邪馬台国論の従来説への考察

(「邪馬台国」比定地の従来説に対する考え)

 

紀元280年頃に、西晋(紀元265316年)の陳寿(297年没)

「三国志」の「魏志(第三十巻)東夷伝通称「魏志倭人伝」

を編纂しました。邪馬台国に関する詳細な記述は、この他には

見られません。

この紀元280年頃は、後漢王朝が崩壊し、魏・呉・蜀の三国が

中国大陸の覇権を激しく争った三国時代(紀元220280年)

あり、魏にとって倭国の朝見は意義深いものであったと考えら

仙道古墳(甘木市)

 
れます。

 

陳寿の著した「魏志倭人伝」によれば、倭国はもともと百余国に分かれており、漢の時代に朝見する者があった。倭国は、もともと男子を王としていたが、7080年倭国が乱れ、歴年争いをした末、共同で一女子を王(卑弥呼)とすることで治まったと記載されています。

その倭国の乱れについては、「桓霊(桓帝147167、霊帝168188)の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して年を経て主無し」と記されている。

従って、200年代始めの倭国では、邪馬台国の女王(卑弥呼)が約30ケ国を統括して倭国王として君臨し、伊都国に一大率を置き、諸国の検察、外交をつかさどっていたことになります。

景初三年(紀元239年)に、邪馬台国の女王(卑弥呼)は、魏王朝の首都(洛陽)へ難升米等の使節を送りました。これに応じ、正始元年(240年)魏は返礼使として梯儁を倭国へ派遣し、「親魏倭王」の金印および銅鏡百枚などを卑弥呼に授与したと記載されています。

邪馬台国の南にある狗奴国だけは、邪馬台国に従わず、抗争をしかけて来ていました。

247年に、卑弥呼は、魏に「狗奴国」との交戦と窮状を告げ、魏王から激励を受けました。

「狗奴国」との交戦結果は、明白になっていませんが、卑弥呼の死後、男王を立てると戦乱が起きたので、卑弥呼の宗女の臺与を共立しました。

これらの背景も踏まえて、邪馬台国論の従来説を検討してみたいと思います。

 

「魏志倭人伝」には、中国の「帯方郡」からこの「邪馬台国」に至るまでの旅程が記されています。

「魏志倭人伝」をめぐった「邪馬台国」の比定については、江戸時代の新井白石が「古史通或問(こしつうわくもん)」を正徳6年(1716年)に著し、邪馬台国を大和地方に比定したのに始まり、現代まで諸説紛紛とし、今でも確定までに至っていません。その新井白石ですら、晩年の著書である「外国之事調書」では、邪馬台国を柳川近くの山門郡に比定し直しています。

「邪馬台国」に至る道里、日程については、旅程を「魏志倭人伝」の記載通りに従う連続説や伊都国以降は伊都国からの方位や距離を示すものとする放射説があります。

「邪馬台国」の比定地については、有力説として@畿内大和説、A筑後山門説、B肥後山門説、C筑前甘木説、D筑前博多説、E豊前宇佐説等がありますが、いずれの説も自らの説に導くために、倭人伝の記述に独自の解釈を加えてしまっているようにも思えます。

 

「魏志倭人伝」における「邪馬台国」に至る最後の旅程の記述は、「(奴国から)東に行く、不弥国に至るに、百里。長官を多模(タモ)、次官を卑奴母離と云う。千余戸である。南へ、投馬国に至るに、水行二十日。長官を弥弥(ミミ)、次官を弥弥那利(ミミナリ)と云う。五万余戸である。南へ、邪馬壹国に至るに、水行十日、陸行一月。ここが女王の都するところ、長官を伊支馬(イキマ)、次官以下を弥馬升(ミマショウ)・弥馬獲支(ミマカキ)・奴佳鞮(ナカテ)と云う。七万余戸である。女王国より北の諸国は、その戸数と道里をほぼ記載できる。」となっています。

このように不弥国までは、百里オーダーの距離で示され、その後、投馬国と邪馬台国へは、急に、日程(日月)で記載されている点が、幾つもの邪馬台国説を産む大きな原因になっています。

九州説では、「水行10日、陸行1ヶ月」が長すぎ、畿内説では、「南へ」の記述をどうしても「東へ」と進むしかないのです。普通に考えると、時間的なものは解決できますが、方角は太陽が東から昇り、北斗七星が北にある限り間違えようが無いように思えます。

 

古田先生説は、邪馬台国は不弥国の南に隣接し、「水行十日、陸行一月」は帯方郡からの総計旅程とされています。「魏志倭人伝」の記述通り、不弥国の南に邪馬台国を設定されています。しかし、「南へ、邪馬壹国に至る」の直前に「南へ、投馬国に至る」の記述があるため納得できないでいます。

ここで問題にしたい点は、「魏志倭人伝」には、「末盧国から東南へ500里(50km)陸行して伊都国‘到る’。」と記述され、それ以前と以降は、「奴国に‘至る’」、「不弥国に‘至る’」、「・・・」と意識的に区別されています。

これは、「郡使が常にとどまる所」である伊都国」が、郡使級の人物の目的地・到達地であることを意図したものだと考えられます。その目的地「伊都国」以降の記述は、「伊都国」からの道案内であり、つまり、榎先生説をはじめとした「伊都国」からの放射状説は妥当と考えます。

 

また、最も問題なのは、これらの説において、「伊都国=糸国(糸志摩)」と「奴国=那の津(福岡)」は、絶対に間違いないと言うことで、この2国を固定した上で「邪馬台国」を比定するが故に、「魏志倭人伝」の意図とは異なる旅程になってしまっているのではないのでしょうか?

 

このホームページでは、「魏志倭人伝」の記述に忠実に従い、「邪馬台国」への経路、「略載された女王国の北の国々」の比定地を示し、さらに南方の国々の比定地も示しました。

その比定地のまとめとして表2.を再度掲載します。

 

表2.「魏志倭人伝」記載地の比定

番号

魏志倭人伝における記載国

現代の比定地

A

対馬国

1,000余戸

対馬

B

一大国

3,000戸許

壱岐

C

末盧国

4,000余戸

松浦(唐津市

D

伊都国

1,000余戸

吉野ヶ里遺跡一帯

E

奴国

20,000余戸

八女市から筑後市

F

不弥国

1,000余戸

久留米市一帯

G

投馬国

50,000余戸

薩摩(薩摩半島)

H

邪馬台国

70,000余戸

宮崎平野

狗奴国

熊本平野

侏儒

沖縄諸島

裸国、黒歯国

ニューギニア島

 

この「邪馬台国(宮崎平野)」に至る経路の説明としては、「伊都国(吉野ヶ里)」からは筑後川を下り、有明海を南に進み、(水俣)まで舟にて10日で至る。水俣で舟を降り、その後は大口市を通り、霧島のすそ野を縫いながら都城市を経過し、「邪馬台国(宮崎平野)」まで陸行して1ヶ月で至る。

 

ここまで読んで頂いた方の中には、ほぼ全ての従来説で確定している「伊都国」や「奴国」、および金印「漢委奴国王」などについてはどう説明するのか?とお尋ねになる方がおられると思います。

 

そこで、上記の「邪馬台国」の比定を踏まえ、従来説へ対する考察を示します。

 

 

先ず、「末盧国」は、壱岐から最短距離にあり、壱岐から晴れた日は見渡せる松浦(唐津市と確定して問題ないと考えられます

 

次の「伊都国」には、有力な候補地として「糸志摩(福岡県糸島半島)」があります。

しかし、「魏志倭人伝」における「伊都国」は、「末盧国から東南へ500里陸行して伊都国に到着する。帯方郡の使者が往来する時に常に駐まる所であり、人口は1,000余戸である。」と記載されています。

諸説は、この「末盧国から東南500里(50km陸行して伊都国に到着する。」を重視するよりも、新井白石を始めとする多くの学者の説にある「伊都国」=「糸志摩(前原市)」の「イト」は、同じ発音であること、壱岐に向かっていること、および多くの遺跡出土品があること等から「伊都国」=「糸国」であると決定付けられています。さらに、それに続く「奴国」が、現在の巨大都市「那の津(福岡市)」に比定されているため、確信は揺ぎ無きものになっています。

しかし、「伊都国糸志摩」、「奴国福岡市とするなら、そこまで船で容易に行けるのにわざわざ中国から運んできた荷物を降ろして陸行で運び、要人を歩かせることになり、不合理なことになります。検閲したければ、船で行き「奴国(福岡市」の港で行えば済みます。

「末盧国から東南へ500里陸行して伊都国に至る。」と明示されているのは、その必要性から、つまり、陸行しないと「伊都国」に容易に到達できないことを意味しているのではないでしょうか

伊都国は、地理上で実際に「末盧国から東南へ500里(約50km)陸行して至る。」ことのできる「佐賀県の吉野ヶ里遺跡一帯に比定するのが自然であると考えられます。

 

伊都国」についての「魏志倭人伝」の記載は、「代々王が有り、女王国に属している」となっています。

もし、「伊都国」の居城・本拠地に「吉野ヶ里遺跡」を当てはめるとすると、王墓が存在し、戸数がほぼ一致し、女王国の記載に類似した城壁や楼閣を設けていることから、まさに、「女王国に属している」の記載に合致するのではないでしょうか。

従来説の「伊都国(糸志摩)」も「代々王が有る」に合致しますが、「伊都国」の戸数は1,000余戸と記載されているので、「伊都国(糸志摩)」の遺跡状況から考えると、少なくとも「一大国(3,000余戸)」や「末盧国(4,000余戸)」よりは多いはずであり、数千の戸数にはなると推定されます。

 

また、「魏志倭人伝」において「伊都国」だけに特別に「女王国に属している」と記載されている意味は、「邪馬台国(宮崎平野)」の遠隔支配地ということを示し、「一大(壱岐)卒(イチダイソツでは無い)」を駐留(佐賀平野)させるにふさわしい国であったことを端的に示したものと考えられます。小国であった「伊都国(吉野ヶ里遺跡一帯)」は、「邪馬台国(宮崎平野)」の軍事拠点となり、周りの国の侵略から守護されていたと考えられます。

 

さらに、倭人伝の「伊都国の東南10kmが奴国伊都国の10kmが不弥国」という位置関係に注目して見ますと、これに対比する国を各々「伊都国(糸志摩)」、「奴国(福岡市)」、「不弥国(宇美町」とするならば10kmの距離間隔では収まりません。

一方、このホームページで比定した国の中心地である「伊都国(吉野ヶ里遺跡)」、「奴国八女市」、「不弥国久留米市」を対比させると、ちょうど10kmの二辺を持つ内角135度の二等辺三角形の位置関係にあり、その方角(東南、東)も記載に合致することになります。

 

従来説の「伊都国=糸志摩(前原市)」は、「倭国はもともと百余国に分かれており、漢の時代に朝見する者があった。」と記載された時代には、漢の国から金印や鏡を授けられる王国として繁栄していたと考えられます。

そこで、金印「漢委奴国王」についてですが、「漢の委の奴国王(漢のコクオウと解釈するのではなく、発見当初(1784年)に国学者である籐貞幹(とうのていかん)が提示したように「漢の委奴国王(漢のイドコクオウと解釈できると考えます。現存する金印の「委奴国」にはではなく委(イ)の字が使われており、重要な漢字の略字は用いないと考えられ「委奴(イド又はイト)国」の可能性が高いと思われます

この「委奴国」の金印を「委奴国」が貰ったものとすると、「奴国(福岡市)」の根拠は、「那の津」と呼ばれていたこと位しか無くなります。そこで、「奴国」はどういう位置づけになるのかと言いますと、「委奴国」の本体であったと考えます。つまり、「委奴国」は、(福岡市)を中心にして、(糸島)から(宗像・飯塚)までの範囲だったのではないでしょうか。

こう考えると、「委奴国」の金印が志賀島で発見された理由は、狗邪韓国系であり倭国連合に加わらなかった「従来説の伊都国+奴国=委奴国」は、独自の「志賀島−沖ノ島−対馬−狗邪韓国東」の航路を取った可能性が高く、志賀島で金印を使用していたことが推察されます。

さて、万葉集(巻7.1230)に、「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも 我は忘れじ 志賀の皇神(スメカミ)」という歌があり、「金の岬」と「志賀の皇神」には関連がありそうですが?

ところで、後漢書(東夷伝)に、『建武中元2年(AD57年)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南海なり。光武、賜ふに印綬を以ってす。』と記載されていることから、「奴国王」が印綬を賜ったことは確かです。しかし印綬とあり金印とは明記されていません。

この「倭の奴国は、倭国の極南海なり」という記載から、金印をAD57年に貰った「奴国」は、南側に海が面した「筑後川下流域」に比定するのが妥当だと思われます。

ところで、「親魏倭王」の金印は、どこに眠っているのでしょうか?

 

さて、前原市伊都歴史博物館には、直径46.5cmの巨大な内行花文鏡をはじめとして多くの鏡が飾られていますが、墳墓(平原遺跡)へ副葬品として埋設する時点で鏡は全て割られていました。館内の説明には、王(武具の埋葬がないので女王とされる)は、台風の荒れ狂う日に鏡は割れ同時に死んだと断定されています。

そんな強い台風に見舞われたように鏡がことごとく粉砕された後に副葬されている理由は、奪取されないために割ったと考えることができます。

「日本書紀(第8巻仲哀天皇)」には「伊覩の県(イトノアガタ)」という記載が登場しますが、この「伊覩の県」は、400年頃に「神功皇后」が洞海湾での五十迹手の働きを「伊蘇志(イソシ)」と褒められ、五十迹手(イソテ)の国を「伊蘇国」と呼んでいたが、今(720年頃)は、訛って「伊覩(イト)」と呼んでいると書かれています。

また、「糸志摩(前原市)」には、「続日本紀」に756年から768年にかけて築城されたと記載されている中国式山城「怡土城(イトジョウ)」が存在します。この「怡土」と「委奴」は、同じ発音であったと推察されます。

糸国の遺跡からは装飾具の発掘が多く、武具は少ないことから戦闘的な国ではなかったと考えられ、「糸島地域」は、鏡、管玉、勾玉、農具等を作るテクノポリス的な役割を果たしたのでしょう。

八咫の鏡、ここで作られ、倭国大乱後に、瀬戸内海沿いから近畿地方に勢力を広げた委奴国(糸島−福岡市−宗像)」の渡来人が近畿に持ち込んだ可能性が考えられます。

 

一方、「魏志倭人伝」に記載されていた200年頃の「伊都国(佐賀平野)」は、西暦500年頃前には、「筑紫の磐井の国」の支配下になったと推察されます。

 

 

さて、「魏志倭人伝」には「伊都国」に関して、「女王国より以北は、特に一大率を置き諸国を検察させており、諸国はこれを畏れている。一大率は常に伊都国で治めている。伊都国は、郡使が常に駐まるところ」と記載されています。

この「一大率」は、「いちだいそつ」と呼ばれていますが、「一大(壱岐)への往来の「引率」を行う軍団のことを指していると考えられ、「いきそつ」と呼ぶのが相応しいと考えますのでそう呼ばせてもらいます。

「一大率(いきそつ)」は、中国から倭国への使者を「一大(壱岐)国」から末盧国」、伊都国(佐賀市」を経て「邪馬台国」まで持て成しながら案内し、帰国時には「一大(壱岐)国」若しくは「対馬国」まで護衛したと考えられます。また、倭国から中国への朝見者も同様に護衛したと考えられます。

往来の使者の荷物は、「末盧国」または一大(壱岐)国の港で「一大率」が検閲したと考えられます。

一大率」の主な任務は、来訪者および朝見者の護衛・引率と考えられますが、これらは年単位で発生する任務のため、通常時は、女王国が君臨する国々を検察(巡回、情報収集、情報提供)する任務に就いていたと考えられます。

ここで、「一大率」が、なぜ、伊都国(佐賀市に置かれたかを考えて見たいと思います。「邪馬台国(宮崎平野)」からの使者は、有明海を北上して有明海北部佐賀市に滞在し、壱岐に達するのに最も近い「末盧国」への東北500里の陸行となったと考えられます。

また、従来説の狗邪韓国系の「委奴国(糸島−福岡市−宗像)」は、「志賀島−沖ノ島−対馬−狗邪韓国東」の航路を利用し、一方、このホームページで比定した「倭国連合」は、「伊都国(佐賀市)」を経て、「末盧−壱岐−対馬−狗邪韓国西」の航路を利用していたと推定されます。

このように航路を共有していないと言うことは、狗邪韓国系の「委奴国」と「倭国連合」とは、敵対若しくは競合していたと考えられます。

なお、「従来説の伊都国+奴国=委奴(イド)国」とは別に、「倭国」連合には「伊都(イト)国(佐賀市)」が存在したと考えると、「魏志倭人伝」の旅程が納得できるのではないでしょうか。

 

その後、313年に、高句麗が勢力を増して帯方郡を滅ぼした後は、「一大率(いきそつ)」による朝見者の邪馬台国への護衛の任務はなくなっていたことでしょう。この高句麗によって中国への道を閉ざされたことにより、4世紀の倭国についての記録が、中国の史書へ無くなったことが推察されます。

 

 

次に、「伊都国(吉野ヶ里一帯)から東南へ100里(10km)進むと、「奴=港」に相応しい、大河である筑後川の下流域に当たる「奴国(八女市から筑後市」が存在します。

先にも述べましたが、「奴国筑後川の下流域に比定しますと、南側が有明海に面するので、『後漢書「東夷伝」』にある「建武中元2年(AD57年)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南海なり。光武、賜ふに印綬を以ってす。」、つまり「奴国は、倭国の極南海なり」という記述に合致することになります。

稲作に適する広大な筑後川下流一帯は、「米」という財産により倭国で重要な地位を占める「奴国(20,000戸)」に相応しい土地であるといえます。「山門郡」を「邪馬台国」に比定する説があるのも地の利からは理解できます。

 

従来説の「奴国=福岡市については、弥生時代は、海が深く切り込んでおり、大河もないことから、小規模の稲作がなされ、戸数も数千から2万程度であったと推察されます。

しかし、壱岐や沖ノ島に直結している平野部であったため、朝鮮半島からの渡来人が多く住み着き、最先端の技術が導入された地域であったと考えられます。

倭国が30余国に統一されて、「伊都国(佐賀平野)」を通した外交が確立されるまでは、渡来人が中心になり、各国が独自に朝鮮や中国との交易を行っていたと推定されます。

従来説の「奴国=福岡市が好んで入手した大量の銅鏡や銅矛、銅剣は、祭祀に使われ、墳墓に副葬されたと考えられ、この好みや副葬は、渡来人を中心する独特な民族性によるものと考えられます。

従来説の「奴国=福岡市は、稲作、鉄器をはじめとした最先端技術の導入国、伝播国でありました。

板付遺跡に端を発した稲作も、200年も経過すると各地に伝播し、稲作に適した土地に富の蓄積と爆発的な人口増加がもたらされ、必然的に兵力も大きなものになったことが伺えます。

そして、紀元200年頃には、従来説の「奴国=福岡市は倭国連合には属さず、瀬戸内海地域および近畿と結びついた独立国を形成していたと考えられます。

結論として、従来説の「奴国=福岡市」は、委奴国」の中心地であったと考えています。

一方、このホームページで比定した「奴国(筑後川下流域)」と「女王国の北の国々」の最後に記載されている「奴国」は、「奴国(筑後川下流域)」と同じであることを示していると推定されました。

 

 

次に、「伊都国(吉野ヶ里)」から東へ10010km)進むと、そこには多くの遺跡がある「不弥国(久留米市が存在します

東南ではなく、「魏志倭人伝」の記載通りに東に10km進むと久留米市が存在します。

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


その後の旅程は、「伊都国(吉野ヶ里一帯=筑後川の下流域から手漕ぎ舟で出発して、有明海を南に進み、水行10日間で水俣」の川港に至ります。そこで上陸し、八代市 」⇒ 「霧島の麓」 ⇒ 「都城市」を経て、陸行1ヶ月で邪馬台国(宮崎平野)、到達します。

 

以上で述べた経路は、舟で行ける所は舟で行き、いたしかたない所だけ陸行している、つまり、できるだけ歩かない旅程になります。現代人でもそうするのではないでしょうか? 

また、この経路をたどると、「魏志倭人伝」の記載通りの方角や距離・日程をほぼ進んだことになります。

ただ、水行と陸行の期間が、長いように思われるでしょうが、朝は食事の用意ができてから要人を起こして食事をし、途中休憩があり、昼食は浜辺に停泊してから作って食べ、夕方は早めに夕食や寝る場所の準備をしたことでしょう。また、風雨の強い日は移動せず、主な国々では滞在し、歓待を受けながら進んだと考えられます。これらの色々な状況を踏まえた上での大凡要する日程として、端数の無い「水行10日、陸行1ヶ月」と言う期間が記載されていると思われます。

 

 

最後に、銅剣、銅鏡といった副葬品の数は、北九州が圧倒的に多いという事実がありますが、遺跡的には、前の「比定の理由」のページに示したように「宮崎平野」には優れたものがあります。

そもそも、邪馬台国は、倭国の国々が協議し共立した代表国である訳ですので、穏やかな皆が納得する国であったはずです。発展国や戦闘的な国である必要はないのです。

まして、当時の戦闘は、現在の銃に匹敵する弓矢が主体に使われ、接近戦で使う剣はリーダーが権威として保持するだけで充分です。この弓矢が主体ということは、兵士の数が多いほど強国ということになります。

 

宮崎平野は、その温暖な気候から縄文時代から人口が多く、稲作についても2期作ができ、70,000戸を有することも充分に可能でした。

銅剣、銅鏡については、副葬の方法により風化が異なり残存が決まります。完全な形の銅剣、銅鏡といった副葬品の出土数で、邪馬台国を決めるのではなく、各地の不完全な副葬品の出土状況(宮崎県の銀代ヶ迫遺跡(BC3C)や神殿遺跡(AD2C)の竪穴式住居から発掘された内向花文鏡、方格規矩鏡の破片)についてもデータを集積・分析する研究も重要と思われます。

 

以上、「魏志倭人伝」における「奴国」が「福岡市」なのか「八女市」なのか? この「不弥国」の位置の決定が、「邪馬台国」を正しく比定する鍵ではないだろうかと言う結論になりました

作成04.02.10.

改定07.04.23.

   つづきは、

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