本の表紙裏、色紙など

 写真をクリックすれば、大きな写真と説明文があります。(敬称略)
ひろしまのピカ 表氏裏

色紙 井上光晴

色紙 小田実

絵本「ひろしまのピカ」  丸木 俊

色紙 井上光晴

色紙 小田実

中野孝次 色紙 おんなとおとことあわせて人間 積木の箱 表紙裏

色紙 中野孝次

色紙 中山千夏

積木の箱  三浦綾子

中山千夏「平和のために武器を捨てる勇気…」 心優しき叛逆者たち 表紙裏 ナージャの村 表紙裏

色紙 中山千夏

心優しき叛逆者たち 井上光晴

写真集「ナージャの村」本橋成一

丸木俊

小峰書店発行の絵本「ひろしまのピカ」の見返しページに…

私は埼玉県の「原爆の図・丸木美術館」を訪れたことがない。が、「原爆の図」や「水俣の図」は甲府の山梨県立美術館で、また、沖縄の嘉手納基地に隣接する佐喜間美術館で鑑賞したことがある。
長野県松本市でも有志の手によって、「原爆の図」展が行われた。そのとき、ロビーで休んでおられた丸木俊さんに声をかけて、サインをお願いすると、俊さんは腰にぶらさげていた筆と硯をひろげて絵まで描いてくださった。
花と鳩と母親と子ども、いかにも俊さんらしい平和を祈る気持ちが伝わる絵である。

故井上光晴氏ほど、私に文学の可能性を教えてくれた作家はいない。
氏とは長野県木曽で行われた「文学伝習所」での出会いが最初だった。作家と話ができるという夢のような誘いを、同人誌「宿」のTさんから受け参加した。伝習所ではその場で小説を書かせ、氏が翌日その作品に評をつけた。特に生き方と想像力の問題や時事問題にまで発展する氏の講演(私にとってはアジ演説に近いものだった)は難解な氏の小説以上に私に感銘を与えた。感銘という以上に震撼させさせられたものだ。
全国11個所で行われた伝習所はNHKでもドキュメタリー番組として紹介され、氏の死後「全身小説家」として映画にもなった。
この色紙は群馬県の「前橋伝習所」で書いてもらったもの。氏の詩集「木の花嫁」からの一節。
「雪は女の頬に凍る 光晴」と書かれている。
私の勤務先に平日の昼ころ電話があった。私の自宅へかけて勤務先の電話番号をきいたのであろう。
「もしもし」と私が受話器をとるといきなり「おだだ」という例の早口。「おだだ?」わたしはきょとんとしていた。「クリスマスパーティをやることになった。全国から市民運動家が集まる」一方的に小田さんは話した。それで私はやっと小田実さんだと解かり、会話を続けられた。
勿論、そのクリスマスパーティーへは、会社を休んで西宮の氏のマンションまで行った。今では国会議員になっているKさんらもいた。
そのときに「おもしろき時代来たれり」と色紙に書いてもらった。
この色紙は私たちの市民運動「日本はこれでいいのか松本市民連合」が「市民講座」の講師として氏を招聘したときに戴いたもの。
小田さんは、その後も松本を訪れている。そして井上光晴さん逝去の翌日「最後のプロレタリア文学者」として小田さんが井上さんを悼む文を新聞で発表していた。
1984年、世界的な反核運動が起こった。その日本での火付け役が「核に反対する文学者の会」。そして、その代表が中野孝次さんであった。
「核の時代と文学」という講演会を私の主催する同人誌「人間なるもの」が中野孝次さんを講師に開いたときに戴いた色紙がこれ。
文学講演会ではあったが文学が政治に一番近かった時代だった。
その後の懇親会では、信州人の我々が氏に「そば」の食べ方・見分け方を教わった。氏は自分で蕎麦畑を契約地として持っているほどのそば通であると知ったのもこのとき。
ここ数年は「清貧の思想」など、ますます活躍されている。
「無力だからこそ心と心のつながりはいかなる権力より強い 中野孝次」
小田実さんのキャプションでも触れた「日本はこれでいいのか市民講座」の第3回目が中山千夏さん。私たちの世代にとってはいつまでも「ちなつちゃん」である。
この色紙は1999年、千夏ちゃんが松本のお寺が開いた講演会の折りに書いてもらったもの。
「元気にやってる?」と千夏ちゃんは私に問いかけながら「何を書こうか?」といった。私は「苦しい富をうばいあうより 楽しい貧しさを分けおうよ」を依頼した。最近の彼女の、いや、彼女が「革自連」候補として参議院議員に立候補・当選したときのキャッチコピーだ。
それと同時に書いてもらったものが左。
そして、今、貧しい時代に突入しつつあるが、富はやはり大資本に集まるばかりだ。
「平和のために武器を捨てよう」「貧しくなろう、洗濯機をとめても、原子力発電所をとめよう」
彼女が正確にそのように主張したかどうかは覚えていない。しかし、日本中の自動販売機を撤去しただけで、原発2基が減らせると、データを示して教えてくれたのが、ドイツの友人たち。
日本国憲法はいっさいの武器を持つことを禁じている。日本は「平和のために武器を捨てる勇気」を持っているのだろうか。「平和」のために、軍備が拡張され、憲法上ではないはずの軍隊「自衛隊」が海外「派遣」を始めた。
私が井上光晴さんの作品の中で、最も好きな作品のひとつがこれ。新潮社より上下巻として出され、その後同社の「新潮現代文学」48巻の見返しに書いてもらった。
「『心優しき叛逆者』って、まったく私を形容するにぴったしですね」と、わたしがいうと、井上さんは笑っていた。
心優しいアジテータであった。氏の色紙、サイン本は私の書棚に多数ある。
私がいわゆる読書家・愛書家になったのは、五味純平の「人間の条件」の影響からだった。読書のおもしろさを知って次に読んだのが三浦綾子さんのいくつかの作品。主婦作家として「氷点」でデビューした三浦綾子さんは次々とベストセラーを発表していった。
ある講演会の席に私は袋に彼女の小説30冊以上を持って出かけた。その会場でも彼女の本が売られ、その場でサイン会が始まったのだ。
「前川といいます」と、私が名乗ると、彼女は私のいわんとすることがすぐに解ったらしい。「道ありき」も読んでいただいたのですね」と、彼女は微笑んだ。
彼女を敬虔なクリスチャンにしたのが、彼女の恋人前川正。
三浦綾子さんは、一冊一冊に言葉を添えてくれた。
ただ、私の手許のその「道ありき」だけにはサインがない。これは「病めるときも」の見返し。
1986年4月29日、私は「天皇制反対」の集会に出席していた。そしてその会が終わって、主催者でもある私は何人かと、講師のYさんらと小さな料理屋へはいって、ご苦労会を開いていた。夜11時ころ、テレビに臨時ニュースが流れた。ソ連チェルノブイリで原子力発電所が爆発したというのだ。それはスリーマイル島のそれとは比較にならないほどの規模だという。
その、原発事故のあった隣国ベラルーシー共和国、特にゴメり州は特に汚染がひどかった。人々は強制的に故郷を捨てさせられた。汚染地帯は遮断機で道路が封鎖された。ドゥヂチ村もそのひとつ。移住を拒否してそこに生活する少女ナージャを中心に追った本橋成一監督の映画「ナージャの村」と同名の写真集の見返しに。