房総の歳事のとびら

古代蓮 大賀はす 昭和26年に千葉市検見川の泥炭層から約2000年前の蓮の実が発見され、この実の一粒が大賀一郎博士によって発芽に成功した。発見された2ヶ月後の5月のことであった。翌年4月にその根から3個の蓮根が堀り上げられ、3箇所に分けて植栽された。同年7月に開花した。
房総の歳事については下記の中からクリックしてお選び下さい
鬼来迎(きらいごう) 8月16日 広済寺 匝瑳郡光町虫生(ちむしょう) 施餓鬼会のあと前庭にて行う
香取神宮のお田植祭 4月第一土曜日・日曜日 香取神宮及び神田にて行われる
梵天立て 正月7日払暁 木更津中島海岸にて行はれる
白間津の大祭(おおまち) 全戸全員で祀ってきた1000年! 南房千倉に4年毎に開催される
三十三年毎のお浜降り 大友皇子(弘文天皇)のお妃をお祀りする 旭市、匝瑳市にまたがって行われる
房総の歳事に寄せて
房総には古くからの歳事が、驚くほど多くいまなお大事に伝承されている。
戦前までは日本中の人たちは、古いしきたりや慣習を当然のようにわきまえ、自分がその当事者であることに義務感をもち、それを行うことに一種の誇りを覚えたように思う。
歳事は国ごと、村ごと、部落ごと或いは一族ごとによって行はれ、中にはその家だけのものもあった。それは年年歳歳繰り返され、途中で多少の変更や省略があってもそれぞれ大事に伝えられてきたのである。
歳事は大まかであっても恐らく縄文の昔から、いやもっとむかしからあったに違いない。
歳時とは毎年同じ時期に繰り返される祭事にほかならない。
歳事は自分をはじめ妻子や一族が、さらに生き続けられるために行う祈りや呪い(まじない)であった。それは神や気まぐれな自然の力に対応するための祈りであり、供応であり、魔に対するおどしである。
先祖たちは獲物や収穫の途切れることを何より怖れた。干ぱつとか、火山の爆発などに伴う飢きんや不猟、特に必ず毎年訪れる冬にはいつも不気味な不安を感じた。長い冬はやがて食べ物の不足を来たし、飢えた体に耐え難い寒さがかさなった。
冬を無事に越えることは何より重要であった。それだけに春を迎えることはなによりの喜びであった。
その他の怖れは、不慮の死であった。働きさかりの者や子供が病や事故で死ぬことは、すぐ飢えにつながり、一族維持に不安をもたらすものであった。老いて死ぬほかは全て魔による災いであった。
先祖たちは無事に生きられることや自然の恵みの多さを祈り、また呪った。祈りをするときは、快く聞き入れていただく為に神にはご馳走を捧げた。舞いや踊りも神を喜ばす為には重要であった。
捧げものは、神への感謝であるとともに、さらなる無事と豊穣をお願いのためのものでもあった。
祭事のあと神へ捧げたご馳走は集まった者たち全員に分けられ盛大に飲食された。この一連の次第がいわゆるお祭である。
普段の食べ物は最低生きていけるだけのものであったはずである。お祭にはたらふく食べることが出来た。
お祭は祀ることからの言葉である。歳事は同じことが同じ時季に繰り返されることである。時季が来ればそれから先の安穏を祈り願い、時には魔物追いの脅しを皆で行った。神はいたるところに宿っていたし魔物もいた。祖霊もまた神であった。
房総の歳事はおそらく行き止まりの半島という地勢の特殊性から、また房総人の伝統を重んじる気質もあって明治維新と敗戦という二つの社会改革にも関わらず脈々と受け継がれてきている。
新年(旧)に房総全域に行われる御歩射、長い伝統を持つお祭の数々、そのほかの各種行事など挙げるに事欠かない。
房総の人々はいまでも神や仏と至近のところで生活している。
日本には仏教が伝来し彼岸会、盆会、追善供養などなどの仏教歳事が加わり、またキリスト教によって降臨祭、感謝祭などもある。
日本には物には全て神が宿るという八百万の神思想があり、神仏混淆の宗教観は明治政府の廃仏毀釈令以後も依然としてそのままである。お伊勢参りと善光寺参りのパック旅行は別に不思議でもなんでもない。
日本人がおかしいのではなく、自然自由人であれば当たり前であろう。しょせん人間は弱く、常に何かに祈らなければ生きていけないのである。
これから沢山の房総の歳事を紹介していきたい。