古 代 酒 と 古 代 米

弥生時代を考える上で、ひとつのヒントになりそうな気がして、古代酒と古代米について、簡単にまとめてみました。

1.古代の酒について

古代の酒に関する記述で最も有名なものは、スサノオノ命が、アシナヅチの8人目の娘を救うため、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)の八つの頭に、繰り返し発酵させた強い酒(衆果:果実酒)を飲ませて退治すると言う「記紀」のものです。

 

また、日本書紀には、「天孫降臨したニニギノ命が、コノハナサクヤ姫を娶り、狭名田(サナダ)の稲を使って天甜酒(アマノタムサケ)を醸して饗した」とあります。宮崎県西都市の都万神社は、コノハナサクヤ姫を祭神としており、「日本酒発祥の地」とされています。

 

さて、酒とヒトとの出会いは、「さる酒」と言われるもので、これは、サルが木の穴に木の実を隠しておいたところ、発酵して酒になり、これを猟師が飲んだのが始まりと言われています。

この木の実が、栗やドングリではなかなか発酵しません。すぐに発酵するのは、糖分がグルコースで皮に酵母が多いブドウ(この頃は「山ブドウ」)です。縄文人は、山ブドウをつぶして発酵させたアントシアニン豊富な甘い赤ワインを飲んでいたことでしょう。

実際に、長野県富士見町の縄文中期の遺跡からは、山葡萄の種子の入った有孔鍔付土器が見つかって居ます。

 

ところで、日本での酒の飲用についての最も古い記録は、「魏志倭人伝」にあります。それは、西暦200年前後の倭国と邪馬台国の様子を述べたもので、「始死停喪十余日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。(人が死んで10日程は喪に服し、肉を食べず、喪主は泣き叫ぶが、他の人々は酒を飲んで歌って舞う。)、「其会同座起、父子男女無別。人性嗜酒。(会合のとき父子男女の座席に区別はない。人々は酒をよく好む。)」と言う記載です。

このことから、西暦200年前後には酒が一般的に普及していたことが伺えます。

 

1680年にレーベンフック(オランダ)がはじめて顕微鏡で微生物の存在を知った訳ですから、酵母が酒を作るなんて、当時の人が分るはずありません。酒は神の創造物として、巫女が携わっていたことでしょう。

 

8世紀頃に編纂された「大隈国風土記」には、「昔は此の国の人、酒を造るすべを知らず。口に米を噛みて水に吐き入れ、日を経て後熟する時、是を酒と云う。後の人麗しく造れども、昔になぞらえて醸(か)むと云う」とあります。

稲作が進み、米の収穫が増えると、米から一定品質の酒を大量に造ることを考えました。

神事に使われてきた「口噛み酒」の製造工程は、米飯を乙女らが口で噛み砕き、それを壺に溜め、最後に磨砕して、壺の中で数日間発酵させるものです。この工程では、一定の品質の酒はできそうにありません。

 

上田誠之助氏(日本酒の起源:八坂書房)は、酒造りの変遷を「日本列島の先住民(縄文人)で口噛み酒を持つ南方モンゴロイドが、陸稲、ついで水稲を携えて渡来し、その文化の上に、北方モンゴロイドである弥生人が、水稲耕作技術と共に発芽穀物を用いた醴(甘酒)や餅麹を用いたカビ酒をもたらした」と推定されています。

 

ここで、老婆心ながら発酵を少し復習してみますと、酵母は、米の澱粉を消化できないため、唾液アミラーゼや発芽穀物のアミラーゼ、麹カビのアミラーゼなどでグルコースまで分解する必要があります。酵母は、酸素がある場合は、TCAサイクルでエネルギーを得、嫌気状態では、グルコース→グルコース6リン酸→→→ピルビン酸→アセトアルデヒド→エタノールの経路でエネルギーを得ています。

なお、アミラーゼだけでなくプロテアーゼも酵母への栄養供給として重要な役割を果たしています。

 

では、弥生時代以降、大衆の飲酒に供する酒は、どのようにして造られたのでしょうか。

先ず、蒸し米やお粥を、冷却する。これに発芽穀物のアミラーゼ、または餅麹菌のアミラーゼで糖化させる。それを壺に残った酵母で又は酵母の残ったぶどう酒を添加して、発酵させた後、酸っぱくならないように加熱し、棕櫚の皮または織布でろ過し、壺に保管する様な方法によったと推定されます。

このようにしてできた酒は、冠婚葬祭、会合、来客時に振る舞われたことでしょう。

ただ、神に捧げるお神酒だけは、乙女らによる古式の口噛み酒を用いたのではないでしょうか。

 

なお、中国の西安では、前漢早期(2000年余り前)の墓から銅の器に入った青緑がかった透明な純度の高い米酒5Lが発見されています。(中国通信社) この中国での高度な酒造りは、弥生時代には、日本に伝承されたと考えられます。

2.古代の米について

佐賀県唐津市の菜畑遺跡で見つかった2800年前の稲の花粉は、熱帯ジャポニカ種であり、南方モンゴロイドが焼畑農耕を行っていたと推定されています。その地層の上層部には、温帯ジャポニカ種の花粉、水耕跡が見出されたことから、その後、水稲栽培がなされたと考えられています。

福岡市の2500年ほど前の板付遺跡では、水田跡、農具、ジャポニカ種の炭化米、水田には人の足跡まで残っています。

また、宮崎県えびの市の縄文時代の桑田遺跡では、熱帯ジャポニカ種の炭化米が見つかって居り、南方モンゴロイドが焼畑農耕を行っていたと推定されています。

なお、青森市の縄文中期の三内丸山遺跡では、今のところ、米の痕跡は見つかっていません。

 

稲の変遷からも、西日本においては、日本列島の先住民(縄文人)である南方モンゴロイドの国へ、弥生時代に北方モンゴロイドが北部九州にやって来たことが伺えます。

 

稲作の9割はアジアで行われ、欧米は麦作が中心の文化です。

アジアの稲には、インディカ種(インド)、ジャポニカ種(日本)、ジャパニカ種(ジャワ)があり、各々に、ウルチ米(アミロース25%、アミロペクチン75%)とモチ米(ほとんどがアミロペクチン)があります。

 

近年、米の原種と言われる赤米(あかごめ)と黒米(くろごめ)がブームになっています。

赤米には、ジャポニカ種(短粒)とインディカ種(長粒)が有り、日本では短粒のウルチ米が多く、種皮に赤色素(カテコールタンニン)があり、5分搗きでは紅色を呈し、精米すると白色になります。

一方、黒米にも、短粒と長粒が有り、日本では長粒のモチ米が多く、種皮に黒紫色素(アントシアン)があり、5分搗きでは紫色を呈し、精米すると白色になります。

赤米および黒米と、菜畑遺跡や板付遺跡、桑田遺跡の米との因果関係は、明確にはなっていないが、水稲耕作の伝来と共に酒造りがほぼ同時に伝来したことは確かなようであります。

 

2005.3.8.

 

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