鎌 倉 散 歩 (第11回)                                                          

                        山ノ内に、偲ぶゆかりの文士たち
                               2006年06月14日(水) 
山ノ内地区は、
鎌倉時代には禅宗を保護し、相いついで寺院を建てた北条氏の所領であったので、今でも禅刹が多い。
山を挟んだ隣が駈込み寺の東慶寺で、その向かいには円覚寺があり、建長寺も数分の場所にある。   
どの寺院も丘を背負い、鎌倉では谷戸と呼ぶ谷合に堂宇を並べている。
    参考:北鎌倉周辺の地図はこちら
目次
拝む 先生の体調が勝れないとのことなので、生徒だけでの散策でした。
次のコースで名刹を訪れました。
   JR北鎌倉駅 → 東慶寺 → (明月院入口で昼食) → 浄智寺 → 円応寺
偲ぶ 東慶寺には、明治・大正・昭和に活躍した寺にゆかりの人たちがひっそりと眠っておられます。
先達の足跡を偲びつつ合掌。
愛る 庭の片隅に人知れず咲く山野草、しっとりと雨に濡れた紫陽花などに思わずシャッターを押しました。
6月の鎌倉は、深みを増した緑に紫陽花や菖蒲などが咲き誇り、海からの風は初夏を感じさせてくれます
      
 拝む                                              
コース 見所 補足
東慶寺 東慶寺は、”縁切り寺”、”駆け込み寺”の名で広く知られる。もとは尼寺(あまでら)で山号は松岡山。
江戸時代中期には縁切り寺は、ここと、上州(群馬県)の満徳寺の2カ寺に限られた。明治維新により、縁切寺法が廃止されたが、両寺は明治3年まで縁切寺法を存続した。

小さな山門を入ると右に庫裏があり、その奥に泰平殿と呼ばれる仏殿がある。

                 (雪景色の泰平殿)
境内の奥には、松ヶ岡宝蔵、また「後醍醐天皇皇女用堂女王墓」石標や 急な石段を上がったやぐらの中などには「用堂尼(大塔宮護良親王の姉)の墓」「覚山尼(北条時宗の母)の墓」など 歴代の墓塔、中央の大きな無縫塔は豊臣秀頼の娘「天秀尼の墓」がある。
なお三門わきの鐘楼は「1350(観応元)年」銘の梵鐘だが、これは鎌倉市材木座の 補陀洛寺の鐘である。本来の東慶寺の鐘は、「1332(元徳4)年」銘で静岡県韮山町の 本立寺に移って現存している。

また、東慶寺裏山の上には、鈴木大拙が安宅弥吉の援助を得て創設した「松ケ岡文庫」がある。

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松ケ岡御所役所跡

松ケ岡文庫に続く階段

宝蔵入口の縦樋

聖観世音菩薩立像
(重要文化財)

安宅弥吉の遺徳を
顕彰するする公徳碑

松ケ岡宝蔵を鑑賞。
聖観世音菩薩立像、釈宗演遺宝、縁切関係など東慶寺文書、王勃の「滕王閣序」などが陳列されている。
           王勃の「滕王閣序」
  
滕王高閣臨江渚      滕王の高閣(こうかく)江渚(こうしょ)に臨めり
  珮玉鳴鸞罷歌舞     珮玉(はいぎょく)鳴鸞(めいらん)歌舞罷(や)んぬ
  畫棟朝飛南浦雲     畫棟(がとう)朝(あした)に飛ぶ南浦の雲
  珠簾暮捲西山雨     珠簾(しゅれん)暮に捲く西山の雨
  濶_潭影日悠悠     濶_潭(たん)に影(うつ)りて日に悠悠
  物換星移幾度秋     物換(かわ)り星移りて幾度の秋ぞ
  閣中帝子今何在     閣中の帝子今何くにか在る
  檻外長江空自流     
檻外(かんがい)の長江空しく自(おのづか)ら流る
参照:東慶寺のホームページ
















東慶寺開山覚山尼賛歌(四賀光子詠む)
  「流らふる大悲の海によばふこゑ 
        時をへだててなほたしかなり」

   







聖観世音菩薩立像
もともと太平寺の本尊でしたが、小田原北条氏と激しい抗争を続けた、安房の里見上総介(さとみかずさのすけ) による鎌倉攻め(弘治二年-1556-)の際、時の太平寺の住尼で、小弓御所足利義明の娘青岳尼を、安房に連れ去り還俗させて子の義弘の妻としました。これに怒った北条氏康が、太平寺を廃絶したというのです。この時の東慶寺の住尼は、この青岳尼の妹旭山尼(きいくざんに)です。太平寺は廃寺とされたため、返された聖観世音菩薩像は、旭山尼のいる松ヶ岡東慶寺に移されたのです。






滕王閣は中国の四三大名楼のひとつ
   参考:「中国四大名楼

  
浄智寺 鎌倉五山第四位、臨済宗円覚寺派。1281年北条時政の三男宗政の菩提を弔うために妻とその子師時によって創建された。開山兀菴普寧 (ごったんふねい)、請待開山は大休正念、準開山は南州宏海の3人が名を連ねている。

入口の総門には、「寶所在近」の額がかかる。  

宋朝様式の鐘つき堂を兼ねた山門は楼門様式で花頭窓を設けた珍しいもの。二階には梵鐘がかかる。ここには「山居幽勝(さんきょゆうしょう:山の住まいはいいところ)」の額がある。
曇華殿横にそびえる高野槇は鎌倉随一の巨木。その他柏槇、白雲木、夏椿なども楽しめる。
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総門

庫裏

布袋尊

柏槙

白雲木
ご本尊が祀られている「曇華殿(どんげでん)」の、曇華は優曇華(うどんげ)のこと。
優曇華は三千年に一度咲くという珍しい花で、珍しいことの喩えから、貴重なるお堂、重要な仏さまをお祀りしたお堂という意味で名づけられた。
ご本尊は左から「阿弥陀如来」「釈迦牟尼如来」「弥勒如来」。
阿弥陀は過去・釈迦は現在・弥勒は、はるか先の未来を救い出すために待っておられる仏様である。


浄智寺の背後には、小津安二郎の晩年の旧居(谷戸のトンネルをくぐって坂道を上がった純日本風の山荘)がある。
参考:「浄智寺


「寶所在近」とは
これはお経の文句で「お前さんもう一寸修行をしなさい。そうすれば立派なお坊さんになれますよ」という意味だそうだ。

花頭窓



















優曇華
  「花の写真」 「花の話」 「クサカゲロウ
円応寺 円応寺はもと由比ガ浜にあった荒井閻魔堂と呼ばれるお堂で、江戸中期に現在の場所に移された。 本堂には仏師運慶作と伝えられる閻魔大王像が正面に据えられた十王像が並ぶ。 鎌倉時代に流行った十王思想では、死後人間の罪業を裁くとされている。 


十王とは、死後、地獄に行った亡者が 
    一七日には秦広王(しんこうおう)    二七日には初江王(しょこうおう)
   三七日には宋帝王(そうていおう)    四七日には五官王(ごかんおう)
   五七日には閻魔王(えんまおう)     六七日には変成王(へんぜいおう)
   七七日には大山王(たいざんおう)    百日には平等王(びょうどうおう)
   一周年には都市王(としおう)        三周年には五道転輪王(ごどうてんりおう)  の審判を順次受け、地獄の責苦を受けるとされている。
 亡者はまず、初七日から四・まで生前の罪を取り調べられる。その結果により五・七日の閻魔大王が、六道(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)のどこに生まれ変わるかを決定する。その後、六・七日に場所が、七・七日には寿命が決まる。初七日から四十九日までの間は「中有(チュウウ)」または「中陰」といい、この間、亡者はこの世からあの世へと旅を続けるとされる。
 遺族は、百カ日の平等王には貪(トン)(貪(ムサボ)り)の心、一周忌には瞋(ジン)(怒り)の心、三回忌には痴(愚痴)の心を慎むことを誓って法要を行うことにより、亡者の追善供養となるばかりではなく、自身の現世における功徳となる善行を積むことができ、来世の安楽につながっている。
参考:「円応寺

十王信仰
 十王とその本地
   ・秦広王(しんこうおう)→不動明王
   ・初江王(しょこうおう)→釈迦如来
   ・宋帝王(そうていおう)→文殊菩薩 
   ・五官王(ごかんおう)→普賢菩薩
   ・閻魔王(えんまおう)→地蔵菩薩
   ・変成王(へんじょうおう)→弥勒菩薩
   ・泰山王(たいざんおう)→薬師如来 
   ・平等王(びょうどうおう)→観音菩薩
   ・都市王(としおう)→勢至菩薩
   ・五道転輪王(ごどうてんりんおう)
          →阿弥陀如来




偲ぶ                                                    ←このページの目次に戻る 
ところ 文士たち 歌碑・墓碑
東慶寺                            

十市皇女の薨(かむあが)りましし時に、高市皇子尊の作りませる御歌三首
    
     山振(ヤマブキ)は立ち儀(ヨソ)ひたる山清水酌みに行かめど道の知らなくに
                                万葉集巻2-0158

      [意訳]  山吹の花が美しく飾っている山の泉(伝説上の生命復活の泉)
            を汲みに行って蘇らせたいと思うのだが、道を知らぬことよ。  
境内の墓所には西田幾太郎、和辻哲郎、高見順、田村俊子、鈴木大拙、小林秀雄、織田幹雄、大松博文など有名人の墓が多くある。

栄区から来たといわれる方が、親切に案内をして下さった。とてもよく勉強しておられ詳しく説明を受けた。それも定年後にインターネットなどで研究したとのことだったが、自分のものとされていることに感服した。

高見 順(小説家):1907-1965
本名、高間芳雄。福井県生れ。父が永井荷風の弟。
小説「故旧忘れ得べき」「如何なる星の下に」「いやな感じ」、詩集「樹木派」など。



左は

三雲祥之助の装丁.挿絵による初版本
(昭和十五年三月)




「如何なる星の下に生れけむ 我は世にも心弱きものなるかな」

「如何なる星の下に」抜粋
秋には色ずくもみじを背に詩碑がたつ。
 
 「カエデの赤い芽」
    空をめざす小さな赤い手の群
    祈りと知らない祈りの姿は美しい

   


  
佐佐木 茂索(小説家):1894-1966
芥川竜之介に師事し「文藝春秋」同人として活躍。昭和10年菊池寛と芥川賞・直木賞を創設した。のち、文藝春秋社長。
創作集に「春の外套」、長編小説に「困った人達」などがある。
   
野上弥生子(小説家):1885-1984
本名ヤエ。明治18年、代屋(現小手川酒造)三代目、角三郎とマサの長女として臼杵に生まれた。
15歳で単身上京、同郷の野上豊一郎と結婚したのち、夏目漱石の指導を受けて小説を書き始めた。以後、99歳で逝去するま で現役作家として、「海神丸」「真知子」「迷路」など多数の作品を発表した。 昭和39年に「秀吉と利休」で、女流文学賞を受賞、昭和46年には文化勲章を受章した。
   
田村俊子(小説家):1884-1945
東京浅草生れ。日本女子大中退。幸田露伴の門に入る。小説家田村松魚に嫁す。初期は自我解放の意欲が見られたが、次第に情痴に流れた。作「あきらめ」「木乃伊(ミイラ)の口紅」など。
山門を入って直ぐの左手の鐘楼の前に碑がある。

この女作者はいつもおしろいをつけている この女の書くものは大がいおしろいの中からうまれてくるものである
神西清(小説家、翻訳家):1903-1957
東京生まれ。ジイド、プルーストらのフランス文学、プーシキン、ツルゲーネフ、チェーホフ等のロシア文学の紹介、翻訳を行ない、名訳者として知られた。
小説では「垂水」「灰色の眼の女」「少年」などを発表し、ほかに歴史小説や批評、詩、戯曲、翻訳と幅広く活躍した。
  
     
堀田善衛(小説家):1918-1998
富山県高岡市に生まれる。
南京では草野心平を知り、『歴程』の同人となる。第二次世界大戦敗戦後、中国国民党宣伝部に徴用され、46年『祖国喪失』『歯車』などを書き始める。47年帰国、雑誌『個性』『歴程』などに詩を発表する。51年に発表した『広場の孤独』『漢奸』で、52年に芥川賞を受賞し、いちばん遅くやってきた戦後派などと称された。52年長編『祖国喪失』を完成し、以後、『歴史』『時間』『鬼無鬼島』と毎年のように長編問題作を発表する。 
高岡の大仏に寄す  
町なかの 狭きかたえに身を寄せて 
薄き衣に胸あらわ カンカンと日の照るときに汗流し はだら雪降りつもるとき身はふるえ
はるかなる天竺より この北国の片隅に来たり座せる佛の像 坐り飽きたるさまもなく撫肩に 伏目にて通る人をば見て守る さるにてもその日々の流れの長さかな 茫然たり一場の夢 われもまた見守られたるその一人
真杉静枝(小説家):1905-1955
85年、「最終便に間に合えば」「京都まで」で、直木賞を受賞。 「本を読む女」「戦争特派員」「悲しみがとまらない」「ワンス・ア・イヤー」他著書多数。
高見順はそれを「たしかに、いやな女に違いなかったが、私たちはそこに、女の─人間の哀しさを感じないではいられない。私たち誰もが持っている人間の哀しさ‥‥」といった。  
  
太田水穂(歌人、国文学者):1876-1955
本名は太田貞一で別号をみづほのやと称した。長野県生まれ。
明治42年四賀光子と結婚し、互いに教職のかたわら創作活動を続け、大正4年「潮音」を創刊、主宰し、以後、実作はもとより歌論、古典研究にも多くの業績を挙げた。歌集に、「雲鳥」「冬菜」「螺鈿」「流鴬」など。
  参照:「塩尻ゆかりの歌人」
黄楊垣にかこまれた塋域(えいえき)に建つ苔のへばりついた五輪塔には、朝比奈円覚寺管長筆になる「水穂居士」の刻がある。
その左側には歌碑が建つ。

 「何ことも待つへきなら志
    何こともかつがつおもふ程は遂げしに」
四賀光子(歌人):1885-1976
本名は太田みつ。長野県生まれ。太田水穂と結婚。長く東京府立第一高女で教えた。大正4年水穂が「潮音」を創刊すると、同人となり、歌人として活躍し、編集、運営にも助力する。
昭和32年から40年まで、宮中歌会始の選者も務めた。
歌碑
 「九十年生き来し己れか目つむれば
    遠汐さゐの音ぞきこゆる」
小林秀雄(文芸評論家):1902-1983
東京生れ。自我の解析を軸とした創造的批評の確立者。著「様々なる意匠」「無常といふ事」「本居宣長」など。
鎌倉では、貸本屋「鎌倉文庫」の活動など、鎌倉文士の中心の一人として活躍。
    
西田幾多郎(哲学者):1870-1945
石川県生れ。禅の宗教性と生の哲学やドイツ観念論の論理を思弁的に統合し「無」の哲学と場所的論理を開拓。著「働くものから見るものへ」「自覚に於ける直観と反省」「無の自覚的限定」など。文化勲章(昭和15年11月10日) 
青空文庫・「善の研究」 
和辻哲郎(倫理学者):1889-1960
兵庫県生れ。夏目漱石の門に入る。東洋大・京大・東大教授。人間存在を間柄として捉え得論の展開に特色がある。文化史にも業績が多い。著「古寺巡礼」「日本精神史研究」「風土」「倫理学」など。文化勲章(昭和30年11月3日 )。 
めでましし
 大樹の銀杏もみじして
   君がみ墓辺今日はあかるき
                 照子
谷川徹三(哲学者 評論家):1895-1989
愛知県常滑市生まれ。谷川俊太郎の父。ヒューマニストとして広い知識と穏やかな意見を持ち、哲学と文学、芸術の接点を求めて文芸評論、文明批判に独自の領域を開きなど数多くの著作を発表している。また、宮沢賢治の世界を広く紹介した事でも知られている。 
   
安倍能成(哲学者・教育家):1883-1966
松山生れ。京城大教授・一高校長を経て、第二次大戦後文相・学習院長。夏目漱石の門下。著「カントの実践哲学」「西洋道徳思想史」「岩波茂雄伝」など。

   
釈宗演(禅僧):1860-1919
福井県大飯郡高浜村(現在の高浜町)の生まれ。明治期の臨済宗の僧。本姓は一ノ瀬、本名は常次郎、字は洪岳。
34歳で円覚寺派管長に就任。1903年、建長寺派の管長を兼務する。1905年、管長職を辞職し、鎌倉の東慶寺住職となる。
1906年、再度渡米し、通訳として鈴木大拙を伴い、アメリカ人に対して禅指導を行なった。門下に鈴木大拙・徳富蘇峰ほか。
夏目漱石が26歳頃一週間程恋愛に関連した人生問題に悩みを懐いて、円覚寺の帰源院に参禅したことがあった。その時の老師が釈宗演である。
釈宗演(楞伽窟)歌集から一首
        「心よりやがてこころに伝ふれば
                   さく花となり 鳴く鳥となる」                 
 
  
鈴木大拙(仏教学者・思想家):1870-1966
石川県生れ。禅の研究者として知られ、欧米にも大きな影響を与えた。著「禅思想史研究」の他英文の著作も多い。文化勲章(昭和24年11月3日)。 
   

 
中川善之助(民法学者):1897-1975
東京都生まれ。特に家族法分野での実績は秀逸で、旧来の家制度の解体に尽力し、現代家族法の父と称される。現代家族法創設者といっても過言ではない。 
 
松野鶴平(政治家):1883-1962
熊本県鹿本郡城北村(現在の山鹿市菊鹿町)に生まれる。
衆議院議員、鉄道大臣、参議院議長などを歴任。松野頼三は三男。 
   
野田卯太郎(政治家):1853-1927
高橋是清内閣の逓信大臣 野田卯太郎(俳号大塊)。 国士舘大学の前身私塾国士舘のを創立に尽力。「野田大塊伝 野田卯太郎 著」 大正9年9月7日「勲一等旭日大綬章 」 
  
和尚現前仰ぐや雪の松が岡
岩波茂男(出版人):1881-1946
長野県生れ。岩波文庫その他学術書の出版を通じて日本文化の向上に寄与。貴族院議員。文化勲章(昭和21年2月11日) 
  
出光佐三(実業家):1885-1981
赤間町(福岡県宗像)の藍卸商の次男として生まれる。 
石油国策を唱え出光グループを築き上げた石油王。
出光佐三氏はこう語っている。
「君達、店員を何と思っておるのか。店員と会社は一つだ。家計が苦しいからと家族を追い出すようなことができるか。事業は飛び借金は残ったが、会社を支えるのは人だ。これが唯一の資本であり今後の事業を作る。人を大切にせずして何をしようというのか」
 
安宅弥吉(実業家):1873-1949
石川県金沢市金石生まれ。1904年安宅商会(後の安宅産業)設立。大阪商工会議所会頭、貴族院議員。、1920年には甲南高等女学校(現甲南女子大学)を設立、1926年から1946年まで同第2代理事長。  
  
高木惣吉(軍人):1893-1979
熊本県球磨郡西瀬村(現人吉市矢黒町)生まれ。
昭和19年秋、太平洋戦争の戦局の悪化にともない、井上成美の密命を受け、病気と称して終戦工作に従事した。戦後は東久邇(ひがしくに)内閣の副書記官長となってその処理に奔走し、特に、何百万人という海軍兵士を、無事に内地に引き上げさせた。
浄智寺 安藤寛
 [右の歌碑の裏面に次の賛が刻まれている。]
翁は佐賀県多久の人、明治二十五年の生である。官立長崎高等商業学校卒業の後、実業の繁忙に身を置きつつ作歌に志を厚くし、大正八年竹柏会入会以来、一貫してこの道に力をつくしてこられた。歌集に「山郷」「千林」の二巻がある。歌歴まさに六十年、その徳のいよいよ盛なるをたたえようと、ここに知友門生相計って、この碑を建てる。地は幸いに翁が多年の同行誘掖(えき)に縁浅からぬこの浄域に得た。
同門後学 林大 識 昭和五十三年五月吉日
 神奈川県歌人会顧問「心の花」同人。 

    結界に降る雨あしは光つつ
       深き杉生のみどりにしづむ
  
島木健作(小説家):1903-1945
北海道札幌市生まれ。本名は朝倉菊雄。)。高見順・中野重治・徳永直・林房雄らとともに、転向文学を代表する作家の1人。
代表作は処女作『癩(らい)』、『盲目』、『生活の探求』、『人間の復活』『ある作家の手記』などがある。 
蜜柑の木の下、紫陽花の葉影に埋もれて苔蒸したちいさな墓碑がある。  
愛でる ・・・・・ 参照:「鎌倉花暦」                                               ←このページの目次に戻る         
ところ
東慶寺

花しょうぶ

おたふく紫陽花

さつき

本堂裏の岩がらみ

夏ろう梅

柏葉あじさい
              上の写真は、東慶寺ブログから拝借しました。             
写真をクリックすると拡大表示windowが開きます。下の写真は鎌倉同好会々員のOさん提供。

紫陽花1

紫陽花2

いわたばことお地蔵さん

白蓮舎からの眺めた花菖蒲

あかはな夕化粧

中庭のほたるぶくろ
                上の写真は、東慶寺ブログから拝借しました。
参考:東慶寺の花暦
1月 センリョウ、マンリョウ、スイセン、ヒイラギ、クチナシ、ロウバイ、ツバキ、ウメ、マンサク
2月 センリョウ、マンリョウ、スイセン、ロウバイ、ツバキ、ウメ、マンサク、ボケ、ミツマタ、キブシ、サンシュユ
3月 ハクモクレン、ウメ、ツバキ、ハナモモ、ヒガンザクラ、サクラ、マンサク、ボケ、ミツマタ、キブシ、サンシュユ
4月 ハクモクレン、オオデマリ、ハナモモ、ヒガンザクラ、サクラ、オオバアカメガシワ、ボケ、シャガ、ボタン
5月 シャガ、ボタン、ジュウニヒトエ
6月 イワタバコ、ハナショウブ、アジサイ、夏ツバキ
7月 キキョウナツツバキ
8月 サルスベリ、フヨウ
9月 ハギ、キンモクセイ、ヒガンバナ、リンドウ
10月 キンモクセイ、コスモス、フユザクラ
11月 イチョウ、カエデ、ツルウメモドキ、ヒメツルソバ
12月 イチョウ、カエデ、ヒメツルソバ<、マンリョウ、スイセン、ヒイラギ、クチナシ、ロウバイ、ツバキ、フユザクラ
浄智寺 写真をクリックすると拡大表示windowが開きます。

ビョウヤナギ

ドクダミ

キンシバイ
「未央柳(ビョウヤナギ)」は、中国原産の半落葉低木です。 キンシバイ(金糸梅)はそれより葉も花も小さい。                
参考:浄智寺の花暦
早春 ユキヤナギ、サクラ、カイドウ、ヒュウガミズキ、ショカッサイ、ツバキ、ウメ、バイモ、マンサク、キブシ、ミツマタ、レンテンローズ
モモ、タチヒガンザクラ、 シャガ、ショカッサイ、ヤマブキ
初夏 イワタバコ、ハナショウブ、アジサイ
サルスベリ、ハス、フヨウ、キキョウ、ナツツバキ
シュウメイギク、紅葉、ハギ、ヒガンバナ、キンモクセイ、サザンカ、リンドウ
センリョウ、マンリョウ、スイセン、ロウバイ、ツバキ、フクジュソウ、ウメ、フキノトウ、マンサク、キブシ

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