鎌 倉 散 歩 (No.14)                                 

                       比企氏・和田氏・畠山氏の遺跡を歩く
                             2007年06月05日(火) 
本日のコース(9:30から12:00)

今回は「うみねこ」の史跡探訪に参加、比企氏の館があったといわれる現在の妙本寺周辺と畠山重忠の嫡男・重保の供養塔、そして和田合戦の戦死者を供養したといわれる和田塚を訪ね往時を偲んだ一日でした。

JR鎌倉駅 → 鎌倉生涯学習センター前 → 大巧寺 → 妙本寺 → 竹御所(源よし子)の墓 → 蛇苦止大明神 → 元八幡(由比若宮) → 伝畠山重保墓 →  和田塚 → 解散
                                                          コースの地図・イラストはこちら
比企氏について
藤原秀郷流の一族らしい。詳しいことは良く分からない。
康和年間(1099〜1104)に波多野一族(
波多野家血統鑑によると、祖は天ノ児屋根命で、藤原鎌足―不比等―房前―藤成―豊沢―村雄―秀郷と続く。秀郷は田原藤太秀郷といい鎮守府将軍になっている。初めて波多野の姓をもちいたのは秀郷から6代目の経範からで、経範は相州(神奈川県秦野市)の祖となっており、さらに経範から6代目の義重は越前(福井県)の波多野の祖で永平寺を建立している。)の遠光が郡司として、比企郡(埼玉県)に移住したともいう。遠宗が源為義・義朝に仕え、妻比企局(尼)が源頼朝の乳母となる。義朝没後、比企に帰り、20年間に亘って頼朝の流人生活を支えた。
比企尼の養子であり、その妻が頼朝の嫡男万寿(後の源頼家)の乳母ともなった比企能員(よしかず)は、頼朝に信頼され有力御家人となった。頼朝没後、頼家が二代将軍となると能員は十三人の合議制の1人に加えられた。さらに、能員の娘の若狭局が頼家の妾となり長子一幡を産み、将軍の外戚ともなった。能員は頼家に信任され、権勢を振るうようになる。
1203年(建仁3年)8月、頼家が重病になると、北条時政は一幡と頼家と実朝とに頼家遺領分与を決定し、関東二十八国地頭職と日本国総守護職を一幡に、関西三十八国地頭職を実朝に相続。これに不満を持った能員は、頼家に時政の専横を訴え、頼家も北条時政追討を能員に命じる。しかし、この密議が時政にもれ、仏事にかこつけて時政の自宅である名越邸で、天野遠景、仁田忠常らにより謀殺された。
さらに比企の屋敷(現:妙本寺)に兵を送られ、若狭局や一幡ら一族を滅亡させられた。(比企能員の変:吾妻鏡 建仁3年9月の条

和田氏について
桓武平氏三浦氏の一族、杉本義宗の子義盛が、領地(相模国三浦郡和田、和泉国和田、安房国和田などの説がある)の名前を名字として称したのが始まり。

義盛は源頼朝の挙兵に従い、また源範頼の戦目付として多くの戦功を挙げ、鎌倉幕府の初代侍所別当に任ぜられた。 これにより和田氏は幕府の有力御家人の一家としての地位を築いた。
しかし後に幕府の権力を一手に掌握しようとする北条氏の挑発に乗って挙兵してしまう。 この戦に敗れ、和田氏一族は滅ぼされた(和田合戦)。

畠山氏について

武蔵国秩父郡に起源を持つ武士の名族。坂東八平氏から出た秩父重弘の子・重能が畠山を称したことに始まる。
治承・寿永の乱において、その子重忠は、はじめは平家方についたが後に源頼朝に従い、一ノ谷の戦いや奥州合戦などで活躍した。重忠はのちに北条時政と対立し、武蔵国二俣川で北条義時の軍と戦い敗死した。その後、足利義兼の庶長子足利義純が重忠の未亡人(北条時政女)と婚姻し、重忠旧領と畠山の名跡を継承した。義純はもともと新田義兼(足利義兼と同諱の従兄弟)の娘と婚姻し子も儲けていたが、妻子を義絶しての継承であった。これにより、桓武平氏のひとつ秩父平氏の流れを汲む畠山氏は清和源氏のひとつ河内源氏の一系 足利氏の一門として存続することとなった。また、義純の子孫は義絶した新田氏との間の子らが岩松氏となり、重忠未亡人との間に生まれた子らが畠山氏となった。足利氏の血を汲みながら父より義絶された岩松氏は後に新田氏の末裔を称し、その一方で畠山氏は足利氏一門として室町幕府の重鎮となって勢力を伸ばしていった。

コース 縁起など
大巧寺(だいぎょうじ) 開山は日澄で、産女(うぶめ)霊神「おんめさま」がまつられ、おんめ様≠フ愛称で親しまれる寺。
以前は大行寺といい十二所にあったが、源頼朝がこの寺で戦略を練ったところ大勝したため、元応2年(1320)大巧寺と改められた。
正面の朱色の門には「頼朝評定所」と記された碑が建てられている。また、5世住職の日棟上人が難産で亡くなった女性の霊を鎮め産女霊神として祀ったため、安産祈願に訪れる参拝客が多い。

花暦
2月…ツバキ
3月…マンサク、ミツマタ
4月…シュンラン
5月…ムサシアブミ、キンシバイ
6月・・・アジサイ
7月…キョウチクトウ
8月・・・フヨウ
10月…ムラサキシキブ
妙本寺         比企ケ谷にあった比企氏の屋敷跡に建てられた寺で、身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古の寺院。
比企の乱で滅んだ比企一族の供養のために、創建された。山号は長興山(ちょうこうざん)で文応元年(1260年)の創建。開基は比企能員の末子比企大学三郎能本(よしもと)、開山は日朗、十界曼荼羅を本尊とする。

二門ニ堂
仏法帰依の衆生を守護するという四天王は、須弥山(しゅみせん)に住む四方鎮護の四神で、持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多門天(北)を言う。
このうちの二天王は、特に日蓮宗で守護神として尊敬される持国天と毘沙門天(多門天)を安置することが多いという。
口を開いた阿形と閉じた吽形の金剛力士を安置する仁王門とは異なる。
妙本寺は、二門(総門と二天門)二堂(本堂と祖師堂)の日蓮宗の典型的な伽藍を有する。

         総門


        二天門
祖師堂
二天門を入ると母屋造りの大堂が日蓮宗開祖の日蓮上人を安置する祖師堂である。
祖師堂は十二間四方の建物で、一間幅の回廊があり、正面には更に二間の奥行きがある。

現在は霊安殿に安置されている木造日蓮上人坐像は、身延山本門寺の像と共に天下に三体の像(妙本寺・池上本門寺・身延山本門寺の像は一本の木で彫りだされたものと伝える三体同木)といわれ、14世紀頃の作。

この寺は、北条時政により滅ぼされた比企一族のために建立された哀しい歴史を秘めた寺院であり、山門から続く長い参道には閑寂な趣があり、丈高い樹木が鬱蒼と茂り、賑やかな街から一歩入っただけなのに深閑とした境内がある。
開基の能本は、比企一族滅亡の際、家臣に助けられたとも、当時京都の東寺で仏道修行をしていたので助かったとも言われている。難を逃れた能本は、後に学者となり、許されて鎌倉に戻り日蓮に深く帰依し、父の館跡に本寺を開創したという。




国木田独歩の「鎌倉妙本寺懐古」

夕日いざよふ妙本寺/法威のあとを弔へば/芙蓉の花の影さびて/我世の末をなげくかな。
法よ、おきてよ、人の子よ/時の力をいかにせん/永劫の神またたきて/金字玉殿いたづらに/懐古の客を誘ふかな。
梢の鳩の歌ふらく/ありし昔も今も尚ほ/夕日いざよふ妙本寺/芙蓉の花の美なるかな。 

妙本寺の海棠
古色蒼然たる祖師堂の右には海棠、左手に八重桜、境内の斜面にはシャガ(射干)が咲く。

女性をめぐって喧嘩していた中原中也と小林秀雄はここで和解した(「鎌倉比企ケ谷境内に海棠の名木がある」で始まる小林秀雄の『中原中也の思いで』より)。
海棠 

一幡袖塚と比企一族の墓
境内には比企一族の墓、一幡の袖塚(比企の乱後、焼け跡の中からわずかに見つかったという袖をまつる。戦火の中、6歳で死んだ一幡の袖だという)がある。

                一幡の袖塚
『吾妻鏡』建仁3年9月3日戊辰の条に、次のように記されている。
  能員が余党等を捜し求めらる。或いは流刑或いは死罪。多く以て糺断せら
  る。妻妾並びに二歳の男子等は、好有るに依って和田左衛門の尉義盛に
  召し預け、安房の国に配す。今日小御所跡に於いて、大輔房源性(鞠足)、
  故一幡君の遺骨を拾い奉らんと欲するの処、焼ける所の死骸若干相交り
  て求める所無し。而るに御乳母云く、最後に染付けの小袖を着せしめ給う。
  その文菊枝なりと。或る死骸の右脇下の小袖僅かに一寸余り焦げ残り、
  菊文詳かなり。仍ってこれを以てこれを知り、拾い奉りをはんぬ。源性頸に
  懸け高野山に進発す。奥院に納め奉るべしと。
   
近くには、前田利家の妻、まつの供養塔と伝えられる大五輪塔が目を引く。

また、丹下左膳などの作で知られる長谷川海太郎の墓もある。
彼は函館で生まれた破天荒な文士で、 林不忘、牧逸馬、谷譲次のペンネームを使い、一人で三人の作家を演じた。
林不忘は時代小説「丹下左膳」シリーズ、牧逸馬は犯罪実録小説、谷譲次は米国体験記「めりけんじゃっぷ」物で知られる。

大河内伝次郎演じる丹下左膳
「シェイは丹下、名はシャ膳」という大分訛りの名科白が懐かしい。

 
昭和8年の第一作より、大河内シャ膳は生涯に17本も撮られているとのこと。     
霊宝殿の横の裏手墓地への登り口に建つ、万葉集研究遺跡

鎌倉初期に比企ヶ谷新釈迦堂で僧の仙覚が成した現在の万葉集研究につながる重要な研究を顕彰したもの。
 「碑文」
  此地は比企谷新釈迦堂即将軍頼家の女にて将軍頼経の室なる竹御所夫人
  の廟のありし処にて当堂の供僧なる権律師仙覚が万葉集研究の偉業を遂げ
  しは実に其の僧坊なり 今夫人の墓標として大石を置けるは適に堂の須弥檀
  の直下に当たれり堂は恐らくは南面し僧坊は疑はくは西面したりけむ 西方
  崖下の窟は仙覚代々の供僧の埋骨処ならざるか 詳しくは悉しくは『万葉集
  新考 附録 万葉集雑考』に言へり
      昭和五年(1930)2月、宮中顧問官井上通泰撰、菅虎雄書、
                    鎌倉町青年団建碑

仙覚は晩年(文永六年1269)になって、武蔵郡北方麻師宇郷(現在の埼玉県比企郡小川町)にて、万葉研究の集大成である『萬葉集註釈(十巻)』を著すことになる。
霊宝殿の横の裏手墓地への階段を登る。

竹御所(源よし子)の墓
竹御所(1202〜1234)は、鎌倉前期の女性で、鎌倉幕府四代将軍・藤原頼経(よりつね)の妻。父は鎌倉幕府二代将軍・源頼家。
寛喜2年(1230)12月9日、13歳の将軍と28歳の花嫁との婚儀が行われ、それから4年、竹の御所は懐妊。しかし、死産、そして御所は死亡した。









佐竹矢倉
「應永二十九年十月(1422年)上総介入道常元主従十三人はこの矢倉の中で自刃した」
   

登ってきた階段を降り本堂へ向かう。
鎌倉大草紙14に次のように記されている。
応永二十九年(1422)十月三日、佐竹上総入道が家督のことについて御不審をこうむり、比企谷にいたところを上杉淡路守憲直(詫間上杉)が仰せ付けられて発向した。佐竹も討って出て戦ったが、結局かなわず、法華堂で自害して亡くなった。その霊魂が祟りをなしたので、社を建てて神として祭った。
本堂
木堂宝冠釈迦如来坐像は、室町時代の造立といわれ、背面に延宝5年(1677)の修理銘がある。他に小柄な同じ時代頃の木造宝冠釈迦如来坐像、並びに七面大明神、鬼子母神及び十羅刹、蛇苦止神など江戸時代の造像が多い。

    
蛇苦止(じゃくし)大明神
妙本寺の方丈への入口左手石段上に、若狭局(能員の娘)が子一幡と住んでいた小御所があった。比企の館を焼討され、わが子一幡を失った若狭局が悲しみの余り邸内の古井戸に身を投じたという。
この霊が蛇に化身して、比企の乱の56年後の1260(文永元)年に、北条政村の娘に取り憑いてのた打ち回る重病になり、常磐の屋敷で突然発狂「我は比企判官能員の娘なり。恨むこと有りて死して大蛇と成り・・・」と娘の口を借りて口走ったという。
驚いた政村は鶴岡八幡宮別当の隆弁に乞い除霊をしてもらい、小御所跡に堂宇を建立したのが蛇苦止堂という。
今も毎月1日に供養が行われている。
  「東鑑」文応元年(1260)10月15日己酉の条
    相州政村の息女邪気を煩い、今夕殊に悩乱す。比企判官の女讃岐
    の局の霊祟りを為すの由、自託に及ぶと。件の局大蛇と為り、頂に
    大角有り。火炎の如き、常に苦を受け、当時比企谷の土中に在るの
    由発言す。これを聞く人身の毛を堅くすと。
蛇苦止堂の右に注連縄を張った古井戸がある。
 

蛇苦止堂を後にし、総門を抜け、直ぐに左の細い路を行く。常楽寺(通称ぼたもちでら)の前を過ぎ八雲神社のところで右折するとやがて小町大路に出る。
   
元八幡
【国指定史跡】
辻の薬師堂前を通り横須賀線を横切り、初めての小道を右に、元八幡へ至る。

石清水の井
その途中に井戸跡がある。石清水の井である。

 
  
前九年の役(1051〜62)の時、相模守源頼義は京の石清水(いわしみず)八幡宮に戦勝を祈願し奥州へ下向した。康平6年(1063)、安倍頼時と安倍貞任(さだとう)を討って当地に凱旋した頼義は、父経基(つねもと)ゆかりの鎌倉の地に岩清水八幡宮の祭神を勧請し社殿を建立した。
以後源氏の氏神として崇敬を受け永保元年(1081)、頼義の子・八幡太郎義家が陸奥守兼鎮守府将軍として任地に下向の途中、社殿の修理・祈祷をしてりう。
治承4年(1180)鎌倉入りを果たした源頼朝が、社殿を由比郷松ヶ丘に移し鶴岡若宮としたため、以来、当地のものは由比若宮もしくは元八幡と呼ばれるようになった。

若宮大路 一本橋を渡り、鎌倉女学院の横をを過ぎると若宮大路に突き当たる。
若宮大路は、源頼朝が妻、政子の安産祈願のため造営したと伝えられる由比ヶ浜から鶴岡八幡宮まで伸びる全長約1800mの通りのことで、鳥居が3つある。海側から見て一の鳥居、二の鳥居、そして鶴岡八幡宮の入り口ともなっている三の鳥居の3つである。
    鎌女正門横の歩道橋の上から            由比ガ浜海岸方向
        鶴岡八幡宮を見る                 一の鳥居を見る

      一の鳥居から若宮大路をとらえている。小さく覗いているのが二の鳥
      居。八幡宮前の三の鳥居まではこの地点から1.25kmある。現在は
      一の鳥居と二の鳥居のちょうど中間を横須賀線が走る。スティルフリー
      ドのアルバムに収められているがベアトが撮影したもの。
                         この写真は放送大学附属図書館収蔵
  
一の鳥居
石造りで材質は花崗岩、「明神鳥居」の典型といわれる。高さは8.5メートルあり、柱の太さは92センチある。
浜の大鳥居とも呼ばれ、創建は源頼朝の時代まで遡る。
その後度々の造り替えがなされ、現在のものは寛文8年(1668)に建造された。
それまでは木造であったが、この時に石造となった。
関東大震災で倒壊したが、昭和初期一部新材を補って復旧された。
東側柱の旧材部分には「寛文八年戊申八月十五日 御再興鶴岡八幡宮石雙華表」と刻まれている。
参考:由比ガ浜の発掘調査

明神鳥居とは:神社知識・
鳥居      
伝畠山重保の墓
若宮大路一の鳥居西側、タブの木の下にある。
鎌倉武士の誉れ高い畠山重忠の嫡男重保の墓と伝わる宝篋印塔は、「明徳第四癸酉(みずのととり・1393)霜月三日大願主比丘道友」の銘を持つ室町時代初期の塔で、高さが3.4mあり、市指定重要美術品。
五輪塔はsの家臣の墓という。
ここに重保の屋敷があったことから、その墓ではないかといわれれるもの。
『吾妻鏡』元久二年六月二十二日の条によると「寅の刻に鎌倉中驚遽す。軍兵由比の浜の辺に競走す。謀叛の輩を誅せらるべしと。
これに依って畠山の六郎重保、郎従三人を具しその所に向かうの間、三浦平六兵衛の尉義村仰せを奉り、佐久間の太郎等を以て重保を相囲むの処、雌雄を争うと雖も、多勢を破ること能わず。主従共誅せらると云々」と記されている。
重保主従は、北条時政の陰謀により謀反人として、三浦義村の郎党佐久間家盛らに囲まれて誅殺された。一説では、実際に討たれた場所はもっと海寄りであったともいわれている。
江戸時代には「六郎茶屋」と言われた茶屋もあった。
『新編武蔵風土記稿』には「由比ケ浜に重保の墓あれど、明徳四年道友というもの立し石塔にて、重保戦死より遥かに後のものなり」とあり、後世の人が建立したものである。
宝篋印塔の脇に建つ【畠山邸跡の碑】
  碑文  
畠山重保は重忠の長子なるが嘗(かっ)て北条時政の婿平賀朝雅(ともまさ)と忿争す朝雅其の余怨を畜へ重保父子を時政に讒(ざん:告げ口)す時政もと重忠が頼朝の死後其の遺言に依り頼家を保護するを見て之を忌(うら)み事に依りて之を除かんと欲す及(すなわ)ち実朝の命を以て兵を遣して重保の邸を囲む重保奮闘之に死す時に元久二年(1205)六月二十二日此の地即ち其の邸址なり其の翌重忠亦(また)偽り誘はれて武蔵国二俣川に闘死す
   大正十一年  鎌倉青年団   
和田塚 鎌倉の江ノ電和田塚駅の側に和田一族の墓があり、俗に和田塚と呼ばれている。
宅地の囲まれた一角に、ここだけ大木が繁っている。「和田一族戦没地」「和田義盛一族墓」の石碑と和田一族の墓といわれる五輪等が20余基寂しげに並んでいる。
ここは元「無常堂塚」又は「千人塚」と呼ばれた向原古墳群に属する円墳の一つであって、堂の上には多くの五輪等があった。
ここに和田一族の戦死者の亡骸を葬ったと伝わるだけで、事実は確認されていない。
しかし、当地が建暦3年(1213)5月3日の和田合戦に於ける和田一族終焉の地であることは間違いない事実である。

明治25年の道路拡張工事の際に、男女の埴輪や多数の人骨、馬骨が発掘されたことから、和田合戦の際の両軍の戦死者を葬った塚との結論になり、これまで呼ばれていた「無常塚」から「和田塚」に名を変えたという。



和田合戦

義盛の子と甥・胤長が関わった倒幕クーデター(二代将軍頼家の遺児、千寿を奉じて義時を討とうという計画)発覚に端を発し、北条義時は執拗に義盛を挑発した。それに耐えかねた義盛がついに兵を挙北条義時と対決したのが「建保の乱」とも「和田合戦」とも言われる事件である。
和田一族は、本家筋に当たる三浦義村の裏切りにあい、計画も事前に洩れ、数を頼みとする北条軍の前に苦戦、由比ガ浜まで押し戻され義盛以下全員が凄惨な最後を遂げた。
この時、義盛の三男・朝比奈三郎義秀は郎党を連れ由比ガ浜から船で房総へ脱出したと伝えられているが、、その行方は判っていない。
          
解散 和田塚で解散。三々五々帰路に着いた。      

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