邪馬台国宮崎平野に比定した理由

(天孫降臨の地「宮崎平野」は、「邪馬台国」か?)

 

「帯方郡」から「邪馬台国(宮崎平野)」までの経路、その女王国の北の国々を比定しましたが、その宮崎平野が「邪馬台国(女王国)」に匹敵するかどうか見てみたいと思います。

「邪馬台国」を「宮崎平野」に比定した理由は、「魏志倭人伝」の記述通りに直線的に進むと「宮崎平野」に達すること、記載の戸数(70,000戸余)に合致する平地面積(稲作に適した大河が多いこと)であること、「魏志倭人伝」の倭国の様子の記載内容(倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる。人々ははだしで生活し、家をたて、父母兄弟はそれぞれに居所を異にしている。)と「宮崎平野」の環境が合致することなど多くの点で一致することによります。

 

 
 


そこで、宮崎県の弥生時代の遺跡を巡り、歴史的にも宮崎平野が、

「邪馬台国」に相応しいかどうか見てみたいと思います。

宮崎県は、交通の便も影響して余り知られてない傾向があります。

しかし、「天孫降臨」の地、「神武東征の出発地」とされており、

九州で有数の遺跡が多く発掘されている場所です。

また、プロ野球5球団が、冬の宮崎キャンプを行うことから分かる

ように「魏志倭人伝」にもあるようにほんとうに暖かい土地です。

 

霧島山系

 
 宮崎県には、表3.に代表される多くの古墳があります。

 

表3.宮崎県の古墳(2002年時点)

古墳群名

古墳総数

前方後円墳数

西都原古墳群

311基

32基

新田原古墳群

207基

25基

持田古墳群

85基

10基

生目古墳群

59基

7基

川南古墳群

55基

25基

本庄古墳群

54基

17基

南方古墳群

40基

6基

塚原古墳群

20基

1基

福島古墳群

18基

3基

下北方古墳群

16基

4基

合 計

865基

130基

 

 

 生目古墳群

特に、生目古墳群(跡江字井尻地区)は、昭和18年に国指定史跡となっています。  
 生目古墳群は、市街地より北西へ6km、大淀川下流右岸の東西約1.3km、南北1.2kmの標高25m程度の丘陵上にあります。

現在、前方後円墳7基、円墳22基の高塚古墳、円墳7基、横穴墓9基、地下式横穴墓14基で構成されています。

これらの古墳は、3世紀〜7世紀(紀元200年以降)にかけて築造されたとされ、畿内より西では唯一、長さ100m級の前期(3世紀後半〜4世紀末)前方後円墳3基(1号墳は墳長136m、3号墳は墳長143m、22号墳は墳長117m)を含んでいます。

3〜4世紀(紀元200年〜300年代:卑弥呼の時代)の強大な支配力を持った首長の墓であるとされています。

特に、1号墳と3号墳は、墳丘の形態から畿内遺跡と密接な関係があると考えられています。

 

西都原古墳群

また、国指定特別史跡である西都原古墳群は、西都原市の西に位置し、311基の古墳を有する広大な遺跡であります。

前方後円墳32基、方墳1基、円墳278基で構成されています。

古墳群には、男狭穂塚と女狭穂塚の巨大古墳、そして、横穴式石室を持ち全国的にも稀な周囲に土塁を巡らした鬼の窟(いわや)古墳が所在します。

巨大な西都原古墳群は、下図のように配置され、「歴史資料館」や「歴史公園」も設置されてます。

これだけの首長のものと考えられている集団墓地が存在するのですから、弥生時代の人口が「魏志倭人伝」に書かれているように抜群に多かったことが伺えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


                        

西都原市市役所

 

 
 


◎舟形はにわ(重要文化財…東京国立博物館蔵)

西都原古墳169号古墳より出土した埴輪で、長さ101cmです。

左右に6個ずつの櫓べそ(凸)がある船です。

これほど大きな舟形埴輪は、他では出土されていません。

 

 

 
 


◎子持家形はにわ(重要文化財…東京国立博物館蔵)

西都原古墳169号古墳より出土した埴輪で、長さ94cm、

高さ54cmの大きさです。

母屋の両側に入母屋の小さな家が1つずつ、前後には切妻の

小さな家が1つずつある珍しい形をしています。

このような形の埴輪は、他の地方では出土していません。

 

 

 

 
◎男狭穂塚と女狭穂塚

西都原古墳群の中で、もっとも大きな古墳は男狭穂塚と女狭穂塚

です。

男狭穂塚はニニギの尊女狭穂塚はコノハナサクヤ姫の墳墓と

伝えられている古墳です。

男狭穂塚は、二重の周溝を有する墳長約148mの特殊な帆立貝式

古墳です。

女狭穂塚は、墳長176mの楯型の周溝を有する前方後円墳で、

九州で最大の規模を誇っています。

この男狭穂塚、女狭穂塚については、宮内庁の陵墓参考地として

はじめて、地中レーダー探査を許可され、2004年度から3ヵ年

計画で探索が行われることになりました。2004.2.20.西日本新聞)

 

宮崎県の前方後円墳の中には、「前方」の形が細長い長方形をしていて、

空から見ると「取っ手付きの鏡の形」に見える古墳があります。

 

 

宮崎県の遺跡・神話に関する情報

その他の遺跡や神話については、文書で述べるよりも、下記アドレスに

直接アクセスされた方が判りやすいでしょう!

 

宮崎県の縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡については、

宮崎デジタルミュージアムのHP(弥生時代遺跡)

http://www.pref.miyazaki.jp/kyouiku/bunka/d-museum/category/maibun/zidai4.html

をご覧ください。

 

現在の宮崎県の遺跡発掘状況については、

宮崎県埋蔵文化財センターのHP(平成14年度発掘調査一覧表)

http://www.pref.miyazaki.jp/kyouiku/bunka/maibun/news/index.html

をご覧ください。

 

宮崎県の神話伝承地や神社は、

 
神話伝承地を写真で紹介するコーナー(ひむか神話街道ガイド)

../hyukawa60/himuka.htm

をご覧ください。

 

 

 

弥生時代の住居

堂地東遺跡(宮崎市)に代表される弥生中期から後期にかけた

竪穴式住居の中には、個室を持った「はなびら形住居」が多く

見られます。

この時代の住居が、5LDKなのには驚かされます。

これは、「魏志倭人伝」にある有屋室、父母兄弟臥息異處」の

屋内に部屋が有り父母兄弟は各々に寝所を別にしている。

という記述に合致します。

この住居が、宮崎のみで見出されるのは特筆に値します。

 

 

地下式横穴墓

地下式横穴墓は、5,6世紀を中心に作られ、これまでに700基が見出されています。

分布は、宮崎平野を中心に、南は鹿児島県の志布志、西は鹿児島県の大口や熊本県の人吉まで広がっています。

地下式横穴墓は、地表から2mの深さの竪穴があり、そこから横穴を経て家型やドーム型の玄室を設けています。

ちょうど、前方後円墳の通路と玄室をそのまま地中に埋めた具合になります。

副葬品には、武器、武具、馬具、装身具、土器などが見られています。

埋葬されている数は、1体、2体のものから8体のものまであります。

地下式横穴墓で発掘された頭蓋骨は、南九州の縄文人に類似していることが分かって来たそうです。

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


宮崎平野における墳墓の形態(円墳、前方後円墳と地下式横穴墓との共存)の変化が、5,6世紀を中心に(紀元400年〜600年頃の間)発生したことにどういう意味合いがあるでしょうか?

宮崎平野の支配・統治状況が、5,6世紀を中心に変わったように思われます。

このことは、次のページの「神武東征」で考えてみたいと思います。

 

在来種の御崎馬

宮崎県の都井の岬(串間市)には、御崎馬が自然に近い形で生育しています。

この御崎馬は、縄文時代後期から弥生時代にかけて倭国にもたらされたと推定されています。

 

「邪馬台国」にとって、「御崎馬」の存在が大きな発展の力となったことでしょう。

神武東征の時にすでに馬を率いて行ったのか、それとも大和政権を握ってから馬を取り寄せたのでしょうか?

 

 

以上、「宮崎平野」が「邪馬台国」である得る条件の一端を見てきました。

「邪馬台国(宮崎平野)」は、当時、人口が多く、文化的に優れていたことが分かりました。

 

作成2004.01.12.

改定2004.04.21.

   

つづきは、

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