大牟田市 (福岡県)(2017年 4月))




大牟田市 (福岡県)(2017年 4月)

大牟田市は福岡県の最南端に在り東と南は熊本県、西は有明海に面している人口11万人余りの地方都市で、かつては三井三池炭鉱を始め三井グループの企業が各種工場を有する一大産業都市、三井グループの企業城下町でした。かつて私の父は三井に勤務し、この地に転勤となり、私は小学4年生から中学2年生(10歳〜14歳)という成長期の4年間をこの地で過ごしました。なお、訪問したのは2017年4月中旬の日曜日、午前10時に駅に到着し、昼ラーメンを食べて電車に乗るまで、4,5時間の滞在です。気候も良く穏やかな一日でしたが人も自動車も非常に少ないのには驚きました。活気の無さは想像以上でした。

当時の思い出は下記のページに記しています。

思い出:簡単な自分史-01 (小学校卒業まで)
思い出:簡単な自分史-02 (中学入学から学生生活終了まで)



概論(2017年 4月)
大牟田市は現在人口が11万人余り、全国では250番目程度の地方都市で、特に目立つ存在では無くなっています。ただ、かつては人口が20万人を超え、全国で30位くらいの中核都市として三井三池炭鉱を中心とする産業都市として栄えて、輝く存在であった時代もありました。現在30位くらいの都市の人口は50万人程度ですので都市として相対的な地位は高かったでしょう。

1960年に石炭産業の斜陽化により、大量解雇の方針が出され、激しい労働争議、三池争議が起き、この頃から次第に斜陽になって行きます。当時は「総資本」VS「総労働」と言われ対立し全国的にも大いに注目されました。合理化の元、安全対策が後回しになり、1963年11月9日 三川鉱炭じん爆発事故が起き、458人死亡が一酸化炭素中毒患者839人という大惨事が発生しました。この影響もあって1997年には閉山、その後産業都市としての衰退は顕著で5年ごとの人口推移をみますと90年以降は五千人ずつ人口が減り続けています。

九州内でこの程度の規模の都市の中でも最も人口が減っており、この傾向は続くと思われます。九州新幹線の駅は町外れに在り、九州縦貫道は大牟田を通らず隣接する熊本県南関町を通過、中核都市として発展している福岡市、熊本市からは遠く通勤圏とはなりえず、石炭産業に代る産業も育たない中では仕方が無いのかも知れません。観光という点では隣接する荒尾市にグリーンランドという大規模な遊園地があること、また皮肉な気もしますが炭坑跡が世界遺産に指定され、そこそこは観光客が来てはいますが、大きな規模になる事はないでしょう。
 


大牟田市・人口5年ごとの推移


人口 全国順位 増減
2015年 117,360 223位 -6,278
2010年 123,638 213位 -7,452
2005年 131,090 179位 -7,539
2000年 138,629 155位 -6,456
1995年 145,085 146位 -5,368
1990年 150,453 134位 -8,971
1985年 159,424 124位 -3,576
1980年 163,000 120位 -2,969
1975年 165,969 110位 -9,174
1970年 175,143 90位 -18,732
1965年 193,875 60位 -11,891
1960年 205,766 41位 4,029
1955年 201,737 35位 9,759
1950年 191,978 28位 64,301
1945年 127,677 29位 3,411
1940年 124,266 36位 19,274
1935年 104,992 33位 7,694
1930年 97,298 35位 29,042
1925年 68,256 42位 3,939
1920年 64,317 32位


元々は筑後の国の一部で福岡県になっていますが、県庁所在地で一番近いのは佐賀市で33キロ、熊本市が49キロ、福岡市は72キロとなっています。その丁度真ん中に久留米市があります。





大牟田駅 (2017年 4月)
小学生の時に父親の転勤でこの大牟田駅に着いたのですが、その時の事を思い出しました。何十年も経過していますが、駅舎は変わっていないように見えます。更に駅前に降りても当時と余り変化が無いのには少々驚きました。





(写真:JR車内・久留米から大牟田へ)



(写真:JR久留米から大牟田へ・車窓)



(写真:大牟田駅構内-01)



(写真:大牟田駅構内-02)

この景色などもそのままという感じです。



(写真:大牟田駅構内-03)



(写真:大牟田駅構内-04)



(写真:大牟田駅構内-05)



(写真:大牟田駅構内-06)

向こうには西鉄が見えます。大牟田駅が終点で福岡市天神に在る福岡駅まで行きます。



(写真:大牟田駅・西鉄)

大牟田駅は多少化粧直しが為されているようですが数十年前と大きな変化は無いように見えます。駅の上には将来の駅ビルの完成予想図が掲げられています、素敵な駅舎に生まれ代ると良いですね。



(写真:大牟田駅正面-01)



(写真:大牟田駅正面-02)



(写真:大牟田駅モニュメント)



大牟田駅前・国道208号線 (2017年 4月)
大牟田駅の前にはこの街のメインストリートとも言える国道208号線が走っています。駅前には市役所など市の主な役所が集まっています。同じくらいの規模の都市ですと立派な市役所が建っているケースが多いのですがここ大牟田は駅前に昔ながらの市役所が建っています。1936年の竣工と言いますから戦前の建物ですね。今となってはこのレトロな雰囲気が良いですね。この建物を見ると「大牟田に来た」と実感出来ます。



(写真:大牟田市役所-01)



(写真:大牟田市役所-02)



(写真:駅前付近)



(写真:不知火町付近)



(写真:築町付近)

「だいふく」は当時市内でほとんど唯一のパン屋でした。給食のパンもここの製品でした。当時は一斤という単位で売っていましたが赤と黄色と青の三種類があり、同じ量で30円、40円、50円でした。4年間ここのパンを食べました。



(写真:だいふく)

大牟田名産の四山漬、貝柱の粕漬けが有名で非常に美味しかった記憶があります。



(写真:四山漬)



築町・銀座通り(2017年 4月)

当時この築町・銀座通りは多くの人で賑わっていたように記憶しています。今はとても静かです。



(写真:築町)

西鉄電車が通ります。大牟田から福岡天神まで約1時間で行く事が出来ます。 元は大牟田線と言っていましたが現在は天神大牟田線と(西鉄福岡(天神) - 大牟田間:74.8km)、路線は全て福岡県内です。首都圏で比較しますと小田急線(新宿-小田原:82.5km)より少し短い程度です。



(写真:西鉄電車)



(写真:踏切-01)

西鉄の路線幅は国際標準軌:1435mmで並走するJRと比較すると格段に広いです。福岡方面を見ますと新栄町駅が見えます。大牟田駅に乗り入れる前に一時栄町までの時代があり、その名残で栄町にも特急が停車し、その後駅が200メートル程北側に移動して現在は新栄町駅となっています。



(写真:踏切-02)

昔は一番の繁華街で何時も多くの人で賑わっていましたが、現在は非常に静かです。



(写真:銀座通り-01)

しばらく歩くと空地がありました、これは松屋デパートの跡地ですね、解体された後は空地になっています。



(写真:銀座通り-02)



(写真:新銀座-01)



(写真:新銀座-02)



(写真:本町付近-01)



(写真:本町付近-02)



(写真:みずき通り)



(写真:大牟田神社)

環境に関して余り問題にしなかった時代、工場排水で汚染され「七色川」と呼ばれていた大牟田川、青や黒、黄色や銀色、時にはピンクなどの色が付いた工場からの廃液が、川の水の色を変化させていました、



(写真:大牟田川-01)



(写真:大牟田川-02)



宅峰中学校付近(2017年 4月)

大牟田駅前の国道208号線を真っ直ぐ南に行きますと中学二年まで勉強した学校に着きます。行って驚いたのは校名、変更されていました。当時は右京中学という名称でしたが宅峰中学という名前になっていたのです。後で調べると近隣の3中学を再編して一つにしたそうで、場所は元の右京中の場所になったようです。ただ3つ合同しても当時の一校分よりも少ないようです。人口が減少している上に少子高齢化で子供の数が激減しているのは間違いないようです。




(写真:国道208号線・右京町付近-01)



(写真:国道208号線・右京町付近-02)



(写真:宅峰中学-01)



(写真:宅峰中学-02)

そして私が卒業した小学校にも行ってみました、何と給食配送センターになっていました。こちらも近くの小学校3校が一緒になり別の場所に移転したようです。この小学校は石炭生産の最盛期には1500人近くの児童が居たそうですが10年前のデータでは27人となっていました。閉山に伴いこの地域での子供の減少がどのくらいすさまじいものなのか驚くばかりの数字です。私が在学していた時に既に学童の減少が顕在化していてクラス数が次第に減少していました。ここに校歌を記しますが大牟田の街がまだ元気であった当時の歌です。

(諏訪小学校校歌)

1・諏訪のかわなみ有明の 海に落ち合う 四山の 炭の都のこの町に 我等一千 日日集う
2・海底深くダイヤほる 永遠にたえない工場の うなりはたかくこだまする 明るい町よ伸びる町
3・南に雲仙 西に多良 有明の波 ゆたゆたと その名も高い 三池港 クレンの音ぞたえまなし




(写真:小学校は給食配送センターに)

小学校の近くには立派な神社があります。



(写真:諏訪神社)

通学路の景色ですがこの右側の建物は私が小学生の時代と変わりません。



(写真:通学路の風景-01)

地場のマルナガ醤油ですね、ここのオーナー一族の息子さんが中学二年の同級生でしたが、学校で一緒にサッカーをやっていて用事があるとの事で先に下校し、学校の前でトラックにはねられて亡くなりました。(今でも残念で悔しい思いがあります)



(写真:通学路の風景-02)

中学校へは毎日鹿児島本線の踏切を横断して通っていました。この光景は記憶通りです。



(写真:通学路の風景-03)

延命公園、観覧車が見えます。



(写真:通学路の風景-04)



三井グループ社宅の跡地(2017年 4月)
大牟田での4年間、住まいは三井グループの社宅で、この地区には主に管理職、技師などが住んでいました。場所は小川町、小川開とも称された場所で、幕末の際に小川という人が最初に開拓した事から名付けられたようです。す。現在の状況を見ますと売却されて改めて宅地として開発されたようで綺麗な新築の住宅が建ち並びまるで首都圏の新興住宅地のようでした。地図をみますとこの先に公園、そしてイオン・モールがあるようで環境も良く買物にも便利で人気があるのでしょう。



当時はこの交差点、ロータリーになっていてこの写真の正面辺りの角地には「購買所」と呼ばれるお店がありました。



(写真:小川町-01)



(写真:小川町-02)



(写真:小川町-03)



(写真:暮らしていた家の前-01)

小さな橋を渡り左側に家があり、ここで4年間暮らしました。



(写真:暮らしていた家の前-02)

南側は余り整備されていませんでした。



(写真:暮らしていた家の前-03)

先の方に行きますとまだまだこれからという感じです。



(写真:小川町-04)



旧三井港倶楽部付近(2017年 4月)

三井港倶楽部は三井財閥の迎賓館としての役割を担っていました、また三井の幹部の中には社用と称して、ここで飲み食いをされていた方も多かった事でしょう。現在も当時と変わらず宴会場として営業しているそうです。


少し手前には三井三池製作所の看板があります。元々、大牟田は三井の企業城下町です。



(写真:三井三池製作所の看板)



(写真:旧三井港倶楽部入口)



(写真:旧三井港倶楽部)

ここに團琢磨の像があります、新大牟田駅にも像があるそうです、三井三池炭鉱、三井鉱山を三井のドル箱にした立役者です。採炭技術の習得のために渡欧し、1888年(明治21年)に三池鉱山が政府から三井に売却された後はそのまま三井に移り、三井三池炭鉱社事務長に就任、三大工事といわれる三池港の築港、三池鉄道の敷設、大牟田川の浚渫を実行し、また渡欧時に大型ポンプ技術を習得しており、英国のデーヴィポンプを周囲の反対を押し切る形で採用し、水没した勝立坑の排水問題を解決しました。1893年(明治26年)、三井鉱山合資会社専務理事となり、1899年(明治32年)いは工学博士号を受けています。1909年(明治42年)、三井鉱山会長となる。この頃、團の手腕により三井鉱山の利益は三井銀行を追い抜いて三井物産と肩を並べるようになり、「三井のドル箱」と言われた三池が三井財閥形成の原動力となっていました。こうして團は三池を背景に三井の中で発言力を強め、1914年(大正3年)には益田孝の後任として三井合名会社理事長に就任し、三井財閥の総帥となったのです。昭和7年に起きた血盟団事件というテロ事件で凶弾に倒れました。三池炭坑の黄金時代を作り上げたのですね。



(写真:團琢磨の像)

三井港倶楽部の敷地内に建てられている大浦坑の顕彰碑です。



(写真:大浦坑の顕彰碑)



三川坑跡(2017年 4月)




1940年に開坑し、三池炭鉱の最主力坑として活躍した三川坑、戦中・戦後のエネルギー拠点としての役割を担い、戦後復興の原動力となり昭和天皇のご入坑もありました。その後労働争議、三川坑炭じん爆発事故(1963年11月)などの時代を経て、今は廃坑となり静寂の中にあります。ただ世界遺産の中には含まれていないそうでメンテナンスがしっかりと行われていない様子でした。

当時、近くには炭坑で働く人達の社宅が多く在り、3交代で働いていました。それぞれ一番方、二番方、三番方と呼ばれていました。なお、1963年(昭和38年)11月9日にここで炭塵爆発が起きた際には近所の家の窓ガラスが割れるほどの大きな爆音が鳴り響き、大きなきのこ雲が上がりました。



(写真:三川坑入口-01)



(写真:三川坑入口-02)

こちらは通用門です。1963年(昭和38年)11月9日に起きた炭塵爆発事故で死者458名、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839名を出しました。事故直後にこの通用門前に死亡者と負傷者の名前が赤が死亡、黒が怪我という色分けをして貼り出されました。名前の数は最初はそれほど多くは無かったのですが次第に増えて行きこの門の前は多くの家族でごった返し夫や兄弟等の親族の訃報を知り泣き崩れる方が多く居ました。



(写真:三川坑通用門)



(写真:坑口-01)



(写真:坑口-02)



(写真:施設-01)



(写真:施設-02)



(写真:施設-03)



(写真:施設-04)



(写真:施設-05)



(写真:施設-06)



(写真:施設-07)



(写真:施設-08)

三川坑跡第2斜坑



(写真:施設-09)



(写真:施設-10)



(写真:施設-11)

掲示板の一部が当時のまま残されています。



(写真:掲示板)



(写真:機関車)

現在この三川坑跡はボランティアの方達の協力もあり見学する事が出来ます。



(写真:ボランティアの方達)

ここでお茶をいただきながら写真、記録映画を見る事が出来ます。ボランティアの方はここで実際に勤務されていた方も居て当時の話を伺う事も出来ました。



(写真:案内所)



三川町・四山・県境(2017年 4月)

三川坑から南に荒尾方向に行ってみました。この道はバス通りで人の往来も多く賑わっていたという記憶があります。昼の時間帯なのですが、現在はほとんどすれ違う人はおらず、自動車も少なく閑散としています。建物は昭和風ですね、懐かしい街並みです。



(写真:三川町-01)



(写真:三川町-02)

停留所がポツンとありました、バスは走っていないようです。



(写真:三川町-03)

向こうの方に煙突が見え、大牟田らしさを感じます。



(写真:三川町-04)

この小高い山が見えると県境です、当時はこの辺りは多くの人で賑わい繁華街になっていましたが、その面影はありません。



(写真:県境・四山-01)



(写真:県境・四山-02)

県境を越えて荒尾市に入りようやくバス停を見つけまました。本数は非常に少なくかなり待ちました。お昼時ですが誰も居ませんし、自動車もまばらです。この辺りも昔は活気があったのでしょう。





(写真:県境・荒尾市・四山停留所)



大牟田ラーメン(2017年 4月)
豚骨ラーメンは久留米市が発祥と言われています。大牟田のラーメンはかなり似ていますが味が少々濃いようにも思います。街の人に「現在どこがお勧めですか?」と尋ねますと駅の近くの福龍軒を勧められました。目立つ建物のこのお店、中に入りますと一杯でした。店の人に尋ねますと用意した分が売り切れると店を占めるのだそうです。個人的にはこの大牟田のラーメンが豚骨ラーメンの中で一番好きですね。





(写真;福龍軒外観)



(写真;福龍軒店内-01)



(写真;福龍軒店内-02)



(写真;福龍軒店内-03)



(写真;福龍軒のラーメン)



感想(2017年 4月)
数十年前に住んでいた時には炭坑や港湾で仕事をする人が多く居て貧乏でしたが子供が多く活気がある街でした。当時と比べますと新しい道路が出来、マンション等もありますが風景は基本的には当時と余り変わっていないように見えます。1960年をピークに人口が減り続けているという事は高度成長期やバブルの恩恵を最も受けなかった都市の一つなのでしょう。世間は好景気で湧いていた時代、私が暮らしていた時にはもう既に人口減少が始まっていました。炭坑を辞めて名古屋付近の自動車関連工場に引っ越す人が多かったように記憶しています。当時は急行「阿蘇」という列車が熊本と名古屋を結んでおり、同級生たちが家族で次々とその列車に乗り込んで去って行ったという記憶があります。そして中学二年の時に父の転勤が決まり東京に戻る事になり4年間の大牟田生活は終わりました、東京に戻った時にはたった4年ですが新宿などの雰囲気も大きく変わっていて逆カルチャーショックを味わいました。日本全国が好景気で発展する中で大牟田だけは取り残され、既に後ろ向きに歩き始めていました。

現在はかつての活気溢れる産業都市の面影はありません、静かで綺麗な印象です。日本の地方が人口減少と高齢化の問題に悩み始めているようですがその先駆けとなった街と言えます。駅近くの衰退は自動車で大型店に行くというライフスタイルが主流となり現在では日本全国で見られる現実ですが、大牟田の場合にはJR鹿児島線がローカル線化し、新幹線は町外れを通るようになった事も要因なのかも知れません。それでも西鉄天神大牟田線の始発駅で電車で簡単に久留米、福岡に行けるので何とか街らしさを保っているのでしょう。

この状況を逆手に取って何か新しい仕掛けて欲しいものですね、街全体に混雑した感じが無く、急激に人口が減少しているので多分土地家屋の価格、家賃も抑えられるのではないかと思います、駅近くでも活用出来る場所は多いと思います。何か新しい発想で人を呼び込む工夫をして欲しいものです。今後大牟田市の皆さんがどのようなビジョンを描いて進んで行くのか注目したいと思います。



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