兵。秀吉軍は背後を衝かれる形となる。
秀吉本隊は6月6日、対陣用の兵力を戦場に残し、美濃へ出兵した。これを見た柴田軍部将・佐久間盛政が勝家に、戦場に残る秀吉軍への奇襲を提案する。最初こそ難色を示したが、強硬な盛政の態度に勝家が折れて、奇襲作戦が実行される事になった。
6月9日朝、徹夜で進軍した盛政軍は、夜明けとともに秀吉方・中川清秀を急襲し、清秀を戦死させる大功を挙げ、清秀の隣の陣の高山右近隊にも甚大な被害を与えた。
盛政は勝家に進軍を要求、自分は秀吉軍の陣地に残り続けた。これに秀吉の策略を感じた勝家は、盛政に柴田軍陣地への帰陣を要求。両者の意見が噛み合わないままであった。
・逆転
6月10日「盛政軍動く」の報を受けた秀吉はその時既に美濃にいた。しかし、迅速に動いた秀吉軍本隊(時速7キロほどと言われる!)は7時間で賤ヶ岳の戦場に舞い戻る。
まさかの本隊到着に驚いた盛政軍は急いで退却を開始、秀吉本隊もそれを追う。琵琶湖と余呉湖に挟まれた賤ヶ岳で激戦を開始する!
勝家は急いで柴田勝政隊を援軍に差し向け、前田利家隊にも援軍要請した。武勇を誇る盛政、なんと秀吉隊に対して善戦する。そこで秀吉隊は援軍の柴田勝政隊に矛先を変え、賤ヶ岳一帯は激戦地となった。
あとは前田利家隊の到着で再び形勢は柴田軍に傾くかに見えた。しかし突如、利家隊は戦線を大きく離脱、不破勝光隊・金森長近隊も戦場離脱。孤立した盛政・勝政隊は壊滅、勝家は居城・北ノ庄城へ敗走した。
この利家らの離脱は、古くからの秀吉と利家の縁だとか、勝家の使者として以前に秀吉と対した3将はその時懐柔されていた、など説はあるが、真相はわからない。
こうして、織田家の後継者争いは大きく秀吉に傾き、勝家は間もなく北ノ庄で秀吉に敗北・自害。豊臣政権が樹立されていくのであった。
また、戦時に大きな戦功を挙げ、後の豊臣政権の屋台骨を支える武将となる7人…賤ヶ岳の七本槍が誕生した。
賤ヶ岳の七本槍
福島正則・加藤清正・脇坂安治・加藤嘉明・平野長泰・糟屋武則・片桐且元
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