鎌 倉 散 歩 (No.15)                                 

                      建長寺回春堂での参禅と法話のひととき
                             2007年07月27日(金) 
「三井V-Net」の第1回「鎌倉建長寺座禅会」に参加、座禅を通して禅の精神の一端を学んだ後、東慶寺などのお寺を鎌倉シルバー・ボランティアガイド協会のガイドさんの案内で散策を楽しんだ。
当日は蒸し暑く”難行苦行ですな”と参加者から洩れるほどの一日でした。

本日のコース(8:30から15:00)
JR北鎌倉駅 → 建長寺総門前 → 建長寺回春堂 → 西来庵(僧堂) → 僧堂本堂 → 開山堂 → 開山大覚禅師廟 → 仏殿 →  法堂 →円応寺 → 浄智寺 → 東慶寺 →  円覚寺 → JR北鎌倉駅
                                                          
山内荘と山ノ内
山内荘は、むかし源氏の従者であった山内首藤経俊が支配した土地で、その範囲は、現在の山ノ内から横浜市栄区・戸塚区の東半分におよぶ広い一帯でした。
治承四年(1180)源頼朝が挙兵したさい、経俊は平氏側についたため、所領没収のうえのうえ、身柄は土肥実平にあずけられ、土地の支配権も実平にあたえられました。孫の惟平の代の建保元年(1213)におきた和田合戦のおり、彼は和田義盛に味方にして敗れ、処刑されたため、山内荘はとりあげられて北条義時に付与されました。
それ以来、この地域は執権北条氏の家督(得宗)が相続し、経営する土地として、鎌倉時代をつうじて管理されました。現在の山ノ内地区に建長寺をはじめ、北条氏ゆかりの多くの寺院や、北条氏の別荘などが建てられた理由がわかると思います。
そして、山内荘は鎌倉の範囲ではない鎌倉の外地≠ニされていました。その北の境界が、本山の山号巨福山≠ノ用いられた門前の巨福呂坂でした。当時の建長寺は鎌倉の外に建てられたことになります。
ちなみに、嘉禎元年(1235)十二月ごろの鎌倉の範囲は、東ー六浦(横浜市金沢区)、西ー固瀬河(藤沢市)南ー小坪(逗子市)と、北ー巨福呂坂の内側で、これを鎌倉中≠ニよびならわしました。山内の地を重視した時頼公は、建長二年(1250)六月、山内道を修理するなど、怠りなく、大禅刹を建立する準備にとりかかるのでした。

一方、建長寺が建てられる以前のこの地は「地獄谷」でした。化粧坂の瓜ヶ谷地獄やぐら、名越坂のまんだら堂、極楽寺など、鎌倉の境界にあたる所は多くの庶民の墓地や葬送の場だったのです。処刑も行われたでしょう。化粧坂は日野俊基の処刑でも有名ですね。そして地蔵菩薩坐像を本尊とする伽羅出陀山心平寺があったそうです。

夏安居(げあんご)
正式には夏安居大接心
げあんごだいせっしんと言い、起源はお釈迦様ご在世当時(今から約2500年前)のインドにまでさかのぼります。当時のインドでは4月から8月の雨期の間は外に托鉢に出られない修行者たちが一カ所に集合し、各々の修行についての研鑽を深めたのです。この習慣が今日の日本仏教にも伝わっており、特に行取(ぎょうしゅ/行じ取る)を旨とする禅宗では今日でも定例の接心として安居が受け継がれています。夏安居は夏の安居の意味合いで、冬にはまた冬の安居があります。
7月27日は建長寺夏安居が終了した日の翌日にあたりました。

コース 縁起など
巨福山(こふくざん)
建長興国禅寺
建長寺
   
鎌倉五山第一位の臨済宗建長寺派の大本山。
建長5年(1253)に後深草天皇の勅命で北条時頼が蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山として創建した、わが国最初の禅の専門道場。
最盛期には塔頭が49院あったが火災により焼失。現存する建物は江戸時代以降に再建または移建されたものである。 総門、三門、仏殿と一直線に並ぶ伽藍の周囲を10の塔頭寺院が取り囲む。
寺宝も豊富で木造漆塗りの須弥壇、木造北条時頼坐像などの国重文がある。
     写真を左クリックすると拡大表示ウィンドウが開きます。

総門

三門

鐘楼

仏殿

境内文学案内

境内案内図
蘭渓道隆
その後、京都の建仁寺等にも移り、弘安2年(1278)に再び建長寺へ帰り、66歳で亡くなり、後宇多天皇より大覚禅師という禅師号を賜わった。これは日本で最初の禅師号である。

総門
天明3年(1783)に建立され、京都の槃舟三昧院より昭和18年(1943)に移築され、別名を巨福門という。額の「巨」字の第3画目の下に、余分な「点」が書き加えられているが、この点(百貫点)があることによって字に安定感が出ているとされる。

三門

三門は空・無相・無作の三解脱門の略称で、一般には山門とも言われる。
現在のものは201世の万拙碩誼の努力によって安永四年(1775)落成したものだが、室町期の禅宗様式を踏襲した重層門である。万拙碩誼(ばんせつせきぎ)の労苦が「狸和尚」の伝承を生んだことでも知られている。重要文化財である。

入口で頂いた建長寺縁起はこちら
建長寺回春堂     開山は、建長寺21世住職の玉山徳?(ぎょくさんとくせん)。
寺名は、蘭渓道隆の語録にある「寒厳(かんがん)幽谷の面々は、春に廻る(寒さ厳しい深い谷にある人里離れたこの辺りも、春がやってくる素晴らしいと所である)・・・・・・」より選ばれたと言われる。

禅とは
インドの言葉「ディヤーナー」を中国漢字では「静慮(せいりょ)」と訳されます。「禅」は、迷いを無くした静かな状態で真理を得ること、自己に目覚める事だと言われます。
禅の流れ
禅の思想は、インドに発し、中国に渡って「禅宗」という形態をとるようになった。
中国の思想と文化を摂取した日本では、一大発展を遂げ、日本文化から禅の思想、文化を除外することは不可能になっている。
日本の禅宗
禅宗の始祖は達磨で、中国の少林寺に篭もり、9年間壁に面して坐禅した。この間一言も発しなかったと言われる。「面壁九年」
 臨済宗:栄西 中国で学び、日本に
       持ち帰った。上流武士階
       級に広まった。
 曹洞宗:道元 栄西と同じ。一般庶
       民の間に広がる。
 黄檗宗:(おうばくしゅう) 隠元 
       中国万福寺より騒乱を避
       けて日本 に来た。 

         (当日配布資料より)
            人里離れたという形容がピッタリする。


右側の写真は、本堂から見たもので、昔、大亀が住んでいたという伝説が残る、大覚池が横たわる。

左は、谷(やつ)の風情を収めた。
                   大覚池を手前に本堂を望む

               白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして遠く求むるはかなさよ 譬えば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり
 



















譬えば:たとえば
渇を:かつを

本堂に上がって、住職の法話と座禅を体験
住職から始めての坐禅の心得を伺い、半跏趺坐で約20分瞑想を行い、全員が「警策」を受ける。
終わってから、全員で摩訶般若波蜜多心経を唱和した。

 坐禅は、釈迦が悟りを開いた時の修行法と言われる。
   禅の基本作法・・・「調身、調息、調心」。姿勢を調え、呼吸を調え、心を調
              えることです。
              体、呼吸、心を統一して、自身を自然な状態に近づける
              ことであり、心を乱さない「禅定力(ぜんじょうりき)」を養
              います。
   足の組み方・・・・@結跏趺坐:「結跏」とは足を組むこと。「趺」は足の裏を
               言います。両足の裏を見せて足を組んで座ることで
               す。
              A半跏趺坐:が組めないときに一方の足だけを組んで座
               ることです。
   警策(けいさく)・・曹洞宗では「きょうさく」と言います。
              文殊菩薩に代わって修行者に注意を与え、奮起を促す
              棒のことです。
   警策の受け方・・・両腕を胸の前に組んだまま、深く前に屈みあごを引いて
              頭を少し下げます。背中には力を入れません。 

本尊の文殊菩薩坐像(1390年代の作、2001年に改修)

玄関には韋駄天立像(1659年頃の作)のお出迎えがある

西来庵   
嵩山門(すうさんもん)
西来庵(せいらいあん)に通ずる参道入り口である。ここから奥は修行道場になっており、非公開で立ち入り拝観は出来ない。
左に「大覚禅師語録提唱」、右に「本派専門道場」と掲げられている。

西来庵(僧堂)入り口の門
ここから入って左に僧堂本堂、右に大徹堂(座禅堂)、奥に昭堂(国重文)、更にその奥に開山堂、開山堂背後の山に蘭渓道隆の墓がある。

西来庵の門を入って左側にある僧堂本堂



右は昭堂
開山大覚禅師(蘭渓道隆)が眠る塔所
正面に祭壇があり、中は太い柱で囲まれた暗いガランとした空間だが、修行の厳かさを感じる言葉にいえない雰囲気である。
この昭堂(しょうどう)は、国重文で1458年建造とされているが実際は江戸初期のもので、近世禅宗様建築の特徴を示している。

左は、昭堂の中央奥にある祭壇
開山大覚禅師(蘭渓道隆)をまつる。


開山堂の奥の裏山に通じる階段が見える
上りきると、そこには開山大覚禅師が眠る。


開山大覚禅師塔

        開山堂が見える
新居山
円応寺
建長寺を出て左手斜め向かい、急な階段を登り切ったところにある。
閻魔大王を本尊として智覚禅師により建長2年(1250)に創建された臨済宗建長寺派の寺院で、閻魔堂、十王堂とも呼ばれ、亡者が冥界において出会う「十王」を祀っている。
本尊の閻魔大王坐像(国重要文化財)は運慶の作と伝わる。
十王とは(円応寺縁起書より)
 本来、仏教において死後の世界は説きませんでした。しかし「死」という事実は仏教の出発点でもあります。仏教において死への恐怖を解決し、充実した人生を送るために「十王」は存在します。
 十王とは、亡者が冥界において出会う十人の王様のことです。王様は、七日ごとに七回、更に、百ケ日・一周忌・三回忌の三回を加えて、合計十回の取調べを行います。
 ・初七日   秦広王(シンコウオウ)[本地:不動明王] 生前の罪の取調べ
 ・ニ・七日   初江王(ショコウオウ)[本地:釈迦如来]     〃
 ・三・七日  宋帝王(ソウテイオウ)[本地:文殊菩薩]     〃
 ・四・七日  五官王(ゴカノウ)  [本地:普賢菩薩]     〃
 ・五・七日  閻魔大王      [本地:地蔵菩薩]  生まれ変わり先が
                                  決まる
 ・六・七日  変成王(ヘンセイオウ)[本地:弥勒菩薩]  場所が決まる
 ・七・七日  泰山王(タイサノウ) [本地:薬師如来]  男女の別と寿命が
                                 決まる 
・・・・初七日から四十九日までの間は「中有」または「中陰」といい、この間、亡者はこの世からあの世へと旅を続けるとされます・・・・・・・・・・
 遺族は、百ケ日の平等王(本地:観音菩薩)には貪(トン)(貪り)の心、一周忌の都市王(本地:勢至菩薩)には瞋(ジン)(怒り)の心、三回忌の五道転輪王(本地:阿弥陀如来)には痴(愚痴)の心を慎むことを誓って法要を行うことにより、亡者の追善供養となるばかりではなく、自身の現世における功徳となる善行を積むことができ、来世の安楽へと繋がっています。
日本では、7回忌、13回忌、33回忌が加わって13仏信仰が室町時代から盛んになった。
   ・    七回忌  蓮華王   [本地:阿閃如来]
   ・  十三回忌  抜苦王   [本地:大日如来]
   ・三十三回忌  慈恩王   [本地:虚空蔵菩薩]

死んで七日目には、三途の川、又は三瀬川、葬頭河、渡り川とも言われる冥途にある川を渡る。
納棺時に、死者に何がしかの銭を持たせるのは、船に乗せて貰えるように願ってのこと。
三途の川には流れの速度が異なる三つの瀬があり、生前の業(ごう)によって「善人は橋」「軽罪の者は浅瀬」「重罪の者は流れの速い深み」を渡ることから、「三つの道」の意味で「三途の川」や「三瀬川」と呼ばれるようになったといわれる。
しかし、「三途」とは、本来は死者が悪業を報いるために逝くという三悪道のことを意味していたため、三悪道の考えから「善人」を含んだ「三途の川」が生まれた考えられる。
また、この三悪道の「三途」は「地獄道」「餓鬼道」「畜生道」からなり、地獄道は火に焼かれることから「火途」、餓鬼道は刀で虐められることから「刀途」、畜生道は互いに食い合うことから「血道」と呼ばれる。
北鎌倉方向へ来た道を戻る。
予約時間の関係もあり、先に東慶寺を訪れる。
松岡山
東慶寺
開山は北条時宗夫人覚山尼。弘安8年(1285)開創。本尊は釈迦如来。第5世用堂尼(後醍醐天皇の皇女)の入寺以後、松ヶ岡御所と称され、二十世は豊臣秀頼息女天秀尼と、代々名門出身者が住職を勤めた、寺格の高い尼寺としてその名を馳せるようになった。
本尊は釈迦如来だが、境内の松岡宝蔵には元は太平寺の本尊であった聖観音立像が、また、加賀前田家の持仏堂を移建した水月堂には水月観音菩薩半跏像が、夫々安置されている。
今回、特別に水月観音を拝観できることになった。

                  本尊の釈迦如来
              水月観音菩薩半跏像 
像高34cm・全長54.5cm・寄木造り・玉眼入りで、水辺に坐して、水面に映る月を眺める姿を表しているところから、水月観音の名で呼ばれている。 

東慶寺本堂からの眺め
金宝山
浄智寺
北条宗政(時宗の弟)が弘安4年(1281)に亡くなると宗政夫人は、亡夫と幼少の子師時を開基にして創建。開山兀菴普寧 (ごったんふねい)、請待開山は大休正念、準開山は南州宏海の3人が名を連ねてる。
臨済宗円覚寺派の鎌倉五山第四位の名刹。
当時は塔頭11院あり、伽藍が完備し相当の大きさを誇った。今でも寺域は拝領当時とほとんど変わりなく、3万5千坪の広さがある。
外門には、「宝所在近」と書かれた額が掛かっている。これは経文にある言葉で「立派なお坊さんになるために努力をしなさい。」という意味である。

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外門

曇華殿(仏殿)
  
瑞鹿山
円覚興聖禅寺
1282年(弘安5年)、鎌倉時代後半北条時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建された、臨済宗円覚寺派の大本山。
山号は開山国師(無学祖元禅師)が仏殿開堂落慶の折、法話を聞こうとして白鹿があつまったという奇瑞から瑞鹿山(めでたい鹿のおやま)とつけられたといわれている。
  
解散 北鎌倉駅で解散。三々五々帰路に着いた。      

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