SとMの関係
            
 そーっと服を着て、そーっと廊下に出て、肩越しにママの様子を確かめる。…大丈夫、まだ寝てる。ママは昨日も遅かったし、いつも昼過ぎまで起きない。あたしがいなくなったってちっとも気付かないだろう。ちょっとほっとして、音がしないように気をつけながらドアを閉める。これでもう大丈夫。
 玄関で、靴を履く前に持ち物チェック。肩にかける白いポシェットは、誕生日にママが買ってくれたお気に入り。ハンカチはピンクの花模様、キティちゃんのティッシュ(子供っぽいからいいっていうのに、ママはいつもこういうのを買う)、小さいお財布にはお年玉の残り、お腹が空いたとき用にチュッパチャップスが2本。
 (ママ、怒るかな…)
 ちょっと不安になったけど、もう行くって決めた。お腹にぐっと力を入れて、靴を履いて外に出る。いつも首にかけてる鍵でやっぱりそーっと鍵をかける。カチッて小さい音がしたけど、大丈夫だよね。
 階段を下りて、門をくぐろうとしたら大家さんがお掃除をしてた。
 「あら、おはよう、さやかちゃん。お出かけ?」
 「おはようございます」
 先生がいつも言ってる。いつでも、誰にでも、挨拶はきちんと。ぺこって頭を下げた弾みでみつあみが落ちてきた。それから、ちょっと深呼吸して。
 「パパのところに行ってきます!」
 言いながらダッシュで走る。止められないように。

 電車に揺られながら、なんだかドキドキして苦しくって胸を押さえた。さっきまで走ってたせい? うぅん、違う。口に出してみて、もっとはっきりしたパパに会いたい気持ちと、ママに黙ってパパに会いに行く後ろめたい気持ちで一杯になってる。きっとすごく怒られる。それより、悲しい顔をされたらどうしよう。パパと離婚したとき、ママは毎日泣いてた。あたしにバレない様に夜中にこっそり。だけど知ってる。知ってるけど……あたしはパパに会いに行こうって決めたんだ。

 パパの住んでいる町まではあと一時間くらい。ママが取っておいたパパからの手紙を駅員さんに見せて確かめたから、間違いない。何もやることがなくてちょっと退屈してきた。景色をぼーっと見ていたら、前の席に小さい女の子とお母さんが座った。それで思い出す。初めてママと会った日。
 綺麗で優しそうな女の人があたしの前にしゃがんで、にっこり笑って「はじめまして、さやかちゃん」って言ったとき、あたしはその人のことが大好きになった。パパが「さやかは新しいお母さんが欲しくないかい?」って言ったとき、嬉しくって力いっぱいうなずいた。あたしとママは本当の親子よりずっと仲良しで、あたしは本当にママのことが大好きで、だからママが「ママと一緒に来てくれる?」ってあたしに聞いたとき、ちょっと迷ったけどうなずいた。こんなに優しくて素敵なママを泣かせるなんて、パパが許せなかった。ママを慰めて、元気付けてあげなくちゃ、ってがんばった。

 だけど。きっともう、あたしはいらない。

 降りなきゃいけない駅に着いて、ちょっとドキドキしながら改札をくぐる。誰にも止められませんように。それで思いついて、駅の前の交番で手紙を見せて、おまわりさんに道を教えてもらった。変な顔をしてたから、「パパに会いに行くの」って言ったら、はっとした顔をして、それからジュースを一本買ってくれた。地図も書いてくれたから、これで絶対迷ったりしない。大人ってこういうのが好きなんだ。大家さんもそう。ちょっとうつむいて、「ママがいるからさびしくないよ」って言うだけで、お菓子をくれたり、おかずを分けてくれたりする。家出してきたって間違われるより、おまわりさんに同情される方がいいよね。
パパの家はちょっと遠かった。おまわりさんの地図を見ながら歩いて歩いて、やっと目印の公園。この近くに、パパの家がある。胸のドキドキが大きくなって、喉がからからになって、なんだかパパに会うことなんてできないような気がしてきた。ちょっと勇気を出すあいだ、って自分に言い聞かせて、公園のベンチでジュースを飲んだ。ちょっとぬるくなったオレンジジュースがお腹に落ちてく。最後の一口と一緒に胸のドキドキもぐっと飲み込んで、立ち上がった。パパの家は……あそこ。歩き出そうとした、その時。
 ドアが開いて、女の人が出てきた。その後ろからパパ。そしてパパと手を繋いで、小さい男の子。みんなで出かけるのが嬉しいのか、男の子はすごくはしゃいでて。パパも女の人も笑いながらそれを見てて。おもちゃを買ってってねだる男の子、ダメよって笑う女の人、はははいいじゃないかってパパ。パパが一瞬こっちを見たけどすぐに目をそらす。わからないんだ。あたしのことがわからないんだ。楽しそうに駅の方に歩いていく三人。遠くなっていく笑い声。足が動かないあたし。
 楽しそうなパパと重なる、楽しそうなママの姿。ママは最近明るくなった。それはあの男の人のせい。ママはきっとあの人と結婚したいんだ。だからあたしはもういらない。ママを元気付けるために一緒にいた、血の繋がらないあたしは、ママが元気になって、好きな人と結婚するときは、邪魔なだけ。だからお願いに来た。パパに、あたしを引き取ってって。パパとは血が繋がってるんだから、きっとそっちの方が自然。ママはきっと幸せになれる。あたしもきっと幸せになれる。そう思って来たのに。
 パパにはもう、新しい家族がいるんだ。パパとも、相手の人とも血の繋がった子供がいるんだ。パパとしか血の繋がってないあたしは、きっとあの家族の中に入れない。じゃあ、あたしはどうすればいいの? どこに行けばいいの?
 あたしはもうどこにも帰れないような気持ちになって、そのままベンチに座り込んだ。このままあたしが消えちゃったら、それが一番いいのかな、なんて思いながら。たくさん歩いて今日はちょっと疲れた。ちょっとだけ、目をつぶるだけってそう思って――

 ――気がついたら、隣にママがいた。あたしはママの肩にもたれて寝ちゃってて、一瞬何があったのかわかんなくって混乱する。いつからいたんだろう。どうしてここがわかったんだろう。ずっと見てたの? パパのこと、知ってたの? いろんな気持ちがごちゃ混ぜでなんだかよくわからない。びっくりしてるあたしに、にっこり笑ってママが言った。
 「さやか、おうちに帰ろう?」
 涙が出た。小さい子みたいでかっこ悪いってわかってるのに、大声で泣き出しちゃった。ママは驚いた顔でハンカチを出して、ぎゅってあたしを抱きしめた。あったかくって、優しくって、なんだか涙が全然止まらなくて、そのままずーっと泣いていた。ママの腕の中で。
 泣いてるあたしに、どうしてここにいるのかママが話してくれた。あたしが出てすぐに、大家さんがママに知らせてくれたらしい。手紙が無くなってたから本当だって気付いて、仕事を休んで追っかけてきてくれたんだって。
 (大家さんのお喋り)
 あたしはそう思ったけど、思ってからわかんなくなった。ほんとはそうしてほしかったから、大家さんに言っちゃったのかな。それから、「どうしてこんなことしたの?」って聞かれて、泣いてるのと、ママの腕があったかいのとで、つい本当のことを話してしまった。そうしたらママは、怒ったような悲しいような顔をして、今までよりうんと強くあたしを抱きしめた。
 「血が繋がってるとかいないとか、そんなこと関係ないでしょう? ママは、ずっとさやかのママでいたいのよ。本当の親子じゃなくっても、今までずっと本当の家族だったでしょう? もしママがあの人と結婚しても、さやかのことが要らなくなんて絶対にならないわ。だからお願いだから、いなくなった方がいいなんて思わないで。これからもママと一緒にいて?」
 もちろん、って言いたかった。心配かけてごめんなさいって謝りたかった。でものどが詰まって何にも言えなくて、だからあたしは何度もうなずいた。泣きながら、何度も何度も。

 夕焼けの中をママと手を繋いで歩きながら考える。今までも、これからも、さやかとママの関係はきっと変わらない、って。