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縁起など |
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| 十二所神社 |
十二所の鎮守。
古くは熊野十二所権現社といい、弘安元年(1278)の創建とされる。
例祭は9月9日。
祭神社として、山ノ神、疱瘡神社、宇佐八幡、地主神が祭られている。

疱瘡神社(左)と宇佐八幡 |
天神(あまつかみ)七柱とは
別天神(ことあまつかみ)の後に登場する神々。古事記によると、次の七代
@まず国之常立神(くにのとこたちのかみ)、
A豊雲野神(とよくもぬのかみ)、
B続いて男女一対の宇比地邇神(ういぢにのかみ)と須比 地邇神(すいぢにのかみ)、
C角杙神(つぬぐいのかみ)と活杙神(いくぐいのかみ)、
D意富斗能地神(おおとのぢのかみ)と大斗乃辧神(おおとのべのかみ)、
E淤母陀琉神(おもだるのかみ)と阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)、
Fそして伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(い ざなみのみこと)
地神(くにつかみ)五柱とは
@天照大神(あまてらすおおみかみ)
A天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
B瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
C日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)
D鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)=第一代 神武天皇 |
| 大慈寺跡 |
明王院の門前を右に折れ住宅地の中を暫く進むと「大慈寺跡石碑」が建つ。
大慈寺は、建暦2年(1212年)に源実朝が父頼朝の菩提を弔うため創建したもので、新御堂と号した。建保2年(1214年)7月27日に大供養が行われ、尼御台の政子および将軍源実朝は大いに格式を整えてこれに臨んだ。 |

民家の生垣の一部を窪ませて石碑が建つ |
| 明王院五大堂 |
源氏の血統が三代で途絶えると、鎌倉幕府は京都の九条家から将軍を迎える。その四代将軍九条(藤原)頼経が、このお寺を建立した。本尊は五大明王(不動、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉)だが、江戸期の火災により不動明王を残して他の4体は焼けてしまい、現在の像は、その後創られたもの。
写真は、冠木門(かぶきもん)と茅葺の本堂。
境内には柊ナンテンが可愛らしい黄色の花を一杯つけていた。
院の手前、「二つ橋」の下にある二つの大きな石は、五大堂に使われていた礎石の一部である。橋から落ちても怪我をしないので、お不動様のおかげと土地の人は言い伝え、今なお「けがなし石」と親しまれている。 |
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| 青砥藤綱邸旧跡 |
太平記には、次のような話が書いてある。
「青砥藤綱は、北条時宗(ときむね)、貞時(さだとき)の時代に、裁判官をしておりました。ある夜のこと、失敗してお金十文(じゅうもん)を滑川(なめりがわ)に落したので、たいまつを五十文で買って、水の中を照らさしてお金をさがし、とうとうそのお金をさがしだしました。そのことを人々は、得たものよりも失ったものの方が大きい、大損だ、と笑いました。
しかし藤綱は、十文は小さいが、これを無くすことは、天下のお金を無くすことである。私は、五十文を無くしたが、これは人々の為になったのである、と諭(さと)しました。」
この物語は、この辺りであったことと伝えている。
サイト「ぶらり金沢散歩道」参照
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青砥橋より石碑を望む |
| 報国寺 |
咲き誇る「山茱萸(サンシュユ)」を見たいとのEさんの気持ちを忖度した先生の提案で急遽立ち寄る。
山茱萸(サンシュユ)は、別名をハルコガネバナ(春黄金花),アキサンゴ(秋珊瑚)といい、早春に黄色い小花を20〜30個かためて散形状に咲かせ、秋に珊瑚のような赤い実(”茱萸”はグミのことで、そのグミのような実)を多数つける耐寒性落葉広葉小高木である。サンシュユの花は四弁花で外側に巻くように咲き、花は葉の出る前に咲く。実は漢方薬に用いられ、薬用植物として中国や朝鮮から渡来した植物である。
よく似た名前の「山椒」は、 別名「椒(はじかみ)」 といい山地に自生する。初夏に黄緑色の花を咲かせる。
山椒は小粒でもピリリと辛いというぐらい 辛い実。辛味成分には健胃や駆虫の薬効がある。 また、干した実は香辛料(スパイス)にもなる。
「椒」の字は、古くから辛いものの呼称に 使われており、”山の辛いもの”を意味する命名。
民謡「ひえつき節」に歌われる。この唄は、宮崎県椎葉村が発祥の地で、その中身は椎葉を舞台とした平安時代の悲恋物語や山深い椎葉の里の生活を反映したものが多い。 |
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| 文覚上人屋敷跡 |
文覚は、俗世間にあった時は遠藤盛遠(えんどうもりとう)と言い、もとは京都にあった上皇の御所警護役(北面の武士)を勤めていたが、十八歳の時に左衛門尉 源渡(まなもとわたる)の妻である「袈裟御前」に思いを寄せていたが、源渡と誤って袈裟御前を殺してしまった。盛遠は大きな過ちに深く悔い、ついに出家して僧となり文覚と称した。
文覚の修行(『平家物語』に初登場する巻第五の「文覚の荒行の事」)はまことに勇猛であって、厳しい寒さ、酷い暑さのなかを草むらに休んで夜を過ごしたり、激しく落下する滝の中に立って気を失い、死にかけることも度々あった。
参考:上方落語「袈裟御前」 |

袈裟御前:前田青邨・明治35年(1902年) 制作
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| 勝長寿院跡 |
源頼朝は鎌倉に大きな寺を3つ建立した。鎌倉八幡宮寺、永福寺とこの勝長寿院である。これらは3大寺院と言われた。
勝長寿院は中でも極めて壮大であり、今でも大御堂の地名が残っている。
源頼朝の父・源義朝は平治の乱で破れ、鎌倉への帰路、知多半島内海で殺害された。
文治元年(1185)、父・源義朝の菩提を弔うために、この地に勝長寿院を建立した。同年9月3日に源義朝と忠臣・鎌田正清の首を埋葬した。
勝長寿院には本尊・金色阿弥陀仏像をはじめ、運慶作の五大尊像などが安置され阿弥陀堂、五仏堂、法華堂、三重の宝塔などの荘厳な伽藍が建ち並んでいた。
この寺は康元元年(1256)12月の火事で消失したが、正嘉2年(1258)、北条時頼によって再建された。
鎌倉幕府滅亡後も足利氏によって保護されたが再び焼失してしまい、その後廃寺となった。
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| 歌の橋 |
今を去る事約七百九十数年前の建保元年(1213)二月の事である、千葉成胤が一人の怪しい僧侶を捕らえて北条義時に差し出した事から事件が始まった。この僧侶は名を安念と称し、安念法師の自白により謀叛の事が発覚した。
謀叛の事とは、信濃国の泉親平と称す者が、源頼家の遺児栄実(頼家の三男幼名を千寿丸)を担いで将軍となし、執権北条義時を倒す陰謀をたくらんだ。この謀叛の一味に、和田義盛の子息義直・義重及び甥の和田胤長等が組していた事から、この事件の三ヶ月後の五月に起きた和田合戦の発端ともなった。
さて歌の橋の由来であるが、この謀叛の一味二百人の中に渋河兼守と称す武士がおり、捕らえられて安達景盛(筋違橋の宝治の合戦の首謀者)に預けられる身となった。いよいよ明朝は処刑されるとの事を聞き、兼守は大変に悲しみ、十首の歌を詠んで荏柄天神社に奉納した。ところが、偶々昨夜より天神社に参篭していた工藤祐高と称す武士が、帰りがけに兼守が奉納した歌十首を受取り、これを幕府御所に差し出した。幕府にては、幼少より和歌に関心の深い将軍の実朝が、この歌を詠んで大変に感動して、兼守の罪を直ちに許した。この恩赦に感激した渋河兼守は、恩に報いる為に二階堂川に橋を寄付した。この様ないわれにより、橋の名を「歌の橋」と呼ばれる様になつた。
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| 荏柄天神 |
1104(長治元)年、創建。開幕後は幕府の鬼門として隆盛。
境内の梅は、早咲きで有名である。
清水崑、横山隆一らによって境内に絵筆塚が建てられた。 |
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| 筋違(すじかえ)橋 |
鎌倉十橋の一つである。宝治元年(1147年)六月、三浦泰村一族の乱があった時に北條時頼の母方の祖父である安達景盛がその一族と共に兵をひきつれて三浦氏を攻め、この橋の北側から泰村の屋敷を襲ったということが、東鑑(あずまかがみ)に記されている。
右の写真は、明治40年代に撮影された熊田葦城著「日本史跡大系」より複写した、筋替橋近辺(現在の雪ノ下3−3近辺)の古写真。
まだ川と橋が残って見える。
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| 宝戒寺 |
後醍醐天皇が命じて北条氏の霊を慰めるために、北条得宗邸あとに(天皇自らが開基となって)建立し、のち足利氏に所領を安堵され降盛をむかえた。本堂の本尊地蔵菩薩坐像(国重文)は胎内銘から1365(貞治4)年、三条法印憲円の作とわかり、京風の穏やかな表情をもち子育経読地蔵と呼ばれている。
境内には本尊を安置する本堂の他、聖徳太子像を祀り、職人の信仰厚い太子堂、後年建てられた北条氏を供養する宝篋印塔、鐘楼がある。
参道脇に梅の木が数本ある。その中の一本の木は、「思いのまま」という名前で呼ばれている。
紅白の花を付けるが、毎年微妙に花の位置が違うのが名前の由来らしい。
本堂の屋根には、後醍醐天皇開基に因む桜に交じって、北条紋の三つ鱗が見える。
何故さくらかとの問いに、『始め菊だったが、それでは恐れ多いとかで、桜にかわった』と寺の方が説明してくれた。 |
北条執権邸旧跡石碑
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| 鉄(くろがね)の井 |
鎌倉十井の一つである。水質は清らかで冷たく味のよい水で、盛夏でも水の涸れることはなかったという。
昔此の井戸の中から、高さ5尺余り(1m60cm)の鉄製の観音堂の頭部だけが掘り出されたので、鉄の井戸と名付けられたという。 |
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| 窟堂 |
小町通りから、扇ガ谷へ向かう小道を窟小路(いわやこうじ)という。窟小路を寿福寺の門前に向かう途中、横須賀線踏切の手前にあるのは、窟堂である。創建に関しての詳細は不明であるが、源頼朝の鎌倉入り以前にはすでにあったものとされている。本尊は不動明王で現在のものは江戸時代のもの。 |
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| 鎌倉彫再興碑 |
1979年11月 明治の鎌倉彫再興の功労者の遺徳を顕彰するため、鎌倉彫再興碑を建立 |
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| 扇ケ谷上杉管領屋敷跡 |
内大臣藤原高藤十三代の子孫に重房という者があり、宗尊親王に従って鎌倉に来て、丹波の国上杉庄を拝領したことから上杉を名のった。
その曾孫の憲顕は、鎌倉管領であった足利基氏の執事となったが、それ以来一族は関東に大きな勢力を持つようになった。
数家にわかれた一族のうち、重房の五代目に当たる上杉顕定という者が扇が谷家の始めとなった。
文明年間(1469〜1487年「15世紀後半」)に扇が谷家の六代の主、上杉定正は賢臣であった太田道灌を重用して上杉家の家名を高揚させ、世に本家の山内上杉家と共に両上杉家とか両管領と呼ばれるほど栄えた。
現在ではこの附近を扇ケ谷と称するが、昔は亀ケ谷と称したのである。その後は亀ケ谷の名は次第にすたれ、現在においては扇ケ谷の名が使われるようになった。
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| 薬王寺 |
JR「鎌倉駅」西口を線路沿いに北鎌倉の方に戻ると、やがて扇谷のガードがある。
2001年に再建された「岩船地蔵堂」を左折する。この道を直進すると、鎌倉七つ切りの一つの「亀ヶ谷」の急坂。北鎌倉や大船方面に出られる。
坂の中腹の目立たないところにこの寺が建っている。
薬王寺は日蓮宗の寺。この寺は、永仁元年(1283)日像が開山した。後に衰微し、寛永年間(1624~)に日達が中興をした。本尊は薬師如来。今の本堂は享保年間の再建。
庭先に駿河大納言徳川忠長の供養塔がある。建立したのは織田信長の嫡子信雄の息女で、徳川忠長の夫人である。
境内墓地に高さ3m以上の宝篋印塔(右の写真)がある。これは戦国武将・蒲生氏郷の孫で四国・松山城主・蒲生忠知の妻と娘の墓がある。 |
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| 底脱の井 |
海蔵寺山門右手の底脱(そこぬけ)の井。同じく海蔵寺境内にある十六の井とともに鎌倉十井に数えられる。
言伝えによると、昔安達泰盛の娘千代能(一説には上杉の尼)が参禅した折、この井戸の水を汲むと桶の底が抜けてしまった。この時、心の中にあった煩悩が氷解し、悟りの境地に達したというのである。
「千代能が いただく桶の 底ぬけて 水たまらねば 月もやどらじ」 |
写真を左クリックすると拡大表示ウィンドウが開きます。

水面に映る石碑の文字 |
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| 海蔵寺 |
建長5(1253)年創建。開山は、源翁禅師(げんのうぜんじ・心昭空外)。金槌のことをゲンノウというが、殺生石をこれで打ち割った源翁禅師に由来する。
現在の本堂は、関東大震災後、大正期に再建されたもの。薬師堂は、江戸時代に浄智寺から移されたもので、堂内には別名「蹄き薬師(なきやくし)」と呼ばれる薬師三尊像が安置されている。
右の写真に見える「関」(かん)は禅語で、碧眼録の「雲門の関」として出てきて、玄関、入り口、関所を意味する。
私達は人生を歩んでいく過程で、いろいろな関門を通ってきた。関門を前にして逃げるのではなく通らずばおくまいという気概で、さらに突き進むことが大切。いったんその難関を通ってしまえば、あとは自由自在に開けるものということだそうだ。
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書院玄関の書:『雲門云ク関』 |
「関」は関門、閂(かんぬき)をかけて滅多に人を通さない難関の意である。『碧巌録』第八則に「雲門(うんもん)の一字関」として有名な公案がある。
大燈国師はこの公案に辛苦し、大悟の時、「一回雲関を透得し了り、南北東西活路通ず。夕に処し朝に遊び賓主を没し、脚頭脚底清風を起こす」と投機の偈を呈し、雲門の再来と称された。
さて、茶席に入る露地(ろじ)には必ず関守石(せきもりいし)が置かれ、小さな躙口(にじりぐち)を通って茶室に入る。
これは世間での穢(けが)れや分別心をすっかり払い落とす意味で作られたものである。
禅道にしろ茶道にしろ、この関門を通ってはじめて南北東西自由自在の世界が広がってくる。
関はただ単に通るものではなく、襟を正し気持ちを新たにして入っていくべきものである。 |
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「月刊淡交テキスト」より |
流鏑馬武田流
弓馬道場 |
海蔵寺から鎌倉駅に戻る道の右手にある。
春は武田流、秋は小笠原流、とのこと |
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| 寿福寺 |
臨済宗建長寺派。1200年(正治2)に北条政子が頼朝の父、義朝の旧邸跡に明菴栄西を招いて創建。創建当時、七堂伽藍が整い、14の塔頭を有する大寺院で、鎌倉五山の第三位。
境内裏手の墓地には、大佛次郎や高浜虚子の墓地、さらにその奥には、北条政子と源実朝の墓と伝わるやぐらがある。
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| 稲荷神社 |
鎌倉時代末期−南北朝時代に相模国で活動した刀工である正宗が刀に焼入れする時に祈願した神社である。
正宗屋舗焼刃渡と読める。
今も鎌倉駅近くの御成町に「刀匠・相州正宗」第二十四代が「正宗工芸」を構えている。 |
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| 例のごとく、小町通りでお茶して帰路に着いた。 |
| 亀岡八幡宮 |
逗子市役所の横にある神社に立ち寄った。
勧請の年月は明らかではないが、「新編相模風土記稿」によれば「八幡宮、村の鎮守なり、延命寺持」とある。古老の言によると、昔は真言宗延命寺が別当として管理し、御神体は常に延命寺に安置され、大祭にはこれを捧持し、行列を連ねて社殿遷し祭儀を執行するのが例であったと伝えられている。
明治維新の神仏分離令により延命寺の管理から離れ、明治6年12月に、社格村社に列せられ、正式に逗子の鎮守と定められた。
昔は単に「八幡宮」と称されており、昭和28年10月に、宗教法人亀岡八幡神社として神社本庁に登録されたが、現在でも古くからの慣習で、「亀岡八幡宮」と呼称されている。
亀岡の称は、神社境内が、地籍では「高畠」という小字のとおり、なだらかな岡で、亀の背中のようであったことから、鎌倉の「鶴岡八幡宮」に対し、「亀岡八幡宮」と名付けられたものである。 |
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