| コース |
縁起など |
|
| 極楽寺駅 |
 |
江ノ電
明治35年(1902)に日本で6番目の電気鉄道として、藤沢から片瀬(現江ノ島)の区間で開業した。
平成14年(2002)に開通100周年を迎えたが、開業からさらに区間が延長され藤沢〜小町(現鎌倉)間での運転が開始されたのは明治43年(1910)のこと。当時の駅数は39といわれているが、現在と同じ15駅になったのは昭和25年(1950)から。現在の鎌倉駅が開業したのは昭和24年(1949)、藤沢駅は昭和49年(1974)開業。
平均時速18kmで全工程10kmの所要時間は34分である。 |
霊鷲山(りょうじゅざん)
感応院極楽寺 |
鎌倉では唯一の真言律宗。開山は忍性、開基は北条重時。1259年創建。重時は寺の完成前に没し、子である長時、業時が完成させる。
完成後は金堂、講堂などの伽藍以外に49の支院からなる大寺院であったが、その後台風や地震など天災や戦火で多くを消失した。
春は参道の両脇に咲く桜が美しい。
 |
重要文化財である秘仏、清涼寺式釈迦如来立像(左の写真)は正月と4月8日に公開される。
清涼寺式釈迦如来立像は、京都市嵯峨野の清涼寺にある像(国宝)を模して鎌倉時代に造られたもの。清涼寺像は、985年に東大寺の僧であった“チョウ( )然”が宋(中国)に入り、中国の像を模刻させ、翌年日本に招来したという秘仏。
|
|
忍性は、切り押しのほか、道路や架橋などの土木事業、病院、孤児院、養老院の開設などの慈善事業を行って人々の尊敬を集めた。
格狭間
返花座
基礎
塔身
写真の山門は、萱葺きの四脚門。
みごとなけやき1枚戸。

くぐり戸から進む参道は以前は鎌倉石が敷き詰められていたとのこと。
|
| 伝上杉憲方の墓 |
由比ガ浜方面に歩を進める。
極楽寺坂入口の右側の路地に入ると、足利時代の関東管領で山の内上杉家開祖の上杉憲方(うえすぎのりかた)のこけむす墓がある。
安山岩七層塔で、塔身4面に仏像、基台に格狭間(こうざま)を刻む。鎌倉中期の形式で巨大なものである。隣の五重塔は妻の墓ともいわれるが定かでない。 
|
鎌倉様式の宝篋印塔
 |
| 極楽寺切り通し |
極楽寺切り通しは鎌倉七口の一つで、極楽寺を開いた僧忍性が切り開いたと言われている。
京都と鎌倉を結ぶ幹線道路で、東海道を片瀬、腰越から鎌倉坂ノ下に通じた。
現況は道路を掘り下げ直進、舗装拡張など変貌が激しい。
かっての切り通しは、極楽寺から西方寺(現存しない)境内、成就院前を曲折しながら山越えしたというが正確なルートは解明されていない。
下の写真は、切り通し旧道である成就院石段から由比ガ浜を望んだもの。

|
新田軍と幕府軍が激突した極楽寺切り通しと成就院の攻防(太平記巻十)
成就院後方の平場(墓場)は幕府防御軍の本陣であったという。
元弘3年5月19日の戦いの主戦場で、新田軍の大館又五郎主従11人がこの切り通しから鎌倉市街に一番乗りをしたが、後続が無く討ち死にした。
鎌倉が落ちた5月22日の攻防では、稲村ガ崎の別働隊も背後から攻め立て市内に突入した。
成就院はこの戦いで焼失、守備大将大仏貞直も切り込んで華々しい最後を遂げた。
鎌倉市市街は火の海となり、北條高時ら一族千余人は東勝寺境内に籠って自刃、鎌倉幕府は滅びた。
|
普明山(ふみょうざん)
法立寺成就院 |
平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師空海が訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法を修したという。その霊跡に、承久元年(1219年)鎌倉幕府第三代の執権北条泰時が、京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり建立した。

|
山門脇には、秋篠宮文仁親王の第一男子である悠仁親王(ひさひとしんのう・2006年(平成18年)9月6日ご降誕)のお印である高野槙が植えられている。
高野槙は岐阜県中津川市の市の木でもある。
参考:最近の皇室のお印
天皇陛下:榮(えい=桐)
皇后陛下:白樺(しらかば)
皇太子殿下:梓(あずさ)
雅子さま:浜茄子
愛子さま:五葉躑躅(ごようつつじ)
秋篠宮文仁親王殿下:栂(つが)
紀子さま:檜扇(ひおうぎ)菖蒲
眞子さま:木香茨(もっこうばら)
佳子さま:ゆうな
清子内親王殿下:未草(ひつじぐさ) |
| 星の井 |
成就院から御霊神社への道筋にある。
鎌倉十井の一つで、往時は樹木が茂り日中も暗く井戸を覗くと星が輝いて見えたという。新編鎌倉志には次のように述べられている。 「昔はこの井戸の中に、昼でも星の影が見えたのでこの名が付けられた。
ある日、近所の人が誤って包丁を井戸の中に落としたので、このとき以来星影が見えなくなった。」
鎌倉軍が飲料水とし、慶長五年京都からの帰り道に徳川家康も咽喉を潤したという。 |
|
| 御霊神社 |
もともとは五霊神社といい権五郎(ごんごろう)神社とも呼ばれる。
平安時代末期に活躍した五つの家の祖霊を祀っていたがやがて鎌倉権五郎景正が祭神となった。
景正は武勇に優れ有名な逸話が残る。16歳で後三年の合戦に従軍し勇戦する間に右目を矢で射られたが、景正は矢を折り棄て自ら放った矢で相手を殺し自陣に退いて仰向けに伏した。景正と同じ相模の三浦平太郎為次が皮の浅沓を履いたまま景正の顔を踏まえて矢を抜こうとすると景正は刀を抜き為次を切ろうとした。驚いた為次が咎めると「弓矢に当たって死ぬのは武士の本望だが生きながら顔を踏まれるのは許せん。為次を敵としてここで死ぬ」と言ったという。為次は謝り膝で押さえて矢を抜いたという。
境内のタブの木 江ノ電の線路を跨いで境内へ
|
景政の命日である9月18日には、「面掛け行列」が行われる。
「鎌倉散歩」第8回を参照 |
海光山(かいこうざん)
慈照院長谷寺 |
天平8年(736)の創建と言われ、坂東33ヵ所観音霊場の四番札所の浄土宗のお寺である。開山は道徳上人、開基は藤原房前。
本尊の十一面観音菩薩は、高さ9.18mあり木造では日本一と言われている。この像は大和の長谷寺の観音様と同じ楠の一木造りで、立ち姿が美しい。康永元年(1342)に足利尊氏が金箔を施し,明徳3年(1392)には足利義満が光背を造って納めたといわれる。
宝物館には文永元年(1264)の銘のある梵鐘や、元徳の銘のある懸仏などがある。
眺望散策路を登った小高いところからは、市街地と由比ガ浜が美しく開けて見えた。

境内の石碑:樗牛ここに住む

|
樗牛は、後年大磯、鎌倉と住んだが、鎌倉では長谷寺境内に一家を構えた。明治34年(1901)の12月から亡くなるまでの1年ほど暮らし、葬儀は長谷寺で行なわれた。 |
旅館「対僊閣」
長谷寺の参道にあって戦前の和風旅館としての佇まいをよく残している建物として貴重な存在である。
特に参道に面した建物正面の外観は特徴的で、2階部分には社寺建築などに見られる高欄(こうらん)が設けられ、これを支える持ち送り板や2階窓の上部に設けられた欄間窓(らんままど)などが独特の風格を醸しだしている。
|
|
| 大仏坂切り通し |
長谷通りを鎌倉大仏方面へ歩き、本日の眼目である大仏切り通しを目指す。
大仏随道を越えバス通りに沿って「火の見下」バス停手前を右の細い道に分け入る。幅2mくらいの路地を道なりに歩き、家がとぎれるといきなり山道が始まる。 大仏切通は鎌倉の西北に位置する、長谷と常磐及び笛田の境界附近の山中にある鎌倉の出入口の一つである。この切通が何時頃造られたかは不明で、吾妻鏡にも大仏切通の名称は見えない。
 |
 |
いきなり幅20m、高さ20mはあろうかという巨大な絶壁に遭遇。
聳え立つ切岸は見る人の度肝を抜く。敵が攀じ登れないように直角に削り落とした人工の岸壁で、上から石や木、弓矢を射掛けたものという。
|

切岸中段のやぐら
鎌倉のやぐらを墓所とみる人も多いが、矢倉の変化で櫓と同根ともみえる。
|
 |
|
 |
切岸側から見た馬返し(駒返し) 馬返し側から見た切岸
|
| 馬返しとは、ガクンと一段上がった急坂、馬で一気に攻め込まれないようにわざと段差をつけたもの。 |
置石が見える。
そのまま山道を進むとやがて分かれ道に出る。左は常盤地区仲ノ町の住宅地である。
更に少し進むと大仏坂トンネル山越え部分の急坂にぶつかる。

急坂の山越え部分
山越え部分を過ぎると道は急な下り坂になる。大仏坂トンネルの大仏側入口への下りである。そこを下ると源氏山からのハイキングコースと合流する。

| 暫くすると大仏随道の大仏側入口に出た。 |
 |
|
切り通し
山や丘などを切り開いて通した道を言う。鎌倉のそれは単なる街への道路を超えた鎌倉城の虎口で、敵の攻撃から鎌倉を守る防御施設として作られている。
山腹を垂直に切り落とした「切岸(きりぎし)」や道の上に兵士たちを待機させた「平場(ひらば)」、道の真ん中に大きな自然石を置いた「置石(おきいし)」、亀ヶ岡団地に行く手前では狭い道幅に左右から大きな石が覆い被さり、敵を立ち往生させた「大空洞(だいくうどう)」、「小空洞(しょうくうどう)」等複雑な防御機構などが設けられていた。
|
大異山(だいいざん
高徳院浄泉寺 |
やがて鎌倉を代表する名所となっている長谷の高徳院に着いた。
1712年に創建された浄土宗の寺院。境内に鎮座する有名な「鎌倉大仏」は、高さ13.35m、重さ124トン。正確な名称は阿弥陀如来坐像。鎌倉時代の代表的な青銅彫刻の傑作である。沙門浄光(しゃもんじょうこう)という僧が庶民から寄付を募って造った庶民のための大仏さまで、建造当初は木像仏だった。
ここで記念写真を撮り一先ず解散し、後は自由行動となったので、境内を散策後、一人で光則寺へ向かう。
|
火に焼けず 雨にも朽ちぬ 鎌倉の
はだか仏は 常仏かも(子規)
|
行時山(ぎょうじざん)
光則寺 |
開基は北条時頼の家臣、宿屋光則(やどやみつのり)。開山は日朗上人。
日蓮が佐渡に流罪になっている間、光則は弟子の日朗を土牢に閉じ込め、監視することになった。しかし、ついには自身も日蓮に帰依し、屋敷を寺に改築するまでになったといわれる。本堂の中には非公開ではあるが、日蓮、日朗の坐像が安置され、境内には日朗が幽閉されたという土牢跡も残っている。
四季折々の花が楽しめるお寺でもある。

都忘れの薄紫 |

小手毬の白 |
| 帰途 |
江ノ電長谷駅から帰途についた。 |
|