邪馬台国(卑弥呼の国)の比定地

(「魏志倭人伝」に記載の「邪馬台国(卑弥呼の国)」への旅程)
「三国志」の「魏志(第三十巻)東夷伝(倭人条)」である
「通称「魏志倭人伝」」は、紀元280年頃に、中国の西晋時代
(紀元265〜316年)の史官であった陳寿(297年没)により、
編纂されました。
その内容は、帯方郡より邪馬台国に至る旅程、経路の国々の
様子から紀元200年頃の邪馬台国の様子までが2000字足らずの 五郎山古墳と断面図
漢字で簡潔に記載されています。
この「魏志倭人伝」の記載内容を基本に、既成概念を捨てて、
「帯方郡から「邪馬台国」まで12,000里である。」(魏志倭人伝)
「末盧国から東南へ500里(50km)陸行して伊都国に到る。」(同上)
「伊都国から東南へ100里(10km)して奴国に至る。」(同上)
「女王国の東、渡海千余里、復国有り。皆、倭種なり。」(同上)
と言った史書の記載に忠実に従って、「邪馬台国」を比定することにします。
先ず、「魏志倭人伝」に記載された帯方郡(韓国ソウル付近)から「邪馬台国」へ至る方位、手段、里程または日程に関係する記載部分を列挙します。
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No. |
「邪馬台国」への旅程 |
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1 |
倭人が住む地は帯方郡の東南大海の中にある。帯方郡を出発して、海岸に沿いつつ水行し韓国を通過して、南行と東行を繰り返しながら水行7,000余里で倭の北岸にあたる狗邪韓国(釜山〜金海付近 )に着く。 |
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2 |
狗邪韓国から海を1,000余里渡り対馬国に着く。対馬の大きさは方400余里、人口は1,000余戸である。 |
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3 |
対馬国から南へ海を1,000余里渡り一大国(壱岐)に着く。一大(壱岐)の大きさは方300里、人口は約3,000戸である。 |
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4 |
一大国(壱岐)から海を1,000余里渡り末盧国( |
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5 |
末盧国から東南へ500里陸行して伊都国に到着する。帯方郡の使者が往来する時に常に駐まる所であり、人口は1,000余戸である。 |
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6 |
伊都国から東南へ100里で奴国に至る。人口は20,000余戸である。 |
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7 |
東行して100里で不弥国に至る。人口は1,000余戸である。 |
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8 |
南へ水行20日で投馬国に至る。人口は50,000余戸と推定される。 |
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9 |
南へ水行10日、陸行1月で、女王の都である邪馬台国に至る。人口は70,000余戸と推定される。女王国より以北の国々は戸数・道里を略載できるが、その他の諸国は遠絶で詳細は分からない。 |
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10 |
女王国より以北の国々については、斯馬国から奴国まで21ケ国(後述)の国名だけが記載されており、最後の「奴国」が女王の境界の尽きる所である。 |
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11 |
奴国の南に狗奴国が在り、男子を王としており女王に属していない。 |
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12 |
帯方郡より女王国までは12,000余里である。 |
さて、ここからが問題です。「魏志倭人伝」には、「末盧国から東南へ500里(50km)陸行して伊都国に‘到る’。」と記述され、それ以降は、「奴国に‘至る’」、「不弥国に‘至る’」、「・・・」と伊都国についてのみ意識的に区別されています。
これは、「郡使が常にとどまる所」である「伊都国」が、郡使級の人物の目的地・到達地であることを意図したものだと考えられます。その目的地「伊都国」以降の記述は、「伊都国」からの道案内、つまり、「伊都国」から放射状に読むべきとするのが妥当ではないでしょうか。
その仮定の上で、「魏志倭人伝」の記載に沿って、帯方郡から「倭国の邪馬台国」までの旅程を要約して、表1.に示します。
表1.邪馬台国までの経路の要約
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出発地 |
No. |
到着地 |
方角 |
手段 |
距離 |
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帯方郡 |
@ |
狗邪韓国 |
− |
水行 |
7,000余里(約700km) |
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狗邪韓国 |
A |
対馬国 |
− |
海を渡る |
1,000余里(約100km) |
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対馬国 |
B |
一大国 |
南へ |
海を渡る |
1,000余里(約100km) |
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一大国(壱岐) |
C |
末盧国 |
− |
海を渡る |
1,000余里(約100km) |
|
末盧国 |
D |
伊都国 |
東南へ |
陸行 |
500里(50km) |
|
伊都国 |
E |
奴国 |
東南へ |
− |
100里(10km) |
|
伊都国 |
F |
不弥国 |
東行し |
− |
100里(10km) |
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伊都国 |
G |
投馬国 |
南へ |
水行 |
20日 |
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伊都国 |
H |
邪馬台国 |
南へ 南へ |
水行 陸行 |
10日 1ヶ月 |
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No. 到着地 |
方角 |
手段 |
距離 |
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|
帯方郡 |
@ |
狗邪韓国 |
− |
水行 |
7,000余里(約700km) |
さらに、表1.にまとめた経路を流れ図にしたものを図1.に示します。
図1.「邪馬台国」への経路図
このホームページでは、次の前提条件下で、「邪馬台国」を比定することにします。
表2.位置比定の前提条件
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No. |
比 定 時 の 前 提 条 件 |
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1 |
「南水行20日、「投馬国」に至る」という記載は、陸行の後に、水行できる地点(伊都国)を水行の起点とし、「水行20日して至る」とする。 |
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2 |
「南水行10日、陸行1ヶ月で「邪馬台国」に至る」という記載は、伊都国から「水行10日して、さらに1ヶ月陸行する」と、直線的に解釈する。 |
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3 |
河川を舟で往来することも水行の行程として加える。 |
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4 |
進む方角については、中国と倭国の間は何回も往来しており、弥生時代の人々も四季の日の出の方角、月や星の動き、北斗七星の存在も知っていたはずですから東西南北は間違えなく識別できたとする。 |
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5 |
里程については、「帯方郡から狗邪韓国までが7,000余里」、「狗邪韓国、対馬国、壱岐国、末盧国の間は各々1,000余里」という地図で実測できる尺度が記載されていますので、実際の距離に合わせて1里は約100mとします。(つまり、1,000里は100kmに当たります。) |
表1.および図1.に示した「魏志倭人伝」に記された邪馬台国までの経路に忠実に沿って、表2.の「比定の前提条件」を基に、「邪馬台国」に至る経路を、現代の地図上に記載すると、図2.のように比定されます。
図2.邪馬台国に至る経路の比定結果
図2.の比定結果を表3.にまとめます。
表3.「魏志倭人伝」記載地の比定結果
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番号 |
魏志倭人伝の記載地 |
現代の比定地 |
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A |
対馬国 |
1,000余戸 |
対馬 |
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B |
一大国 |
3,000戸許 |
壱岐 |
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C |
末盧国 |
4,000余戸 |
松浦( |
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D |
伊都国 |
1,000余戸 |
吉野ヶ里遺跡の一帯 |
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E |
奴国 |
20,000余戸 |
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F |
不弥国 |
1,000余戸 |
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G |
投馬国 |
50,000余戸 |
薩摩 |
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H |
邪馬台国 |
70,000余戸 |
宮崎平野 |
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− |
狗奴国 |
(奴国の南) |
熊本平野 |
ここで、図2.および表3.に示した「邪馬台国」に至る経路いついて若干説明を加えて見たいと思います。
最初に、「末盧国から東南へ500里(50km)陸行して伊都国に到る。」という記述について、「伊都国」を「糸島(
「魏志倭人伝」の記述通りに、「末盧国」から東南へ50km陸行、つまり、「唐津」から東南に50km進むと、そこには「邪馬台国」を思わせる楼閣を有し、王墓の有る環濠集落「吉野ヶ里遺跡」が存在するではありませんか。それは最大級の遺跡であり「代々王有り」の記述にも合致します。
そこで、「伊都国」を佐賀平野内とした場合の地名の由来ですが、「吉野ヶ里遺跡」の東には‘井手口’という地名があり、すぐ西には‘井手’があります。
吉野ヶ里遺跡の5km西にある「東名(ヒガシミョウ)遺跡(BC5000年頃)」からは、日本で最大級の貝塚群、土器片、貝の腕輪、イノシシの牙の装飾品、木を石斧で薄くして編んだかごなどが発見されつつありますが、その近くの地名は‘赤井手’であります。
さらに、伊万里には、もう一度‘井手口’という地名が存在し、佐賀平野に「伊都国」があったことを思わせます。
次に、「魏志倭人伝」の記述に従って、「伊都国(吉野ヶ里遺跡一帯)」から東南へ10km進むと、「奴国」にふさわしい‘津’の地名が多く人口20,000戸を擁するに足る穀倉地帯の‘筑後川下流域’が存在し、遺跡の多い
起点である「伊都国(吉野ヶ里遺跡一帯)」から東へ10km進むと遺跡が多い「不弥国=
そして、「魏志倭人伝」」では、「奴国」「不弥国」までの陸行の次なる旅程は水行となっています。この筑後川下流域は、その記述通りに、南へ水行が可能な有明海に通じています。
従って、この「奴国(筑後川下流域)」若しくは「不弥国(
「伊都国(吉野ヶ里一帯)」から筑後川を舟で下り、さらに有明海を水行し、「狗奴国(熊本平野)」からできるだけ離れて南下し、「(水俣)」まで10日間で到達します。
「(水俣)」で舟を降り、その後、
なお、「投馬国」へは、同様に「伊都国(吉野ヶ里一帯)」から「(水俣)」近くまで10日間水行し、さらに南に舟で10日間水行し、合計水行20日間で「薩摩(現在の薩摩半島南部)」に到達します。
さて、「狗奴国」については、「魏志倭人伝」の「・・・・、次に烏奴国有り、次に奴国有り。此れ女王国の境界尽きる所。其の南に狗奴国有り、男子を王と為す。其の官に狗古智卑狗有り。女王に属さず。」とう記述から比定しました。
一般言的には、この「其の南に狗奴国有り」の記載を「邪馬台国(女王国)の南に狗奴国有り」としていますが、この記述通りに、「次に奴国が有り、ここは女王国の境界が尽きる所で、その奴国の南に狗奴国が有る」と解する方が自然であると思われます。
つまり、「奴国」の南に「狗奴国」があり、「狗奴国」の官名が「狗古智卑狗(クコチヒク)」であり「菊池彦」を思わせる名前です。女王国に対抗する強靭な広大な国として、ふさわしい
逆に言うと「狗奴国(熊本)」の北に「奴国」が有ったことになり、「熊本平野」と「筑後川流域」の位置関係が合致します。
以上、「邪馬台国」に至る旅程に忠実に従うと、「邪馬台国」は宮崎平野に比定されました。
さて、倭人伝には「邪馬台国」に至る旅程の国々の他にも、倭国を取り巻く国々の名前および道里に関して以下の記載があります。
表4.他の国名、道里に関しての記載
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No. |
他の国名、道里に関しての記載 |
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13 |
(倭国への)その道里を計るに、まさに会稽の東治の東に在る。 |
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14 |
女王国より以北は、特に一大率を置き諸国を検察させており、諸国はこれを畏れている。 一大率は常に伊都国で治めている。 女王国の東の海を1,000余里渡るとまた国がある、みな倭種である。 |
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15 |
またその南に侏儒国がある。女王国を去ること4,000余里にある。 |
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16 |
またその東南に裸国と黒歯国がある。船行1年で至ると推定される。 |
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17 |
倭国は海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋5,000余里と推定される。 |
「邪馬台国」を「宮崎平野」とすると、女王国の東の海を1,000余里(100km)渡ると倭種の国として、四国(高知県、愛媛県)がまさに存在します。
さらに、表4.に示した「魏志倭人伝」の記述には、「遠い南の国」として3つの国の記載があります。
その記載の1つ「またその南に侏儒国がある。女王国を去ること4,000余里(約400km)にある」の記述については、宮崎の南方約400kmの辺りは、平均身長が低い沖縄諸島があります。
南海地方(沖縄)と倭国との通航は、九州各地の弥生時代遺跡から南海地方(沖縄)で採れる貝(ゴホウラ)を輪切りにした腕輪が散見されることでも分かります。
そして、さらに遠方の国の記載として、「またその東南に裸国と黒歯国がある。1年で至ると推定される。」とあります。
沖縄からはるか東南方向へ辿って行くと、「裸国と黒歯国」に相応しい熱帯のニューギニアやインドネシアという船で倭国に到達しやすい東西に長い島国が、「魏志倭人伝」の記載通りに存在します。東南アジアからの南方系モンゴロイドの遺伝子が、現代の沖縄の人に認められることが、最近のミトコンドリアDNAの解析(宝来聡:アリゾナ大学)からも明らかにされて来ています。
余談ですが、沖縄で見られる眉がはっきりした目鼻立ちがよい美人は、東南アジアで見られる二重瞼で目鼻立ちがくっきりした美人に似ていました。
なお、倭国から「裸国、黒歯国」へ往復2年かけて船行したと考えるよりは、「裸国、黒歯国」から黒潮に乗って倭国に到達した人々から得た情報と考えた方が良いのかも知れません。
以上に述べたごとく「帯方郡」から「邪馬台国」へ至るまでの国々、および「遠い南の国」を比定すると、「魏志倭人伝」の記述に修正や独自の解釈を加えることなく多くの点で解決できます。
ここまでの「邪馬台国」の位置比定と「魏志倭人伝」などの史書の記述との一致点を以下に示します。
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No. |
史書「魏志倭人伝」などとの一致点 |
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@ |
「奴国(20,000戸)=筑後川下流」、「投馬国(50,000戸)=薩摩(鹿児島県)」、「邪馬台国(70,000戸)=宮崎平野」とすると、何れも稲作に適した河川を持ち、弥生時代の人口密度に合致する。 |
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A |
表3.に示した比定地には、弥生時代の多くの遺跡が見られる。 |
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B |
「伊都国(佐賀平野)」と「奴国( |
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C |
「奴国」を( |
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D |
「奴国( |
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E |
「帯方郡から邪馬台国まで12,000里」と言う総旅程が記述されている。この総旅程12,000里から帯方郡から不弥国までの旅程を合計した里数10,600里を引き算すると、残りの旅程、つまり、「伊都国」から「邪馬台国」までは1,300里(約140km)となる。 これは、「伊都国( |
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F |
「邪馬台国(宮崎平野)」からおおよそ東の方向に海を船で100km渡ると「倭種の国(四国)」がある。 |
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G |
「邪馬台国」と「女王国の北の国々」を含めた倭国(九州)は、その周旋が5,000里(外周約500km)となる。 |
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H |
「邪馬台国」(宮崎平野)を中心とする倭国(女王国連合)は、帯方郡のまさに東南の海中の方角に当たる。 |
ここまでの比定が妥当かどうか、異なるサイドから検証して見たいと思います。
「魏志倭人伝」に記載された情報で相対比較できるものに、戸数があります。
「魏志倭人伝」の記載で戸数(1戸=4〜6人?)が群を抜いている「奴国(20,000余戸)」、「投馬国(50,000余戸)」、「邪馬台国(70,000余戸)」、そして女王国に対抗している「狗奴国」に注目して、その戸数を擁する国々を考えて見たいと思います。
そこで、1000戸を1単位(1枡)として、「魏志倭人伝」に記載された戸数と旅程を重ね合わせて図示して見ます。
倭種の国 渡海100km
この図をじっくりと眺めた場合、これらの戸数を有する国々の方角、距離、面積、弥生時代の人口密度、そして位置関係などを、九州地図に当てはめた場合、「筑後川下流(奴国)」、「熊本平野(狗奴国)」、「宮崎平野(邪馬台国)」、「鹿児島県薩摩半島(投馬国)」という配置が、最も適しているのではないでしょうか?
一方、戸数が1000戸と極端に少ない「伊都国」、「不弥国」についても、各々「吉野ヶ里近辺」、「
これに、「奴国は倭国の極南端」、「女王国の東、渡海千余里、復国有り。皆、倭種なり。」の記述を加味すると、上記の比定が最適のように思えます。
次のページでは、「女王国の北の国々」の全ての位置を定め、列挙の最後に再度登場する「奴国」が、「邪馬台国」へ至る経路で出てきた「奴国」と同じかどうか検討します。
作成04.01.03.
改定09.03.20.
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