バッハ(Johhan Sebastian Bach)は、1685年3月21日、ドイツのアイゼナッハという町で、8人兄弟の末っ子として生まれました。9歳のときに両親を失ったバッハは、14歳年上のお兄さんに引き取られ、オルガニストをしていたこのお兄さんから音楽の教育を受けました。
バッハは子供の頃から勉強好きでした。たとえば、夜、鍵のかかった戸棚の隙間から手をつっこんで、お兄さんの楽譜を取り出して、月の光で楽譜を写しました。けれども、すべてを写し終わったところで、お兄さんに見つかり、全部取り上げられてしまいました。
バッハは、ハンブルクやツェレという町へオルガン演奏を聞きに行きました。しかも、片道60キロを歩いて行ったのです。
18歳のとき、バッハは、アルンシュタットという町の教会オルガニストになりました。ある時バッハは、ブクステフーデというオルガン奏者の演奏を聴くために、4週間の休暇をもらって、リューベックという町まで片道40キロを歩いて行きました。
バッハはブクステフーデの演奏に魅了されてしまい、家に帰ることをすっかり忘れてしまいました。そしてなんと4ヶ月間もリューベックに滞在してしまいました。
22歳になったバッハは、マリーア・バルバラという女性と結婚し、6人の子供に恵まれました。32歳の時、ケーテン公レオポルトのもとで、宮廷楽士になりました。レオポルト侯も音楽が好きで、バッハの良い理解者でした。この頃、『ブランデンブルグ協奏曲』『無伴奏チェロ組曲』などがつくられました。
35歳のとき、バッハがレオポルト候との旅行から帰ると、悲しいことに妻のマリーアはこの世の人ではなくなっていました。けれども、36歳のとき、21歳のアンナ・マグダレーナと再婚しました。この結婚生活はとても幸せで、13人の子供をもうけ、バッハは、妻や子供のために教育のためのたくさん曲をつくりました。
38歳のとき、バッハはライプツィヒという町の教会のカントルになりました。カントルは4つの教会の聖歌隊の指導と、礼拝の音楽の指揮を毎日しなくてはなりませんでした。この頃つくられた曲が、『マタイ受難曲』や『ヨハネ受難曲』『ロ短調ミサ』です。
63歳のとき、フリードリッヒ大王の招待を受けて、バッハはポツダムという町へ向かいました。バッハはフリードリッヒ大王から与えられた主題をその場でアレンジして、人々をたいへん驚かせました。後にこれが『音楽の捧物』となりました。
これがバッハの最後の旅となりました。若い頃に夜を日についで勉強したため、視力をすっかり失ってしまいました。二度の手術も失敗に終わり、体力も衰え、ついに1750年、66歳で天上界へと還って行きました。
「私は一生懸命勉強した。誰でも私が勉強したほど勉強すれば、私ぐらいになるだろう」・・・これは、なぜそれほど高い芸術を身につけたのか、という質問に対するバッハの答えです。