神武東征は真実か!

4、5、6世紀の古墳が各地で発掘されていますが、
石室にあるのは絵のみで文字は見られません。
倭国の歴史は、「語り部」により代々伝えられ、
それが「帝紀」、「旧辞」であり、それらを基に、日本国
の成り立ち、天皇の系図について、天武、元明天皇が
太安万侶に命じ、稗田阿礼の暗記を基に712年に
「古事記」が完成しました。
また、「日本書紀」は、天武天皇の命により、
正式な歴史書として、舎人親王らにより720年に
完成しています。
記紀だけは情報が不足しますので、国外の史書や遺跡の発掘情報などを併せて、縄文、弥生、古墳時代を通して、倭国の成り立ちを考え、神武東征が真実であったかどうかも想像を加え考えてみたいと思います。
なお、参考とする情報を集めた「倭国、日本、中国の歴史年表」は、別のページに示しています。
1)縄文時代の各地の交流
縄文時代は、佐賀県腰岳や北海道の黒曜石などが日本各地から朝鮮半島、ソ連まで拡散していることから推察しますと、縄文時代にもかなりの交流がなされていたことが伺えます。
特産品を交換する任務を専門とする集団が、船で各地を廻り、物々交換をしていたことでしょう。
この風習は、当然、弥生時代も引き継がれたと考えられます。
2)弥生時代の各地の交流
銅鏡、銅剣、銅矛をはじめ、特殊な土器、姫川の玉、沖縄諸島の貝、銅や鉄の鉱石を盛んに交換したことが伺えます。
もちろん、最も重要で、お金の代替とされたのは「米」であり、「米」を主体にして、対馬、壱岐、沖縄、は、南北に市糴し、隠岐、出雲、新潟などは東西に市糴し、さらに列島内の各国は近隣国と市糴していたことでしょう。
壱岐の「原の辻古墳」では、朝鮮や日本各地の品々や船着場跡が発見されています。
弥生時代には、多くの渡来人が中国や朝鮮から技術と共に日本にやって来て、縄文人と融合しました。
このことは、最近のミトコンドリアDNAの解析(宝来聡:アリゾナ大学)で、本州に住む人のDNAは、8%の人がアイヌの人特有の遺伝子配列と合致し、16%が沖縄の人と、24%が韓国人と、26%が中国人と合致するという報告から明らかにされて来ています。
なお、中国人、韓国人単独に対する同遺伝子配列の解析では、各々60%、40%が同じであったと報告され、民族の同一性が示されています。
また、アイヌの人と沖縄の人とのミトコンドリアDNA配列には違いが見られることから別の集団であったとされています。
このDNAの解析からも、日本の北部には北方系のモンゴロイドが、日本の南部には東南アジアから南方系のモンゴロイドがやってきて、本州で融合し縄文時代を形成していたことが伺え、そこに、縄文末期頃から朝鮮系よりも多くの中国系の人々が渡来してきたことが伺えます。
3)墳墓への副葬品としての銅鏡について
北部九州を始めとする墳墓においては、倭国が100余りの国からなる時代から銅鏡が副葬品として埋設されています。
近畿地方や宮崎においては、墳墓への銅鏡の埋設は、古墳時代になってから始まります。
銅鏡は、貴重品であり、日々磨いて大切にしたものであり、基本的には世襲したと考える方が自然で、糸島半島の古墳のように割った鏡を埋設するのは稀だと思います。
1,2個の銅鏡の保持状態では、日常使う必要性から、多くの銅鏡は副葬され難いと思われ、弥生中期の北部九州では、渡来人が銅鏡を数多く持ち込み入手できたため、それらの一部を副葬したと考えるのが自然だと思います。また、そう言う風習があったのでしょう。
それから、古墳時代には、三角縁神獣鏡が多量に国内生産(一部は除く)され、保有数が増え、古墳への副葬が行われたのでしょう。おそらく権力のあった男王の埋葬時には、殉葬の代わりに寵愛した女性が一人ずつ自分の使っていた鏡を順番に副葬するようなことも想像に難くありません。
また、宮崎地方には、弥生時代末期までには銅鏡を副葬する習慣がなかったため、神武東征時には、銅鏡の一部を親族に残し、残りの銅鏡、銅剣、勾玉は東征時に持って行ったとも考えられます。
4)倭国大乱の時代について
AD100年ごろは、倭国(九州)は、100余国に分かれていました。それまでは、平和な倭国でしたが、稲作の収穫量が増え、生活も安定し、鉄器の利用も進んで各国の兵力も充実し、鉄砲伝来後の戦国時代と同様に征服欲が出てきました。
また、ある時は台風や不作に見舞われ、生きるために他国の米を得るための戦さもあったことでしょう。
100余国は、統合離反を繰り返し、国を守るために環濠、見張り台や居城を巡らします。恐らく稲作の時期は避けて、収穫後に70〜80年間に渡り戦乱が繰り広げられたことでしょう。
5)倭国大乱の後の時代について
AD200年ごろには、戦乱も収まり、倭国は、30余国に統一されます。
30余国のうちの主要国は、地理や遺跡状況から「奴国(筑後川下流)」、「烏奴(ウナ)国(
30余国の代表が、交通の要である「烏奴(ウナ)国(
「支惟国」、「鬼奴国」、「鬼国」、「巴利国」などの賛成で「邪馬台国王」の「高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)」に決定されようとするが、自ら王になりたい「奴国王」から強い反対があり、妥協策として「邪馬台国(宮崎)」で祭祀を司っていた「卑弥呼」を倭国王に共立することに決定したと言った経緯があったのでしょう。
30余国は、さらに、各国の兵力を現状維持させることに合意し、各国の兵力の検閲および「一大(壱岐)」を経由する中国との往来を護衛する軍である「一大(壱岐)率(イチダイソツではなく、壱岐に引率するのでイキソツ)」を「伊都国(佐賀平野)」に設置することにしました。
なお、この「一大率」の兵は、各国から拠出することとしたが、「邪馬台国」からの出兵が主体であり、実質的に女王の命令に従って兵が動いていました。
このことが、「伊都国には代々王が有るが、女王国に従属している」と言う「魏志倭人伝の特異な記載」になったのでしょう。
このころ、卑弥呼は年長大(25歳位?)で、夫はいませんでした。
しかし、卑弥呼(大靈女貴(オオヒルメノムチ))が若いときに出来た息子又は弟であった「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカアカツカツハヤヒアメノオシホミミノミコト)」が成長し、邪馬台国の王である高皇産霊尊の娘の「栲幡千千姫(タクハタチヂ゙ヒメ)」を娶って、「天津彦彦火瓊々杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)」を生むことになります。
6)統一倭国(九州)の繁栄時代について
統一倭国(九州)では、倭国内外の国々の米、鉱石、特産物、工芸品を交換し、安定した年月がしばらく続くこととなります。
238年に、女王卑弥呼は、魏に使いをやり、「親魏倭王」とされ、金印や銅鏡100枚などを拝受し、この鏡を統一倭国の国々に分け与えたりしたのでしょう。
このころ、出雲では、スサノオノ尊の子供である「大己貴神(オオアナムチノカミ)」が、銅鐸を用いた祭祀による宗教力で出雲から中国地方、近畿地方にかけた地域を治めていました。なお、近畿地方には、狗邪韓国系の「委奴国(糸島から
さて、ある時、統一倭国30余国の集まりで、全国を統一する野望が出され、それが採択され、倭国連合国から選んだ豪腕な者を次々に出雲に派遣することになります。
しかし、大己貴神の手腕、人望、取り込みの巧さでなかなか制圧はうまく行きません。
最後に、経津主神(フツヌシノカミ)と天磐窟の神が武力を背景に、大己貴神に国譲りを迫った結果、居城を押さえられていたこともあり、大己貴神の息子も委譲に同意して、広矛2本を差し出し、出雲国を統一倭国(九州)に献上してしまいました。
その後の出雲は、統一倭国(九州)の支配下となり、中国地方から山陰地方にかけた地域は、統一倭国(九州)の緩い支配下になることになります。
この下準備が済んだ頃、卑弥呼と高皇産霊尊は、孫の「瓊々杵尊(ニニギノミコト)」を葦原中国(アシハラナカツクニ)の君主として送り出すことにしました。そこで、先ず、宮崎の都から独立させ、宮を作ることから始めました。
7)「天孫降臨」について
(1)古事記における「天孫降臨」の記述
故而に天津日子番能邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多氣に天降りまさしめき。故而に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原に氷椽多迦斯理て坐しき。 (「古事記・祝詞」岩波書店)
(口語訳)
そこで、アマツヒコホノニニギノ命に言って、天の石位(いはくら)を離れ、天の幾重にもたなびく雲を押し分けて、神威をもってかき分けて、天の浮橋から渡って浮島に立ち、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に降臨された。そこでアメノオシヒ命、アマツクメ命の二人が、・・・、先導役として仕えた。
そこで二人に言うには、「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の御前(みさき)に真来通りて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。だから、ここはとても良い土地である」と言って、底の石根に、宮柱を太くして、高天原に氷椽(ひぎ)を高くかざして住むことにした。
(2)日本書紀における「天孫降臨」の記述 (「日本書紀上」岩波書店)
時に、高皇産霊尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯に天降りる。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空国を、頓丘から国覓(ま)ぎ行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到る。 (なお、別書では、各々「くしふるの峰」、「二上峰」、「添(そほり)の山の峰」に天降るとなっています。)
(口語訳)
そして、タカミムスビノ尊は、皇孫ニニギノ尊を蒲団に包み、地上に降ろされた。皇孫は、天磐座(あまのいわくら)を離れ、八重雲を押し分け、稜威の道を分けやがて、日向(ひむか)の襲の高千穂峯に降臨された。そして・・・・空国がないか治める国を探して、吾田の長屋の笠狹碕(かささのみさき)に到った。
卑弥呼(天照大神)は、自分の孫であるニニギノ尊に「豊葦原の中つ国」を治世させようと地上(高千穂の峯(または近辺の山))に降臨させます。
(1)「古事記」と(2)「日本書紀」とに示した降臨した後の行動についての記載を比較してみるとおもしろいことが分かります。
「古事記」では、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地。」
「日本書紀」では、「そ宍の空国を、頓丘から国覓ぎ行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到る。」
となっています。
この2つの文章は関連していて、712年に完成した「古事記」の言葉について、720年に完成した「日本書紀」では、次の点が変わっています。
@ 韓国 ⇒ 空国
A 眞来(まぎ)通りて ⇒ 覓(ま)ぎ行去りて
B 笠沙の御前 ⇒ 笠狹碕
「古事記」の文章は、単に朝日と夕日が差すという当たり前のことを述べているのではなく、宮を建てた場所を示すために書かれ、「ここ(高天原に似た高原(えびの高原))は、韓国岳に向うと朝日が差し、夕日は笠沙の岬を通過しながら差し込む場所」と直列(@、A→A、B)ではなく並列(@→A、A→B)で読むのが適しているように思えます。実際に、秋から春にかけては、えびの高原は、韓国岳から朝日が差し、笠沙の岬の上を通過した後に夕日が沈みます。
しかし、「日本書紀」では、「「韓国」は「空国(治世者の居ない国)」とし、「眞来(まぎ)通り」は「覓(ま)ぎ行去り(探していく)」として、【「空国(治世者の居ない国)」を「国覓(ま)ぎ行去り(探していく)」て、笠狹碕に到る。】とし、コノハナサクヤ姫に早く遭遇させたのかも知れません。
女王は、孫の「瓊々杵尊(ニニギノミコト)」を「葦原中国」へ出向かせる前に、「投馬国」の居城であった笠沙の岬に住む「木花之開耶姫(コノハナサクヤ姫)」と婚姻させました。
「ニニギノ尊」は、「コノハナサクヤ姫」をえびの高原の宮殿に迎え、一緒に暮らすことにします。
「コノハナサクヤ姫」は一度だけ「ニニギノ尊」を受け入れ、その後は拒否しますが、その1回だけで身ごもり、それを怪しんだ「ニニギノ尊」が着火した産屋が火災に見舞われる中、火闌降命(ホノスソリノミコト(海幸彦):隼人の始祖)、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト(山幸彦))、最後に火明命(ホアカリノミコト:尾張連の始祖)を産みました。
8)「邪馬台国」と「狗奴国」との戦いとその後について
卑弥呼と高皇産霊尊は、出雲を支配下に置き、孫の「瓊々杵尊(ニニギノミコト)」を降臨させて、葦原中国(アシハラナカツクニ)の君主として送り出そうとしていた矢先に、宿敵である「狗奴国」が急襲をかけて来ました。
宿敵「狗奴国」が、「女王国」に波状攻撃をしかけてきて、厳しい戦いが続きます。「狗奴国」の兵士は、「狗(イヌ)」のように合図し・叫びあい、「熊(クマ)」のように勇猛果敢に攻めてきました。
「狗奴国」が、女王国に属す「奴国(筑後川下流)」を攻めたのか、「邪馬台国(宮崎)」を球磨川上流から攻めたのかは、卑弥呼の死に係わる問題です。
ともあれ、卑弥呼は、247年に魏に「狗奴国」との交戦と窮状を告げ、魏王から激励を受けます。
その激励文には、「方策を採り、倭国を早く安定させるように」と言うようなことが書かれていたことでしょう。
9)女王「卑弥呼」の死後の倭国について
250年頃、女王「卑弥呼」が亡くなり、径百余歩の塚(宮崎平野で見出された円墳の一つ)を作り、モガリを済ませました。 (「魏志倭人伝」にある「卑弥呼、以って死す」とは、「狗奴国との一件が済んだ後に死す」の意味と考えられます。)
しばらくして、「ニニギノ尊」は、東征することなく崩ぜられ、日向の可愛(エ)の山稜に葬られました。
そして、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト(山幸彦))は「倭国(九州)王」かつ「邪馬台国(宮崎)王」として、火闌降命(ホノスソリノミコト(海幸彦))は「狗奴国(隼人)王」として君臨することになりました。一方、火明命(ホアカリノミコト:尾張連の始祖)は、空国を探して尾張の国に出奔しました。
女王「卑弥呼」が亡くなり、しばらくすると、倭国内で不協和音がながれ、「倭国王」への不満が高まります。
加えて、その「倭国王」である彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト(山幸彦))と「投馬国王」である火闌降命(ホノスソリノミコト(海幸彦))の兄弟間にも戦闘が行われ、千数百人の死者がでることになります。
そこで、統一倭国30余国は、「烏奴(うな)国(
なお、豊玉毘売(トヨタマ姫)は、卑弥呼の宗女(外戚)に当たります。(弥生時代にも、江戸時代と同様に国々の間で縁戚関係を結び国の結び付きを強くしたと想像されます。また、宇佐八幡縁起には、八幡神は、はじめ辛国の城(えびの高原の宮(韓国岳)?)に舞い降りて日本の神になったと記載されています。)
倭国王(台与(トヨ))の母国である「豊の国」から「邪馬台国」の応援にやって来た「豊の水軍」は、「投馬国王(薩摩)」となった火闌降命(ホノスソリノミコト(海幸彦))の笠沙岬にある居城を海から攻撃し、火闌降命(ホノスソリノミコト(海幸彦))の水軍を引き潮で動けなくして勝利を収め、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト(山幸彦))に従うことを約束させ支配下に置きます。
この経緯が、「古事記」の山幸彦と海幸彦の争いにおいて、海神の子であるトヨタマ姫の助けで山幸彦が勝利を収める話になったのではないでしょうか。
単なる偶然とは思えませんが、「邪馬国(耶馬溪・山国)」を含む豊国から来た「トヨタマ姫」、「投馬国」の火闌降命(ホノスソリノミコト(海幸彦))、「邪馬台国」の彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト(山幸彦))、これらの血縁者の国には、「馬」の文字が含まれて居ます。つまり、 「邪馬台国」、「邪馬国」、「投馬国」、これに「斯馬国」を加えた4国は、血縁者の国であったことが伺えます。
10)女王「台与」とその後の時代について
倭国の王(台与(トヨ))であるトヨタマ姫は、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト(山幸彦))との間に「彦波激武鵜草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)」をもうけます。
トヨタマ姫は、産後、海に帰ったとされていますが、産褥で亡くなったことを反映しているとも考えられます。
統一倭国(九州)の国々は、亡くなったトヨタマ姫(台与)の後に、トヨタマ姫の年の離れた妹である幼少の玉依姫(タマヨリ姫)を「豊の国」から「邪馬台国(宮崎)」へ呼び寄せ、倭国王に共立することになります。
「彦波激武鵜草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)」は、元服すると、タマヨリ姫と婚姻しました。
二人の間には、彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、最後に神日本磐余彦尊(神武天皇)が生まれます。
魏が滅んだことが倭国に伝わると、倭国王であるタマヨリ姫は、直ちに「晋」へ使者を派遣したが、魏との時のようには良好な関係に発展しなかったようです。
11)神武天皇の東征の時期について
さて、ここで、「記紀」と「魏志倭人伝」の記載が合致させられるか考えてみたいと思います。
「卑弥呼(大靈女貴(オオヒルメノムチ))」の息子の「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカアカツカツハヤヒアメノオシホミミノミコト)」と「邪馬台国の王」である「高皇産霊尊」の娘の「栲幡千千姫(タクハタチヂ゙ヒメ)」とが婚姻し、「天津彦彦火瓊々杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)」が生まれた。
この「瓊々杵尊(ニニギノミコト)」が、「狗奴国」との戦い前の西暦240年頃に「木花之開耶姫(コノハナサクヤ姫)」と婚姻したとした場合に、神武天皇が東征した時期を検証して見ましょう。
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西 暦 |
生 誕 と 事 柄 |
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240年 |
「ニニギノミコト」と「コノハナサクヤ姫」との間に「ヒコホホデミノミコト(山幸彦)」生まれる。 |
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258年 |
「ヒコホホデミノミコト(山幸彦)」と「トヨタマ姫(台与)」との間に「彦波激武鵜草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)」が生まれる。 |
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275年 |
「彦波激武鵜草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)」と「タマヨリ姫」との間に「神日本磐余彦尊(神武天皇)」が生まれる。 |
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295年 |
「神日本磐余彦尊(神武天皇)」が、東征に出発する。 |
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300年頃 |
「神日本磐余彦尊(神武天皇)」が、橿原の地に宮を築き、即位する。 |
卑弥呼を天照大神として、「魏志倭人伝」と「記紀」の記載を複合させると、神武天皇が東征に出発する時期は、紀元295年頃となります。
12)神武天皇の東征への出発について
295年ころに、神日本磐余彦尊(神武天皇)が成人すると、曾祖父の「ニニギノ尊」の時に計画していた葦原中国(アシハラナカツクニ)の統治に取り組むことになります。
神武天皇が兄弟と一緒に塩土老翁に相談後、東征について、一族、さらには統一倭国(九州)の賛同を得ます。
タマヨリ姫は「倭国王」並びに「邪馬台国王」として、「邪馬台国」に残ることとしました。
そして、神武天皇は、彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)、稲飯命(イナヒノミコト)らと共に、冬10月、日向から船軍を率いて東征の途にのぼった。このとき、「投馬国」の水軍や兵士も従えて行ったと考えられます。
神武天皇は、直接、大和に行ったのではなく、各地で軍勢や軍備を整えながら東征を行いました。
その東征の記載は、「古事記」と「日本書紀」では、若干異なっています。
(1)古事記 における神武東征の経路
日向を出発し、筑紫に行く。途中、豊の国の宇佐に到り、其の地(宇佐)より移りて筑紫の岡田宮に一年、それから安芸の国のたぎりの宮に七年、それか ら吉備の国の高島宮に八年。
(2)日本書紀における神武東征の経路
(日向)を出発し、速吸之門(豊予海峡)を通り筑紫国の宇佐に到る。その次に筑紫国の岡水門に到る。その次に安芸国の埃(え)の宮に到る。その次に吉備国の高嶋宮に到り三年暮らす。
「古事記」と「日本書紀」の記載の違いは、滞在期間が異なることです。「古事記」では、滞在期間が長いのですが、「日本書紀」では、吉備国に至るまでは、船で立ち寄った程度の感じで書かれています。

13)岡田の宮(岡水門)までの東征経路について
先ず、母の出身地である豊の国「鬼国(宇佐)」に到達します。
次は、日本書紀では、岡水門=遠賀河口となっていますが、
古事記では岡田の宮となっています。
さて、「岡田」と言いますと、
「
神社で囲まれた地域で、「
神武天皇が、「
に滞在したとすると、安本義典先生が述べられているところの
「大和郷のまわりの地名」と「
名称も位置もほとんど同じであるという発見にも合致することに
なります。
つまり、神武天皇が、ここの「大宰府」近辺に滞在していた
ときに、ここを理想の地と感じ、東征後、大和の地に同じ地名
を付けたとも考えることができます。
神武天皇は、先ず、「鬼(き)国(宇佐)」に船の係留・修理と造船を
依頼し、さらに、「鬼奴国(遠賀川河口一帯)」に大量の軍船を依頼します。
そして、軍船が出来上がるまでの間、「鬼(き)国(
そして、「支惟(きい)国(
準備や九州勢のバックアップなしに、東征するとは考え難いように思えます。
また、魏の滅亡で、中国への護衛の任務がなくなった「一大(壱岐)率」を東征のための主力軍とするために、「一大率」のうちの主に「邪馬台国」が派兵していた部隊を呼び寄せたと考えられます。
ところで、「鬼(き)国(
つまり、「鬼(き)国(宇佐)」から「躬臣(くし)国(玖珠)」までは舟で山国川をのぼり、その「躬臣(くし)国(玖珠)」からは筑後川に舟を浮かべ「巴利(はり)国(杷木)」を経て「支惟(きい)国(基肄城下)」の南までは川の流れにまかすと自然に到着します。
さらに舟で進むと、「烏奴(うな)国(
14)吉備国までの東征経路について
そして、「岡田の宮」から「鬼(き)国(
統一倭国(九州)からの兵と物資のバックアップを基に、東に進みながら戦い、安芸国と吉備国の酋長らを支配下に置き、さらに、船、武器、兵力を増強しながら充分に準備を整えてから大和での戦いに向ったと考えられます。
15)大和での戦いについて
神武天皇は、大阪湾で上陸し、最初、生駒山の方から大和に直接入ろうとします。
そこでは、「委奴国(糸島から
このとき、神武天皇の長兄である彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)は、矢を受けて傷を負い、それが原因で亡くなります。
神武天皇は、「太陽(天照大神)に向かって攻撃するのが良くない」として、熊野のほうに迂回して攻めるのが良いというお告げを受けます。
つまり、大阪湾近辺に「投馬国」の水軍を主体とする兵を残し、長髄彦(ナガスネヒコ)に対峙させ、神武天皇自らは、反対方向に廻り込んで、前もって決めた時期に挟み討ちにする作戦を取ります。
途中、軍船は暴風に遭い、少しも前に進むことが出来ない。この状況を救うため、次男の稲飯命(イナヒノミコト)は海に入って亡くなってしまいます。
神武天皇は、苦心惨憺してやっと熊野に着き、険しい山の中を八咫烏(ヤタガラス)に先導され、途中、地元の酋長を平らげて増兵しながら進みます。
そして、大阪湾側との挟み討ちが成功し、とうとう苦労の末に、長髄彦(ナガスネヒコ)を滅ぼしました。
そして、300年頃、神武天皇は、橿原の地に宮を築き、即位し、統一倭国(日本)を君臨します。
神武天皇(ハツクニシラススメラミコト)以降の天皇系譜は、「記紀」に綴られることになります。
16)神武天皇の治世について
神武天皇は、「邪馬台国」、「鬼奴国」、「鬼国」の代表者を中心に据え、統一倭国(九州)の他の国々からの派遣代表者、従軍し奮戦した「投馬国」の代表者、「出雲」の代表者、「安芸国」の代表者、「吉備国」の代表者、縁故の有る「尾張国」の代表者、そして「近畿大和」で協力した代表者を役職に登用し、全日本的な統治国家を形成したと考えられます。
従って、神武天皇の統治によって、西日本一帯の文化が融合し、古墳時代が始まることになります。神武天皇は、先ず、今回の戦いで亡くなった彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)、稲飯命(イナヒノミコト)をはじめとした功労者の弔いを盛大に行い、各地の風習を融合させた墳墓に埋葬したと考えられます。この時に、本格的な前方後円墳ができたのではないでしょうか。
一方、出雲を中心に繁栄していた銅鐸文化は、九州の銅鏡を重視する文化へ変わったため、300年ころ以降は、銅鐸がぱったり見られなくなることになります。
出雲を中心とする銅鐸による祭祀は禁じられ、埋設させられます。
また、出雲の銅剣や銅矛については、兵力削減を迫られ、×印を付けて埋設させられ、後生に大量に発見されることになります。
そして、近畿を中心とした新「統一倭国」が成立し、各国に貢物の定期的な貢納を課すが、それ以外は、各国の文化や特産品を活かし、各国が自由に往来できる平和な治世であったと想像されます。
なお、東征前の統一倭国(九州)の国々は、その後、統一倭国(日本)の支配を受けながらも、独自の発展を遂げて行ったと考えられます。
「一大率」も廃止され、各国が兵力を蓄えて行ったことでしょう。 特に、「奴国(
17)4世紀から5世紀の情報について
300年代は「謎の4世紀」と言われ、最も歴史記録が少ない時代です。
313年、高句麗が楽浪郡(帯方郡)を滅ぼし、中国との行き来がなくなります。
先ずは、4世紀から5世紀にかけての情報を表にまとめてみたいと思います。
4世紀から5世紀の情報まとめ
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西 暦 |
事 項 |
資 料 |
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391年 |
倭が渡り来て、百済と新羅を臣民とする。 |
広開土王碑 |
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396年 |
百済が、朝鮮半島中部まで国土拡大。 |
広開土王碑 |
|
399、400年 |
倭が、新羅を救援する。百済は、倭と和通する。 |
広開土王碑 |
|
404年 |
倭寇、潰敗、斬殺するもの無数なり。 |
広開土王碑 |
|
421年 |
倭讃が入貢し、安東将軍・倭国王を授与される。 |
宋書「倭国伝」 |
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425年 |
讃が司馬曹達を遣わし、上表し方物を献ずる。 |
宋書「倭国伝」 |
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430年 |
倭国王が方物を献ずる。 |
宋書「倭国伝」 |
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438年 |
珍が除正(任命)を要請し、安東将軍・倭国王に任じらる。 |
宋書「倭国伝」 |
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443年 |
倭王済が奉献し、安東大将軍を進号される。 |
宋書「倭国伝」 |
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460年 |
倭国王が方物を献ずる。 |
宋書「倭国伝」 |
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462年 |
倭王世子興が、安東将軍・倭国王に任じられる。 |
宋書「倭国伝」 |
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471年 |
稲荷山鉄剣に、「辛亥、獲加多支鹵大王」の文字あり。 |
稲荷山鉄剣の銘 |
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477年 |
倭国王が方物を献ずる。 |
宋書「倭国伝」 |
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478年 |
武が上表し、安東将軍・倭国王に任じられる。 |
宋書「倭国伝」 |
いわゆる「倭の五王」である「讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)」、倭国の天皇の名が漢字一字で表されています。
漢字一字の「倭の五王」を倭国のどの天皇に対応させるか諸説ありますが、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇が有力なようです。
18)神武天皇以降の歴代天皇について
4世紀から5世紀の情報をまとめた上記表、および「記紀」の情報を基に、神武東征を真実として、歴代の天皇が統治した年代について考えてみたいと思います。
神武天皇の御代を300年頃とすると、各天皇の即位年代は以下の様に推定されます。
歴代天皇(第1代〜25代)表
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歴 代 |
即位年代 |
天 皇 名 |
別 名 |
系 譜 |
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第1代 |
300年 |
神武(じんむ) |
始馭天下之天皇 はつくにしらすすめらみこと |
鵜葺草葺不合命の皇子 |
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第2代 |
− |
綏靖(すいぜい) |
神渟名川耳天皇 かむぬなかわみみ |
神武天皇の第3皇子 |
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第3代 |
− |
安寧(あんねい) |
磯津彦玉手看天皇 しきつひこたまてみ |
綏靖天皇の第1皇子 |
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第4代 |
− |
懿徳(いとく) |
大日本彦耜友天皇 おおやまとひこすきとも |
安寧天皇の第2皇 |
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第5代 |
− |
孝昭(こうしょう) |
観松彦香殖稲天皇 みまつひこえしね |
懿徳天皇の第1皇子 |
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第6代 |
− |
孝安(こうあん) |
日本足彦國押人天皇 やまとたらしひこくにおしひと |
孝昭天皇の第2皇子 |
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第7代 |
− |
孝霊(こうれい) |
大日本根子彦太瓊天皇 おおやまとねこひこふとに |
孝安天皇の第1皇子 |
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第8代 |
− |
孝元(こうげん) |
大日本根子彦國牽天皇 おおやまとねこひこくにくる |
孝霊天皇の第1皇子 |
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第9代 |
− |
開化(かいか) |
稚日本根子彦大日日天皇 わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと |
孝元天皇の第2皇子 |
|
第10代 |
315年 |
崇神(すじん) |
御肇国天皇 はつくにしらすすめらみこと |
開化天皇の第2皇子 |
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第11代 |
330年 |
垂仁(すいにん) |
活目入彦五十狭茅天皇 いくめいりひこいさち |
崇神天皇の第3皇子 |
|
第12代 |
345年 |
景行(けいこう) |
大足彦忍代別天皇 おおたらしひこおしろわけ |
垂仁天皇の第3皇子 |
|
第13代 |
360年 |
成務(せいむ) |
稚足彦天皇 わかたらしひこ |
景行天皇の第4皇子 |
|
第14代 |
380年 |
仲哀(ちゅうあい) |
足仲彦天皇 たらしなかつひこ |
日本武尊の第2皇子 |
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(摂政) |
391年 |
神功(じんぐう) |
息長帯比売命 おきながたらしひめ |
仲哀天皇の后 |
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第15代 |
395年 |
応神(おうじん) |
誉田天皇 ほむたのすめらみこと |
神功皇后の子 |
|
第16代 |
410年 |
仁徳(にんとく) |
大鷦鷯天皇 おおさざきのすめらみこと |
応神天皇の皇子 |
|
第17代 |
421年 |
履中(りちゅう) |
去来穂別天皇 いざほわけのすめらみこと |
仁徳天皇の第1皇子 |
|
第18代 |
430年 |
反正(はんぜい) |
瑞歯別天皇 みつはわけのすめらみこと |
仁徳天皇の第3皇子 |
|
第19代 |
443年 |
允恭(いんぎょう) |
雄朝津間稚子宿禰天皇 おあさづまわくごのすくね |
仁徳天皇の第4皇子 |
|
第20代 |
460年 |
安康(あんこう) |
穴穂天皇 あなほのすめらみこと |
允恭天皇の皇子 |
|
第21代 |
471年 |
雄略(ゆうりゃく) |
大泊瀬幼武天皇 おおはつせのわかたける |
允恭天皇の第5皇子 |
|
第22代 |
480年 |
清寧(せいねい) |
白髪武広国押稚日本根子天皇 しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ |
雄略天皇の第3皇子 |
|
第23代 |
485年 |
顕宗(けんぞう) |
弘計天皇 をけのすめらみこと |
履中天皇の皇孫 |
|
第24代 |
488年 |
仁賢(にんけん) |
億計天皇 おけのすめらみこと |
磐坂市押磐皇子の第1皇子 |
|
第25代 |
498年 |
武烈(ぶれつ) |
小泊瀬稚鷦鷯天皇 おはつせのわかさぎ |
仁賢天皇の第1皇子 |
上記表についてですが、
@青色の年代は、天皇在位15〜20年として想定したものです。
A391年の神功(じんぐう)皇后は、広開土王碑の「倭が渡り来て、百済と新羅を臣民とする。」による。
B421年〜460年の赤字の年代は、宋書「倭国伝」の倭国5王の記載による。(各天皇は即位後、任命要請の前に方物を献じたとして設定しました。)
C471年の雄略(ゆうりゃく)天皇は、稲荷山鉄剣の銘「ワカタケル」による。
D紫色の年代は、「日本書紀」の即位記録による。
E第2代綏靖(すいぜい)から第9代開化(かいか)天皇までは「闕史8代」と言われていること、旧辞がなく、日本書紀に事跡がなく、父子継承であり別名が不自然であることから、実在しなかったものとする説に合致します。
以上のように考えてきますと、「魏志倭人伝」の記載と「記紀」の記載は、一連の流れとして捉えることができます。
神武東征を300年頃としますと、遺跡状況にも合致し、また、歴代天皇の統治期間も妥当な時期と期間に配列することができました。
なお、神功(じんぐう)皇后による「朝鮮征伐」は、ちょうど391年(広開土王碑)に当てはめることができます。
さらに、この推定の年代から見ると、宋書「倭国伝」の倭国5王は、讃(さん)=履中(りちゅう)、珍(ちん)=反正(はんぜい)、済(せい)=允恭(いんぎょう)、興(こう)=安康(あんこう)、武(ぶ)=雄略(ゆうりゃく)と言うことになります。
19)朝鮮への派兵について
統一倭国(日本)は、313年に高句麗が楽浪郡(帯方郡)を滅ぼし中国との行き来は途絶えるが、朝鮮半島南部(馬韓(〜345年))や(百済(345年〜)と鉄鉱石をはじめとした交易を行っていました。
国内的にも、各国に米を税として納めさせ、それで兵力を増強させ、中央政権が徐々に確立されて行きます。
380年頃には、「熊襲(熊曽於)」が「邪馬台国(宮崎)」に圧迫してきているという情報が中央政権(畿内)に入ります。熊襲(熊曽於)は、昔から不仲の「狗奴国」を中心として住み着いてきた集団なのではないでしょうか。
仲哀(ちゅうあい)天皇は、神功(じんぐう)皇后を伴い、「熊襲」の征伐のため筑紫(九州)へ自ら出向き、北九州の国々に兵の供出の命令を出し、征伐の準備を始めます。
天皇が自ら出向いたのは、九州での徴兵をうまく進めるためだったと考えられます。
熊襲征伐の準備が整った折、仲哀(ちゅうあい)天皇は病気若しくは暗殺により亡くなります。
百済は高句麗との関係を優先させながらも、倭国とは鉄鉱供給などの交易を行っていました。
神功(じんぐう)皇后は、神託により、熊襲征伐より、百済を領地とする方が良いとされ、朝鮮征伐を優先させることを決心します。
391年、出産間近であった神功(じんぐう)皇后は、腹帯をきつく締め出産を遅らせ、兵士を鼓舞するため自ら先頭に立って戦い、朝鮮半島の南部を支配下に治めます。
帰国後、応神(おうじん)天皇を出産し、産まれた場所を「
20)朝鮮半島を廻る戦いについて
倭国(日本)では、神功(じんぐう)皇后の戦勝を大いに祝います。
その後、高句麗の広開土王(好太王)は、百済からの朝貢がなくなり、南に攻め入ることを決心します。
404年、広開土王(好太王)は、倭国(日本)と百済連合軍を打ち破ります。このとき、倭国(日本)軍は、広開土王(好太王)軍の騎馬隊の圧倒的な強さを痛感することになります。
倭国(日本)軍は、逃げ帰り、兵力の増強、国内の防備を固めることになります。
21)都井の御崎馬の重用について
広開土王(好太王)軍の騎馬隊の圧倒的な強さの報告を受けた倭国(日本)王は、馬を活用することにします。
そこで、注目されたのが、「馬なら都井の御崎馬」と言われるようになる「邪馬台国」が所有していた都井岬の縄文時代から居る自然馬です。
都井岬(
なお、倭国(近畿)の中央政権は、「騎馬民族」により打ち立てられたという説がありますが、倭国(近畿)の中央政権自らが、広開土王(好太王)軍との戦いで馬の重要性を認識し、馬の活用を推進したために、馬の文化が急激に展開したと考えるのが妥当かも知れません。
馬に騎乗するようになると、その馬の装飾品を当初は盛んに輸入することになります。
22)5世紀の倭国(日本)について
412年に、広開土王(好太王)が亡くなると、しだいに、百済との交易が再開されます。
その際、倭国(日本)は、鉄鉱石や馬具を好んで求めました。
これにより、兵士は、弓と鉄の鏃の矢、盾、そして鉄剣を身に付け、武将は馬に乗って指揮していたと想像されます。戦は、矢の掛け合いで始まり、その後、接近戦となったことでしょう。
その後の古墳に眠る各地の統治者は、りっぱな馬具を付けた馬に騎乗することを権威の証としました。
各国の農民は、鉄製の農具の普及で生産性を高めたことでしょう。そして、米の収穫が増えるにつれ、人口も急増したと考えられます。
また、中国で宋(420〜479年)が興ると、倭国5王である讃(さん)=履中、珍(ちん)=反正、済(せい)=允恭、興(こう)=安康、武(ぶ)=雄略は、先ずは挨拶のための方物を献ずるために入貢し、次の入貢で任命要請を行い、各々倭王に任命してもらいます。
400年代、中央政権は、少しずつ国内の支配地域を広げながら、外交も順調な安定した時代だったと考えられます。
23)6世紀の倭国(日本)について
朝鮮半島は、6世紀に入り、法興王が即位すると新羅の国力が増強され、任那に侵攻を始めます。
鉄が政権維持に係わる中央政権は、これに危機感を持ち、527年(継体21年)に、近江毛野に6万の兵を委ね、新羅に侵攻された任那を奪回しようと計画します。
後の白村江の戦い(663年)の倭国の船団が400隻だったことから、527年時の船団は、約30人乗りの船が300隻くらいだったと推定すると、1往復で約1万人の兵を朝鮮に送れる計算になります。
多くの兵が北部九州に留まることになり、中央から持参した兵糧だけでは当然不足します。そこで、中央政権は、兵を送り出す前に、米どころの筑後、筑前、肥後、肥前に、多量の米や家畜、野菜等の供出を強要しました。
また、出兵予定の少なくとも1/3の2万人程度は、これらの国からの徴兵を強要したことでしょう。
毎年の年貢でも窮々としていたこれらの国々は、ついに、生きるために、「筑紫君の磐井」の下に集まり、お互いの兵を結集し、兵と食料の供出を拒否します。
そして、筑紫君の磐井は、ちょうどその頃に百済からやってきた船を襲って、軍備を整え、中央政権に反旗を翻します。
この報告を受けた中央政権は、畿内の朝鮮出兵のための兵に加えさらに多くの兵を集め、物部麁鹿火に「磐井の乱」を鎮圧させます。
筑紫君の磐井は、筑後川下流域の三井郡まで押され、決戦を挑みますが、遂に敗退してしまいます。磐井は、生前墓である岩戸山古墳に葬られたのか発掘が待たれます。
その後、中央政権は、北部九州を完全に掌握し、また、朝鮮への6万の出兵は難しいことを悟り、1回の渡航で渡せる数千の出兵を繰り返すことになります。
作成2004.03.29.
更新2007.04.27.
「参考歴史年表」を次に示します。
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