014-0013 ホームページ主宰者の自己紹介

 

 

Profileとはホームページの場合、その特性の中どの部分をどのくらいピックアップすれば良いのか迷ってしまう。

余分なことをあまり詳しく書いて、読んで頂く方々に冗漫感を感じさせたり、退屈だったりすれば何にもならない。

底が見えない程度に、しかし嘘のない人間像を理解して貰えるように記したいと思う

           

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ニックネーム

ホームページ開設に伴い、ページの上では正覚坊(しょうかくぼう)と称す。正覚坊は、アオウミガメの別称。九十九里に産卵にくる。

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生まれ

信州のほぼ中央の辺り(松本市郊外)に生まれる。産湯は梓川(あつさがわ)の水であった。少年期は、朝な夕な天空に屹立するアルプスを観て育った。

 

住まい

千葉市の東部高地に住む。平成7年4月からの新住民。それまでは埼玉県民であった。ここは真夏、市の中心部より2〜3度低くく、都心とは4〜5度も差があることが多い、昼間だったら信州の生地よりも涼しい。風の爽やかさは格別。

東京へ出るのに時間は少し掛かるが、住み心地に比べれば何たることもない。

 

 

引退とともに房総へ移住

引退する一年前に土地を手当てして、翌年仕事を辞すと共に家が建つように準備しておいた。その年の暮れに、名古屋に嫁している長女が、たまたま難病に罹つて入院し、家内が手助けに行つていたが、その中に、こんどは母の体調がおかしくなり、やはり名古屋で一緒に過ごすことになった。

 

二つの家がてんやわんやとなった。その春の関西大地震と共に、我が家にとっては特別に忘れられない年となった。家内は娘の夫と幼い子供三人に半病人の母をも抱えてなお病院通いをするという三ヶ月であった。大変だったと思う。 

 

飼っていたマルチーズは、止む無く私が会社へ連れて行くことになったガ、不安がつて私からどうしても離れない為、会議中や、応接中でも、いつも椅子に乗せて侍らせることにしていた。その間は静かに座って啼き声一つ立てる事もなく、普段では考えられない良い子振りであった。

 

娘の病気もようやく恢復に向かい、4月はじめ家内も母も、私の退職に合わせて帰つて来る事ができた。

何も準備が出来ていない引越しの片付け作業は、大変であった。

母を千葉の次女に預けての夫婦の戦闘は、4〜5時間の睡眠で二十日間、休む暇が無いものとなった。思い出の品々も思い切って捨てた。この中によくもこんなに入っていたものと今更ながら感心もした。

                            

百日紅、花みずき、さんしゆゆ、リラ、花ざくろなど大きな木は残した。地植えの草花類もそのままにした。

どの木も家を建ててから、小さな若木を植えたもので、我が家の記憶の句読点そのものであった。

家内のものを主に植栽鉢は、三百個ほどもあったが、親しくしていた近所とか、植物好きの知人に頼んで貰って頂いた。

持ってきたものは、ゆすらうめ、みつばつつじ、うめ、にわうめ等の小低木等と五つの庭石と数個の古い盆栽だけであった。

別れの辛さは、家にも花木にも隣人と同じものがあった。それぞれ永らえて逝った二匹の犬の骨も、庭から掘り出し、壷に分けて最後に積み込んだ。

石の移転費が家財のそれの三倍も掛かり、びっくりしたのを覚えている。

 

好きな事

旅、作句、村や街めぐり、歴史・民俗・お祭り等を訪ねること、野草、野鳥などの観察。

性格

積極的な正義派。これは子供の頃から変わらない。不正、不公平は許せない。また陰こそ、陰舌、陰糸、陰枝などの陰は大嫌い。

反面涙脆くて困ることがある。平和主義者。気の置けない友人たちと語ることが好き。

しゅみ

能、オペラ、歌舞伎、音楽等の鑑賞、その他少しく絵を描き、ハーモニカと太極拳のクラブへ顔をだしている。書き並べると中々のものであるが、いずれも大したことは無い。

 

赤っ恥

引越しの片付けも一と段落した秋口、前々から楽しみにしていた絵を習おうと、町の公民館で教室に申し込んだあと、欲を出してもう一つと思い、たまたま貼ってあった俳句の部屋へ行った時のことである。

申込書を提出すると同年配氏が、歳時記はどんな物を持っているかという。

さ い じ き? 私は初めて聞くこの言葉を幾分ためらいながら聞き返した。

そう、季寄せですよという。何たることか、この言葉もまたその時の私には理解を超えていた。

まじまじと私を見ていた彼は、突然破顔一笑、貴方は珍しい人だ、その無垢が素晴らしい、一生懸命やれば間違いなく上手になれる、と驚きながらも煽ててくれるのであった。

 

思えば、社会に出てからの今まで、文学とか文芸とかに親しむような機会はついに無かった。まさに仕事だけ人間にはそのようなものは必要なかったし、またその時間も無かったのである。五十台になるまで休日などもほとんど取らなかった。若い頃は、たまさか休日を取ると二人の子供は、いつも小躍りして喜んだものである。文庫本などの予約月極め販売が流行っていて、読まない本が部屋を狭めていた。何時かゆっくり読もうとは思っていた。しかし文芸として読んだものは、新聞小説にせいぜい文芸春秋誌ぐらいのものであった。一茶の四五句や芭蕉の五六句は知っていたがそれ以上の知識は持ち得なかった。

そのつけが、今やいい歳をした歳時記も知らない無教養人として、ここで恥を晒すことになったのである。このことは、まさに頂門の一針であった。[H16/10/30] 写真は正覚坊、小諸市虚子庵にて。

             

鳥帰る晩飯早き海人の村     正覚坊

   (とりかへるばんめしはやきあまのむら   しょうかくぼう

 

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