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幻の名工・後藤梅輔
那珂湊の町中にある四郎介稲荷神社を訪れるとその素晴らしい彫物に圧倒される。
この彫物を彫った後藤梅輔徳清についてはその素性について知られている事が少ない。これだけの彫物を彫る名工が此処だけで終わったはずが無い。他にもこの彫物師が彫った彫物があるに違いないと感じた。
茨城県の建築彫物で有名なのは笠間稲荷神社本殿である。その彫物師は棟札に寄って後藤縫殿之助と知られている。縫殿之助の彫物は、縫殿之助が博覧会に出品した作品が受賞する事に寄ってその価値が高まり、県内の他、他県でも仕事を要請され多くの作品が残されている。しかし、笠間神社の彫物も同時に仕事を引き受けた群馬県の彫物師・弥勒寺音八、諸貫万五郎の腕の冴えに寄るところが大きいと思われている。同じ那珂湊市内にある華蔵院の本堂向拝の龍と見比べてみて欲しい。
調べてみて判ったところは、四郎介稲荷神社の近くに住む人の話に寄ると梅輔は水戸の下市の生まれで江戸で修行したと言われる。那珂湊に入り、湊に住みあちこちの彫物をしたと伝えられている。その伝承の通り、那珂湊市内に作品が見つかり始めた。平磯の津神社拝殿の彫物に
「安政五年(1858)午十一月吉辰 東都日本橋門人 彫工 後藤梅輔徳清」
とある。この銘から、この当時江戸日本橋で活躍していた彫物師の門人と判る。推測すれば梅輔が那珂湊で仕事をする前の約5年から10年前に江戸修行をしていた。この当時、日本橋住みの彫物師は「後藤三次郎橘恒俊」か昭島市拝島町の屋台の古文書にある「嘉永元年 彫工後藤三次橘恒徳 東都日本橋」であろう。恒徳は「江戸彫工」を主催している管理人によれば、嘉永元年(1848)に42歳という。梅輔もこの頃に入門したのだろうか。もしくはもう少し前、少年の頃に恒俊に教わったかもしれない。
津神社の次の年、酒列磯前神社の拝殿の龍の彫物をしている。刻銘に寄れば
「安政六年(1859)己未歳六月吉辰 後藤門人 梅輔作」
とある。津神社では日本橋の名人の弟子である事を表明し、磯前神社では後藤流の彫物師である事を表明している。
調査不足のせいか、この後、四郎介稲荷神社拝殿の刻銘まで
「彫工 後藤梅甫徳清 明治九年(1876) 丙子 正月吉辰」
その名前を見つける事が出来ない。しかし、建立年代が不明であるが大洗磯前神社の随身門の彫物が梅輔の作品であると言われる。欄間の彫刻に刻銘があると言われている(未確認)。それにしても酒列磯前神社から四郎介稲荷神社まで約17年の間がある、この間にも作品を作らなかった訳が無い。これからもその彫物の素晴らしさから後藤梅輔の作品が見つかるであろう事を期待している。
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