川越の歴史要約参考図書 川越市市制施行70周年記念誌より解釈
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| 第一章 原始・古代 川越市は、武蔵野台地の東北端に位置し、入間川が西から北東へ向かい、さらに南に流れている、 自然条件が良かった為か、縄文時代から奈良、平安時代の遺跡が残っている。中でも仙波台地や入間台地に密集している。縄文時代前期までは、仙波台地の南東部が海に接し、気候も温暖で豊かな自然に恵まれた地であった。人々は漁労による収穫物を計画的に利用して暮らしを営んでいた。その後地球環境が変わり、気温が下がり海もどんどん退き、自然環境も変わっていく、縄文時代中期には、狩猟や植物を採取し、山野に生活の場を求めるようになった。やがて弥生時代では、水田を開き、大きな村、集落を形成していった。さらに古墳時代では、農業用水を確保するため、村と村とが争い、水を支配する者が次第に力をつけ、豪族になっていった。奈良時代になると、朝鮮半島から多くの人が日本に来たので、大陸の優れた文化がたくさん伝えられた。特に入間川上流に高句麗から来た人々を、移住した高麗郡が置かれたので、当時の川越周辺の人々は、大きな影響を受けた。建築技術や土木、農業技術、仏教など盛んになった。平安時代後期は、藤原氏が中央の政治を欲しいままにしていた時代である。国司が地方豪族となり、荘園という私有地を広げ、力を持った。 |
| 第二章 中世 平安時代から鎌倉時代にかけて、武蔵武士が生まれ、荘園の実権を握るようになった。中でもとりわけ強力だったのが、秩父から進出した河越氏であった。河越氏は、平氏の出であり、源頼朝が挙兵した 時には、平氏についたが、やがて源氏側につく。鎌倉幕府成立後、河越重頼は鎌倉の御家人として 重用され、その娘は義経の妻となるが、頼朝との不仲から殺され、領地を没収された。歴史の舞台 から姿を消したはずの河越氏だったが、北条政権の時に、承久の乱で幕府側について活躍し、武蔵 国留守所総検校職に任命された。北条政権が倒れ、足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し、新田 義貞の南側と戦う事になるが、武蔵の多くは新田側に付き、最初は優勢であったが河越氏は、足利 側に付き、そして勝利した。その後関東管領である上杉氏が実権を掌握した。1457年、扇谷上杉持朝 の命により、大田道真、道灌親子によって、江戸・河越・岩槻の三城が造られた。当時、戦国大名と 言われる大名達が領地を広げ、いずれは天下を取ろうという野望を胸に、各地で戦いを繰り広げた。 まさに下克上の世の中であった。そのうちの小田原の北条氏は、二度の河越での合戦に勝ち、上杉 氏にかわり武蔵国を支配する事になる。戦国、乱世の時代に庶民の間に、都の文化が広まった。 応仁の乱をのがれて、優れた文化人が都から地方に流れていったからだ。歌人や連歌師たちがやって来た。そして室町文化をはぐくんだ。 |
| 第三章 近世 天正十八年(1590年)、豊臣秀吉に無血開城した、川越の地は、勝利の褒美に関東の地を任された、徳川家康の支配に変わるが、江戸城に入った家康は、川越を重要な拠点とみて、三河以来の家臣、酒井重忠(譜代大名)を置いた。以来、慶長八年(1603年)に徳川幕府が成立、江戸時代に入り廃藩に至まで、川越には親藩、譜代大名の、有力な大名が配置されてきたのである。後の老中となる者が6人も出たのは、全国でも、とりわけ川越だけの事である。慶長四年、僧正・天海が喜多院の第二十七世となり、家康の側近として江戸と川越の親交を深めてゆく。家康の遺骨を日光へ移す際に、喜多院の境内に東照宮を造営した。その後大火で類焼した、東照宮と喜多院を、三代将軍家光公が、いち早く再建の命を出し、その一部に江戸城紅葉山の御殿を移築した。その後江戸城は大火にみまわれ、結果的には、現在でも江戸城の遺構として残された唯一の物なのだ。家光公生誕の間であり、当時の乳母として有名な春日の局の化粧の間(書院)である。また、家康公から家光公の三代にかけて、たびたび川越周辺で鷹狩を楽しんだのは、安堵の地である川越との親交の深さを物語っている。この時期川越は、大いに栄えた。川越城の歴代の城主の中でも、五代目松平信綱の業績は大きい。川越の町割りを行い、行政区画を定めた他、川越街道の整備、新河岸川の開削、野火止の新田開発など、その業績には目をみはるものがある。特に慶安元年(1648年)の検地では、水田地帯での小農自立を体系的に確認した先駆的な政策であり、その後の幕府や諸藩の範となった。「川越祭り」が始まったのも信綱の時代である。その他、四代目城主・堀田正盛、八代目・柳沢吉保らも活躍した。江戸時代に商業が発達するきっかけとなったのは、松平信綱が十か町-四門前の城下町を整備したことだが、江戸時代後期になると各藩とも財政の危機を救う為に、特産物を考え生産するようになった。川越地方の特産物として「川越平」と呼ばれる平織りの絹織物があがる。またさつまいもの生産でも有名であった。その後、明治 維新となり、川越藩も明治四年に廃藩となった。 |
| 第四章 歴史の宝庫川越総論 喜多院-時の鐘-鷹狩-川越祭り-土蔵造り 慈覚大師円仁が天長(830年)に仙波の地に古跡を開き、星野山無量寿仏寺院の勅号を賜ったという。喜多院の創建については定かでないが、中院、南院とともに無量寿寺の子院であった。徳川家康に信任の厚い天海僧正が、関東の天台宗本山と定めた、川越喜多院に来住した。比叡山の争論をおさめた人物である天海は、徳川家の側近として重く用いられた。寛永十五年(1638年)、川越の大火によりそのほとんどが焼失してしまい、三代将軍家光は、江戸城内の建物の一部を喜多院に移築した。これが、家光公誕生の間であり、その幼少期の乳母であった、春日の局の化粧の間である。当時、武家の間では、騎射・刀槍の訓練をかねて、狩りが盛んに行われていた。飼い慣らした隼や鷹を使って野鳥を捕獲する鷹狩りは、徳川家康が最も好んだ遊戯であった。家康も家光公も、この川越周辺で鷹狩を楽しんだ。川越とのゆかりの深さを感じさせる。時の鐘の創建は、新制川越藩城主(この後大老まで出世)酒井忠勝である。常に時間を守る事に徹底した人だと言われている。城中で家臣から学問を受けるときも、床の間に時計を置いて、正確に時間を守ったとか言われている。また、「川越祭り」は、松平信綱が慶安四年に創設した。城下町も整備され、商業も発展した。川越の町は、2度の大火に見舞われ、燃えない構造の土蔵の建物も、数多く造られていった。元町にある大沢家の店蔵は、1792年の建築として知られる。現在も見事に保存されている。川越の重要な建築物である。 このような歴史の積み重ねがあり、現在も発展を続けている川越市。近年、菓子屋横丁の大ブレ ークもあり、すっかり観光の街、小江戸川越として、定着してまいりました。今後とも、おごることなく、温和で誠実な川越の人々、そして飾ることない本物の建造物、また、数々の歴史や文化、等々、これからの私たちが、 けして寸断してしまってはならない、大事な物であると思います。なにげなく川越で遊んでいた神社や駄菓子屋のある広場などが、歴史を調べたら、1200年前の建築物であったり、古墳時代の遺跡が出た所だったり、本当におどろきの連続でした。ですから、300年、500年前の建造物などは、ここで、ご紹介できないほど沢山ありました。鎌倉、室町時代の歴史寺が数多くあります、訪れてみると、みんな心が和む風情でした。街を歩っていても、なにげに聞こえる時の鐘の響き、まさに心洗われる思いです。風雪に絶えながらも、平常心を失わない、そんな気構えをさせてくれる街だからです。最後に、今後とも郷土を愛し、人と分かち合える川越の魂という物を、これからも、燃やし続けてゆきたいと思います。 以上要約作成 副会長 北東 彰 代表幹事 鈴木亜久里 副幹事 鈴木誠司 城西大学付属東京城西学園 卒会 城西大学付属川越高校 卒四期会 |