
|
|
||||||||
サンデー毎日 ミセス通信 記載(2017年3月6日号)
| ||||||||
クララの母アンナは明治16年(1883年)4月17日、49歳で亡くなった。最初の来日から8年たっていた。宣教師ではなかったが、キリスト教の伝道に熱心だった。
右がアンナのお墓 ツツジに囲まれている 青山墓地は美濃の郡上藩、青山家の下屋敷跡で、明治7年東京府の公共墓地となった。大久保利通、森有礼、津田仙、乃木稀典、志賀直哉、北里柴三郎などの有名な人々も埋葬されている。広さは日比谷公園の2倍ある。しかし墓地の周辺に商店や人家が増えるにつれ、市街地の中に広大な墓地があることへの批判がたかまり移転が提案された。財政上の理由から実現しなかったという。今は霊園として春には見事な400本の桜が人々を楽しませてくれている。
国立新美術館 カフェ 徹子の部屋 セットで すぐ近くには黒川紀章設計の国立新美術館があり、有料、無料のさまざまな展覧会が開かれている。外側も内側も斬新なデザインで、一階の吹き抜けの大きなラウンジカフェや空中レストランは、見るだけでも価値がある。 参考文献 クララの明治日記 クララ・ホイットニー 講談社 東京の地理再発見 だれが町を造ったか 豊田薫 地歴社 東京・江戸を歩く ブルーガイド 実業の日本社 有名人お墓お散歩ブック ガジポン・マルコ・残月 大和書房 (おわりに) 2015年 12月
| ||||||||
藤沢駅の江ノ電 桟橋の下。昔は干潮時は人足の肩車で 長雨が続いて、やっと晴れ間が見えた9月のある日、江の島、鎌倉へ一人ででかけた。藤沢で降りて江ノ電にのりかえる。平日なのに若い人であふれている。
青銅の鳥居 恵比寿屋 赤の鳥居を見下ろす 現在の恵比寿屋の前はシラス料理で有名な「とびっちょ食堂」。「本日、生しらす入荷せず」という張り紙にも関わらずランチをとる人の行列ができている。弁財天仲見世通りをぶらぶら歩き赤い鳥居をくぐると江島神社がある。そこからさらに上へ登るのはきついので、エスカと呼ばれるエスカレーターを使う。クララたちは「崖をよじ登った」と書いている。
頂上付近 稚児が淵 御岩屋道通りの先端の「稚児が淵」から下の岩場を眺めると、釣り人やファミリーが磯遊びをしている。クララは「江の島で、この岩での朝ほど楽しい朝を過ごしたことない。裸のいたずら小僧たちが岩の間でくだけて泡立つ波の中に飛び込み、明るいサンゴ色の海藻などいろいろな種類の海藻をとってきた。私たちが、銅貨に和紙の切端を結び付けて、一つずつ海に投げ入れると、その子供たちは飛び込んで拾い上げた。全部投げ終わると、彼らは不平のないようにお金を等分に分けた」。子供たちの行動にクララが感心している。現代の私たちも150年前の日本の子供のモラルの高さに誇らしい気分になる。 岩屋の洞窟は第一岩屋が152メートル、第二岩屋が56メートルある。552年に欽明天皇の命により神様を祭り、その後弘法大師や源頼朝も訪れたと言われている。クララたちはお坊さんが松明をかざして案内してくれた。「天井の高いところがあるかと思うとかがんで通らなくてはならないところもあった。あちこちに清水が流れ、曲がり角ごとに弁天様の像があってランプが前方を照らしていた。明かりがちらちらして薄暗がりは気味悪かった」と書いている。
弘法大師の像 第二岩屋への橋 弁天丸から 別の日クララは大仏見学に向かう。途中「三橋」(みつはし)という茶屋で食事をする。三橋は当時大きな旅館だったらしい。長谷駅を降りて、観音さまへ向かう最初の十字路のあたりにあった。そこでクララは大勢の巡礼をみた。
大仏様の内部 猫背の大仏様 クララはもちろん鶴岡八幡宮にも行っているが、私は疲れてそこまではまわれない。江ノ電周辺は見どころが多いので、次回は道連れをさがしてゆっくりと来ることにしよう。 参考文献 クララの明治日記 クララ・ホイットニー 講談社 神奈川歴史ウオーキング 清水克悦 メイツ出版 きょうの健康 2014年12月号 NHK出版 ベルツの日記 (上) エルヴィン・フォン・ベルツ 岩波文庫 明治18年の旅は道連れ 塩谷和子 源流社 「三橋旅館」について 浪川幹夫 |
||||||||
|
||||||||
日本人は「忠臣蔵」が大好きだ。年末になると、テレビでは必ず「忠臣蔵」が放映される。夫は私の知る限り、一度たりと年末の忠臣蔵を見逃したことがない。「よくあきないわね」とあきれてしまう。
泉岳寺中門 山門 本堂
明治9年8月、クララは中原国三郎に「四十七士の墓」に誘われる。「歴史上のとても興味のある人物達らしい」と認識して、富田鉄之助や母と泉岳寺を訪れた。 「仏像のある寺を通りすぎてどんどん行くと首を洗ったという井戸へ出た」。井戸の上に「これは首を洗った井戸につき、手足を洗うべからず」と書いた立札があったという。明治時代では井戸があれば、水を飲んだり、手足を洗ったりは普通だったろうから、この立札もさもありなんと思われる。今は「吉良上野介義央の首をこの井戸にて洗い以て主君の墓前に供う」という立札がある。数年前まで水が湧いていたと言われるが、今は金網がかけられている。
お墓へ行く道 首洗いの井戸
元禄15年(1702年)12月14日、赤穂浪士は本所松阪町の吉良邸(両国付近)に討ち入りし、明け方上野介の首を討ちとり、その後永代橋を渡り、浅野家の江戸屋敷の脇を通り(聖路加ガーデンの場所)、およそ10キロの雪道を浅野家の菩提寺である泉岳寺まで歩き、上野介の首をこの井戸で洗った。中原はクララにどこまで説明したのだろうか。 「木陰の道を進んで墓地にはいると、大きく茂ったみどりの木々の投げかける陰の中央に、47人の墓があった。かずを数え一番大きい内蔵助の墓の前にある箱にお賽銭をいれた。内蔵助の墓は他の墓より装飾が多く、社(ヤシロ)が上に立っていて、前に寄進箱が置いてあった。息子、主税の墓にも同じような装飾がほどこしてあった」
内蔵助のお墓 四十七士のお墓 お線香を売る人
私たちが訪れたのは梅雨の上がった7月19日。猛暑だった。365日、お線香の煙が途切れることがないと言われているように、参拝者はそこそこいて、外国人も多く、赤穂義士記念館では英語と日本語で忠臣蔵のビデオを放映していた。 クララはお土産に義士の絵が描いてある酒杯と、歴史の本と薄荷ドロップを買った。 泉岳寺の近くに内蔵助たちが預けられた細川家がある。伊皿子の高級マンションを見上げながら坂を上ると、丁度交番がありお巡りさんがいた。「このあたり、昔はすべて九州の細川家の下屋敷だったんだ」さすが細川家。広い広い敷地だった。交番の前の旧高松宮邸は今は住む人もいないが、元は細川家の敷地内だったという。
旧高松宮邸 正門 大石良雄外16人忠烈の跡
預けられて2か月後、内蔵助たちは切腹を命じられた。その場所は近くの団地の裏にあり、内蔵助をはじめとする17名の名前が書かれた立札がある。供え物は禁止されているにもかかわらず、花束がささげられている。忠臣蔵のファンの思いは熱いのだ。 クララたちも8月に訪れ、夕方、近くのお茶屋へむかっている。 日本の上流階級の女性が自由に出歩くことなど考えられなかった時代に、この行動は顰蹙ものだろう。数日後の日記には「同じ齢の日本の少女の慎み深さに較べると、自分があまりにも自由なので、恥ずかしいような気がすることがある」と反省している。母アンナに見つからなかったのは幸いだった。 私たちは新橋へ出て、遅い昼食をとる。テレビのニュースでおなじみのサラリーマンが登場する駅近辺は、休日でシャッターがおりていた。暑いのでお店を探す気もせず、近くの中華料理店へ飛び込んだ。中国人の観光客らしいお客さんも多く、いろいろ注文していた。料理の味はともかく、クーラーと水がありがたいしめくくりだった。 参考文献 クララの明治日記 クララ・ホイットニー 講談社 散策&観賞 東京編 (株)ユニプラン 東京山手散歩 山川出版社 江戸歴史散歩 江戸いろは会編 講談社 東京江戸紀行 原田興一郎 実業之日本社 東京ぶらり旅 室町澄子 小学館 江戸ウオーキング JTBパブリッシング 江戸切絵図と東京名所絵 白石つとむ編 小学館 | ||||||||
|
||||||||
浜離宮は新橋駅から10分ほどの東京湾沿いにある。銀座口をでて昭和通りを行くと、途中に旧新橋停車場の復元駅舎がある。クララもここから横浜へしばしば汽車ででかけた。2階の企画展をちょっと覗いてから、浜離宮へ向かう。大手門まで歩くと潮のにおいがする。 40年ほど前、近くの会社につとめていて、この公園も昼休みなどに散歩した。今は周囲を高層ビルに囲まれてしまっているが、公園はあまり変わっていない。大きく変わったのは「におい」だ。当時は海も川も汚れていて悪臭が漂っていた。会社の窓を開けることもできなかった。今はそんなこともないが、近辺が工事しているせいなのか、築地川はゴミがうかんでいた。がっかり。
大手門 樋の口山(お台場がみえる) 富士見山
クララが散歩したのは150年前の明治8年のこと。日本へ来たその年に、母親や小野弥一らと一緒にでかけている。
延遼館あと 最近復元された燕の御茶屋
この時から4年後の明治12年に、アメリカの南北戦争の英雄であるグラント将軍が世界旅行の途中、日本にも立ち寄り大歓迎を受けた。2か月の滞在のほとんどは浜離宮にあった延遼館に落ち着いた。今は芝生しかないが当時は外国要人の接待や舞踏会のために使われていた。その時クララも母と延遼館のグラント将軍を訪ねている。 「広い砂利道を行くと大きな玄関があり、日本人の紳士やお供がたくさんいて、西郷中将(従道)、伊藤博文氏もおられたが、帰られるところだった。名刺を渡すと若い男が出てきてグラント将軍に会いたいかと尋ねた。もし夫人がおいでなら夫人にお会いしたいと答えた」 「延遼館の内部は素晴らしいつくりでビロードの椅子、どんすのカーテン、豪華な壁紙、鏡、時計、飾り物、シャンデリアは水晶、壁はエレガントな日本屏風紙、扇面、琵琶、笛、そのほかでいっぱいだった。ドアや木の部分は金漆だった」と描写している。グラント夫人との会見の様子は日記に2ページにわたって、書かれているが、こんなにも率直に辛辣に人物描写した人はいないかもしれない。会話はちぐはぐだった。 「全体に人のいい方のようだが、どんな身分から成り上がったかは明らかで、レディーらしい点はほとんどなく、どちらかというと下品で、威厳が全くないと私は思った」「幸せな人だ、この世の栄華を一身に受け、夫、子供たちに恵まれ、王族からもうやまわれて」
お伝い橋と中島の御茶屋 グラント将軍と明治天皇の会見した部屋 お抹茶
「中島のお茶屋」は潮入りの池の中にある。そこまでは総檜つくり118メートルのお伝い橋で行くことができる。グラント将軍は滞在中、ここで明治天皇と会談した。その時の絵(複製)が、いまでもお茶屋の床の間に飾られている。私はおいしいお抹茶とお饅頭(510円)をいただきながら、涼しい風が吹き抜けるお茶屋でゆっくりと池や築山を眺めた。さすがに大名家の庭園。いつまでもそこにいたい気分だった。
| ||||||||
|
||||||||
「母と富田(鉄之助)さんの奥様とアディ。風が吹いてほこりっぽく、あまり気持ちの良い日ではなかったが、間もなく目的地(麻布本村町217 学農社)に着く。津田さんがお庭にでて私たちを迎えてくださった。とてもお喜びになったご様子で、英国風の家に招きいれてくださった。それはとても小さな家で、お倉の上に建てたものだった。長い馬車道が門と花園まで続き、むこうには畑、池、丘、竹林などがあった」 「花園を通り抜ける時、津田さんは、今まで見たこともないほど美しいバラを幾つか折ってくださった。かわいいピンクのもあり、白や濃い紅や深紅色のもあった。ここにあるのは大部分アメリカやヨーロッパから輸入されたもので、日本に入って2、3年たつと、香りを失うけれど、色が新しく美しくなるという。」 「イチゴ畑で籠を渡され、『好きなだけお取りください』と言われた。すぐに籠一杯になり、指と口は赤くそまった」 津田仙は津田梅子の父親で青山学院や普連土学園の創立にかかわり、熱心なクリスチャンでもあった。幕府に仕えている時、アメリカへ行き「農家がゆたかなことに驚き、また農業が国つくりに重要」であることを実感した。明治になり、築地で外国人用のホテルの理事をつとめていた頃、新鮮な西洋野菜の必要にせまられ、麻布に農場を作った。 同じころ、福沢諭吉も古川をはさんだ東側の高台に土地を求め、慶應義塾をつくった。
二人は友人だったので、そのよしみで、今回私は田町の慶応義塾大学から歩くことにした。東門からはいる。階段を上った構内からは高いビルが眺望をさえぎるが、何もなかった明治時代には新橋、横浜間の鉄道の向こうに海をのぞみ、皇居も視界にはいったという、さぞかし気持ちのよい学び舎であったろう。正門をぬけ綱坂下へでる。津田仙は最初はこのあたりでアスパラガスの栽培をした。それが成功し、麻布の土地を手にいれることができた。 高速道路が上を走る古川の三の橋を渡る。広い通りを横切ると、南麻布2丁目のマンション街になる。クララはこのあたりを馬車で通ったかもしれない。坂を上ると、小さなお寺がいくつかあり、突然視界がひらける。また坂を下り歩いていると、曹渓寺があった。ちょうど、しだれ桜とボタンが咲いていた。門の前には麻布獣医学校の跡地を示す標識がある。以前は仙の住居だったのだ。
ここから麻布十番方面へ歩くことにする。またもや韓国料理ランチを食べ、「豆源」でお豆を買う。それから鳥居坂を上り、東洋英和女学院を外からながめる。そこが六本木の繁華街のすぐ近くとはしらなかった。
| ||||||||
|
||||||||
| ||||||||
|
クララ一家は明治八年、来日したものの父の仕事が決まらず、不安定でつらい日々を過ごしていた。
勝海舟が資金援助をしてくれて、やっと仕事に就くことができた。翌年の二月に、
クララが初めて氷川町の勝海舟邸を訪れる場面が日記にかかれている。
勝海舟は何度か住まいを引っ越しているが、明治5年から明治32年に亡くなるまでは、赤坂氷川町に住んだ。
赤坂教会 氷川神社
| ||||||||
明治八年、クララ・ホイットニーは14歳の時、家族と
共にアメリカから日本へやってきた。
赤い鳥居 力石 | ||||||||
| 1.インドネシア・
マカッサルへ 2009年 マカッサル空港着/ ちらしずしパーティー/ 田舎の村/ フォーラム/ フィールド・ウオーク 5000年前の洞窟画/ キャリア・ウーマン/ 下痢と水とトイレ/ ホテル・ライフ/ 帰る日 |
||||||||
| 2.再び 11月のインドネシア マカッサルへ ナシゴレン/ バンティムルン渓谷/ ハサヌディン大学/ トランス・スタジオ |
||||||||
3.三度目のマカッサル はじめに/出発/ウブドへ行く/暑さと風邪/日本語のボランティア インドネシアの温泉/女二人のニューギニア/インドネシア時間 |
||||||||
![]() |
高木都のエッセイ
|
|||||||
|
||||||||
|
|
||||||||
| 著書 ミセスの投稿生活 書いてストレス発散 オフィス未来刊 1200円+税 お申し込み |
| エッセイ |
| プロフィール |
| 著書 |
| リンク |
| 生活を大切に アンティーク・リサイ クル家具の店/みどりや ☆イセッテ |
|
連絡先 |
| (C)Miyako Takagi since2005.7 |