今までの
トイレの水洗レバー
最後の言葉
ついに食洗機を買う
あいさつは
  間髪入れずに
映画 「クイーン」
一時のこと
ドバイのなつめ
眠れぬ夜の宇野千代
熟年夫婦
耐震強度偽装
  マンション
食 育
母親の技術力
AALWAYS
  三丁目の夕日
酔っ払い嫌い
別嬪さん
読めない漢字、
  知らない古典
夫婦喧嘩の夜
ブルーシート
YesとNo
最近のコンサート
スイカよ止まれ
ついに
  ラジオ族になる
 
幻の大連
お辞儀

 

 「レシート」 (2017年)

サンデー毎日 ミセス通信 記載(2017年3月6日号)

 3年日記をつけている。トキメキのない日々を送っているせいか、書いていても、読み返 してみても面白くない。ところがレシートを見ながら家計簿を付けていると、その日の情 景がまざまざくっきり思いだされ、心がシャッキリする。某月某日、ステーキ肉2枚1500 円。この日は夫が珍しく料理をしてくれた。安い国産肉で硬かった。レシートがなかった ら、夫が作ったことすら忘れている。ある日はふきのとうを買った。翌日天ぷらにしてお 隣さんにお裾分けした。わたしもけっこういいお付き合いをしている。佐野洋子さんのエ ッセイだったか家計簿を見ていると時間を忘れる男の人の話があった。読んだ時は変な趣 味と笑ったが、今はわかる気がする。もうロマンチックなことなんて起こらないのだから、 レシート日記で老後の節約生活とボケ防止を狙ったほうがいいかもしれない。



 
 「クララと青山墓地」 (2015年)
クララ・ホイットニー

明治8年、家族と共に14歳で来日。
勝海舟の三男、梶梅太郎と結婚して六人の子どもをもうける。
海舟の死後、夫と離婚しアメリカへ帰る。
娘時代の日本滞在日記が昭和51年、100年ぶりに出版され
ホイットニー一家と明治の実力者、
旧将軍家、お雇い外国人たちとの交流が明らかになる。

 クララの母アンナは明治16年(1883年)4月17日、49歳で亡くなった。最初の来日から8年たっていた。宣教師ではなかったが、キリスト教の伝道に熱心だった。

 アンナが布教に熱心になったのは、アメリカに留学中だった富田鉄之助(後の日銀総裁)と関係があった。富田はアンナの夫が校長をしていた商業学校で学んでいたが、英語の勉強がうまくいかず、アンナがそれを手伝った。教材として聖書をよむうちに、アンナの方がその魅力にとりつかれてしまった。そしてついには、未開の地であり東洋の野蛮国とおもわれていた日本で布教活動をしたいとおもうようになった。夫ウイリアムに東京の商法講習所の所長の話が持ち上がったのをきっかけに、一家で日本へくることになった。

 最初5年間の日本滞在中、息子ウィリーを医療伝道師にしたいと思い、東大のベルツ博士のもとで医学を勉強させた。その仕上げのために一家はアメリカへ帰り、3年後また日本へ戻ることになったのだが、途中ロンドンで夫ウイリアムが亡くなってしまった。しかしアンナの決意は固く、アメリカへは戻らず、子供たちと再び日本へやってきて、間もなく病にたおれることになってしまった。

 クララの悲しみは深く、日記は数ページにわたり母の病状、勝海舟夫人をはじめとする周囲の人々の好意と気遣いが書かれている。手厚い看病にも関わらず、母は苦しみながら亡くなった。

 そして青山墓地に埋葬されることになった。外国人としては二人目だった。アンナの墓碑には「義人は信仰によって生きる」「体は土になるが霊は天に帰る」という意味の勝海舟の言葉が漢詩で刻まれている。クララはお墓のまわりに母の好きだったツツジを植えた。日本へ来たとき、森有礼夫人から贈られて、アンナが気に入っていた花だった。

    

右がアンナのお墓           ツツジに囲まれている

 青山墓地は美濃の郡上藩、青山家の下屋敷跡で、明治7年東京府の公共墓地となった。大久保利通、森有礼、津田仙、乃木稀典、志賀直哉、北里柴三郎などの有名な人々も埋葬されている。広さは日比谷公園の2倍ある。しかし墓地の周辺に商店や人家が増えるにつれ、市街地の中に広大な墓地があることへの批判がたかまり移転が提案された。財政上の理由から実現しなかったという。今は霊園として春には見事な400本の桜が人々を楽しませてくれている。

     

国立新美術館 カフェ         徹子の部屋 セットで

 すぐ近くには黒川紀章設計の国立新美術館があり、有料、無料のさまざまな展覧会が開かれている。外側も内側も斬新なデザインで、一階の吹き抜けの大きなラウンジカフェや空中レストランは、見るだけでも価値がある。

 今回は、ミッドタウン方向へ行かず、政策研究大学院大学のそばを通り、六本木ヒルズへ向かう。そこの毛利庭園を眺め、テレビ朝日に寄った。徹子の部屋のセットがあったので遊び心で写真をとってきた。

 

参考文献

クララの明治日記 クララ・ホイットニー 講談社
東京の地理再発見 だれが町を造ったか  豊田薫   地歴社
東京・江戸を歩く   ブルーガイド         実業の日本社
有名人お墓お散歩ブック  ガジポン・マルコ・残月  大和書房


(おわりに)
 一年間かけてクララが明治時代に訪れた東京の行楽地をまわってみました。 自分が訪ねたことのある場所も、10代のアメリカ人少女、クララの目を通してみると 実に新鮮に映ります。明治時代の庶民にとってはおそらく無縁の場所であったろうと思われますが、 現代では、どんな名所でも自由に行けることをしみじみと感謝しました。

2015年 12月

 

 
 「クララと江の島、鎌倉」 (2015年)
クララ・ホイットニー

明治8年、家族と共に14歳で来日。
勝海舟の三男、梶梅太郎と結婚して六人の子どもをもうける。
海舟の死後、夫と離婚しアメリカへ帰る。
娘時代の日本滞在日記が昭和51年、100年ぶりに出版され
ホイットニー一家と明治の実力者、
旧将軍家、お雇い外国人たちとの交流が明らかになる。

      

藤沢駅の江ノ電         桟橋の下。昔は干潮時は人足の肩車で
                               満潮時は渡し船で渡った。
       

 長雨が続いて、やっと晴れ間が見えた9月のある日、江の島、鎌倉へ一人ででかけた。藤沢で降りて江ノ電にのりかえる。平日なのに若い人であふれている。
 クララは明治9年8月に江の島に家族と滞在した。青銅鳥居から少し上がった「橘屋」という旅館で、2階の部屋は風通しがよく眺めもすばらしかった。女主人が経営して、従業員も感じよかったとのべている。本当は青銅鳥居のすぐそばの恵比寿屋という旅館を予約したが、満員で断られた。ここは江戸初期創業の由緒ある旅館で、伊藤博文なども泊ったことがあり、何と、今も営業しているのだ。

    

青銅の鳥居          恵比寿屋            赤の鳥居を見下ろす

 現在の恵比寿屋の前はシラス料理で有名な「とびっちょ食堂」。「本日、生しらす入荷せず」という張り紙にも関わらずランチをとる人の行列ができている。弁財天仲見世通りをぶらぶら歩き赤い鳥居をくぐると江島神社がある。そこからさらに上へ登るのはきついので、エスカと呼ばれるエスカレーターを使う。クララたちは「崖をよじ登った」と書いている。

 江の島の頂上はサムエル・コッキング苑があり、タワーにのぼることもできる。私は海を見晴らすベンチで一休みするが、9月というのに風もなく暑い。名物の大きな「丸焼きたこせんべい」を買う若い人たちは「暑い暑い」と言いながら、やきたての熱いおせんべいを「あちあち」と言いつつ、ぱりぱり食べている。見ているだけで汗が出る。

 江の島へは何度か来ても、島の裏側の岩屋まで行ったことはない。頂上から坂を下り,御岩屋道通りを行くと、突然目の前に岸壁が現れたりして、まったく表の江の島と違う別の風景がみられる。こちらにもお店や茶店がたくさん崖の上にあるので、どの店からも海を見渡せて、食事をするのもいい。
 「私たちは茶店に座って、港の美しい景色を眺めた。はてしなく続くみどりの丘の間に埋もれた、茶色の屋根の、絵のようなちいさな村々!島にあるしげった峡谷や、純粋な美しさのそこなわれていない、ひっそりした散歩道は全く魅惑的である」とクララは書いている。

   

頂上付近                 稚児が淵

 御岩屋道通りの先端の「稚児が淵」から下の岩場を眺めると、釣り人やファミリーが磯遊びをしている。クララは「江の島で、この岩での朝ほど楽しい朝を過ごしたことない。裸のいたずら小僧たちが岩の間でくだけて泡立つ波の中に飛び込み、明るいサンゴ色の海藻などいろいろな種類の海藻をとってきた。私たちが、銅貨に和紙の切端を結び付けて、一つずつ海に投げ入れると、その子供たちは飛び込んで拾い上げた。全部投げ終わると、彼らは不平のないようにお金を等分に分けた」。子供たちの行動にクララが感心している。現代の私たちも150年前の日本の子供のモラルの高さに誇らしい気分になる。

 岩屋の洞窟は第一岩屋が152メートル、第二岩屋が56メートルある。552年に欽明天皇の命により神様を祭り、その後弘法大師や源頼朝も訪れたと言われている。クララたちはお坊さんが松明をかざして案内してくれた。「天井の高いところがあるかと思うとかがんで通らなくてはならないところもあった。あちこちに清水が流れ、曲がり角ごとに弁天様の像があってランプが前方を照らしていた。明かりがちらちらして薄暗がりは気味悪かった」と書いている。
 私が今回行ったときも、まったく同じ状況だった。ろうそくを渡され、浮かび上がる仏像を見ながら、じめじめした洞窟を進んだ。

 しかし岩屋の外に出ると相模湾が広がり、その向こうには富士、箱根、伊豆方面の景色が眺められる。しばし岩屋の入り口で眺めを堪能する。が、ここからまた坂を上って帰る気力はない。遊覧船の弁天丸に乗り桟橋までもどることにした。

    

弘法大師の像         第二岩屋への橋       弁天丸から

 別の日クララは大仏見学に向かう。途中「三橋」(みつはし)という茶屋で食事をする。三橋は当時大きな旅館だったらしい。長谷駅を降りて、観音さまへ向かう最初の十字路のあたりにあった。そこでクララは大勢の巡礼をみた。
 「その人たちは昔は裕福なサムライだったが、政治の変革のため貧乏になったので、自分の国まで歩いていかなくてはならないのだそうだ」と富田鉄之助から教えられる。江戸幕府が滅びて9年たつが、クララのように旅を楽しむ外国人もいれば、まだまだあちこちで戦乱もあり、政治体制の変化の犠牲になった人もたくさんいる。その中の一人が座って、「ああ、今日は40マイル[60キロ]歩いた」と言っていたことを記している。こういう人々に注目する15歳のクララの好奇心と感受性に感心させられる。

 大仏様のおわします高徳院は子供たちと若者と外国人でいっぱい。20円払って大仏様の中へ入ってみる。青銅の中だからむっとするほど暑い。クララは内部のはしごにのぼり、背中の窓から外を眺めたという。背中の窓は二つあいているが、今はのぼれない。クララは大仏様の手の平にも上がっている。女がそういうことをするのは日本人には不快だったらしく、そこにいたサムライも富田鉄之助の夫人もいい顔をしなかった。もっとも明治13年に大仏見学をしたベルツ博士は「外人や日本人が手や膝に乗り写真を撮らせているが、これはよくない」と書いている。今は国宝の阿弥陀如来として大切にされていても、当時は外国に売ってお金にかえようとか、写真に撮らせてお金をとろうとか、そんな時代でもあった。

    

大仏様の内部            猫背の大仏様

 クララはもちろん鶴岡八幡宮にも行っているが、私は疲れてそこまではまわれない。江ノ電周辺は見どころが多いので、次回は道連れをさがしてゆっくりと来ることにしよう。

 

参考文献

クララの明治日記 クララ・ホイットニー 講談社
神奈川歴史ウオーキング 清水克悦  メイツ出版
きょうの健康 2014年12月号  NHK出版
ベルツの日記 (上)  エルヴィン・フォン・ベルツ  岩波文庫
明治18年の旅は道連れ  塩谷和子  源流社
「三橋旅館」について  浪川幹夫


 
「クララと泉岳寺」 (2015年)
クララ・ホイットニー

明治8年、家族と共に14歳で来日。
勝海舟の三男、梶梅太郎と結婚して六人の子どもをもうける。
海舟の死後、夫と離婚しアメリカへ帰る。
娘時代の日本滞在日記が昭和51年、100年ぶりに出版され
ホイットニー一家と明治の実力者、
旧将軍家、お雇い外国人たちとの交流が明らかになる。

 

 日本人は「忠臣蔵」が大好きだ。年末になると、テレビでは必ず「忠臣蔵」が放映される。夫は私の知る限り、一度たりと年末の忠臣蔵を見逃したことがない。「よくあきないわね」とあきれてしまう。
 私の見た最初の「忠臣蔵」は大映映画で、長谷川一夫、市川雷蔵、山本富士子だったような気がする。300年以上日本人の心をとらえてきた物語だから、真相と言われるものもいろいろ分析されて私のような歴史音痴にとってはややこしい。
「上野介は本当にあんないじわる爺さんだったの?」などと夫に聞こうものなら、話は歴史、経済、制度に及び、止まらなくなる。だから聞かないようにしている。

      

泉岳寺中門           山門                本堂

 

 明治9年8月、クララは中原国三郎に「四十七士の墓」に誘われる。「歴史上のとても興味のある人物達らしい」と認識して、富田鉄之助や母と泉岳寺を訪れた。
 木挽町の家から「東海道を行き、みすぼらしい入口に着くと、車を降りて小道を歩いたが、進むにつれだんだんいい道になった」。いまの地下鉄、泉岳寺駅あたりで人力車をおりたのだろうか。現在は地下鉄から泉岳寺をみあげると、中門の隣にぴったりと、新築のマンションが建築中で、道路のあちこちに「建設反対」の看板がたっている。そう大きくはない泉岳寺がさらに小さくなってしまった。

 「仏像のある寺を通りすぎてどんどん行くと首を洗ったという井戸へ出た」。井戸の上に「これは首を洗った井戸につき、手足を洗うべからず」と書いた立札があったという。明治時代では井戸があれば、水を飲んだり、手足を洗ったりは普通だったろうから、この立札もさもありなんと思われる。今は「吉良上野介義央の首をこの井戸にて洗い以て主君の墓前に供う」という立札がある。数年前まで水が湧いていたと言われるが、今は金網がかけられている。

     

お墓へ行く道               首洗いの井戸

 

 元禄15年(1702年)12月14日、赤穂浪士は本所松阪町の吉良邸(両国付近)に討ち入りし、明け方上野介の首を討ちとり、その後永代橋を渡り、浅野家の江戸屋敷の脇を通り(聖路加ガーデンの場所)、およそ10キロの雪道を浅野家の菩提寺である泉岳寺まで歩き、上野介の首をこの井戸で洗った。中原はクララにどこまで説明したのだろうか。
 「このことについてはちょっとした話があり、今読んでいるところだが、あまり長くて、ここで書き写すわけにはいかない」とクララは記している。

 「木陰の道を進んで墓地にはいると、大きく茂ったみどりの木々の投げかける陰の中央に、47人の墓があった。かずを数え一番大きい内蔵助の墓の前にある箱にお賽銭をいれた。内蔵助の墓は他の墓より装飾が多く、社(ヤシロ)が上に立っていて、前に寄進箱が置いてあった。息子、主税の墓にも同じような装飾がほどこしてあった」
 10年以上前に訪れた夫に言わせると、今の境内は整備されてきれいになったというが、お墓に限っていえば、クララの訪れた140年前の描写と現在とはあまり変わっていない。

    

内蔵助のお墓        四十七士のお墓        お線香を売る人

 

 私たちが訪れたのは梅雨の上がった7月19日。猛暑だった。365日、お線香の煙が途切れることがないと言われているように、参拝者はそこそこいて、外国人も多く、赤穂義士記念館では英語と日本語で忠臣蔵のビデオを放映していた。

 クララはお土産に義士の絵が描いてある酒杯と、歴史の本と薄荷ドロップを買った。
私は地元のスーパーでも手に入るが、一応「赤穂の塩」を記念として買うことにした。

 泉岳寺の近くに内蔵助たちが預けられた細川家がある。伊皿子の高級マンションを見上げながら坂を上ると、丁度交番がありお巡りさんがいた。「このあたり、昔はすべて九州の細川家の下屋敷だったんだ」さすが細川家。広い広い敷地だった。交番の前の旧高松宮邸は今は住む人もいないが、元は細川家の敷地内だったという。

     

旧高松宮邸 正門             大石良雄外16人忠烈の跡

 

 預けられて2か月後、内蔵助たちは切腹を命じられた。その場所は近くの団地の裏にあり、内蔵助をはじめとする17名の名前が書かれた立札がある。供え物は禁止されているにもかかわらず、花束がささげられている。忠臣蔵のファンの思いは熱いのだ。
 猛暑でなければ、ゆっくり散歩したい場所だが、ともかくものすごく暑い。ペットボトルの水はすでに終わってしまった。熱中症にでもなったら大変と地下鉄へもどる。

 クララたちも8月に訪れ、夕方、近くのお茶屋へむかっている。
 「きれいで涼しい店で、川の土手を降りたところにあって、回りは松や杉に囲まれ、そよ風が涼しく、往き来する船の櫂の立てる水音がとても気持ちよかった」
 当時の高輪、品川あたりの海岸は風光明媚で、高輪大木戸付近には茶店がならんでいたというが、クララたちのお茶屋はどこだったのか。
 夕食がくるまで、中原とクララは腕を組んできれいな庭を歩き回った。
 「日本のサムライが、外人の少女と腕を組んで散歩しているのを見て女給仕たちはびっくり仰天した」
 中原はアメリカに5年ほどいて、クララの家を訪問したこともある。英語が堪能でアメリカ流のレディーファーストを身に付けているので、クララは好感を持っていることが、日記のあちこちからうかがえる。この日もついついアメリカの少女に戻ってしまったのだろうか。

 日本の上流階級の女性が自由に出歩くことなど考えられなかった時代に、この行動は顰蹙ものだろう。数日後の日記には「同じ齢の日本の少女の慎み深さに較べると、自分があまりにも自由なので、恥ずかしいような気がすることがある」と反省している。母アンナに見つからなかったのは幸いだった。

 私たちは新橋へ出て、遅い昼食をとる。テレビのニュースでおなじみのサラリーマンが登場する駅近辺は、休日でシャッターがおりていた。暑いのでお店を探す気もせず、近くの中華料理店へ飛び込んだ。中国人の観光客らしいお客さんも多く、いろいろ注文していた。料理の味はともかく、クーラーと水がありがたいしめくくりだった。

 

参考文献

クララの明治日記 クララ・ホイットニー 講談社
散策&観賞 東京編 (株)ユニプラン
東京山手散歩  山川出版社
江戸歴史散歩  江戸いろは会編 講談社
東京江戸紀行  原田興一郎 実業之日本社
東京ぶらり旅  室町澄子  小学館
江戸ウオーキング JTBパブリッシング
江戸切絵図と東京名所絵 白石つとむ編 小学館


 
 「クララと浜離宮」 (2015年)
クララ・ホイットニー

明治8年、家族と共に14歳で来日。
勝海舟の三男、梶梅太郎と結婚して六人の子どもをもうける。
海舟の死後、夫と離婚しアメリカへ帰る。
娘時代の日本滞在日記が昭和51年、100年ぶりに出版され
ホイットニー一家と明治の実力者、
旧将軍家、お雇い外国人たちとの交流が明らかになる。

 

  浜離宮は新橋駅から10分ほどの東京湾沿いにある。銀座口をでて昭和通りを行くと、途中に旧新橋停車場の復元駅舎がある。クララもここから横浜へしばしば汽車ででかけた。2階の企画展をちょっと覗いてから、浜離宮へ向かう。大手門まで歩くと潮のにおいがする。

 40年ほど前、近くの会社につとめていて、この公園も昼休みなどに散歩した。今は周囲を高層ビルに囲まれてしまっているが、公園はあまり変わっていない。大きく変わったのは「におい」だ。当時は海も川も汚れていて悪臭が漂っていた。会社の窓を開けることもできなかった。今はそんなこともないが、近辺が工事しているせいなのか、築地川はゴミがうかんでいた。がっかり。
それでも一歩公園にはいると将軍家の別荘だっただけに、さわやかな海風、手入れされた植物などに心を癒される。

大手門    樋の口山    富士見山

大手門              樋の口山(お台場がみえる)  富士見山

 

 クララが散歩したのは150年前の明治8年のこと。日本へ来たその年に、母親や小野弥一らと一緒にでかけている。
「素晴らしい丘から堅固なお台場が見えた」お台場は江戸幕府が1854年のペリーの再訪をおそれ、砲台を作るために急いで建築したものだ。結局、それを使うことなく、10年ちょっとで幕府は開国をよぎなくされた。外国人である自分がこのお台場の内側をあるいていることをクララは面白がった。
 小野弥一が「大洋の彼方から最初の船がみえた時、日本人がどのように行動し、何と言ったかを、生き生きとした描写とパントマイムで説明してくださったが、とても面白かった」。黒船の来航は人々の間に恐怖、不安、期待、好奇心、……さまざまな感情を呼び起こした。小野弥一がどんな描写をしたかは、書いてないが私たちも知りたいところだ。

延遼館あと      最近復元された燕の御茶屋

延遼館あと              最近復元された燕の御茶屋

 

 この時から4年後の明治12年に、アメリカの南北戦争の英雄であるグラント将軍が世界旅行の途中、日本にも立ち寄り大歓迎を受けた。2か月の滞在のほとんどは浜離宮にあった延遼館に落ち着いた。今は芝生しかないが当時は外国要人の接待や舞踏会のために使われていた。その時クララも母と延遼館のグラント将軍を訪ねている。

 「広い砂利道を行くと大きな玄関があり、日本人の紳士やお供がたくさんいて、西郷中将(従道)、伊藤博文氏もおられたが、帰られるところだった。名刺を渡すと若い男が出てきてグラント将軍に会いたいかと尋ねた。もし夫人がおいでなら夫人にお会いしたいと答えた」

 「延遼館の内部は素晴らしいつくりでビロードの椅子、どんすのカーテン、豪華な壁紙、鏡、時計、飾り物、シャンデリアは水晶、壁はエレガントな日本屏風紙、扇面、琵琶、笛、そのほかでいっぱいだった。ドアや木の部分は金漆だった」と描写している。グラント夫人との会見の様子は日記に2ページにわたって、書かれているが、こんなにも率直に辛辣に人物描写した人はいないかもしれない。会話はちぐはぐだった。

 「全体に人のいい方のようだが、どんな身分から成り上がったかは明らかで、レディーらしい点はほとんどなく、どちらかというと下品で、威厳が全くないと私は思った」「幸せな人だ、この世の栄華を一身に受け、夫、子供たちに恵まれ、王族からもうやまわれて」
クララは尊敬する母が、苦労続きなのを見ているので「夫人が外見もマナーももう少し洗練されていたらと思わずにはいられない。もっと低い身分の人でも、レディーらしく、このような高い地位にぴったりの人はいるものだ。たとえば私のおかあさん」などと書いている。

お伝い橋と中島の御茶屋 グラント将軍と明治天皇の会見した部屋 

お伝い橋と中島の御茶屋  グラント将軍と明治天皇の会見した部屋    お抹茶

 

 「中島のお茶屋」は潮入りの池の中にある。そこまでは総檜つくり118メートルのお伝い橋で行くことができる。グラント将軍は滞在中、ここで明治天皇と会談した。その時の絵(複製)が、いまでもお茶屋の床の間に飾られている。私はおいしいお抹茶とお饅頭(510円)をいただきながら、涼しい風が吹き抜けるお茶屋でゆっくりと池や築山を眺めた。さすがに大名家の庭園。いつまでもそこにいたい気分だった。


参考文献

「クララの明治日記」クララ・ホイットニー 講談社
「時代を旅する 江戸城 歴史探訪ルートガイド」メイツ出版
「江戸城と大名屋敷を歩く」 滝尾紀子 大月書店



 
 「クララと麻布の農場」 (2015年)
クララ・ホイットニー

明治8年、家族と共に14歳で来日。
勝海舟の三男、梶梅太郎と結婚して六人の子どもをもうける。
海舟の死後、夫と離婚しアメリカへ帰る。
娘時代の日本滞在日記が昭和51年、100年ぶりに出版され
ホイットニー一家と明治の実力者、
旧将軍家、お雇い外国人たちとの交流が明らかになる。



 明治9年、5月24日。クララは津田仙にイチゴを摘みに来るよう招待される。場所は今の港区南麻布2丁目あたり。そこに農場があり、イチゴ畑もあったというのだ。

麻布界隈   南麻布二丁目
麻布界隈              南麻布2丁目

 「母と富田(鉄之助)さんの奥様とアディ。風が吹いてほこりっぽく、あまり気持ちの良い日ではなかったが、間もなく目的地(麻布本村町217 学農社)に着く。津田さんがお庭にでて私たちを迎えてくださった。とてもお喜びになったご様子で、英国風の家に招きいれてくださった。それはとても小さな家で、お倉の上に建てたものだった。長い馬車道が門と花園まで続き、むこうには畑、池、丘、竹林などがあった」

 「花園を通り抜ける時、津田さんは、今まで見たこともないほど美しいバラを幾つか折ってくださった。かわいいピンクのもあり、白や濃い紅や深紅色のもあった。ここにあるのは大部分アメリカやヨーロッパから輸入されたもので、日本に入って2、3年たつと、香りを失うけれど、色が新しく美しくなるという。」

 「イチゴ畑で籠を渡され、『好きなだけお取りください』と言われた。すぐに籠一杯になり、指と口は赤くそまった」
 「庭と言うより農場と言ったほうがいいところを歩きまわった。池を渡り、丘に登ると、そこから見える四方八方みな津田さんの所有地だった。敷地に教会と、大きな校舎を建てている」

 津田仙は津田梅子の父親で青山学院や普連土学園の創立にかかわり、熱心なクリスチャンでもあった。幕府に仕えている時、アメリカへ行き「農家がゆたかなことに驚き、また農業が国つくりに重要」であることを実感した。明治になり、築地で外国人用のホテルの理事をつとめていた頃、新鮮な西洋野菜の必要にせまられ、麻布に農場を作った。
 幕府が崩壊した後、たくさんあった大名屋敷は住む人がなく荒れ果て、土地は安く払いさげられた。明治政府は桑畑、茶畑をつくり輸出用に絹やお茶つくりを奨励した。津田仙は農業雑誌の発行、種苗販売、農学校の経営目的の「学農社」を設立した。古川の三の橋を渡った曹渓寺の周辺に自宅と広大な農場を構えた。テンプル大学や古川橋病院も含まれるかもしれない。
 梅子はこの頃、11歳でアメリカにいた。「日本に戻ったら苦労なさるだろう」とクララはこの日の日記に書きとめている。

 同じころ、福沢諭吉も古川をはさんだ東側の高台に土地を求め、慶應義塾をつくった。
「今日になってみれば、東京中をたずね回っても慶應義塾の地所と甲乙を争う屋敷は一か所もない。正味14000坪。土地は高燥にして平面、海に面して前にさえぎるものなし。空気清く眺望佳なり」と「福翁自伝」で述べている。麻布の高台の津田仙の農場も似たような環境だったにちがいない。

高台の慶応義塾  慶応義塾大学
高台の慶応義塾大学       慶応義塾大学東門 

 二人は友人だったので、そのよしみで、今回私は田町の慶応義塾大学から歩くことにした。東門からはいる。階段を上った構内からは高いビルが眺望をさえぎるが、何もなかった明治時代には新橋、横浜間の鉄道の向こうに海をのぞみ、皇居も視界にはいったという、さぞかし気持ちのよい学び舎であったろう。正門をぬけ綱坂下へでる。津田仙は最初はこのあたりでアスパラガスの栽培をした。それが成功し、麻布の土地を手にいれることができた。

 高速道路が上を走る古川の三の橋を渡る。広い通りを横切ると、南麻布2丁目のマンション街になる。クララはこのあたりを馬車で通ったかもしれない。坂を上ると、小さなお寺がいくつかあり、突然視界がひらける。また坂を下り歩いていると、曹渓寺があった。ちょうど、しだれ桜とボタンが咲いていた。門の前には麻布獣医学校の跡地を示す標識がある。以前は仙の住居だったのだ。                   

曹渓寺  麻布獣医学校の跡地
曹渓寺                 麻布獣医学校の跡地 

 ここから麻布十番方面へ歩くことにする。またもや韓国料理ランチを食べ、「豆源」でお豆を買う。それから鳥居坂を上り、東洋英和女学院を外からながめる。そこが六本木の繁華街のすぐ近くとはしらなかった。
 さらに歩いて六本木のミッドタウンの公園で一休み。高い高いビルと青い空と流れる雲を眺める。若いスタッフが花の植え替えをしている。捨てたお花を一株いただく。「内緒ですよ」といわれ、持参のビニール袋へ入れる。我が家の庭で根付くといいのだけれど。

東京ミッドタウン
東京ミッドタウン



参考文献

クララの明治日記 クララ・ホイットニー 講談社
津田仙評伝  高崎宗司 草月館 2008年
江戸 山の手 日本の古地図2 講談社
江戸屋敷300藩 いまむかし 実業之日本社



 
 「クララと向島百花園」 (2015年)
クララ・ホイットニー

明治8年、家族と共に14歳で来日。
勝海舟の三男、梶梅太郎と結婚して六人の子どもをもうける。
海舟の死後、夫と離婚しアメリカへ帰る。
娘時代の日本滞在日記が昭和51年、100年ぶりに出版され
ホイットニー一家と明治の実力者、
旧将軍家、お雇い外国人たちとの交流が明らかになる。



 3月中旬の晴れた日、夫と浅草へ行く。目的地は向島なので、吾妻橋へ出て隅田公園沿いに桜橋まで歩く。 お花見の季節には少し早過ぎるが、早咲きの桜が結構咲いている。人出が少なく得した気分になる。
 歩行者専用の桜橋をゆっくりわたると長命寺がある。三代将軍、家光が鷹狩の途中、急病になり、この寺の井戸水を飲んで治ったので、 「長命寺」という名前を賜ったという。寺の裏には川に面して(正確には道路に面して)桜餅で有名な山本屋がある。 一休みせねばなるまい。桜の葉っぱ3枚でくるまれたお餅とたっぷりのお茶で300円。おいしゅうございました。

長命寺桜餅
長命寺の桜餅


 そこから百花園へまた歩く。昔このあたりは浅草のほうからみると、向こう側の島のようにみえたので、向島と呼ばれたという。 江戸時代は大名屋敷、富裕な町人の別荘、隠居所、料亭などが多くあったらしい。

 明治9年の春,クララ・ホイットニーは向島の梅見に誘われる。「お天気がわるく、ついに雨がふりだしたが、百花園へむかう」と3月18日の日記にある。
「少なくとも傘の下から見る限り、梅の木は紅とピンクの衣を着つけて美くしく、雨の中でもかぐわしい香りがした。 和風の小屋の中に座って、持ってきた卵やケーキを食べお茶と水を飲んだ。いくら雨が降っても私たちは楽しかった。 藁屋根は雨が漏らなかったから。帰りは舟で帰った」雨が降ってもたのしんでいる様子は、現代の15歳とほとんどかわらない。梅も満開だったのだろう。 「舟で帰った」という点だけが時代を感じさせる。

 私たちが訪れたときも3月だったが、梅はほとんど散っていた。 百花園は隅田川、荒川の出水や、地震、空襲でたびたび被害を蒙っているが、 文人墨客や地元の人々の努力で200年も守られてきた。春の七草は今でも皇室に献上されている。

百花園  百花園2
百花園 奥は御成座敷         スカイツリーもみえます

 クララは明治10年の4月には勝海舟の妻に誘われて向島の桜祭りにもでかけている。
吉宗が植えた墨堤の桜は、江戸一番と言われ、花見の名所としてにぎわっていた。さすが文学少女というべきか、クララの道中の描写が素晴らしい。

 「さて私が眺めた情景をどのように描写したらいいだろうか。頭上のピンク色の桜のアーチ、葉の間を洩れる暖かい陽光、 それに加えてきらきら輝く川の波の上に、時々花吹雪が溶けない雪のように散る様は、 美しい一枚の絵の背景となり、その背景の下に、晴れやかに装った群衆が、浮かれ気分で群がっているのだった」

 しかしこの中を人力車で過ぎる外国人はどのように映っただろうか? 「男女や子供たちの口から、『唐人』、『異人』という言葉が何度も聞かれたが、とても不愉快だった。 しかし我が国の人々が外人を『チャイニー(清国人)』 『パット(アイルランド人)』『フレンチ―(フランス人)』『ジョニー(フランス人)』と、 丁度『唐人』『異人』のようにその人たちにとっては不愉快なあだ名で呼んでいることを考えたら、私の気持ちは静まった」 140年前に来日したアメリカの10代の少女の教養と知性に驚かされる。

 クララはこの後、勝海舟の別荘で楽しむ。帰りに「日本へ来て初めて街路上での喧嘩をみた」と書いている。 人力車夫が溜息をついて「酒ってやつは人間をダメにするな!」と言う。今も昔も変わらない花見の風景だ。 最もクララ一家は厳格なクリスチャンだったので、飲酒にはことのほか厳しかった。

 私たちは東武線の東向島駅から電車で亀戸まで行き、天神様に寄る。今は見るべき花がない 。藤の花が咲くころ来てみたいと思いつつ、老舗の船橋屋のくずもちをお土産に錦糸町駅まで歩き帰路についた。


参考文献

「クララの明治日記」 クララ・ホイットニー 講談社
「東京江戸紀行」原田興一郎 実業之日本社



 
 「クララと勝海舟邸」 (2015年)
 

 クララ一家は明治八年、来日したものの父の仕事が決まらず、不安定でつらい日々を過ごしていた。 勝海舟が資金援助をしてくれて、やっと仕事に就くことができた。翌年の二月に、 クララが初めて氷川町の勝海舟邸を訪れる場面が日記にかかれている。 勝海舟は何度か住まいを引っ越しているが、明治5年から明治32年に亡くなるまでは、赤坂氷川町に住んだ。

 木挽町(銀座)から赤坂氷川町の海舟邸への道は「緑の丘、肥沃な畑、背景に山が重なり合った、絵のような遠景」と描写している。
 「一層貴族的な感じのする町並みに入ると、勝邸が見えてきたが長い黒い大名屋敷で外観はあまりいかめしくないと思った。 門のところで止まりそれからしなやかな竹と香りのよい杉が並んだ、広い通路を進んだ」勝邸は2500坪あったと言われ、貸家も点在していた。
のちにクララたちも勝邸の一角に居を構えることになる。

 虎の門、アメリカ大使館前、溜池を歩いて六本木方面へ坂を上る。マンションのある住宅街へ入ると氷川神社がみえる。 元浅野内匠頭の妻である揺泉院の実家の屋敷跡だ。勝海舟もしばしば訪れたらしい。その近くに赤坂教会がある。 これはキリスト教の医療伝道に熱心だったクララの兄ウイリスが建てた赤坂病院と教会の名残だ。
 その向かい側にある老人ホームが勝海舟邸になる。正面を入ると、小さな資料室があり、 勝邸からでたお茶碗やお皿がケースに入って飾られており急に歴史が身近になる。 正門脇には大きな銀杏の木があり、その下に「勝安芳邸址」の標識がたっている。

 昼食をとるために溜池方面へ降りて驚いた。サラリーマンであふれている町には 韓国料理店がたくさんならんでコリアン・タウンになっていた。インターナショナルで平和主義者だった海舟も、喜んでいるかもしれない。

赤坂教会    氷川神社

赤坂教会              氷川神社

 

 
 「クララと王子稲荷神社」 (2014年)

 明治八年、クララ・ホイットニーは14歳の時、家族と 共にアメリカから日本へやってきた。
森有礼(当時外交官、のち初代文部大臣)がクララの父を商法講習所の所長として招いてくれたのだ。 そのお蔭で、徳川家や勝海舟などをはじめとする、日本のトップクラスの人々との交際がはじまり、後に、海舟の 三男、梅太郎と国際結婚をした。

 その頃クララが書いていた日記は100年後の昭和51年に『クララの明治日記』(講談社刊)として出版された。 そこには明治の上流階級の人々の生活と同時に、東京近郊のあちこちへ出かけたことが詳しく書かれ ている。私たちにもなじみのある場所であり、現代人は150年前の、明治時代の上流階級と同じ生活を楽し んでいるかと思うと、見慣れた場所も、また違った趣を楽しめる。そんな場所を訪ねてみた。

 150年前の11月のある日、クララは母や妹、案内の日本人(小野弥一、高木貞作、杉田盛)と共に、 三台の人力車で、木挽町(銀座)から王子の稲荷神社へ向かった。江戸時代から王子周辺は飛鳥山を中 心に庶民の日帰り行楽地として人気のスポットだった。稲荷神社は商売繁盛と火防を祈る人でにぎわったという。

 「わたしたちは途上、大きな大学や小さな田舎家を見ながら美しい、勾配のゆるい道、川、丘、谷などを揺れながら通った」
 「途中、女子のための広い学校を通り過ぎた」これはお茶の水にあった高等女子師範だろうか。

 「大名の庭園では、大きな丘に登り、素晴らしい田園の景色を眺めた。一方の側には見事な丘陵が連な り、広大な田や茶畑や麦畑が、活火山浅間山のある山脈に続いていた」途中に水戸藩の小石川後楽園や 柳沢吉保の六義園はあるが、大きな丘のある庭園とはどこだったのだろう。
 「そこから少し行くと、日本が誇る大きな製紙工場『王子製紙』の見える丘にでた」 「王子へ着くと食事のため茶屋へ立ち寄った」川沿いにいくつかの料亭が並んでいたという。

 そこで昼食をとってから歩いて王子の寺へつく。こんもりした森の中、滝が落ち、キツネの穴がいたるところに あり、そこに社やキツネの像を祭っていた。病気治癒祈願の赤い鳥居の長い列があり、クララは同行した杉田 盛に説明を求めている。神社の上からはおそらく筑波山も富士山もみえて、眺望に感動したかもしれないが、 熱心なクリスチャンであるクララには、「邪悪で有害でずる賢い」と考えられていたキツネをまつる日本人の心を 理解できなかった。

 王子駅西口を降りて5分ほど、線路沿いに赤羽方面へ歩くと稲荷神社の大鳥居が見える。平日は正門 の鳥居からはいれない(は入れない)。神社の宮司さんが経営している幼稚園が大鳥居の中にあり、幼稚園が お休みの土日のみ正面の鳥居をくぐれる。私が訪れた時間は丁度園児のお帰りの時で、はしゃぎまわる子供 どもたちの賑やかな声、お迎えの母親たちの自転車で混雑していた。

 幼稚園の脇の坂道を上り神社に入る。大きな社殿があり、それを過ぎると、クララが見た病気治癒祈願の 赤い鳥居がずらっとならんでいる。その奥に「力石」があり、持ちあげることができれば、願が叶うと言われている。 そこを少し上るとキツネの穴が一つだけ残っており、お社に祭られている。

 広重の「江戸名所百景」にはふもとの大榎にキツネがあつまり、遠くに稲荷神社のある小高い森を描いた 絵がある。今は、12月31日に、仮装した人々のキツネ行列が王子の街を神社まで練り歩くイベントが行われている。  門前近くには「くずもち」で有名な石鍋商店がある。小麦粉を発酵させたくずもちはコクがあり、本当においし い。ちょっと歩くと滝で有名な「名主の滝公園」もある。

 王子駅方面へ戻り、「音無親水公園」のそばにある扇屋を探す。350年続いた料亭で、クララたちもここで 昼食をとったにちがいない。今は一坪ほどの店しか残っていないが、甘くてジューシーな伝統の卵焼きを求める 人が後を絶たない。一折1260円。折づめはここが発祥とのことで、私も半折の卵焼きをお土産にした。

赤い鳥居   力石

赤い鳥居                力石


 
 
1.インドネシア・ マカッサルへ 2009年
マカッサル空港着/  ちらしずしパーティー/  田舎の村/  フォーラム/  フィールド・ウオーク
5000年前の洞窟画/  キャリア・ウーマン/  下痢と水とトイレ/  ホテル・ライフ/  帰る日

2.再び 11月のインドネシア マカッサルへ 
ナシゴレン/  バンティムルン渓谷/  ハサヌディン大学/  トランス・スタジオ

3.三度目のマカッサル

 はじめに/出発/ウブドへ行く/暑さと風邪/日本語のボランティア
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