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沖縄戦の概要 |
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琉球新報には、第二次世界大戦の沖縄戦での出来事をあたかも昨日起きたように記述した記事が連載されています。 その概要を学んだ範囲で、記述したいと思います。誤りがあったらご指導ください。 1941年12月にはじまった第二次世界大戦は、翌年の夏から日本軍は敗戦を重ね、1944年7月7日には、サイパン島が占領されました。 日本の軍司令部は、「サイパンの次は沖縄戦だ」と判断して、奄美大島や沖縄県の年寄り、女子供を島外へ疎開させることにします。 その疎開船である「対馬丸(6750トン)」は、昭和19年8月21日に、疎開児童や一般の疎開者1788名を乗せ、長崎を目指して出港しました。 沖縄戦開始後、 米軍は、先ず、沖縄の中部で日本軍の飛行場があった嘉手納(カデナ)、読谷(ヨミタン)から上陸し、日本軍所有の飛行場を手に入れます。 日本陸軍は、本土決戦への時間稼ぎと言う考えもあってか、首里城を守る形で対戦しました。 一方、日本海軍の方は、本土は海岸線が長すぎて海戦は難しいと考え、沖縄を決戦場として戦った結果、多くの船や飛行機を失ってしまうことになります。 この間に、本土の総司令部は、劣勢を考慮し、平和条約を結んでいたロシアを介して日米和平条約締結を模索します。 首里城を守る形で布陣していた日本軍第32部隊は、驚くべき忍耐力で対抗します。 日本陸軍は、昭和20年6月18日に、米軍の総司令官であるバクナー中将を砲弾で戦死させます。 それに怒った米軍は、その後、6月23日まで徹底的な総攻撃を日本軍に掛けました。 6月22日、日本軍32部隊は壊滅的な打撃を受け、総司令官の牛島中将が、摩文仁(マブニ)で自決します。 なお、米軍のバクナーと日本軍の牛島は、同じ年で、同じ中将で、総司令官をつとめました。バクナーが牛島に宛てて書いた、「米軍が明らかに有利だから、これ以上の犠牲を出さないようにと会談を申し込んだ親書」が残っています。 その後は、生存した日本陸軍は、南に敗走しながら、イラクのようにゲリラ戦を続けることになります。 6月23日、米軍は、星条旗を掲げ、「沖縄戦の勝利宣言」を行います。 この6月23日は、沖縄では、「慰霊の日」と定められ、学校では授業もなく、沖縄の暦は赤い旗のマークが付いています。 その後の民衆は、守ってもらう目的に日本兵に付いて移動することにしました。また、沖縄の民衆は、家族の絆が強く、先祖の墓のある土地を離れないことが、被害を大きくしました。 当時、将来の先生をめざす師範学校の女子学生(17歳前後)が、看護士として招集されました。 有名な「ひめゆりの塔」には、大砲や機関銃でやられ、また、自害した先生の卵たちがまつってあります。 なお、米軍総司令官のバクナー中将の慰霊碑も、「ひめゆりの塔」のすぐ近くにあります。 一方、ロシアは、日露平和条約の破棄を一方的に宣言し、終戦間際の昭和20年8月9日に参戦を表明し、南樺太を占拠し、ポツダム宣言受理後も、引き続き北方4島まで侵略してしまいました。 日本は、2つの原爆のこともあって、昭和20年8月15日、ポツダム宣言(無条件降伏)を受け入れます。 敗戦の日が、お盆と重なっているのは、偶然なのでしょうか?
戦争が、風化されつつある現代、もう一度、戦争の悲惨さを考えて見たいと思います。 |
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05年6月22日 |