正覚坊の中核ページ 房総随想の扉

晩秋の九十九里海岸
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年譜で見る里見氏北条氏の対立とその周辺
木曽義昌の遺臣たちは徳川軍を木曽へ先導した(旭市網戸・あじと 佐倉市)
白間津の大祭(おおまち)・・・・全戸全員で千年 千倉町千倉(ちくら)
三十三年ごとのお浜降り (みみものとじ媛のお祭り)旭市、野栄町
木曽義昌公と網戸(あじと)の人たち・・(東漸寺と檀徒の篤心) 旭市、木曽義昌の菩提寺
ご挨拶 正覚坊
この地を全くと言ってよい程知らない私は、移住後家内と房総のあちこちを廻り歩いた。廻り歩くことで房総
を少しずつでも理解しようと思ったのである。歩いている中に今までに想像も出来なかった景観や神社仏閣、遺跡、歴史的遺物、民俗、祭り等などを次々と目にするようになった。
目を見張るようなものに幾くたび出会ったことか。
この房総随想は、このホームページの中核をなすページである。
私は平成7年この地へ移住するまで、房総という土地がどの様な風土であるか、またどの様な歴史があるのかなど全くと言って良いほど知らなかった。
その時に持っていた私の房総についての知識のカテゴリーは大凡次のようなものであった。
菜の花の国、成田空港と空港反対闘争、水郷と銚子、鴨川とシーワールド、九十九里、里見八犬伝の国、東京湾に広がる新興工業地帯、成田山、伊藤左千夫、それに有名野球選手の多い所というようなもので極めて貧しいもであった。
前住地は埼玉であるが、東京や神奈川は極く近い所いう感覚であった。それだけに生活上でもその他でもおなじ首都圏という認識でその地域についての常識的な知識は持っていた。
千葉は感覚の上では東京のすぐ隣の近さにあるものではあった。しかし知っている事は余りにも少なく言うならば近くて遠い所であった。
観光で何回か行った他は直行直帰の空港利用くらいでその他は格別の関わりもなく、ただ学生時代藷の買出しに行った記憶もあり、なんとなく親しみだけは感じていた。
仕事を退いたら、老後をそのまま埼玉で過ごすか、はたまた信州の田舎へ帰るかをゆっくり考えようと思っていた。
埼玉は自然にも恵まれ、東京に近く、秩父などにも行き易くて、慣れてもいることもあり住むには誠に理想的な土地であつた。二人の娘はそれぞれすでに他家に嫁して遠くにいるため、あとは親族たちのいるところへ帰ることもまた選択肢の一つでもあったのである。
しかしである。縁というか運命というか。我が家は考えた事もないここ房総の一角に住むこととなっていた。
移住することになったのは、意外にも娘たちの薦めからであった。
二人の娘とその夫たちが、私たちの老後を心配して内緒で話し合い、名古屋か千葉市のどちらかで娘の手の届く近くに移住して呉れないかと伺いを立ててきたのである。職を退いた老親を近くで見守りたいと言うのである。
今の時代であれば子に家を継がせ一緒に住むような形態は、なかなか難しく、ことに女の子しかいない場合はなお更である。
家を継がせるという概念は、二人目の結婚話が生じたときには既に頭から消し去っていた。
子は嫁して他家の人となり、これで夫婦二人に戻ったと、空しいものは在ったが仕方のない事と諦めていた。
それが思いがけない申し入れである。
その時の嬉しさは、身の奥から込み上げてくるものであった。
娘たちは、今まで一切その様な素振りを見せる事はなかった。しかし知らない所で黙っていろいろ心配し、相談し合っていたのである。
子があってよかったなと、つくづく夫婦で話し合ったものである。
どちらに行くべきかじっくり考えた末に、今まで本拠地としていた東京に近くて、次女のいる千葉市に決めたのであった。
若い頃、良い仕事をしようと思ったら先ずその土地や人を愛せよ。その土地や人を愛するようになるためには、その土地や人の好いところを良く知れと言われ、忘れられない言葉となっている。
そこに住むならまずそこを知れである。
歩けば歩くほど房総には新しい発見があった。歴史は深く、人情の厚さは他に類を見ない。よき時代のよき人間がそこには居た。この巡り歩きは九年後の現在も続いている。
私はほとんど知られていない房総のこの素晴らしさを、もっともっと世に紹介し、良く知って貰おうと思うようになった。
房総人は本質的に自分たちの事や物をことさら喧伝し、人を集め見せるような事をあまり好まないようである。
その気質を傷つけることのないように気をつけ、私はいま急速に失われてゆく日本人の良き心を、この房総を通して世に発信したいと思うのである。