1750年、7月28日、午後9時15分、バッハは66歳でこの世を去りました。当時、バッハは作曲家としてではなく「オルガンの達人」として知られていました。当時は、他人が作った曲を演奏する人は芸術家として認められなかったので、バッハの作品が演奏されることはほとんどなかったからです。
また、もしバッハの作品を演奏しようとしても、長男フリーデマンに渡った楽譜は、お金を得るために売られていたし、次男エマニエルに渡った分は、費用の都合で出版されていませんでした。
18世紀の後半、ドーレスという人が、聖トーマス教会でバッハの作品を演奏したおかげで、モーツァルトはバッハの作品を知ることができました。モーツァルトは、バッハの曲を合唱で聞いて、「これは一体何だ!」と叫び、全身を耳にして聞いていました。そして、歌が終わると「久しぶりで学ぶに足る曲に出会った。」と言いました。そして、楽譜を写したものをもらい、とても大事にしました。
ベートーヴェンは、少年時代、バッハの『平均律クラヴィーア曲集』を勉強し、これを自分の「音楽上の聖書」と呼んでいました。また、ゲーテは、平均律クラヴィーア曲集を聞いて、こう言いました。「世界創造の直前に、神の胸の中はこんな様子であったろう。私の胸の中でも何か同じように動くものが感じられて、耳も目も、その他の感覚も消滅し、不要であるように思われた」
1829年、『マタイ受難曲』が20歳のメンデルスゾーンによて演奏されました。その晩、バッハ愛好家たちが、メンデルスゾーンの師、ツェルターの家に集まりました。
その中には哲学者ヘーゲルもいました。ヘーゲルはバッハに対して、大変な関心を抱き、自著の『美学』の中でバッハについてこう書きました。「その壮大で、真にプロテスタント的な、芯の強い、しかも練習をつんだ天才性はやっと近頃になって再び完全な評価を受けるようになった」
シューマンは、コラール前奏曲『装いせよ、わが魂よ』について、こう書いています。「定旋律をめぐって黄金と化した葉の環がとりまき、幸福がその中にそそぎ込まれていた。だから君(メンデルスゾーン)は、私に向かって告白したのだ。たとえ人生が人の希望と信仰を失おうとも、このコラール一つがすべてを取り戻してくれるだろう、と」
リストは、バッハのオルガン作曲を編曲したり、BACH(♭シ、ラ、ド、シ)による大フーガを作曲しました。
1850年、「バッハ協会」が成立され、1851年には、バッハの作品の大全集の編集が始まりました。こうして一世紀がたってようやくバッハが正当に評価されるようになったのです。そして、現在、バッハの作品は世界共有の遺産となったのです。